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2020
05.28

夜の終わりに 1

雨が降っていた。
だから改札から出たところでいつも鞄に入れてある折り畳み傘を広げたが、ここが電車の終点だと知ったのは、「お客さん。起きて下さい。着きましたよ。終点です」と車掌に声をかけられたからだ。
眠っていた。だから本来降りるべき駅を乗り過ごしここまで来た。
腕時計を見た。すると針は午前1時10分を指していた。
そして着いたと言われても、ここが何処か分からなかった。
だから車掌に訊いた。

「あの、すみません。ここは?」

「ここですか?山梨ですよ」

「山梨?」

「ええ。そうです。新宿からだと80キロほど離れた場所になります。それから引き返しの上りの電車はありません。でも大丈夫ですよ。ここは山の中の田舎ですが全く何もないと言う訳ではありません。駅前には小さいですがホテルがありますよ」

車掌はそう言って立ち去ったが、その口振りからして、つくしと同じように乗り過ごす人間がいるということが分かった。
だからごく当たり前のようにホテルの場所を教えてくれたが、小さな駅の改札を出たところは、すぐに車道で、そこには息子を迎えに来たのだろう。年配の男性がハンドルを握る車に若者が乗る様子や、数メートル先にいる傘をさした男性が暗闇に消えていく姿があった。

それにしても、まさか隣の県まで乗り過ごすとは思いもしなかった。
つくしが暮らす街はJR中央線の沿線で、今日は新宿を23時45分に出る電車に乗ったが今まで乗り過ごしたことはなかった。
そして、その電車の終点は都心から遠く離れた山の中の小さな街。
これまで駅のホームにある電光掲示板に表示されているその地名を意識したことはなかった。自分の乗った電車がこんなに遠くまで走っているとは思わなかった。

それにしても、ほんの数秒目を閉じただけだったはずだ。それに一度目が覚めたはずだったが、再び暗闇の中に落ちたのは疲れが溜まっていたからなのか。
確かに、ここ数日忙しくて残業が続いていた。だから帰りはいつも遅かった。
だがひとり暮らしということもあり、時間は自由だった。それに睡眠時間が6時間だとしても、ベッドに横になれば深い眠りに落ちるから疲れを翌日に持ち越すことはなかった。
けれど、流石に毎日ともなれば疲れが溜まっていたとしてもおかしくはなかった。

だが今日は真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。だから食事を済ませて帰ることにした。
だから会社近くのイタリアンレストランで食事をしたが、その時グラスワイン頼んだ。
それは口当たりの良い甘さを持つワイン。一杯だけでは飲み足りない。そう思ったからもう一杯頼んだのだが、それが間違いだったのかもしれない。だが、今日はどうしても飲みたかった。だから飲んだ。
だが立っていれば眠ることはなかったはずだが、珍しく席が空いていて座ったのだが、それがまずかったのかもしれない。だが今更それを言ったところでどうしようもない。
今は見知らぬ街の駅にいて、これから都内に帰る手段はないのだから今夜はこの街に泊まるしかなかった。

つくしは車掌が教えてくれたホテルへと足を向けたが、一歩踏み出したところで足に冷たさを感じて下を見た。足元の水たまりに気付かなかった。

「ああ…やっちゃった」

踏み出したパンプスの中に水が入ってストッキングに滲みていた。
やがてジワジワと滲みが広がるのが感じたが、どうせ脱ぐのだから濡れたところで気にすることはない。それに濡れた靴が朝までに乾かなくても大したことではない。

それにしても、こここが山の中の街なら、この季節の晴れた日は新緑が美しいはずだ。
それにはっきりとは見えないが、街灯に照らされた街の外側には暗い山があることは感じられる。そして都会に降る雨とは違う種類の雨が降るこの街の緑は、都会のビルの間から見える緑とは違って深いはずだ。それにきっと緑が街を包み込んでいるはずだ。

そう言えば、最近は毎日遅く晴れた空をのんびりと見上げたことがなかった。
そうだ。明日は土曜で仕事は休みだ。いや。もう日付は変わっているのだから、もう土曜で今日は休みだ。だからこれから寝て起きたらこの街を散策してみるのも悪くないと思った。
久し振りにのんびりと過ごすのも悪くない。緑あふれる場所で空を見上げてみるのもいいかもしれない。
それにもうすぐ気の滅入るような梅雨がやって来る。だからその前に晴れた空を見上げたい。そう思うと立ち尽くしている水たまりから出た。




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2020
05.29

夜の終わりに 2

「嘘でしょ?門限があるなんて聞いてないわよ…」

車掌が言った通り駅前には小さなホテルがあった。
つくしが想像していたのは、ビジネスホテルだったが、そこは名前でこそビジネスホテルとついているが、それはホテルと言うよりも旅館に近い建物だ。
そして入口の扉に掛けられているプレートに、最終チェックインは24時で門限24時と書いてあった。
だから午前1時を回っている今、ホテルの入口は施錠されていて、いくらチャイムを鳴らしても玄関に明かりがつくこともなければ誰も現れなかった。

「どうすればいいのよ….」

そう呟くと雨足が強くなった。ザアザアとした吹き降りになった。
真っ暗な夜の雨の中、見知らぬ街で行く当てがない女がひとり。今のこの気持を表現するとすれば路地に追いつめられ逃げ場を失ったネズミの気持だ。
それについさっきまでは、この街の新緑を楽しみにしていたが、今はそれどころではない。
それどころか、一週間の疲れが重く背中にのしかかってきた。
こんなとき、彼氏でもいれば電話で迎えに来てもらうことも出来るのかもしれない。だがつくしに彼氏はいない。それに彼氏がいたとしても、こんなに遠くまで迎えに来てくれる彼氏がいればの話だが、彼氏がいない女が何を言ったところでどうしようもない。

そうだ。そう言えば駅前にタクシーが1台止まっているのを見た。
黒塗りのタクシーは空車を示していた。だからそれに乗ればいい。それで都内まで帰ればいい。幾ら料金がかかるか想像すると怖いものがあるが、今のこの状況ではそんなことを言っている場合ではない。
財布に現金は少なかったがカードはある。いくら田舎のタクシーでも一枚くらいカードは使えるはずだ。
それに新緑はまた別の機会に見にくればいい。ただ、その気になればの話だが、今はとにかくタクシーに乗る必要があった。

つくしは振り返ってタクシーが止まっていた場所を見た。
すると、そこには先程のタクシーがいたが、最終電車が到着した今、これ以上待っても誰も駅から出て来ることはない。つまり、タクシーはすぐにでもその場を離れるだろう。
現にヘッドライトが点され車は今にも動き出しそうな気配がした。
だからつくしはタクシーを目指して駈け出した。そして運転手に乗りますという意思を表示するように手を振った。

するとタクシーの運転手は、つくしの意思を理解したのか。
車は動くことなく、エンジンがかけられたままその場に止まっていた。
だから、ああ良かった。これで家に帰ることが出来る。そんな思いで急いで近づくと、傘をたたみ後部座席のドアが開かれるのを待った。
だが、ドアは開かれなかった。
だから後部ドアの窓をノックした。すると窓がスルスルと降りたが、暗い後部座席にはスーツ姿の男性がいた。

つくしは一足遅かったのだと気付いた。
タクシーがヘッドライトを点していたのは、客を乗せて出発しようとしていたところだったのだ。
万事休すか。一瞬そう思ったが頭の中にひらめいたのは、同乗させてもらえないかということ。この男性がどこに向かうにしても、その男性が降りた後、そのタクシーで都内に戻ればいいということ。
それに男性がどこまで帰るにしても、タクシー料金をつくしが支払うと言えば同乗させてもらえるのではないかと思った。
それに後部座席に隣同士に座る相手が見知らぬ男性だとしても、タクシーには運転手という第三者がいる。
だから何かが起こることはないはずだ。それに真夜中に女がひとり。それにどう見てもつくしが困っていることは明らかであり、そんな女性を相手になにかしようと言うなら、この男性は問題のある人格の持ち主ということになるが、車内からつくしを見る男は変質者には思えなかった。だが変質者に見えない代わりに鋭い瞳がつくしを見ていた。
けれど今は瞳の鋭さなど関係ない。とにかく、この困った状況から脱出したいつくしは自分の願いと状況を説明した。

「あの。失礼ですがどちらへお帰りですか?大変厚かましいお願いをして申し訳ないのですが、もし東京方面にお帰りなら同乗させていただけませんか?実は私は電車を乗り過ごしてしまったのでこの車が必要なんです。いえ、東京方面じゃなくても構いません。この街にお住まいなら、ご自宅までの料金は私がお支払いします。もしあなたが都内まで戻られるのならそのお金もお支払いいたします」

そう言ったつくしに対し、車内の男性は何も言わず、ただ鋭い瞳でつくしを見ていた。
もしかすると、この男性は酔っていて頭の回転が鈍っているのか。だからつくしが言っていることが理解出来ないのか。だが酒の匂いはしなかった。その代わり煙草の匂いがした。
それとも、この男性は元から頭の回転が鈍いのか。だがそうは見えないが人は見かけでは分からない。だからもう一度別の言葉で頼んでみることにした。

「あの__」

「この車はタクシーじゃない」

「は?」

「お前は酔ってるのか?」

「え?」

「いい年をした女が前後不覚になるまで酒を飲んで乗り過ごしたか?….ったく…」


『この車はタクシーじゃない』
つくしは男性が言っている意味が分からなかった。
それに、丁寧に言葉を継ぐつくしに対し失礼な言い方をする男性の態度にカチンときた。
だから、酔ってるのはそっちじゃないの?そんな言葉が喉元までせり上がって来たが、目の前の車を逃す訳にはいかない。この車を逃せばここで始発の電車を待つことになる。それだけは避けたい。だから男性を怒らせたくないという思いから、その言葉を呑み込み丁寧に言った。

「あの。お急ぎのところでしたら申し訳ございません。私本当に困っているんです。駅前のホテルに泊まろうかと思ったんですが、門限があって24時で閉まっていたんです。それにここまで迎えに来てくれる知り合いもいなくて、このタクシーを逃すと路頭に迷うんです」

「分からない女だな。この車はタクシーじゃない」

つくしは丁寧に頼んだ。
だが男性はこれはタクシーじゃないと否定を繰り返したが、それはつくしを同乗させたくないという意味なのか。それとも誰か別の人が乗って来るのを待っているのか。
だとしても、最終電車が到着してから時間が経った。だから乗客はもう誰もいないはずだ。
それにここにはつくし以外誰もいない。それならやはりつくしを同乗させたくないという意味なのだろう。

そのとき、あることが頭の中に浮かんだ。
それは運転手に別のタクシーを呼んでもらえばいいということ。それにしても何故もっと早くそれを思い付かなかったのか。そうすればこの男性に同乗させて欲しいと頼むことはなかった。
だが、こんな真夜中に迎車を受けてくれるかどうかという問題がある。それでも頼んでみるのもいいはずだ。それにしても、運転手は客がいるのだから別の車を呼ぼうという気を回すことが出来ないのか。

「あのすみません運転手さん!こんな時間に申し訳ないのですが別の車を呼んでもらえませんか?」

つくしは開いた窓から見えなかったが、前方にいるであろう運転手に向かって声をかけた。
だが答えたのは運転手ではなく鋭い目をした男性。

「何度も言わせるな。この車はタクシーじゃない」

再びそう言われ腹が立った。
女性が困っているというのに、この男性は女性を助けようという気が起きないのか。
それに運転手が別のタクシーを呼ぶことを邪魔するというならこっちにも考えがある。

「あなたもおかしなことを言うわね。この車がタクシーじゃないってどこがタクシーじゃないのよ?」

「しつこい女だな。いいかよく見ろ。この車はタクシーじゃない。個人の車だ。俺の車だ」

そう言われ何を言っているのかとばかり車の屋根を見た。
すると、そこにあるはずの会社名の行灯は無かった。それに雨の降る真夜中とは言え、よく見ればこの車はタクシーにしては大きくて立派だ。それに名前は分からないが、恐らく輸入車。それも高級外車だ。
つまり少し前に見たタクシーは、とっくに誰かを乗せてその場からいなくなっているということ。
それに気づいた瞬間。つなぐ言葉を失い唇から力が抜けて何も言えなくなった。




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2020
05.30

夜の終わりに 3

司は長野での仕事を終えると車に乗り、中央道を東京に向かって走っていた。
だがこの先事故で通行止めの案内に、近くのインターで高速を降り下道を走っていた。
やがて車がどこかの駅前に差し掛かったとき、喉の渇きを覚え、車を止めさせると自販機から水を買った。
そして、運転手に暫くこのままでいてくれと言って煙草を吸っていたが、そのときスモークガラスの窓をノックする音に外を見た。
するとそこには雨に濡れながら女が立っていた。

時刻は午前1時を回っている。
まさかそんな時間に駅前で女に車の窓をノックされるとは思いもしなかった。
司は安全上の理由から、誰に車の窓を開けろと言われても開けることはない。
ましてや真夜中。トラブルに巻き込まれる可能性が高い。だからなおさら無視を決めていたが、女が再び窓をノックしようとしているところで、何故か思わず窓を開けた。

その女は司の車をタクシーと勘違いをしていた。
そして電車を乗り過ごして困っていると自分が置かれている窮状を訴え、都内に帰りたいので同乗させて欲しいと頼んできた。
だがこの車はタクシーじゃないと言う司に対し、女はタクシー代なら払いますと言い、強固なまでに乗せて欲しいと言ってきた。だが、その理由が分からない訳ではない。
それは、この車を、つい先ほどまで司の車の前方に止められていたタクシーと勘違いしているということ。だが司が言い放った「よく見ろ。この車は俺の車だ」に改めて車を見た女は、自分の勘違いに気付いたのか。ようやく黙った。
そして言った。

「申し訳ありません。私の勘違いでした。改札を出たときここに黒いタクシーが止まっていたので、てっきりそのタクシーだと思って…..本当に申し訳ございませんでした」

司は車の傍で雨に打たれながら頭を下げた女を見ていたが、女の口ぶりやスーツ姿という服装から、勘違いをしたことを除けば誠実そうに見えた。
いや、誠実というよりも真面目という言葉の方が当てはまるように思えた。
それにしても、傘を開けばいいものの、司の車をタクシーだと思った女は、乗るつもりで折りたたんだ傘はそのままで髪はぐっしょりと濡れていた。
そのとき、強い風が吹いて雨が車内へ吹き込んだ。と同時に女はクシャミをして鼻をすすった。そして唇が震えているのが見て取れた。

真夜中の激しい雨。すっかり濡れてしまった身体。
梅雨入り前の季節だとしても夜は冷える。傘をさすことを忘れた女をこのままここに放置すれば、確実に風邪をひくだろう。下手をすれば肺炎になってもおかしくはない。
そしてその姿は、打ちひしがれ、うなだれているように見えたが、どうやらこの女は本当に困っているようだ。それに女は周りが見えてないようだ。だから司は女に言った。

「ここが終点なら駅員がいるはずだ。都内まで帰りたいが手段がないと事情を説明して始発が出るまで中で待たせてもらえばいい」

そう言ったが、女の耳に届いていないのか。
女から言葉が返ってくることはなかった。
そして何故か口にした、「それともこの車に乗るか?乗るなら都内まで連れて帰ってやるが、どうする?」の言葉。
だがそうは言ったものの、女は見ず知らずの男の車に乗るほどバカではないはずだ。
だから女は駅員に助けを求めるだろう。
だが、つい先程までどうしてもこの車に乗りたいと訴えてきた女は、どこか怖いもの知らずに思えた。
それに女は、ほんの少し前までは唇だけが震えていたが、今は身体まで震えていて、その震えを抑えようとしたのか。鞄を腕にかけた状態で腕組みをしていたが、それでもまだ震えていた。

「おい?大丈夫か?」

さすがに司は心配になって訊いた。

「す、すみません….大丈夫…です。あの….」

と、女は言葉を途切らせながら言ったが、女を濡らしている雨はその強さを増した。
そして言葉を続けようとした女は、よろけて鞄を足元に落とすと、自分自身も濡れたアスファルトの上に膝を着いた。

「おい!」

司はドアを開けて車を降りると、今にも倒れそうな女に触れた。

「しっかりしろ!」

だが女は身体を震わせるだけで答えなかった。
だから司は女を抱え上げると運転手に言った。

「後藤。タオルを用意しろ。この女を車に乗せる」




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2020
05.31

夜の終わりに 4

真っ暗な雨の夜。
窓の外に雨粒は見えなかったが、それでも激しく降っているのが感じられた。
ここが街中なら、たとえ真夜中でも滲んだ明かりが見えるはずだが、車は山中を走っていることから外に明かりらしきものは見えなかった。
つまりどんなに目を凝らしたところで見えるのは沼のような暗闇であり、車のヘッドライトが照らすのは濡れたアスファルトだけ。
そしてタオルを敷いた司の膝に頭を乗せて寝ているのは名前も知らない女。
その女は傘があるというのに司に自分の思いを伝えることに一生懸命で傘を開くことはなかった。
だからずぶ濡れになり身体を震わせてしゃがみ込むと、今にもその場に倒れそうになっていた。そして司の問い掛けに答えることはなかった。

司は女嫌いではない。だがかつてはそうだった。
そして女が眠っている姿を見つめる経験をしたことがない。それは事を終えても同じベッドで朝まで過ごしたことがないから。
それに女を抱いて感動をしたことがない。そんな男だから愛の言葉も口にしたこともない。
それでも、大勢の女が司の傍にいたいと望むのは、彼が日本を代表する企業、道明寺ホールディングスの道明寺司だからだ。

そんな司の人生は、生まれ落ちた瞬間から自分の考えとは全く関係なく決められたレールの上を走ることが求められた。しなければならないと課せられたものがいくつもあった。
やがて、そんな状況に置かれた少年は、自分の立場が嫌で反抗的な態度を取った。
だが少年は自分の資質を知り抜いていた。それは蛙の子は蛙であり両親の資質を受け継いでいて、ビジネスの才能があるということ。
だから大学を卒業し道明寺ホールディングスへ専務として入社すると、自分よりも年上のツラの皮が厚いタヌキどもの腹の中を読み、いくつものプロジェクトを指揮して成功に導いた。
そして35才になった今は副社長として圧倒的な存在感を示しているが、殆どの人間が司に思うのは、怜悧な顏を持つ男は無機質で冷淡だということ。

そんな男が真夜中の田舎の駅前で酔って電車を乗り過ごし雨に濡れ震える女を車に乗せた。
まさにそれは自分でも信じられないことだが、あのままにしておくことは出来なかった。
女の額に手を当てたが熱はなさそうだった。だが震えていたのは、雨に濡れ体温が下がっているからだ。だから司はこれ以上体温を下げないために女の濡れたスーツの上着を脱がせると、自分のスーツの上着を脱いで女の身体にかけた。

それにしても、自分はこの女をどうしようというのか。
膝の上の女の広い額には知性が感じられた。
はっきりとした眉と、閉じられた瞼を縁取っている上向きの扇形の睫毛は意志の強さを感じさせた。
そしてその意志の強さは、この車をタクシーだと思い込んで乗せて欲しいと司に訴えたことから既にわかってはいるが、加えてこの女について言えるのは、人は本来善であるという性善説に基づいて行動しているということ。

だから、電車で寝過ごし真夜中の駅に取り残されるという危機的状況に置かれた自分に対して悪事を働く人間はいないと思っているようだ。
そんなお気楽な考えを持つこの女はいったい何歳なのか。30代前半といったところだろうが、どちらにしても、いい年をした人間が簡単に他人を信じるようでは、この先どんな災難に見舞われるか分かったものじゃない。

そんな女から微かに感じられるアルコールの匂い。
女は一体どんな酒を飲んだのか。
司がこれまで交わした数限りない乾杯は、理由なき乾杯であり意味のない酒。
だから気心が知れた仲間と飲む酒以外楽しいと思える酒はなかった。

そのとき、運転手の後藤が言った。

「副社長、どうやらこの先は落石で通行止めになっているようです。迂回路を探してみますが、ご自宅に戻る時間をはっきりと申し上げることが出来ません」

窓の外は暗い夜で雨は激しく降っていた。

「そうか。分かった」

そう答えた司が視線の先に見たのは道路際に輝くホテルのネオンサイン。

「後藤。雨が激しくなってきた。これ以上無理をして進むことはない。あそこに車を入れろ」




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2020
06.01

夜の終わりに 5

道路際に輝くホテルのネオンサイン。
だがそこはメープルのようなホテルではなく、『空』と書かれた青い灯りが道路から見えるようになっているホテルの入口。
周囲に何もない山中に忽然と現れたその場所は、電飾の矢印が進むべき方向を示していて、車は奥へと進んで行ったが、暫くの間、車の両側には竹藪が続いていた。
やがて開けた場所に出ると、前方に独立した和風建築の平屋が間隔をあけて建っていた。
そしていくつかの建物の前には車が止められ、ナンバープレートの前には戸板を小さくしたようなものが置かれていた。

「副社長。本当にこちらでよろしいのでしょうか。こちらはメープルのようなホテルとは違い、その……男女が忍び会う時に使う場所ですが….」

40代後半の後藤は言葉を選びながら言った。

「ああ。構わん。迂回路を探してもこの雨だ。その道もどんな道か分からんだろ?山道ならそこも落石の可能性がある。本来通るはずだった道が復旧するまでここで休む。それにこの女も休ませた方がいいだろう」

何ともおかしな話だが、ほんの少し前まで自分はこの女をどうしようというのかと自問自答していたが、目を閉じると再び開け、ふうっと息をついた。
司は性善説に基づいた行動を取り、男に媚びを売るような態度を取らない女に興味を持った。話をしたいという思いに駆られていた。だが、そうするには時間が必要だ。
だからこの場所で休むことに決めた。

そして自分の膝の上に頭を乗せ寝ている女は熱こそ出してはいないが、この女の頭のてっぺんから爪先まで濡らした雨は、上着だけではなくブラウスも濡らしていた。つまり雨は下着にまで滲みている。だから身体は芯から冷えていて、いくら車内に暖房を効かせていても、着ているものが濡れている以上身体が暖まることはない。
それなら何をすべきかと言えば、濡れた服を脱ぎ熱い風呂に入ること。
だから司はこの女を風呂に入れるつもりだ。

「しかしここは副社長のような方がお使いなられるような場所ではございません」

後藤は司の立場を気にしてそう言ったが、司はこういった施設に対し何がどうという感情はない。
それは、ここが男と女の当たり前のあり方を過ごす場所で、ただそれに特化している場所に過ぎないからだ。
それにメープルだろうが、ヒルトンだろうが、ホテルと名が付く場所を同じように使う男女に目くじらを立てる人間などいないはずだ。
それに真夜中の田舎の道路際に立つこの場所に週刊誌の記者がいるというなら会いたいものだ。

「後藤。俺はここがメープルクラスのホテルだとは思ってない。それにここがどんな場所だろうが気にしちゃいない」

と言ったものの、司は生まれて初めてこの類のホテルを利用する。
だから利用方法が分からなかった。

「それで?お前はこういったホテルに詳しいのか?フロントはどこだ?」

訊かれた後藤は、「こういったホテルには通常フロントはありません。それに特段のチェックインは必要ありません。お部屋に入られたところで利用料金が発生する仕組みになっています。それにホテル側の人間とは極力顏を合せない仕組みになっていますので、お支払についても自動精算で行われるようになっています」と、言って車をゆっくりと前に進めると、「どうやらこちらは建物の入口に明かりが灯っていれば使用出来るシステムのようです。ですからあちらの建物が使用できることになります」と答えたが、後藤が示した建物は、入口にある丸提灯に明かりが灯り『空室』という文字が浮かび上がっていた。

「それにしても、この敷地の広さと建物からして依然はこういったホテルではなく旅館として利用されていたのではないでしょうか?」

確かに広い敷地に外観だけ見れば和風建築の平屋が点在しているここは、初めからこうした施設として建てられたものではないことは覗えた。それにもしここに日本庭園があれば、旅館としての体を成していただろう。つまり、ここを建てた人物は山奥の隠れ家的な宿を営んでいたのか。それとも営むつもりだったのか。どちらにしても、今は当初の面影を残しつつ別の宿として利用されていた。

司は後藤に「お前も開いている部屋を見つけて休め。出発する時は電話をする」と言ったが、後藤は「ありがとうございます。ですがわたくしは車の中で結構ですので」と答えると「車はあちらの広場に駐車いたします」と言葉を継いだ。










司は車から女を抱き上げると、狭い玄関と3畳ほどの広さの次の間の向こうにある12畳ほどの部屋へ女を運んだが、その奥にある部屋はフローリングで、そこに大きなベッドが置かれていた。
だからそこへ女を下ろしたが、ここへ運んでいる途中、一定の息づかいをする女は目が覚める気配がなかった。
だがそんな女が、いきなり目を開いてガバッと起き上がった。
そして目の前にいる司の顏を見て悲鳴を上げた。




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