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2020
02.22

また、恋が始まる 1

閉ざされていた扉が開き、司が失われていた記憶を取り戻したのは春を迎えた頃。
彼は1月に誕生日を迎え34歳になっていた。
記憶を取り戻した男がまず一番始めにしたのは、忘れてしまっていた女性の元を訪ねること。
だが、あれから干支はひと回り以上していて、彼女はもう自分のことなど忘れてしまったかもしれない。だがそれでも司は彼女の行方を探した。
だがいくら探しても彼女は見つからなかった。
だが男は、どうにか彼女が暮らす場所を見つけたが、そこは日本ではなかった。

それなら彼女は何処にいたのか。
そこはヨーロッパとアジアを合わせた大陸であるユーラシア大陸の中央。
司の最愛の人は中央アジアにあるカザフスタンの日本語学校で日本語の教師をしていた。

彼女が日本語教師としてその国に渡ったのは5年前。
外国語大学を卒業して就職した会社を辞め、その国の国立大学に設けられている日本語学科に任期付ネイティブ教師として赴き、日本企業に就職を目指す学生たちに実践的な日本語を教えていた。
やがて大学での任期が終わった彼女は、その国に残ることを望み、今は大学ではなく民間の日本語学校で日本語を教えていた。

道明寺ホールディングスは、その国に駐在事務所を置いている。
それはカザフスタンが石油や天然ガスといった燃料資源が豊富な資源大国であることが日本の産業に欠かせない国であるからだが、それと同時に新規ビジネスの発掘が見込める国だからだ。

司はすぐに彼女が教師として働いている日本語学校について調べさせた。
そして分かったのは、そこは経営がやっとという小さな学校であり、教師の給料は高いとは言えなかった。
それなら彼女はどうやって日々の暮らしの糧を得ているのか。

「はい。この国はロシア語とカザフ語が公用語で通じるのですが、牧野様はロシア語だけでなくカザフ語もマスターされており、どちらも話すことが出来る日本人は大変貴重です。
何しろこの街の人間の英語を話す割合は大変低いので。
ですから日本からの旅行者やビジネスでこの国を訪れる人間の通訳をして収入を得ておられます。我社も何度か通訳をお願いしたことがあります」

司は駐在員からその話を訊いたとき彼女らしいと思った。
生活能力の高い彼女は高校生の頃からアルバイトで家計を支えてきた。
それに自分のことを雑草だと言った彼女は、どんな環境でも生きていくことが出来ると言ったが、世界で第9位という広大な面積を持つ国は、冬になれば場所によってはマイナス30度以下になるが、そんな国でもたくましく生きているようだ。
だが、もし自分が彼女のことを忘れなければ、司はふたりの前にあった問題を解決し、今頃は彼女と結婚していたはずだ。
そうだ。司が彼女の事だけを忘れたがために、他の女を大切な人だと間違え、彼女を深く傷付けた。
だから己が取った行動に彼女が自分の前から去っても当然だと言えた。

そして、彼女がさよならを告げ、悲しそうに自分を見つめたあの日のことを思い出すと、こうして時間が経った今でもあの日の彼女の顏に目に浮かび心が痛んだ。
だが司は、いつまでも心を痛めているだけの男ではない。

司は中央アジアに飛ぶことを決めると、通訳として彼女を雇うように指示を出した。
ただし、彼女が通訳として同行する相手の名前は伝えるなと言った。
そんな司の手元には川に捨てたはずのネックレスがあった。
それは一度別れを決めた司が捨てたはずのネックレスだったが、今ここにこうしてあるのは彼女が川から拾い上げたから。
そして彼女を忘れ他の女を傍に置いた男にさよならを告げにきた彼女は、後ろを振り返ることなく司の前から去った。

あのとき涙に膨らんだ瞳を逸らしたことに気付かなかった。
だがよく見れば分かったはずだ。
彼女の瞳の中にあったその哀しみを。

もしあのとき彼女のことを思い出せば毎日会えた。
明日も、明後日も、その次も……。
だが、幾ら「もし」を繰り返しても過去を取り戻すことは出来ない。
だから司は前だけを向くことを決めるとタラップを上がった。



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2020
02.23

また、恋が始まる 2

「副社長。まもなく着陸します」

その声に何度かまばたきをして窓の外に目を向けるとジェットは着陸態勢に入ったのか。
徐々にその高度を下げていた。

普段なら機内で眠ることはない。けれどこの旅はビジネスではなく、愛しい人に会うための旅。彼女に会うことを考えた時、仕事をする気にはなれなかったが、秘書はそんな男の前に書類を置くことはなかった。
そして秘書は普段から睡眠は大切ですと力説していたが、今日の司は席に腰を下ろすとストンと落ちるように意識が無くなっていたが、そんな眠りの中で夢を見た。

その夢はこうだった。
司の前に現れた老人は人を探していると言った。
そして老人は手にしている小さな箱の中から古い地図と取り出すと、丸印がつけられた場所に探している人がいるはずだから連れて行って欲しいと司に頼んだ。
だが司はその地図がどこの場所を表しているのか分からなかった。
それに、書かれている文字は長い年月を経ているのか。
インクは薄れていて判別することが出来なかった。

そしてその老人は司の前から消えたが、次に現れたのは老婆。その老婆は司に言った。
この道を真っ直ぐ行けばあの人に会えますか。
どうすればあの人に会えますか。
そう言った老婆も古い地図を持っていて司に示した。
だがやはり司にはその場所がどこなのか分からなかった。
それに、老婆が手にしている地図も、やはり書かれている文字は薄れていて、何と書かれているのかはっきりとしなかった。
そして老人の時と同じように老婆は突然司の前から消えた。

夢というのは意外さと唐突さで繋がっている。
だからたった今見た夢は、単なる意味のない夢だと言ってもいい。
だが夢は潜在意識が見せるものだとも言われる。
夢は未来を暗示しているという話もある。
だとすれば、つい今しがた見た夢に出て来た老人は司の可能性もあった。
自分が訪れたい場所を永遠に探し求めて彷徨っている老人。

だが老婆が彼女だとすれば、司がこれから向かう先にいる女性は司に会いたいと思っているのではないか。
これまで顧みられることがなかった女性は情の厚い女性だった。
だから今でも司のことを思っていてくれるのではないか。
そう考えるのは司の身勝手だとしても、そう願っている己を否定することは出来なかった。


人が生まれてから死ぬまでの間に出会う人間はいったいどのくらいなのか。
そして幾つもの偶然が重なり出会った人間同士は、それを運命と感じるのか。
それとも宿命と感じるのか。
司が生まれながらに持つ宿命は、道明寺の家を継ぐこと。
ビジネスを拡大していくこと。
だから司の人生は敷かれたレールの上を走る列車のように決められていた。
そして彼女のことを忘れた男がレールを外れることはなく、アメリカの大学を卒業した男は道明寺に入社すると、まだ若い司が纏めることは出来ないと言われる難しい案件も纏めてきた。

そんな男はビジネスの世界では精力的で情けがないと言われ、他人に対しナーバスになったことはない。だが今はナーバスにならざるを得なかった。
何故なら、これから会う彼女のことは纏めなければならない案件ではないからだ。


「副社長。どうぞこちらへ」

司を出迎えた駐在員は、そう言って車へ案内したが、日本の春にはほど遠い寒さが足元から昇って来た。

ここはかつてこの国の首都だった第二の都市アルマトイ。
天山(てんざん)山脈の雄姿を臨むことができる中央アジアの近代都市。
経済、教育、文化の中心地であり日系企業の多くがこの街に拠点を置いていて、道明寺もこの街に駐在事務所を構えているが、彼女が住んでいるのはこの街の郊外。
駐在している道明寺の社員から通訳を頼まれた彼女が事務所に来るのは明日だが、司は着いたその足で彼女が暮らしている場所を訪れることを決めていた。

それは一刻も早く彼女に会いたかったから。
そして会って言いたかった。

「ごめん、お前を忘れて悪かった。俺は今でもお前のことを愛してる」

それ以外の言葉を言うつもりはないが、彼女は司の思いを受け止めてくれるだろうか。
だが司の存在は忘却の彼方へ追いやられていてもおかしくない。
それでも会って自分の思いを伝えなければならない。

そして閉ざされていた記憶の中にいた少女は、今はどんな姿なのか。
駐在員から彼女の写真を送りましょうかと言われたが必要ないと答えた。
それは、瞳の奥に、胸の奥に抱いている彼女の面影を大切にしたかったから。
それに、目を閉じれば浮かぶ姿に懐かしさとともに感じられる愛おしさがあった。
その思いを心に抱き彼女に会いたかったから写真は必要ないと言った。とは言え、自分に向けられる瞳に浮かぶ感情を知るのが怖いという思いもあった。



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2020
02.24

また、恋が始まる 3

司が車窓から目にしたのは、国土の大半が砂漠や乾燥した大地の国とは思えないほど緑が豊かな街並み。だが着陸態勢に入っていたジェットから見た景色の中に緑はなく、荒涼とは言わなくとも乾いた大地が広がっていた。

「今でこそ近代的なビルが建ち並んでいますが、この街もソビエト時代はもっと緑が多い街だったそうです。
それに今では少なくなりましたが、かつて街の廻りには沢山のリンゴの木が植えられていたそうです。そのことからこの街の名前がリンゴの里を意味するアルマトイになったと言われていますが、私が学生時代、この街の名前はアルマアタと言っておりましたが、これはソビエト時代の呼び名です。
とにかくこの街はリンゴの街として有名ですが、それが関係しているのか。リンゴは北コーカサスが起源と言われていますが、本当はこの街が起源だという人間もいます。つまりこの街の人間はリンゴに対して強い思い入れがあるということになります。
その証拠にこの街の市章は雪豹が口にリンゴの花をくわえている姿です。ちなみに夏のアルマトイは35度以上になることも多いのですが、乾燥した土地ですので湿気がなく軽井沢のように爽やかで過ごしやすい街です」

空港で秘書と別れた司は、大型車の後部座席に一緒に乗り込んだ自分より年上の駐在員の話を訊いていたが、司にとってのリンゴの街と言えば、生活の拠点であるビッグアップルの愛称を持つニューヨークだ。

だがリンゴの話などどうでもいい。それよりも牧野つくしのことが知りたかった。
この街で日本語の教師をしている彼女がどんな暮らしをしているのかを。
だが駐在員は司と牧野つくしの過去など知るはずもなく、ただの昔馴染みだと思っていることから、どうでもいい話ばかりをしていた。

「ソビエト時代にはおしゃれなカフェはなかったのは当然ですが、今のアルマトイは中央アジアで一番流行に敏感な街だと言われています。ですが依然として日本から観光でこちらに来られる私と同年代の方の中には、暗かったソビエト時代のイメージをお持ちのようで、この国は貧しくて物がない国だと思われているようです。しかし今は全くそんなことはありません」

司より年上の男が話す、かつてない変貌を遂げた国の話は延々と続くかと思ったが、この街が普通に生活するには悪くないレベルの街だということに、彼女の生活もそれほど悪くはないのだと安心した。

「それから牧野様のお住まいは郊外のリンゴ畑が残っている場所ですので緑が多い場所になります」と言って時計に目を落とし、「そうですね....あと10分ほどで着くはずです」と言葉を継ぐと説明は終えたとばかりに静かになった。



長い間忘れていた最愛の人にあと10分で会える。
そのことが司の鼓動を早めた。
司よりひとつ年下の彼女は33歳。
互いに30の峠を越えての再会だが、女性にとって30という年齢は結婚や出産を考える年齢だと司も理解しているが、その時頭を過ったのは、もしかすると彼女がこの国に残ることを決めた理由は、好きな男がこの国にいるからではないかということ。
そしてこれから向かう先には、男と一緒に暮らしている彼女がいるのではないかということ。

だがそういった報告はなかった。
それに駐在員の口からも、そういった言葉は出なかった。
それでもやはり男がいて、その男は結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けているのではないかという思いが浮かんだ。

だがもしそうだとすれば、自分はどうするだろうと自問したが、自分の思いを伝えることを止めるつもりはない。
そしてもし彼女が不幸な状況に置かれているのなら、強引にでも男から引き離すつもりでいた。
だが、自分は長い間彼女のことを忘れていた。その間の彼女の人生について何か言える立場にはない。
そう。司が彼女のことを忘れたばかりに、彼女はニューヨークではなく中央アジアのこの国いるのだ。

だが司は彼女のことを思い出した。
だから彼女を忘れたことについては、真摯な態度で謝り、俺たちの人生をやり直そう言うつもりだ。そしてその言葉の中に含まれているのは結婚して欲しいということ。

司は高校生の頃に彼女に結婚して欲しいと言ったことがあった。
だがあの時は、ふたりの仲を引き離そうとする母親から逃れるため思いついたことであって実現することはなかった。

そうこう思いを巡らせているうちに、車は彼女の家についたようだ。

「副社長。あちらが牧野様のお住まいになられている家です」

司が見つめているのは、ここまで来る道すがら見えていた集合住宅ではなく一軒の古びた家。
その家を取り囲むように木が生えていた。

「牧野様は古い農家をリフォームされた家に住んでいらっしゃいます。ですから庭付きであちらの木々はかつての農園の名残のリンゴの木ですが、牧野様はあちらの木になったリンゴでアップルパイをお焼きになれますが、それがとても美味しいんです」

「アップルパイ?」

司は駐在員の言葉に片眉が上がっていた。

「はい。牧野様は日本語学校の教師で通訳の仕事もなさっていますが、アップルパイを焼くのも大変お上手でして、時にご出席される日本人会の集まりにはパイを焼いてお持ちになられます。実は私は顔見知りでして何度かいただいたことがあります」

司は駐在員の話に自分の顏がムッとしているのが分かった。
そして、この社員をクビにしてやろうかと思ったが、ありったけの自制心を働かせ、それを口にすることはしなかった。




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2020
02.25

また、恋が始まる 4

つくしは台所で調理中に家の外で車が止まった音を訊いた。
やがて玄関のチャイムが鳴り、扉がノックされる音を訊いたが、チャイムを鳴らしながらノックをするという、せっかちな人間は余程急いでつくしに会いたいということか。

「もう。誰よ?今忙しいんだから。ちょっと待ってよね?」

海外に暮らしていても、ひとり言を呟く癖は治らなかった。
訪問者は誰なのか。古い民家をリフォームした家に訪問者を確認できるカメラはなく、コンロの火を消して扉の前まで行くと「どなたですか?」とロシア語で訊いた。

すると扉の向こう側にいる人物は日本語で言った。

「牧野さん。高橋です。道明寺の高橋です」

「え?高橋さん?すみません。少しだけ待ってもらえますか?」

少し待ってもらうことにしたのは小麦粉まみれになっている手を洗うためだったが、明日通訳の仕事で訪れることになっている道明寺の駐在員である高橋が自宅を訪ねてきたことに、予定の変更があるのかと思った。
だがそれなら電話連絡で済むはずだと思いながら、もしかすると日本人会のことかと思った。それは定期的に開かれる食事会だが、用事がない限り出来るだけ参加するようにしていて、つくしがこの国に来たのと同じ頃に赴任してきたという男性とは、仕事とは別に日本人会で顏を合わせていた。

正確な年齢は知らないが40代後半と思われる男性は、話しやすく親しみのもてる男性だ。
その高橋から通訳として仕事を頼まれるようになったのは、大学での教師の仕事の任期が終了してから。それはロシア語とカザフ語のどちらも理解している日本人は貴重だという理由だったが、勤務先が道明寺だと言った男性に、自分を忘れた男のことが頭を過った。

日本を離れたのは5年前。
28歳で勤務していた会社を辞め、国際文化交流事業を行う団体の事業に応募してこの国に来た。そして任期が終わってからもこの国に残ることにした。
この国に来た理由。それは何かを変えたかったからだが、その何は何ですかと問われれば、『何か』としか言いようがない。
だが誰でも人生の中で一度はそういったことを思うはずだ。
つまり変わらなければと思う自分がいるということになるが、その根元が何であるかは分かっている。それは、まさかこの国に来てまで道明寺という名前に係わるとは思わなかったが、あの男のことだ。

5年前、あの男がつくしを忘れて11年が経った。
『十年一昔』という言葉がある。それは歳月の流れの10年をひと区切りとするなら、10年前に起こったことは昔のことであり古い話ということになる。
だから古い話にケリをつけるため、あの男のことを完全に忘れるために環境を変えようと思った。だから本当なら10年目に会社を辞めたかったが、任されていたプロジェクトを終えてという思いから1年伸びた。
そして会社を辞めた。

10年をひと区切りにする古い話。
つくしは、道明寺司という男と付き合い始めたばかりの時、その男に忘れられた。
だがそれは男が悪いのではない。
暴漢に襲われ瀕死の重傷を負った男が命を取り留めることが出来たのは、あの男の体力と医学のおかげだが、まさか記憶障害を起こしているとは思いもしなかったが、そうなったことで男を責めることは出来なかった。
それに、いつかきっとぶっきらぼうな笑顔で自分の前に現れる男がいる。そう思っていた。
けれど、そんな男が現れることはなかった。
つまり男の記憶は10年間浮上しなかった。

だがつくしの気持ちが同じように浮上しなかったのではない。
仕事は入社してからすぐに大きなプロジェクトに参加したが、楽しかったしやりがいを感じた。ただ私生活に於いて、つまり男性と付き合うとか付き合わないとかということだが、その方面に対して興味がわかなかった。
そしてあの頃のことを知る人間に気を使われるのが嫌だった。
あの話はもう終わりにしたいと思った。
だからだろう。選んだ外国で日本語を教える仕事。
カザフスタンならあの男との接点はないはずだと思ったが少し考えれば分かることだ。
幅広い事業を展開する道明寺グループはこの国に駐在事務所を置いていて、係わることがないと思っていた名前に係わっていた。




つくしは手を洗い終えるとエプロンを外した。
そして玄関扉の前に立つと鍵を外して扉を開けた。

「おまたせしてすみません。今ちょうど料理をしていて__」

つくしが扉を開けた先にいたのは、やたらと目力の強い男。
その男がつくしの真正面に立って彼女を睨みつけていた。

「………」

人は本当に驚くと声が出ないというが、まさに今の彼女の状態はそれだ。
だからつくしはギョっとした顏に大きな目を見開いた状態で、穴が開くと言ってもいいほど目の前の男を見ていた。

「牧野様?牧野様?」

繰り返しつくしの名前を呼んだのは駐在員の高橋。

「は?…い?……え?」

つくしが言葉に詰まっているのは、どう反応していいのか分からないから。
そして口から発せられたそれは、ただ息が漏れただけと言ってもいいほどで自分でも何を言っているのかわからない。
だから突然目の前に現れた男に沈黙するしかなかった。
だがその沈黙はつくしが言葉を失った思考回路を取り戻そうとしている時間だ。
それはまるで初めてロシア語の通訳をした時、相手の言葉を要約しながら自分が喋る言葉を慎重に選んでいたのと同じで__

「牧野。お前言葉を忘れたか?….ったく日本語の教師をしている女が言葉を忘れてどうする?」

司はからかうように言って一歩足を踏み出したがその途端、目の前で勢いよく扉が閉められた。




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2020
02.26

また、恋が始まる 5

「おい…..あぶねぇだろうが!それに人の目の前でいきなり扉を閉めるってのは失礼だろうが!それが十何年振りに会った人間に対しての態度か?」

司は閉まった扉の向こうにいる女に叫んだ。
そしてドアノブを掴んで回したが扉は開かなかった。

「てめぇ…..一度開けた鍵をなんで閉めた?牧野!鍵を開けろ!ここを開けろ!」

ドアノブをガチャガチャと回す男は、扉を叩くことも忘れなかったが、その音はドンドンと大きな音で部屋の中に響いた。
だが扉の向こうにいる女は男の声を無視し、その音に負けないくらい大きな声で言った。

「なんでアンタがここにいるのよ!何が失礼よ!だいたい日本語が不自由だった男に日本語を忘れたなんて言われたくないわよ!」

つくしが扉を開けた先にいた男は、かつて彼女と付き合いながら彼女のことを忘れ、彼女が作った弁当を他の女が作ったものだと信じた味音痴の男だ。
そんな男が突然目の前に現れ、つくしのことを失礼だと言い、鍵を閉めた扉を叩いて開けろと喚いている。
それにしても何故あの男がここにいる?
だが頭の中に湧き上がったその疑問は男の言葉ですぐに解決した。

「牧野!いいか。よく訊け。俺はお前を思い出した。だからここに来た。お前を忘れたことを詫びにここに来た。だからこの扉を開けてくれ!」

男はつくしのことを思い出したと言ったが、本当にその言葉通りだとすれば、あれから16年経って男の中にある牧野つくしに関する記憶が浮上したということになるが、つくしの口をついた言葉は、「だから何?だから何なのよ?」

「だからって、お前それは_」

司は言いかけたが、扉の向こうにいる女は彼が言葉を継ぐ前に言った。

「アンタは16年もあたしのことを忘れていた。だけど突然あたしの事を思い出したから、詫びたいって言ったけど侘びてどうしたいのよ?言っとくけど今更愛してるって言葉は訊きたくない。それにあたしは大人の女で自分のことは自分で出来る。いつもそうしてるし、昔もそうしてきた。それはこの国に来ても同じ。だからほっといてよ!」

司は彼女の言葉に懐かしさを感じていた。
誰かに頼ることはしたくない。
かつてそう言って司に向けた瞳はまっすぐで生意気な瞳だった。
けれど今はふたりの間に扉があって、その瞳を見ることは出来ないが、扉を閉められる前に見た彼女の瞳はあの頃と同じだった。
だがたった今、彼女が言った「今更愛してるって言葉は訊きたくない」という言葉は、司がこうしてウズベキスタンに来たことを手遅れだと言っているのか。
つまりここに来るまでの車内で頭の中を過ったように、結婚に踏み切れず、かと言って別れることもせず曖昧な関係で彼女との関係を続けている男がいるということなのか。
そしてさっきは考えなかったが、もしかしてその男には妻子がいて、男は妻と別れて君と一緒になると言うセリフで彼女を傍に置いているのではないか。
だがそれは既婚男が女を繋ぎ留めておくための常套句で、その場しのぎの姑息な手だ。
つまり司の最愛の人は既婚男に都合のいい女にされているということになるが、もしそうだとすれば…..
恐らくだがこの結論は間違ってないはずだ。
それにもしかすると司が足を踏み出した瞬間、扉を閉めたのは部屋の中に男がいて、その男の存在を隠すためか?
料理をしていたというのは嘘で、裸でベッドにいた彼女は急いで服を着ていた?
そして男は部屋の奥で息を殺して隠れているのかもしれない。
だとすればこれはまさに不幸な状況だ。
けれどこうなったのは、司が彼女のことを忘れたからだ。
だが彼女のことを思い出した瞬間から愛は溢れて止まらなかった。
だから彼女が不幸になるのは見たくない。



司は怒鳴ってしまわぬように、ひと呼吸おいてから言った。

「牧野。お前、この国に男がいるのか?」

「はあ?」

「牧野。お前が今どんな状況にいても俺はあの頃と同じでお前のことを愛してる。俺はお前が不幸な目に遭うことを望んでない。いいか、牧野。よく訊け。30過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えねぇ」

彼女はとぼけているようだが司は決意した。
こうなった何としても男から引き離さなればならないと。
そして引き離したところで、折を見て結婚してくれと言えばいい。
もし相手の男が何か言ってきたら….
いや。相手は妻子持ちだ。本気で妻子を捨てて結婚する気があるなら、とっくにそうしているはずだ。
だがそうしないところが既婚男のずる賢さだ。

「牧野。いいか。訊いてくれ。俺はお前を忘れるという罪を犯した。だがな。人は知らず知らずのうちに罪を犯していることもある。だからと言って俺の罪を許してくれとは言わない。
それから俺はお前に対してはどんなことがあっても全てを受け入れることが出来る。
それほどお前のことを愛してるってことだ。だからお前が何か罪を犯していたとしても構わねぇ。それに俺はお前が俺の傍にいてくれるなら過去に何があろうと、何をしていようと全く気にならねぇ」

そうだ。
司も彼女のことを忘れている間、ニューヨークで他の女と遊んでいた。
だから彼女が他の男と付き合っていたとしても、それは仕方がない。
その男が妻子持ちだとしても。

「牧野。とにかく俺はお前のことを思い出した瞬間からお前に対する愛がそこら中に溢れだした。他の女のことはこれっぽっちも頭にない。俺にはお前だけだ。これだけは信じてくれ。今は会いたくないって言うなら明日会おう。お前、明日通訳としてうちの仕事を受けてるよな?だから明日会社で待ってる」

司は扉の向こうにいる女にやさしく語りかけたものの、返事はなかった。




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