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2016
03.13

春の記憶

Category: 春の記憶
春の夜は暖かい夜もある。
そんなときは朝まで気温が下がらない。
冬の終を告げるこの季節は陽の光も幾分柔らかく感じられるようになってきた。

時刻は朝の6時。
日の出の時間を少しだけ回っていた。
彼はテラスに出ると朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
他の土地より少しだけ春の訪れが早い房総半島南部。
時折、海から吹く風が心地よく感じられ、両手を手すりに置くと遠くに見える海原を見つめていた。
風は決して髪の毛が乱れるほどではなかった。
まだ春の生暖かい風とはいえないが、心浮かれる自分の気持ちを優しく撫でてくれるようだった。耳に届く音は何もなくただ静けさに聞き入った。
彼は手にした煙草に火をつけようとしたが止めた。
彼女は煙草の匂いが嫌いだった。


昨日は最高だった。



過去を水に流し、捨てられるものは全て捨ててここに来た。
彼の本当に欲しいものは今、背後で穏やかな眠りについていた。

彼はようやく彼女を見つけた。
彼女が見つかった今こそ、その手を離すまいと決めていた。
彼女とは手を握りあっているだけでもよかった。
そうだ。手を取り合い一緒にいるだけでよかった。
馬鹿みたいだと思うかもしれないが、指先が触れ合えるだけでもよかった。

過去にどんなことがあろうと今があればそれでよかった。


室内に戻り服を着たところで、過去が甦った。

宿命の女か、運命の女か。
どちらにしても彼女は自分だけの女だった。

あの当時は二人が若い故に許されなかったことも今なら許されるはずだ。




彼は生まれ堕ちた瞬間から望まなくても陽が当たっていた。
自分の人生の大半が陽の当たり過ぎる人生だった。
そしてそこには身を隠す場所などなかった。
陰が欲しいと思った。身を隠す為の陰が。
暗闇が欲しいと思った。自分の全てを覆い隠す暗闇が。
そんな暗闇の中で出会ったのが彼女だった。


当時望んだのは彼女との逢瀬ではなく結婚だった。
だがその望みは叶うことがなく二人の恋は終わった。
決して自由を奪われてそうなったわけではなかった。
だが、陽の当たる人生、陽が当たり過ぎる人生は辛い。
彼の名前は望まなくても陽が当たる。
その陽は当然のように彼女にも当てられた。
彼女は決して高望みをする女ではなかった。
だから彼は彼女がその陽の当たる場所から去ることを許した。


幸せなときは幸せの有難みがわからないが、手放してからわかることの方が多い。
いくら飲もうと、いくら金を使おうと、彼女を忘れようとしても忘れられなかった。
自分の淋しさを紛らわすために他の女性と付き合ってもいつも退屈だった。
どこへ行っても彼女の面影ばかりがついてまわり、つきまとった。
たったひとりの女に恋い焦がれて過ごした歳月。
あのとき彼女の手を取って逃げればよかった。
だが自分の人生は逃げ出すことが許されなかった。


そんな昔の恋。


マンハッタンの街角で偶然出会った友人が声を掛けて来たことがあった。
「司、紹介したい女性がいるんだが会ってみないか?」
「いや。楽しくやってるから必要ない」
決まっていつもそう答えていた。

昔のことを思い出せばきりがなかったが、それでも思い出さずにはいられなかった。
酔っては友人たちに打ち明けた。

17の時からの想いを。
夢を見るのに年は関係ないだろう?
そんな思いで打ち明けていた。
自分の望むこと、その願望を。

「もういいじゃないか。そんな昔話なんて」
「もういいじゃないか。そんな望みなんて」
人生の大半が過ぎ、そんな過去の出来事は葬り去れと言われているようで、嫌だった。



そんなとき、司はパーティーでひとりの女性を見つけた。
退屈で面白味もなにもないパーティーで、大勢の人間を間に挟んで会場の端と端とで視線を合わせた。
手にしていた飲み物はお仕着せの黒い上着の男に押し付けた。


司はゆっくりとした足取りで彼女の元へと歩みを進めていた。
一歩ずつゆっくりとした足取りで彼女の元へと近づいていた。
本当は走り出したい想いだった。
走って行って抱きしめたい想いだった。
人生の殆どを陽の光の下で生きてきた男の表情は、はじめてその光の下で本当に輝いて見えたような気がした。

そんな彼の前にはおのずと道が開かれた。
まるで旧約聖書の中でモーゼが彷徨える民の為、手をかざして荒れ狂う海に道を切り開いたように。
実際彼が手を伸ばせば、手を触れれば全ての願いは叶えられてきた。
だが、ひとつだけ叶わなかったことがあった。
心の底から欲しかった女性。
その女性のことだけはどんなに自分に力があろうと彼の意志だけでどうにか出来るものではなかった。無理強いなど出来るはずがない。
彼女の幸せのためだと思って別れを許した過去があったから。


だが、今目の前にいるのは自分が心の底から欲しかった女性だった。
手を伸ばした先に求めていた女性が、いた。
年甲斐もなく彼女を見てかわいいと思った。信じられない、昔と変わっていない。
そんな思いで見つめていた。

疲れ果てていた彼の人生を見かねた友人が彼女に伝えてくれたのかもしれない。
もし今でも彼のことが好きなら一度会ってやってはくれないだろうか、と。



「ダンスをしよう。
あの日、出来なかったダンスを」と男は言った。

「いいわよ」
その女性は答え、彼は彼女の手を取った。

目を閉じれば、あの頃が甦った。

涙を流すことなく別れたときのことを。



その場にいた誰もが思った。
彼にもこんな表情が出来るものなんだと。
恍惚とした表情を浮かべてダンスをする彼を見るのは初めてだ。
二人は目を合わせ、世界の中心に二人だけという表情で踊っていた。
言葉を交わさなくても、互いの想いは伝えることが出来た。


ダンスが終わればどちらからともなく身振りで示し、会場に背を向けどこかへと消えていくふたり。
どこへ行こうが、他人が何を言おうが、自分達のことをどう思っているか、そんなことは関係がなかった。
うしろを振り返って他人の顔を確認する必要はなかった。
そんなことをして他人を気にしていると言うことを認める必要はなかった。
今までは行きたくもない場所へ行かねばならなかった。
だがこれから先は自分達二人が行きたいと思う場所へ行く。


歳月は二人の想いを風化させてはいなかった。


その日の午後、彼は彼女に聞いた。

「どこに行きたい?」

「どこでもいい」




澄み切った空の下、二人で菜の花が咲き乱れる丘の斜面に座り込んで海を眺めていた。
互いの顔は見ず、何かを語るということもせずただ前を、前だけを見つめていた。
そのとき二人の手は互いを求め、ふれあいを求めるようにそっと繋ぎ合わされた。
二人で何をしているのかと不思議に思うかもしれない。
何も言わずただ手だけを握り合っていた。
そうしなければ彼は彼女が逃げてしまうとでも思っているかのようだった。
やがて陽が傾いてくると空気はひんやりとしたものに変わってきた。
二人は静かに立ち上がると来た道を戻り始めた。
そこはもうすぐ春の宵闇に包まれようとしていた。



彼は彼女のことを思い、彼女は彼のことを思った。
二人は首をめぐらし、互いに見つめ合った。

「一緒にこないか?」

「どこへ?」

彼は間をおくと、言った。
「ニューヨークへ」

彼はそう言ったがニューヨークでも東京でもそんなことは関係がなかった。
彼女が自分と一緒にいてくれることが重要だった。
こうしてふれ合えるならどこでもよかった。


かつて退屈だった人生に本物の人生を与えてくれた彼女と、これから何年も続く夜を過ごしたい。
夢を見るには年を取り過ぎたと言われるかもしれないが人生はまだ長い。
それはゆっくりでもなく、足早でもなく過ぎて行くだろう。


春は別れと出会いの季節。


春に別れた二人は春が来て再び出会った。








生涯でたった一度の恋は、また再び始まっていた。






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