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2019
09.30

金持ちの御曹司~結婚したい男~<前編>

「そう言えば財務部の久保田。あいつ広報の糸島さんと結婚するらしい」

「おい、それ本当か?糸島さんが結婚だなんて嘘だろ?あ~!ちくしょう!俺は彼女のファンだってのに何で結婚するんだよ!」

「俺も糸島さんのファンだ。だからこの話を訊いた時ショックを受けた。彼女、会えばいつも優しく微笑んでくれたから、てっきり俺のことが好きだと思ってた。それなのによりにもよって久保田だよ。久保田!」

「クソッ。なんでアイツなんだよ?第一にアイツ俺ら同期の中じゃ一番地味な男だぞ?」

「ああ。確かにあいつは俺らの中じゃ一番地味だ。だが財務部だから数字に強い。頭の中にコンピュータがあるんじゃねえかってくらい計算が早い。飲みに行った時の勘定は電卓叩くよりあいつに訊いたほうが早い」

「知ってる。あいつはお前の言うとおりで数字に強い。けど俺はそんな久保田と糸島さんとが話しが合うとは思えねぇ。第一に女は数字に細かい男は嫌いなはずだ。だから糸島さんはあいつのどこが良かったんだ?」

「知るかよそんなこと。けど糸島さんが久保田と結婚することだけは間違いない。何でも式場を予約したってことだ」

「そうか….。式場を予約か…と、なると既にふたりは互いの両親の顔合わせも済ませた。結納も済ませたってことか。つまりその話は実に現実味を帯びてる….、覆すことは出来ないってことだ。……てか、なんでお前がそれを知ってる?」

「ああ。偶然だが訊いたんだ。彼女がランチに出掛けて海外事業本部の牧野さんと話しているところをな。いや、勿論俺は訊くつもりはなかった。けどたまたま同じ店で観葉植物を間に挟んだ状態で背中合わせに座っていた俺の耳に入っちまったんだから仕方がない」

「そうか…..それにしても糸島さん。ついに彼女も結婚かぁ。彼女、俺たちよりもふたつ年上だけど年上を感じさせない可愛いさがある。それに美人で清楚だ。クソッ!久保田が羨まし過ぎるぜ!ちくしょう….俺も誰かと結婚してぇよ!」









したい。
したい。
したい。
分かるぞ、その気持ち。

司は喫煙ルームに入る男性社員の後姿に心の中で頷いていた。
彼が恋人との結婚を意識したのは17歳の時。
出会いは高校の階段で恋人が上から落ちてきた。
いや、それは恋人の友人であって恋人は上から落ちてきたのではない。
恋人は普通に階段を降りてきて司に説教を垂れた。
そして紆余曲折を経て今に至るが、あれ以来彼女と結婚したいと願っているが、未だにその願いは叶えられずにいた。

それにしても結婚というのは、ある程度の時が経てば簡単に出来るものだと思っていたが、まさかここまで結婚できないとは思いもしなかった。
そして司という男は、世間から見れば何に関しても非常に満足する状況にいる男で、まさかそんな男が常日頃好きな女と結婚できないのではないかという不安と闘っているとは誰も思わないはずだ。

だからこんな思いをするなら、いっそのこと社内メールの一斉送信で牧野つくしは支社長の恋人だという噂を社内に蔓延させるかとも思う。
だがそんなことをすれば、二度と口を利いてくれなくなる恐れがある。
だからそれは止めた。

とにかく好きで好きでたまらないのは、海外事業本部でバリバリと仕事をする女。
彼女は大財閥の御曹司で世界一カッコいいと言われる男の恋人でありながら、その男と結婚する気があるのかないのか。
もしかすると結婚する気がない?
いや結婚願望自体がない?
大財閥の跡取りである男との結婚は、賑やかな姉がいたり、鉄のような母親がいて色々と面倒でする気がない?
それとも、この状況は長すぎた春というやつか?
そんな考えたくもないことが時に頭を過ることもある。
だがそれを強く否定する自分がいるが、決して彼女が結婚する気がないというのではない。
ただ、今は仕事に熱中するあまり結婚という二文字を忘れているに過ぎないと思っている。
だがそうなると司の中にモヤモヤとした何かが湧きだし心が絡まってしまうことがある。
そんなモヤモヤとした気持ちを抱えている時に秘書がデスクの上に置いたのは香り高いコーヒーではなくオレンジ色の液体。
司はそれを凝視すると秘書に言った。

「おい西田。何だこれは?」

「はい。こちらはニンジンジュースでございます」

司はグラスを見つめていたが、目の前に置かれたグラスの中身がニンジンジュースなのは分かった。だが訊きたいのは、何故いつものコーヒーの代わりにニンジンジュースがあるのかということだ。
そして頭を過ったのは、もしかするとこれは恋人の差し入れなのではないかということ。
だから司は期待を込めて西田に訊いた。

「西田。グラスの中身がニンジンジュースだってことは分かった。俺が訊きたいのは何でニンジンジュースがここにあるのかってことだ」

だが西田の口から出たのは司が期待していた言葉ではなかった。

「はい。こちらは今朝北海道から送られて来たニンジンジュースでございます。只今北海道はニンジン収穫の真っただ中です。その中から選りすぐりのニンジンをジュースにしたもので、あちらでは魔法のニンジンジュースと呼ばれているそうです。それを支社長に飲んでいただきたいと先日の社内対抗のど自慢大会に出場した札幌支店の人間が送ってきました。
ニンジンは緑黄色野菜の代表格であり年中手に入り栄養価も高い野菜ではありますが、それだけを食べるとなりますと馬以外難しいものがあります。ですがジュースにすることで簡単に口にすることができ栄養素を取り入れることが出来ます。
最近の支社長は夜の接待が続いております。それについては毎晩遅くまで仕事をしていただき感謝しておりますが先程の昼食も料亭での会食です。
いえ。決して料亭の料理が悪い。食生活が乱れているとは申しませんが高価なものばかり食べておりますと栄養のバランスが偏ることになります。
つまり今の支社長は偏食傾向にあります。ですからこちらのニンジンジュースをお飲みいただければと思います。
それから余談ではございますが、北海道の牧場で余生を送るツカサブラックとツクシハニーはこちらのニンジンが大好きだと申しておりました。と、いうことから馬主である支社長にも是非同じニンジンから作られたジュースをお飲みいただければあの二頭も喜ぶと思います」

ニンジンジュースは恋人からの差し入れではなかった。
だから司は滔々と持論を展開する西田に煩いとばかりに「ああ、分かった。もういい。飲めばいいんだろうが。飲めば」と言いうとオレンジ色の液体が入ったグラスを掴んだ。
そして西田が執務室を出て行くと、秘書の言うことも一理あると思った。
つい先日の健康診断でコレステロール値の上昇が見られる。もう少し野菜を積極的に召し上がって下さいと医師から言われたところだ。それにさっき料亭で食べた料理が少し胃にもたれているような気がしていた。だからジュースを飲み干すと書類に目を通す前に少し休もうと目を閉じた。














司は女性用下着製造販売会社で取締役『ときめくブラ』事業本部長を務めていた。
会社は女性の下着が専門だからといって女性だけが働いているのではない。
それに会社は男性だから女性だからといった区別はなく、男性の意見も女性の意見も尊重していた。
だから男の司が女性のための下着を作る会社で本部長を務めることに差し障りなどあろうはずがなく、むしろ若くてイケメンの取締役の司は女性社員から人気があった。
そして司は、『ときめくブラ』シリーズの新作のブラジャーについての会議に出席していたが、そこにいるひとりの女性のことが気になっていた。

その女性は牧野つくし。
1年前に転職して来て司の部下になった彼女は司よりひとつ年下の29歳。
年のわりには若く見え、黒い大きな瞳がキラキラと輝き白く透き通るような肌の持ち主だ。
司は、そんな彼女から試作品である新作のブラジャーの付け心地についての報告を訊いていた。

「ブラジャーは女性の身体を美しくメイクするものです。寄せて上げるブラジャーは今では当たり前の存在です。ですが繊細な女性の身体を優しく包むものでなければなりません。
下着は直接肌につけるものですから肌にストレスを与えるようなものではいけません。
その点こちらのブラジャーは世界の厳選された素材を使い、縫製は日本一の技術を誇る我社ならではのものです。つまり丁寧な日本の縫製技術は肌あたりが優しく感じられます。
そしてデザインも日本人女性が好む可愛らしさを踏まえつつもセクシーさが感じられます。
大人の女性の魅力といったものも、このブラジャーからは感じることが出来るはずです。
年頃の女性は恋人が自分の下着姿をどう思うかを気にしています。可愛く見える方がいいか。それともセクシーに見える方がいいか。相手によって使い分けることがあると思います。そういった時、こちらのブラジャーはどちらのシーンでも対応できるのではないでしょうか?」

司は彼女の発言に頷いた。
そして進行役が他の社員からの意見を取りまとめると、最後に司に会議のしめくくりを求め会議は終了した。





午後8時を少し過ぎた頃。
司は人けのない資料室で雑誌をめくっている彼女の後ろに立った。

「牧野」

「キャッ!ああ、びっくりした。もう、どうしたんですか部長?」

振り向いた彼女は心底驚いた様子で司を見た。

「ああ。資料室に明かりがついているのが見えたんでな。誰がいるのか気になって来てみたがお前か。どうした何か探し物か?」

「はい。過去の広告が気になって。それで訊けば過去にうちの商品が掲載された雑誌がここに保管してあるというので探していたところです」

「そうか。それで目あての記事は見つかったのか?」

「はい。でも今日はもう帰ります。資料は明日またゆっくり見ることにします」

彼女はそう言って腕時計に目を落とした。

「それなら牧野。これから食事に付き合ってくれ。どうせまだなんだろ?それにしても今日の会議だがまさかお前からあのブラジャーの付け心地についての報告を訊くとは思わなかった。だからその話もゆっくり訊きたい」

すると彼女は少し考え、「では鞄を取って来ます」と言って司の誘いに応じた。



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2019
10.01

金持ちの御曹司~結婚したい男~<後編>

銀座の一流と言われるフランス料理店は司の馴染みの店。
二人は食事をしながら新作のブラジャーのマーケティングについての意見を交わしていた。
それは彼女が資料室で過去の広告について知りたがっていたということから始まったが、司の視線は美味そうに食事をする彼女の口元から、彼女の首。そしてそこから胸元へ降りると、やがて薄手のニットの膨らみの上で止ったが、彼女は司の視線に気付くことなくナイフで肉を切り分けていた。
だが何かを感じたのか。ナイフを動かす手を止め顔を上げ彼を見た。
だから司は慌てて口を開いた。

「牧野。それで今日もあのブラジャーを?」

「はい。もちろんです。『ときめくブラ』は私が会社に入る前から使用していました。
このブラは若い女性が一度は着けてみたいと思うブラです。それは寄せて上げる機能だけではありません。このブラには若い女性の感性を刺激するレースやリボン使いといったものがされています。女性は毎日使うものに対しては、ましてや身体に直接着けるものに対しては拘りがあります。私はこのブラが気に入っています。新作のときめくブラもきっと大勢の女性に受け入れられるはずです」

司は頷いたが、そこから先は新作のブラジャーのこともだが、クリスマスシーズンに発売を予定している赤いブラジャーについての話になった。
イタリアでは新年を迎えるにあたって赤い下着をつける習慣がある。
その起源は紀元前30年ごろ。初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代にまで遡る。
その当時、赤は権力と健康と精神と富の象徴であり、良運をもたらす色だと信じられ、権力者たちのマントは赤く染められていた。
そういったことから、イタリアではクリスマスに赤い下着をプレゼントし合い、年末になると幸運を呼び寄せたいと願う人間は、老若男女問わずその下着を身につけて年越しをする。
その習慣が日本に根付くことはないにしても、日本でも還暦を迎えた男女は赤を祝いの色として用いていることもあり馴染みがない色ではない。
だから今年のクリスマスには赤い下着の販売に力を入れるのも悪くないということになった。
それに司は個人的に赤が好きということもあり、赤い下着をイメージするのは簡単だった。
そして食後のコーヒーが出される頃、訊きたかったことを口にした。

「牧野。お前は赤い下着を贈り合う相手がいるのか?」

「え?」

「だから恋人はいるのかって訊いてる」

「道明寺部長…..どうしたんですか?いきなりそんな…」

司は手にしていたカップをソーサーに置くと真剣な眼差しで彼女を見た。

「牧野。訊いてくれ。俺には恋人はいない。1年前に別れた。それはお前が俺の前に現れたからだ。俺はお前がうちの会社の面接に現れた時からお前のことが気になっていた。それ以来ずっとお前のことを見てきた。だからどうだ?俺と付き合ってみないか?いや。俺と真剣に付き合ってくれ」

「部長…..」

「牧野。俺のことが嫌いか?もしそうならはっきりそう言ってくれ。いや。今の発言は撤回する。嫌いだと言われても俺はお前を諦めるつもりはない。俺はお前のことが好きだ。
お前を初めて見た時、この女こそ自分が探していた女だと分かった。
つまりお前と出会ったことは運命だと思った。だがから俺のことを拒否しないでくれ。牧野。愛してるんだ」

司は手を伸ばしてテーブルの上で彼女の手を握り、そこからひたすら自分の思いを告白し続けたが、それはウエィターが閉店の時間でございますと言ってくるまで続いた。

そこから先はとんとん拍子に話が進んだ。
ふたりは付き合い始めてから半年後に結婚。
3人の子供に恵まれ幸せな家庭生活を送った。











おい?

ちょっと待て。

本当にこれでいいのか?


司は目覚めると辺りを見回したが、そこに西田の姿はなかった。
そしていつもと違う状況に心の中で首を傾げた。
それは随分と簡単にハッピーエンドを迎えたが、これでいいのかという思い。
何しろこれまで夢から目覚める時は必ず西田の咳払いや声が聞こえた。
それにあまりいいとは言えない状況で終わる夢ばかり見ていた。
それなのに今日はごく自然に目が覚めた。
それに夢の内容は悪くはない。だがこれまでのことが異常だったと思えばこの状況は普通だと言えるはずだ。

そうだ。今までの夢が突拍子のないものばかりだったのだ。
だが夢というのは得てしてそういうものだ。
だからこうして結婚するという結末を迎える夢を見るということは、もしかすると望みが叶う日が近いということか?
つまり正夢か?結婚したい男の願いが叶い、恋人と結婚する日が近いということか。
よし!それならその幸福を確実に味わうため夢にも出て来た赤いランジェリーを恋人に贈ろう。そして自分も恋人とお揃いの赤い下着をつけて年越しをする。
そしてこの幸せは魔法のニンジンジュースと呼ばれるジュースを飲んだことがもたらしたと感じた。
だから心の中で西田を褒めた。

だが恋にアクシデントは付きもの。
司は胸ポケットの震えを感じ携帯電話を取り出すと画面をタップした。
それは恋人からのメール。


『お疲れ道明寺。あのね、広報の糸島ちゃんが来年の春に結婚することになったの。あ、糸島ちゃんって私の同期のね。それでね、年末の冬期休暇に二人で独身さよならイタリア旅行することになったから。だから今年の年越しはイタリアで過ごすから一緒に過ごせなくてごめんね。』

人間は息をしている限り苦悩とわだかまりが交差する。
司は恋人の人間関係に口を挟むことはしてこなかった。
それに恋人が同期の友人と旅行をすることに不満はない。
だが何故それが年を跨いでなんだという思い。
でもそれは仕方がないと納得しなければならなかった。
彼女は仕事が忙しい。有給休暇取得もままならないことも理解している。
だから会社が休みになる年末しか長期旅行に行けないことも充分分かっている。
それでも、彼女が自分の誕生日を避け29日に出発するのは、司が誕生日を祝ってくれることを知っているから。そして彼女もそれを望んでいる。


司は、「仕方ねえな。牧野、行ってこい」と呟いてから『いいぞ。気を付けて行って来い』と返事を返した。
するとすぐに、『ありがとう。道明寺。お土産買ってくるからね?何がいい?』
と返事が来た。
だから、『赤い下着。お前もお揃いの赤いのを買え』と返した。
司は返事を待った。だが今度はすぐに返事がこなかったが、それは何故赤い下着かを考えているから。
やがて少し待ったところで返事が来た。

『分かった。赤い下着ね?』

『ああ。赤い下着だ。それもとびっきりセクシーなヤツ』

『了解。とびっきりセクシーなのを選んで帰るから楽しみに待ってて』






司は携帯を胸ポケットに入れると伸びをしてから書類を手に取った。
司は夢の続きを望んでいた。
結婚した牧野つくしと幸福な生活を送ることを。
だが結婚はゴールじゃない。結婚は始まりだ。
その始まりが少し遅れたところで大差はない。
司は彼女と結婚する以外考えられないのだから。
それに、ふたりの愛はずっと変わることはないのだから。




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