陽射しが暖かく感じられるようになり、春が近づいて来るのが感じられる時期。
冬が終わりを告げ全てがふたたび息を吹き返す季節が来た。
そんな季節。僕がその人を見かけたのは、3000メートル級の山々の雄大な眺めが街の風景となっている富山市内のホテルだ。
だがその人を見かけたのは、そこが初めてではない。羽田空港のターミナルでその人を見かけ、同じ飛行機に乗っているところを見た。だから今日その人を見たのは3度目だった。
それにしてもどうして僕はその人が気になるのか。
理由など分からなかったが僕はその人に惹き付けられた。
その人は50代後半から60代といったところに見えたが、まだ20代の僕が齢を重ねた男性に見るのは、自分の父親の年の取り方でしかないのだが、もしかするともう少し若いかもしれない。いや、逆にもっと年上なのかもしれないが、その姿を父親に重ねることが出来るということは、やはりその人は自分の父親と同年齢だと言えた。
そしてひと目見て分かるのは、どこか独特な雰囲気を持つ人だということ。
顔立ちは端正で背が高く髪の毛に幾らか白いものが混じっているその人の立ち姿は堂々としていて隙がなかった。
服装はスーツだが普通のビジネスマンが着るスーツとは明らかに違っていた。つまり高級な生地で仕立てられていることは一目瞭然で、それなら黒く艶やかな輝きを放っている靴も然りで職人の手縫いだということが想像できた。
そしてその男性は1階のラウンジでコーヒーを飲んでいたが、誰かを待っている様子が見て取れた。
何故ならその男性が時刻を気にするように何度か左腕に目を落としていたからだ。
ホテルで待ち合わせる人物は誰なのか。
僕は興味があった。それは単なる好奇心なのだが、自分の父親と同世代のその男性の行動に何故か興味を抱いた。
スーツ姿だということは、ビジネス絡みの相手と会うのか。
だがそれにしては鞄もなければ、これから商談をしようといった雰囲気も感じられず、その落ち着いた態度は服装と同じで東京から来たビジネスマンのそれとは明らかに違っていた。
そして僕は視線の端にその人を捉えながら同じようにコーヒーを飲んでいたが、男性はおもむろに席を立ち右手で伝票を掴むとカウンターに向かった。
待ち人来たらずだったのか。
それともただの時間潰しだったのか。
だがその男性が誰かを待っていたように思えて仕方がなかった。
そしてコーヒーを飲み終えた僕は立ち上りその人の後を追った。

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冬が終わりを告げ全てがふたたび息を吹き返す季節が来た。
そんな季節。僕がその人を見かけたのは、3000メートル級の山々の雄大な眺めが街の風景となっている富山市内のホテルだ。
だがその人を見かけたのは、そこが初めてではない。羽田空港のターミナルでその人を見かけ、同じ飛行機に乗っているところを見た。だから今日その人を見たのは3度目だった。
それにしてもどうして僕はその人が気になるのか。
理由など分からなかったが僕はその人に惹き付けられた。
その人は50代後半から60代といったところに見えたが、まだ20代の僕が齢を重ねた男性に見るのは、自分の父親の年の取り方でしかないのだが、もしかするともう少し若いかもしれない。いや、逆にもっと年上なのかもしれないが、その姿を父親に重ねることが出来るということは、やはりその人は自分の父親と同年齢だと言えた。
そしてひと目見て分かるのは、どこか独特な雰囲気を持つ人だということ。
顔立ちは端正で背が高く髪の毛に幾らか白いものが混じっているその人の立ち姿は堂々としていて隙がなかった。
服装はスーツだが普通のビジネスマンが着るスーツとは明らかに違っていた。つまり高級な生地で仕立てられていることは一目瞭然で、それなら黒く艶やかな輝きを放っている靴も然りで職人の手縫いだということが想像できた。
そしてその男性は1階のラウンジでコーヒーを飲んでいたが、誰かを待っている様子が見て取れた。
何故ならその男性が時刻を気にするように何度か左腕に目を落としていたからだ。
ホテルで待ち合わせる人物は誰なのか。
僕は興味があった。それは単なる好奇心なのだが、自分の父親と同世代のその男性の行動に何故か興味を抱いた。
スーツ姿だということは、ビジネス絡みの相手と会うのか。
だがそれにしては鞄もなければ、これから商談をしようといった雰囲気も感じられず、その落ち着いた態度は服装と同じで東京から来たビジネスマンのそれとは明らかに違っていた。
そして僕は視線の端にその人を捉えながら同じようにコーヒーを飲んでいたが、男性はおもむろに席を立ち右手で伝票を掴むとカウンターに向かった。
待ち人来たらずだったのか。
それともただの時間潰しだったのか。
だがその男性が誰かを待っていたように思えて仕方がなかった。
そしてコーヒーを飲み終えた僕は立ち上りその人の後を追った。

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僕はその男性のことが気になった。
だからコーヒーを飲み終えると後を追った。
もし僕がベージュのトレンチコートを着ていたら、探偵と思われるかもしれない。だが僕は探偵ではない。だから僕の行為はストーカーだと言われてもおかしくはない。それも旅先で出会った年を重ねた男性の後を追うことを両親が知れば、ついに我が子はそちらの世界に足を踏み入れたかと思うはずだ。
だが何故その男性の後を追うのか。
単純なことだがその人を見て思った。それはただ純粋にカッコいいという言葉が当てはまるからだ。
そんなことを父親ほどの年齢の男性に感じるとは思いもしなかったが、人が人に惹かれる理由を考えたところで惹かれたのだから仕方がないとしか言えなかった。
だから僕はその人の後を追った。
するとその男性はホテルを出て正面で客待ちをしているタクシーに乗った。
「すみません。前のタクシーを追って下さい」
僕は次のタクシーに乗り込み座席に身体を預けると、そう言って前を走るタクシーの後部を見つめた。
富山を旅することに決めたのは、大学を卒業し働き始める前に旅がしたかったから。
それはこれからスタートする新たな人生を考えた時、どこか落ち着かない自分がいたからだ。そんなとき旅に出ることを決めたが、旅行代理店の前を通りかかった時、目に留まった『富山で休もう』というパンフレット。手に取りパラパラとめくっていたが、ひとつの記事に気持ちが奪われた。そして実際自分の目で見て見たいという気にさせられた。
だからそのまま店に入り飛行機とホテルを予約した。
それにしても何故自分はこんなにも落ち着かない気持ちでいるのか。
就職先が決まりこれから新しいことにチャレンジすることが怖いのではない。
むしろ新しいことに挑戦するのは好きだ。目標を定め、そのことをクリアして行くのは楽しい。それに目標は高ければ高いほどやる気が出る。
だからこれから先の見えない未来に不安があるのではない。何故なら未来は見えないものだと決まっているからだ。だがもし未来が見えたとすれば自分の人生はつまらないものになる。だから見えないに越したことはない。
そして旅に出たところでこの落ち着かない気持ちが無くなるとは思ってない。
けれど、見知らぬ街で一人過ごすことで何かが見つかるような気がしていた。
だが見つけたのが自分の父親程の年齢の男性だとすれば、それは滑稽なことだと思えた。
「……さん?お客さん?本当にいいんですか?」
考え事をしていた僕は運転手の言葉を聞き逃していた。
だからバックミラー越しに運転手と目が合ったとき「え?」と言った。
すると「お客さん。本当に前のタクシーを追うんですか?」と訊かれ、そうだと答えたが運転手は、「この道を通るってことは前の車、魚津まで行くと思いますが本当にいいんですか?」と言った。
「魚津?」
「ええ。魚津です。まだ少し早いかもしれませんが魚津から眺める海には蜃気楼が見えるんです。ただどうでしょう。今日は見えるかどうか….。ですがこの季節になると気象条件さえよければ見えるんですよ。魚津は」と言ったが、僕が富山を訪れた理由は蜃気楼が見たかったから。
だから運転手の言葉に、「ええ。いいんです。とにかく前の車を追って下さい」と答えた。

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だからコーヒーを飲み終えると後を追った。
もし僕がベージュのトレンチコートを着ていたら、探偵と思われるかもしれない。だが僕は探偵ではない。だから僕の行為はストーカーだと言われてもおかしくはない。それも旅先で出会った年を重ねた男性の後を追うことを両親が知れば、ついに我が子はそちらの世界に足を踏み入れたかと思うはずだ。
だが何故その男性の後を追うのか。
単純なことだがその人を見て思った。それはただ純粋にカッコいいという言葉が当てはまるからだ。
そんなことを父親ほどの年齢の男性に感じるとは思いもしなかったが、人が人に惹かれる理由を考えたところで惹かれたのだから仕方がないとしか言えなかった。
だから僕はその人の後を追った。
するとその男性はホテルを出て正面で客待ちをしているタクシーに乗った。
「すみません。前のタクシーを追って下さい」
僕は次のタクシーに乗り込み座席に身体を預けると、そう言って前を走るタクシーの後部を見つめた。
富山を旅することに決めたのは、大学を卒業し働き始める前に旅がしたかったから。
それはこれからスタートする新たな人生を考えた時、どこか落ち着かない自分がいたからだ。そんなとき旅に出ることを決めたが、旅行代理店の前を通りかかった時、目に留まった『富山で休もう』というパンフレット。手に取りパラパラとめくっていたが、ひとつの記事に気持ちが奪われた。そして実際自分の目で見て見たいという気にさせられた。
だからそのまま店に入り飛行機とホテルを予約した。
それにしても何故自分はこんなにも落ち着かない気持ちでいるのか。
就職先が決まりこれから新しいことにチャレンジすることが怖いのではない。
むしろ新しいことに挑戦するのは好きだ。目標を定め、そのことをクリアして行くのは楽しい。それに目標は高ければ高いほどやる気が出る。
だからこれから先の見えない未来に不安があるのではない。何故なら未来は見えないものだと決まっているからだ。だがもし未来が見えたとすれば自分の人生はつまらないものになる。だから見えないに越したことはない。
そして旅に出たところでこの落ち着かない気持ちが無くなるとは思ってない。
けれど、見知らぬ街で一人過ごすことで何かが見つかるような気がしていた。
だが見つけたのが自分の父親程の年齢の男性だとすれば、それは滑稽なことだと思えた。
「……さん?お客さん?本当にいいんですか?」
考え事をしていた僕は運転手の言葉を聞き逃していた。
だからバックミラー越しに運転手と目が合ったとき「え?」と言った。
すると「お客さん。本当に前のタクシーを追うんですか?」と訊かれ、そうだと答えたが運転手は、「この道を通るってことは前の車、魚津まで行くと思いますが本当にいいんですか?」と言った。
「魚津?」
「ええ。魚津です。まだ少し早いかもしれませんが魚津から眺める海には蜃気楼が見えるんです。ただどうでしょう。今日は見えるかどうか….。ですがこの季節になると気象条件さえよければ見えるんですよ。魚津は」と言ったが、僕が富山を訪れた理由は蜃気楼が見たかったから。
だから運転手の言葉に、「ええ。いいんです。とにかく前の車を追って下さい」と答えた。

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前を走るタクシーは運転手の言った通り魚津に入ったが、魚津市は富山県東部に位置し富山湾に面した街で蜃気楼の見える街として有名だった。
タクシーは海岸近くで停車すると男性を降ろした。だから僕も、「ここで止めて下さい」と言って支払いを済ませたが、その時「蜃気楼。見えるといいですね?」と運転手が言った。
天気は良かった。風も弱く気温も高くなってきた。
蜃気楼が見える条件は様々なことが要因だと言われるが、すっきりとした青空が広がる海は蜃気楼が見えるかもしれない。僕はそんな思いと共にタクシーを降りると、先にタクシーを降りた男性の姿を探した。するとその男性は防波堤の傍にいて海を眺めていた。
だからさり気なく男性の近くに行き、少し距離を置き隣に並んだ。
そしてそこにいる誰もがするように海を見つめた。
「ミラージュか」
誰ともなしに男性の口から出た言葉の意味は蜃気楼。
そして、「君も蜃気楼を見に来たのか?」と、男性は言ったが、その言葉は明らかに僕に向けられていた。何故なら継がれた話の内容は僕のことだからだ。
「どうした?違うのか?ここにいる人間は皆蜃気楼目当てだ。だが君は蜃気楼より私に用がある。そうだろ?君は羽田空港にいた。それから同じ機内もいた。そして同じホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら私のことを気にしていた。私がタクシーに乗ると同じようにタクシーに乗り後を付けてきた。そして私がここで降りると君も降りた。偶然にしてはあまりにも出来すぎだ。君は探偵か?だが探偵だとすれば新米探偵か?下っ端か?そんな尾行じゃ相手にまるわかりだ」
矢継ぎ早に言われ気圧された僕は、「違います。僕は探偵ではありません」と即答したが、男性が信用していないのは明らかだった。だから「それに探偵ならもっと探偵らしい格好をしているはずです」と言葉を継いだ。すると男性はジーンズ姿の僕を見ながら、「それなら君は何者だ?身分は何だ?」と言った。
だから「僕の肩書は大学生です。あ、いえ。今は卒業したので無職です。でも4月から社会人です。会社員になる予定です」と答えた。
すると男性はその答えに、「社会人1年生か」と言い視線を海に戻した。
間を置かずの会話は、そこで途切れた。
それから僕はその男性の隣で同じように海を眺めていたが、暫くして口を開いた男性は、「いい天気だな」と言って微笑んだ。
それから「君は探偵じゃないと言った。それなら君は何をしにここに来た?4月から社会人になる君はどういった理由でここにいる?」と言った。
だから僕は大学を卒業し働き始める前に旅がしたかったからと言った。
そして富山湾の春の風物詩と言われる蜃気楼が見たいと思いここに来たと話した。
すると、「学生生活の最後。自由になる時間を過ごす場所としてここを選んだという訳か?」と言われるとそうだと答えたが、本当は新たな人生のスタートラインに立つ自分が、どこか落ち着かない気持ちでいることは話さなかった。それは僕の話が嘘か本当かなど男性に分かるはずがないと思っていたからだが、男性は僕より少しだけ高い背丈から見下ろしながら言った。
「それで。本当は何を求めてここに来たんだね?人は何か考え事があると海を見たくなると言う。海を見てその向うにある何かを感じたいと思う。もしかするとこの海の向こうには自分が求めている何かがあるのではないかと考える。自分の力ではどうすることも出来ない自然に向かい合うことで心にあるものを納得させようとする。波が全てを運び去り海を浄化しようとするように君も何かを浄化させようとしているんじゃないのか。それに君は一人旅なんだろ?それなら何か考えることがあったからここに来た。そうじゃないのか?」
男性の言葉はまるで僕の心の中を読んだように思えた。
そして、「女にフラれたか?それでここに来たんじゃないのか?」と言ったが、「恋人はいません」と答えると笑った。
「そうか。恋人がいないのか。それならフラれる心配はないな。それにしても君の年で恋人がいないとは残念だな。私が君の頃には付き合っている人がいた。だがその人とは遠距離恋愛だった。私は海外で彼女は日本。眠りを知らない街での生活は大変だった」と言った。
そして男性は海に視線を向けると暫く黙っていた。そしてふいに「いなくなったんだよ」と言ったが、何の話をしているのか直ぐには分からなかった。だがその男性が言いたかったのは、僕の年齢の頃に付き合っていた女性の話だと気付いた。
「いなくなったんだよ。私の前から。ある日突然だ。久し振りに日本に帰国して彼女が住んでいるアパートを訪ねたがいなかった。それっきりだ。彼女は私の前から姿を消したんだよ」

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タクシーは海岸近くで停車すると男性を降ろした。だから僕も、「ここで止めて下さい」と言って支払いを済ませたが、その時「蜃気楼。見えるといいですね?」と運転手が言った。
天気は良かった。風も弱く気温も高くなってきた。
蜃気楼が見える条件は様々なことが要因だと言われるが、すっきりとした青空が広がる海は蜃気楼が見えるかもしれない。僕はそんな思いと共にタクシーを降りると、先にタクシーを降りた男性の姿を探した。するとその男性は防波堤の傍にいて海を眺めていた。
だからさり気なく男性の近くに行き、少し距離を置き隣に並んだ。
そしてそこにいる誰もがするように海を見つめた。
「ミラージュか」
誰ともなしに男性の口から出た言葉の意味は蜃気楼。
そして、「君も蜃気楼を見に来たのか?」と、男性は言ったが、その言葉は明らかに僕に向けられていた。何故なら継がれた話の内容は僕のことだからだ。
「どうした?違うのか?ここにいる人間は皆蜃気楼目当てだ。だが君は蜃気楼より私に用がある。そうだろ?君は羽田空港にいた。それから同じ機内もいた。そして同じホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら私のことを気にしていた。私がタクシーに乗ると同じようにタクシーに乗り後を付けてきた。そして私がここで降りると君も降りた。偶然にしてはあまりにも出来すぎだ。君は探偵か?だが探偵だとすれば新米探偵か?下っ端か?そんな尾行じゃ相手にまるわかりだ」
矢継ぎ早に言われ気圧された僕は、「違います。僕は探偵ではありません」と即答したが、男性が信用していないのは明らかだった。だから「それに探偵ならもっと探偵らしい格好をしているはずです」と言葉を継いだ。すると男性はジーンズ姿の僕を見ながら、「それなら君は何者だ?身分は何だ?」と言った。
だから「僕の肩書は大学生です。あ、いえ。今は卒業したので無職です。でも4月から社会人です。会社員になる予定です」と答えた。
すると男性はその答えに、「社会人1年生か」と言い視線を海に戻した。
間を置かずの会話は、そこで途切れた。
それから僕はその男性の隣で同じように海を眺めていたが、暫くして口を開いた男性は、「いい天気だな」と言って微笑んだ。
それから「君は探偵じゃないと言った。それなら君は何をしにここに来た?4月から社会人になる君はどういった理由でここにいる?」と言った。
だから僕は大学を卒業し働き始める前に旅がしたかったからと言った。
そして富山湾の春の風物詩と言われる蜃気楼が見たいと思いここに来たと話した。
すると、「学生生活の最後。自由になる時間を過ごす場所としてここを選んだという訳か?」と言われるとそうだと答えたが、本当は新たな人生のスタートラインに立つ自分が、どこか落ち着かない気持ちでいることは話さなかった。それは僕の話が嘘か本当かなど男性に分かるはずがないと思っていたからだが、男性は僕より少しだけ高い背丈から見下ろしながら言った。
「それで。本当は何を求めてここに来たんだね?人は何か考え事があると海を見たくなると言う。海を見てその向うにある何かを感じたいと思う。もしかするとこの海の向こうには自分が求めている何かがあるのではないかと考える。自分の力ではどうすることも出来ない自然に向かい合うことで心にあるものを納得させようとする。波が全てを運び去り海を浄化しようとするように君も何かを浄化させようとしているんじゃないのか。それに君は一人旅なんだろ?それなら何か考えることがあったからここに来た。そうじゃないのか?」
男性の言葉はまるで僕の心の中を読んだように思えた。
そして、「女にフラれたか?それでここに来たんじゃないのか?」と言ったが、「恋人はいません」と答えると笑った。
「そうか。恋人がいないのか。それならフラれる心配はないな。それにしても君の年で恋人がいないとは残念だな。私が君の頃には付き合っている人がいた。だがその人とは遠距離恋愛だった。私は海外で彼女は日本。眠りを知らない街での生活は大変だった」と言った。
そして男性は海に視線を向けると暫く黙っていた。そしてふいに「いなくなったんだよ」と言ったが、何の話をしているのか直ぐには分からなかった。だがその男性が言いたかったのは、僕の年齢の頃に付き合っていた女性の話だと気付いた。
「いなくなったんだよ。私の前から。ある日突然だ。久し振りに日本に帰国して彼女が住んでいるアパートを訪ねたがいなかった。それっきりだ。彼女は私の前から姿を消したんだよ」

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唐突に語り始められた男性の話はこうだった。
男性の家は都内に広大な土地を持ち、先祖から受け継いだ事業と莫大な資産があった。
彼はその家の唯一の跡取りで幼い頃から厳しく育てられたと言う。
そんな男性の周りにいたのは、媚びへつらう人間ばかりで誰も本心を見せることはなかった。本気で彼の心に触れようとする人間はいなかった。
男性は荒れた青春時代を送り、人は彼を人間凶器と呼んだ。
当時の男性は満たされない何かを抱えていたが、その時は分からなかったと言った。
そんな男性の前にひとりの女性が現れた。
当時17歳の少年だった男性の前に現れたのは、ひとつ年下の16歳の少女。
その少女は男性を恐れも怖がりもしなかった。それどころか立ち向かってきた。
やがて男性はその少女に恋をし、二人は恋におちた。
そして男性は少女と出会ったことで自分が満たされなかったものが何であるかを知った。
「私は家を捨ててもいいと言った。彼女と一緒にいれるなら全てを捨てると言った」と男性は言った。そして少し間を置き言葉を継いだ。
「だから彼女は姿を消した。私が自分の立場を捨て、家を捨てるなど言ったから彼女は私の前から姿を消した。それは私が資産を失うからじゃない。貧しいことが嫌だからじゃない。
私の将来と会社のために彼女は自ら身を引いたんだよ。何しろ私の会社には大勢の従業員がいる。従業員が大勢いるということは家族も大勢いる。私が全てを捨てるということは彼らに対する責任を放棄するということになる。それに会社というのは大きくなればなるほど経営者のものではなくなる。社会に対する義務というものが発生する。私が家を捨てるということは、それらすべてを捨てるということになる。あの当時私の周りはそれを許さなかった。だから駆け落ちしようとした。そして私たちはそうするつもりでいた。だが彼女は姿を消したんだよ。継ぐべきして生まれてきた男に会社を継がせるためにね」
「捜したんですよね?」
僕がそう訊くと海を見つめていた男性は頷いた。
「ああ捜した。それこそ持てる力の全てを利用して捜した。だがどこをどう捜しても彼女は見つからなかった。だがやっと足取りを掴んだ。それがここだ。魚津だ。この町に彼女はいたんだよ。だが結局見つけることは出来なかった。それこそ蜃気楼のように消えてしまった」
男性の視線の先に見えるのは海だが、その先に見ているのは海ではない。
それは見つけることが出来なかったという女性の姿だ。
そして僕は消えてしまった女性というのはどんな女性だろうと想像し、今の自分には恋人と呼べる女性はいないことから、男性の苦悩がどれほどのものか量ることは難しかったが、自分が同じ立場に置かれた時、どうするだろうかという思いが頭を過った。
「彼女を失ってからの私は形をなぞるだけの毎日で生きる目的を失ってしまった。それからの私は見事に会社の奴隷と化して仕事をした。日本に居る事はほとんどなく、海外暮らしが日常となった。だが時にこの国に戻ってくることがあれば、時間を作りこの場所に出向くようにした」
僕は男性の横顔をじっと見つめていたが、彼と同じように海に視線を向けた。
そして、ただ静かな青い海の向こうを見つめた。
「女は薄情な生き物で別れたら別の男に鞍替えするのが当たり前のようなものだと言われている。だが彼女は違う。たとえ私の前からいなくなったとしても、他の男の傍にいるとは考えられなかった。きっとひとりで生きている。何しろ自分でも逞しい女だと言っていたくらいだからね。それに私の心に彼女以外別の女が宿ることはなかった。生気溢れる澄んだ声。その声を今でもはっきりと思い出すことが出来る。そして彼女の姿もね。
だが私は守りたい人がいたのに守ることは出来なかった。私がここへ来たのは時をこえた今でも彼女のために出来ることがあるんじゃないか。そう思うからだ。あの時と同じ風を感じることは二度となくても、それでもこの場所に来ることが私にとって意味があるんだ」
そこまで言った男性は海を見つめながら言葉を継いだ。
「いいかね。予見できないのが未来だ。人生は何が起こるか分からない。だから今を大切に生きろ。好きな女が出来たらその人の傍を離れるな。自分を幸福にしてくれる女を見つけたら何があっても手放すな。好きな女を何かと秤にかけることをするな。人生は一度しかない。生きていく上で本当に大切なものが何であるかを見極める力を持て」
それらの言葉は静かに語られたが強さが感じられた。
それは絶え間なく流れる時に逆らえと言っているように思えた。そして何かを伝えようとしていると感じた。
「…..あの。どうして僕にそんな話をするんですか?」
「それは君が私のことを知らないからだ。そうだろ?」
「はい。僕はあなたを知りません。それともあなたは僕が知っていてもおかしくないほど有名人なんですか?もしそうだとすればすみません。僕はあまりテレビを見ません。それに映画も見ることがありません。だからあなたが有名な方だとしても僕は分からないんです」
僕はテレビを見ることは殆どない。
だから彼が有名な俳優であったとしても分からない。それを正直に言った。
「そうか。いいんだ。気にしないでくれ。私が誰であろうと気にしないでくれ。それに君にとって私の存在がどうでもいい。無意味であるほど話しやすいんだ」
その言葉に僕は思った。
やはりこの男性は僕が知らないだけで名の知れた人物なのだろうか。
だが男性は僕が彼のことを知らないことが望ましいと言った。だから僕はそれ以上その人について訊かなかった。そして男性もそれ以上自分のことを語ることはなかった。
「わぁ~!見て!蜃気楼よ!蜃気楼!凄い!まさか見れるとは思わなかったけどラッキー!」
その時、近くにいた女性から上がった声に僕はそちらに視線を向けた。
そこに見えた景色は霞んだ街の風景。
揺らめくそれは富山の市街地が反転しているのだと声が聞こえた。
そしてその時隣にいた男性は、「すまない。つまらない話を訊かせてしまったが、訊いてもらえてよかったよ。それにここに来てよかった。この景色を見ることは出来ないと思っていたからね。嬉しいよ。最後に見ることが出来て」と言った。

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男性の家は都内に広大な土地を持ち、先祖から受け継いだ事業と莫大な資産があった。
彼はその家の唯一の跡取りで幼い頃から厳しく育てられたと言う。
そんな男性の周りにいたのは、媚びへつらう人間ばかりで誰も本心を見せることはなかった。本気で彼の心に触れようとする人間はいなかった。
男性は荒れた青春時代を送り、人は彼を人間凶器と呼んだ。
当時の男性は満たされない何かを抱えていたが、その時は分からなかったと言った。
そんな男性の前にひとりの女性が現れた。
当時17歳の少年だった男性の前に現れたのは、ひとつ年下の16歳の少女。
その少女は男性を恐れも怖がりもしなかった。それどころか立ち向かってきた。
やがて男性はその少女に恋をし、二人は恋におちた。
そして男性は少女と出会ったことで自分が満たされなかったものが何であるかを知った。
「私は家を捨ててもいいと言った。彼女と一緒にいれるなら全てを捨てると言った」と男性は言った。そして少し間を置き言葉を継いだ。
「だから彼女は姿を消した。私が自分の立場を捨て、家を捨てるなど言ったから彼女は私の前から姿を消した。それは私が資産を失うからじゃない。貧しいことが嫌だからじゃない。
私の将来と会社のために彼女は自ら身を引いたんだよ。何しろ私の会社には大勢の従業員がいる。従業員が大勢いるということは家族も大勢いる。私が全てを捨てるということは彼らに対する責任を放棄するということになる。それに会社というのは大きくなればなるほど経営者のものではなくなる。社会に対する義務というものが発生する。私が家を捨てるということは、それらすべてを捨てるということになる。あの当時私の周りはそれを許さなかった。だから駆け落ちしようとした。そして私たちはそうするつもりでいた。だが彼女は姿を消したんだよ。継ぐべきして生まれてきた男に会社を継がせるためにね」
「捜したんですよね?」
僕がそう訊くと海を見つめていた男性は頷いた。
「ああ捜した。それこそ持てる力の全てを利用して捜した。だがどこをどう捜しても彼女は見つからなかった。だがやっと足取りを掴んだ。それがここだ。魚津だ。この町に彼女はいたんだよ。だが結局見つけることは出来なかった。それこそ蜃気楼のように消えてしまった」
男性の視線の先に見えるのは海だが、その先に見ているのは海ではない。
それは見つけることが出来なかったという女性の姿だ。
そして僕は消えてしまった女性というのはどんな女性だろうと想像し、今の自分には恋人と呼べる女性はいないことから、男性の苦悩がどれほどのものか量ることは難しかったが、自分が同じ立場に置かれた時、どうするだろうかという思いが頭を過った。
「彼女を失ってからの私は形をなぞるだけの毎日で生きる目的を失ってしまった。それからの私は見事に会社の奴隷と化して仕事をした。日本に居る事はほとんどなく、海外暮らしが日常となった。だが時にこの国に戻ってくることがあれば、時間を作りこの場所に出向くようにした」
僕は男性の横顔をじっと見つめていたが、彼と同じように海に視線を向けた。
そして、ただ静かな青い海の向こうを見つめた。
「女は薄情な生き物で別れたら別の男に鞍替えするのが当たり前のようなものだと言われている。だが彼女は違う。たとえ私の前からいなくなったとしても、他の男の傍にいるとは考えられなかった。きっとひとりで生きている。何しろ自分でも逞しい女だと言っていたくらいだからね。それに私の心に彼女以外別の女が宿ることはなかった。生気溢れる澄んだ声。その声を今でもはっきりと思い出すことが出来る。そして彼女の姿もね。
だが私は守りたい人がいたのに守ることは出来なかった。私がここへ来たのは時をこえた今でも彼女のために出来ることがあるんじゃないか。そう思うからだ。あの時と同じ風を感じることは二度となくても、それでもこの場所に来ることが私にとって意味があるんだ」
そこまで言った男性は海を見つめながら言葉を継いだ。
「いいかね。予見できないのが未来だ。人生は何が起こるか分からない。だから今を大切に生きろ。好きな女が出来たらその人の傍を離れるな。自分を幸福にしてくれる女を見つけたら何があっても手放すな。好きな女を何かと秤にかけることをするな。人生は一度しかない。生きていく上で本当に大切なものが何であるかを見極める力を持て」
それらの言葉は静かに語られたが強さが感じられた。
それは絶え間なく流れる時に逆らえと言っているように思えた。そして何かを伝えようとしていると感じた。
「…..あの。どうして僕にそんな話をするんですか?」
「それは君が私のことを知らないからだ。そうだろ?」
「はい。僕はあなたを知りません。それともあなたは僕が知っていてもおかしくないほど有名人なんですか?もしそうだとすればすみません。僕はあまりテレビを見ません。それに映画も見ることがありません。だからあなたが有名な方だとしても僕は分からないんです」
僕はテレビを見ることは殆どない。
だから彼が有名な俳優であったとしても分からない。それを正直に言った。
「そうか。いいんだ。気にしないでくれ。私が誰であろうと気にしないでくれ。それに君にとって私の存在がどうでもいい。無意味であるほど話しやすいんだ」
その言葉に僕は思った。
やはりこの男性は僕が知らないだけで名の知れた人物なのだろうか。
だが男性は僕が彼のことを知らないことが望ましいと言った。だから僕はそれ以上その人について訊かなかった。そして男性もそれ以上自分のことを語ることはなかった。
「わぁ~!見て!蜃気楼よ!蜃気楼!凄い!まさか見れるとは思わなかったけどラッキー!」
その時、近くにいた女性から上がった声に僕はそちらに視線を向けた。
そこに見えた景色は霞んだ街の風景。
揺らめくそれは富山の市街地が反転しているのだと声が聞こえた。
そしてその時隣にいた男性は、「すまない。つまらない話を訊かせてしまったが、訊いてもらえてよかったよ。それにここに来てよかった。この景色を見ることは出来ないと思っていたからね。嬉しいよ。最後に見ることが出来て」と言った。

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僕は翌日魚津で話をした男性を見た。
それはホテルのロビーで彼はフロントにいた。そして足元には荷物がひとつ置かれていたが、その状況からチェックアウトすることが分かった。
これから東京に、いやアメリカに帰るのだろうか。
僕が出会ったその人はアメリカでの永住権を取得していて、余生はニューヨーク郊外で暮らすと言った。そしてもう二度とこの場所に来ることはないと言った。
つまり男性は人生を回顧する。決着をつけるためにあの場所に来た。
それはかつて愛した人の面影を追う旅を終えるということ。
あの場所は、あの男性にとっての終活の場所だったのかもしれない。
蜃気楼は吉兆の印だと男性は言った。
それなら昨日の蜃気楼は男性にとっての祝福だったはずだ。
二度と来ることがない場所で最後に見ることが出来た幻想的な景色は、大切な人への思いと共に瞼の裏に焼き付けられたはずだから。
時をこえて人を愛するとはあの男性のようなことを言うのだと思った。
そして人の気持ちは時が経っても変わることはないということを知った。
だが時間は確実に時を刻み、どんな人間も時の流れを止めることは出来ない。
僕は男性に声を掛けることをしなかった。だが男性が振り向いた時、頭を下げた。
すると男性が微かだが頷いたのが分かった。
そして僕は少し遅めの朝食を食べるためレストランに足を向けた。
「父さんお帰り。出張どうだった?」
僕が帰宅した時リビングのソファで新聞を広げていた父は顔を上げ、
「ヨーロッパの市場はややこしいことになっているがそのうち解決すると見ている。何しろ国同士のことだ。なるようにしかならんだろ」と言って新聞を置いた。
「ところで母さんから訊いたがお前富山に行って来たそうだな?土産を貰ったって嬉しそうだったぞ?」
父は、母が見せてくれた富山名物ホタルイカの沖漬けに「これは小さな宇宙人か?」と言ったが、「何バカなこと言ってるのよ?これ炊きたてのご飯と一緒に食べたら美味しいのよ」の言葉に夜の食卓に並ぶのを楽しみにしていた。
「うん。思いつきで行ったんだけどいい出会いがあったから気分転換になったよ」
「出会いか?」
「うん。ある男性と出会ってその人の話を訊いた。年は父さんと同じくらいで背格好も似てたな。それにどことなく父さんに似てた。雰囲気とか、ファッションセンスとか。だからかな。僕がその男性に興味を持ったのは。でも話してくれたのはビジネスじゃなくて自分の恋についてだけどね」
「恋か?」
僕の父は海外出張が多いビジネスマンだ。
そんな父に向かって恋愛について話すのはどうかと思ったが言葉を継ぐことにした。
「そうだよ。その人。何十年も前に自分の前からいなくなった恋人のことを今でも思ってるってね。それに恋人が自分の前からいなくなったのは自分のためだって言った。その人の家は由緒ある家柄でお金持ちで将来は家の事業を継ぐことが決まってる。恋人だった女性は、そんな男性の未来とその男性の周りにいる人のことを考えて自分の前から去ったんだって言った」
「そうか。恋人もいないお前に恋愛話か。それでお前はその話しを訊いてどう思ったんだ?」
「うん。幸せを求めることはそんなにも難しいことなのかって思った」
僕は父の左手薬指にはまった銀色の指輪を見つめた。
そして今まで面と向かって訊いたことがなかった両親の恋の話を訊くことにした。
「父さんと母さんが結婚するまではどうだった?だって父さんの母さんは、つまりおばあちゃんは二人の交際に大反対したんだよね?」
80代の僕の祖母は我が子の交際に反対していたということを、祖母本人から訊いたことがあった。だからそれを確かめようと思った。
そんな僕の問い掛けに父はフッと笑った。
「ああ。反対も反対。大反対をした。それこそ母さんの家族を根絶やしにしてぇんじゃねぇかってくらいに反対した。だがな。母さんは負けなかったぞ。自分は雑草だからって何を言われようが、何をされようが負けなかった。そうだ。思い出すのは母さんを初めて婆さんに紹介した時だ。あれは俺の誕生日パーティーだったが、あいつはかしこまって挨拶するどころか料理が並んだテーブルの上にぶっ倒れて台無しにした。それから婆さんがごちゃごちゃうるせぇから俺はあいつの手を掴んでパーティーから逃げ出した」
父が母と出会ってからどんな人生を歩んだのか。
男の僕が面と向かって訊いたことはない。そして初めて訊かされる話は、富山で出会った男性の話と似ていた。
だがひとつだけ違ったのは母が父の元を離れることはなかったということ。
それは、どんなことも逃げることなく全力投球で人事を尽くすという母らしい選択だと思った。
そして父は僕が大学を卒業し就職するにあたり、落ち着かない気持ちでいることを知っていた。
会社の創業は百年以上前。三千人の社員が高層ビルのフロアに別れて働く会社は、日本を代表する名門企業だと言われていた。そしてその会社には自分の名字が付けられていて、父親の名前は道明寺司で僕の名前は道明寺巧だ。
父は我が子が父親の経営する会社に就職することで、自分の未来が束縛されたものになると考えていると思っていた。
だが父は、僕に自分の後を継ぐことを強制したのではない。僕は自ら選択して父の会社に入社することを決めた。
そして、富山であの男性と話をしてから、どこか落ち着かない気持ちでいた自分はもういなかった。
それは、あの男性が言った人生は一度しかない。生きていく上で本当に大切なものが何であるかを見極める力を持てという言葉に自分なら出来るという勇気を貰えたからだ。
「それからその人が言った言葉がとても印象深かった」
「それで?お前の心に残った言葉はどんな言葉だ?」
「『心はあの時のままで年を取った男というのは実にやっかいだ』」
父はその言葉に笑った。
それはまるで自分のことを言われていると思ったからだ。
「そうか。その男はそう言ったか。いいか巧。男の恋というのは積み重なるもので、重苦しさをもって心の奥に思いを溜め込むものだ。だが世の中にはそうじゃない男も大勢いるがその男にとっての恋は人生で一度だけ。他の女は必要ないということだ」
僕はその言葉に頷いた。
父の言葉はあの男性の思いを表していると思ったからだ。
「巧。お前がどんな人生を歩もうと俺は応援する。お前が選んだ人生だ。それに対して何か言うことはない。それにどんな女を連れて来ても反対はしない。だがな。ひとつだけ言うなら、人生は自分の知らない誰かに支えられている。社に入ったらそれを肝に銘じろ。自分の力だけで何かが出来ると思うな。それに社内ではお前のことを我が子だと思って接することはないからそう思え」
僕の父親の道明寺司は、家では良き父親であり良き夫だ。
子供の自由な意思を尊重してくれる父親で、学校の成績が下がっても叱ることはなかった。
だが世間に見せる姿は世界的なビジネスマンであり、日本経済を動かす男だと言われていた。現にテーブルに置かれた経済新聞の一面を飾る写真の中にいる男は、巨大な楕円形のテーブルの正面中央に着席し両側には財務大臣と日銀総裁が座っていた。
そしてその写真の中に富山で出会った男性が写っていることに気付いた。
「父さん。この人誰?」
「この男か?」
「うん」
「この男は橘だ。確か俺より五つか六つ年上でうちと同じニューヨークを拠点にしている橘コンツェルンの会長だ。だがこの春で退任して田舎に引っ込むって話だが昨日訊いた話じゃ何でも昔の恋人と再会してその女と結婚するって話だ」
今は穏やかな風のような人生を送る父と母。
結婚して二十数年経つ夫婦の会話の中身は、僕が富山から持ち帰ったホタルイカの沖漬けと白えびの煎餅と、ます寿司になっているが、この二人の間にも心を揺らす風があった、子供には分からない人生があったはずで、そんな人生を我が子に話すことは容易いことだとは言えないはずだ。
春の陽射しがリビングルームを優しく包んでいる。
暖かな日の光りはやがて月の光に取って変わられるが、夫婦の間に流れる風は、これから先も穏やかに流れるはずだ。
とにかく、この二人は周りが何と言おうと幸せになることを諦めなかった。
僕の前にいる夫婦は愛した人とは何があっても離れないという誓いを今でも忘れることはない。
そして、父と母のドラマは新たな時代を迎えても死が互いを分かつまで続いていくはずだ。
< 完 > *穏やかな風*

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それはホテルのロビーで彼はフロントにいた。そして足元には荷物がひとつ置かれていたが、その状況からチェックアウトすることが分かった。
これから東京に、いやアメリカに帰るのだろうか。
僕が出会ったその人はアメリカでの永住権を取得していて、余生はニューヨーク郊外で暮らすと言った。そしてもう二度とこの場所に来ることはないと言った。
つまり男性は人生を回顧する。決着をつけるためにあの場所に来た。
それはかつて愛した人の面影を追う旅を終えるということ。
あの場所は、あの男性にとっての終活の場所だったのかもしれない。
蜃気楼は吉兆の印だと男性は言った。
それなら昨日の蜃気楼は男性にとっての祝福だったはずだ。
二度と来ることがない場所で最後に見ることが出来た幻想的な景色は、大切な人への思いと共に瞼の裏に焼き付けられたはずだから。
時をこえて人を愛するとはあの男性のようなことを言うのだと思った。
そして人の気持ちは時が経っても変わることはないということを知った。
だが時間は確実に時を刻み、どんな人間も時の流れを止めることは出来ない。
僕は男性に声を掛けることをしなかった。だが男性が振り向いた時、頭を下げた。
すると男性が微かだが頷いたのが分かった。
そして僕は少し遅めの朝食を食べるためレストランに足を向けた。
「父さんお帰り。出張どうだった?」
僕が帰宅した時リビングのソファで新聞を広げていた父は顔を上げ、
「ヨーロッパの市場はややこしいことになっているがそのうち解決すると見ている。何しろ国同士のことだ。なるようにしかならんだろ」と言って新聞を置いた。
「ところで母さんから訊いたがお前富山に行って来たそうだな?土産を貰ったって嬉しそうだったぞ?」
父は、母が見せてくれた富山名物ホタルイカの沖漬けに「これは小さな宇宙人か?」と言ったが、「何バカなこと言ってるのよ?これ炊きたてのご飯と一緒に食べたら美味しいのよ」の言葉に夜の食卓に並ぶのを楽しみにしていた。
「うん。思いつきで行ったんだけどいい出会いがあったから気分転換になったよ」
「出会いか?」
「うん。ある男性と出会ってその人の話を訊いた。年は父さんと同じくらいで背格好も似てたな。それにどことなく父さんに似てた。雰囲気とか、ファッションセンスとか。だからかな。僕がその男性に興味を持ったのは。でも話してくれたのはビジネスじゃなくて自分の恋についてだけどね」
「恋か?」
僕の父は海外出張が多いビジネスマンだ。
そんな父に向かって恋愛について話すのはどうかと思ったが言葉を継ぐことにした。
「そうだよ。その人。何十年も前に自分の前からいなくなった恋人のことを今でも思ってるってね。それに恋人が自分の前からいなくなったのは自分のためだって言った。その人の家は由緒ある家柄でお金持ちで将来は家の事業を継ぐことが決まってる。恋人だった女性は、そんな男性の未来とその男性の周りにいる人のことを考えて自分の前から去ったんだって言った」
「そうか。恋人もいないお前に恋愛話か。それでお前はその話しを訊いてどう思ったんだ?」
「うん。幸せを求めることはそんなにも難しいことなのかって思った」
僕は父の左手薬指にはまった銀色の指輪を見つめた。
そして今まで面と向かって訊いたことがなかった両親の恋の話を訊くことにした。
「父さんと母さんが結婚するまではどうだった?だって父さんの母さんは、つまりおばあちゃんは二人の交際に大反対したんだよね?」
80代の僕の祖母は我が子の交際に反対していたということを、祖母本人から訊いたことがあった。だからそれを確かめようと思った。
そんな僕の問い掛けに父はフッと笑った。
「ああ。反対も反対。大反対をした。それこそ母さんの家族を根絶やしにしてぇんじゃねぇかってくらいに反対した。だがな。母さんは負けなかったぞ。自分は雑草だからって何を言われようが、何をされようが負けなかった。そうだ。思い出すのは母さんを初めて婆さんに紹介した時だ。あれは俺の誕生日パーティーだったが、あいつはかしこまって挨拶するどころか料理が並んだテーブルの上にぶっ倒れて台無しにした。それから婆さんがごちゃごちゃうるせぇから俺はあいつの手を掴んでパーティーから逃げ出した」
父が母と出会ってからどんな人生を歩んだのか。
男の僕が面と向かって訊いたことはない。そして初めて訊かされる話は、富山で出会った男性の話と似ていた。
だがひとつだけ違ったのは母が父の元を離れることはなかったということ。
それは、どんなことも逃げることなく全力投球で人事を尽くすという母らしい選択だと思った。
そして父は僕が大学を卒業し就職するにあたり、落ち着かない気持ちでいることを知っていた。
会社の創業は百年以上前。三千人の社員が高層ビルのフロアに別れて働く会社は、日本を代表する名門企業だと言われていた。そしてその会社には自分の名字が付けられていて、父親の名前は道明寺司で僕の名前は道明寺巧だ。
父は我が子が父親の経営する会社に就職することで、自分の未来が束縛されたものになると考えていると思っていた。
だが父は、僕に自分の後を継ぐことを強制したのではない。僕は自ら選択して父の会社に入社することを決めた。
そして、富山であの男性と話をしてから、どこか落ち着かない気持ちでいた自分はもういなかった。
それは、あの男性が言った人生は一度しかない。生きていく上で本当に大切なものが何であるかを見極める力を持てという言葉に自分なら出来るという勇気を貰えたからだ。
「それからその人が言った言葉がとても印象深かった」
「それで?お前の心に残った言葉はどんな言葉だ?」
「『心はあの時のままで年を取った男というのは実にやっかいだ』」
父はその言葉に笑った。
それはまるで自分のことを言われていると思ったからだ。
「そうか。その男はそう言ったか。いいか巧。男の恋というのは積み重なるもので、重苦しさをもって心の奥に思いを溜め込むものだ。だが世の中にはそうじゃない男も大勢いるがその男にとっての恋は人生で一度だけ。他の女は必要ないということだ」
僕はその言葉に頷いた。
父の言葉はあの男性の思いを表していると思ったからだ。
「巧。お前がどんな人生を歩もうと俺は応援する。お前が選んだ人生だ。それに対して何か言うことはない。それにどんな女を連れて来ても反対はしない。だがな。ひとつだけ言うなら、人生は自分の知らない誰かに支えられている。社に入ったらそれを肝に銘じろ。自分の力だけで何かが出来ると思うな。それに社内ではお前のことを我が子だと思って接することはないからそう思え」
僕の父親の道明寺司は、家では良き父親であり良き夫だ。
子供の自由な意思を尊重してくれる父親で、学校の成績が下がっても叱ることはなかった。
だが世間に見せる姿は世界的なビジネスマンであり、日本経済を動かす男だと言われていた。現にテーブルに置かれた経済新聞の一面を飾る写真の中にいる男は、巨大な楕円形のテーブルの正面中央に着席し両側には財務大臣と日銀総裁が座っていた。
そしてその写真の中に富山で出会った男性が写っていることに気付いた。
「父さん。この人誰?」
「この男か?」
「うん」
「この男は橘だ。確か俺より五つか六つ年上でうちと同じニューヨークを拠点にしている橘コンツェルンの会長だ。だがこの春で退任して田舎に引っ込むって話だが昨日訊いた話じゃ何でも昔の恋人と再会してその女と結婚するって話だ」
今は穏やかな風のような人生を送る父と母。
結婚して二十数年経つ夫婦の会話の中身は、僕が富山から持ち帰ったホタルイカの沖漬けと白えびの煎餅と、ます寿司になっているが、この二人の間にも心を揺らす風があった、子供には分からない人生があったはずで、そんな人生を我が子に話すことは容易いことだとは言えないはずだ。
春の陽射しがリビングルームを優しく包んでいる。
暖かな日の光りはやがて月の光に取って変わられるが、夫婦の間に流れる風は、これから先も穏やかに流れるはずだ。
とにかく、この二人は周りが何と言おうと幸せになることを諦めなかった。
僕の前にいる夫婦は愛した人とは何があっても離れないという誓いを今でも忘れることはない。
そして、父と母のドラマは新たな時代を迎えても死が互いを分かつまで続いていくはずだ。
< 完 > *穏やかな風*

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