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2021
01.31

幸せの香り

あなたの幸せの香りはどんな香りですか?
咲き誇る花の香りですか?
甘い果物の匂いですか?
誰かがつけている香水の香りですか?
お風呂に入れる入浴剤の匂いですか?
コーヒーの香りですか?
パンの焼ける匂いですか?
どんな香りだとしても、誰もが好きな香りを持っていて、その香りを嗅ぐと幸せな気分になるはずです。

司にとっての幸せの香りは最愛の人の手のひらの匂い。
だが手のひらは何かを握ればその匂いが手に付いてしまう。
だから匂いと言われても、その人の匂いなど分かりはしないと言われる。
だが人には必ずその人の匂いというものがある。
現に犬や猫といった動物は、沢山の匂いの中から飼い主の匂いを嗅ぎ分けることが出来る。
だからたとえその手が何かを握ったとしても、その人本来の匂いが失われることはない。

それは最愛の人の手には魔法がかけられているから。
だがいい年をした男が魔法などという言葉を使えば、どうかしていると思われるだろう。
けれど彼女の手から渡されるものには必ず彼女の匂いが付いている。だからそれを魔法と言わずして何と言うのか。
そして司はそんな手から幸せな気持ちを貰っていた。

それは飴やビスケットやチョコレートといった菓子だったり、牛乳やヨーグルトやドロドロとした緑色の液体だったりした。
だがそれらは司がひとりでいたなら自ら口にすることはなかった。
けれど彼女は、疲れた時には甘い物を食べると元気になる。だから食べ過ぎなかったら大丈夫。と言って菓子を手渡してきたが、それが甘いだけの安物の菓子のだとしても、彼女の手を経て口に入った菓子は心を溶かす優しい甘さに変わった。

そして、冷蔵庫の中にぎっしりと詰められた食材を取り出し「健康にいいから」と言ってミキサーにかけ、グラスに注いで司の前に置くと「特製スムージーよ。緑黄色野菜もちゃんと摂らなきゃね?」と言ってキッチンで笑った。

かつて冷たい大人の世界に生きて来た少年がいた。
生まれ育った家に彼の居場所はあっても、そこに人の心はなかった。
人を傷つけ物を壊しても咎める者はいなかった。
そして人は傲慢だと孤独になるというが、あの頃の司はまさにその通りだった。
だがそんな男が彼女と知り合ってから内部に変化が起こった。彼女と生きてゆくために、それまでの過去を切り離し、自分自身を変えようとした。
だから高校を卒業して渡米していた4年間は互いの存在を近くで感じることは出来なかった。だが歳月を経たふたりは結婚した。

司は今彼女の手を握っていた。
いや。実際に握ってはいない。だが心の中でその手をしっかりと握っていた。
何故なら妻は今、命を懸けて新しい生命を生み出そうとしているからだ。
妻が産気づいたと知らされたのは空の上。
東京から1万キロ離れた場所から戻る途中だった。だから司は彼女の手を握ることが出来ずに分娩室の外にいた。

結婚して4年。
妊娠しにくい体質と言われた妻が妊娠した。
妻は陽気な女だ。だが必要以上に考えることもある。
だから結婚して子供が出来ないことに、自分は不妊症ではないかと悩んでいた妻の姿を知る男は、嬉しそうに妊娠を告げた彼女を抱き上げ一緒に喜んだ。そして安定期を迎えるまで家の中に閉じ込めていたいと言った。
すると妻は、「妊娠は病気じゃないから」と言って笑った。
だが出産は命がけだ。だから司も万全の体勢で出産の日を迎えたかった。
けれど、子供は予定より早く母親のお腹から外の世界に出ることを決めたようだ。
そして医師から「少し時間がかかりそうです」と言われ心臓が静かに波打った。

司は海外に向かう前、暗闇に包まれた寝室で隣に寝ている妻から言われた。

「あのね。この子が無事生まれてきたら、この子に弟か妹を作ってあげたい…….」

そう言った妻に「ああ。そうだな。子供は何人いてもいい」と答えた。
そして妻が寝息を立て始めると彼女の手を取って包み込んだ。

妻の手は無限の温もりを感じられる手だ。
結婚した時この手を守るためならどんなことでもすると誓った。
だからこの瞬間妻の手を握ることが出来ない自分が腹立たしかった。
そんな司は冷静になれ。心配するな。子供は無事に生まれてくる。親子揃って退院の日を迎えることが出来る。と自分に言い聞かせた。
そのとき、目の前の扉が開いて医者が出て来た。

「おめでとうございます。元気な男の子です」











「おい見ろ!俺を見て笑ったぞ!」

「そうね。パパを見て笑ってるわね?」

そう答えた妻の顏は面白そうに笑っていた。

「そうだろ。何しろ俺は世界で一番この子を愛しているんだ。この子もそれが分かっているから俺の顏を見て笑ってるんだ」

病院の人間は誰もが司のことを知っている。
看護師たちは子供の顏を見ようと集まってきて、「まあ可愛い!」「パパそっくり!」「髪の毛が巻き毛よ!」「将来きっとハンサムになるわ!」と言ったが、司はそうだろうとばかり頷いていた。




司は妻と一緒に子供の世話をするようになった。
手にしたのはベビーローション。
大きな手で沐浴をした小さな身体にローションを塗るとキャッキャッと笑った。
そこにあるのは満ち足りた家庭の匂い。
だから今の司が思う幸せの香りは、妻の手のひらの匂いと息子に使うベビーローションの香りだ。


かつて高価なコロンの香りだけがした男から香るふんわりとした優しい匂い。
それを感じることが出来るのは毎朝車で迎えに来る秘書だけ。
その秘書は挨拶を済ませ助手席に乗り込むと運転手に車を出すように言った。
そして口もとをほころばせた。





< 完 > *幸せの香り*
今日は司坊っちゃんの誕生日です。道明寺司様。お誕生日おめでとうございます!
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