「その通りだ。俺はアメリカ女と結婚してからも牧野つくしが好きだった。それに俺は好きであの女と結婚したんじゃない。それなのにお前は俺とのことを腐れ縁だと言って切り捨てた。だから俺は好きな女に捨てられた哀れな男だ」
私は話に割って入った声がした方を見た。
するとそこには背の高い男が立っていた。
しかし、声の主である男の顏は逆光中の黒い影になっていてよく分からなかった。
だが男が店の中に入って近づいてくると、その容貌がはっきりした。
背の高い男は、日本人離れしたハッキリとした顔立ちで癖のある髪をしていた。
その顏に浮かんでいるのは厳しさで、ほかの表情を想像することは出来なかった。
つまりそれは、笑顔を想像するのが難しい顏をしているということ。
そして、ひと目見て分かる仕立てのいいスーツを着ていた。
「それに誰が三足千円の靴下を履かない男だって?いいか。俺が今日履いている靴下はこの店で売られている三足千円の靴下だ。それに俺がどれだけこの店の売り上げに貢献しているか、お前も分ってるはずだ。何しろうちにはここで買った靴下が山のようにある。だから俺は毎日この店で買った三足千円の靴下を履いている。だが毎日履いたとしても、俺の人生が終わった後には履かれなかった靴下が大量に残っているはずだ」
私は男性のその言葉に女性がスッと目を細めたのを見た。
そして女性は臨戦態勢に入ったように立ち上った。
「何よ?アンタまた来たの?こんな田舎まで来る時間があるなら仕事したら?それともよっぽど暇なのかしらね?」
「暇だろうが暇じゃなかろうがお前に関係ない。それにお前に言われなくても仕事はちゃんとしている」
「へえ。そう……ま、アンタが仕事をしようがしまいが私には関係ない。それに三足千円の靴下をバカにしないでくれる?うちの靴下は丈夫なの!長持ちするの!だからここに買い物に来てくれる主婦は喜んで買ってくれる靴下なの!誰もがアンタみたいにシルクの靴下を履けると思わないでよね!」
「ああ。はっきり言って俺はシルクの靴下の方が好きだ。それは履き心地がいいからだ。だが言っただろ?今の俺はこの店で買った靴下を履いてるってな」
「あ、そうですか。それはありがとうございます。でもね。アンタの癖はうちの靴下を履いたからって治らないわよ。そうよ。アンタは脱いだ靴下を洗濯籠に入れるんじゃなくてカタツムリみたいに丸まったままソファの下に隠すのよ!」
「おい、言っとくがあれは隠したんじゃない!」
「じゃあなんでいつもソファの下に靴下があったのよ?」
「そりゃあソファに座って靴下を脱ぐからだろうが」
「じゃあ脱いだらすぐに洗濯籠まで持って行けばいいでしょ?」
「リラックスしてたら忘れるんだ。それにソファの下に靴下があるのは、床を掃除するロボットが押し込んだんだ!」
「へぇ….ロボットが靴下をソファの下に押し込んだんですか。そうですか。そうですか」
「牧野……」
「何よ!」
「俺と結婚してくれ」
私は言い合いが始まった途端、男性が女性の昔の男、つまり遠距離恋愛の末に別れた元恋人であることを理解した。
そして、目の前で交わされている反論合戦に耳を傾けていた。
その反論合戦の内容は三足千円の靴下の話だが、どちらが有利な戦いをしているのかと言えば女性の方だ。
だが、その女性も男性が唐突に口にした「結婚してくれ」の言葉に口を閉ざすと下を向いた。

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私は話に割って入った声がした方を見た。
するとそこには背の高い男が立っていた。
しかし、声の主である男の顏は逆光中の黒い影になっていてよく分からなかった。
だが男が店の中に入って近づいてくると、その容貌がはっきりした。
背の高い男は、日本人離れしたハッキリとした顔立ちで癖のある髪をしていた。
その顏に浮かんでいるのは厳しさで、ほかの表情を想像することは出来なかった。
つまりそれは、笑顔を想像するのが難しい顏をしているということ。
そして、ひと目見て分かる仕立てのいいスーツを着ていた。
「それに誰が三足千円の靴下を履かない男だって?いいか。俺が今日履いている靴下はこの店で売られている三足千円の靴下だ。それに俺がどれだけこの店の売り上げに貢献しているか、お前も分ってるはずだ。何しろうちにはここで買った靴下が山のようにある。だから俺は毎日この店で買った三足千円の靴下を履いている。だが毎日履いたとしても、俺の人生が終わった後には履かれなかった靴下が大量に残っているはずだ」
私は男性のその言葉に女性がスッと目を細めたのを見た。
そして女性は臨戦態勢に入ったように立ち上った。
「何よ?アンタまた来たの?こんな田舎まで来る時間があるなら仕事したら?それともよっぽど暇なのかしらね?」
「暇だろうが暇じゃなかろうがお前に関係ない。それにお前に言われなくても仕事はちゃんとしている」
「へえ。そう……ま、アンタが仕事をしようがしまいが私には関係ない。それに三足千円の靴下をバカにしないでくれる?うちの靴下は丈夫なの!長持ちするの!だからここに買い物に来てくれる主婦は喜んで買ってくれる靴下なの!誰もがアンタみたいにシルクの靴下を履けると思わないでよね!」
「ああ。はっきり言って俺はシルクの靴下の方が好きだ。それは履き心地がいいからだ。だが言っただろ?今の俺はこの店で買った靴下を履いてるってな」
「あ、そうですか。それはありがとうございます。でもね。アンタの癖はうちの靴下を履いたからって治らないわよ。そうよ。アンタは脱いだ靴下を洗濯籠に入れるんじゃなくてカタツムリみたいに丸まったままソファの下に隠すのよ!」
「おい、言っとくがあれは隠したんじゃない!」
「じゃあなんでいつもソファの下に靴下があったのよ?」
「そりゃあソファに座って靴下を脱ぐからだろうが」
「じゃあ脱いだらすぐに洗濯籠まで持って行けばいいでしょ?」
「リラックスしてたら忘れるんだ。それにソファの下に靴下があるのは、床を掃除するロボットが押し込んだんだ!」
「へぇ….ロボットが靴下をソファの下に押し込んだんですか。そうですか。そうですか」
「牧野……」
「何よ!」
「俺と結婚してくれ」
私は言い合いが始まった途端、男性が女性の昔の男、つまり遠距離恋愛の末に別れた元恋人であることを理解した。
そして、目の前で交わされている反論合戦に耳を傾けていた。
その反論合戦の内容は三足千円の靴下の話だが、どちらが有利な戦いをしているのかと言えば女性の方だ。
だが、その女性も男性が唐突に口にした「結婚してくれ」の言葉に口を閉ざすと下を向いた。

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Comment:7
「….アンタは分かってない…….アンタは知らないのよ」
さっきまで威勢が良かった女性の声はトーンが落とされ呟くような声になっていた。
「何が分かってない?何を知らない?」
男性は下を向いた女性に言った。
「牧野。いいか?俺は好きでアメリカ女と結婚したんじゃない。
それに俺とあの女との結婚話が持ち上がったとき、あの女と結婚しろといったのはお前だ。そう言ったお前は俺と会うことを拒んだ。…….牧野。何で俺と別れると言った?10年経っても結婚できなかったからか?俺が待たせ過ぎたからか?いや。お前は結婚に拘る女じゃない。だから牧野。何故俺から逃げたか理由を教えてくれ」
その問いかけに女性は顏を上げた。
そして男性の顏を見つめ、「ねえ」と言ってから話し始めた。
「私がアンタと別れた理由は言ったでしょ?私たちの出会いは運命じゃなくてただの腐れ縁だったって。それによく言うでしょ?10代の頃の恋愛なんて麻疹みたいなものだって。つまり私たちが10年も付き合ったのは麻疹の治りが遅かったからよ。だからアンタにあの女性との結婚の話が出て丁度よかったのよ。
それにアンタは自分の家が世の中に与える影響を知ってるわよね?うんうん、私が言うまでもなくアンタは自分の会社が大変なことになれば大勢の従業員の生活が立ち行かなくなることを知っている。でもアンタがあの女性と結婚すれば会社は存続される。だからアンタは私と別れてあの女性と結婚した方が良かったの」
「何がいいものか。あんな派手なアメリカ女のどこが良いって言うんだ。
だがな。うちの会社が粉飾決算で帳簿が真っ赤だと知ったときは正直頭を抱えた。何しろあのとき莫大な額の特別損失が明るみになって株価が暴落して自力では立っていられないほどになった。だがな。俺はあの女と結婚しなくても自分の力で会社を立て直す自信があった。
けど、お前が俺から離れたとき、母親はこれ幸いと、あの女の父親と結婚の話を進めた。
何しろあの女の父親は弱ったうちを買収しようとした。だから母親はうちの会社が買収されるくらいなら対等な関係でいられる姻戚関係を結ぶ方を選んだ。だが結局大した時間もかからず俺はあの女の父親から借りた金は利子も付けて全額返済した。うちの会社はあの女の父親の会社に呑み込まれることはなかった。逆に金を返すと同時に呑み込んでやった。今じゃあの女の父親の会社はうちの子会社のひとつに過ぎない。それにあの女も自分を抱かない亭主に興味はなかった。他に男を作っていた。だから別れるのは簡単だった」
女性は男性が裕福な家の息子だと言っていたが、どうやら男性の家が経営する会社は経営危機を迎えた頃があったようだ。だから男性の母親は会社を救うために息子に別の女性と結婚することを迫った。そして男性も一時とは言え母親の言葉に従わざるを得ない状況にあったのだろう。耐えるしかない時間があったのだろう。だが男性は苦境を脱する力を持っていたようだ。
「それからよく訊け。俺たちの出会いは運命以外の何ものでもない。
だから俺はその運命を断ち切ることは絶対にしない。お前がどこにいたとしても俺はお前を諦めないことに決めた。だから俺と結婚してくれ」
私は女性と一緒に男性の思いを聞いていた。だが、赤の他人の私がこのままここで非常にプライベートな話を訊いているのは如何なものかと思った。
だから静かに立ち上ると店の外に出ようとした。すると「いいの。ここに居てちょうだい」と女性から言われた。だが男性はどうなのか。だから私は男性を見た。すると「こいつがいいと言うなら構わない」と言われた。
とは言え私の方が困る。何しろふたりの間に流れる空気は、いや、流れるというようにも漂う空気はピリピリとしているからだ。
「何度も言うけど私はアンタと結婚しない」
「だから何でだ?」
「何でって理由はこれまでも言った通り。私とアンタは結ばれる運命にないからよ」
「違う。お前はアンタは分かってない。アンタは知らないって言った。それがお前の得意なひとり言だったとしても俺は確かに訊いた。なあ、牧野。俺が知らない何かがあるなら教えてくれ。どうして俺と結婚できないか教えてくれ」

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さっきまで威勢が良かった女性の声はトーンが落とされ呟くような声になっていた。
「何が分かってない?何を知らない?」
男性は下を向いた女性に言った。
「牧野。いいか?俺は好きでアメリカ女と結婚したんじゃない。
それに俺とあの女との結婚話が持ち上がったとき、あの女と結婚しろといったのはお前だ。そう言ったお前は俺と会うことを拒んだ。…….牧野。何で俺と別れると言った?10年経っても結婚できなかったからか?俺が待たせ過ぎたからか?いや。お前は結婚に拘る女じゃない。だから牧野。何故俺から逃げたか理由を教えてくれ」
その問いかけに女性は顏を上げた。
そして男性の顏を見つめ、「ねえ」と言ってから話し始めた。
「私がアンタと別れた理由は言ったでしょ?私たちの出会いは運命じゃなくてただの腐れ縁だったって。それによく言うでしょ?10代の頃の恋愛なんて麻疹みたいなものだって。つまり私たちが10年も付き合ったのは麻疹の治りが遅かったからよ。だからアンタにあの女性との結婚の話が出て丁度よかったのよ。
それにアンタは自分の家が世の中に与える影響を知ってるわよね?うんうん、私が言うまでもなくアンタは自分の会社が大変なことになれば大勢の従業員の生活が立ち行かなくなることを知っている。でもアンタがあの女性と結婚すれば会社は存続される。だからアンタは私と別れてあの女性と結婚した方が良かったの」
「何がいいものか。あんな派手なアメリカ女のどこが良いって言うんだ。
だがな。うちの会社が粉飾決算で帳簿が真っ赤だと知ったときは正直頭を抱えた。何しろあのとき莫大な額の特別損失が明るみになって株価が暴落して自力では立っていられないほどになった。だがな。俺はあの女と結婚しなくても自分の力で会社を立て直す自信があった。
けど、お前が俺から離れたとき、母親はこれ幸いと、あの女の父親と結婚の話を進めた。
何しろあの女の父親は弱ったうちを買収しようとした。だから母親はうちの会社が買収されるくらいなら対等な関係でいられる姻戚関係を結ぶ方を選んだ。だが結局大した時間もかからず俺はあの女の父親から借りた金は利子も付けて全額返済した。うちの会社はあの女の父親の会社に呑み込まれることはなかった。逆に金を返すと同時に呑み込んでやった。今じゃあの女の父親の会社はうちの子会社のひとつに過ぎない。それにあの女も自分を抱かない亭主に興味はなかった。他に男を作っていた。だから別れるのは簡単だった」
女性は男性が裕福な家の息子だと言っていたが、どうやら男性の家が経営する会社は経営危機を迎えた頃があったようだ。だから男性の母親は会社を救うために息子に別の女性と結婚することを迫った。そして男性も一時とは言え母親の言葉に従わざるを得ない状況にあったのだろう。耐えるしかない時間があったのだろう。だが男性は苦境を脱する力を持っていたようだ。
「それからよく訊け。俺たちの出会いは運命以外の何ものでもない。
だから俺はその運命を断ち切ることは絶対にしない。お前がどこにいたとしても俺はお前を諦めないことに決めた。だから俺と結婚してくれ」
私は女性と一緒に男性の思いを聞いていた。だが、赤の他人の私がこのままここで非常にプライベートな話を訊いているのは如何なものかと思った。
だから静かに立ち上ると店の外に出ようとした。すると「いいの。ここに居てちょうだい」と女性から言われた。だが男性はどうなのか。だから私は男性を見た。すると「こいつがいいと言うなら構わない」と言われた。
とは言え私の方が困る。何しろふたりの間に流れる空気は、いや、流れるというようにも漂う空気はピリピリとしているからだ。
「何度も言うけど私はアンタと結婚しない」
「だから何でだ?」
「何でって理由はこれまでも言った通り。私とアンタは結ばれる運命にないからよ」
「違う。お前はアンタは分かってない。アンタは知らないって言った。それがお前の得意なひとり言だったとしても俺は確かに訊いた。なあ、牧野。俺が知らない何かがあるなら教えてくれ。どうして俺と結婚できないか教えてくれ」

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Comment:2
「ここに居てちょうだい」と言われた私は腰掛けていた場所から少し離れた場所で立っていた。
そしてかつて恋人同士だったふたりは目を合わせ、男性は女性が口を開くのを待っていた。
「ある日、生理がこないことに気付いたの」
「お前…..もしかして…..」
「訊いて。違うから。アンタが考えているようなことじゃないから」と、女性は男性の言いかけた言葉を遮ると言った。
「アンタに会うため最後にニューヨークに行った後、ちゃんと生理は来た。だけどその後、3ヶ月たっても生理が来なかった。でも元々不順で前にもそんなことがあったし、またそうなんだろうって気にしてなかった。仕事が忙しくてホルモンのバランスが乱れてるだけだと思った。だけど流石に半年になると心配になって病院に行った。そこで検査を受けて言われたの」
女性はそこで言葉を切ってから、意を決した調子で、こう言った。
「結論から言うわね。私は妊娠しにくい身体だそうよ。ねえ。分かったでしょ?だから私はアンタと結婚できない。一緒に人生を歩むことは出来ないの」
私は、これまでの話の内容から、男性の母親が自分の家に相応しくないと彼女の事を認めないこともだが、男性の家が大きな会社を経営していることも知った。
そしてそういう家は後継者が必要とされるが、男性はその立場にある。
だから女性は、妊娠しにくい身体だと言われ男性との子供を持つことが出来ないと考えた。だからそんな女は男性に相応しくないと身を引くことを決めた。そしてちょうどその頃、アメリカ人女性との結婚話が持ち上がったが、それは会社の存続をかけた結婚。だから女性は男性を遠ざけた。別れた。
そして今も、妊娠しにくい女性は男性に相応しくない。ふたりが別々の道を行くことが男性のためになると言っていた。
だが男性は女性のそんな思いを断ち切るように言った。
「牧野。お前はバカだ」
そして怒った。
「一緒に人生を歩むことが出来ない?お前は俺のお前に対する思いを分かってない。何が俺にとって本当の幸せかお前には分かってない」
男性はそこまで言うと、一緒に人生を歩むことは出来ないと言った女性の本心を覗き込もうとするように彼女の目を見つめた。
「それに昔、言ったはずだ。地獄の底まで追いかけてやるってな。いいか?あのとき俺は人生の果てまでお前の傍にいると決めた。俺はお前に会って自分の生きる道を決めた。雨が降ろうが槍が降ろうが嵐が来ようが俺はお前を放さないと決めた。
だから俺たちの間に別れるって言葉は無かった。あの女と結婚していた時も心はいつもお前の元へ飛んでいた。俺は牧野つくしとの絆を握り続けていた。それにお前は俺と別れたつもりでいただろうが、お前は俺の中にいた。俺の身体には牧野つくしの影が染み付いていた。つまり俺の心も身体も牧野つくしのものだった。だからお前以外の女と結婚していたとしても、端から抱くつもりなんぞなかった。
そんなお前は俺が帰国すると東京を離れてこの町で暮らし始めた。だがな。俺は同じ国にいるなら、どんなに遠い場所で暮らしていても自分の思いを届け続けることを止めないと決めた。だから何度同じ返事を聞かされてもここに来ることを止めるつもりはなかった。
それからよく訊け。俺たちの間に子供が出来ようが出来まいが、周りが何を言おうが俺とお前の人生は家のものでも会社のものでもない。俺たちの人生は俺たちふたりのもので俺とお前の人生に損得勘定が入る余地はない」
私は、男性の真摯な言葉を聞きながら女性の顏を見ていたが、彼女の視線は男性の表情と言葉を反論することなく訊いていた。
だが男性は、「俺はお前が頑固な女だってことは十分理解している。だから俺がこうして話しても、ああだ、こうだと言って反論するんだろうよ」と言って女性が素直な性格ではないと言っていた。
だから私は女性が男性に対して口にする言葉を待っていた。
すると、彼女は、「…..傲慢なのよ」とポツリと言った。
そしてそこから先は靴下の話の時とは打って変わって静かな口調で語られた。
「アンタは昔からそうだけど傲慢なのよ。俺たちの人生はふたりのものだって言うけど、そうじゃないことはアンタが一番よく知ってるはずよ?いい?よく訊いて。さっきも言った通り私は妊娠しにくい身体なの。先生は直接的な言葉は使わなかったけど私は子供を産むことが出来ない。それはアンタにとって重要なことなの。だってアンタはあの家の後継者だもの。それに社会人として生活し始めてはっきり分かった。人には持ち場があって、その持ち場を守る必要があるってことをね。
それからアンタはそうじゃないって言うけど、アンタの人生はアンタだけのものじゃない。それはアンタも分ってる。大勢の人間の人生がアンタの肩にかかってるってことを。それに大勢の人間がアンタを頼りにしてる。だから自分の立場を投げ出しちゃダメなのよ……だから帰って。もう二度とここには来ないで。それに私はもうアンタのことは好きじゃない」
そう言うと、女性は男性に背中を向けたが、目元に光るものが見えたような気がした。
そんな女性に男性は語りかけた。
「牧野……大勢の人間の人生が俺の肩にかかってる。俺を頼りにしてるって言うが、それなら俺は誰を頼りにすればいい?俺だってひとりの人間だ。誰かに頼りたくなることもある。
それにどんな人間も誰かに支えられて生きていく。助けられ愛されて生きていく。俺がここまで生きてこれたのは、心の中にいつもお前の姿があったからだ。
それにガキの頃、俺の周りにいた人間は誰ひとりとして俺をひとりの人間として見ることはなかった。だがそんな中で出会ったお前は俺のことをただの男として見た。それ以来、俺の頭はお前のことしか考えられなくなった。そんなお前は俺の前から消えたことがあった。あの時は傷ついたのは俺だと思っていた。だがお前は誰よりも一番自分を傷つけて俺の前から消えた。そして今もそうだ。お前は傷ついている。俺にはそれが分かる。何しろ俺は昔お前に犬みたいだって言われた。だから犬並の嗅覚でお前の気持ちを感じとっているつもりだ。それに俺はお前との絆を握り続けている。だからお前の本心は違うはずだ。まだ俺のことが好きなはずだ」
その言葉に後に暫く沈黙が流れた。
そして振り向き口を開いた女性は言った。
「アンタが握り続けている私との絆って何よ?」
「知りたいか?」
「ええ」
「それなら今もここにある。俺の財布の中にはいつもそれが入ってる」
そう言って男性は上着の札入れから小さな紙を取り出した。
「覚えてるか?北海道に旅行したお前が俺にくれた愛国から幸福行きと書かれた切符だ」
男性の手のひらの上にあるのは紙の切符。
だがそれは本物の切符ではない。何故なら愛国も幸福も今は存在しない駅なのだから。
だからそれは土産物として売られている切符だ。
かつて北海道には帯広から十勝平野を南下して広尾へと至る広尾線という鉄道路線があった。
そしてその路線に愛国という名前の駅と幸福という名前の駅があり、駅名の縁起の良さから乗車券や入場券が有名になり日本中から注目されるようになった。と、同時に恋人たちの聖地として全国にその名が知られるようになった。
そして線路が廃線となった今も幸福という名の駅は、願いを叶えたいと多くの観光客が訪れる帯広観光には欠かせない場所となっていた。
「いいか?この切符にはこう書かれている。下車前途無効。つまり改札を出た後は目的地に着いていなくても切符は無効になるってな。俺は幸福になりたいから改札を出るつもりはない。それに出た覚えもなければ他の列車に乗り換えるつもりもない。だからこの切符は無効になってない。今も有効で俺はお前と幸せになりたいからこの切符を大切にしてきた。
それにこれは遠い場所にいる俺とお前を繋ぐ絆だ。だからたとえどんなに小さな紙切れだとしても、これは俺にとって命の次に大切なものだ」
私は最近紙の切符を手にしたばかりだから知っているが、その切符には下車前途無効以外に発売当日限り有効の文字もあるはずだ。だが男性はそれについては無視しているようだ。
そしてそんな男性の思考の中にあるのは、ただただひたすら女性を思う気持だ。
そして女性の方はと言えば、遠い昔に自分が送った小さな切符を大切にしていた男性に心を動かされたようで、男性の目をしっかりと見て言った。
「諦めの悪い男ね」
すると男性は、「諦めもなにも初めから諦めるつもりはなかった。何しろ俺たちは同じ人生を歩くって決まってる」と感慨を込めて答えた。
そして女性が、「それに切符が命の次に大切だなんて大袈裟ね」と言えば男性は、「大袈裟と言われるのは心外だ。この切符が命の次に大切ってのは嘘偽りのない俺の気持ちだから仕方がない。こう見えて俺は信心深い人間だ」と言って笑みを浮べた。

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そしてかつて恋人同士だったふたりは目を合わせ、男性は女性が口を開くのを待っていた。
「ある日、生理がこないことに気付いたの」
「お前…..もしかして…..」
「訊いて。違うから。アンタが考えているようなことじゃないから」と、女性は男性の言いかけた言葉を遮ると言った。
「アンタに会うため最後にニューヨークに行った後、ちゃんと生理は来た。だけどその後、3ヶ月たっても生理が来なかった。でも元々不順で前にもそんなことがあったし、またそうなんだろうって気にしてなかった。仕事が忙しくてホルモンのバランスが乱れてるだけだと思った。だけど流石に半年になると心配になって病院に行った。そこで検査を受けて言われたの」
女性はそこで言葉を切ってから、意を決した調子で、こう言った。
「結論から言うわね。私は妊娠しにくい身体だそうよ。ねえ。分かったでしょ?だから私はアンタと結婚できない。一緒に人生を歩むことは出来ないの」
私は、これまでの話の内容から、男性の母親が自分の家に相応しくないと彼女の事を認めないこともだが、男性の家が大きな会社を経営していることも知った。
そしてそういう家は後継者が必要とされるが、男性はその立場にある。
だから女性は、妊娠しにくい身体だと言われ男性との子供を持つことが出来ないと考えた。だからそんな女は男性に相応しくないと身を引くことを決めた。そしてちょうどその頃、アメリカ人女性との結婚話が持ち上がったが、それは会社の存続をかけた結婚。だから女性は男性を遠ざけた。別れた。
そして今も、妊娠しにくい女性は男性に相応しくない。ふたりが別々の道を行くことが男性のためになると言っていた。
だが男性は女性のそんな思いを断ち切るように言った。
「牧野。お前はバカだ」
そして怒った。
「一緒に人生を歩むことが出来ない?お前は俺のお前に対する思いを分かってない。何が俺にとって本当の幸せかお前には分かってない」
男性はそこまで言うと、一緒に人生を歩むことは出来ないと言った女性の本心を覗き込もうとするように彼女の目を見つめた。
「それに昔、言ったはずだ。地獄の底まで追いかけてやるってな。いいか?あのとき俺は人生の果てまでお前の傍にいると決めた。俺はお前に会って自分の生きる道を決めた。雨が降ろうが槍が降ろうが嵐が来ようが俺はお前を放さないと決めた。
だから俺たちの間に別れるって言葉は無かった。あの女と結婚していた時も心はいつもお前の元へ飛んでいた。俺は牧野つくしとの絆を握り続けていた。それにお前は俺と別れたつもりでいただろうが、お前は俺の中にいた。俺の身体には牧野つくしの影が染み付いていた。つまり俺の心も身体も牧野つくしのものだった。だからお前以外の女と結婚していたとしても、端から抱くつもりなんぞなかった。
そんなお前は俺が帰国すると東京を離れてこの町で暮らし始めた。だがな。俺は同じ国にいるなら、どんなに遠い場所で暮らしていても自分の思いを届け続けることを止めないと決めた。だから何度同じ返事を聞かされてもここに来ることを止めるつもりはなかった。
それからよく訊け。俺たちの間に子供が出来ようが出来まいが、周りが何を言おうが俺とお前の人生は家のものでも会社のものでもない。俺たちの人生は俺たちふたりのもので俺とお前の人生に損得勘定が入る余地はない」
私は、男性の真摯な言葉を聞きながら女性の顏を見ていたが、彼女の視線は男性の表情と言葉を反論することなく訊いていた。
だが男性は、「俺はお前が頑固な女だってことは十分理解している。だから俺がこうして話しても、ああだ、こうだと言って反論するんだろうよ」と言って女性が素直な性格ではないと言っていた。
だから私は女性が男性に対して口にする言葉を待っていた。
すると、彼女は、「…..傲慢なのよ」とポツリと言った。
そしてそこから先は靴下の話の時とは打って変わって静かな口調で語られた。
「アンタは昔からそうだけど傲慢なのよ。俺たちの人生はふたりのものだって言うけど、そうじゃないことはアンタが一番よく知ってるはずよ?いい?よく訊いて。さっきも言った通り私は妊娠しにくい身体なの。先生は直接的な言葉は使わなかったけど私は子供を産むことが出来ない。それはアンタにとって重要なことなの。だってアンタはあの家の後継者だもの。それに社会人として生活し始めてはっきり分かった。人には持ち場があって、その持ち場を守る必要があるってことをね。
それからアンタはそうじゃないって言うけど、アンタの人生はアンタだけのものじゃない。それはアンタも分ってる。大勢の人間の人生がアンタの肩にかかってるってことを。それに大勢の人間がアンタを頼りにしてる。だから自分の立場を投げ出しちゃダメなのよ……だから帰って。もう二度とここには来ないで。それに私はもうアンタのことは好きじゃない」
そう言うと、女性は男性に背中を向けたが、目元に光るものが見えたような気がした。
そんな女性に男性は語りかけた。
「牧野……大勢の人間の人生が俺の肩にかかってる。俺を頼りにしてるって言うが、それなら俺は誰を頼りにすればいい?俺だってひとりの人間だ。誰かに頼りたくなることもある。
それにどんな人間も誰かに支えられて生きていく。助けられ愛されて生きていく。俺がここまで生きてこれたのは、心の中にいつもお前の姿があったからだ。
それにガキの頃、俺の周りにいた人間は誰ひとりとして俺をひとりの人間として見ることはなかった。だがそんな中で出会ったお前は俺のことをただの男として見た。それ以来、俺の頭はお前のことしか考えられなくなった。そんなお前は俺の前から消えたことがあった。あの時は傷ついたのは俺だと思っていた。だがお前は誰よりも一番自分を傷つけて俺の前から消えた。そして今もそうだ。お前は傷ついている。俺にはそれが分かる。何しろ俺は昔お前に犬みたいだって言われた。だから犬並の嗅覚でお前の気持ちを感じとっているつもりだ。それに俺はお前との絆を握り続けている。だからお前の本心は違うはずだ。まだ俺のことが好きなはずだ」
その言葉に後に暫く沈黙が流れた。
そして振り向き口を開いた女性は言った。
「アンタが握り続けている私との絆って何よ?」
「知りたいか?」
「ええ」
「それなら今もここにある。俺の財布の中にはいつもそれが入ってる」
そう言って男性は上着の札入れから小さな紙を取り出した。
「覚えてるか?北海道に旅行したお前が俺にくれた愛国から幸福行きと書かれた切符だ」
男性の手のひらの上にあるのは紙の切符。
だがそれは本物の切符ではない。何故なら愛国も幸福も今は存在しない駅なのだから。
だからそれは土産物として売られている切符だ。
かつて北海道には帯広から十勝平野を南下して広尾へと至る広尾線という鉄道路線があった。
そしてその路線に愛国という名前の駅と幸福という名前の駅があり、駅名の縁起の良さから乗車券や入場券が有名になり日本中から注目されるようになった。と、同時に恋人たちの聖地として全国にその名が知られるようになった。
そして線路が廃線となった今も幸福という名の駅は、願いを叶えたいと多くの観光客が訪れる帯広観光には欠かせない場所となっていた。
「いいか?この切符にはこう書かれている。下車前途無効。つまり改札を出た後は目的地に着いていなくても切符は無効になるってな。俺は幸福になりたいから改札を出るつもりはない。それに出た覚えもなければ他の列車に乗り換えるつもりもない。だからこの切符は無効になってない。今も有効で俺はお前と幸せになりたいからこの切符を大切にしてきた。
それにこれは遠い場所にいる俺とお前を繋ぐ絆だ。だからたとえどんなに小さな紙切れだとしても、これは俺にとって命の次に大切なものだ」
私は最近紙の切符を手にしたばかりだから知っているが、その切符には下車前途無効以外に発売当日限り有効の文字もあるはずだ。だが男性はそれについては無視しているようだ。
そしてそんな男性の思考の中にあるのは、ただただひたすら女性を思う気持だ。
そして女性の方はと言えば、遠い昔に自分が送った小さな切符を大切にしていた男性に心を動かされたようで、男性の目をしっかりと見て言った。
「諦めの悪い男ね」
すると男性は、「諦めもなにも初めから諦めるつもりはなかった。何しろ俺たちは同じ人生を歩くって決まってる」と感慨を込めて答えた。
そして女性が、「それに切符が命の次に大切だなんて大袈裟ね」と言えば男性は、「大袈裟と言われるのは心外だ。この切符が命の次に大切ってのは嘘偽りのない俺の気持ちだから仕方がない。こう見えて俺は信心深い人間だ」と言って笑みを浮べた。

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私は他人の秘密を覗き見ているような気持になりながら、ふたりが見つめ合っている姿を見ていた。
男性が笑うと女性も笑うが、女性が嬉しいと男性も嬉しいようだ。
今ふたりは記憶の糸を引き寄せ、共に過ごした過去を思い出していた。
それにしても何故女性は私にここに居て欲しいと言ったのだろう。それに何故このふたりは私の前でこんな話をしたのだろう。いくら誰かに訊いて欲しかったとしても、赤の他人に自分達のプライバシーを赤裸々に語ることはいいとは言えないはずだ。
それに男性が会社を経営する立場にいるなら尚更のこと自分のプライバシーには気を遣うはずだが、ふたりは気にしていなかった。
「ねえ。あなたは恋人がいるの?」
「え?」
それは聞き役だった私に向けられた問い掛け。
まさかついさっきまでレポーターよろしく訊いていた自分が、今度は訊かれる立場になるとは思いもしなかった。
「あなたは古本の間に挟まれて使われなかった切符の行先が気になってここに来たと言ったわね?それに広告のデザインの仕事をしているあなたは気分転換が必要だったと言った。でも本当はそれだけじゃない。違う?」
私に向けられているのはふたりの人間の視線。
ひとりは私と同じ年頃の女性。
そしてもうひとりは彼女よりひとつ年上の男性。
そんなふたりの視線は優しく問い掛けていた。
そうだ。本当はそれだけではない。
まず私に恋人がいるかについてだが2ヶ月前にはいた。
相手は私が広告のデザインを手掛けている老舗醤油会社で広告を担当している同じ年齢の男。5年付き合った。
その男は私がデザインした広告が個性的過ぎるから色を抑えろと言った。
そしてその男はその会社の一人息子。会社は老舗という名に相応しく長い歴史を持つが、今では醤油だけではなく和風醸造調味料の販売に力を入れている一部上場の大手企業で、男はいずれ社長になると言われていた。
「恋人はいました。でも2ヶ月前に別れたんです」
「そう…..何が原因なの?」
「考え方が古いんです。分からず屋なんです」
「考え方が古い?分からず屋?」
「ええ。その人。私が仕事を続けることが嫌なんです。私、その人から結婚して欲しいって言われたんです。でも結婚したら仕事は辞めて欲しいって言ったんです。だけど私は仕事が好きなんです。だから辞めたくないんです。それに結婚したら奥さんは家庭に入れだなんて時代遅れ過ぎて言葉が出ませんでした」
私は男からマンションの部屋の鍵を渡されていた。だがその鍵は別れを決めた日に宅配便で送った。それにしても恋人があそこまで頭の古い男だとは思いもしなかったが、あの時のことを思い浮べると今でも頭に来る。
「そう……..結婚したら仕事を辞めて家庭に入って欲しいって言われたのね?でもあなたはそれが嫌だった」
「はい。だからその人と別れたんです」
「話し合いはしなかったの?」
「しませんでした。だって価値観が違い過ぎます。だから話し合いをしても解決できないと思ったんです」
「でも5年付き合った彼でしょ?何か理由があるから仕事を辞めて家庭に入って欲しいって言ったんじゃない?だから少し話し合えば?」
女性はそう言って話し合いをすることを提案した。
だが男性はそうは言わなかった。
「俺は別れて良かったと思う。好きな女に好きなことをさせない男は度量が狭い。そんな男とは別れた方が正解だ。なにしろ人生は長いようで短い。この先また別の誰かと出会う事を考えた方がいい。それに地球は自分のために回っていると考えるような男とは別れた方がいい」
その言葉に私は笑いそうになった。
それはこの男性こそ、地球は自分の周りを回っていると考えるタイプに見えるからだ。
だが、男性はそうではなかった。すぐ傍で訊いていた男性の好きな人を大切に思う気持は別れた恋人とは比べものにならない。
しかし女性は「そう?」と疑問を呈した。
だが男性は女性の言葉を否定した。
「ああ。そんな男は捨てて正解だ」
「あのねえ。アンタは捨てて正解だなんて簡単に言うけど妥協点を見つけることも必要だと思うけど?一歩でもいいから立ち止まって考えることも必要だと思うわ」
と、言ったところで女性は言葉を途切らせた。
そしてふたりとも私の顏をじっと見ると、女性が口を開いて、「ねえ。他人の足りないものはよく見えるけど、自分の足りないものは見えないって言うわ。それにあなたはまだその人のことを気にしているんじゃない?私にはそう思えるの」と言うと微笑んだが、次の瞬間、私の目の前は白くなった。
そして訊こえて来たのは女性の声だ。
「杏子!聞こえる?杏子?ねえ分かる?しっかりして!」
その声はやけに大きく頭に響いた。
「杏子!ねえお願い目を開けて」
だから私は目を開けた。
するとそこにいるのは母親で心配そうに私を見ていた。
「良かった!もう目が覚めないんじゃないかと思ったわ」
私は、ぼんやりとし頭で母親の顏を見ていた。
そんな私に母親は躊躇ないながら訊いた。
「ねえ。杏子。私が誰だか分かる?」
「分かるわよ。お母さんでしょ?」
「ああ、良かった。そんな顏してるから私のことを忘れたのかと思ったじゃない」
と母親は言ったが私は今のこの状況が呑み込めずにいた。
だが、白い壁に囲まれたここが病院であることに気付いた。
しかし何故自分がここにいるのか分からなかった。
だから、「お母さん、私?」と不思議そうに訊いた。
すると母親はそんな私に状況を説明した。
「直哉さんから連絡があったの。あなたが階段から落ちて意識を失って目を覚まさないって。だからお母さんもお父さんもすぐに帰国したのよ。私たちは今朝アメリカから着いたばかりなの。あ、お父さんは今先生の話を訊きに行ってるわ。
それから私たちが帰ってくるまであなたの傍にいたのは直哉さんよ。会社を休んでずっと傍に居て下さったの。ついさっき会社から呼び出されて会社に行ったけど、あなたたち喧嘩をしたそうね?直哉さん、そのせいであなたが階段を踏み外したと思っているのよ?だから自分のせいだって自分を責めていたわ。それにしても、どんな喧嘩をしたのか知らないけれどあなたはパパに似て…..つまりあなたはおじい様に似て頑固で一度言い出したら訊かない子だから、直哉さんの言葉を突っぱねたんでしょ?いい杏子?ちゃんと話をして仲直りしなさい。分かった?ねえ、杏子?訊いてるの?」
母は今だに自分の両親のことをパパとママと呼ぶ。
そして直哉とは杏子の恋人だ。
いや。喧嘩をして杏子の方から別れると言った恋人だ。
その喧嘩をした場所は会社の非常階段の踊り場。
そして頭に血が上った私は階段を降りていて足を滑らせた。
だから、私は旅になど出ていない。
どこかの駅前商店街の下着屋でお茶を飲んではいない。
自分と同じ年頃の女性と会ってもいない。そして彼女の恋愛話とそこに現れた男性のやりとりも見ていない。
つまり私は、これまで夢を見ていたことになる。
だがそれを夢で片付けるにはリアルな気がした。
「ねえ。お母さん。私の鞄ある?」
「え?あなたの鞄?あるわよ。ここに」
そう言った母親は近くの椅子の上に置かれている鞄を見やった。
「お母さん。鞄の中に本があるの。カバーがかけられた単行本。その本を取ってくれない?」
「いいわよ?でもまさか今読むつもりじゃないわよね?」
「違うの。ちょっと気になることがあって」
私は母親から単行本を手渡された。
それは古本屋で買ったあの本だ。そしてその中に買った時と同じように挟んである切符を見た。
すると母親は言った。
「あら。懐かしい地名ね?この場所。パパとママ….杏子のおじい様とおばあ様がよく旅行で行っていた場所なのよ?」
「おじい様とおばあ様が?」
「そうよ。パパとママは紆余曲折の末に結ばれたんだけど、ママ。昔そこに住んでたことがあるの。だから時々思い出したようにふたりでその場所に行ってたわ。でもパパもママもあなたが小さい頃に亡くなったから、あなた自身ふたりの記憶が殆どないから話したことがなかったの。あなたのおじい様とおばあ様は若い頃ジェットコースターのような恋をしたの。でも私も直接聞いたわけじゃないの。だけど、お兄ちゃんはパパの友達から散々聞かされたそうよ。お前の父親はストーカーだった。ママに相手にされなくても諦めなかったってね?一歩間違えば犯罪者だって言ってたそうよ」
私の母親は祖母と祖父の三番目の子供。
祖母は33歳で長男。35歳で次男。そして38歳で母を産んだ。
そして母親は29歳で二番目の子供の私を生んだ。だから私が生まれたとき祖母は67歳で祖父は68歳。
そして祖父は72歳で亡くなった。だから当時4歳の私に祖父の記憶は殆どなく、祖父は写真でしか顏を知らない人。そして祖母が亡くなったのは75歳で私が6歳の時だが、そんな私が覚えている祖母は、「杏子はお祖父ちゃんに似てるわね」とよく言っていたこと。
そして庭の片隅で育てた野菜を持って帰りなさいと母に持たせていたことだ。
そんな母の実家は世田谷の大豪邸。父親は道明寺ホールディングスの社長と会長を務めた人で若い頃から非常に女性にモテたと言う話だが、私は仏壇の傍に飾られている写真の祖父を思い出した。するとその顏は夢に出て来た男性に似ていた。そして夢に出てきた女性の名前が牧野つくしだったことを思い出した。
「ねえ。お母さん。おばあ様の名前って、つくしだったけど名字は?」
夢の中ではその名前を変わった名前だとは思わなかったが、それは祖母と同じような名前の人もいるのだ程度だったからかもしれない。
「ママの旧姓?」
「そう。おばあ様の旧姓って?」
「牧野。牧野よ。ママの旧姓は牧野よ」
そんなことがありえるだろうか。
だが世の中には不思議なことがあるという。
だから私の手の中にある使われなかった切符は、祖父と祖母が人生の通過点を間違えるな。
祖母にも私と同じような時代があった。つまり一緒に人生を歩む人との色々はどの時代にもある。だから一歩立ち止まって考えろ。自分の行く道を間違えるなと末っ子の母が産んだ一番末の孫である私に自分達の若い頃の姿を見せようと用意したのかもしれない。
それにしても、三人の子供がいる祖母がかつて妊娠しにくいと言われていたのは驚きだ。
それにあのふたりが若い頃に床を掃除するロボットはいなかったはずだが、そこは夢だからのご愛嬌なのかもしれない。
そして、祖母の言う通りで他人の足りないものはよく見えるが、自分の足りないものは見えないものだ。
だから、私は鞄の中から携帯電話を取り出し恋人ともう一度ちゃんと話をすることにした。
「もしもし直哉?今いい?__うん。意識が戻ったの。___うん。大丈夫。心配かけてゴメン。___え?うん。それから話し。ちゃんとしたいの」
< 完 > *Transit*

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男性が笑うと女性も笑うが、女性が嬉しいと男性も嬉しいようだ。
今ふたりは記憶の糸を引き寄せ、共に過ごした過去を思い出していた。
それにしても何故女性は私にここに居て欲しいと言ったのだろう。それに何故このふたりは私の前でこんな話をしたのだろう。いくら誰かに訊いて欲しかったとしても、赤の他人に自分達のプライバシーを赤裸々に語ることはいいとは言えないはずだ。
それに男性が会社を経営する立場にいるなら尚更のこと自分のプライバシーには気を遣うはずだが、ふたりは気にしていなかった。
「ねえ。あなたは恋人がいるの?」
「え?」
それは聞き役だった私に向けられた問い掛け。
まさかついさっきまでレポーターよろしく訊いていた自分が、今度は訊かれる立場になるとは思いもしなかった。
「あなたは古本の間に挟まれて使われなかった切符の行先が気になってここに来たと言ったわね?それに広告のデザインの仕事をしているあなたは気分転換が必要だったと言った。でも本当はそれだけじゃない。違う?」
私に向けられているのはふたりの人間の視線。
ひとりは私と同じ年頃の女性。
そしてもうひとりは彼女よりひとつ年上の男性。
そんなふたりの視線は優しく問い掛けていた。
そうだ。本当はそれだけではない。
まず私に恋人がいるかについてだが2ヶ月前にはいた。
相手は私が広告のデザインを手掛けている老舗醤油会社で広告を担当している同じ年齢の男。5年付き合った。
その男は私がデザインした広告が個性的過ぎるから色を抑えろと言った。
そしてその男はその会社の一人息子。会社は老舗という名に相応しく長い歴史を持つが、今では醤油だけではなく和風醸造調味料の販売に力を入れている一部上場の大手企業で、男はいずれ社長になると言われていた。
「恋人はいました。でも2ヶ月前に別れたんです」
「そう…..何が原因なの?」
「考え方が古いんです。分からず屋なんです」
「考え方が古い?分からず屋?」
「ええ。その人。私が仕事を続けることが嫌なんです。私、その人から結婚して欲しいって言われたんです。でも結婚したら仕事は辞めて欲しいって言ったんです。だけど私は仕事が好きなんです。だから辞めたくないんです。それに結婚したら奥さんは家庭に入れだなんて時代遅れ過ぎて言葉が出ませんでした」
私は男からマンションの部屋の鍵を渡されていた。だがその鍵は別れを決めた日に宅配便で送った。それにしても恋人があそこまで頭の古い男だとは思いもしなかったが、あの時のことを思い浮べると今でも頭に来る。
「そう……..結婚したら仕事を辞めて家庭に入って欲しいって言われたのね?でもあなたはそれが嫌だった」
「はい。だからその人と別れたんです」
「話し合いはしなかったの?」
「しませんでした。だって価値観が違い過ぎます。だから話し合いをしても解決できないと思ったんです」
「でも5年付き合った彼でしょ?何か理由があるから仕事を辞めて家庭に入って欲しいって言ったんじゃない?だから少し話し合えば?」
女性はそう言って話し合いをすることを提案した。
だが男性はそうは言わなかった。
「俺は別れて良かったと思う。好きな女に好きなことをさせない男は度量が狭い。そんな男とは別れた方が正解だ。なにしろ人生は長いようで短い。この先また別の誰かと出会う事を考えた方がいい。それに地球は自分のために回っていると考えるような男とは別れた方がいい」
その言葉に私は笑いそうになった。
それはこの男性こそ、地球は自分の周りを回っていると考えるタイプに見えるからだ。
だが、男性はそうではなかった。すぐ傍で訊いていた男性の好きな人を大切に思う気持は別れた恋人とは比べものにならない。
しかし女性は「そう?」と疑問を呈した。
だが男性は女性の言葉を否定した。
「ああ。そんな男は捨てて正解だ」
「あのねえ。アンタは捨てて正解だなんて簡単に言うけど妥協点を見つけることも必要だと思うけど?一歩でもいいから立ち止まって考えることも必要だと思うわ」
と、言ったところで女性は言葉を途切らせた。
そしてふたりとも私の顏をじっと見ると、女性が口を開いて、「ねえ。他人の足りないものはよく見えるけど、自分の足りないものは見えないって言うわ。それにあなたはまだその人のことを気にしているんじゃない?私にはそう思えるの」と言うと微笑んだが、次の瞬間、私の目の前は白くなった。
そして訊こえて来たのは女性の声だ。
「杏子!聞こえる?杏子?ねえ分かる?しっかりして!」
その声はやけに大きく頭に響いた。
「杏子!ねえお願い目を開けて」
だから私は目を開けた。
するとそこにいるのは母親で心配そうに私を見ていた。
「良かった!もう目が覚めないんじゃないかと思ったわ」
私は、ぼんやりとし頭で母親の顏を見ていた。
そんな私に母親は躊躇ないながら訊いた。
「ねえ。杏子。私が誰だか分かる?」
「分かるわよ。お母さんでしょ?」
「ああ、良かった。そんな顏してるから私のことを忘れたのかと思ったじゃない」
と母親は言ったが私は今のこの状況が呑み込めずにいた。
だが、白い壁に囲まれたここが病院であることに気付いた。
しかし何故自分がここにいるのか分からなかった。
だから、「お母さん、私?」と不思議そうに訊いた。
すると母親はそんな私に状況を説明した。
「直哉さんから連絡があったの。あなたが階段から落ちて意識を失って目を覚まさないって。だからお母さんもお父さんもすぐに帰国したのよ。私たちは今朝アメリカから着いたばかりなの。あ、お父さんは今先生の話を訊きに行ってるわ。
それから私たちが帰ってくるまであなたの傍にいたのは直哉さんよ。会社を休んでずっと傍に居て下さったの。ついさっき会社から呼び出されて会社に行ったけど、あなたたち喧嘩をしたそうね?直哉さん、そのせいであなたが階段を踏み外したと思っているのよ?だから自分のせいだって自分を責めていたわ。それにしても、どんな喧嘩をしたのか知らないけれどあなたはパパに似て…..つまりあなたはおじい様に似て頑固で一度言い出したら訊かない子だから、直哉さんの言葉を突っぱねたんでしょ?いい杏子?ちゃんと話をして仲直りしなさい。分かった?ねえ、杏子?訊いてるの?」
母は今だに自分の両親のことをパパとママと呼ぶ。
そして直哉とは杏子の恋人だ。
いや。喧嘩をして杏子の方から別れると言った恋人だ。
その喧嘩をした場所は会社の非常階段の踊り場。
そして頭に血が上った私は階段を降りていて足を滑らせた。
だから、私は旅になど出ていない。
どこかの駅前商店街の下着屋でお茶を飲んではいない。
自分と同じ年頃の女性と会ってもいない。そして彼女の恋愛話とそこに現れた男性のやりとりも見ていない。
つまり私は、これまで夢を見ていたことになる。
だがそれを夢で片付けるにはリアルな気がした。
「ねえ。お母さん。私の鞄ある?」
「え?あなたの鞄?あるわよ。ここに」
そう言った母親は近くの椅子の上に置かれている鞄を見やった。
「お母さん。鞄の中に本があるの。カバーがかけられた単行本。その本を取ってくれない?」
「いいわよ?でもまさか今読むつもりじゃないわよね?」
「違うの。ちょっと気になることがあって」
私は母親から単行本を手渡された。
それは古本屋で買ったあの本だ。そしてその中に買った時と同じように挟んである切符を見た。
すると母親は言った。
「あら。懐かしい地名ね?この場所。パパとママ….杏子のおじい様とおばあ様がよく旅行で行っていた場所なのよ?」
「おじい様とおばあ様が?」
「そうよ。パパとママは紆余曲折の末に結ばれたんだけど、ママ。昔そこに住んでたことがあるの。だから時々思い出したようにふたりでその場所に行ってたわ。でもパパもママもあなたが小さい頃に亡くなったから、あなた自身ふたりの記憶が殆どないから話したことがなかったの。あなたのおじい様とおばあ様は若い頃ジェットコースターのような恋をしたの。でも私も直接聞いたわけじゃないの。だけど、お兄ちゃんはパパの友達から散々聞かされたそうよ。お前の父親はストーカーだった。ママに相手にされなくても諦めなかったってね?一歩間違えば犯罪者だって言ってたそうよ」
私の母親は祖母と祖父の三番目の子供。
祖母は33歳で長男。35歳で次男。そして38歳で母を産んだ。
そして母親は29歳で二番目の子供の私を生んだ。だから私が生まれたとき祖母は67歳で祖父は68歳。
そして祖父は72歳で亡くなった。だから当時4歳の私に祖父の記憶は殆どなく、祖父は写真でしか顏を知らない人。そして祖母が亡くなったのは75歳で私が6歳の時だが、そんな私が覚えている祖母は、「杏子はお祖父ちゃんに似てるわね」とよく言っていたこと。
そして庭の片隅で育てた野菜を持って帰りなさいと母に持たせていたことだ。
そんな母の実家は世田谷の大豪邸。父親は道明寺ホールディングスの社長と会長を務めた人で若い頃から非常に女性にモテたと言う話だが、私は仏壇の傍に飾られている写真の祖父を思い出した。するとその顏は夢に出て来た男性に似ていた。そして夢に出てきた女性の名前が牧野つくしだったことを思い出した。
「ねえ。お母さん。おばあ様の名前って、つくしだったけど名字は?」
夢の中ではその名前を変わった名前だとは思わなかったが、それは祖母と同じような名前の人もいるのだ程度だったからかもしれない。
「ママの旧姓?」
「そう。おばあ様の旧姓って?」
「牧野。牧野よ。ママの旧姓は牧野よ」
そんなことがありえるだろうか。
だが世の中には不思議なことがあるという。
だから私の手の中にある使われなかった切符は、祖父と祖母が人生の通過点を間違えるな。
祖母にも私と同じような時代があった。つまり一緒に人生を歩む人との色々はどの時代にもある。だから一歩立ち止まって考えろ。自分の行く道を間違えるなと末っ子の母が産んだ一番末の孫である私に自分達の若い頃の姿を見せようと用意したのかもしれない。
それにしても、三人の子供がいる祖母がかつて妊娠しにくいと言われていたのは驚きだ。
それにあのふたりが若い頃に床を掃除するロボットはいなかったはずだが、そこは夢だからのご愛嬌なのかもしれない。
そして、祖母の言う通りで他人の足りないものはよく見えるが、自分の足りないものは見えないものだ。
だから、私は鞄の中から携帯電話を取り出し恋人ともう一度ちゃんと話をすることにした。
「もしもし直哉?今いい?__うん。意識が戻ったの。___うん。大丈夫。心配かけてゴメン。___え?うん。それから話し。ちゃんとしたいの」
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