< 烈日(れつじつ)>
こちらのお話は短編ですが明るいお話ではありません。
お読みになる方はその点をご留意下さい。
**************************
私は知り合いの女性が亡くなったという知らせを受け葬儀に参列するため電車に乗った。
急な知らせで驚いたが、暫く顏を合わせてなかったことから、何かあったのではないかと心配していた矢先のことだった。
私がその女性と知り合ったのは街の絵画教室。
絵を描くことが好きな私は美術大学へ進学したが、大学を卒業するにあたり何を職業にするべきかを悩んだ。いや、正直に言えば悩む必要などなかった。早い段階で芸術とは別の道を歩まなければならないと分っていた。
つまり4年もたたない間に理解したのは、美大に入学できる才能はあっても、その才能で生きていけるのかと言えば、そうではないということだ。
それに芸術の世界に生きる人間は、男も女も彼らは持つ全てをその世界に投げうって生きている。
つまり彼らの精神も心も、目の輝きも発せられる言葉も、全てが芸術に傾けられ、別の世界に生きている。
だから彼らは日常の世界では見つけられない物を創作出来る。形を表現できる。人の心を揺さぶるような絵が描ける。
けれど私は彼らのように自分の持つ全てをその世界になげうってはいない。
いや。なげうっていないのではない。なげうつものがないだけの話だ。
つまり、ただ単に絵を描くのが好きなだけの私は絵描きになるには才能のない人間だったに過ぎなかった。
そして大学を卒業して就職したのは中堅クラスの広告代理店。
絵描きには向いてはいなかったが、それでも絵を描くことが好きな私は、そこで絵を描く仕事が出来るのではないかと思った。だが任されたのは広告の提案と企画であり、グラフィックアートを担当する人間は別にいた。
だから物足りなさを感じた私は、寝るだけの場所になっている家よりも、落ち着いて絵が描ける場所を借りるという意味で絵画教室に通うようになったが、そこで知り合ったのが彼女だ。
彼女の年齢は母親と同じほどではないかと、おおよその見当をつけていたが、本当の年齢は知らなかった。
けれど、亡くなったと連絡を受けたとき、はじめて彼女の年齢を知った。
50歳。母親よりも年上だった。だが彼女はその年齢には思えない若々しさがあった。色白で大きな黒い瞳には輝きがあった。背は高くはないが華奢な身体に弛みは感じられなかった。
それに世間一般的に言って、その年齢の女性から感じられるはずのない透明感というものが感じられた。
私は他人と親しくするのが苦手だ。
心の中をさらけ出して話をするということが苦手だ。
それに母親ほどの年齢の女性と個人的な付き合いをしたことが無かった。
だが何故か彼女とは気が合った。教室が終ってお茶を飲みに行くこともあった。これよかったら貰ってくれない?と言って庭で咲いたというバラの花を貰ったこともあった。一緒に展覧会へ出かけたこともあった。旅行に行ったからと言って、買ってきたお菓子を貰ったこともあった。
そうした時間の流れは2年で、私はこうして葬儀に向かいながら彼女に秘密を打ち明けられた日のことを思い出していた。

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こちらのお話は短編ですが明るいお話ではありません。
お読みになる方はその点をご留意下さい。
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私は知り合いの女性が亡くなったという知らせを受け葬儀に参列するため電車に乗った。
急な知らせで驚いたが、暫く顏を合わせてなかったことから、何かあったのではないかと心配していた矢先のことだった。
私がその女性と知り合ったのは街の絵画教室。
絵を描くことが好きな私は美術大学へ進学したが、大学を卒業するにあたり何を職業にするべきかを悩んだ。いや、正直に言えば悩む必要などなかった。早い段階で芸術とは別の道を歩まなければならないと分っていた。
つまり4年もたたない間に理解したのは、美大に入学できる才能はあっても、その才能で生きていけるのかと言えば、そうではないということだ。
それに芸術の世界に生きる人間は、男も女も彼らは持つ全てをその世界に投げうって生きている。
つまり彼らの精神も心も、目の輝きも発せられる言葉も、全てが芸術に傾けられ、別の世界に生きている。
だから彼らは日常の世界では見つけられない物を創作出来る。形を表現できる。人の心を揺さぶるような絵が描ける。
けれど私は彼らのように自分の持つ全てをその世界になげうってはいない。
いや。なげうっていないのではない。なげうつものがないだけの話だ。
つまり、ただ単に絵を描くのが好きなだけの私は絵描きになるには才能のない人間だったに過ぎなかった。
そして大学を卒業して就職したのは中堅クラスの広告代理店。
絵描きには向いてはいなかったが、それでも絵を描くことが好きな私は、そこで絵を描く仕事が出来るのではないかと思った。だが任されたのは広告の提案と企画であり、グラフィックアートを担当する人間は別にいた。
だから物足りなさを感じた私は、寝るだけの場所になっている家よりも、落ち着いて絵が描ける場所を借りるという意味で絵画教室に通うようになったが、そこで知り合ったのが彼女だ。
彼女の年齢は母親と同じほどではないかと、おおよその見当をつけていたが、本当の年齢は知らなかった。
けれど、亡くなったと連絡を受けたとき、はじめて彼女の年齢を知った。
50歳。母親よりも年上だった。だが彼女はその年齢には思えない若々しさがあった。色白で大きな黒い瞳には輝きがあった。背は高くはないが華奢な身体に弛みは感じられなかった。
それに世間一般的に言って、その年齢の女性から感じられるはずのない透明感というものが感じられた。
私は他人と親しくするのが苦手だ。
心の中をさらけ出して話をするということが苦手だ。
それに母親ほどの年齢の女性と個人的な付き合いをしたことが無かった。
だが何故か彼女とは気が合った。教室が終ってお茶を飲みに行くこともあった。これよかったら貰ってくれない?と言って庭で咲いたというバラの花を貰ったこともあった。一緒に展覧会へ出かけたこともあった。旅行に行ったからと言って、買ってきたお菓子を貰ったこともあった。
そうした時間の流れは2年で、私はこうして葬儀に向かいながら彼女に秘密を打ち明けられた日のことを思い出していた。

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彼女は私のことを「理香ちゃん」と下の名前で呼ぶようになり、私も彼女のことを「つくしさん」と下の名前で呼ぶようになった。
彼女には夫がいたが子供はいなかった。ふたり暮らしだという彼女の夫は大学教授で研究職という仕事柄、世間とは少し離れた世界で生きていると言った。
そして私は、今年で結婚して14年になると言った彼女が男性と一緒にふざけ合っている姿を見かけた。
そこは都内から遠く離れた砂浜。ふたりの間に漂うのは友人ではない親密さ。だが疚しさや暗さといったものが感じられなかった。照り付ける夏の太陽の下で海から吹く強い南風を身体全体で受け止め楽しんでいるように見えた。
やがて波打ち際を走っていた彼女は背の高い男性の前で立ち止まると屈託のない笑顔を浮べた。そのとき強い風が彼女の髪の毛を乱すと彼女の唇に張り付いた。すると男性は手を伸ばし唇に付いた髪を取り去り、ゆっくりと彼女の唇に唇を重ねた。
だから私は、てっきりその人が夫だと思った。だが、でもっと思った。
それは、彼女は夫とは10歳の年の差があると言っていたことを思い出したからだ。
つまりその男性は彼女より10歳上には見えなかったということ。
恐らく男性の年齢は彼女と同じか、少し年上といった感じだ。
声はかけなかった。それはかけることが躊躇われるほど、ふたりの姿に幸福さを見たから。
だから声をかければその幸福さの邪魔をするように思え、名前を呼ぶことが躊躇われた。
それに、明るい太陽の下で背の高い男性が女性の後ろに立ち、女性を柔らかく抱きしめ顏を寄せる姿は、包み隠すことなく男女の愛を描いたクリムトの「接吻」のようなエロスがあった。
いずれにしても、彼女と一緒にいた男性が夫ではないと知ったのは、数日後にその男性を雑誌で見たからだ。
私が見た男性は、道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOである道明寺司。
名前は訊いたことがあるが、どんな人物なのかは知らなかった。ただ言えるのは、日本を代表する企業の経営者だということ。
そのとき私の後ろを通りかかった年上の同僚は、雑誌に目を落とすと言った。
「この人。少し前に離婚したのよね?確か息子さんがふたりいるって話よ?それにしてもお父さんがこれだけかっこいいなら息子さんもかっこいいはずよ?見てみたいわね?
でも結婚は親が決めた政略結婚だったらしいわ。それでも長い間夫婦でいて子供もいれば情も湧くでしょうけど違ったみたいね?なんでも道明寺司は好きな女性が出来たから妻に別れてくれって言ったそうよ。もしそれが本当なら、このクラスの男性の離婚となると慰謝料は相当なものでしょうけど、好きな女性と一緒にいるためならお金は関係ないのかもしれないわね?
それに昔、週刊誌に『道明寺財閥の御曹司、世紀の恋』なんて記事が載ったことがあったらしいわよ?つまりシェイクスピア風に言えば『愛に生きるべきか。それとも財閥の跡取りとして生きるべきか』ってことかしら?この写真の道明寺司はクールに見えるけど、身体の中は熱い血が流れているのかもしれないわね?」
私は胸がドキドキし始めるのを覚えた。
それは、私が見た既婚の女性と未婚の男性が唇を重ねた姿は、未婚の若い女性が金銭と引き替えに随分と年上の既婚の男性と付き合うといったものとは全く別の男女の姿だからだ。
彼女は男性と会うために夫にどんな言い訳を用意したのか。
どんなアリバイ工作をしたのか。
彼女がキスを受け入れた様子を見れば、ふたりの関係は一方通行ではない気がした。
そして、道明寺司が妻と別れたということは、夫のいる女性との逢瀬をただの浮気にするつもりはないという意思があるということだが、果たして彼女は___?
そんな私の思いが伝わったのか。
数日後の絵画教室の帰り、「理香ちゃん。もしよかったらお茶でもしない?」と誘われた私は近くの喫茶店で彼女とお茶を飲むことにした。

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彼女には夫がいたが子供はいなかった。ふたり暮らしだという彼女の夫は大学教授で研究職という仕事柄、世間とは少し離れた世界で生きていると言った。
そして私は、今年で結婚して14年になると言った彼女が男性と一緒にふざけ合っている姿を見かけた。
そこは都内から遠く離れた砂浜。ふたりの間に漂うのは友人ではない親密さ。だが疚しさや暗さといったものが感じられなかった。照り付ける夏の太陽の下で海から吹く強い南風を身体全体で受け止め楽しんでいるように見えた。
やがて波打ち際を走っていた彼女は背の高い男性の前で立ち止まると屈託のない笑顔を浮べた。そのとき強い風が彼女の髪の毛を乱すと彼女の唇に張り付いた。すると男性は手を伸ばし唇に付いた髪を取り去り、ゆっくりと彼女の唇に唇を重ねた。
だから私は、てっきりその人が夫だと思った。だが、でもっと思った。
それは、彼女は夫とは10歳の年の差があると言っていたことを思い出したからだ。
つまりその男性は彼女より10歳上には見えなかったということ。
恐らく男性の年齢は彼女と同じか、少し年上といった感じだ。
声はかけなかった。それはかけることが躊躇われるほど、ふたりの姿に幸福さを見たから。
だから声をかければその幸福さの邪魔をするように思え、名前を呼ぶことが躊躇われた。
それに、明るい太陽の下で背の高い男性が女性の後ろに立ち、女性を柔らかく抱きしめ顏を寄せる姿は、包み隠すことなく男女の愛を描いたクリムトの「接吻」のようなエロスがあった。
いずれにしても、彼女と一緒にいた男性が夫ではないと知ったのは、数日後にその男性を雑誌で見たからだ。
私が見た男性は、道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOである道明寺司。
名前は訊いたことがあるが、どんな人物なのかは知らなかった。ただ言えるのは、日本を代表する企業の経営者だということ。
そのとき私の後ろを通りかかった年上の同僚は、雑誌に目を落とすと言った。
「この人。少し前に離婚したのよね?確か息子さんがふたりいるって話よ?それにしてもお父さんがこれだけかっこいいなら息子さんもかっこいいはずよ?見てみたいわね?
でも結婚は親が決めた政略結婚だったらしいわ。それでも長い間夫婦でいて子供もいれば情も湧くでしょうけど違ったみたいね?なんでも道明寺司は好きな女性が出来たから妻に別れてくれって言ったそうよ。もしそれが本当なら、このクラスの男性の離婚となると慰謝料は相当なものでしょうけど、好きな女性と一緒にいるためならお金は関係ないのかもしれないわね?
それに昔、週刊誌に『道明寺財閥の御曹司、世紀の恋』なんて記事が載ったことがあったらしいわよ?つまりシェイクスピア風に言えば『愛に生きるべきか。それとも財閥の跡取りとして生きるべきか』ってことかしら?この写真の道明寺司はクールに見えるけど、身体の中は熱い血が流れているのかもしれないわね?」
私は胸がドキドキし始めるのを覚えた。
それは、私が見た既婚の女性と未婚の男性が唇を重ねた姿は、未婚の若い女性が金銭と引き替えに随分と年上の既婚の男性と付き合うといったものとは全く別の男女の姿だからだ。
彼女は男性と会うために夫にどんな言い訳を用意したのか。
どんなアリバイ工作をしたのか。
彼女がキスを受け入れた様子を見れば、ふたりの関係は一方通行ではない気がした。
そして、道明寺司が妻と別れたということは、夫のいる女性との逢瀬をただの浮気にするつもりはないという意思があるということだが、果たして彼女は___?
そんな私の思いが伝わったのか。
数日後の絵画教室の帰り、「理香ちゃん。もしよかったらお茶でもしない?」と誘われた私は近くの喫茶店で彼女とお茶を飲むことにした。

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「気付いていたわ。理香ちゃんがあそこにいたのは」
彼女は私があの場所にいたことに気付いていたと言った。
そして「ねえ甘いものでも食べましょう。ご馳走するから」とケーキを注文すると、私が食べ終わるのを待って「あの人は主人じゃないの」と言って語り始めたのは昔の恋の話だ。
それは16才の少女と17才の少年の恋。
自分を苛める少年が大嫌いだったと言った彼女は、やがて気付けば恋におちていたと言った。
「その人はお金持ちの家の息子で、屈折した考えの持ち主で、我儘で俺様な男。でも一途なところがある人で私が迷っているときいつも答えをくれた。私は昔から頑固なところがあるって言われていて、変なところでこだわり過ぎることがあったの。そんな私の考えを変えてくれたのが彼なの」
自分を変えてくれた男性との恋。
私はそういった恋をしたことがない。だから彼女が言ったことを理解することは難しい。
だが男と女の間には何だって起こり得ることは頭の中では分かっている。
けれど恋は脳の勘違いだという話もあるように、若い頃の恋というのは思い込みというものもあるはずだ。だが彼女の言葉から感じられるのは、決して思い込みではないということ。
そして人生が二度あれば、またきっと同じ人を好きになるはずだと言った。
ひとしきり、ふたりの出会いについて語った彼女は、言葉を途切らせるとコーヒーを口に運んだ。
それにしても、語られた話の中には、身分違いという言葉が今も存在することを証明するような下りもあった。それに、その年頃の少年と少女にはあり得ないような事も起きていた。
そんなふたりが一緒に過ごした時間は短く、少年が高校を卒業するとアメリカの大学へ進学したことで、ふたりはニューヨークと東京という遠い地で恋が成就されることを願った。
けれど、この恋は可能性のない恋だと、ふたりともどこかで分かっていて、そんなふたりが別れを決めたのは、男性が少年から青年になり大学を卒業してからだと言った。
そして1年後。男性は親の決めた相手と結婚をしたと言った。
「理香ちゃん。たとえどんなに裕福な暮らしをしていても、全てが自分の思い通りになる人は少ないと思うの。私は裕福な家庭に生まれなかったし、初めから人生が思い通りに行くとは思いもしなかった。でも彼は裕福だからこそ自分の思い通りにはならなかったわ。
何しろ彼の人生は自分だけの人生じゃなかったから。でもそれは付き合い始めた時から分かっていたことだったわ。でもね。それでもなんとかなる。彼は自分の人生だからなんとか出来ると思っていたわ。でもそれを許さない状況もある。だから私は彼と別れたの」
その言葉の裏に隠されているものは当事者でなくても察することが出来た。
道明寺司の政略結婚。それは会社が必要としていたものを得るために行われたビジネスであり、ふたりはそのために自分達を犠牲にしていた。
そして若いふたりの恋は封印され、彼女は30代で結婚したが、その結婚は恋愛感情から生まれた夫婦関係というより、ただの同居人のようなものだと言った。
「瞬く間に時が流れたとは言わないけど、それでもあっという間に40代を迎えたわ」
そして、古い恋の封印が解かれたのは、ホテルのロビーでの偶然の再会からだと言った。
そんな男と女の間に流れた時は四半世紀近い歳月だと言った。
だから、ふたりとも全てが昔のままだとは言えない容貌だったが、いくら時が流れてもあの頃の事がまるで絵に描いたように目の前に現れたと言った。
つまり、それほど互いの脳裡には、あの頃のふたりの姿が焼き付けられているということだ。
男性はその場で彼女に名刺を渡した。そしてふたりは連絡を取り合うようになり、短い時間でも会うようになった。やがてその時間が長くなり、肌を合わせるようになったが、彼女には夫がいる。それに相手にも妻がいる。だから彼女は二人の関係に罪の意識があった。罪悪感を抱いた。だが理性よりも心に重きを置いたのは、男性のことが好きだからだと言った。
それにしても何故彼女は、ふたりのことを私に話すのか。
絵画教室で一緒になっただけの若い女に、何故過去の恋について告白をするのか。
そして今のふたりの関係も。
私は砂浜で見たことを誰かに話すつもりはない。それは彼女の夫にも話すつもりはないということ。
だから、口止めをするための前置きとして、ふたりのことを話し始めたなら必要ないという思いで言った。
「つくしさん。何故ふたりのことを私に?私はおふたりのことを誰かに話すつもりはありません。もちろんご主人にも言いません。だから心配しないで下さい」
すると彼女は首を横に振って、「理香ちゃん。違うの。私がこんな話をするのは誰かに知って欲しかったからなの。私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」と言ったが、私は彼女が口にした救われるの意味が分からなかった。

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彼女は私があの場所にいたことに気付いていたと言った。
そして「ねえ甘いものでも食べましょう。ご馳走するから」とケーキを注文すると、私が食べ終わるのを待って「あの人は主人じゃないの」と言って語り始めたのは昔の恋の話だ。
それは16才の少女と17才の少年の恋。
自分を苛める少年が大嫌いだったと言った彼女は、やがて気付けば恋におちていたと言った。
「その人はお金持ちの家の息子で、屈折した考えの持ち主で、我儘で俺様な男。でも一途なところがある人で私が迷っているときいつも答えをくれた。私は昔から頑固なところがあるって言われていて、変なところでこだわり過ぎることがあったの。そんな私の考えを変えてくれたのが彼なの」
自分を変えてくれた男性との恋。
私はそういった恋をしたことがない。だから彼女が言ったことを理解することは難しい。
だが男と女の間には何だって起こり得ることは頭の中では分かっている。
けれど恋は脳の勘違いだという話もあるように、若い頃の恋というのは思い込みというものもあるはずだ。だが彼女の言葉から感じられるのは、決して思い込みではないということ。
そして人生が二度あれば、またきっと同じ人を好きになるはずだと言った。
ひとしきり、ふたりの出会いについて語った彼女は、言葉を途切らせるとコーヒーを口に運んだ。
それにしても、語られた話の中には、身分違いという言葉が今も存在することを証明するような下りもあった。それに、その年頃の少年と少女にはあり得ないような事も起きていた。
そんなふたりが一緒に過ごした時間は短く、少年が高校を卒業するとアメリカの大学へ進学したことで、ふたりはニューヨークと東京という遠い地で恋が成就されることを願った。
けれど、この恋は可能性のない恋だと、ふたりともどこかで分かっていて、そんなふたりが別れを決めたのは、男性が少年から青年になり大学を卒業してからだと言った。
そして1年後。男性は親の決めた相手と結婚をしたと言った。
「理香ちゃん。たとえどんなに裕福な暮らしをしていても、全てが自分の思い通りになる人は少ないと思うの。私は裕福な家庭に生まれなかったし、初めから人生が思い通りに行くとは思いもしなかった。でも彼は裕福だからこそ自分の思い通りにはならなかったわ。
何しろ彼の人生は自分だけの人生じゃなかったから。でもそれは付き合い始めた時から分かっていたことだったわ。でもね。それでもなんとかなる。彼は自分の人生だからなんとか出来ると思っていたわ。でもそれを許さない状況もある。だから私は彼と別れたの」
その言葉の裏に隠されているものは当事者でなくても察することが出来た。
道明寺司の政略結婚。それは会社が必要としていたものを得るために行われたビジネスであり、ふたりはそのために自分達を犠牲にしていた。
そして若いふたりの恋は封印され、彼女は30代で結婚したが、その結婚は恋愛感情から生まれた夫婦関係というより、ただの同居人のようなものだと言った。
「瞬く間に時が流れたとは言わないけど、それでもあっという間に40代を迎えたわ」
そして、古い恋の封印が解かれたのは、ホテルのロビーでの偶然の再会からだと言った。
そんな男と女の間に流れた時は四半世紀近い歳月だと言った。
だから、ふたりとも全てが昔のままだとは言えない容貌だったが、いくら時が流れてもあの頃の事がまるで絵に描いたように目の前に現れたと言った。
つまり、それほど互いの脳裡には、あの頃のふたりの姿が焼き付けられているということだ。
男性はその場で彼女に名刺を渡した。そしてふたりは連絡を取り合うようになり、短い時間でも会うようになった。やがてその時間が長くなり、肌を合わせるようになったが、彼女には夫がいる。それに相手にも妻がいる。だから彼女は二人の関係に罪の意識があった。罪悪感を抱いた。だが理性よりも心に重きを置いたのは、男性のことが好きだからだと言った。
それにしても何故彼女は、ふたりのことを私に話すのか。
絵画教室で一緒になっただけの若い女に、何故過去の恋について告白をするのか。
そして今のふたりの関係も。
私は砂浜で見たことを誰かに話すつもりはない。それは彼女の夫にも話すつもりはないということ。
だから、口止めをするための前置きとして、ふたりのことを話し始めたなら必要ないという思いで言った。
「つくしさん。何故ふたりのことを私に?私はおふたりのことを誰かに話すつもりはありません。もちろんご主人にも言いません。だから心配しないで下さい」
すると彼女は首を横に振って、「理香ちゃん。違うの。私がこんな話をするのは誰かに知って欲しかったからなの。私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」と言ったが、私は彼女が口にした救われるの意味が分からなかった。

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私は彼女と会った後、同僚から訊いた道明寺司の恋について書かれている古い記事を調べることにした。
私の職場は広告代理店ということもあり、自社が制作した広告が掲載された、その当時の代表的な週刊誌や雑誌がデジタル化されることなく本の状態で資料として保管されていた。
そしてその中に、『道明寺ホールディングスの御曹司、盟主としての道を選ぶのか?』とタイトルが付けられた記事を見つけた。
そこには、当時の道明寺財閥は業績不振から経営危機に陥っており、多額の資金を必要としている。そしてその打開策として考えられているのが、跡取り息子である道明寺司がアメリカの資産家の娘と結婚することだと書かれていた。
そして『道明寺司氏には結婚の約束をした女性Aさんがいる。高校生の頃から交際をしているAさんは裕福とは言えない家庭で育ったことから現代版シンデレラと呼ばれているが、かつて道明寺司氏の母親との間に確執があった。だが今はふたりの関係は良好であり、母親もAさんのことを息子の結婚相手として認めている。だが、ここにきて結婚の約束は果たされることなく終わるのではないか?果たして御曹司の選択は?』と続いていたが、そんな記事の下に掲載されている写真の道明寺司は、無表情でカメラを見据えている。だがその瞳には目に見えない激しさと情熱が湛えられているように思えた。
『彼の人生は自分だけの人生じゃなかったから』
彼女はそう言ったが、まさにその通りで、記事の内容は若いふたりの上へ覆いかぶさってきた重い現実。
その現実を跳ね除けるだけの力は、あの頃の道明寺財閥にはなかった。そして言わずもがなで若いふたりにそんな力があるはずもなく別れを選んだ。いや。きっと彼女の方が身を引いたのだろう。
彼女は明るい人柄だ。それに前向きな人だ。
そして、その明るさと前向きさの中に感じられるのは、ひたむきなところ。
だから絵を描いている時の彼女から感じられるのは絵に対するひたむきな思い。
そんな彼女は何を描いてもいいと自由な題材を与えられれば、いつも明るい絵を描く。
だがその絵は決して上手いとは言えなかった。しかし絵は作者の精神状態が現れると言われていることから、彼女が絵を描いている時は気分が高揚しているのか。そういった感情が絵に現れているように思えた。
そのとき、ふと思った。彼女が絵画教室に通い始めたのはいつの頃からだったのか。
もしかすると、男性と会うために、つまり外出する理由が欲しくて絵画教室に通い始めたのではないか。
四半世紀ぶりに再会したふたりは、まだ若かったあの頃、自分達の身に起きた不条理を受け入れた。けれど大人になった今、自分の心をあきらめることを止めた。自分の心から逃げるのを止めた。
そして、もう離れないと決めたのだろう。
だがそんなふたりに与えられた時間は短いはずだ。愛し合う時間は短く、話をする時間はさらに短いはずだ。
いや違う。そうではない。あの砂浜で見た情景からして、後ろから彼女を抱きしめた男性は話すことは求めていない。それよりも彼女をずっと抱いていたい。このまま溶け合ってしまいたい。そんな思いが感じられた。
だが他人はそんなふたりの思いを情事と呼び、汚れた関係と言う。
しかし私は情事と呼ぶには何かが違うように思えた。
そう思うのは、砂浜で見たふたりの表情があまりにも幸福そうに見えたから。
そして今は別々の人生を歩んでいるとしても、ふたりが一緒にいることは生まれた時から決められていた運命に思えてならなかった。
それに、あのふたりは、たとえ会える時間が10分しかなくても一緒にいることを望むはずだ。

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私の職場は広告代理店ということもあり、自社が制作した広告が掲載された、その当時の代表的な週刊誌や雑誌がデジタル化されることなく本の状態で資料として保管されていた。
そしてその中に、『道明寺ホールディングスの御曹司、盟主としての道を選ぶのか?』とタイトルが付けられた記事を見つけた。
そこには、当時の道明寺財閥は業績不振から経営危機に陥っており、多額の資金を必要としている。そしてその打開策として考えられているのが、跡取り息子である道明寺司がアメリカの資産家の娘と結婚することだと書かれていた。
そして『道明寺司氏には結婚の約束をした女性Aさんがいる。高校生の頃から交際をしているAさんは裕福とは言えない家庭で育ったことから現代版シンデレラと呼ばれているが、かつて道明寺司氏の母親との間に確執があった。だが今はふたりの関係は良好であり、母親もAさんのことを息子の結婚相手として認めている。だが、ここにきて結婚の約束は果たされることなく終わるのではないか?果たして御曹司の選択は?』と続いていたが、そんな記事の下に掲載されている写真の道明寺司は、無表情でカメラを見据えている。だがその瞳には目に見えない激しさと情熱が湛えられているように思えた。
『彼の人生は自分だけの人生じゃなかったから』
彼女はそう言ったが、まさにその通りで、記事の内容は若いふたりの上へ覆いかぶさってきた重い現実。
その現実を跳ね除けるだけの力は、あの頃の道明寺財閥にはなかった。そして言わずもがなで若いふたりにそんな力があるはずもなく別れを選んだ。いや。きっと彼女の方が身を引いたのだろう。
彼女は明るい人柄だ。それに前向きな人だ。
そして、その明るさと前向きさの中に感じられるのは、ひたむきなところ。
だから絵を描いている時の彼女から感じられるのは絵に対するひたむきな思い。
そんな彼女は何を描いてもいいと自由な題材を与えられれば、いつも明るい絵を描く。
だがその絵は決して上手いとは言えなかった。しかし絵は作者の精神状態が現れると言われていることから、彼女が絵を描いている時は気分が高揚しているのか。そういった感情が絵に現れているように思えた。
そのとき、ふと思った。彼女が絵画教室に通い始めたのはいつの頃からだったのか。
もしかすると、男性と会うために、つまり外出する理由が欲しくて絵画教室に通い始めたのではないか。
四半世紀ぶりに再会したふたりは、まだ若かったあの頃、自分達の身に起きた不条理を受け入れた。けれど大人になった今、自分の心をあきらめることを止めた。自分の心から逃げるのを止めた。
そして、もう離れないと決めたのだろう。
だがそんなふたりに与えられた時間は短いはずだ。愛し合う時間は短く、話をする時間はさらに短いはずだ。
いや違う。そうではない。あの砂浜で見た情景からして、後ろから彼女を抱きしめた男性は話すことは求めていない。それよりも彼女をずっと抱いていたい。このまま溶け合ってしまいたい。そんな思いが感じられた。
だが他人はそんなふたりの思いを情事と呼び、汚れた関係と言う。
しかし私は情事と呼ぶには何かが違うように思えた。
そう思うのは、砂浜で見たふたりの表情があまりにも幸福そうに見えたから。
そして今は別々の人生を歩んでいるとしても、ふたりが一緒にいることは生まれた時から決められていた運命に思えてならなかった。
それに、あのふたりは、たとえ会える時間が10分しかなくても一緒にいることを望むはずだ。

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私は電車から降り改札口を出ると、葬儀会場に向かうためにバスに乗った。
乗客は少なく黒い服を着た人間は私ひとりだけで、穏やかな日差しが降り注ぐ午後は、五月晴れの爽やかな空が広がっていた。
私は彼女の葬儀に向かいながら、彼女と出会ってからのことを思い出していたが、今頭の中にあるのは彼女が愛した男性の気持だ。
道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOの道明寺司。
今はどんなに重い現実でも跳ね除ける力を持つ男性は彼女が亡くなったことを知っているのだろうか。最愛の人の死は大企業のトップの男性の耳に届いているだろうか。
男性は忙しい男だ。もしかすると今頃は海外にいて、どこかの国の大統領との会談に臨んでいるかもしれない。だから彼女の死の知らせは届いていないかもしれない。
いや、そんなことはない。きっと届いているはずだ。それに知っているはずだ。
あんなに愛おしそうに彼女を抱いていた男性が最愛の人のことを心に留め置かないはずはない。だから出張で海外にいたとしても、彼女と会えるのは今日が最後になるのだから取って返してここに向かっているはずだ。
そんな男性は彼女が亡くなったと訊いたとき、どんな感情を抱いたのか。
彼女を失い、どんな思いでいるのか。そして男性は私が考えているように彼女の葬儀に現れるのだろうか。何故か私は、そんな風に彼女の夫よりも道明寺司の気持ちばかりを考えていた。
バスを降りた私は暫く真っ直ぐに歩き角を曲がった。
すると目的の建物が見えてきたが、前方には私と同じように喪服姿の女性の姿が見えた。
そして何台もの黒い車が建物の敷地に入って行くのが見えた。
私がたどり着いた建物は大きな葬儀会館だ。
敷地の入口には「故 進藤つくし 儀 葬儀式場」の看板が立っていて、喪服を着た数人の男女が葬儀会場への案内をしていた。だが会場へ入る前に香典を渡さなければならない。
だから大勢の弔問客が列をなしている香典受付の列に並んだが、前にいる若い男性たちが夫である人物のことを話しているのを耳にした。
「進藤先生も奥様を亡くされてショックだよな?」
「だろうな。それも出張中のボストンで聞かされたんだから、たまったもんじゃないよな?」
「ああ。ボストンの学会で新しい術式を発表した直後だったそうだ。知らせた人間が言うには、その時の先生は心臓発作を起こしそうな顏をしてたらしいぞ?」
「おい。止めろよ。外科医が心臓発作を起こしたなんて冗談キツイぜ。それにしても劇症肝炎か。あれはある日突然肝臓が機能しなくなるが、入院してから暫く落ち着いていたし、大丈夫だろうってことで先生もボストンに飛んだけど、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったはずだ」
私はそこで初めて彼女が入院して二週間で亡くなったことを知った。と、同時に夫の詳しい職業を知った。
彼女は自分の夫は大学教授で研究職だと言っていたが、何を専門に研究しているのかは教えてくれなかった。
だが沢山の献花には有名私立大学の医学部の名前があり、10歳年上の彼女の夫が医学部付属病院で外科を専門とする医師だと知ったが、夫が教授を務める私立大学の医学部は、国内でもトップクラスだと言われていて、それはそこで勤務している医師の待遇にも同じことが言えた。
つまり彼女の暮らしは豊かで、お金に困ることはなかったことを知ったが、果たして医師の夫は妻が別の男性を愛していることに気付かなかったのだろうかという思いを抱きながら、葬儀がおこなわれる部屋へ入った。
私は一番後ろの席に座るつもりでいた。
だがそこにはすでに埋まっていた。だから中程の空いている席に腰をおろしたが、そのとき同じタイミングで後ろの席にふたりの女性が座った。
どうやら彼女たちは夫が勤務する大学病院の看護師のようで病院のことを話していたが、その会話の中で進藤つくしが金銭には不自由しなかったとしても、幸せとはいえない状況にいたことを知った。
「それからここだけの話だけどね。進藤先生。奥様から離婚して欲しいって言われてたらしいけど、首を縦に振らなかったらしいわよ?」
「え?先生が離婚?嘘でしょ?それ本当なの?」
「ええ。本当の話よ。なんでも奥様に好きな人が出来たらしいわ」
「やだ。先生可哀想。だって先生は奥様にひとめ惚れをして、何度も結婚して欲しいってプロポーズして、やっと結婚してもらえたって訊いてるわ。それに先生。いつも奥様のこと出来た妻だって自慢してたじゃない?看護師の間でも先生は愛妻家だって有名な話でしょ?それなのに離婚して欲しいだなんて…」
「ねえ。もしかしてあなた知らなかったの?先生は大恋愛の末に結婚したみたいになってるけど、奥様が先生になびかなかったからムキになったって方が正しいみたいよ?
それに病院では愛妻家で通ってるかもしれないけど、先生には銀座のクラブママの愛人がいるわ。それもひとりじゃないのよ?確か他にふたりいたわね?それから札幌と大阪のクラブのママの愛人もいるわ。それに今でこそないけど過去には看護師にも手を出して同時に何人もの看護師が先生と関係があったのよ?だから看護師同士で先生の取り合いみたいになって派閥が出来たりしたこともあったわ。それに中には先生との関係に悩んで病院を辞めた看護師もいいたわ。とにかく先生は看護師の間では昔から女好きで有名なのよ?」
「やだ。止めてよそんな話。あたし先生のこと尊敬してたのに!」
「あのね。いくら尊敬に値する手術の腕を持っていても先生はただの男。頭と下半身は別なのよ?あなた本当に知らなかったの?」
「知らなかったわよ。あたし今年の春に耳鼻科から移動してきたんだもの。そんな話初耳よ。でもそんなに愛人がいるなら奥様の望み通り別れてもよかったんじゃない?それに看護師とそんなに派手な関係があったなら奥様だって、その事ご存知だったんじゃないの?」
「そうね。多分ご存知だったと思うわ。それに傷ついたと思うわ」
「それなら家庭生活は無きに等しかった訳だし、なおさらのこと別れて差し上げればよかったのに」
「無理ね。だって別れたら愛人が結婚してくれって言ってくるでしょ?でも妻という立場の女性がいればそれはないわ。それにあなたも言った通り先生は世間では愛妻家で通っている日本でトップクラスの腕を持つ外科医よ?そんな先生が妻から好きな人が出来たからって理由で離婚を求められている。そんなこと世間体が悪くて言えないわよ。まあどの医者もそうだけど、医者はプライドが高いわ。特に進藤先生はそうよ。だから自分が下に見られるのが嫌なの。奥様が好きになった男性が誰であれ、自分よりもその男性の方が好きってことが許せないのよ。だから離婚して欲しいって言われても同意しなかったのよ」
私は看護師たちの話に、彼女が夫とのことをただの同居人のような関係だと言ったことを思い出した。だが初めはそうではなかったはずだ。夫婦がそういった関係になったのは、夫には複数の愛人がいて、ひとりの女性を愛し続けることが出来ない人間だと彼女が知ったからだ。
そして今思えば、彼女が自分と道明寺司とのことを私に話したとき、「私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」の、救われる、の意味が分かったような気がした。
それは夫とのことを踏まえた上で、たとえ法律上結ばれなくても、心の中にいるたったひとりの人間を愛することが出来る人間がここにいる。そう言いたかったのだろう。
それにしても、突然亡くなった彼女は今何を思っているのだろうか。
魂はここにいて、上から私たちを見下ろしているはずだ。
そして彼女の持つ透明感は、いつか来る日の儚さの表れだったのか。
けれど彼女は道明寺司と再会したとき、別れゆく日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかったはずだ。

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乗客は少なく黒い服を着た人間は私ひとりだけで、穏やかな日差しが降り注ぐ午後は、五月晴れの爽やかな空が広がっていた。
私は彼女の葬儀に向かいながら、彼女と出会ってからのことを思い出していたが、今頭の中にあるのは彼女が愛した男性の気持だ。
道明寺ホールディングスの代表取締役社長兼CEOの道明寺司。
今はどんなに重い現実でも跳ね除ける力を持つ男性は彼女が亡くなったことを知っているのだろうか。最愛の人の死は大企業のトップの男性の耳に届いているだろうか。
男性は忙しい男だ。もしかすると今頃は海外にいて、どこかの国の大統領との会談に臨んでいるかもしれない。だから彼女の死の知らせは届いていないかもしれない。
いや、そんなことはない。きっと届いているはずだ。それに知っているはずだ。
あんなに愛おしそうに彼女を抱いていた男性が最愛の人のことを心に留め置かないはずはない。だから出張で海外にいたとしても、彼女と会えるのは今日が最後になるのだから取って返してここに向かっているはずだ。
そんな男性は彼女が亡くなったと訊いたとき、どんな感情を抱いたのか。
彼女を失い、どんな思いでいるのか。そして男性は私が考えているように彼女の葬儀に現れるのだろうか。何故か私は、そんな風に彼女の夫よりも道明寺司の気持ちばかりを考えていた。
バスを降りた私は暫く真っ直ぐに歩き角を曲がった。
すると目的の建物が見えてきたが、前方には私と同じように喪服姿の女性の姿が見えた。
そして何台もの黒い車が建物の敷地に入って行くのが見えた。
私がたどり着いた建物は大きな葬儀会館だ。
敷地の入口には「故 進藤つくし 儀 葬儀式場」の看板が立っていて、喪服を着た数人の男女が葬儀会場への案内をしていた。だが会場へ入る前に香典を渡さなければならない。
だから大勢の弔問客が列をなしている香典受付の列に並んだが、前にいる若い男性たちが夫である人物のことを話しているのを耳にした。
「進藤先生も奥様を亡くされてショックだよな?」
「だろうな。それも出張中のボストンで聞かされたんだから、たまったもんじゃないよな?」
「ああ。ボストンの学会で新しい術式を発表した直後だったそうだ。知らせた人間が言うには、その時の先生は心臓発作を起こしそうな顏をしてたらしいぞ?」
「おい。止めろよ。外科医が心臓発作を起こしたなんて冗談キツイぜ。それにしても劇症肝炎か。あれはある日突然肝臓が機能しなくなるが、入院してから暫く落ち着いていたし、大丈夫だろうってことで先生もボストンに飛んだけど、まさかこんなに早く亡くなるとは思わなかったはずだ」
私はそこで初めて彼女が入院して二週間で亡くなったことを知った。と、同時に夫の詳しい職業を知った。
彼女は自分の夫は大学教授で研究職だと言っていたが、何を専門に研究しているのかは教えてくれなかった。
だが沢山の献花には有名私立大学の医学部の名前があり、10歳年上の彼女の夫が医学部付属病院で外科を専門とする医師だと知ったが、夫が教授を務める私立大学の医学部は、国内でもトップクラスだと言われていて、それはそこで勤務している医師の待遇にも同じことが言えた。
つまり彼女の暮らしは豊かで、お金に困ることはなかったことを知ったが、果たして医師の夫は妻が別の男性を愛していることに気付かなかったのだろうかという思いを抱きながら、葬儀がおこなわれる部屋へ入った。
私は一番後ろの席に座るつもりでいた。
だがそこにはすでに埋まっていた。だから中程の空いている席に腰をおろしたが、そのとき同じタイミングで後ろの席にふたりの女性が座った。
どうやら彼女たちは夫が勤務する大学病院の看護師のようで病院のことを話していたが、その会話の中で進藤つくしが金銭には不自由しなかったとしても、幸せとはいえない状況にいたことを知った。
「それからここだけの話だけどね。進藤先生。奥様から離婚して欲しいって言われてたらしいけど、首を縦に振らなかったらしいわよ?」
「え?先生が離婚?嘘でしょ?それ本当なの?」
「ええ。本当の話よ。なんでも奥様に好きな人が出来たらしいわ」
「やだ。先生可哀想。だって先生は奥様にひとめ惚れをして、何度も結婚して欲しいってプロポーズして、やっと結婚してもらえたって訊いてるわ。それに先生。いつも奥様のこと出来た妻だって自慢してたじゃない?看護師の間でも先生は愛妻家だって有名な話でしょ?それなのに離婚して欲しいだなんて…」
「ねえ。もしかしてあなた知らなかったの?先生は大恋愛の末に結婚したみたいになってるけど、奥様が先生になびかなかったからムキになったって方が正しいみたいよ?
それに病院では愛妻家で通ってるかもしれないけど、先生には銀座のクラブママの愛人がいるわ。それもひとりじゃないのよ?確か他にふたりいたわね?それから札幌と大阪のクラブのママの愛人もいるわ。それに今でこそないけど過去には看護師にも手を出して同時に何人もの看護師が先生と関係があったのよ?だから看護師同士で先生の取り合いみたいになって派閥が出来たりしたこともあったわ。それに中には先生との関係に悩んで病院を辞めた看護師もいいたわ。とにかく先生は看護師の間では昔から女好きで有名なのよ?」
「やだ。止めてよそんな話。あたし先生のこと尊敬してたのに!」
「あのね。いくら尊敬に値する手術の腕を持っていても先生はただの男。頭と下半身は別なのよ?あなた本当に知らなかったの?」
「知らなかったわよ。あたし今年の春に耳鼻科から移動してきたんだもの。そんな話初耳よ。でもそんなに愛人がいるなら奥様の望み通り別れてもよかったんじゃない?それに看護師とそんなに派手な関係があったなら奥様だって、その事ご存知だったんじゃないの?」
「そうね。多分ご存知だったと思うわ。それに傷ついたと思うわ」
「それなら家庭生活は無きに等しかった訳だし、なおさらのこと別れて差し上げればよかったのに」
「無理ね。だって別れたら愛人が結婚してくれって言ってくるでしょ?でも妻という立場の女性がいればそれはないわ。それにあなたも言った通り先生は世間では愛妻家で通っている日本でトップクラスの腕を持つ外科医よ?そんな先生が妻から好きな人が出来たからって理由で離婚を求められている。そんなこと世間体が悪くて言えないわよ。まあどの医者もそうだけど、医者はプライドが高いわ。特に進藤先生はそうよ。だから自分が下に見られるのが嫌なの。奥様が好きになった男性が誰であれ、自分よりもその男性の方が好きってことが許せないのよ。だから離婚して欲しいって言われても同意しなかったのよ」
私は看護師たちの話に、彼女が夫とのことをただの同居人のような関係だと言ったことを思い出した。だが初めはそうではなかったはずだ。夫婦がそういった関係になったのは、夫には複数の愛人がいて、ひとりの女性を愛し続けることが出来ない人間だと彼女が知ったからだ。
そして今思えば、彼女が自分と道明寺司とのことを私に話したとき、「私たちとは全く関係ない人に私たちがどんな風に出会って愛を重ねるようになったかを知って欲しかったからなの。そうすれば救われる気がするから」の、救われる、の意味が分かったような気がした。
それは夫とのことを踏まえた上で、たとえ法律上結ばれなくても、心の中にいるたったひとりの人間を愛することが出来る人間がここにいる。そう言いたかったのだろう。
それにしても、突然亡くなった彼女は今何を思っているのだろうか。
魂はここにいて、上から私たちを見下ろしているはずだ。
そして彼女の持つ透明感は、いつか来る日の儚さの表れだったのか。
けれど彼女は道明寺司と再会したとき、別れゆく日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかったはずだ。

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