「ねえ、祐(たすく)お兄ちゃん。お父さんってああなることを望んでいたの?」
「ああ。父さんらしいと思わないか?」
「でも……」
「いいか、葵。父さんは何でも自分の思い通りにならなきゃ気が済まない人間だ。だからあれで良かったんだ。あれが父さんの望みだったはずだ」
「だけど……ねえ英(すぐる)お兄ちゃんもそう思うの?」
「葵。俺は祐兄さんの言う通りだと思う。父さんは、あの場所でああなることを望んでいたんだと思う。
それに今頃父さんは肩の荷が下りてホッとしているはずだ。何しろ父さんは若い時から大勢の従業員の人生を背負って生きてきた。だから今頃母さんに凝った肩をほぐしてもらってるはずだ」
「英の言うとおりだ。母さんは父さんの肩を揉むのが上手かった。だが父さんはどんな形でも母さんに触れてもらえれば満足だった。だから凝っていなくても揉んでくれと言っていた。つまり父さんが母さんに肩を揉んで欲しいと言うのは、ただ母さんに触れて欲しいという意味だが、父さんはああ見えて寂しがり屋なところがある。まあ本人にしてみればそれは母さんにしか見せていないと思っていたようだが、家族だった俺たちは気付いてたよな?」
「ああ。気付いてた。葵、お前もそうだろ?」
「うん。お父さんはああ見えて寂しがり屋だったわ。だってお母さんが亡くなったとき、最後までお母さんの手を握って離さなかった。いつまでもお母さんの手を握っていた」
「そうだろ?だからいいんだ。夫婦の思い出であるあの場所で、ああなることが父さんの望みだったはずだ」
その日。
鎌倉の空は晴れ渡っていた。
司は別れの儀式を見ていた。
弔らわれているのは道明寺ホールディングス会長の道明寺司。
読経の声が続いているなか司の魂は寺の中にいて、自分の葬儀を上から見ていた。
子供たちがいる。
孫たちがいる。
友人たちがいる。
顏は見覚えがあるが名前を思い出すことが出来ない道明寺家の親族たちがいる。
彼らは皆、黒い服に身を包み祭壇を見ていた。
誰かが言った。
人生の走馬灯が回らないのは、自分の人生の中の経験が少なかったからだと。
けれど司はこの瞬間。人生の走馬灯を見ていた。
まず初めに現れたのは幼かった頃の自分。
司には幼馴染みが3人いて、いつも彼らと一緒にいた。
彼らは司と同じ裕福な家庭の子供。
そんな彼らの周りにいる人間は誰もが皆同じ顏をしていた。
それは考えていることが同じだから。そう。彼らの頭の中にあるのは自らの保身であり、将来が約束された子供たちに媚びへつらうことが仕事だったから。
やがて春がきてひとつずつ進級して行っても、その状況は変わらなかった。
だから、そんな大人達に囲まれて少年時代を共に過ごした4人の気持は同じだった。
そして次に現れたのは高校時代の自分。
司は恋の入口に立っていた。
まさか自分が恋をするなど思いもしなかったが、恋というものは、ある日突然訪れるもの。
そしてその日から、出口を見つけようなど思うことなく恋に囚われた。
だが回りにいた誰もが、その恋は成就されることはないと言った。
けれど司は、なんとしてもその恋を手に入れてみせると誓った。
ただし、求愛は一筋縄ではいかなかった。
だから一度掴んだ恋の手触りが消えてしまわないように、彼女の手をしっかりと握って離さなかった。
そして恋を成就させた。
そして次に現れたのは家族の顏。
恋人と結婚した司は3人の子供に恵まれた。
司は子供の教育について、妻の考え方に口出しをしたことはなかったが、子供たちは皆素直に育ち学校の成績も良かった。
だが妻は子供たちをのびのびと育てた。勉強しろとは言わなかった。
それどころか勉強はいいから外で遊んでこいと言った。
はじめ、子供たちは勉強しないでいいことを喜んだ。だがやがて、友達が塾に通い家庭教師を付けるようになると、勉強しないことに不安を覚え自ら学ぶことを始めた。
環境が人を育てるというが、今ならその通りだと分かる。
それは家族が傍にいることであり、家庭の大きさが重要だということ。
だが司が育った家に家族はいなかった。それに広い邸に家庭はなかった。
広いばかりの邸は寒々しさだけが感じられ、食事に味が感じられることはなかった。
けれど妻と結婚して家族が出来た。手を伸ばせばそこに家庭があった。
そして親となったふたりは、子供たちを信じ、プライバシーを尊重しながら力を貸す時を見極めていた。
やがて成人を迎えた子供たちは、それぞれの道に向かって進んだが、司も妻も彼らの人生の選択に口を挟むことはしなかった。
だがひとりは父親である司の跡をついで道明寺に入社した。そしてひとりは弁護士になり、あとのひとりは新聞社に就職した。
子供はいつか親の元から離れるもの。
その考えは妻の方が強く、新聞社に就職した娘が青い目をした男と結婚したいと言ったときも反対はしなかった。
だが司は反対した。いや反対ではなく心配をした。いくら幼い頃から司の仕事の関係で外国暮らしの経験があるとはいえ、相手は文化が違う国で育った男。ましてやその男はフランス人。司は英語を話すことができるがフランス語は苦手だ。だから余計に気を揉んだ。
だから司は妻に言った。
「俺はあの子が売れ残ってくれても構わない」
そして精力的に仕事に取り組む娘に言った。
「ずっと家にいてもいいんだぞ」
だが娘はフランス男と結婚してパリで暮らし始めた。
そして3人の子供たちは、それぞれ家庭を持ち司には孫ができたが、どの子も同じように可愛い。
だから彼らが幸せでいることを願った。
「一日でいいから俺より長生きしてくれ」
そう言ったが、その願いが叶うことはなかった。
妻は6年前、静かに息を引き取った。
「皆さん本日は私の愛する妻のためにありがとうございます」
司は妻の葬儀で挨拶をしたが、参列しているのは彼の立場に相応しい面々。
だが司はそこにいる人間の姿を見てはいなかった。
司は今自分がそうしているように、自分の葬儀を見つめているだろう妻の姿を探していた。
そして司は死の間際、妻と約束したことがある。
それは今を切に生きるということ。
だから妻が亡くなったあとを空虚だとは思わなかった。
だがそれでも寂しさを感じることがあった。
やがて季節が廻り、夏が去り彼岸花が咲く季節がきた。
すると思い出されることがあった。
「お前の思い出のスイーツは何だ?」
そう訊かれて妻が答えたのは焼き芋。
明治神宮外苑の銀杏並木。
そこに軽トラで売りに来ていた焼き芋が一番の好物だと言った。
だから司は妻が言った軽トラを探して焼き芋を買った。
そして仏壇に焼き芋を供え鉦(かね)を叩いて手を合わせていたが、ある日、庭に出た司の前にトンボが現れた。
それは全身が黒いトンボ。
ひらひらと神秘的に森の中を舞う黒い姿は幻想的なことから、そのトンボは神様トンボと言われていて、出会うと縁起がいいと言われる。そしてお盆の頃によく見られることから、ご先祖様の魂が姿を変えて現れたとも言われる。
そしてトンボは真っ直ぐ飛ぶことから勇気の象徴であり、前にしか進まず退かない不退転の精神から勝ち虫と言われる。
初めて会ったとき強気で司に向かってきた少女がいた。
司は目の前に現れた黒いトンボが妻のような気がしていた。
だから司はトンボに向かって指を差し出した。
するとトンボは彼の指に止まった。
「つくし。もしかしてお前はトンボに生まれ変わったのか?」
トンボはじっと司の指先に止まったままだ。
「そうか。お前はトンボになって上から俺を見てるんだな」
冬が過ぎ春がきた。
結婚間もない頃。庭に咲いた満開の桜の下。毛布を敷いて妻の膝枕で寝たことがあった。
そのとき細い指先が、癖のある髪をいたわるようにくしけずってくれた。
それ以来、毎年春になると桜の下で同じことをした。
だからいつも次の春が来るのを楽しみに待っていた。
そして司は満開の桜の下で最後のときを迎えたが、あの日、そこには妻の膝で感じた幸福があった。温もりがあった。だから桜の下で倒れていた司の顏には幸せな笑みが浮かび、眠っているように見えていた。
「皆様。故人様との最後のお別れとなります。柩の中にお花をお入れ下さい」
別れの儀式はどんどん進んでいく。
そろそろこの場から離れるときが来たようだ。
司は天に昇る翼を手にいれた。
だから目の前に現れた人に言った。
その人は命の限り幸せにしたいと思った人。
人生何週回っても一緒になりたい女性。
「つくし。待たせたな」
「本当に待ったわ。でも遅いとは言わないわ」
「そうか?」
「ええ。あたしが逝くのが少し早かっただけだもの」
「そうか?けど俺がいなくて寂しかったんじゃねえのか?」
「まさか!全然寂しくなんかなかったわ。司は知らないでしょうけど、空の上でもすることが色々あるから忙しいのよ?」
半世紀以上前に出会った女性は、ふたりの時を抱き、空の上で夫が来るのを待っていた。
そして今、司を迎えにきたが、待っている間を寂しかったとは言わなかった。
だがそれは嘘だ。強がりだ。その証拠に「でも、なかなか来ないから、あたしのことを忘れたのかと、ちょっとだけ心配したわ。だって前科もあるし」と小さな声で言った。
だから「バカ言うな。俺がお前のことを忘れるわけねえだろ?」と答えると妻を抱きしめた。
「それでは間もなくご出棺となりますので柩の蓋を閉じさせていただきます」
司はその声に振り返った。
するとそこに見えたのは、色とりどりの花に囲まれ目を閉じた己の姿。
いよいよその時が来た。
それは永遠(とわ)への旅立ち。
だが司に言わせれば、やっと魂が風になるときが来たのだ。
そして空へ上る前に二人が見たのは、柩の中に横たわる男を見つめる家族の姿。
最後の涙を流す者もいるが娘が言った言葉に家族は頷いていた。
「お父さん。良かったわね。やっとお母さんのところへ行けるわね」
人生の幕を閉じた男もその言葉に頷いていた。
恋をして結婚し、一日の終わりに幸福を与えてくれたのが妻の笑顔。
その妻が亡くなってから身体を抱きしめることはできなかったが、心は抱くことはできた。
だから夢の枕にもたれ、その心だけを抱いていたが、これからは妻の柔らかな身体を抱きしめることができる。隣り合って眠ることができる。視界の全てを妻で埋め尽くすことができる。それを知った司の心は晴れ渡る空のように清々しかった。
司は悪くない人生を送った。
いや最高の人生だった。
それは妻と出会ったから。
司の世界は妻と出会ったことで輝いた。
司は妻の顏を見つめた。
「よし、行くか」
「ええ、行きましょう」
「どこまでも一緒に行ってくれるか?」
「どこまでも一緒に行くわ」
「あてのない旅になってもいいか?」
「司と一緒なら構わないわ」
「そうか、それなら二人でこの素晴らしき世界の続きを見に行こう」
司は、これが恋の定めだと、しっかりと妻の手を握った。
< 完 > *この素晴らしき世界*

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「ああ。父さんらしいと思わないか?」
「でも……」
「いいか、葵。父さんは何でも自分の思い通りにならなきゃ気が済まない人間だ。だからあれで良かったんだ。あれが父さんの望みだったはずだ」
「だけど……ねえ英(すぐる)お兄ちゃんもそう思うの?」
「葵。俺は祐兄さんの言う通りだと思う。父さんは、あの場所でああなることを望んでいたんだと思う。
それに今頃父さんは肩の荷が下りてホッとしているはずだ。何しろ父さんは若い時から大勢の従業員の人生を背負って生きてきた。だから今頃母さんに凝った肩をほぐしてもらってるはずだ」
「英の言うとおりだ。母さんは父さんの肩を揉むのが上手かった。だが父さんはどんな形でも母さんに触れてもらえれば満足だった。だから凝っていなくても揉んでくれと言っていた。つまり父さんが母さんに肩を揉んで欲しいと言うのは、ただ母さんに触れて欲しいという意味だが、父さんはああ見えて寂しがり屋なところがある。まあ本人にしてみればそれは母さんにしか見せていないと思っていたようだが、家族だった俺たちは気付いてたよな?」
「ああ。気付いてた。葵、お前もそうだろ?」
「うん。お父さんはああ見えて寂しがり屋だったわ。だってお母さんが亡くなったとき、最後までお母さんの手を握って離さなかった。いつまでもお母さんの手を握っていた」
「そうだろ?だからいいんだ。夫婦の思い出であるあの場所で、ああなることが父さんの望みだったはずだ」
その日。
鎌倉の空は晴れ渡っていた。
司は別れの儀式を見ていた。
弔らわれているのは道明寺ホールディングス会長の道明寺司。
読経の声が続いているなか司の魂は寺の中にいて、自分の葬儀を上から見ていた。
子供たちがいる。
孫たちがいる。
友人たちがいる。
顏は見覚えがあるが名前を思い出すことが出来ない道明寺家の親族たちがいる。
彼らは皆、黒い服に身を包み祭壇を見ていた。
誰かが言った。
人生の走馬灯が回らないのは、自分の人生の中の経験が少なかったからだと。
けれど司はこの瞬間。人生の走馬灯を見ていた。
まず初めに現れたのは幼かった頃の自分。
司には幼馴染みが3人いて、いつも彼らと一緒にいた。
彼らは司と同じ裕福な家庭の子供。
そんな彼らの周りにいる人間は誰もが皆同じ顏をしていた。
それは考えていることが同じだから。そう。彼らの頭の中にあるのは自らの保身であり、将来が約束された子供たちに媚びへつらうことが仕事だったから。
やがて春がきてひとつずつ進級して行っても、その状況は変わらなかった。
だから、そんな大人達に囲まれて少年時代を共に過ごした4人の気持は同じだった。
そして次に現れたのは高校時代の自分。
司は恋の入口に立っていた。
まさか自分が恋をするなど思いもしなかったが、恋というものは、ある日突然訪れるもの。
そしてその日から、出口を見つけようなど思うことなく恋に囚われた。
だが回りにいた誰もが、その恋は成就されることはないと言った。
けれど司は、なんとしてもその恋を手に入れてみせると誓った。
ただし、求愛は一筋縄ではいかなかった。
だから一度掴んだ恋の手触りが消えてしまわないように、彼女の手をしっかりと握って離さなかった。
そして恋を成就させた。
そして次に現れたのは家族の顏。
恋人と結婚した司は3人の子供に恵まれた。
司は子供の教育について、妻の考え方に口出しをしたことはなかったが、子供たちは皆素直に育ち学校の成績も良かった。
だが妻は子供たちをのびのびと育てた。勉強しろとは言わなかった。
それどころか勉強はいいから外で遊んでこいと言った。
はじめ、子供たちは勉強しないでいいことを喜んだ。だがやがて、友達が塾に通い家庭教師を付けるようになると、勉強しないことに不安を覚え自ら学ぶことを始めた。
環境が人を育てるというが、今ならその通りだと分かる。
それは家族が傍にいることであり、家庭の大きさが重要だということ。
だが司が育った家に家族はいなかった。それに広い邸に家庭はなかった。
広いばかりの邸は寒々しさだけが感じられ、食事に味が感じられることはなかった。
けれど妻と結婚して家族が出来た。手を伸ばせばそこに家庭があった。
そして親となったふたりは、子供たちを信じ、プライバシーを尊重しながら力を貸す時を見極めていた。
やがて成人を迎えた子供たちは、それぞれの道に向かって進んだが、司も妻も彼らの人生の選択に口を挟むことはしなかった。
だがひとりは父親である司の跡をついで道明寺に入社した。そしてひとりは弁護士になり、あとのひとりは新聞社に就職した。
子供はいつか親の元から離れるもの。
その考えは妻の方が強く、新聞社に就職した娘が青い目をした男と結婚したいと言ったときも反対はしなかった。
だが司は反対した。いや反対ではなく心配をした。いくら幼い頃から司の仕事の関係で外国暮らしの経験があるとはいえ、相手は文化が違う国で育った男。ましてやその男はフランス人。司は英語を話すことができるがフランス語は苦手だ。だから余計に気を揉んだ。
だから司は妻に言った。
「俺はあの子が売れ残ってくれても構わない」
そして精力的に仕事に取り組む娘に言った。
「ずっと家にいてもいいんだぞ」
だが娘はフランス男と結婚してパリで暮らし始めた。
そして3人の子供たちは、それぞれ家庭を持ち司には孫ができたが、どの子も同じように可愛い。
だから彼らが幸せでいることを願った。
「一日でいいから俺より長生きしてくれ」
そう言ったが、その願いが叶うことはなかった。
妻は6年前、静かに息を引き取った。
「皆さん本日は私の愛する妻のためにありがとうございます」
司は妻の葬儀で挨拶をしたが、参列しているのは彼の立場に相応しい面々。
だが司はそこにいる人間の姿を見てはいなかった。
司は今自分がそうしているように、自分の葬儀を見つめているだろう妻の姿を探していた。
そして司は死の間際、妻と約束したことがある。
それは今を切に生きるということ。
だから妻が亡くなったあとを空虚だとは思わなかった。
だがそれでも寂しさを感じることがあった。
やがて季節が廻り、夏が去り彼岸花が咲く季節がきた。
すると思い出されることがあった。
「お前の思い出のスイーツは何だ?」
そう訊かれて妻が答えたのは焼き芋。
明治神宮外苑の銀杏並木。
そこに軽トラで売りに来ていた焼き芋が一番の好物だと言った。
だから司は妻が言った軽トラを探して焼き芋を買った。
そして仏壇に焼き芋を供え鉦(かね)を叩いて手を合わせていたが、ある日、庭に出た司の前にトンボが現れた。
それは全身が黒いトンボ。
ひらひらと神秘的に森の中を舞う黒い姿は幻想的なことから、そのトンボは神様トンボと言われていて、出会うと縁起がいいと言われる。そしてお盆の頃によく見られることから、ご先祖様の魂が姿を変えて現れたとも言われる。
そしてトンボは真っ直ぐ飛ぶことから勇気の象徴であり、前にしか進まず退かない不退転の精神から勝ち虫と言われる。
初めて会ったとき強気で司に向かってきた少女がいた。
司は目の前に現れた黒いトンボが妻のような気がしていた。
だから司はトンボに向かって指を差し出した。
するとトンボは彼の指に止まった。
「つくし。もしかしてお前はトンボに生まれ変わったのか?」
トンボはじっと司の指先に止まったままだ。
「そうか。お前はトンボになって上から俺を見てるんだな」
冬が過ぎ春がきた。
結婚間もない頃。庭に咲いた満開の桜の下。毛布を敷いて妻の膝枕で寝たことがあった。
そのとき細い指先が、癖のある髪をいたわるようにくしけずってくれた。
それ以来、毎年春になると桜の下で同じことをした。
だからいつも次の春が来るのを楽しみに待っていた。
そして司は満開の桜の下で最後のときを迎えたが、あの日、そこには妻の膝で感じた幸福があった。温もりがあった。だから桜の下で倒れていた司の顏には幸せな笑みが浮かび、眠っているように見えていた。
「皆様。故人様との最後のお別れとなります。柩の中にお花をお入れ下さい」
別れの儀式はどんどん進んでいく。
そろそろこの場から離れるときが来たようだ。
司は天に昇る翼を手にいれた。
だから目の前に現れた人に言った。
その人は命の限り幸せにしたいと思った人。
人生何週回っても一緒になりたい女性。
「つくし。待たせたな」
「本当に待ったわ。でも遅いとは言わないわ」
「そうか?」
「ええ。あたしが逝くのが少し早かっただけだもの」
「そうか?けど俺がいなくて寂しかったんじゃねえのか?」
「まさか!全然寂しくなんかなかったわ。司は知らないでしょうけど、空の上でもすることが色々あるから忙しいのよ?」
半世紀以上前に出会った女性は、ふたりの時を抱き、空の上で夫が来るのを待っていた。
そして今、司を迎えにきたが、待っている間を寂しかったとは言わなかった。
だがそれは嘘だ。強がりだ。その証拠に「でも、なかなか来ないから、あたしのことを忘れたのかと、ちょっとだけ心配したわ。だって前科もあるし」と小さな声で言った。
だから「バカ言うな。俺がお前のことを忘れるわけねえだろ?」と答えると妻を抱きしめた。
「それでは間もなくご出棺となりますので柩の蓋を閉じさせていただきます」
司はその声に振り返った。
するとそこに見えたのは、色とりどりの花に囲まれ目を閉じた己の姿。
いよいよその時が来た。
それは永遠(とわ)への旅立ち。
だが司に言わせれば、やっと魂が風になるときが来たのだ。
そして空へ上る前に二人が見たのは、柩の中に横たわる男を見つめる家族の姿。
最後の涙を流す者もいるが娘が言った言葉に家族は頷いていた。
「お父さん。良かったわね。やっとお母さんのところへ行けるわね」
人生の幕を閉じた男もその言葉に頷いていた。
恋をして結婚し、一日の終わりに幸福を与えてくれたのが妻の笑顔。
その妻が亡くなってから身体を抱きしめることはできなかったが、心は抱くことはできた。
だから夢の枕にもたれ、その心だけを抱いていたが、これからは妻の柔らかな身体を抱きしめることができる。隣り合って眠ることができる。視界の全てを妻で埋め尽くすことができる。それを知った司の心は晴れ渡る空のように清々しかった。
司は悪くない人生を送った。
いや最高の人生だった。
それは妻と出会ったから。
司の世界は妻と出会ったことで輝いた。
司は妻の顏を見つめた。
「よし、行くか」
「ええ、行きましょう」
「どこまでも一緒に行ってくれるか?」
「どこまでも一緒に行くわ」
「あてのない旅になってもいいか?」
「司と一緒なら構わないわ」
「そうか、それなら二人でこの素晴らしき世界の続きを見に行こう」
司は、これが恋の定めだと、しっかりと妻の手を握った。
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