殆どの人間は彼を見ればこう思う。
なんて鋭い視線を持つ男だろうと。
だが男は、すべての女性の目を楽しませる外見を持つと言われていて、誰もが男を見つめる。
そしてそんな男のフンという冷たい態度が唯一柔らかくなるのは、愛しい人を見つめるとき。その目線はセクシーに変わる。だが目線の先にいるのは平凡な女。
かつて男はものすごい圧でその女に交際を迫った。そして迫られた女は気付けばその男にお姫様抱っこされてベッドに運ばれていた。
つまり、なんだかんだ言っても二人がこうなることは運命であり宿命だと思うのは男の方。
だから男は、その女と早く結婚したくてたまらなかった。
だが、女の方はなかなか結婚してくれない。
それどころか、ふたりの交際は絶対秘密だと言って会社で抱きしめることも、キスすることも許してもらえなかった。けれど秘書に言わせればそんなことは当たり前だと言う。
「支社長。よろしいですか?ここは会社です。ビジネスの場です。牧野様を抱きしめるのも接吻するのも社外でなさって下さい。それに社内でそのようなことをなさって誰かに見られると大変なことになります」
西田はケチだ。
意地悪だ。
恋人を抱きしめるのもキスをするのも心の平穏を保つため、ビジネスを成功させるために必要なものだと分かってない。
つまり業務中であろうと恋人と一緒にいる時間はビジネスミーティングではなくデートのひとつ。それなのに、今日も今日とて司がロビーで見つけた恋人の傍に行こうと足を踏み出せば、西田のさして長くない足がスッと前に出され思わず転びそうになった。
「これは失礼いたしました。わたくしこう見えても足が長いものですから、うっかり支社長の、おみ足の邪魔をしてしまいました」
いいや。
西田の失礼いたしましたは、口先だけであり失礼などこれっぽっちも思ってない。
むしろしてやったりと思っているはずだ。
それにしても恋人は可愛い。
素敵だ。美人だ。輝いて見える。そしてその輝きは眩しいほどだ。
そんな恋人は帰り際、執務室に顏を覗かせ、「ゴメン。急なんだけど今夜同期入社の女子社員との女子会があるの」と言った。
そして「そういうことで遅くなるから。道明寺も4人で男子会したら?」と言われたが、類もあきらも総二郎も司のスケジュールに関係なく集まって来る。だから司に言わせれば男子会と名の付くものをわざわざ催す必要などない。
そして司は「楽しんでこい」と言って心よく恋人を女子会に送り出した。
総二郎はトイレから戻ってくると、ソファに腰を下ろした司の向かいに座ったが、彼はあきらから、「今夜司と飲むがお前も来ないか」と誘われ、行くと答えると、「じゃあ司の部屋で」と言われペントハウスに足を運んだ。
「そうか。今日牧野は女子会か」
「ああ。同期のなんとかちゃんと、なんとかちゃんと、なんとかちゃんと食事だとよ」
答えた司の口調はつまらなそうだ。
「お前なあ、なんとかちゃんと、なんとかちゃんって、ひとりくらい名前を覚えてやれよ。牧野にとって、そのなんとかちゃんってのは大切な友達のはずだ。それをなんとかちゃんじゃ、牧野はあたしの話を訊いてないの?って怒るぞ?」
総二郎は司がいつもの調子でいることを面白がって言った。
そしてあきらが誘ったのは総二郎だけではなく類もいた。
そんな類はあきらが誘ったとき開口一番、「なんだ。牧野来ないの?じゃあ行くの止めよっかな」と言ったが、少し考えると「やっぱり行くよ」と言った。
「でもさ。司にとって牧野以外は女じゃないんだから、なんとかちゃんでいいんじゃない?あ、でも実はなんとかちゃん中に男の名前があったりして。だって大河原滋だってさ、滋なんて名前。普通なら男の名前だと思うだろ?だから司が言った、なんとかちゃんの中に男がいるかもよ?そうだな、例えば薫。薫って名前、男でもいるしさ、なんとかちゃんの中に薫って男がいたりして」
類は真顔でそう言うと、「それに子供の言い訳じゃないけど、やたらと友達の名前を挙げて力説するときってやましいことがあるからだよね?やましいことを親に隠すために必要以上に喋るって言うよね?ねえ司。今日の牧野ってそんな感じじゃなかった?もしかして、なんとかちゃんは架空の女の名前かもしれないよ?」と言葉を継いだ。
「おい、類!司をからかうな!司で遊ぶな!」
あきらは、そう言って類を窘めたが、言われた男は意外なことに類に対して怒ることも慌てることもしなかった。
「類。お前、俺が焦ってあいつの女子会に駆け付ける。邪魔しに行くと思ったんだろ?お前はそれを見て楽しもうと思ったんだろうが残念だったな」
と、言った司は余裕の笑みを浮かべた。
「おい。司。余裕だな?その余裕はどこから来るんだ?もしかしてあいつに尾行を付けたのか?」
あきらはグラスを口に運んでそう聞いたが、恋人に対してだけ心配症になる男は、「いいや。そんなことはしてねえ」と平然と答えた。
かつて司は恋人が中学の同窓会を楽しんでいた時、嫉妬から恋人の友人に絡んで彼女に嫌われた。あれはまだ子供だった自分の浅はかな行動だった。そのこともあり、恋人が友人と楽しんでいる場所に出向いて邪魔をすることはしないと決めていた。
それに恋人は嘘をついて他の男に会いに行くような女ではない。
それに恋人はあからさまな警護を嫌う。
だが身の安全のため、それとは分からないように、さりげなく護衛を付けているが、危険が無いと思われれば誰とどこで会ったかということまで報告をさせていない。
つまり恋人のプライバシーに過度に踏み込むことはしていなかった。
「おい、司。それならその余裕はなんだよ?なんかいつものお前と違って気持悪りぃな」
総二郎もこれまでなら類の言葉に恋人の元へすっ飛んで行くはずの男のいつもと違う様子を不思議に思った。
「実はな……….」
「はぁ…..」
「ちょっと洋子。そんなに溜息ついても仕方ないでしょ?」
「だってせっかく彼氏候補が見つかったと思ったら、その人彼女がいたの。それも結婚間近らしくってさ。あ~もうショック。あたしがこれだって思う男って大体彼女がいるのよね。まあ、誰から見てもいい男ってそんなものなのよね。もしくはすでに人の物なのよね…」
洋子はそう言って赤ワインをひと口飲み、目の前の皿に箸を伸ばし鯛のカルパッチョを口に運んだ。
「はいはい。分かったわよ。だからその人のことはもういいじゃない。その人がダメでも次があるわよ。次が。それにあたしも真理子も、つくしも彼氏はいないけど楽しくやってるわよ?それにうちには日本中の独身女性の垂涎の的。道明寺支社長がいるじゃない?支社長独身だし支社長狙うのもいいかもよ?」
「あのね美穂。それは絶対に無理。支社長は独身だけど表に出てこないだけで絶対に彼女がいるわよ。それも深窓のご令嬢か大きな会社の社長令嬢。もしかするとどこかの国の貴族のご令嬢かもしれないけど、とにかくそういったお嬢様よ。間違ってもあたしたちみたいな会社員じゃないし、庶民じゃないわ。そうでしょ真理子?」
美穂と呼ばれた女はチーズプレートの中から、チーズをひとつ選んで口に入れ、真理子と呼ばれた女は白ワインを飲み干すと言った。
「確かに支社長はお金持ちで頭がよくて美貌の持ち主よ。それにゆくゆくは道明寺財閥のトップに立たれる方だわ。だからあたしたちのような下々の人間は相手にされないわ。
そうよ。あの方は雲の上の方ですもの。だから逆にあたしたちが手を触れることが許さる人間じゃないのよ。つまりあたしたちは下からあの美しいお顔を拝ませていただくだけよ。ねえつくし?」
つくしは自分の名前を呼んだ真理子に向かって「え?うん。そうね。あたしたちが道明寺支社長に相手にされることはないわよ」と答えたが今のこの会話の内容は好ましいものではなかった。
つくしは同期入社の洋子と美穂と真理子とイタリアンレストランにいて、洋子が彼氏候補を見つけたはいいが、その男性には結婚間近の恋人がいることが分かりショックを受けたという話を訊いていた。だがそこから話が支社長である自分の恋人のことになり、彼女たちにそのことを話していない自分が嘘をつかなければならないことに後ろめたさを感じ、なんとかしてこの会話を変えなければならないと感じていたが、つくしの思いとは裏腹に話題は変わりそうにない。それどころか終わりそうになかった。
「でもつくしは海外事業本部でしょ?支社長って時々つくしの事業部に現れるらしいじゃない?やっぱり海外事業本部って花形事業部だし、いいわよね。あたしなんて地味な総務だから支社長にお目にかかるチャンスは皆目無いわ。でも秘書の西田さんは来るわね。
そう言えば、支社長この前インドネシアに行ってたみたいだけど、つくしも同じ頃天然ガスの輸入の件でインドネシアに行ってたんじゃないの?つくし、向うで支社長と一緒にならなかったの?ホテルとか同じじゃなかったの?」
総務部の洋子は興味深そうに訊いてきた。
だからつくしも話を合わせるように言った。
「え?支社長もインドネシアに来てたの?全然知らなかった。それにあたしが支社長と同じホテルになる訳ないじゃない。相手はうちの会社のトップよ?そんな人とあたしが同じホテルになるはずないじゃない」
「まあね。確かに支社長とただの社員のつくしが同じホテルになることはないけど、もしよ。もし同じホテルに泊まったとして、そこでエレベーターの中で偶然出会って、同じ日本人ってこともだけど、私、道明寺の社員です、とかなんとか言ってつくしが支社長の目に止まれば玉の輿なのにね?あ~残念!つくしもったいなかったわね?」
「やあねえ洋子!そんな偶然ある訳ないじゃない。第一支社長はあたしみたいなチビなんかよりもっと背が高くてスラーっとしてる美人の方がお似合いでしょ?それにあたし庶民だし、そのへんに生えてる雑草だし、高級な男性と付き合えないわよ」
と答えたが、つくしが天然ガスの輸入交渉でインドネシアを訪問したとき、恋人があの国にいたことは知っている。そして実はあの国でデートをした。同じホテルに泊まった。同じベッドで寝た。朝食も一緒に食べた。
それにインドネシアはある意味でふたりにとって思い出のある国だ。
それは数年前のバレンタイン。あの国へ出張していたつくしを追いかけてきた恋人と一夜を過ごしたが、ちょっとしたイタズラ心で、眠っている恋人の手を手錠でベッドに繋いだまま帰国したことがあった。その時の恋人は素っ裸。誰にどうやって縛めを解いてもらったのかは教えてもらわなかったが、帰国した恋人はムッとしていた。
「ねえ、洋子。彼氏が出来なくてもあたし達には仕事があるじゃない!それに男なんて星の数ほどいるんだし、いつかまたどこかで素敵な人に巡り合えるわよ!それまで仕事頑張りましょうよ?ね?」
つくしはそう言って洋子を慰めた。
そして洋子もつくしの言葉に頷いた。
「そうね!あたし達には仕事があるわよね?」
「そうよ!それに洋子は素敵だもの。それからあたし、みんなに渡したいものがあって持ってきたの!インドネシアのお土産なんだけどね?インドネシアってマンデリンとかコーヒーが有名でしょ?だけど実は紅茶も美味しいの。だから皆にと思って、あ!」
あ!と言ったのは、隣の椅子の上に置いてあった鞄を取ろうしたとき、肘がテーブルの上に置かれているグラスに当たり倒れ水が零れてテーブルの上に広がったから。
「ご、ごめん!」
つくしは慌てて鞄の中からハンカチを取り出そうとした。
「大丈夫よ。つくし。すみません!何か拭くものお願いします!お水こぼしちゃって!」
洋子はそう言って店員にテーブルを拭くものを頼んだ。
つくしはいつも鞄をふたつ持ち歩いている。
ひとつは弁当箱や化粧ポーチが入っているトートバッグで、もうひとつが財布や貴重品が入れられている2ウェイのバッグ。それはショルダーバッグにもハンドバッグにもなる優れもの。
そして手に取ったのは2ウェイバッグの方。そこからハンカチを取り出してテーブルの上を拭いていた。だが何かおかしいと思った。それはハンカチにしては生地が硬いということ。指に湿り気が感じられないということ。つまりハンカチが水を吸っている感じがしないということ。それに3人の視線がハンカチを握ったつくしの手元にじっと注がれていて、それぞれの口をついた言葉はつくしの違和感を証明していた。
「ねえつくし。それ、ハンカチじゃないんじゃない?」
「それ、もしかしてネクタイじゃない?」
「それネクタイよね?」
つくしはそう言われ自分が握っている布を見た。
すると、それは光沢のある折柄が印象的なワインレッドのネクタイで見覚えがあった。
つまりそれは恋人のネクタイ。だが何故これがここにある?
そして3人の視線はネクタイからつくしの顏に移り彼女が何か言うのを待っていた。
「やだ!これネクタイじゃない?これ弟のネクタイよ!弟の進のよ!これあたしの弟の進のネクタイよ!なんでこんな所にあるのかな?あはは!」
つくしは笑いながら少しも水気を吸わなかったネクタイをそのままトートバッグに入れた。
そして今度こそはハンカチを取り出そうとバッグの中を見た。
すると、そこにハンカチは無く、その代わりあるはずの無い物がある。
それは見覚えのある車の鍵。ライター。シガレットケース。それに数枚の名刺。そこに記されている名前は見なくても分かる。そしてその名刺が床に落ちているのを見付けたが、それはハンカチだと思って取り出したネクタイと一緒にバッグから出たものだ。だから慌ててそれを拾ってバッグの中へ突っ込んだ。
「ねえ、つくし。さっきから思ってたんだけどね?なんだか凄く素敵な香りがするの。それもつくしのそのバッグから匂ってきてたような気がしてたの。だからつくしがバッグを開けた途端、ますます匂うんだけど、つくしは気にならない?」
だがそう言われても、少し前に風邪をひいた女は鼻が詰まっていて分からなかった。
「え?あたしちょうど今鼻が詰まってて匂いが分からなくて。そ、そんなに匂う?」
「うん。匂うわよ?なんだかとてもいい匂い。それも官能的って言うの?でも爽やかさもあってスパイシーだけど甘いの。これどこの香水なのか知らないけど、すごく高価なものに思えるの。つまり贅沢な香りってことだけど?それも弟さんのもの?」
つくしは嫌な予感がした。だからバッグの中身を取り出すことなく手を突っ込んで探った。
すると底に硬い小さな筒があるのを感じた。それはよくある香水のサンプル瓶で蓋は開いていた。
「うん!弟がね、どうしてだか知らないけど間違えてあたしのバッグに色々入れたみたいなの!」
「ちょっと道明寺!あたしのバッグに色々入れてどういうつもりなのよ!」
「あ、牧野。お帰り」
「よっ!牧野お疲れ」
「牧野。元気だったか?」
「類?それに西門さんと美作さんも?」
「そ。俺たちお前が司に言った通り男子会してたところ。で、司がお前のことで珍しく余裕こいてたからその余裕はどこから来るか訊いたところだ。なあ司?」
司はマンションのコンシェルジュから恋人がエントランスに着いたという知らせを受け、上がって来るのを待っていたが意外と早かったと思った。だが司の部屋は彼専用のエレベーターに乗るしかないのだから早くて当然だ。だが、もしかすると怒りがそのスピードを速めたのかもしれない。つまりそのくらい恋人は怒っているように思えた。
「牧野。お前がカッカしてる理由は分かるが、そんなに怒るな。司のイタズラは可愛いもんだ」
「西門さん。そう言うけどね?あたしのバッグの中に_」
「牧野。司は単に牧野が誰のものかはっきりさせたかっただけだ」
「美作さん。でもね_」
「牧野。司は猛獣だからさ。牧野が誰のものかマーキングしたかっただけだよ。それがたとえ女ばかりの集まりだとしても、司は牧野のことに関しては異常なくらい心配症だから許してやりなよ」
「類…..」
3人の男たちは何故つくしが怒っているのかを知っているとばかり言ったが、そこから代表者となって口を開いたのは総二郎だ。
「牧野。司はお前が浮気をするなんてことは思ってない。ただ女子会に行くって言っても、どこかの男どもに声を掛けられるんじゃねえかって思いがある。そのために自分の匂いをお前に纏わせたかったんだ。何しろ夜の街に現れる男たちは匂いに敏感だ。
つまり他の男の匂いがする女は分かる。その匂いから相手の男がどんな種類の男か分かる。
女が纏う香りが安っぽい香りなら、相手の男も大した男じゃないって分かる。だから手を出す男は多い。だが金がかかった匂いを纏った女の相手は、ただの男じゃないってことが分かる。それに司にはプロヴァンスにお抱え調香師がいる。そんな男は世界にふたつとない匂いを持つ男だ。つまり最高級の男だ。そんな男の匂いを纏った女に手を出したら大変なことになる。男はそれを本能で嗅ぎ分けるんだ。それに類が言った通りで司は猛獣だ。だからそんな男はお前のことが心配でマーキングしたかっただけだ。だから許してやれ」
そこまで言った総二郎は、「司良かったな。牧野は何事もなく無事に帰ってきた。それもお前の部屋に戻って来た。これほどお前にとっては嬉しいことはないはずだ。じゃあ俺たちはこれで帰るから、これからふたりでゆっくり話をしろ」
と言うと、あきらと類と飲み直しに行くわ。と言って部屋を出て行った。
「牧野。悪かった」
司はあやまった。
すると恋人は、「もういいわよ」と言った。
そして「いつ入れたのよ?」と言ったから「お前が執務室に来たとき。手を洗いたいって鞄を置いて行っただろ?あの時だ」と答えた。
「本当にもう。油断も隙もないんだから。それにもう怒ってないから。でもこのバッグお気に入りだったのに暫く使えないわよ。だってこの中すごく匂うんだもの」
と言ったから、司はすかさず言った。
「俺が新しいバッグを買ってやる」
だが恋人は断った。
「ダメよ。道明寺が選ぶバッグは滅茶苦茶高いバッグだもの。だからダメ!」
司の恋人は、自分が付き合っている相手がどれほどの金持ちか分かっているのか。いないのか。いや分かっているが、とにかく高い物を買うことに抵抗がある。だからこれまで司がプレゼントした中で素直に受け取ったのは、もっぱら食べ物と花。それ以外のものについては、余程のことがない限り受け取ることはない。だから訊いた。
「牧野。じゃあそのバッグと同じのを買ってやる。どこで買った?幾らだ?」
恋人は「え?」と大きな目を更に丸く見開いたが、司は「だから。そのバッグだ」と訊いた。
すると恋人は司の問いに少し戸惑ったが自慢げに言った。
「このバッグは五千円よ。あたしがこのバッグを買ったお店、店じまいするから半額セールやってたの。だから本当は一万円なの。それにこれ本革なのよ?凄いと思わない?それが五千円で買えたんだから凄いでしょ?」
司の恋人は物欲がない。もしかして物欲センサーが壊れているのかもしれない。
いや。そういったものは初めから備えてはいないと言った方が正しいだろう。
それにしても、まさか恋人が五千円のバッグを大切に使っているとは思いもしなかった。
そんな司の恋人は何事も一生懸命でどんなことにも誇らしいほど胸を張る。
そして司は道明寺という経営者一族の家に生まれたことから、無難な人生を送ることが出来ない男だが、そんな男を恋人に選んでくれた一生懸命な女が大好きだ。
いや。大好き以上に好きだ。
そして揺らぐことが無い価値観も。
「牧野。同じバッグは買えねえかもしれねえが、俺が五千円のバッグを探してやる。それと同じくらいお前が気に入るバッグを見つけてやる。お前が死ぬまで一生離したくないと思うバッグをな」
すると恋人は「ふふふっ」と笑って、「楽しみにしてるわ」と言ったが、それは見つけることが出来るなら見つけてごらんなさいよ、と言う宣戦布告。
だから司は何がなんでも五千円の素敵なバッグを見つけるつもりでいた。
だが見つけることが出来なければ、グッチでもヴィトンでもいい。五千円のバッグを作らせればいいだけの話だ。
そして司は自分を見上げる女を抱き上げると、その身体に遠慮無く自分の匂いを纏わせるため寝室へと運んで行った。

にほんブログ村
なんて鋭い視線を持つ男だろうと。
だが男は、すべての女性の目を楽しませる外見を持つと言われていて、誰もが男を見つめる。
そしてそんな男のフンという冷たい態度が唯一柔らかくなるのは、愛しい人を見つめるとき。その目線はセクシーに変わる。だが目線の先にいるのは平凡な女。
かつて男はものすごい圧でその女に交際を迫った。そして迫られた女は気付けばその男にお姫様抱っこされてベッドに運ばれていた。
つまり、なんだかんだ言っても二人がこうなることは運命であり宿命だと思うのは男の方。
だから男は、その女と早く結婚したくてたまらなかった。
だが、女の方はなかなか結婚してくれない。
それどころか、ふたりの交際は絶対秘密だと言って会社で抱きしめることも、キスすることも許してもらえなかった。けれど秘書に言わせればそんなことは当たり前だと言う。
「支社長。よろしいですか?ここは会社です。ビジネスの場です。牧野様を抱きしめるのも接吻するのも社外でなさって下さい。それに社内でそのようなことをなさって誰かに見られると大変なことになります」
西田はケチだ。
意地悪だ。
恋人を抱きしめるのもキスをするのも心の平穏を保つため、ビジネスを成功させるために必要なものだと分かってない。
つまり業務中であろうと恋人と一緒にいる時間はビジネスミーティングではなくデートのひとつ。それなのに、今日も今日とて司がロビーで見つけた恋人の傍に行こうと足を踏み出せば、西田のさして長くない足がスッと前に出され思わず転びそうになった。
「これは失礼いたしました。わたくしこう見えても足が長いものですから、うっかり支社長の、おみ足の邪魔をしてしまいました」
いいや。
西田の失礼いたしましたは、口先だけであり失礼などこれっぽっちも思ってない。
むしろしてやったりと思っているはずだ。
それにしても恋人は可愛い。
素敵だ。美人だ。輝いて見える。そしてその輝きは眩しいほどだ。
そんな恋人は帰り際、執務室に顏を覗かせ、「ゴメン。急なんだけど今夜同期入社の女子社員との女子会があるの」と言った。
そして「そういうことで遅くなるから。道明寺も4人で男子会したら?」と言われたが、類もあきらも総二郎も司のスケジュールに関係なく集まって来る。だから司に言わせれば男子会と名の付くものをわざわざ催す必要などない。
そして司は「楽しんでこい」と言って心よく恋人を女子会に送り出した。
総二郎はトイレから戻ってくると、ソファに腰を下ろした司の向かいに座ったが、彼はあきらから、「今夜司と飲むがお前も来ないか」と誘われ、行くと答えると、「じゃあ司の部屋で」と言われペントハウスに足を運んだ。
「そうか。今日牧野は女子会か」
「ああ。同期のなんとかちゃんと、なんとかちゃんと、なんとかちゃんと食事だとよ」
答えた司の口調はつまらなそうだ。
「お前なあ、なんとかちゃんと、なんとかちゃんって、ひとりくらい名前を覚えてやれよ。牧野にとって、そのなんとかちゃんってのは大切な友達のはずだ。それをなんとかちゃんじゃ、牧野はあたしの話を訊いてないの?って怒るぞ?」
総二郎は司がいつもの調子でいることを面白がって言った。
そしてあきらが誘ったのは総二郎だけではなく類もいた。
そんな類はあきらが誘ったとき開口一番、「なんだ。牧野来ないの?じゃあ行くの止めよっかな」と言ったが、少し考えると「やっぱり行くよ」と言った。
「でもさ。司にとって牧野以外は女じゃないんだから、なんとかちゃんでいいんじゃない?あ、でも実はなんとかちゃん中に男の名前があったりして。だって大河原滋だってさ、滋なんて名前。普通なら男の名前だと思うだろ?だから司が言った、なんとかちゃんの中に男がいるかもよ?そうだな、例えば薫。薫って名前、男でもいるしさ、なんとかちゃんの中に薫って男がいたりして」
類は真顔でそう言うと、「それに子供の言い訳じゃないけど、やたらと友達の名前を挙げて力説するときってやましいことがあるからだよね?やましいことを親に隠すために必要以上に喋るって言うよね?ねえ司。今日の牧野ってそんな感じじゃなかった?もしかして、なんとかちゃんは架空の女の名前かもしれないよ?」と言葉を継いだ。
「おい、類!司をからかうな!司で遊ぶな!」
あきらは、そう言って類を窘めたが、言われた男は意外なことに類に対して怒ることも慌てることもしなかった。
「類。お前、俺が焦ってあいつの女子会に駆け付ける。邪魔しに行くと思ったんだろ?お前はそれを見て楽しもうと思ったんだろうが残念だったな」
と、言った司は余裕の笑みを浮かべた。
「おい。司。余裕だな?その余裕はどこから来るんだ?もしかしてあいつに尾行を付けたのか?」
あきらはグラスを口に運んでそう聞いたが、恋人に対してだけ心配症になる男は、「いいや。そんなことはしてねえ」と平然と答えた。
かつて司は恋人が中学の同窓会を楽しんでいた時、嫉妬から恋人の友人に絡んで彼女に嫌われた。あれはまだ子供だった自分の浅はかな行動だった。そのこともあり、恋人が友人と楽しんでいる場所に出向いて邪魔をすることはしないと決めていた。
それに恋人は嘘をついて他の男に会いに行くような女ではない。
それに恋人はあからさまな警護を嫌う。
だが身の安全のため、それとは分からないように、さりげなく護衛を付けているが、危険が無いと思われれば誰とどこで会ったかということまで報告をさせていない。
つまり恋人のプライバシーに過度に踏み込むことはしていなかった。
「おい、司。それならその余裕はなんだよ?なんかいつものお前と違って気持悪りぃな」
総二郎もこれまでなら類の言葉に恋人の元へすっ飛んで行くはずの男のいつもと違う様子を不思議に思った。
「実はな……….」
「はぁ…..」
「ちょっと洋子。そんなに溜息ついても仕方ないでしょ?」
「だってせっかく彼氏候補が見つかったと思ったら、その人彼女がいたの。それも結婚間近らしくってさ。あ~もうショック。あたしがこれだって思う男って大体彼女がいるのよね。まあ、誰から見てもいい男ってそんなものなのよね。もしくはすでに人の物なのよね…」
洋子はそう言って赤ワインをひと口飲み、目の前の皿に箸を伸ばし鯛のカルパッチョを口に運んだ。
「はいはい。分かったわよ。だからその人のことはもういいじゃない。その人がダメでも次があるわよ。次が。それにあたしも真理子も、つくしも彼氏はいないけど楽しくやってるわよ?それにうちには日本中の独身女性の垂涎の的。道明寺支社長がいるじゃない?支社長独身だし支社長狙うのもいいかもよ?」
「あのね美穂。それは絶対に無理。支社長は独身だけど表に出てこないだけで絶対に彼女がいるわよ。それも深窓のご令嬢か大きな会社の社長令嬢。もしかするとどこかの国の貴族のご令嬢かもしれないけど、とにかくそういったお嬢様よ。間違ってもあたしたちみたいな会社員じゃないし、庶民じゃないわ。そうでしょ真理子?」
美穂と呼ばれた女はチーズプレートの中から、チーズをひとつ選んで口に入れ、真理子と呼ばれた女は白ワインを飲み干すと言った。
「確かに支社長はお金持ちで頭がよくて美貌の持ち主よ。それにゆくゆくは道明寺財閥のトップに立たれる方だわ。だからあたしたちのような下々の人間は相手にされないわ。
そうよ。あの方は雲の上の方ですもの。だから逆にあたしたちが手を触れることが許さる人間じゃないのよ。つまりあたしたちは下からあの美しいお顔を拝ませていただくだけよ。ねえつくし?」
つくしは自分の名前を呼んだ真理子に向かって「え?うん。そうね。あたしたちが道明寺支社長に相手にされることはないわよ」と答えたが今のこの会話の内容は好ましいものではなかった。
つくしは同期入社の洋子と美穂と真理子とイタリアンレストランにいて、洋子が彼氏候補を見つけたはいいが、その男性には結婚間近の恋人がいることが分かりショックを受けたという話を訊いていた。だがそこから話が支社長である自分の恋人のことになり、彼女たちにそのことを話していない自分が嘘をつかなければならないことに後ろめたさを感じ、なんとかしてこの会話を変えなければならないと感じていたが、つくしの思いとは裏腹に話題は変わりそうにない。それどころか終わりそうになかった。
「でもつくしは海外事業本部でしょ?支社長って時々つくしの事業部に現れるらしいじゃない?やっぱり海外事業本部って花形事業部だし、いいわよね。あたしなんて地味な総務だから支社長にお目にかかるチャンスは皆目無いわ。でも秘書の西田さんは来るわね。
そう言えば、支社長この前インドネシアに行ってたみたいだけど、つくしも同じ頃天然ガスの輸入の件でインドネシアに行ってたんじゃないの?つくし、向うで支社長と一緒にならなかったの?ホテルとか同じじゃなかったの?」
総務部の洋子は興味深そうに訊いてきた。
だからつくしも話を合わせるように言った。
「え?支社長もインドネシアに来てたの?全然知らなかった。それにあたしが支社長と同じホテルになる訳ないじゃない。相手はうちの会社のトップよ?そんな人とあたしが同じホテルになるはずないじゃない」
「まあね。確かに支社長とただの社員のつくしが同じホテルになることはないけど、もしよ。もし同じホテルに泊まったとして、そこでエレベーターの中で偶然出会って、同じ日本人ってこともだけど、私、道明寺の社員です、とかなんとか言ってつくしが支社長の目に止まれば玉の輿なのにね?あ~残念!つくしもったいなかったわね?」
「やあねえ洋子!そんな偶然ある訳ないじゃない。第一支社長はあたしみたいなチビなんかよりもっと背が高くてスラーっとしてる美人の方がお似合いでしょ?それにあたし庶民だし、そのへんに生えてる雑草だし、高級な男性と付き合えないわよ」
と答えたが、つくしが天然ガスの輸入交渉でインドネシアを訪問したとき、恋人があの国にいたことは知っている。そして実はあの国でデートをした。同じホテルに泊まった。同じベッドで寝た。朝食も一緒に食べた。
それにインドネシアはある意味でふたりにとって思い出のある国だ。
それは数年前のバレンタイン。あの国へ出張していたつくしを追いかけてきた恋人と一夜を過ごしたが、ちょっとしたイタズラ心で、眠っている恋人の手を手錠でベッドに繋いだまま帰国したことがあった。その時の恋人は素っ裸。誰にどうやって縛めを解いてもらったのかは教えてもらわなかったが、帰国した恋人はムッとしていた。
「ねえ、洋子。彼氏が出来なくてもあたし達には仕事があるじゃない!それに男なんて星の数ほどいるんだし、いつかまたどこかで素敵な人に巡り合えるわよ!それまで仕事頑張りましょうよ?ね?」
つくしはそう言って洋子を慰めた。
そして洋子もつくしの言葉に頷いた。
「そうね!あたし達には仕事があるわよね?」
「そうよ!それに洋子は素敵だもの。それからあたし、みんなに渡したいものがあって持ってきたの!インドネシアのお土産なんだけどね?インドネシアってマンデリンとかコーヒーが有名でしょ?だけど実は紅茶も美味しいの。だから皆にと思って、あ!」
あ!と言ったのは、隣の椅子の上に置いてあった鞄を取ろうしたとき、肘がテーブルの上に置かれているグラスに当たり倒れ水が零れてテーブルの上に広がったから。
「ご、ごめん!」
つくしは慌てて鞄の中からハンカチを取り出そうとした。
「大丈夫よ。つくし。すみません!何か拭くものお願いします!お水こぼしちゃって!」
洋子はそう言って店員にテーブルを拭くものを頼んだ。
つくしはいつも鞄をふたつ持ち歩いている。
ひとつは弁当箱や化粧ポーチが入っているトートバッグで、もうひとつが財布や貴重品が入れられている2ウェイのバッグ。それはショルダーバッグにもハンドバッグにもなる優れもの。
そして手に取ったのは2ウェイバッグの方。そこからハンカチを取り出してテーブルの上を拭いていた。だが何かおかしいと思った。それはハンカチにしては生地が硬いということ。指に湿り気が感じられないということ。つまりハンカチが水を吸っている感じがしないということ。それに3人の視線がハンカチを握ったつくしの手元にじっと注がれていて、それぞれの口をついた言葉はつくしの違和感を証明していた。
「ねえつくし。それ、ハンカチじゃないんじゃない?」
「それ、もしかしてネクタイじゃない?」
「それネクタイよね?」
つくしはそう言われ自分が握っている布を見た。
すると、それは光沢のある折柄が印象的なワインレッドのネクタイで見覚えがあった。
つまりそれは恋人のネクタイ。だが何故これがここにある?
そして3人の視線はネクタイからつくしの顏に移り彼女が何か言うのを待っていた。
「やだ!これネクタイじゃない?これ弟のネクタイよ!弟の進のよ!これあたしの弟の進のネクタイよ!なんでこんな所にあるのかな?あはは!」
つくしは笑いながら少しも水気を吸わなかったネクタイをそのままトートバッグに入れた。
そして今度こそはハンカチを取り出そうとバッグの中を見た。
すると、そこにハンカチは無く、その代わりあるはずの無い物がある。
それは見覚えのある車の鍵。ライター。シガレットケース。それに数枚の名刺。そこに記されている名前は見なくても分かる。そしてその名刺が床に落ちているのを見付けたが、それはハンカチだと思って取り出したネクタイと一緒にバッグから出たものだ。だから慌ててそれを拾ってバッグの中へ突っ込んだ。
「ねえ、つくし。さっきから思ってたんだけどね?なんだか凄く素敵な香りがするの。それもつくしのそのバッグから匂ってきてたような気がしてたの。だからつくしがバッグを開けた途端、ますます匂うんだけど、つくしは気にならない?」
だがそう言われても、少し前に風邪をひいた女は鼻が詰まっていて分からなかった。
「え?あたしちょうど今鼻が詰まってて匂いが分からなくて。そ、そんなに匂う?」
「うん。匂うわよ?なんだかとてもいい匂い。それも官能的って言うの?でも爽やかさもあってスパイシーだけど甘いの。これどこの香水なのか知らないけど、すごく高価なものに思えるの。つまり贅沢な香りってことだけど?それも弟さんのもの?」
つくしは嫌な予感がした。だからバッグの中身を取り出すことなく手を突っ込んで探った。
すると底に硬い小さな筒があるのを感じた。それはよくある香水のサンプル瓶で蓋は開いていた。
「うん!弟がね、どうしてだか知らないけど間違えてあたしのバッグに色々入れたみたいなの!」
「ちょっと道明寺!あたしのバッグに色々入れてどういうつもりなのよ!」
「あ、牧野。お帰り」
「よっ!牧野お疲れ」
「牧野。元気だったか?」
「類?それに西門さんと美作さんも?」
「そ。俺たちお前が司に言った通り男子会してたところ。で、司がお前のことで珍しく余裕こいてたからその余裕はどこから来るか訊いたところだ。なあ司?」
司はマンションのコンシェルジュから恋人がエントランスに着いたという知らせを受け、上がって来るのを待っていたが意外と早かったと思った。だが司の部屋は彼専用のエレベーターに乗るしかないのだから早くて当然だ。だが、もしかすると怒りがそのスピードを速めたのかもしれない。つまりそのくらい恋人は怒っているように思えた。
「牧野。お前がカッカしてる理由は分かるが、そんなに怒るな。司のイタズラは可愛いもんだ」
「西門さん。そう言うけどね?あたしのバッグの中に_」
「牧野。司は単に牧野が誰のものかはっきりさせたかっただけだ」
「美作さん。でもね_」
「牧野。司は猛獣だからさ。牧野が誰のものかマーキングしたかっただけだよ。それがたとえ女ばかりの集まりだとしても、司は牧野のことに関しては異常なくらい心配症だから許してやりなよ」
「類…..」
3人の男たちは何故つくしが怒っているのかを知っているとばかり言ったが、そこから代表者となって口を開いたのは総二郎だ。
「牧野。司はお前が浮気をするなんてことは思ってない。ただ女子会に行くって言っても、どこかの男どもに声を掛けられるんじゃねえかって思いがある。そのために自分の匂いをお前に纏わせたかったんだ。何しろ夜の街に現れる男たちは匂いに敏感だ。
つまり他の男の匂いがする女は分かる。その匂いから相手の男がどんな種類の男か分かる。
女が纏う香りが安っぽい香りなら、相手の男も大した男じゃないって分かる。だから手を出す男は多い。だが金がかかった匂いを纏った女の相手は、ただの男じゃないってことが分かる。それに司にはプロヴァンスにお抱え調香師がいる。そんな男は世界にふたつとない匂いを持つ男だ。つまり最高級の男だ。そんな男の匂いを纏った女に手を出したら大変なことになる。男はそれを本能で嗅ぎ分けるんだ。それに類が言った通りで司は猛獣だ。だからそんな男はお前のことが心配でマーキングしたかっただけだ。だから許してやれ」
そこまで言った総二郎は、「司良かったな。牧野は何事もなく無事に帰ってきた。それもお前の部屋に戻って来た。これほどお前にとっては嬉しいことはないはずだ。じゃあ俺たちはこれで帰るから、これからふたりでゆっくり話をしろ」
と言うと、あきらと類と飲み直しに行くわ。と言って部屋を出て行った。
「牧野。悪かった」
司はあやまった。
すると恋人は、「もういいわよ」と言った。
そして「いつ入れたのよ?」と言ったから「お前が執務室に来たとき。手を洗いたいって鞄を置いて行っただろ?あの時だ」と答えた。
「本当にもう。油断も隙もないんだから。それにもう怒ってないから。でもこのバッグお気に入りだったのに暫く使えないわよ。だってこの中すごく匂うんだもの」
と言ったから、司はすかさず言った。
「俺が新しいバッグを買ってやる」
だが恋人は断った。
「ダメよ。道明寺が選ぶバッグは滅茶苦茶高いバッグだもの。だからダメ!」
司の恋人は、自分が付き合っている相手がどれほどの金持ちか分かっているのか。いないのか。いや分かっているが、とにかく高い物を買うことに抵抗がある。だからこれまで司がプレゼントした中で素直に受け取ったのは、もっぱら食べ物と花。それ以外のものについては、余程のことがない限り受け取ることはない。だから訊いた。
「牧野。じゃあそのバッグと同じのを買ってやる。どこで買った?幾らだ?」
恋人は「え?」と大きな目を更に丸く見開いたが、司は「だから。そのバッグだ」と訊いた。
すると恋人は司の問いに少し戸惑ったが自慢げに言った。
「このバッグは五千円よ。あたしがこのバッグを買ったお店、店じまいするから半額セールやってたの。だから本当は一万円なの。それにこれ本革なのよ?凄いと思わない?それが五千円で買えたんだから凄いでしょ?」
司の恋人は物欲がない。もしかして物欲センサーが壊れているのかもしれない。
いや。そういったものは初めから備えてはいないと言った方が正しいだろう。
それにしても、まさか恋人が五千円のバッグを大切に使っているとは思いもしなかった。
そんな司の恋人は何事も一生懸命でどんなことにも誇らしいほど胸を張る。
そして司は道明寺という経営者一族の家に生まれたことから、無難な人生を送ることが出来ない男だが、そんな男を恋人に選んでくれた一生懸命な女が大好きだ。
いや。大好き以上に好きだ。
そして揺らぐことが無い価値観も。
「牧野。同じバッグは買えねえかもしれねえが、俺が五千円のバッグを探してやる。それと同じくらいお前が気に入るバッグを見つけてやる。お前が死ぬまで一生離したくないと思うバッグをな」
すると恋人は「ふふふっ」と笑って、「楽しみにしてるわ」と言ったが、それは見つけることが出来るなら見つけてごらんなさいよ、と言う宣戦布告。
だから司は何がなんでも五千円の素敵なバッグを見つけるつもりでいた。
だが見つけることが出来なければ、グッチでもヴィトンでもいい。五千円のバッグを作らせればいいだけの話だ。
そして司は自分を見上げる女を抱き上げると、その身体に遠慮無く自分の匂いを纏わせるため寝室へと運んで行った。

にほんブログ村
スポンサーサイト
Comment:4