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2020
02.27

また、恋が始まる 6

通訳の仕事で一番大切なのは誤訳をしないということ。
だから全神経を相手の言葉に集中させることだけをする。
そして通訳を頼まれる時には、どういった状況で誰の通訳を務めることになるのかを知らされるはずだが今回それは無かった。

道明寺のアルマトイ駐在事務所の高橋がつくしに通訳の仕事をお願いしたいと言って来たのは3日前。
その時言われたのは、「急で申し訳ないんですが日本から重役が来ることになったので彼のために通訳を頼みたいんです」ただ、それだけだった。

道明寺の重役クラス。それはエリートを意味するが、つくしを通訳として必要とするということは、ロシア語を話すことが出来ないということになる。
だからカザフ語が話せないのも当然だといえば当然だと言えた。

この国は120以上の民族が暮らしていると言われるが、ソビエトから独立して以来、国民の7割近くを占めるカザフ人が話すカザフ語を大切にしている。
そしてカザフ語を話すことを推奨している。
だからカザフ語を話す外国人は非常に歓迎されることから、つくしのようにロシア語とカザフ語が話せる人間は重宝される。つまり通訳の仕事の需要はそれなりにあった。
だがまさか通訳として同行する相手があの男だとは思いもしなかった。

道明寺司。
つくしを忘れて16年。
ニューヨークを拠点に仕事をしてきた男の噂は耳にしていた。
高校生の頃、潔癖と言われ女を寄せ付けなかった男は、華々しいニューヨーク社交界で数多くの女性を虜にしていて、三白眼の鋭いセクシーな瞳を持つ黒豹と呼ばれていた。
そしてその黒豹は簡単に女の手に堕ちることはないと言われているが、もしその法外な容姿を持つ男が誰かの手に堕ちるとすれば、それはどこかの国の王女クラスではないかと言われていた。

そんな男が昨日突然現れ、つくしのことを思い出したと言ったことからピンと来た。
それは高橋に頼まれた仕事は仕事という名を借りているだけで通訳としての体を成さないのではないかということ。
つまり、ただ単にあの男がつくしに会うための口実を作ったに過ぎないのではないかということ。

だが「牧野様。お久しぶりでございます。お元気そうで何よりです。それでは参りましょう」と言ったのは秘書の西田。
そしてリムジンの後部座席に乗り込んだ道明寺司と秘書の西田と駐在員の高橋とつくしが向かった先はアルマトイ市役所。
高橋はそこで市長との面会があると言った。

「実は道明寺副社長がアルマトイを訪問されることをお話したところ、是非会いたいとおっしゃいましてね。何しろ世界的企業の道明寺ホールディングスの副社長がこの国を訪れるんです。市長としてもこの街に投資をお願いしたいと考えているのではないでしょうか?」

その言葉につくしはホッとしていた。
公の場で通訳の仕事があるということは、この男から昨日のように愛してるだの、30を過ぎた女が中途半端な関係でいることで幸せになれるとは思えないと言った訳の分からない持論が展開されることはないからだ。

だがホッとするのは早かったかもしれない。
いつからこの男は耳が遠くなったのか。

「牧野さん。申し訳ない。どうも耳の調子が良くないようだ。もう少し近くで通訳してくれませんか?」

昨日とは打って変わったようにビジネスライクな態度を取る男は、つくしの顏をもっと耳元に近づけて欲しいと言った。
だからつくしは慌てて男の耳元に顏を近づけ市長が喋ったカザフ語を日本語に訳したが、それはどこにでもある型通りの挨拶であり訳すのは簡単だ。
そして次に男の口から発せられる言葉を待ったが、きっと市長と同じように、お会いできるのを楽しみにしておりました。といった型通りの挨拶が返されるはずだ。
だからつくしはその言葉を頭の中に用意して男が口を開くのを待った。

「牧野。昨日も言ったが俺はお前のことを愛してる。お前のことを忘れたのは本意じゃない。何も忘れたくて忘れた訳じゃない。それだけは分かってくれてるよな? 」

は?今、この男はなんと言った?
通訳であるつくしが普段隣に座っている人間の顏を見ることはない。
それは耳に全ての神経を集中させ、気になる言葉を素早くメモして頭の中で文章を組み立てることに懸命だからだ。
だがこの瞬間つくしは隣に座っている男の顏をまじまじと見つめたが、男はつくしを見ることなく、テーブルの向こう側に座っている市長に向けられていた。

そして市長は男が何を言ったのかをつくしの口から訊かされるのを待っているが、つくしは男の思いもしない態度に、いや言葉に動揺していた。
そしてその場に流れる静かな沈黙。
それは、ここにいる全員がつくしの口から語られる男の言葉をただひたすら待っているということ。

「あの….ええっと….『わ、わたくしもお会いできるのを大変楽しみにしておりました』」

つくしは頭の中で用意していた型通りの挨拶を口にしたが、それは通訳にあるまじき誤訳行為。だがこれは誤訳ではなく捏造と言った方が正しい。
だが市長をはじめ、テーブルの向こう側に座っている人間は、誰もがその言葉に満足そうに微笑みを浮べ喜んだ。
そしてつくしの隣に座っている駐在員の高橋と、男の隣に座っている秘書は、男の言葉に表情を変えることはなかった。

そしてそこから先、男は日本語を全く理解出来ないカザフスタンの人々を前に、この国にもこの街にも、ビジネスにも全く関係ないつくしへの思いを延々と語り続けた。
だからつくしも延々と捏造を続けるしかなかった。


「牧野。俺はお前とやり直したい。俺がお前を忘れたことは全面的に俺が悪い。お前が作った弁当を他の女が作ったと理解した俺の脳みそはどうかしていた」

『初めてこの国を訪れましたが、この街はとても美しいですね?』

「牧野。俺はお前のことを思い出してから自分がこれまで過ごしてきた時間を無駄にしてきたと後悔した」

『食べ物もとても美味しいですし、私はこの街が気に入りました。アルマトイの皆さんはとても親切です』

「牧野。俺は何度でも言う。お前のことを愛している。つまりこの気持ちは16年前、お前のことを忘れる前と同じだってことだ」

『あなた方はこの国でビジネスをする我々に対してとても協力的です。そのことについて大変感謝しております』

男の耳元でカザフ語を日本語に訳して伝え、男の日本語をカザフ語に訳す。
それも、男が喋った会話の長さ相当の長さで言葉を返すということに気を配り、市長をはじめとするテーブルの向こうに並ぶ人間が喜ぶであろう言葉を捏造し続ける。
つくしはもういい加減にして欲しいという思いが湧き上がったが、まさか市長の前で世界的な企業である道明寺の副社長に怒りをぶつける訳にはいかなかった。
だからただひたすらに、言葉を捏造し続けていた。




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2020
02.28

また、恋が始まる 7

「何を考えてるのか知らないけど、人をからかうのもいい加減にして!アンタは道明寺の副社長でしょ?そんな立場の人間が通訳に勝手なこと言わせて….うんうん…違う。通訳に言葉を捏造させてそれでいいの?」

市長との1時間にわたる会談が終り、市役所を出たつくしは車に乗り込むと男に怒りをぶつけたが、同行していた西田と高橋は行く所があると言って既に別の車で市役所を後にしていた。

隣に座った男は会談中つくしに対しての思いを延々と語り続けた。
つくしは、そんな男の言葉を市長をはじめとしたアルマトイの行政に係わる人間が喜ぶ答えに捏造して答えるということを繰り返した。だから気疲れは相当なものがあった。

「ちょっと!訊いてるの?」

つくしは怒りをぶつけているつもりだが、隣に座っている男は彼女が怒っていることも気にならないのか。平然とした顏で言った。

「ああ訊いてる。俺はこの国の言葉は分かんねぇけど相手は満足そうに頷いてた。つまりお前が上手い事訳してくれたって事だろ?だからそれでいいんじゃねえの?」

実際市長をはじめとするこの街の人々は、つくしの口から語られるカザフ語に、その通りだと感心したように同意を見せることもあった。
そして時折つくしが言葉に詰まると男はまともな言葉を口にしてつくしに通訳するように言った。
つまり、つくしが訳した話を全く訊いていないというのではなかった。
だからつくしは、その言葉をカザフ語に訳して市長に伝えたが、会話の殆どがつくしの捏造によって成立していて、男がつくしの口を借りて道明寺の副社長として市長に語ったのは、市長個人に対する敬意を示す言葉くらいだった。

「あのね?あたしが言いたいのはそういったことじゃない。アンタはこの街の市長を前に….」

言い淀んだのは男が言った言葉を思い出していたから。

『俺はお前のことが今でも好きだ。愛してる。俺ともう一度付き合ってくれ。16年間忘れていた償いをさせてくれ。俺はお前以外の女は欲しくない。お前だけを味わい尽くしたい。お前に熱いキスをしたい……』

「市長を前にお前に対する俺の思いを語ったことが問題か?」

つくしは隣に座っている男がニヤッと笑ったのを見た。
それは彼女の思考を読んだということ。

「そ、そうよ!相手が日本語が分からないのをいいことに__」

「ああ。その通りだ。相手は日本語が分かんねぇ。だからあの場所は俺がお前に自分の気持ちを伝えるには丁度よかった。だってそうだろ?昨日のお前の態度じゃまともに話を訊いて貰えそうになかった。だからあの会談を利用させてもらった。
それにこういったものは形式的なものに過ぎねぇんだよ。市長が喋ったのはこの街に投資してもらえるなら最大限の便宜を図るだの、今後も道明寺とこの街の発展を願うだの、具体的な話はなにひとつない。つまり実務的なことは部下にさせていて、市長が直接何かをすることはない形だけのものだ。けどそれはうちも同じだ。うちのここでの仕事は高橋がすべてやっている。だから俺が市長に会ってすることは、この街で事業をさせてもらっている感謝の気持ちを示すことだ。
ま。この国に来たのはお前がいるからで、ビジネスは二の次だったが、あいつらが言うには折角この街に来たんだ。だから今後の事業のために会っておくことも必要だと言ったから会ったまでだがな」

そう言われたつくしは、あの場所に秘書の西田と駐在員の高橋がいて、男の口から語られた自分への思いを聞かれていたことに頬が熱くなった。

「言っておくが、俺は正直な気持ちを口にしただけで訊かれて恥ずかしいことを言ったつもりはない」

司は彼女と話をするためのチャンスを逃すつもりはない。
それに互いに言い合うことに異存はない。
むしろそうしたい。
心の内に溜め込んでいるよりも言いたいことをはっきりと言葉にしてもらう方が…..。

それに昔のように言いたいことを言う彼女が好きだ。
赤札を貼られイジメられても立ち向かって来た彼女が。
だがそれでも時に自分の気持ちを殺し我慢をしていた彼女もいたが、そうさせてしまったのは司のせいだ。
そして今彼女が付き合っている男が妻子のいる男で、男が妻と別れることを我慢強く待っているようだが、そんな不誠実な男に彼女を渡すつもりはない。

「なあ、牧野。俺はニューヨークの女どもとの関係は整理した。きっぱり別れた。だから他の女はいない。これからの俺はお前だけだ。それに俺たちは大人だ。過去に色々あったとしてもそれは人生経験だ。それからこれだけははっきり言える。俺は不実な男じゃない。
だから妻子のいる男と付き合うのは止めて俺と付き合ってくれ」




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2020
02.29

また、恋が始まる 8

「牧野。お前がこの国にいるのは付き合ってる男がいるからだろ?それも妻子がいる男だ。
だからお前はその男が妻子を捨ててお前と一緒になってくれるのを待ってる」

司はそこまで言うと前を向き彼女の顏を見ることはしなかった。
それは突然暴露された自分の恋愛について狼狽している彼女を見たくなかったから。
それに彼女も見られたくはないはずだという思いから敢えて前を向いた。
そして否定も肯定もない沈黙は、司の言ったことが正しいということになる。

「牧野。いいんだ。隠す必要はない。お前は妻子持ちの男と付き合ってんだろ?その男から妻とは別れる。だからそれまで待ってくれ。子供が学校を卒業するまで待ってくれ。そんなことを言われてるんだろ?
だがな、そんなことを言う男が妻と別れることはない。それに世の中を見てみろ。口先だけで生きてる男は大勢いる。牧野。お前は危険な恋愛に足を踏み入れている。お前はその男に騙されてる。ただの都合のいい女にされてるだけだ。お前に相応しいのはそんな男じゃない」

思わず強くなった語尾。
それは他の女がどんな人生を送ろうと勝手だが、愛している女がひと目を忍んで妻子のある男と付き合っていることに、その男に甘い言葉で籠絡されていたことに腹が立ったからだ。

「隠さなくていい。昨日俺がお前の家を訪ねたとき扉を開けるまで時間がかかったのは、料理をしてたからじゃない。男とベッドにいて、急いで服を着たからだ。それに慌てて扉を閉めたのは中に男がいたからだ」

司は自ら口にしたその言葉に辛さを感じた。
彼女が自分以外の男とそういった関係になっていたことに紛れもなく嫉妬していた。
だがこれは受け入れなければならない現実であり、そうなったのは、司が16年も彼女を忘れていたからだ。
無駄に過ごした16年。それは実に勿体ない無意味な時間。取り戻せるなら取り戻したい。
だが取り戻すことは出来ないし、過去を変えることは出来ない。けれど、これから先の未来は変えることが出来る。
だからこれからふたりで新しい未来を築いていけばいい。

「牧野。よく考えるんだ。妻子のいる男と付き合っても未来はない。だから俺とやり直そう。俺はお前のことを思い出した瞬間からお前のことを愛してる。だから__」

と、言いかけたところで、やおら彼女が口を開いた。

「あたしが妻子のいる男性と付き合ってる?」

司は、「そうなんだろ?」と言って隣に座っている女に顏を向け目を合わせたが、眉間に皺が寄っているのが見て取れた。

「いったい何を言ってるのよ?」

「何をってお前が妻子がある男と付き合ってることだ。お前はその男に騙されてる。都合のいい女にされてることを言ってる」

司は不実な男に傷つけられた彼女のハートを癒すつもりだ。
優しく抱きしめ、痛みを和らげるためにキスをする。
ところが返ってきた言葉は、「バカじゃない」

「何だって?」

「言ったとおりよ。バカじゃないって!道明寺の副社長になったアンタがバカだったのは昔だけだと思った。でも今もそうみたいね?」

はあ?

「いい?よく訊いて。あたしは妻子ある男性と付き合ってない。それ以前に誰とも付き合ってないわよ!」

「付き合ってない?」

「ないわよ!」

「誰とも?」

「誰とも!」

司に向けられた挑むような瞳。
それは彼女を拉致して飾り立て金が全てだ。金で手に入らない物はないと言った司に対し、そのへんの女と一緒にしないでと言った時と同じ瞳だ。
あの時、司は恋におちた。
だが彼女が運命の女だと気付くのはそれから随分と後だったが__。

そして今、司の隣にいる女性はあの時と同じ瞳で司を見ているが、今の司は彼女が言った少年だった頃のバカな男ではない。
それなら何か。
ただ、彼女の記憶を取り戻し16年振りに会えた彼女を前に、あの頃どうしようもないほど恋焦がれていた女性に会えたことに、冷静に考えることが出来なかっただけだ。
そうだ。昔から彼女を前にすると自制する心を失ったように、思い込みで彼女が妻子ある男と付き合っていると言ってしまった。

「いい?あたしはこの国に来て男にうつつを抜かしたことはないの!あたしは大学で日本語の教師としてこの国の若者に日本語を教えるために来たの。それから今は日本語学校の教師と通訳として忙しい毎日を送ってるの。だから誰かと付き合うことを考えたことがないの。それから言っとくけどアンタとやり直すつもりはないから!」

司にそう言った女は、「あたしのことを何も知らないくせに…..」と呟くと運転席と後部座席との間の仕切りを叩き「運転手さん!車を止めて下さい。あのお店の角で車を止めて下さい」と英語で言った。

「牧野。家まで送らせてくれ。それにあの店はなんだ?」

「送ってくれなくて結構です!それにあの店はパン屋よ!明日のパンがないから買って帰るのよ!言っとくけどうちに来てもアンタのパンはないから!」

車が店の角で止ると彼女は降りた。

「牧野、待てよ……」司も慌てて車を降りると声をかけたが、彼女は振り返ることなく店の中に入って行った。




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2020
03.01

また、恋が始まる 9

司は駐在事務所の応接室にいた。
少し前に事務所に戻ったが、司は彼女が車から降りてパン屋に入ると、彼女が出て来るのを待った。だが彼女はいつまでたっても出てこなかった。
だから店に入ったが、店員は彼女がとっくに店を出たと言い、入口とは別の扉に視線を向けた。

司には行動する力がある。
だから彼女のことを思い出すとすぐに行動に移した。
それは司を…..司たらしめるものだが、その行動力が仇となってしまった。

勘違いも甚だしいとはまさにこのこと。
司は牧野つくしが妻子ある男と付き合っている。
つまり不倫をしていると勝手に思い込んでいた。
そしてそのことを本人にぶつけ怒られた。
だが彼女がこの国で誰とも付き合ってないと訊き希望を抱いた。
そしてなんとしても彼女とよりを戻そうと決意した。
だが彼女は司の態度に怒って車を降りると司の前から去った。
だから今の気分は最低だった。

けれど、『妻子ある男性と付き合ってない。それ以前に誰とも付き合ってない』と言う言葉で、彼女があの頃と同じで堅物で真面目な女であることを知った。
そして、何事も強い決意をもって行動する彼女は、司に平手打ちこそ食らわせなかったが、彼の言葉に侮辱を感じていたことは間違いない。

いっその事、平手打ちをしてくれた方が良かった。
そうすれば、たとえ司が彼女を忘れたことを許した訳ではないにしても、彼女の気が少しでも晴れるならそれで良かった。
それにバカ男と罵られても彼女には司を責める権利がある。
そして司はそれを甘んじて受けなければならないことも分かっている。
何しろ彼女を忘れるという最低のことをしたのだから。
だが、すぐに許してもらえなくても、いつかは許してもらえるのではないか。そんな考えがあった。
けれど大人になった彼女は、あの頃以上に手強い女になっていた。
そんな女の怒った顏は、まるで一輪のバラのように美しかった。
そうだ。彼女の怒った顔さえも愛おしく思えた。




ノックの後に扉が開いた。
コーヒーを運んで来たのは駐在員の高橋。

「副社長。牧野様に思いを伝えることは出来ましたか?」

「….….」

「そうですか。やはりご無理だったようですね?」

司は高橋の口ぶりから、彼が司と牧野つくしの過去の出来事を知っていることに気付いた。

「高橋。お前俺とあいつのことを知っていたのか?」

高橋は司の前にコーヒーを置くと司の顏を見つめた。

「はい。西田さんからお話は訊いております。副社長が高校生の頃、牧野様に恋をして恋愛をされている途中で不幸にも彼女のことを忘れてしまわれた。それからの副社長はアメリカに渡り大勢の女性と浮名を流された。しかしある日突然牧野様のことを思い出された。
私は西田さんから副社長が牧野様のことを思い出したと連絡を受け大変嬉しく思いました。
なにしろ私がこの国に赴任したのも、牧野様がこの国で日本語の教師として働くことを決めてからです。実は私がこの国に赴任したのは西田さんがそのように手を回したからです」

「西田が?」

西田は初めこそふたりの付き合いを反対していた母親から命じられ、彼女を司から遠ざけようとした。だがいつの頃からか、ふたりの付き合いを応援するようになっていた。

「私は西田さんの高校、大学時代の後輩です。故郷が同じです。話すと長くなりますので簡単にお話しますが、大学時代大変お世話になりました。恩があります。
それは道明寺に入社してからも同じです。入社して間もなく任された取引でミスをしたとき、カバーをしてくれたのは西田さんでした。そんな西田さんから訊かされた話があります。それは手の付けられなかった少年がひとりの少女に出会ってからその生き方を変えた。
そんな話はどこにでもあるかと言えば、なかなかそうはありません。ましてやその少年が大財閥の後継者で、相手が貧しい….いえ。ごく平凡な家庭の娘で、そんなふたりが恋におちる。まるでドラマのような話ではありませんか。
そしてその少年が副社長で相手の少女が牧野様だった。
とにかく西田さんは副社長がいつか牧野様のことを思い出す。そう信じて彼女のことを気遣われていました。牧野様が会社を辞め、この国の大学で日本語を教えることになると、私を駐在員として送り込んだのです。何しろ中央アジアの国で外国人女性がひとりで暮らすには色々と問題もありますから」

司は彼女が密かにだが守られていたことを知った。
それは、戻ることはないのではないかと思われていた男の記憶が、いつかきっと戻ると信じた秘書が考えたこと。

「副社長。私は5年間牧野様のことを見守ってきました。会社の通訳を頼み、牧野様が日本人会の集まりに参加される時は、私も参加し親しくさせていただきましたが、牧野様はとても思いやりのある方です。思慮深い方です。そんな方の前に元恋人が16年ぶりに現れたとなると感情が交錯するのは当たり前です。色々と考えることがあって当然ではないでしょうか」

16年の時を経て突然現れた元恋人。
元、という言葉は気に入らなかったが、それは彼女から時間も場所も遠ざかっていた男に相応しい。
だが司は彼女を諦める訳にはいかなかった。
元恋人にはなりたくなかった。

「そこでです。副社長に牧野様の気持ちを確かめる方法のご提案があります。
しかしこれはあくまでもご提案ですが_____」

高橋はそう言って話し始めた。




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2020
03.02

また、恋が始まる 10

「牧野様。昨日は大変お世話になりました」

翌朝高橋から電話を受けたつくしは、「いえ」と言って「こちらこそありがとうございました」と言葉を継いだが、それは通訳の仕事を依頼してくれたことに対しての礼だ。
何しろ道明寺社から支払われる通訳料は、いつもこちらが指定した額よりも多く支払われていたからだ。
そして高橋は、つくしとあの男のことに触れることはなかった。
そしてこう言った。

「牧野様。引き続きお仕事のお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」

その言葉が本当なのかと疑ってしまうのは、あの男がつくしの前に現れたからだ。
市長を相手に1時間にわたった通訳。それはあの男の言葉をあの場に相応しい言葉に捏造するという通訳にすればあるまじき行為だが、男に何を言われても平常心で言葉を吐き出すことを続けた。

あの男の口から語られる愛の言葉。
16年間を無駄に過ごしたと言った。
お前を忘れたことは悪かったと言った。
気持はあの頃と同じだと言った。
けれど、車の中で妻子ある男性と付き合っている。不倫をしていると言われ、この男は自分のことは全く分かってないと思った。だからムカついて車を降りた。

そして家に戻ってからあれこれと頭の中に巡ったのは、16年前とは違い大人になった男の姿。それはダークスーツをエレガントに着こなした背の高い男の姿だったが、腹が立つほど自信に満ちた態度をしていた。
そして男がニューヨークの摩天楼を見上げるのではなく、見下ろしている姿がビジネス誌に掲載されているのを見たことがあったが、実物はその写真からは感じられなかった年齢以上の色気というものがあった。
そんな男がとっくの昔にケリをつけたと思っていた気持ちを搔き乱す。

「…..牧野様?牧野様?」

「え?あ、はい。ごめんなさい。なんとおっしゃいました?」

「ですから引き続きお仕事をお願いしたいと思いましてお電話させていただきました」

「あの、高橋さん」

「はい」

「あなたは私たちのことを….私と道明寺….いえ。副社長とのことを…」

つくしは秘書の西田は別として、あの場に同席していた高橋がふたりのことに何も言わないのは、道明寺の社員である高橋が社のトップに立つ男の私生活をとやかく言うことが憚られるからだとしても、興味がないはずはないと思った。
だが口に出してみたが言葉が喉に引っ掛かった。だからどう切り出せばいいかと思ったが、高橋はその思いを汲んだように言った。

「牧野様。私はこの国に駐在している道明寺の社員に過ぎません。昨日市長の前で副社長がおっしゃられたことが何であれ、私がその事に対して何か言うことはございませんので私のことはお気になさらないで下さい」

高橋はそう言うと、「仕事の話をしてもよろしいでしょうか?」と言った。
だが高橋のいう仕事の話というのは、またあの男の通訳ではないかという思いから、話を訊くことを躊躇っていた。
それはまた昨日と同じようにあの男の隣で、どこかの重要人物を前に言葉を捏造し続けなければならないのではないかということ。
あの男の耳元に囁くのではないとしても、あの男の耳に確実に言葉を届けなければならない。それが通訳の仕事なのだから。
だからまたあの男の通訳を務めるのだとしても、仕事は仕事として捉えればいい。
どんな仕事でも割り切ることが必要になることはある。
それに、16年前に自分のことだけが忘れられたように世の中には理不尽なことは幾らでもあるのだから。



「牧野様?」

「あ、ええ。仕事の話ですよね?お願いします」

つくしは言うと、高橋の話を訊くことにした。










迎えの車の運転手は8時に扉をノックすると、出て来たつくしに「お迎えにまいりました」と言った。
向かったのは空港で、駐機されているのは道明寺家のプライベートジェット。
高橋から頼まれたのは副社長の通訳をお願いしたい。
向かう先はカザフスタンの隣国のキルギスだが、今いるアルマトイはキルギスとの国境に近い街。
そしてキルギスは、カザフスタンと同じでかつてソビエトの一部だったことから公用語はロシア語。
だからロシア語の通訳として副社長に同行して欲しいと言われた。

「おはよう」

機内に乗り込むと当然だがそこにいたのはあの男。

「おはようございます」

挨拶をして隣の席に座った。




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