看護師から「ご家族の方は病室。もしくはこちらでお待ち下さい」と言われた司と駿は手術患者家族のための待合室にいたが、部屋が静かなのは他に誰もいなかったから。
そして窓の外には、北海道の冬独特の低い位置にかかった太陽が見えた。
「父さん。母さんは大丈夫だよ。それにここの病院の先生は優秀だから」
司は隣に座った駿にそう言われたが気が気ではなかった。
人工心肺を使う手術を受ける彼女を自家用ジェットで東京の道明寺系列の病院に転院させ、心臓外科の権威と呼ばれる医者の手術を受けさせたかった。
だが彼女は司の申し出に首を横に振った。
そして、大丈夫よ。ここの病院の先生は神様の手を持っているから、と言った。
「それから父さん。僕は母さんから社会に迷惑を掛けるなって育てられたこともだけど、もしものことがあった時のことは訊かされてきた。つまりそれは、今みたいな状況のことだけど、僕は来年二十歳になる。つまり大人だ。だから母さんは手術を受けることが決まった時に僕に言った。あなたの人生は自分の、あなたのもの。だから誰かに何かを言われても気にすることはないって」
姉の椿に息子を頼むと言った彼女。
そしてもし司の記憶が戻ったなら息子の存在を伝えて欲しいと言った。
しかし、息子の話から彼女は息子が司のような人生を歩むことを望んでいないことが分かる。
司は駿の父親になったが、息子の人生に口出しをするつもりはない。
自分がそうであったように、人に指図されて生きる人生は自分の人生とは言えない。
人の目を気にして生きる人生は自分の人生ではなく他人の人生。
それに親と子が同じ価値観を持つ必要はない事を自分自身の経験から知っている。
「それに母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道だからって」
駿の口から聞かされたその言葉に司の胸は痛んだ。
最期は誰もがその道を行くことは分かっている。
だが、その道を歩むのが早いか遅いかは神だけが知ることであり、人は与えられた命の期限を知ることが出来ない。あと幾つ朝を迎えることができるのか、誰にも分かりはしない。
だからこそ、夜明けを迎えたとき、目覚めたことを当然と思うことなく感謝すべきだ。
最愛の人を抱きしめ、おはようと言葉を交わせることは、奇跡に近いことを理解しなければならない。
そして司の最愛の人は心臓の手術に臨んでいるが、その心臓は、これまで何十億、何千兆という鼓動を打ったはずだ。
司はこの先、その心音を傍で訊くことを望んでいるが、自分は彼女のことを忘れてからこれまで、いったいいくつの夜を超えてきたのか。
司は二十年前の記憶の中に飛び込んだ。
あの時。一晩同じベッドで抱き合い朝を迎えた。
交わされた何十回のキスと何十回の愛の囁きは、若いふたりにとって初めての経験。
そして今でも鮮明に覚えていることがある。
それは彼女の唇が濡れていて、司の身体は汗で濡れていたということ。
やがて長い時のあと、ようやく肺に空気を取り込んだふたりは見つめ合った。あの時の彼女の鼓動は早かったが、司の鼓動も同じだった。
「___?___さん?父さん?」
「あ、ああ…..」
思いを巡らせていた司は息子の呼びかけに隣を見た。
視線を合わせた。
「でもね。母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道でも、それは永遠の別れじゃないって。その人に捧げられた思いは、その人だけのもので、捧げられた人は絶対に忘れないから。その思があれば別れの道をいくのも寂しくはないって」
「駿…….」
司は自分の思いはあの頃と変わらないと言ったが、彼女は自分を忘れたことを怒ってもいなければ、怨んでもないとだけ言った。
だが我が子の口から発せられた言葉に彼女の司に対する思いを感じた。
それは司の記憶が戻ることなく、彼女が別れの道を歩くことになっても過去の思い出が自分を助けてくれるから寂しくはない、と………
「父さん、ここは乾燥しているから、のど乾いただろ?何か買ってくるよ。それに母さんの手術は時間がかかる。僕はコーヒーにするけど父さんもコーヒーでいい?」
司はその言葉に黙って頷いた。
すると駿は立ち上り待合室を出て行ったが、自分が我が子と同じ年だった頃、親の死について考えたことなどなかった。だが母親とふたりだけで生きてきた息子は考えていた。それに母親が息子に見せていないと思っていた気持を見ていた。
そして父親である司の気持も。
司の目から涙がひと筋こぼれた。

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そして窓の外には、北海道の冬独特の低い位置にかかった太陽が見えた。
「父さん。母さんは大丈夫だよ。それにここの病院の先生は優秀だから」
司は隣に座った駿にそう言われたが気が気ではなかった。
人工心肺を使う手術を受ける彼女を自家用ジェットで東京の道明寺系列の病院に転院させ、心臓外科の権威と呼ばれる医者の手術を受けさせたかった。
だが彼女は司の申し出に首を横に振った。
そして、大丈夫よ。ここの病院の先生は神様の手を持っているから、と言った。
「それから父さん。僕は母さんから社会に迷惑を掛けるなって育てられたこともだけど、もしものことがあった時のことは訊かされてきた。つまりそれは、今みたいな状況のことだけど、僕は来年二十歳になる。つまり大人だ。だから母さんは手術を受けることが決まった時に僕に言った。あなたの人生は自分の、あなたのもの。だから誰かに何かを言われても気にすることはないって」
姉の椿に息子を頼むと言った彼女。
そしてもし司の記憶が戻ったなら息子の存在を伝えて欲しいと言った。
しかし、息子の話から彼女は息子が司のような人生を歩むことを望んでいないことが分かる。
司は駿の父親になったが、息子の人生に口出しをするつもりはない。
自分がそうであったように、人に指図されて生きる人生は自分の人生とは言えない。
人の目を気にして生きる人生は自分の人生ではなく他人の人生。
それに親と子が同じ価値観を持つ必要はない事を自分自身の経験から知っている。
「それに母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道だからって」
駿の口から聞かされたその言葉に司の胸は痛んだ。
最期は誰もがその道を行くことは分かっている。
だが、その道を歩むのが早いか遅いかは神だけが知ることであり、人は与えられた命の期限を知ることが出来ない。あと幾つ朝を迎えることができるのか、誰にも分かりはしない。
だからこそ、夜明けを迎えたとき、目覚めたことを当然と思うことなく感謝すべきだ。
最愛の人を抱きしめ、おはようと言葉を交わせることは、奇跡に近いことを理解しなければならない。
そして司の最愛の人は心臓の手術に臨んでいるが、その心臓は、これまで何十億、何千兆という鼓動を打ったはずだ。
司はこの先、その心音を傍で訊くことを望んでいるが、自分は彼女のことを忘れてからこれまで、いったいいくつの夜を超えてきたのか。
司は二十年前の記憶の中に飛び込んだ。
あの時。一晩同じベッドで抱き合い朝を迎えた。
交わされた何十回のキスと何十回の愛の囁きは、若いふたりにとって初めての経験。
そして今でも鮮明に覚えていることがある。
それは彼女の唇が濡れていて、司の身体は汗で濡れていたということ。
やがて長い時のあと、ようやく肺に空気を取り込んだふたりは見つめ合った。あの時の彼女の鼓動は早かったが、司の鼓動も同じだった。
「___?___さん?父さん?」
「あ、ああ…..」
思いを巡らせていた司は息子の呼びかけに隣を見た。
視線を合わせた。
「でもね。母さんは言った。別れは誰もがいつか通る道でも、それは永遠の別れじゃないって。その人に捧げられた思いは、その人だけのもので、捧げられた人は絶対に忘れないから。その思があれば別れの道をいくのも寂しくはないって」
「駿…….」
司は自分の思いはあの頃と変わらないと言ったが、彼女は自分を忘れたことを怒ってもいなければ、怨んでもないとだけ言った。
だが我が子の口から発せられた言葉に彼女の司に対する思いを感じた。
それは司の記憶が戻ることなく、彼女が別れの道を歩くことになっても過去の思い出が自分を助けてくれるから寂しくはない、と………
「父さん、ここは乾燥しているから、のど乾いただろ?何か買ってくるよ。それに母さんの手術は時間がかかる。僕はコーヒーにするけど父さんもコーヒーでいい?」
司はその言葉に黙って頷いた。
すると駿は立ち上り待合室を出て行ったが、自分が我が子と同じ年だった頃、親の死について考えたことなどなかった。だが母親とふたりだけで生きてきた息子は考えていた。それに母親が息子に見せていないと思っていた気持を見ていた。
そして父親である司の気持も。
司の目から涙がひと筋こぼれた。

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人生は一回限りの旅。
その旅を無事に終えることを誰もが望む。
だがやむを得ず途中で止めなければならないこともある。
もし司が旅を終えることになるなら何を思う?何をする?
何週間か、何か月後に命が終ることを知ったとき、これは仕方がないことであり運命なのだと、その日が訪れるのをひたすら待つか。それとも可能性を信じて前を向くか。
司の人生は豊かであり、何不自由なかった。幸福は金で買えると思っていた。
そして自分の命は自分だけのものだと考えていた。だからそんな男が人生という旅が終わりを迎えることを知れば、恐らくだが納得して受け入れただろう。
だがそれは記憶を取り戻すまでの話で今は違う。彼女の存在がある限り可能性を信じて前を向く。
「お待たせ。父さんブラックで良かったよね?喫茶室でもブラックを飲んでたからそうしたんだけど?」
「ああ。ありがとう」
司は息子から缶コーヒーを受け取ったが、こぼれた涙は拭われ、眼差しは鋭敏さを取り戻していた。
「父さん知ってる?あの木、ハルニレって名前の木なんだ」
息子はそう言って窓から見える大きく枝を広げた背の高い木を指さしたが、いつの間にか窓の外には雪が舞っていて、見える世界を白一色に塗り潰していた。
「それからあれはエゾユキウサギの足跡」
雪の上に残されている小さな足跡は木に向かって続いていた。
「あの木は北海道ではよく見る巨木だけど春に花が咲く楡の木。だからハルニレ。それからアイヌ神話では、ハルニレは女神になって人間の子を産んだって言われている。
母さんはそんなハルニレの木が好きで春になると子供の僕を連れて公園に行って、そこにある大きなハルニレの木の下で弁当を広げていた。それから母さんの作る弁当のメニューは決まっていて卵焼きと、えのきのベーコン巻。このふたつはいつも必ず入っていた」
木を遠目に見ていた息子は、その視線を司に向けた。
「ねえ父さんは母さんと付き合っていた頃、弁当を作ってもらった?」
「ああ。ある。その時も卵焼きと、えのきのベーコン巻があった」
司は息子の話を聞きながら過去の記憶を紐解いていた。
思い出されるのは校舎の屋上で食べた弁当。
彼女が作ってくれた弁当を食べたのは後にも先にもあの時だけ。いや。記憶を失ったとき彼女が作ってくれた弁当を他人が作ったと信じたことがあったが、あの時も出汁の効いた卵焼きと、えのきのベーコン巻があった。
だが司はあの時まで、えのきという食べ物を知らなかった。
「そっか。それで母さんが作る弁当の中身がいつも卵焼きと、えのきのベーコン巻なのか分かったよ。そのふたつが父さんとの思い出の食べ物だからなんだね」
駿は缶コーヒーを飲むことなく手にしたままだ。
それは司も同じだが、息子の口から語られる過去を訊くたび、何故もっと早く記憶が戻らなかったのかと思う。だが司の代わりに、彼女に似てしっかり者の息子が傍にいたことは、いくら感謝しても足りない。
それに息子も母親に感謝していた。母親が自分を育てるために苦労を重ねていたことは、ちゃんとわかっている。だから貧しい中でも負けを背負い込んでしまうこともなければ、虚飾のかけらもない青年に育ったのは、ひとえに彼女のおかげだ。
高校時代の彼女は自分を苛める人間を許し受け入れた。
彼女と関わった人間は、誰もが彼女のやさしさに触れると心を開いた。
それは、見せかけではない本当のやさしさが胸の奥に流れ込むから。だから司も彼女に惹かれた。
それに潔さが彼女の性分。だから自分の心臓が止まるかもしれない状況でも、別れは誰もがいつか通る道だと我が子に言った。そして自分に何かあったら駿を頼むと司に言った彼女の背中は、まるで馬上の風に吹かれるように伸びていたが、決して彼女は人生を諦めた訳ではない。
そして彼女を愛している司は、どんな犠牲を払ってでも彼女を助けたい。もし代償が欲しいというのなら、自分の命と引き代えでもかまわない。だが心の底で望んでいるのは、彼女の代わりに命を捨てることではなく彼女と一緒に幸せになること。
そして春を迎えた北の大地で、彼女が好きだとういうハルニレの木の下で一緒に弁当を食べたい。
そう願う司は神を知らなかったが、今は彼女の手術が無事終わることを神に祈っていた。

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その旅を無事に終えることを誰もが望む。
だがやむを得ず途中で止めなければならないこともある。
もし司が旅を終えることになるなら何を思う?何をする?
何週間か、何か月後に命が終ることを知ったとき、これは仕方がないことであり運命なのだと、その日が訪れるのをひたすら待つか。それとも可能性を信じて前を向くか。
司の人生は豊かであり、何不自由なかった。幸福は金で買えると思っていた。
そして自分の命は自分だけのものだと考えていた。だからそんな男が人生という旅が終わりを迎えることを知れば、恐らくだが納得して受け入れただろう。
だがそれは記憶を取り戻すまでの話で今は違う。彼女の存在がある限り可能性を信じて前を向く。
「お待たせ。父さんブラックで良かったよね?喫茶室でもブラックを飲んでたからそうしたんだけど?」
「ああ。ありがとう」
司は息子から缶コーヒーを受け取ったが、こぼれた涙は拭われ、眼差しは鋭敏さを取り戻していた。
「父さん知ってる?あの木、ハルニレって名前の木なんだ」
息子はそう言って窓から見える大きく枝を広げた背の高い木を指さしたが、いつの間にか窓の外には雪が舞っていて、見える世界を白一色に塗り潰していた。
「それからあれはエゾユキウサギの足跡」
雪の上に残されている小さな足跡は木に向かって続いていた。
「あの木は北海道ではよく見る巨木だけど春に花が咲く楡の木。だからハルニレ。それからアイヌ神話では、ハルニレは女神になって人間の子を産んだって言われている。
母さんはそんなハルニレの木が好きで春になると子供の僕を連れて公園に行って、そこにある大きなハルニレの木の下で弁当を広げていた。それから母さんの作る弁当のメニューは決まっていて卵焼きと、えのきのベーコン巻。このふたつはいつも必ず入っていた」
木を遠目に見ていた息子は、その視線を司に向けた。
「ねえ父さんは母さんと付き合っていた頃、弁当を作ってもらった?」
「ああ。ある。その時も卵焼きと、えのきのベーコン巻があった」
司は息子の話を聞きながら過去の記憶を紐解いていた。
思い出されるのは校舎の屋上で食べた弁当。
彼女が作ってくれた弁当を食べたのは後にも先にもあの時だけ。いや。記憶を失ったとき彼女が作ってくれた弁当を他人が作ったと信じたことがあったが、あの時も出汁の効いた卵焼きと、えのきのベーコン巻があった。
だが司はあの時まで、えのきという食べ物を知らなかった。
「そっか。それで母さんが作る弁当の中身がいつも卵焼きと、えのきのベーコン巻なのか分かったよ。そのふたつが父さんとの思い出の食べ物だからなんだね」
駿は缶コーヒーを飲むことなく手にしたままだ。
それは司も同じだが、息子の口から語られる過去を訊くたび、何故もっと早く記憶が戻らなかったのかと思う。だが司の代わりに、彼女に似てしっかり者の息子が傍にいたことは、いくら感謝しても足りない。
それに息子も母親に感謝していた。母親が自分を育てるために苦労を重ねていたことは、ちゃんとわかっている。だから貧しい中でも負けを背負い込んでしまうこともなければ、虚飾のかけらもない青年に育ったのは、ひとえに彼女のおかげだ。
高校時代の彼女は自分を苛める人間を許し受け入れた。
彼女と関わった人間は、誰もが彼女のやさしさに触れると心を開いた。
それは、見せかけではない本当のやさしさが胸の奥に流れ込むから。だから司も彼女に惹かれた。
それに潔さが彼女の性分。だから自分の心臓が止まるかもしれない状況でも、別れは誰もがいつか通る道だと我が子に言った。そして自分に何かあったら駿を頼むと司に言った彼女の背中は、まるで馬上の風に吹かれるように伸びていたが、決して彼女は人生を諦めた訳ではない。
そして彼女を愛している司は、どんな犠牲を払ってでも彼女を助けたい。もし代償が欲しいというのなら、自分の命と引き代えでもかまわない。だが心の底で望んでいるのは、彼女の代わりに命を捨てることではなく彼女と一緒に幸せになること。
そして春を迎えた北の大地で、彼女が好きだとういうハルニレの木の下で一緒に弁当を食べたい。
そう願う司は神を知らなかったが、今は彼女の手術が無事終わることを神に祈っていた。

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言葉がその人の人生を支え続けることがある。
苦難の日々も、その言葉があれば乗り越えることができると言うが、司が最愛の人に言った愛してる言葉は彼女を支え続けた。
それなのに、その言葉を口にした当の本人は不覚にも生涯に一度きりの恋を忘れてしまった。
だから心臓の手術をするという彼女のため、どんなことでもするつもりでいた。
だが医者から「ご安心下さい。手術は成功です。牧野さんの心臓はこの先も問題なく鼓動を刻み続けています」と言われると、司は神が自分の願いを聞き入れてくれたのだと思った。
だがしかし、胸を開いてみないと分からないと言っていた腫瘍は何だったのか。それに手術は成功したと言ったが今後、彼女の身体にかかる負担があるのではないか。それは薬を飲み続けなければならないのではないか。月に何度も通院する必要があるのではないかということ。
だから司は訊いたが医者の答えは思いもしないものだった。
「薬を飲み続けることはありません。それに通院したとしても始めの1年は3ヶ月に一度程度であり、その後は半年後。そして1年後といったところでしょう。そしてまた1年後。その後は必要ないでしょう」
白衣を着た男は、そこまで言うと言葉を切った。
そして怪訝な顏をした司に、こう告げた。
「それが…….牧野さんの心臓の近くにあった腫瘍は脂肪の塊だったのです」
「脂肪の塊?」
「はい。ただの脂肪の塊です。術前の検査ではそれが何であるか分かりませんでしたが、開いてみればそれは脂肪だったのです。いえですが勿論その塊を病理に回しました。それは詳しい検査をするためです。しかし恐らく……いえ、それは脂肪の塊以外にないと思われます」
「でも母さん。良かったね。母さんの心臓の近くにあったのが、ただの脂肪の塊で」
「ねえ本当に、ただの脂肪の塊なの?」
「うん。本当にただの脂肪の塊。だからもう何も心配はいらないよ」
「嘘じゃないのね?悪いものじゃなかったのね?」
「うん。大丈夫。嘘じゃない。本当だよ。母さんの胸にあったのは、ただの脂肪の塊だ。ね、父さん?」
「あ、ああ…」
司は息子の駿と一緒に麻酔から目覚めた彼女に会ったが、医者は、じきに普通の生活に戻れると言った。
「でも笑っちゃうよね。僕はてっきり良くない物だと思っていたけど、出てきたのはタラの白子みたいな脂肪の塊だってさ。母さん白子好きでよく買って来るけど、もしかして食べ好きた?」
駿は鱈(タラ)の白子は北海道では寒くなるとスーパーで当たり前のように販売されていて、真鱈(マダラ)の白子は高いがスケソウダラの白子は安く買えると言った。
そして母親が鍋にもだが味噌汁にも白子を入れることから食べ好きだと言って笑ったが、司は息子の言葉に笑うことは出来なかった。
すると駿は「やだな。父さんそんな顏して。ここは笑うところだよ」と言ったが、今の自分は一体どんな顏をしているのか。
「父さん?」
駿は何も言わない司に再び声をかけた。
だが司は返事をしなかった。
それは彼女が手術を受けている間、彼女が永遠に目が覚めない可能性を考えていたから。
彼女のことを忘れて過ごした人生を悔い己を責めていたから。それに彼女が居ない世の中なら生きていく意味はあるのかと考えていたから。
そして手術が無事終わったとしても、彼女が置かれるこの先のことを考えたとき、どうすれば彼女が幸せになれるか。いやどうすれば彼女を幸せにしてやれるか。そればかりを考えていた。
だから腫瘍がただの脂肪の塊だったからと言われても、息子が言ったように笑えなかった。
ほほ笑むことは出来なかった。
そんな司の口から出たのは「笑えねえ」
それは20年近い空白の時間を超えて再会した最愛の人にかける言葉ではないと分かっている。それでも再び司の口をついたのは「笑えるわけねえだろう……」
「道明寺…..」
「父さん…..」
母親と息子は呼び方は違っても声を揃えて司を呼んだ。
しかし司は黙って母親の方を見ていた。
すると母親は息子に言った。
「ねえ駿。悪いんだけど、売店で買ってきて欲しいものがあるの」
「母さん。何か食べたいものがあるの?」
「うんうん。違う。食べ物じゃないの。ええっと…….雑誌.....ガーデニングの雑誌を買ってきて欲しいの」
「ガーデニング?」
「そう。ほら。ポインセチアの育て方とかが載ってたガーデニングの雑誌よ。悪いんだけどあの雑誌を買ってきてくれない?」

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苦難の日々も、その言葉があれば乗り越えることができると言うが、司が最愛の人に言った愛してる言葉は彼女を支え続けた。
それなのに、その言葉を口にした当の本人は不覚にも生涯に一度きりの恋を忘れてしまった。
だから心臓の手術をするという彼女のため、どんなことでもするつもりでいた。
だが医者から「ご安心下さい。手術は成功です。牧野さんの心臓はこの先も問題なく鼓動を刻み続けています」と言われると、司は神が自分の願いを聞き入れてくれたのだと思った。
だがしかし、胸を開いてみないと分からないと言っていた腫瘍は何だったのか。それに手術は成功したと言ったが今後、彼女の身体にかかる負担があるのではないか。それは薬を飲み続けなければならないのではないか。月に何度も通院する必要があるのではないかということ。
だから司は訊いたが医者の答えは思いもしないものだった。
「薬を飲み続けることはありません。それに通院したとしても始めの1年は3ヶ月に一度程度であり、その後は半年後。そして1年後といったところでしょう。そしてまた1年後。その後は必要ないでしょう」
白衣を着た男は、そこまで言うと言葉を切った。
そして怪訝な顏をした司に、こう告げた。
「それが…….牧野さんの心臓の近くにあった腫瘍は脂肪の塊だったのです」
「脂肪の塊?」
「はい。ただの脂肪の塊です。術前の検査ではそれが何であるか分かりませんでしたが、開いてみればそれは脂肪だったのです。いえですが勿論その塊を病理に回しました。それは詳しい検査をするためです。しかし恐らく……いえ、それは脂肪の塊以外にないと思われます」
「でも母さん。良かったね。母さんの心臓の近くにあったのが、ただの脂肪の塊で」
「ねえ本当に、ただの脂肪の塊なの?」
「うん。本当にただの脂肪の塊。だからもう何も心配はいらないよ」
「嘘じゃないのね?悪いものじゃなかったのね?」
「うん。大丈夫。嘘じゃない。本当だよ。母さんの胸にあったのは、ただの脂肪の塊だ。ね、父さん?」
「あ、ああ…」
司は息子の駿と一緒に麻酔から目覚めた彼女に会ったが、医者は、じきに普通の生活に戻れると言った。
「でも笑っちゃうよね。僕はてっきり良くない物だと思っていたけど、出てきたのはタラの白子みたいな脂肪の塊だってさ。母さん白子好きでよく買って来るけど、もしかして食べ好きた?」
駿は鱈(タラ)の白子は北海道では寒くなるとスーパーで当たり前のように販売されていて、真鱈(マダラ)の白子は高いがスケソウダラの白子は安く買えると言った。
そして母親が鍋にもだが味噌汁にも白子を入れることから食べ好きだと言って笑ったが、司は息子の言葉に笑うことは出来なかった。
すると駿は「やだな。父さんそんな顏して。ここは笑うところだよ」と言ったが、今の自分は一体どんな顏をしているのか。
「父さん?」
駿は何も言わない司に再び声をかけた。
だが司は返事をしなかった。
それは彼女が手術を受けている間、彼女が永遠に目が覚めない可能性を考えていたから。
彼女のことを忘れて過ごした人生を悔い己を責めていたから。それに彼女が居ない世の中なら生きていく意味はあるのかと考えていたから。
そして手術が無事終わったとしても、彼女が置かれるこの先のことを考えたとき、どうすれば彼女が幸せになれるか。いやどうすれば彼女を幸せにしてやれるか。そればかりを考えていた。
だから腫瘍がただの脂肪の塊だったからと言われても、息子が言ったように笑えなかった。
ほほ笑むことは出来なかった。
そんな司の口から出たのは「笑えねえ」
それは20年近い空白の時間を超えて再会した最愛の人にかける言葉ではないと分かっている。それでも再び司の口をついたのは「笑えるわけねえだろう……」
「道明寺…..」
「父さん…..」
母親と息子は呼び方は違っても声を揃えて司を呼んだ。
しかし司は黙って母親の方を見ていた。
すると母親は息子に言った。
「ねえ駿。悪いんだけど、売店で買ってきて欲しいものがあるの」
「母さん。何か食べたいものがあるの?」
「うんうん。違う。食べ物じゃないの。ええっと…….雑誌.....ガーデニングの雑誌を買ってきて欲しいの」
「ガーデニング?」
「そう。ほら。ポインセチアの育て方とかが載ってたガーデニングの雑誌よ。悪いんだけどあの雑誌を買ってきてくれない?」

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彼女が息子に雑誌を買いに行かせたのは、司とふたりきりの時間を作るためだと分かっている。
そして息子もそれを承知した様子なのは、「分かった。もしその雑誌が売店になかったら外の本屋に行ってくる。だからすぐには戻れないと思う」と言ってから司に目配せしたから。
だから司は病室のドアが閉まると言った。
「あいつ。俺がどれだけ心配したか分かって__」
「ごめんなさい。駿の態度は許してやって」
司の言葉を遮るように発せられた言葉は丁寧だ。
「あの子はただ場を和ませようとしただけ。だからあんなこと言ったの」
彼女はそう言ったが司は死に至る病だと思っていた。
だから軽い冗談だとしても息子が返した言葉に笑うことが出来なかった。
笑い返せない冗談だと思った。だが司には負い目がある。それは彼女のことを忘れたこと。
息子の存在を知らなかったこと。そのことがあるから司はそれ以上強く言えなかった。
それに突然現れた司が母と子が生きてきた世界を壊すことは出来ない。
ふたりにはふたりだけで生きてきた人生の歴史がある。大切に育ててきた暮らしというものがある。それを尊重しなければならないことは司にも分かっている。
だがきっと母と子は、いや母親になった彼女はもともと甘えたり甘えられたりすることが苦手。だから生きるのに一生懸命で息もつがずに走り続けたはずだ。脇目もふらず息子の母としての人生を生きてきたはずだ。だがこれからは母親としての人生だけを送らせるつもりはない。それは、これからは司が彼女にもだが息子にも係わっていくつもりでいるからだ。
その証拠に、気ままなひとり暮らしは記憶を取り戻した瞬間に止めた。深夜、寝るだけのために戻っていた邸は、これから彼女と息子の家になる。そして司は、そのことを彼女に伝えるつもりだ。それはこれから先の生涯を共に過ごして欲しいということを。
だが彼女はイエスと言ってくれるだろうか。だがもし言ってくれないのなら何度でも繰り返すだけだ。
そしてベッドの上の彼女は司を見つめているが、言葉を探しているのか。
それとも司が口を開くのを待っているのか。黙ったままだ。
だから司は言った。
「牧野。お前は俺がお前のことを忘れたことを怒っても怨んでもないと言ったが、それなら俺と一緒になってくれ。俺はお前のことを思い出した瞬間からお前を愛している。だから俺をお前の夫にしてくれ。俺を駿の父親にしてくれ。お前と駿に俺の苗字を名乗って欲しい。本当ならもっと昔に俺の人生はお前と共にあった。だが過去を振り返ったところで取り戻すことは出来ない。だからこれからのお前の一生を俺にくれ。俺が責任を持ってお前の一生を幸せにする。駿も….駿はもう大人だが駿には、これまで寂しい思いや不憫な思いを沢山させたはずだ。だからあの子のこれからの人生にも係わることを許して欲しい」
彼女は答えなかった。
だから司は彼女が口を開くのを待った。
すると暫くして、「あの子が、駿がアンタと係わることを望むなら、あたしは反対しない。反対できない。自分の父親とどう接するかは、あの子が自分で判断ですることだから。それに子供は親の持ち物じゃないもの」と言った。
そして少し置いて言葉を継いだ。
「でもアンタはいきなり来年二十歳になる子供の親になるけど、本当にそれでもいいの?」
司には迷いも躊躇いもない。
高校生だった頃に命を授けた息子の存在が恥ずかしいなどこれっぽっちも思いもしない。
「いいに決まってる。それにお前は手術を受ける前に言ったよな?もし自分に何かあった時は駿のことを頼むと。それに勝手なことを言っていると分かってはいるが言わせて欲しい。俺は幸せになりたい。そして俺の幸せはお前と駿が俺の傍にいることだ。だから周りが何を言おうと関係ない。誰にも俺たちのことに口を挟ませない。それに誰にも俺たちのことを邪魔する権利はない」
自分の人生をとやかく言われる年齢はとっくに過ぎた。
それに、彼女のことを思い出したことで二度目の人生が訪れたと思っている。
そして、これまで苦労をかけた彼女を幸せにしたい。
「俺は家族三人の生活を送りたい。ああ、分かってる。駿がこの街の大学に通ってることは。だから厳密にいえば三人が東京で一緒に暮らすことが無理だと分かっている。それでも俺たち三人は家族になるべきだ。だから牧野。俺と結婚してくれ」

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そして息子もそれを承知した様子なのは、「分かった。もしその雑誌が売店になかったら外の本屋に行ってくる。だからすぐには戻れないと思う」と言ってから司に目配せしたから。
だから司は病室のドアが閉まると言った。
「あいつ。俺がどれだけ心配したか分かって__」
「ごめんなさい。駿の態度は許してやって」
司の言葉を遮るように発せられた言葉は丁寧だ。
「あの子はただ場を和ませようとしただけ。だからあんなこと言ったの」
彼女はそう言ったが司は死に至る病だと思っていた。
だから軽い冗談だとしても息子が返した言葉に笑うことが出来なかった。
笑い返せない冗談だと思った。だが司には負い目がある。それは彼女のことを忘れたこと。
息子の存在を知らなかったこと。そのことがあるから司はそれ以上強く言えなかった。
それに突然現れた司が母と子が生きてきた世界を壊すことは出来ない。
ふたりにはふたりだけで生きてきた人生の歴史がある。大切に育ててきた暮らしというものがある。それを尊重しなければならないことは司にも分かっている。
だがきっと母と子は、いや母親になった彼女はもともと甘えたり甘えられたりすることが苦手。だから生きるのに一生懸命で息もつがずに走り続けたはずだ。脇目もふらず息子の母としての人生を生きてきたはずだ。だがこれからは母親としての人生だけを送らせるつもりはない。それは、これからは司が彼女にもだが息子にも係わっていくつもりでいるからだ。
その証拠に、気ままなひとり暮らしは記憶を取り戻した瞬間に止めた。深夜、寝るだけのために戻っていた邸は、これから彼女と息子の家になる。そして司は、そのことを彼女に伝えるつもりだ。それはこれから先の生涯を共に過ごして欲しいということを。
だが彼女はイエスと言ってくれるだろうか。だがもし言ってくれないのなら何度でも繰り返すだけだ。
そしてベッドの上の彼女は司を見つめているが、言葉を探しているのか。
それとも司が口を開くのを待っているのか。黙ったままだ。
だから司は言った。
「牧野。お前は俺がお前のことを忘れたことを怒っても怨んでもないと言ったが、それなら俺と一緒になってくれ。俺はお前のことを思い出した瞬間からお前を愛している。だから俺をお前の夫にしてくれ。俺を駿の父親にしてくれ。お前と駿に俺の苗字を名乗って欲しい。本当ならもっと昔に俺の人生はお前と共にあった。だが過去を振り返ったところで取り戻すことは出来ない。だからこれからのお前の一生を俺にくれ。俺が責任を持ってお前の一生を幸せにする。駿も….駿はもう大人だが駿には、これまで寂しい思いや不憫な思いを沢山させたはずだ。だからあの子のこれからの人生にも係わることを許して欲しい」
彼女は答えなかった。
だから司は彼女が口を開くのを待った。
すると暫くして、「あの子が、駿がアンタと係わることを望むなら、あたしは反対しない。反対できない。自分の父親とどう接するかは、あの子が自分で判断ですることだから。それに子供は親の持ち物じゃないもの」と言った。
そして少し置いて言葉を継いだ。
「でもアンタはいきなり来年二十歳になる子供の親になるけど、本当にそれでもいいの?」
司には迷いも躊躇いもない。
高校生だった頃に命を授けた息子の存在が恥ずかしいなどこれっぽっちも思いもしない。
「いいに決まってる。それにお前は手術を受ける前に言ったよな?もし自分に何かあった時は駿のことを頼むと。それに勝手なことを言っていると分かってはいるが言わせて欲しい。俺は幸せになりたい。そして俺の幸せはお前と駿が俺の傍にいることだ。だから周りが何を言おうと関係ない。誰にも俺たちのことに口を挟ませない。それに誰にも俺たちのことを邪魔する権利はない」
自分の人生をとやかく言われる年齢はとっくに過ぎた。
それに、彼女のことを思い出したことで二度目の人生が訪れたと思っている。
そして、これまで苦労をかけた彼女を幸せにしたい。
「俺は家族三人の生活を送りたい。ああ、分かってる。駿がこの街の大学に通ってることは。だから厳密にいえば三人が東京で一緒に暮らすことが無理だと分かっている。それでも俺たち三人は家族になるべきだ。だから牧野。俺と結婚してくれ」

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人の幸福は惚れた相手と一緒になること。
だから司は本来なら20年前に彼女に告げるはずだった言葉を言った。
そしてそれは思いの全てを込めた言葉。
だが彼女は黙って首を横に振った。
「アンタとは結婚できない」
司は彼女の言葉にハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
それは二人の息子である駿は椿から司が彼女のことを忘れても、彼女は司のことがずっと好きだったと訊いていたから。だから司もその言葉を信じていただけに、彼女に受け入れられないことがショックだった。
それに彼女は息子に父親が誰であるか告げることはなかったが、それでも小学生の我が子に笑いながら父親は宇宙人だと話した件は司を悪いように言っていないと思えた。
だがそれは司の思い違いであって本当は違うのか。
それに本人の言葉として司のことを怒ってもいなければ、怨んでもないという言葉があったが、その時の態度も司を否定していないように思えた。だがそれは司の勘違いなのか。
だが思い違いだろうが、勘違いだろうが、そんなことは関係なかった。
司は牧野つくしと結婚したい。
だから何故自分と結婚できないのか。その理由を訊いた。
「何故だ?」
「何故?」
「そうだ。何故俺と結婚できない?お前は俺のことを怒ってもいなければ怨んでもいないと言った。つまりそれは俺のことが嫌いじゃないということだ。だから俺と結婚できない理由を教えてくれ」
司のその言葉に彼女は、あの頃と変わらない大きな黒い瞳で見つめながら言った。
「理由?」
「ああ。理由だ。俺と結婚できない理由だ」
司はオウム返しする彼女に思った。
結婚できない理由は昔母親が言ったように家柄が違うといったところだろう。
だが、司にしてみれば、そういったことは取るに足らないこと。
それに婚外子がいても保身を図るつもりはない。
本当なら結婚していたはずの男女が、離れ離れになったのには理由があるのだから。
だから、たとえ銃口を突き付けられても彼女を諦めるつもりはない。
しかし次に彼女の口から出たのは予想とは全く違う言葉であり、ハンマーで頭を殴られた以上の衝撃を受け目の前が暗くなるのを感じた。
「理由は好きな人がいるからよ」
「……….好きな…….?」
「そうよ。好きな人がいるの」
司はこれまで自分を拒否する人間に会ったことがなかった。
だから高校生の頃、交際を申し込んだ彼女に拒否されたのが初めて。
そしてたった今、彼女の口から出た言葉は人生で二度目の拒否。
それも司よりも好きな人がいるから結婚できないというが、まさか相手は_____類。
もしかして類が彼女の孤独を癒していたのか。
「違うわ。類じゃない」
彼女は司の言わんとするその先を正確に予測した。
そして「それに類とは、もう何年も会ったことがないもの」と言って首を振った。
「それなら_」
「ねえ。あたしが誰を好きでもアンタには関係ないでしょ」
司の言葉を遮った彼女はきっぱりと言った。
だが司は即座に彼女の言葉を否定した。
「いや。関係ある。それも大いに関係がある。お前はその男のことが好きだとう言うが、その男はお前のことを愛しているのか?経済力はあるのか?年はいくつだ?駿はその男のことを知っているのか?」
司は知りたいことを選りすぐって訊くことは出来なかった。
だから頭に浮かんだ事をそのまま口にしていたが、言いながら胸は潰れてしまうほど痛かった。そして彼女が言う好きな男に対し嫉妬の気持がこみ上げた。
だが彼女はそんな気持を抱えた司を見てクスッと笑った。
「嘘よ。好きな人なんていないわ」
「嘘?」
「ええ。嘘よ」
それなら何故、彼女は好きな人がいるなどと言ったのか。
だがそれが自分を忘れてしまった男に精神的な苦しみを与えるためだとすれば、それは見事なまでのダメージ。じわじわと効くボディーブローではなく、即効性のあるパンチだ。
だがそれはさておき、好きな男はいないと言うなら司には彼女と結婚できる望みがある。
だから、どんなに断られても引き下がるつもりはない。
「それなら俺と結婚してくれ。俺をお前の夫にしてくれ」
司は再び言った。
すると彼女は瞼を閉じた。
そして考えるふうをしているが、被った瞼の内側にあるのは、かつての司の姿か。それとも今の姿か。やがて閉じられていた瞼が開かれると、かしこまっている司に言った。
「いいわ。結婚するわ。アンタをあたしの夫にしてあげる」

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だから司は本来なら20年前に彼女に告げるはずだった言葉を言った。
そしてそれは思いの全てを込めた言葉。
だが彼女は黙って首を横に振った。
「アンタとは結婚できない」
司は彼女の言葉にハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
それは二人の息子である駿は椿から司が彼女のことを忘れても、彼女は司のことがずっと好きだったと訊いていたから。だから司もその言葉を信じていただけに、彼女に受け入れられないことがショックだった。
それに彼女は息子に父親が誰であるか告げることはなかったが、それでも小学生の我が子に笑いながら父親は宇宙人だと話した件は司を悪いように言っていないと思えた。
だがそれは司の思い違いであって本当は違うのか。
それに本人の言葉として司のことを怒ってもいなければ、怨んでもないという言葉があったが、その時の態度も司を否定していないように思えた。だがそれは司の勘違いなのか。
だが思い違いだろうが、勘違いだろうが、そんなことは関係なかった。
司は牧野つくしと結婚したい。
だから何故自分と結婚できないのか。その理由を訊いた。
「何故だ?」
「何故?」
「そうだ。何故俺と結婚できない?お前は俺のことを怒ってもいなければ怨んでもいないと言った。つまりそれは俺のことが嫌いじゃないということだ。だから俺と結婚できない理由を教えてくれ」
司のその言葉に彼女は、あの頃と変わらない大きな黒い瞳で見つめながら言った。
「理由?」
「ああ。理由だ。俺と結婚できない理由だ」
司はオウム返しする彼女に思った。
結婚できない理由は昔母親が言ったように家柄が違うといったところだろう。
だが、司にしてみれば、そういったことは取るに足らないこと。
それに婚外子がいても保身を図るつもりはない。
本当なら結婚していたはずの男女が、離れ離れになったのには理由があるのだから。
だから、たとえ銃口を突き付けられても彼女を諦めるつもりはない。
しかし次に彼女の口から出たのは予想とは全く違う言葉であり、ハンマーで頭を殴られた以上の衝撃を受け目の前が暗くなるのを感じた。
「理由は好きな人がいるからよ」
「……….好きな…….?」
「そうよ。好きな人がいるの」
司はこれまで自分を拒否する人間に会ったことがなかった。
だから高校生の頃、交際を申し込んだ彼女に拒否されたのが初めて。
そしてたった今、彼女の口から出た言葉は人生で二度目の拒否。
それも司よりも好きな人がいるから結婚できないというが、まさか相手は_____類。
もしかして類が彼女の孤独を癒していたのか。
「違うわ。類じゃない」
彼女は司の言わんとするその先を正確に予測した。
そして「それに類とは、もう何年も会ったことがないもの」と言って首を振った。
「それなら_」
「ねえ。あたしが誰を好きでもアンタには関係ないでしょ」
司の言葉を遮った彼女はきっぱりと言った。
だが司は即座に彼女の言葉を否定した。
「いや。関係ある。それも大いに関係がある。お前はその男のことが好きだとう言うが、その男はお前のことを愛しているのか?経済力はあるのか?年はいくつだ?駿はその男のことを知っているのか?」
司は知りたいことを選りすぐって訊くことは出来なかった。
だから頭に浮かんだ事をそのまま口にしていたが、言いながら胸は潰れてしまうほど痛かった。そして彼女が言う好きな男に対し嫉妬の気持がこみ上げた。
だが彼女はそんな気持を抱えた司を見てクスッと笑った。
「嘘よ。好きな人なんていないわ」
「嘘?」
「ええ。嘘よ」
それなら何故、彼女は好きな人がいるなどと言ったのか。
だがそれが自分を忘れてしまった男に精神的な苦しみを与えるためだとすれば、それは見事なまでのダメージ。じわじわと効くボディーブローではなく、即効性のあるパンチだ。
だがそれはさておき、好きな男はいないと言うなら司には彼女と結婚できる望みがある。
だから、どんなに断られても引き下がるつもりはない。
「それなら俺と結婚してくれ。俺をお前の夫にしてくれ」
司は再び言った。
すると彼女は瞼を閉じた。
そして考えるふうをしているが、被った瞼の内側にあるのは、かつての司の姿か。それとも今の姿か。やがて閉じられていた瞼が開かれると、かしこまっている司に言った。
「いいわ。結婚するわ。アンタをあたしの夫にしてあげる」

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