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2020
09.21

Saudade <前編>

Category: Saudade(完)
「椿様。冷えて来たのでそろそろ中に入りましょうか」

そう言われたが椿は真っ直ぐ前を向いたまま答えなかった。
だがそれは意図して答えなかったのではない。
これはいつもの反応であり声をかけた女性も気に留めなかった。
だが女性は椿に再び話かけた。

「それにしても日暮れが早くなりましたね?」

そして車椅子のハンドルをギュッと握ると向きを変え建物の中へ入って行ったが、ふたりの背後には海に沈もうとしている太陽があった。











椿は西伊豆の切り立った崖の上に立つ道明寺家の別荘で暮らしているが、彼女は立つことが出来ない。だから車椅子での生活を送っていた。
だがなぜ椿が車椅子での生活を送ることになったのか。それは1年前に起きた事故のせいだ。

椿は大学を卒業すると親の決めた相手と結婚してアメリカで暮らしていたが4年前に夫を亡くした。
そして子供のいない彼女は2年前に日本に帰国してひとりの男性と偶然の再会をした。
その男性は及川徹と言い高校生の頃に付き合った初恋の人。背が高く男ぶりのいい及川は結婚していたが今は離婚してひとりだと言った。そんなふたりの20年ぶりの再会は懐かしさだけが感じられた。だが及川からまた会おうと言われ何度か会うようになった。

それはレストランで食事をしたり、映画館で映画を見たり、美術館に出掛けたりといったものだ。だが暫くすると及川は椿に交際を申し込んだ。

「椿さん。正式に僕と付き合ってくれませんか?」

かつて母親の楓に反対され実ることがなかったふたりの恋。
だが大人になった椿の行動に誰かが口を挟むことはない。
だから椿は初恋の人と付き合うことにした。だがその矢先に交通事故に遭った。
それは及川の運転する車の助手席に乗っていた時に起きた事故。
交差点で信号無視をした車が椿の座る助手席側に突っ込み椿は大怪我をした。そして歩くことが困難になり車椅子が欠かせない生活を送るようになった。

だが椿は足が不自由になっただけではない。頭に衝撃を受けた後遺症なのか。
原因ははっきりと分からなかったが、記憶力が落ち少し前の出来事さえ忘れるようになった。そして時間の観念を失った。

それでも医師は原因が分からないからこそ治る見込みがあると言った。
何しろ人間の脳は複雑で思いもよらない刺激で活性化することがあるからだ。だから椿の世話をする人間は、彼女がまた昔の頃のように聡明な女性に戻ると信じ刺激を与え続けていた。

「椿様。明日は及川様がいらっしゃいますよ?及川様です。分かりますか?」

及川は都内に会社に勤める会社員で、週末しかこの場所に来ることが出来ないが、毎週末欠かすことなく椿の元を訪ねて来ていた。
それにあの事故は及川が悪いわけではないが、自分の運転していた車に乗っていて怪我をさせたことに対しての責任からなのか。彼女がこうなってしまったのは自分のせいだと自分を責めていた。そして責任を取らせて欲しい。彼女の面倒を一生見させて欲しいと言った。

「彼女がこうなってしまったのは私のせいです。それに私は彼女にプロポーズするつもりでした。彼女が好きです。私が一生彼女の面倒を見ます。いえ、私に彼女の面倒を見させて下さい」

身体が不自由になった椿に及川は結婚を申し込んだ。たが今の椿には記憶をとどめておく力がない。
それに椿は道明寺家の長女で、彼女の世話をする人間などいくらでもいて不自由することはない。だが椿の担当医は、「及川さんが傍にいることで刺激が与えられ脳が活性化し、機能の回復に繋がるかもしれません。何しろ人間の脳は医学では解明できないことが沢山ありますから」と言った。

そしてその時の椿は、しっかりとした眼差しを持ち、はっきりと自分の意思を伝え及川からのプロポーズを受け入れた。
だが周りの人間は椿が少し前のことさえすぐに忘れてしまうのに自分が結婚したことを理解するだろうか。これから先、及川徹を自分の夫として認識できるだろうかという懸念を抱いていた。しかし医師の言葉に椿が良くなるならと期待してふたりの結婚を認めた。




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2020
09.22

Saudade <中編>

Category: Saudade(完)
医師の予感は外れた。
椿が及川徹と結婚してから2ヶ月が経ったが椿の脳に変化は見られなかった。

「お気の毒に……せっかく徹様と結婚されたというのに、お身体の調子が良くならないなんて…..それでも椿様は時に楽しそうな表情をされることがあるんですよ?」

そう言ったのは椿の世話をする女性。
彼女は車椅子を押して庭を散策していたが、そこに徹が現れると変わるからと言って車椅子のハンドルを握った。

結婚した徹は都内で暮らすことを望んだ。だが椿は西伊豆の別荘で暮らすことを望み、ふたりはこの場所で暮らすことになった。
そして徹は椿の夫という立場から道明寺グループの会社に転職をすると役員の待遇を与えられ比較的自由のきく立場になった。
だから平日の昼間に、こうして家に帰ってくることがある。


「椿が楽しそうな表情を?本当に?」

「ええ。間違いありません。さっきもテラスのテーブルの端にトンボが止まっている様子を微笑んで見ていらっしゃいましたもの。ねえ椿様?大きなトンボが止まっていましたよね?あのトンボは暫く動くことなくじっとしていて何かを見つめていましたよね?」

女性は背後から車椅子に座る椿に顏を寄せて訊いたが、トンボのことなどとっくに忘れた椿は無反応で遠くを見つめていた。

「そうですか…..もう忘れてしまわれたんですね。さっきはトンボを見て微笑んでいらっしゃたのに……」

少し前に起きたことだったが椿は覚えていなかった。
そして女性は少し前には微笑んでいた椿の無反応に落胆した様子で言ったが、徹も同じように落胆した様子で呟くように応えた。

「そうか…..微笑んだのか…..」

「ええ。徹様から頂いたトンボ玉と同じ緑色の目を持つ大きなトンボでした。椿様はそれを見て笑っていらっしゃったんです」

「僕が椿にプレゼントしたトンボ玉?」

徹は椿にトンボ玉と呼ばれる小さなガラス玉をプレゼントした記憶はない。
もし仮にそうだとしても、それは20年も前の話であり、そんな前のことをよく覚えているなと思った。

「ええ。椿様が大切にされているトンボ玉は徹様がプレゼントされたものですよね?
違いますか?お二人が結婚された頃、私がそれはどうされたんですかとお聞きしたら高校生の頃に徹様から頂いたものだとお答えになられました。椿様はそれをいつも上着のポケットの中に入れていらしゃいます。そして時々取り出して眺めておられるんですよ。今は手の中に握っていらっしゃいます」

女性は椿に握っているトンボ玉を徹様にも見せて欲しいと頼んだ。
だが椿の手が開かれることはなかった。

「椿様。余程トンボ玉が大切なんですね…….」

と女性は静かに言ったが、徹は車椅子を押す手を休めると、「それより僕が言ったこと。考えてくれたかな?僕が椿と結婚して2ヶ月が経つがあの医者の言ったことは嘘だ。僕が傍にいても椿の脳は活性化されない。僕が誰かすぐに忘れてしまうのは相変わらずだ。それに最近は前よりもぼんやりしている時間が長い」

と言ってからクスリと笑い女性の手を取ると自分の胸に当てた。

「それに僕は男だ。だから息抜きが必要だ。言っている意味は分かるよね?それに君は僕の好みだ。それに悪いようにはしない」

そして、ねえ。だからいいだろ?と囁いた。

「徹様。止めて下さい」

女性は徹から付き合って欲しいと言われていた。だが相手は彼女が世話をしている女性の夫だ。それに自分は椿の使用人であり徹の遊び相手ではない。
だから女性は少し怒った声で言った。
だが、それは本気ではない。
その証拠に女性は徹の胸に当てられた手を優しく動かしていた。そしてうふふ、と笑って言葉を継いだ。

「ダメですよ。こんなところで。それに椿様に訊かれるじゃないですか。それにもしかすると椿様は私たちの会話を記憶することが出来るかもしれないんですよ?今この瞬間脳が活性化されて昔のように聡明な椿様に戻るかもしれません。そうなったら困るのはあなたですよ?」

「大丈夫だよ。だって見てごらんよ。椿は今、寝ている」

徹と女性が目の当たりにしている椿の後姿は前傾姿勢であり首は横に倒れていた。
その姿を見ながら徹はうんざりした声で言った。

「それに寝ていなくても彼女はぼんやりしていることの方が多いんだ。だから僕たちの会話は耳に入ってないはずだ」





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2020
09.23

Saudade <後編>

Category: Saudade(完)
「それにしても今日はいい天気ですね?海もキラキラと輝いてまるで夏のようです」

ここ数日は雨が続き、気温も下がり肌寒さも感じられたが、今日は嘘のようないい天気だ。
そして、都会では秋が深まり紅葉が進み冬支度をするようになっても西伊豆は比較的まだ暖かかいと言えた。

「ああ。そうだね。それで返事を聞かせてくれるんだよね?」

ふたりはテラスにいて女性は椿の車椅子を押しているが、徹の言う返事というのは女性が徹の愛人になることを承諾するかどうかの返事だ。

「ええ……」

「どうしたんだい?ここに来てまだ考えが纏まらないって言うんじゃないよね?今日返事をしたいって言うからわざわざスケジュールに都合をつけて戻って来たんだよ?それに僕たちが寝る条件は話した通りだ」

徹は女性が自分の愛人になるなら不自由はさせない。それ相応の金を払うと言った。
それにブランドもののバッグでも宝石でも与えてやることが出来ると言った。
何しろ今の徹は椿と結婚したことで、ただの会社員ではなく道明寺グループの会社の役員だ。だから自由になる金はいくらでもある。

「ええ。分かっています。だから私、あなたの愛人になることに決めました」

承諾の意を伝えられた徹は、女性の腕を掴むと車椅子を押すのを止めさせ、頭を下げてキスをした。
それは椿の背後で行われていること。
だから椿の目には映ってはいない。

「ねえ。徹さん。私あなたにプレゼントを用意したの。受け取ってくれない?」

女性はそう言って車椅子のハンドルから手を離すと、車輪が動かないようにストッパーで固定した。そして、「今取って来るから、ここで待っていてもらえない?椿様を見ていて下さいね」と言って椿と徹を残して建物の中に入って行った。







「まいったよな。ホント」

二人だけになって思わず出たその言葉。
徹その言葉には今の生活がうんざりしているという思いが込められていた。
徹は椿の夫だ。周りにいる人間は徹のことを障害を負った妻を気遣う優しい夫だと思っている。それに障害を負った妻と結婚することを決めた徹を愛情深い男だと思っている。

だが彼女のことが好きだと言ったのは嘘だ。
徹は椿など愛してはいなかったが、椿と結婚するためにはそう言うしかなかった。
何しろ道明寺椿と結婚すれば、生活に困ることがないのはわかっているのだから。
それに、もし椿が先に死ねば遺産は彼のものになる。

徹が椿と再会をしたのは本当に偶然だった。
初めは懐かしさから食事に誘った。そして彼女がそれを受け入れたとき、夫と死別したことを知った。と、同時に今でも自分に気があるように思えた。だがそれが自惚れだとしても、徹は自分が男っぷりがいいと言われていることを知っている。
だからこの状況は使えると思った。
そしてあのとき徹は会社の金を流用していたが、それが発覚する恐れがあった。
だから金を早々に返す必要があったが、徹が流用した金はどこに流れたのか。
それは株式投資の失敗によるもので1億近くにまで膨れ上がっていた。だから椿と結婚した徹は、その金を椿から引き出し返済に充てると道明寺の会社へ移った。

そして椿と西伊豆で暮らし始めたが、ここでの生活には刺激がない。
何が悲しくて東京から遠くはなれた田舎の山奥、断崖に立つ別荘で暮らさなければならないのか。
道明寺家には都内にいくらでも住まいがある。だから徹は都内で暮らすことを望んだが椿はここがいいと言い、周りの人間もここで暮らすことに賛成をした。

「あ……」

それは車椅子に座っている妻から発せられた言葉。
徹は車椅子の前に回り込んで椿を見た。

「どうした?」

「トンボ玉が….」

「トンボ玉?ああ、あれか。僕が高校生の頃、君にプレゼントしたというガラス玉か…」

徹は付き添いの女性から椿がそれをいつもポケットに入れていることを訊いていたが、見たことはない。だがテラスの端に緑色のガラス玉が落ちているのを見つけた。

「おねがい…..拾って….」

妻の口から出たその言葉に徹は腰を屈めてガラス玉に手を伸ばそうとした。
そのとき背中に何かが当たった。
それは暖かく弾力のある何か。だが振り向くことが出来なかった。
そして何か大きな力が働いたように自分の身体が持ち上がるのを感じた。その瞬間、身体をひねりなんとか背後を見たが、そこには空になった車椅子だけがあった。
そして再び身体に何かが当たるとバランスを崩した。
テラスの端には柵がある。その柵の高さは1メートル。だが徹の目の前に柵はない。
そこは夏の台風で壊れ修理のため取り外されていて、徹の身体はそこから海の上の中空に放り出された。
















椿は緑色のトンボ玉を拾った。そして太陽に透かして見たが、それは空の色と混ざりターコイズブルーに変わり伊豆の海の色と同じに思えた。

椿はそれを海に投げた。
そして車椅子に戻り深く腰掛けると徹が落ちた柵の間を見ていた。
椿は足が不自由になったのではない。それに脳に障害を負ったのでもない。
それなら何故そんなフリをしていたのか。
それは及川徹の本心を知るためだった。

再会したのは偶然だ。そして初恋の人に心がときめいた。だが交通事故に遭ってから及川徹の態度に何かを感じた。それはただの勘だとしても、椿は自分が道明寺家の人間であることが理由で人の態度が変わることを知っている。それに相手がたとえ初恋の人だとしても、今のその人を知る必要があった。
だから調べた。すると及川徹が会社の金を流用していることを知った。
椿は及川の会社の人間を知っている。だから発覚することがないように手を回した。
それは20年前に及川を傷つけて別れなければならなかったことへの贖罪の気持からしたこと。
そしてプロポーズを受けたのは、道を踏み外してしまった初恋の人に立ち直って欲しいという思いがあったから。それに好きだという思いが確かにあった。だから夫となった徹が1億近い金を使うことに目を瞑った。

自分を心から必要としてくれる人なら良かった。
だが及川はそうではない。その証拠に椿の世話をする女性に手を出そうとしている。
及川徹という男は、もう椿が知っていた男ではなかった。
そして椿は自分の背後で交わされた会話も、唇を重ねていたこともトンボ玉を手に身体全体で感じていた。

トンボの目は蜂の巣のような六角形の小さな眼球が1万から3万集まって出来ていて、40メートル先で動く昆虫を見逃すことがないというが、椿はトンボがどんなに小さなことも見逃すことがない千里眼の目を持つのと同じで、彼女の目も道明寺の家に生まれた女として見逃すことが出来ないものをしっかりとこの目で見ていた。つまり不実を働こうとしている男を、及川徹を許すことが出来なかった。

そして今思うのは若い頃の恋は思い出として心の中に留めておくことが望ましいということ。
何故なら大人になれば知りたくないことまで知ってしまうことがあるから。だから過去は思い出のままにしておくのがいい。一度手放した恋心はそのまま手放している方がいいのだ。
だがそれが出来なかった。あの頃の恋に懐かしさを感じた。夢を見たいと思った。
けれど、それはつらい現実だった。
それに道明寺の家に生まれた人間は、弟を除いてだが、純粋な恋をすることは難しいのかもしれない。
















「椿様?徹様は?」

徹にプレゼントがあると言って建物に中に行った女は戻って来ると椿に訊いた。
だから椿は柵の間を指差した。

「…..え?」

「…….トンボ玉が落ちたの。だから………」

女性は柵がある場所に駆け寄った。
そして下を見たが、そこは海が見えるだけで誰の姿も無かった。








及川が海に落ちたのは不慮の事故として処理された。
そして椿は夫が目の前で海に転落する場面を目撃した。それが彼女の脳を刺激したのか。
それまではっきりとしなかった言葉や失われていた記憶能力が戻った。そして立ち上って歩くことが出来るようになった。
その光景に椿の担当医は、「これはショック療法です。椿様はご主人が海へ転落する場面を目の当たりにして脳と神経が覚醒されたのです」と言った。














「失礼します。椿様。東京へ戻るお車のご用意が出来ました」

テラスにいる椿を呼びに来たのは、これまで彼女の世話をしていた女性だ。

「分かったわ。でももう少し待つように伝えてくれるかしら?暫くはここからの眺めを見ることがないからもう少し見ていたの」

「かしこまりました。では運転手に伝えてまいりますが、ニューヨークはこちらよりも寒いそうですからお身体にお気をつけ下さいませ」

「ええ。ありがとう。あなたも気を付けてね。それから今回のことは本当に助かったわ。三条さん」

「椿様。わたしは恩がある牧野先輩のお義姉さまのお力になれて大変光栄です」

桜子が敬愛する牧野つくしは椿の弟の司と結婚してニューヨークで子育てに追われ暮らしている。
だから椿が事故に遭ったとき一番に駆け付けたのは桜子だ。そして椿から及川徹のことを訊いた桜子は椿に協力することにした。

「それからここの柵だけど修繕を急ぐように言ってね。また誰かが落ちたら大変だもの」

「ご安心下さい。業者は明日来るそうです。頑丈な柵を作るように言っておきますから」と言って桜子は背を向けた。

そして椿が見ていたのは、日本一の夕陽を見ることが出来る場所で燃えるような真っ赤な太陽が海と空を赤く染め上げ海に沈んでいく光景だった。





< 完 > *Saudade=郷愁・思慕・憧憬*
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