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2022
09.26

幸せのレシピ

Category: 幸せのレシピ
「遅くなってごめん!」

玄関の扉を開けた恋人は部屋の中に駆け込んでくると鞄の中からエプロンを取り出した。
そして、「それにしても鬼のかく乱ってこういう事を言うのかもね?」と言って笑った。

司は恋人の言葉に反論を返すことなく唸った。
海外出張から戻った司は風邪をひいた。
高熱というほどではないにしても熱がある。
そして声が出ない。
だから言葉で意思を示すことができず唸ったのだ。

この状況を鬼のかく乱と言うのならそうかもしれない。
何しろこれまで生きてきた中で風をひいて寝込んだのは子供の頃一度だけ。
そして声が出なくなるという状況は初めてだ。
いや。厳密に言うとかすれ声ならなんとか出る。それはささやくような声であり、口元に耳を近づけなければ聞こえなかった。

そして医者は「無理に声を出すことは喉を傷めることになります。それは褒められたことではありません」と言った。そして秘書の西田も、「副社長。熱もあることですし無理をせずお休み下さい。それに長らく休みらしい休みを取っていません。この際ですからゆっくりお身体をお休めになって下さい」と言った。

その言葉に甘えるではないが司は仕事を休んだ。
それは本当に身体が辛かったから。
そんな司を心配して恋人は仕事が終わると駆け付けてきた。
そして恋人は司のために料理を作ると言った。

「世間では風邪をひいて寝込んだらこれを食べるって決まってるの」

それは消化がよく胃に優しいらしい。
だが料理をしているような匂いは感じられなかった。
しかしそれは司が風邪をひいているせいかもしれない。

「おまたせ。出来たわよ!」

ベッドの上で身体を起こした司は、サイドテーブルに運ばれてきた一見リゾットのような食べ物に怪訝な顔をした。
一体これは何なのか。
すると恋人は言った。

「これはお粥よ。食べたことない?」

今の司が出来る意思表示は唸ることだが、首をふることも出来る。
だから無いと首を縦にふった。

「おかしいわね。刺されて入院してたとき出たはずなんだけど。
あ、でもアンタのことだから、こんなもの食えるかって言って食べなかったのかもね」

刺されて入院していたのは高校生の頃。
不覚にもそのとき恋人のことを忘れ、彼女が作ってくれた弁当を他の女が作ったものだと勘違いした。そして恋人の言うとおり、病院食など不味くて食えるかと言って食べることなく屋敷から料理を運ばせていた。

「お粥って言うのはね、水分を多めに入れて炊いたごはん。和風のリゾットだと思っていいわよ。でもリゾットみたいにお米は堅くないわ。何しろ病人が食べるものだから消化しやすいように柔らかく炊いてあるの。そこに卵とカニカマを入れたの。それから、あたしはお粥って言ってるけど粥で通じるからね?」

粥については分かった。
それに黄色いモノが卵であることも分かった。
だがカニカマが何であるか分からなかったが、どうやら米の間に垣間見える赤い物体がソレのようだ。だがソレの正体は何なのか?
そんな司の思いは恋人に伝わったようだ。

「もしかしてカニカマ知らないの?」

司は再び頷いた。

「カニカマはカニの身に似せて作ったカニ風味の蒲鉾の略なの。それからここが重要なんだけど、カニカマは悪までもカニ風味であって本当のカニは使われてないの。じゃあ何が使われているかと言うとスケトウダラの身が使われてるの。それからカニカマってね。海外じゃスリミって呼ばれていてフランスじゃあ国民食なのよ?」

と恋人は言ったが司は庶民の食べ物には疎い。
だから当然だがフランスの庶民の食べ物にも疎い。
そしてスケトウダラが何か分からなかったが、カニの代わりに使われているのなら魚ではないかと推測した。
それにしても、カニが食べたいのなら無理矢理カニに見立てた物を食べるのではなく、本物のカニを食べた方がよほど美味いはずだ。

「あ。アンタ今こう思ったでしょ?偽物のカニを食べるより本物を食えって。あのねえ。庶民は簡単にはカニに手が出せないの。カニは高価な食べ物で庶民は年に一度食べることができれば御の字。それほど庶民にとってカニは贅沢な食べ物なの。だから、そんなあたしたちのために開発されたのがカニカマ。だけど最近のカニカマには本物のカニに限りなく近いものもあるの。あたし、それを食べたとき、この値段でカニが味わえることに感動したわ!だって本当にほぼカニなのよ?」

と恋人はカニカマについて一通り話すと「ほら。食べて」と言って司を見つめた。

司が恋人に出逢うまで夕食と言えばキャンドルを灯したもの。
テーブルに並ぶのは専属のシェフが腕によりをかけて作った贅沢で豪華な料理。
そんな司が初めて食べた恋人の手料理は弁当。小さな箱の中に入っていた弁当の定番と言われる卵焼きは、これまで味わったことがない柔らかな甘さが感じられた。
そして次に食べたのは鍋。スーパーに足を踏み入れたことが無かった男の長ネギが突き出た籠を手にした姿を見た者はいなかったが、見られても構わなかった。
そして心がこぼれ出ることがなかった男の口から溢れ出た思いは愛。
司はまさか自分が愛という言葉を口にするとは思いもしなかった。
だが恋人と出会って、それまでの人生で見てきた全てのものが塗り替わった。
生きることが違って見えた。
豪華な食事も贅沢も相手がいなければつまらないことを知った。
そして好きな人が一緒にいることが、自分の全てを満たすことを知った。

司はスプーンを手に取った。
恋人同士になったふたりの間にキャンドルは必要ない。
だが司は一旦手にしたスプーンを元の位置に戻した。

「どうしたの?食欲がなくても少しでもいいから口に入れた方がいいわよ?それとも熱が上がった?」

恋人は心配そうに言った。
声が出ない司は首を横にふって頬をふくらませた。
それは司の意思表示。

司は己の口を指さした。

「もしかして食べさせてくれってこと?」

司はこれまで恋人に食べさせてもらったことがない。
だからこのチャンス___熱があり声が出ない。病気であるという特権を生かすことにしたのだが、それはこれまでにない贅沢。
すると恋人は笑って、「仕方ないわね」とスプーンを手に取った。
そして粥が入った器を手に持つと、ひとさじ掬った。

「ほら、あ~んして」

と、言って司の口元に差し出されたスプーン。
口を開けると冷たい金属が唇に触れた。
そして暖かくトロリとした食感が口の中に滑り込んだ。

「どう?初めてのお粥は?」

初めて食べた粥。
最初は微妙な味だと思ったがすぐに慣れた。
そして不思議なことだが旨味が感じられ嚥下するたび次が欲しくなった。
米ひと粒ずつを時間をかけて味わいたいと思った。
それに腹の中に溜まるそれは暖かく、感じられるのは幸せだ。

司は粥を味わいながら、風邪が治ったら思う存分恋人を味わいたいと思った。
恋人の胸に顔を埋め、いくつもの幸せを味わいたい。愛を味わいたいと思った。
だが全てを分かち合おうと誓ったふたりがここに来るまでには心が傷むことがあった。哀しみがあった。寂しさがあった。
だが恋人の瞳はいつも司を見てくれた。
その腕はいつも優しく司を抱きしめてくれた。

「____。____」

「え?なに?」

司はようやく声を出した。だが恋人には聞こえなかったようだ。
だから恋人は司の言葉を訊きとろうと司の唇に耳を寄せた。

司はもう一度言った。

「ありがとな。つくし」

その言葉に恋人は、うん。とだけ言った。
だから司も頷いた。
今のふたりには、それだけで通じるものがあった。
だから司と恋人は見つめ合うと笑った。




< 完 > *幸せのレシピ*
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