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2022
09.16

分水嶺

Category: 分水嶺
<分水嶺 (ぶんすいれい)>



最果ての場所はどこですか。
私たちはそこに行きたいんです。
もしあなたが一組の男女にそう言われたらどう答えますか?
私はその時こう思った。
このふたりは禁断の恋をしている。
刹那の恋をしていて、何かを捨ててきた。
そして終らぬ恋を終えようとしている。
永遠に隣り合って眠るための場所を探しに、この島を訪れたのだと。

ここは日帰りするには勿体ないと言われる景色を持つ南の島。
だから、この島を訪れる人間は、大なり小なり宿泊のための荷物を入れた鞄を持っている。
だが、三十代半ばと思われるふたりの手元に、それらしき荷物は見当たらず、女性の手に小さなバッグがひとつ握られているだけ。そんなふたりが最果ての場所を探していると言った。
だから私は、ふたりが死に場所を求めてこの島を訪れたのではないかと思った。

私の職業はタクシードライバー。
この仕事に就いて20年になる。
これまでこの島を訪れた大勢の人を乗せてきた。
そんな私は、ふたりにこれまでこの島を訪れた人々とは違う何かを感じた。
そして私がふたりに出会ったのは、島を訪れた最後のフェリーが海の彼方に姿を消した時間。一直線に走っている水平線には何も見あたらなかった。

何故最後のフェリーなのか。
それはこの島に近づいてくる台風のせいだ。
だからこの島に来る船は、あのフェリーを最後に暫く運休が決まっていた。

私は彼らの問いにこう答えた。
ここに最果ての場所はありません。
何故なら目の前に広がるのは広く青い海だからです。
それに海は始まる場所もなければ終わりの場所もありません。
だからここに最果ての場所はないのです__と。
しかし私の仕事は、お客様が行きたいという場所にお連れすること。
だから私は、この島で一番と言われる眺望と言われる場所にふたりを案内することにした。









「この島には最果ての場所はありませんが、あの岬の向こうに小さな入り江があります。崖の上から見るその景色はこの島で一番だと言われています」

私は崖の上にある柵で囲った駐車場にふたりを案内した。
本来ならそこにはいつも数台の車が止まっているが、今日は一台も止まってなかった。
そして、いつもならそこから見える景色は青い海に溶けていく黄昏の空だが、今私たちが目にしているのは、近づいてくる台風のせいで少し灰色がかった空と白波が立ち始めた海。
肌に感じるのはぬるい風。耳にしているのは崖の下から聞こえる波の騒ぎ立つ音だ。
そんな場所で私は訊いた。

「お客さん。どちらからお見えに?」

すると男性は東京からだと答えた。

「そうですか。それならこういった経験は初めてではありませんか?」

男性は少し間を置き、「ああ。初めてだ」と答えたが、その表情は引き締まっていた。

私は空の彼方に視線を向けた。

「フィリピンの東側の海域で発生した台風は、必ずこの島を通ります。
つまりこの島は毎年台風の激しい雨風に晒されるということです。ですが台風がこの島に留まるのは1時間くらいです。ただそれは台風の大きさや速度によりますが、ここを通り抜けた台風は速度を早めると北に進みます。
私はこの島で生まれました。ですから台風には慣れていると言えるでしょう。それでも台風は恐ろしいものです。何しろごうごうと地響きのような音がして、雨と風が家に叩きつけられ雨戸はガタガタと揺れ通しです。そして真夜中に台風が来ると眠れない夜を過ごすことになります」

私はふたりにそう話しながら、子供の頃を思い出していた。
それは風がひときわ強く吹いて近所の商店のトタン屋根が飛んでいったことを。
あの日。父親から危ないから家の中に居ろと言われたのに、私は玄関の扉を開けて外に出た。そのとき大きなトタン屋根が物凄い音を立て飛んでいったのを見た。
あのとき、私は一緒に飛ばされるのではないかと感じた。風に足元を掬われ巻き上げられると思った。実際一瞬ふわり、と身体が持ち上がった。そのとき、家の中にいない私に気付いた父親が外に飛び出してきて私を抱え家の中に戻った。
何故私が家の外に出たのか。それは台風の目が見たかったから。
テレビの中でニュースキャスターが台風の目という言葉を連呼するたび、台風にも生き物と同じように目があるのなら見たいと思ったのだ。

私は視線をふたりに向けた。

「お客さんは台風の目の中に入ったことがありますか?台風の中心には、雲がなく風の弱い目と呼ばれる場所があります。目の大きさは台風自体の大きさによって異なりますが直径は20キロから200キロ。平均40キロから50キロ程度と言われています。
その目の周りを高さ12キロから16キロの円筒状の巨大な雲が囲んでいます。それを壁雲と言います。その壁雲はぐるぐると回りながら上昇気流を作ります。
そして壁雲の中は台風の目と言われる場所ですが、そこは壁雲の外とは逆に下降気流なんです。つまり壁を挟んで真逆の空気の流れがあるのです。
そして壁雲に囲まれた目の中は本当に静かなもので青空が見えることもあります。それは少し前までの荒れた天気が嘘のような光景です。しかし目が通り過ぎると吹き返しの暴風雨が戻ってきます。ただ、風向きは目の中に入る前とは正反対に変わります」

気象に興味を抱いた私は高校を卒業すると東京の大学に進学した。
そこで物理学を専攻し気象について学び、気象情報を生業とする会社に就職した。

そのとき一陣の風が吹いた。
すると男性は隣に立つ女性の手をきつく握った。
それはまるでこれから吹き付けてくる強い風に女性が飛ばされないようと言わんばかりの握り方だ。
その光景に私は感じるものがあった。それはこの男性は一度女性と離れたことがあったのではないか。だから二度と離れることがないように女性の手をしっかりと握りしめたのだという思いだ。

と、同時に私の胸の内側が揺れた。
それは懐かしいという思い。遠い昔、目の前にいる男性のように女性の手をしっかりと握って離さないと言った男性がいたことを思い出したのだ。

私は上司の勧めで言われるまま見合い結婚をした。
しかし、私は空を読むことは出来ても人の心の裡を読む事が出来なかった。
その結果私は妻を失った。
私が思い出した男性とは25年前に妻をさらっていった男性。
妻には私と結婚する前から好きな男性がいた。
しかし、その男性は親の決めた女性と結婚していた。だが、男性は自分の気持に嘘はつけないと言って持っていた全てを棄てて離婚した。そして妻に会いに来た。そして妻もこれ以上自分の気持を偽っていることは出来ないと言って離婚して欲しいと言ったのだ。

私はその男性を憎いとは思わなかった。
それに妻を憎いとも思わなかった。
何故なら私は妻の心の在り処を深追いする人間ではなかったからだ。
一緒に暮らした時間は2年だったが、共有した時間は1年もなかった。

そして私は東京の生活を引き払い島に戻ることを決めた。
それは東京での暮らしよりも、島での暮らしの方が合っていると気付いたからだ。
島が私の心安らぐ場所だったのだ。
景色がよく、空気がきれいなこの島が。

人には心が安らぐ場所が必要だ。
そして心と心が混じり合う相手が必要だ。
東京で暮らしていた私は人の心の裡を読む事が出来なかったが、この島に戻りタクシーの運転手を始めてから人を見る目を養うことが出来た。
だから最果ての場所を求めてこの島に来たふたりが、これまでどのような人生を歩んできたとしても、私はこの島が彼らにとっての最後の旅先になって欲しくはなかった。

「台風自体は推進力を持ちません。台風は周辺の大気の流れに動かされているのです。つまり風の流れが弱いと台風はいつまでもその場所に留まることになるのです。
人生にも風向きがあると言います。全ての人がとは言いませんが、吹きすさぶ風に立ち向かわなければならないこともあるでしょう。どうしようもないことというのもあるでしょう。しかしそれでも人は前を向いて歩いていかなければならない。どんなに強い向かい風の中でも歩かなければならない。私はそう思います」

ふたりは何も言わなかったが、黙るしかない会話というものもある。
流れていく景色を前にふたりは何を思ったのか。
あの後、私はふたりを、日暮れを迎えた港まで送ったが、台風が近づいてくる港に船はなかった。つまりこの島を出ることは出来ないということ。
それならあのふたりはどこかに泊ったのか。
私には分からなかった。
ただ私に分かるのは、海は始まる場所もなければ終わりもない場所。
だから、もしふたりが海に身を投じたなら、その身体は潮の流れに乗って国境を越えてゆく。心は肉体から切り離されたのだから、ふたりは風と共に旅をしているはずだ。
そしてこれまで流した涙があるとすれば、それは潮風に消えたはずだ。









あれから半年ほど経った頃。
私はあのときの男性の姿を認めた。
テレビは日本経済の今後についてという番組を放送していた。

ああ___
男性は生きている_____
それなら女性も____

彫が深く特徴的な髪型をした男性は、道明寺ホールディングスの次期社長だと紹介されていた。

この島には山がない。
だから分水嶺はない。
けれど、この島はふたりにとって物事の方向性が決まる場所だったのだ。
何しろここは天国に一番近いと言われる場所。
この島を訪れた旅人は天国の入口に立ち、それから振り返る。
今の自分が本当にその場所に足を踏み入れることを望んでいるかを。
そして気付く。
まだその時ではないと。
そしてふたりも気付いたのだ。

私はテレビを消すと窓を開けた。
そして南十字星の見える空を見上げ思った。
きっとあのふたりは今頃同じ夢を見ているはずだと。





< 完 > *分水嶺(ぶんすいれい)*
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