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2021
03.03

休日

Category: 休日
今日は海外出張から戻った私にとっては久し振りの休日です。
そして今日は空も青く晴れ渡り、風もちょうどいい穏やかで過ごしやすい日曜日です。
突然ですが私はもうすぐ還暦を迎えます。しかし私は自分で言うのも何ですが、そういう年齢には見えないと思っています。と言っても私は図々しい人間ではありません。ですから、若く見えたとしても、それは2、3歳のことだと思っています。

そんな私はある人物の秘書をしています。
その方は名のある方で日本を代表する企業の副社長をしていらっしゃいます。
そして皆さんは私が仕えるその方のことは、よくご存じのはずです。
ですから本日はその方のことではなく私のことをお話ししたいと思います。と言っても、私の殆どの時間はその方と一緒です。ですからどうしてもその方のことを話さないわけにはまいりません。

私がその方に仕えることになったのは、その方がアメリカの大学を卒業して専務として社業に携わるようになってからです。
私は結婚にはご縁がなく一度も経験しておりません。ですがもし私が法律で許される年齢で伴侶を得ていれば、その方は私の息子といってもおかしくはない年齢です。
つまり私は自分の息子程の年齢の方にお仕えすることになったのです。

私はその方の傍でありとあらゆることを経験してまいりました。
海外出張は毎月のようにございました。真夜中に出て次の日の夜には日本に戻るといったことも当たり前のようにございました。
アメリカ合衆国の大統領と握手を交わす場所に同席したこともございました。長い歴史を有する国の国王との晩餐会に招かれたこともございます。砲弾の飛び交う内戦状態の場所に出向いたことも…….いえ。これは少し大袈裟な表現でしたが、国情が不安定な国へ足を運んだこともございます。

そして私は副社長が幼い頃からよく存じ上げていますが、その方が10代の頃、周りにいた者は大変手を焼きました。それはその方が大変我儘な方で……いえ、自由闊達な方だったからです。しかし、仕える者にすれば相手の年齢は無関係です。そうです。たとえ相手が分別のつかない子供だとしても、仕事は仕事として遣り遂げるのが秘書ではないでしょうか。

そう思う私も年を取り、いえ、仕える方が年齢を重ねるにつれ、秘書である私の手を必要としないことが増えてまいりました。突然呼び出されることもなくなりました。
そうなると、私は休日を休日らしく過ごすことが出来るということです。
ですから最近の私は、のんびりとした休日の時間を持つことが出来るようになりました。
そして私は若い頃から視力が悪く眼鏡をかけていますが、その眼鏡はある年齢で老眼鏡に代わりました。今日はその眼鏡の見え具合が悪くなったことから、新調した眼鏡を取りに行ってきたところです。

話が前後しますが、現在独身の私ですが過去に恋人と呼べる人がいなかったわけではございません。
就職した間もない頃、私にも恋人がいました。しかしながら諸事情あって別れることになりました。どんな事情か?大変申し訳ございませんが事情は事情であり、彼女の名誉のためにもお話することは出来ませんのでご了承下さい。

そして私がその足で向かおうとしているのが碁会所(ごかいしょ)です。
皆さんの中には碁会所と言われてもピンとこない方が多いのではないでしょうか。
それなら囲碁センターと言う呼び名でも構いません。そこは席料を支払い碁を打つことを楽しむサロンなのです。

私が碁を覚えたのは小学生の頃です。祖父の碁の相手を務め、碁を打つ楽しみを覚えたのです。そして私がそこへ行くのはリフレッシュをするため。頭を切り替えるためです。
しかしながら、私がその場所を訪れることが出来るのは年に数回といったところでした。
何しろ海外出張が多い私には、自由になる時間が少ないからです。ですから、そんな私はジグソーパズルを趣味にしていた頃もありました。何しろパズルをするのに相手は必要ありませんので。

ちなみに碁は盤上に白と黒の石を交互に置いていき、自分の石で囲んだ領域の広さを競うボードゲームの一種です。勝敗は将棋やチェスと同じで相手が負けを認める、もしくはこれ以上打つべきところがない、という合意で決まります。

そして碁会所ですが、その場所に集まるのは、老若男女問わずと言いたいところですが、集まっているのは、ほぼ男性と言った方がいいでしょう。ですからやはり私は女性には縁がないということになります。

それから実はここだけの話ですが、中学生の頃プロ棋士になりたいと思ったこともありました。
しかし、プロの世界は勝ち続けなければならないのです。何しろ勝つことでお金をいただくのですから、勝って、勝って、勝ち続けなければならないのです。ですが、私は勝ち続けることは出来ませんでした。

そして勝ち続けなければならないのは企業の経営も同じです。
経営者は会社を発展させるための戦略を常に考えなければなりません。それは大勢の従業員の生活のためであり、社会のためでもあります。
ですから、経営者もプロ棋士と同じで勝って、勝って、勝ち続けて会社を存続していかなければなりません。
そして私は、副社長の傍にお仕えしておりますので、勝負に勝つことがいかに大変かを知っております。ですから私はプロの棋士には向いておりません。

そして休日の呼び出しが減ったことで私が嵌っているのは自炊です。
おかげで料理のスキルが上がりました。
つい先日も、美味しい蕎麦を食べるために石臼を購入いたしました。はい。その石臼でソバの実を挽いて、そば粉にして自ら蕎麦を打つようになりました。ちなみに自分で挽いたそば粉で打った蕎麦は大変味わい深いものでした。
ですが、ひとつ難点があります。それは石臼が思いのほか重いということです。
しかしながら、その石臼のおかげで右腕の筋肉が鍛えられたように感じられます。
そして今、購入を迷っているものがあります。それはヨーグルトメーカーです。
しかし色々と考えた結果。ヨーグルトは作るのではなく、購入する方が美味しいのではないかという結論に至りました。

さて。碁会所が見えてまいりました。
今日は久し振りに碁を打つことが出来そうです。
ですが、上着の内ポケットに入れている携帯電話のメロディがあの方からの着信を知らせてきました。はい。私にとっての「あの方」とは副社長です。
私は電話に出ました。

「はい」

「西田。休みのところ悪いが、これからうちに来てくれないか?」

どうやら久し振りの休日は終わりを迎えたようです。
ですが、私はそのことを残念だと思ってはおりません。
私はあの方の秘書なのですから。
しかし、電話の向こうの声が「あの方」の奥様に変わりました。

「西田さん。お休みのところごめんさない。さっき西田さんのご自宅に着いた岸本さんから西田さんが留守だと連絡があったので電話をさせてもらいました」

奥様の言う岸本とは奥様専属の運転手です。
ちなみに岸本という男は元警視庁のSPです。つまり岸本は運転手兼ボディガードです。
そして奥様の名前はつくし様とおっしゃいます。

その奥様が副社長と結婚したのは、副社長がアメリカから帰国されてすぐのことです。
高校生の頃に恋におちたおふたりの間には色々とありましたが、おふたりはそれらを乗り越えてご結婚されました。
そして奥様はご自分のことを雑草だとおっしゃいます。それは、どんな環境にも耐えることが出来るということを言いたいのであって、ご自分の出自を卑下しているのではありません。
それに私に言わせれば奥様は蓮の花のような方です。
蓮は泥の中から長い茎を出して水面に花を咲かせます。私は奥様がその花を咲かせるまで努力をしてきたのを知っています。見えない水の中でもがいていた頃を知っています。

「ごめんなさい西田さん。司はこれからうちに来いって言いましたけど、今じゃなくて今夜なんですけど、もしご予定がなければ今夜うちで食事をしませんか?」

「食事….ですか?」

副社長から世田谷の邸にすぐに来いと言われたことは何度もあります。
しかし奥様から迎えの車を差し向けられ、今夜うちで食事をしないかと言われることはそうそうあるものではありません。
ですから私はその理由を考えました。しかし思いあたることはありません。
すると、奥様はおっしゃいました。

「西田さん。もうすぐ還暦でしょ?だからお祝いの食事を用意したの。本当は前もってお知らせしたかったんですけど、司が驚かせてやれって言うものだから。それに日曜の西田さんに予定なんかあるもんかって……でも西田さん。ご予定があるようでしたら_」

お恥ずかしい事ですが、私は奥様のその言葉を嬉しく思いました。
そうです。私は間もなく還暦を迎えます。つまり私の命は右肩下がりです。しかし電話の向こうにいらっしゃるご夫婦の命は右肩上がりです。
その方々が私の還暦を祝って下さる。その申し出を受けなくて何を受けるというのでしょう。

私は新しくしなった眼鏡の縁を持ち上げました。
知らずに頬が緩んでいたのでしょう。気付けば、ふっと笑っていました。
そして言えるのは、この日が私にとって忘れられない日になるということです。
ですから、私は遠慮など致しません。

「奥様。喜んでお伺いいたします」




< 完 > *休日*
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