「最後にもう一度言おう。3年生の皆さん。卒業おめでとう。人生は一度だけです。その人生を存分に楽しんで下さい」
司は我が子の卒業式に来賓として出席したが、今は妻とふたりでリビングのソファに腰を降ろしコーヒーを飲んでいた。
今日は司が英徳学園を卒業してから27年目の春。
18歳の少年が今は45歳になり息子は18歳になったが、息子は司と同じ英徳に入学し無事高等部を卒業した。
息子は司が18歳の頃と同じで背は185センチあり、癖のある髪に鋭い目をしていた。
だが同じなのは外見だけで性格は全く違う。
息子の性格はどちらかといえば妻に似ていた。それは物事に対する取り組み方だが、息子は物事を考える時は慎重に考える。だが時に周りの誰もが思いもしないような大胆な行動を取ることがあるが、それは司の性質を受け継いでいると言えた。
そんな息子について妻は言った。
「ねえ、巧は好きな女の子がいるみたいよ?でもまだ想いは伝えてないみたい」
司はそう言われ息子が恋をしていることを知った。
子供も高校生になると幼かった頃のように何でも親に話すことはない。
だから司も息子の恋愛事情について知らなかったが、自分が同じ年頃だったことを思えば、恋のひとつやふたつしていたとしてもおかしくはない。だから「そうか」という思いだった。
司は目の前に好きな女がいれば、すぐにでも抱きしめたいと思っていたが息子はどうなのか。
そんな我が子のことを一番知っているのは母親なのかもしれない。
だから母親は嬉しそうに言った。
「あの子、卒業式の後で制服の第二ボタン欲しいって言われると思う?」
「制服の第二ボタン?」
「そうよ。ほら、卒業式が終ったら好きな人の第二ボタンを貰うっていうアレよ」
司はアレと言われても妻の話が全く分からなかった。だから訊いた。
するとこう言われた。
「卒業式が終ったらね、女の子は卒業する好きな男の子の制服の第二ボタンを貰う風習があるの。
どうして第二ボタンなのかは色んな説があるけど、その中のひとつは第二ボタンが1番心臓に近いからハートを掴むって意味があるからなの。つまり好きな人の心を掴みたいってことだけど、巧の心を掴みたいって思う女の子がいると思う?巧が好きな女の子が巧のことを好きだといいんだけど」
我が子が恋の行方について話す妻は嬉しそうだが、司は妻の話を訊きながら27年前を思い出していた。
そこに見えるのはひとりの女性を手に入れるため、それまでの生き方を変えることを決めた男の姿であり、定めがあるならその定めを乗り越え、好きな人を幸せにする力を手に入れるために離れ離れになる恋を選んだ男の姿だが、その人の誕生日にたった数分会うためにジェットを飛ばし、キスだけを残し立ち去ったこともあった。
「でも第二ボタンの風習は詰襟の学生服の風習なのよね。英徳はブレザーだから第二ボタンじゃなくてネクタイかもしれないわね?つまりネクタイを下さいってことだけど、もし卒業式の後で巧がネクタイを締めてなかったら、好きな女の子から告白されたってことになるわね?ねえ。司。巧の恋。上手くいくといいわね?もしかするとプロムでその女の子と踊るかもしれないわね?」
卒業式のあとに行われる英徳のプロムは小社交界と言われる華やかさがあるが、司がプロムで思い出すのは、
『4年後いい男になって戻ってきたら、あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ』と言った少女の姿。
そしてその少女は言葉の通り司を幸せにしてくれた。
結婚したふたりの間には三人の子供がいて、その中で一番年長の子供が巧だ。
ふたりにとってはじめての子供は男の子。その次も男の子。そして三番目が女の子だがどこの子も可愛い。
だがやはり最初に生まれた子には特別な思いがある。
それは二人が手探りで始めた育児だからだが、実際に司が手伝ったことと言えば、オムツを替えることとミルクをあげることくらいだったが、妻はそれだけでも充分。あたしにはタマさんもいるからと言って笑った。
だからせめてという訳ではないが学校行事には積極的に参加した。
運動会があれば走った。時間が許す限り参観日にも足を運んだ。それは自分が子供だった頃に親にしてもらえなかったこと。
教室で後ろを振り返ったとき、そこにいたのは父でも母でもなく司の世話をしていた老婆。
司は老婆のことが好きだった。けれどそこに見たかったのは両親の姿だ。
だが生活の殆どを海外で過ごしていた両親は、仕事で忙しいといって学校行事に参加することはなかった。
だから親になった司は子供たちに親のいない寂しさを味合わせたくはないという思いがあった。それに子供たちがどんな日常を過ごしているのか気になったが、三人とも司のように問題を起こすことなく育ってくれた。
司はかつて自分にあったような期待をかけて息子を育てることはしなかった。
息子には息子の人生を歩んで欲しかった。だから息子には道明寺司の息子ではなく、ひとりの男として自分の人生を歩んで欲しいと思っている。
そんな長男は高等部の卒業式を迎えたが、これからは親の手を離れ大人の男として自分の行動に責任を持つ事になる。
「それでね。あたしも中学のとき友達から第二ボタンを貰うから付いて来て欲しいって言われて体育館の裏に付いて行ったことがあったの。あ、でも少し離れた場所にいたから現場は見てないんだけどね。なんかあたしまでドキドキしちゃった」
司は妻の語りを訊きながら思い出にひたっていたが、ふと思った。
それは、司が出席することが出来なかった卒業式の後こと。
妻が言ったように制服の第二ボタンの風習が英徳にもあったなら、司のことを好きだと言った女は詰襟の学生服の第二ボタンに匹敵するネクタイを欲しがらなければおかしいということ。だが妻は司にそういったものを欲しがらなかった。
「つくし」
「なに?」
「お前、俺が卒業したとき、俺の制服のネクタイを欲しいと思わなかったのか?」
「え?」
「え、じゃねえだろ?何でお前は俺にネクタイをくれって言わなかった?」
「何よ突然。それに何でって司は制服着てなかったじゃない?」
「着てなかったからってそれで済ませるつもりか?」
「済ませるもなにも実際そうでしょ?それにあたしが司の制服姿を見たのは一度だけなんだからね?」
そう言われて初めて気づいたが、司の記憶にある制服姿の自分は、妻に制服デートをしようと言われた時だけで他は全く覚えがなかった。
「それでも欲しがれよ。ニューヨークに旅立つ俺の代わりにネクタイが俺だと思えばいいだろ?」
「あのねえ。ネクタイが俺っていうけど普段身に付けてないものをもらっても嬉しくないわよ」
言われてみれば確かにそうだ。
もし司が妻の立場だとすれば、妻が身に付けたことがないものを妻だと思えと言われても、妻の匂いもしなければ妻の汗が染み付いていないものを受け入れることは出来ない。
だが思ったのは、卒業式の日に制服を着て来たという類は、「これ俺だと思って大切にして欲しい」と言って妻にネクタイを渡したのではないかということ。
何しろ類は妻のことが好きだった。だから叶わなかった恋に未練があって自らネクタイを外し渡したのではないか。27年前のことだが、そんな思いが頭の中に湧き上がった。
「つくし。お前、卒業式の日、類からネクタイを貰わなかったか?」
「はあ?」
「だから、俺がプロムに行くまでの間に類からネクタイを貰わなかったか?」
すると妻は司の言葉に呆れたように言った。
「あのねえ。何を言い出すかと思ったら、どうしてあたしが類からネクタイを貰わなきゃならないのよ?」
「だってそうだろうが。類はお前のことが好きだった。だから卒業の記念だとかなんとか言ってお前にネクタイを貰って欲しいと言わなかったか?」
「もう、いい加減にしてよね?類があたしのことが好きだったのは遠い昔の話で今は違うわよ」
妻はそう言ったが司はその話を信じていなかった。
何故ならあの男は未だに独身だからだ。
「それよりも今は巧のことよ。巧はネクタイ無しで帰ってくるかしらね?もしかしてプロムに行くのはその子とダンスをする約束をしているからじゃない?もしそうだとしたらどんな女の子なのかしらね?」
パーティーは好きじゃないという息子だが、妻に言わせればそんな息子がプロムに出るのは好きな女性とダンスを踊りたいから。
もし妻の言う通りだとすれば、息子はその女の子のことを本気で好きだということになるが、恋に興味がなかった男の本気の恋ほど恐ろしいものはない。
それは、Blood will tell. 血は争えないからだ。
司はあの時、プロムには遅れて到着した。だから妻とワルツを踊ることがなかった。
それが今でも心残りだ。何しろ人生の中で一度しかない卒業のセレモニー。
出来ることならあの時間をもう一度と思う。
「つくし」
「何?」
「あの時、俺たちはワルツを踊ることは出来なかったな」
英徳の生徒の誰もが憧れる男のダンスをする姿は、そこになかった。
ただそこにいたのは、愛している女と離れ遠い場所で暮らすことを選んだ男が、旅立ちの前にしっかりとその女を抱きしめている姿だ。
「そうね。あたしは司からドレスを貰ったけど、破れて着ることはなかった。
それに司は渡米前で忙しくて遅れてきたし、あたしたちがあの時過ごした時間は短かったわよね。でもあれから司とは何度もダンスをしたわ。それはあたしが卒業する時に司がニューヨークから来てくれた時もだけど、誕生日も踊ったわ。大学を卒業する時も。それに結婚式も。だから今はちゃんと踊れるわ」
道明寺ホールディングス社長道明寺司の妻としてこれまで夫と踊ったダンスは数知れず。
だが初めの頃ステップを間違えて足を踏むことが多かった。
司はソファから立ち上ると向かいの席に座る妻の手を取った。
子供の人生の節目である卒業に自分達が歩んで来た人生を振り返る。
それはどの親もすることかもしれないが、司は27年前のあの日に踏む事が出来なかったステップを踏む事を決めた。
だがそのステップはあの時流れていた優雅なワルツではない。
18歳の少年ではなく45歳の男が踊りたいのはチークダンス。
あの時、「宣戦布告だな、やってもらおうじゃん」と言った男は、瞳に涙を浮かべた恋人を見ていたが、その先に見えたのはふたりで過ごす未来の風景。
春は失うものもあれば、得るものもあるが司が見たのは得るものだけ。
そして心の中で言ったのは、頑張るからな、待ってろよ。
司は妻の身体を引き寄せた。
そして「踊ろう。あの時踊れなかったダンスを」と言って頬を寄せた。
< 完 > *春を往け(はるをゆけ)*
こちらのお話は、先日皆様からいただいた沢山の拍手とコメントの御礼として書かせていただきましたが、楽しんでいただけたなら幸いです。そして、今までこうして書き続けることが出来たのも皆様のおかげです。ありがとうございました。 アカシア

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司は我が子の卒業式に来賓として出席したが、今は妻とふたりでリビングのソファに腰を降ろしコーヒーを飲んでいた。
今日は司が英徳学園を卒業してから27年目の春。
18歳の少年が今は45歳になり息子は18歳になったが、息子は司と同じ英徳に入学し無事高等部を卒業した。
息子は司が18歳の頃と同じで背は185センチあり、癖のある髪に鋭い目をしていた。
だが同じなのは外見だけで性格は全く違う。
息子の性格はどちらかといえば妻に似ていた。それは物事に対する取り組み方だが、息子は物事を考える時は慎重に考える。だが時に周りの誰もが思いもしないような大胆な行動を取ることがあるが、それは司の性質を受け継いでいると言えた。
そんな息子について妻は言った。
「ねえ、巧は好きな女の子がいるみたいよ?でもまだ想いは伝えてないみたい」
司はそう言われ息子が恋をしていることを知った。
子供も高校生になると幼かった頃のように何でも親に話すことはない。
だから司も息子の恋愛事情について知らなかったが、自分が同じ年頃だったことを思えば、恋のひとつやふたつしていたとしてもおかしくはない。だから「そうか」という思いだった。
司は目の前に好きな女がいれば、すぐにでも抱きしめたいと思っていたが息子はどうなのか。
そんな我が子のことを一番知っているのは母親なのかもしれない。
だから母親は嬉しそうに言った。
「あの子、卒業式の後で制服の第二ボタン欲しいって言われると思う?」
「制服の第二ボタン?」
「そうよ。ほら、卒業式が終ったら好きな人の第二ボタンを貰うっていうアレよ」
司はアレと言われても妻の話が全く分からなかった。だから訊いた。
するとこう言われた。
「卒業式が終ったらね、女の子は卒業する好きな男の子の制服の第二ボタンを貰う風習があるの。
どうして第二ボタンなのかは色んな説があるけど、その中のひとつは第二ボタンが1番心臓に近いからハートを掴むって意味があるからなの。つまり好きな人の心を掴みたいってことだけど、巧の心を掴みたいって思う女の子がいると思う?巧が好きな女の子が巧のことを好きだといいんだけど」
我が子が恋の行方について話す妻は嬉しそうだが、司は妻の話を訊きながら27年前を思い出していた。
そこに見えるのはひとりの女性を手に入れるため、それまでの生き方を変えることを決めた男の姿であり、定めがあるならその定めを乗り越え、好きな人を幸せにする力を手に入れるために離れ離れになる恋を選んだ男の姿だが、その人の誕生日にたった数分会うためにジェットを飛ばし、キスだけを残し立ち去ったこともあった。
「でも第二ボタンの風習は詰襟の学生服の風習なのよね。英徳はブレザーだから第二ボタンじゃなくてネクタイかもしれないわね?つまりネクタイを下さいってことだけど、もし卒業式の後で巧がネクタイを締めてなかったら、好きな女の子から告白されたってことになるわね?ねえ。司。巧の恋。上手くいくといいわね?もしかするとプロムでその女の子と踊るかもしれないわね?」
卒業式のあとに行われる英徳のプロムは小社交界と言われる華やかさがあるが、司がプロムで思い出すのは、
『4年後いい男になって戻ってきたら、あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ』と言った少女の姿。
そしてその少女は言葉の通り司を幸せにしてくれた。
結婚したふたりの間には三人の子供がいて、その中で一番年長の子供が巧だ。
ふたりにとってはじめての子供は男の子。その次も男の子。そして三番目が女の子だがどこの子も可愛い。
だがやはり最初に生まれた子には特別な思いがある。
それは二人が手探りで始めた育児だからだが、実際に司が手伝ったことと言えば、オムツを替えることとミルクをあげることくらいだったが、妻はそれだけでも充分。あたしにはタマさんもいるからと言って笑った。
だからせめてという訳ではないが学校行事には積極的に参加した。
運動会があれば走った。時間が許す限り参観日にも足を運んだ。それは自分が子供だった頃に親にしてもらえなかったこと。
教室で後ろを振り返ったとき、そこにいたのは父でも母でもなく司の世話をしていた老婆。
司は老婆のことが好きだった。けれどそこに見たかったのは両親の姿だ。
だが生活の殆どを海外で過ごしていた両親は、仕事で忙しいといって学校行事に参加することはなかった。
だから親になった司は子供たちに親のいない寂しさを味合わせたくはないという思いがあった。それに子供たちがどんな日常を過ごしているのか気になったが、三人とも司のように問題を起こすことなく育ってくれた。
司はかつて自分にあったような期待をかけて息子を育てることはしなかった。
息子には息子の人生を歩んで欲しかった。だから息子には道明寺司の息子ではなく、ひとりの男として自分の人生を歩んで欲しいと思っている。
そんな長男は高等部の卒業式を迎えたが、これからは親の手を離れ大人の男として自分の行動に責任を持つ事になる。
「それでね。あたしも中学のとき友達から第二ボタンを貰うから付いて来て欲しいって言われて体育館の裏に付いて行ったことがあったの。あ、でも少し離れた場所にいたから現場は見てないんだけどね。なんかあたしまでドキドキしちゃった」
司は妻の語りを訊きながら思い出にひたっていたが、ふと思った。
それは、司が出席することが出来なかった卒業式の後こと。
妻が言ったように制服の第二ボタンの風習が英徳にもあったなら、司のことを好きだと言った女は詰襟の学生服の第二ボタンに匹敵するネクタイを欲しがらなければおかしいということ。だが妻は司にそういったものを欲しがらなかった。
「つくし」
「なに?」
「お前、俺が卒業したとき、俺の制服のネクタイを欲しいと思わなかったのか?」
「え?」
「え、じゃねえだろ?何でお前は俺にネクタイをくれって言わなかった?」
「何よ突然。それに何でって司は制服着てなかったじゃない?」
「着てなかったからってそれで済ませるつもりか?」
「済ませるもなにも実際そうでしょ?それにあたしが司の制服姿を見たのは一度だけなんだからね?」
そう言われて初めて気づいたが、司の記憶にある制服姿の自分は、妻に制服デートをしようと言われた時だけで他は全く覚えがなかった。
「それでも欲しがれよ。ニューヨークに旅立つ俺の代わりにネクタイが俺だと思えばいいだろ?」
「あのねえ。ネクタイが俺っていうけど普段身に付けてないものをもらっても嬉しくないわよ」
言われてみれば確かにそうだ。
もし司が妻の立場だとすれば、妻が身に付けたことがないものを妻だと思えと言われても、妻の匂いもしなければ妻の汗が染み付いていないものを受け入れることは出来ない。
だが思ったのは、卒業式の日に制服を着て来たという類は、「これ俺だと思って大切にして欲しい」と言って妻にネクタイを渡したのではないかということ。
何しろ類は妻のことが好きだった。だから叶わなかった恋に未練があって自らネクタイを外し渡したのではないか。27年前のことだが、そんな思いが頭の中に湧き上がった。
「つくし。お前、卒業式の日、類からネクタイを貰わなかったか?」
「はあ?」
「だから、俺がプロムに行くまでの間に類からネクタイを貰わなかったか?」
すると妻は司の言葉に呆れたように言った。
「あのねえ。何を言い出すかと思ったら、どうしてあたしが類からネクタイを貰わなきゃならないのよ?」
「だってそうだろうが。類はお前のことが好きだった。だから卒業の記念だとかなんとか言ってお前にネクタイを貰って欲しいと言わなかったか?」
「もう、いい加減にしてよね?類があたしのことが好きだったのは遠い昔の話で今は違うわよ」
妻はそう言ったが司はその話を信じていなかった。
何故ならあの男は未だに独身だからだ。
「それよりも今は巧のことよ。巧はネクタイ無しで帰ってくるかしらね?もしかしてプロムに行くのはその子とダンスをする約束をしているからじゃない?もしそうだとしたらどんな女の子なのかしらね?」
パーティーは好きじゃないという息子だが、妻に言わせればそんな息子がプロムに出るのは好きな女性とダンスを踊りたいから。
もし妻の言う通りだとすれば、息子はその女の子のことを本気で好きだということになるが、恋に興味がなかった男の本気の恋ほど恐ろしいものはない。
それは、Blood will tell. 血は争えないからだ。
司はあの時、プロムには遅れて到着した。だから妻とワルツを踊ることがなかった。
それが今でも心残りだ。何しろ人生の中で一度しかない卒業のセレモニー。
出来ることならあの時間をもう一度と思う。
「つくし」
「何?」
「あの時、俺たちはワルツを踊ることは出来なかったな」
英徳の生徒の誰もが憧れる男のダンスをする姿は、そこになかった。
ただそこにいたのは、愛している女と離れ遠い場所で暮らすことを選んだ男が、旅立ちの前にしっかりとその女を抱きしめている姿だ。
「そうね。あたしは司からドレスを貰ったけど、破れて着ることはなかった。
それに司は渡米前で忙しくて遅れてきたし、あたしたちがあの時過ごした時間は短かったわよね。でもあれから司とは何度もダンスをしたわ。それはあたしが卒業する時に司がニューヨークから来てくれた時もだけど、誕生日も踊ったわ。大学を卒業する時も。それに結婚式も。だから今はちゃんと踊れるわ」
道明寺ホールディングス社長道明寺司の妻としてこれまで夫と踊ったダンスは数知れず。
だが初めの頃ステップを間違えて足を踏むことが多かった。
司はソファから立ち上ると向かいの席に座る妻の手を取った。
子供の人生の節目である卒業に自分達が歩んで来た人生を振り返る。
それはどの親もすることかもしれないが、司は27年前のあの日に踏む事が出来なかったステップを踏む事を決めた。
だがそのステップはあの時流れていた優雅なワルツではない。
18歳の少年ではなく45歳の男が踊りたいのはチークダンス。
あの時、「宣戦布告だな、やってもらおうじゃん」と言った男は、瞳に涙を浮かべた恋人を見ていたが、その先に見えたのはふたりで過ごす未来の風景。
春は失うものもあれば、得るものもあるが司が見たのは得るものだけ。
そして心の中で言ったのは、頑張るからな、待ってろよ。
司は妻の身体を引き寄せた。
そして「踊ろう。あの時踊れなかったダンスを」と言って頬を寄せた。
< 完 > *春を往け(はるをゆけ)*
こちらのお話は、先日皆様からいただいた沢山の拍手とコメントの御礼として書かせていただきましたが、楽しんでいただけたなら幸いです。そして、今までこうして書き続けることが出来たのも皆様のおかげです。ありがとうございました。 アカシア

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