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2021
12.25

花束に添えて 1

「お前のかーちゃん、出ぇべーそ!」

「うるせぇ!俺の母ちゃんは出べそなんかじゃねぇ!俺の母ちゃんの腹はスベスベしてキレイだ!」

「へえ~そうかよ、でもなんでお前。母ちゃんの腹がスベスベしてるって知ってんだよ?」

「知ってるって……そりゃ風呂に入ってるとき見たんだよ!」

「お前4年生なのにまだ母ちゃんと一緒に風呂入ってんのかよ?乳離れ出来ねえガキだな!」

「うるせぇ!一緒に風呂なんか入ってねえよ!俺が見たのは昔だ。ガキの頃、見たから知ってんだよ!それに出べそは、お前の母ちゃんじゃねえのかよ!いいか。俺の母ちゃんはお前の母ちゃんと違ってヘソなんか出てねえんだよ!」

駿はそう叫ぶと走ってアパートに帰った。
そして階段を駆け上がり廊下の一番奥の部屋の前に立つと、セーターの襟元から内側に下げていた鍵を取り出し部屋の中に入った。

「ただいま!」

だが返事はない。それは部屋の中は誰もいないから。
だから靴を脱いだ駿は部屋に入るとランドセルを床に置いてから洗面所へ向かった。
そして手を洗い、うがいをするとテーブルの上に置かれている紙を見た。

『駿へ 学校どうだった?今日のおやつはドーナツよ。戸棚に入っているから食べてね。
それから今日は少し遅くなるかもしれないけど、晩御飯までには帰れると思うから』

駿の母親は近所のスーパーの総菜売り場で働いている。
だから駿が学校から帰っても家にはいない。
その代わり、いつもこうして、手紙とおやつを置いて仕事に行く。
そしてクリスマスのシーズンになると忙しい。
それはクリスマスを祝う人たちがスーパーでクリスマス用に調理された料理を買うから。
だからこの季節はいつもより早く家を出て、帰りもいつもよりも遅い。だが駿は家に母親がいないことを寂しとは思わなかった。何故なら駿は母親が帰ってくるまでにすることがあるから。それは宿題を終えること。それに洗濯物を畳むこと。そして窓辺に飾ってあるポインセチアに水をやるという役目があった。

今年、母親は真っ赤な植物の鉢植えを買ってきた。
駿はその植物の世話を任されたが、メキシコが原産のポインセチアは乾燥ぎみに育てる植物。だが駿は葉がしおれているからと、水をやり過ぎて枯らせてしまった。すると母親は二つ目を買ってきた。だから今度は水をやり過ぎないようにした。それに、ポインセチアは暖かさが必要であることから、しっかりと日に当てることにも気を配り、今では葉っぱはスクスクと成長していた。

そしてポインセチアの隣には母親が飾った小さなクリスマスツリーがある。
そのツリーは駿が物心ついた頃から家にあるツリー。
飾りはキラキラしたボール。どこかで貰ってきた布で出来た小さなサンタクロースとトナカイ。そして、てんぺんには銀色の星が瞬いていた。

駿は小学4年生だ。だからサンタクロースを信じてはいない。それでも去年まで朝起きると枕元に箱が置いてあった。そしてその中には欲しいと思っていたラジコンが入っていた。
だからその時は喜んだ。嬉しかった。
だが4年生の今は、母親が無理をして高価なおもちゃを買ってくれたことを知っている。
だから欲しいものを聞かれたとき、特にないと答えた。いや。そう答えれば母親は駿が子供なりに遠慮してそう言っているのだと思う。本当は欲しい物があるのに健気な強がりで我慢していると思うだろう。だから今年のクリスマスにはドライバーセット、プラスやマイナスのドライバーがセットになったものが欲しいと言ったが、それはネジを緩めたり締めたりするための道具。
母親は、「なにそれ?本当にそんなものが欲しいの?」と訊いたが、駿は本当にそれが欲しかった。だが何故駿はそんなものが欲しいのか。
それは組み立て式の家具を母親の代わりに組み立てるために必要だからだ。

他の家ではそういった作業は父親の仕事と言われている。
だが駿には父親がいない。
それは母親が未婚で彼を産んだから。
そしてこれまで父親という人物に会ったことがない。
だが訊いたことがある。
それはちょうど朝食を食べ終えた母親が駿より先に仕事に出掛ける前だった。

「母ちゃん。俺の父ちゃんって誰?」

すると母親は一瞬の間を置き答えた。

「あのね。駿のお父さんは宇宙から来た人でね。お母さんとお父さんは恋におちたんだけど、ある日、出身地の星に戻らなきゃならなくなって帰っちゃったの。お母さんはその時お腹に駿がいることが分からなくてね。お父さんが星に戻ってから知ったの。だからお父さんに駿が生まれたことを伝えられずにいるの」

「母ちゃん。言っとくが俺はその辺のバカな子供じゃない。だから俺の父ちゃんが宇宙人だなんて、そんな子供騙しは言わないでくれ!」

「あはは!バレちゃった!やっぱり駿は賢いから騙されないわねえ」

その日の前の夜。テレビでは宇宙人と人間が恋におちる映画を放送していた。
だから母親はその映画の話を駿にしたのだ。
それが10年近く昔に母親と交わされた会話。
母親はそれ以上、駿の父親について何も言わなかった。
だが思春期を迎えた駿は考えた。自分に父親がいないのは、写真一枚すらないのは、母親が相手のことを話さないのは、相手が妻子ある男性だから。
だから父親を探し出して会いたいと望んでも、父親に妻子がいれば駿の存在は迷惑であり、会うことを拒否されるだろう。
それに母親は父親と恋におちたと言ったが、もしかすると望まない妊娠で駿を出産することになったのかもしれない。だから駿は父親を探さなかった。

ところがつい一週間前。
ひとりの男性が駿の前に現れた。

「牧野駿さんですね。わたくし、こう言う者です」

と言って差し出された名刺に書かれた名前は西田紘一。

「わたくしは道明寺ホールディングス社長、道明寺司の秘書をしております」



こちらのお話は短編です。
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2021
12.26

花束に添えて 2

自分に子供がいる。
それも大学生の息子が。
司は暴漢に刺され記憶の一部を失っていると言われていた。
だが失われた記憶が何であるかは分からなかった。
ただ、時々夢の中にひとりの女性の姿を見ることがあった。
それは焼け付く陽射しの中で揺れる人影。
その人影が誰であるか認識したのは3日前。
そして姉の口から突然こぼれた言葉で、はじめて自分に子供がいることを知った。

「司。私もこの事実を知ったのは、つい最近よ。だけど今日まで言わなかったのは、記憶を取り戻していないアンタに言っても、他人事だといって耳を貸さないことが分かっていたからよ」

そう言われた司は確かにそうだと思った。
何しろ司は一度も結婚をしたことがない。
それに女を抱く時は細心の注意を払っていた。
だから血を分けた子供がいると言われても、何をバカなことをと一蹴しただろう。
だが今は一度も会ったことがない少年の影が頭をかすめた。
それは夢の中に現れた女性に似た姿。

「それからアンタの息子の名前は駿。牧野駿。分かるわよね?母親が誰か」

勿論だ。母親の名前は牧野つくし。
彼女は司の初恋の人。
高校生の頃、付き合っていたが、司が彼女のことを忘れたことで二人の仲は終わりを迎えた。
いや。司の方が一方的に彼女を棄てたと言っていい。
はじめは何も見えなかった恋。
だが付き合いを深めたふたりは、やがて未来を語るようになった。
愛を重ねはしたが注意していた。だから彼女が妊娠していたとは思いもしなかった。

「つくしちゃんはアンタがつくしちゃんのことを忘れたことで英徳を辞めて姿を消したの。
だから私は心配したわ。つくしちゃんを探したわ。だけど見つけることが出来なかった。
けれど何かあって姿を消したことは分かる。それでご両親に私で出来ることがあれば手助けしたいから、つくしちゃんの居場所を教えて欲しいと言ったの。でもご両親は、娘は親戚の元で元気に暮らしている。だから心配しないで欲しい。それから娘のことは探さないで欲しいと言ったの。だからそう言われた以上、私もそれ以上探すことはしなかった」

彼女の両親は娘が妊娠していることを知り驚いたはずだ。
そしてどうすればいいか考えた末、産むことを決めた娘を好奇の目から守るため、彼女に関心を払わない土地に転居させたのだろう。

「司。この子がアンタの息子よ」

姉はそう言うと、男の子が写った写真を司に渡した。
それは司が初めて見る我が子の姿。
ひと目見て彼女が産んだ子だと分かる面影があった。
だが切れ長の目は姉と自分に似ている。
それに癖のある髪の毛は自分と同じ。
道明寺家の人間は皆、背が高いが、どうやら我が子もそのようで、司と息子を結ぶ糸は確かにそこにあった。

「来年二十歳を迎えるそうよ。それからここがつくしちゃんのいる場所」

司は渡された紙に目を落とした後、顏を上げると姉に訊いた。

「姉貴…….ここは?」

「つくしちゃん、入院しているの」



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2021
12.27

花束に添えて 3

新千歳空港には11時過ぎに着いた。
ロビーには先に北海道入りしていた西田がいて、司が手にしていたコートを預かった。

「ご子息様は、駿様はつくし様が入院している病院にいらっしゃいます」

ロビーから一歩外に出た司は、車までの短い距離だったが頬に冷たい風を感じた。
だが空は北の大地に相応しい大きな青空が広がっていた。
そして肺に吸い込んだ空気は東京とは違い澄んでいた。

司は車の後部座席で目を閉じた。
そして姉の言葉を反芻していた。






「つくしちゃん、心臓の手術をすることになったの」

姉の言葉に司の心臓は凍り付いた。

「職場の健康診断で異常が見つかってね。調べてみたら心臓の近くに腫瘍が見つかったそうよ。それからその腫瘍が何であるかは胸を開いてみないと分からないと言われたらしいわ。だから自分に何かあったら駿のことを頼むって私に連絡をしてきたの」

彼女は万が一のことを考え姉に甥の存在を知らせた。
それはいつか司が彼女のことを思い出したとき、この世に同じ血を持つ人間がいることを伝えて欲しいということ。
司は自分に息子がいることが嬉しかった。
彼女が自分の子供を産んで育ててくれたことが嬉しかった。
だが息子は母親と自分を棄てた男を憎んでいるのではないか。
だからいくら血の繋がりがあったとしても、一度も会ったことがない男が突然目の前に現れ父親だと名乗って受け入れてられるとは思っていなかった。
だから会うのが怖かった。

だが姉はそんな弟の心の裡を知っていた。
椿は司の秘書の西田を北海道に向かわせた。と、同時に椿自身も北海道に飛ぶと彼女に会い駿と会った。駿の伯母として司と母親の間に起こったことを話し、父親である司が失われた記憶を取り戻したとき、駿の存在を告げてもいいかを訊いた。
すると駿はこう答えたという。

「会いたいです。僕の父親だという人に。だって僕は母から父親は宇宙人だって聞かされましたから」

宇宙人という言葉にクスッと笑いそうになったが、司に会いたいと言ってくれた息子。
そして自分の命は神の采配で決まると思っている彼女。
息子にも会いたいが彼女にも会いたい。
会って彼女のことを思い出したと伝えたい。
だが既に息子が伝えているかもしれない。
もしそうなら彼女は今病院のベッドの上で何を思っているだろうか。
閉じた瞼に彼女の顏が浮かんできた。



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2021
12.30

花束に添えて 4

司は病院の中にある喫茶室にいた。

「はじめまして。牧野駿です。あなたが僕の父親なんですね。よかった。宇宙人じゃなくて」

牧野駿は自然な表情でそう言ったが、司が答えないでいると再び口を開いた。

「道明寺さん?あなたが僕の父親なんですよね?」

司は彼女の面影を宿す息子を見つめていた。
だから駿の言葉にハッとして「あ、ああ。私が君の父親だ」と答えた。

タバコが吸える年まで成長した息子。
眉や目は司に似ているが、鼻から顎にかけての線は司が知る彼女の面影と重なる。
そうだ。写真で見るより今こうして本人を前にすれば、息子の中に彼女の存在を強く感じることができる。それは息子の成長過程を知らなくても、そのたたずまいから彼女が育てた子供は母親の性格を受け継ぎ真面目だということ。
だがそう思う司は、これまで血や家族という言葉から遠く離れた場所にいた。
だから、自分の血を分けた息子を前に言葉を探していたが、我が子は司の視線を真正面から受け止めていた。それは司が愛した人と同じ強い眼差し。
その眼差しが小さく頷くと言った。

「僕は自分の父親が誰であっても受け入れるつもりでいました。
それは、たとえその人が、ろくでもない人間だとしても、僕の中には紛れもなくその人の血が流れているからです。どんな人でも僕の父親であることは変えられない事実なのですから」

司は駿が口にした、ろくでもない人間という言葉が胸に刺さった。
それは息子が高校生の頃の司の行いを知っているのではないかという思い。
学園の支配者と呼ばれイジメを繰り返していた男は駿の母親に出会うまで、正にろくでもない人間だった。

「僕は小学生の頃、母に父親のことを訊きました。すると母は父親は宇宙人だと言いました。
その時は僕が子供だからふざけていると思いました。でも母にとって僕の父親のことは避けたい話だったことは間違いありません。それは今のあなたの立場を考えれば分かるからです」

司の今の立場。それは9万人の社員を抱える道明寺ホールディングスの社長。
生まれた時から全てを手にしていた男は何不自由ない生活を送っていた。
敷かれたレールの上を走ることを拒んだこともあったが、ビジネスの世界に足を踏み入れれば血がそうさせるのか。勝利と成功を勝ち取る面白さを知った。
そして前社長の母親以上に道明寺に成長と発展をもたらした。

「思い返せば僕が母に父親のことを訊いた当時、あなたは道明寺財閥の後継者として前途洋々な立場にいた。それにあなたは母の記憶がなかったんですよね?つまり僕という存在がいることを知らなかった。だから母は小学生とはいえ僕が自分の父親はあなただと誰かに話してしまうことで、あなたの将来に傷が付くことを心配した。そして、やがて思春期を迎えた僕は母が僕の父親のことを言いたがらないのは、父親に妻子がいるからだと考えました。それに望まない妊娠をしたからではないかとも考えました。だから僕はもう母に父親のことを訊くことはしませんでした」

司は目頭が熱くなるのを感じた。
それは、記憶を失っていたとはいえ、深い感動の中で命を授けたはずの我が子に、そんなことを考えさせてしまったことが悔やまれてならなかったから。
そして息子が味わった日々に、本来なら共に過ごせた時間を過ごせなかったことに、後ろめたさと罪悪感を抱いた。

「でも暫く経って望まない妊娠だったのなら、母は僕の父親のことは忌まわしいものであり消し去りたい過去であることから死んでいると言ったはずだと思うようになりました。だけどそうではなかった。母は僕を愛情を持って育ててくれた。だからやっぱり僕の父親だという人は他の女性と結婚して、どこかで生きていると考えるようになりました。結ばれることが許されない相手だったのだと思うようになりました。そして父親の方から会いたいと言わない限り、僕は父親に会えないのだと思いました。
だから秘書の西田さんと椿伯母さんが現れて僕の父親が道明寺ホールディングスの社長の道明寺司…..あなただと訊いた時は正直驚きました」

司は我が子の口から語られる言葉に流れた年月の長さを感じた。
だが、こうして息子がいることを知り、その息子が伝えられた出生の秘密を受け入れていることを知ったが、二十歳を迎える我が子は母親の手を離れ、ひとりの人間として自立しているのを感じた。
そして司は、息子をそんな人間に育ててくれた彼女に感謝の気持ちしかなかった。

「駿……..駿と呼んでもいいか?」

司は躊躇いながら訊いた。

「……いいよ………父さん」

一瞬の間の後に返されたのは砕けた口調のいいよ。
そして父さんという言葉。
長い間我が子の存在を知らなかった司は、掛けられたその言葉に胸が震えた。

「ありがとう。駿」

そして彼女のことを思い出した今、彼女に伝えたい思いがある。
それはどんなに時が流れても変わらない思い。

「それから頼みがある。私はお母さんに会いたいんだが、会ってくれるだろうか」




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2022
01.04

花束に添えて 5

司は名札が掛けられている病室の前に立つと、名前を確かめてドアをノックした。
すると中から「どうぞ」と声がした。
だからドアを開けた。

「道明寺……」

それは懐かしい声。
懐かしい呼び名。
愛しい人の口から出た呼び名は、あの頃と同じ苗字の呼び捨て。

「牧野…….」

司が彼女を呼ぶのも苗字の呼び捨て。
ふたりともあの頃と同じ呼び方をするのは、他の呼び方をしたことがないから。

司は、じっと彼女を見つめたが、小さめの頭を縁取る髪は黒く短い。
それに色白で大きな黒い瞳はあの頃と同じで17歳の少女の面影があった。
そして心臓の手術を受けるという女は痩せていたが、見苦しいほどではない。だから司の目に写る姿は重病人には見えなかった。
そんな彼女の顏に浮かぶのは驚き。

「どうして……ここに?」

「牧野。お前が驚くのは無理もない。俺がここにいる理由はただひとつ。お前のことを思い出した。記憶が戻ったからだ」

彼女が手術を受けるにあたり、姉にそのことを知らせたのは、自分にもしものことがあったとき駿のことを頼むという意味だが、その驚き方からして司の記憶が戻ったことは知らなかったようだ。

「そう……記憶が戻ったの……」

「ああ。それに姉ちゃんからお前が心臓の手術を受けることを知らされたからだ」

「ええ……」

と彼女は言ったが、その声から感じられるは動揺で、言葉にそれ以上の意味は無かった。

「それから…….俺たちの間に息子がいると訊かされたが、いい青年だな。駿は」

「…….会ったの?駿に?」

「ああ。さっき会った」

「そう……..」

司は駿にお母さんに会いたいと言った。
すると駿は「会ってくれば?僕は反対しない。それに母さんも会いたいはずだよ。
だって椿伯母さんが教えてくれたんだ。父さんが母さんのことを忘れても、母さんは父さんのことがずっと好きだったって」と言った。
だから司はここに来たが、自分が彼女の思いに甘えられる立場にないことは分かっている。

司は彼女にひとりで子供を産ませたことを謝りたかった。と同時に子供を産んでくれたことへの感謝の気持を込め強く抱きしめたかった。だが3日後に手術を受ける身体には医療器械が取り付けられていて、抱きしめることは出来そうにない。
そして彼女は心臓にある腫瘍は胸を開いてみないことには、良し悪しの区別がつかないことから、死に至る病を患ったと考えていることは間違いない。
だが司は彼女を死なせるわけにはいかなかった。
どんなことをしても彼女の命は助けなければならない。
なにしろ彼女のことを思い出した司は、これから先彼女と生きていくと決めているのだから。

やがてベッドの上にいる彼女から漂い流れていた驚きの感情は戸惑いに変わった。
そして数分間が過ぎた。人は時に言葉を失うことがあるが、今の状況がまさにそれ。
だが、彼女は司に言いたいことが沢山あるはずだ。何しろ彼女に不滅の愛を誓ったはずの男は彼女を忘れたのだから。
そして長い年月が過ぎたが、かつて彼女の人生の一部になりたいと強くそう望んだ男は、やっとその望みを叶えることが出来ると思った。ただし、それは彼女が自分を忘れた司を許せばの話。
だから司は駿の言葉を鵜呑みにせず、彼女が怒っていることを前提に言った。

「牧野。怒っているのは分かる。だが黙ってないで何か言ってくれないか」

司は彼女からの言葉を待った。
だが彼女は何も言わない。しかしそれはもっともとも言える。
20年が経とうとする頃、突然現れた男に何を言えばいいのか。誰がどう考えてもすぐに言葉が出ないのは当然だ。だから司は穏やかな声で言った。

「牧野。今の俺に出来るのはお前を忘れたことを謝ることだけだ。それから今の俺の思いはあの頃と変わらない。だが過去に戻って全てをやり直すことが出来ないことは分かっている。
それでも俺はお前の傍にいたい。それから自分勝手な願いだと分かっているが牧野つくしに傍にいて欲しい。その思いを伝えにきた。それにお前の心臓に何が巣食っていようと俺が絶対にお前を助ける」

すると彼女は目を伏せた。
そして暫く目を閉じていたが、やがてゆっくりと瞼を開いた。
彼女は運命受動型の人間ではない。
自分の道は自分で切り開くというタイプの人間。
だから開かれた瞳に宿るのは、出会った頃と同じ意志の強さを感じさせる輝き。

「道明寺。あたしはアンタが言った通り心臓の手術を受ける。だから、あたしに万が一のことがあれば、お姉さんに駿のことを頼もうと思って連絡をした」

親は自分の健康に不安を覚えたとき、まず子供に何ができるか考える。
何を残してやることができるかを考える。
だから母親である彼女は心臓の手術を受けることが決まると、駿の伯母である椿に連絡をした。
それは姉の椿なら、たとえ司の記憶が戻らなくても駿の力になってくれることが分かっていたから。

「これまでのあたしは、あの子に与えられない父親の存在を告げることはしなかった。
だけど物心ついたあの子に自分の父親が誰なのか知りたいという欲求があることは知っていた。そしてあの子が自分の父親について初めてあたしに訊いてきた頃、道明寺財閥の跡取りであるアンタには結婚の話があった。そんなアンタに未成年の頃の交際相手との間に子供がいるなんて許されることじゃない。だから駿には父親が誰であるか告げなかった。
すると駿もあたしの態度に何かを察したのか。二度と自分の父親について訊くことはなかった」

司は独身だが、これまで何度も結婚話が持ち込まれた。
それは母親が財閥の将来を考え後継者を望んだから。
しかし司は、跡継ぎを作るために結婚しようと思ったことはなかった。
そして時は流れ、道明寺の社長になった司は、親の力や組織の力を必要としない男になった。
それは守りたい人がいれば自分の力だけで守ることができるということ。

「だけどこうして心臓の手術することが決まって、もしもあたしに何かあったとき、駿に本当の事を告げないまま別れることは出来ないと思った。だからアンタには迷惑をかけることになるかもしれないけど、せめて最後は駿が探し求めていた父親のことを告げるべきだと思った。父親は道明寺司だってね。でもそれはアンタがあたしのことを思い出せばの話。
だから椿お姉さんに頼ることにしたの。お姉さんならアンタがあたしのことを思い出したかどうか分かるでしょ?」

そう言った彼女がふっと口を噤んだ。
そして司を見つめながら「それから訊いて。あたしはアンタが私のことを忘れたことを怒ってなんかない。それに怨んでもない。だってアンタがあたしのことを忘れたのはアンタのせいじゃないんだもの。だから……もしあたしに何かあったらあの子を、駿をおねがいね」と言った。



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