つくしは台所へ行って冷蔵室を開けたが中にあったのは、ペットボトルに入った水とマヨネーズとケチャップ。中身が半分のドレッシングといった類で大した物は入ってなかった。
その代わり中から浴びたのは大量の冷気。
そして食べ物で目に止まったのは、賞味期限の切れたハムと干からびたちりめんじゃこ。それに黒ずんだバナナ。次に野菜室を開けたが、そこにあったのは元気のないレタスとピーマンと人参。
そうだ。留守にする前に粗方の物を処分したのだ。
だからこれではどう考えてもお腹の足しになりそうな物は作れなかった。
仕方がないとばかり、しぶしぶ冷蔵庫の扉を閉めると、確か買い置きのカップ麺があったはずだと、それらの定位置を探したが見当たらなかった。
それならコンビニへ行けばいいのだが、行く元気もなければ、これからどこかへ食べに出ようという気にもならなかった。何しろ帰って来たのは午後8時半を回っていてヘトヘトだった。そうなると出前を頼むしかないと思った。
そこは馴染みの中華料理店。
美味しい、安い、ボリューム満点のその店の夜の営業は10時までで、顔なじみのつくしの注文には、ギリギリの時間でも快く対応してくれた。
だがこうしてはいられないと慌てた。いくら顔なじみで近くの店だとは言え、食べに行くならまだしも出前の受付けは9時までで、気付けば時計の針は8時50分を指していたからだ。そんなこともあり、ギリギリの時間でお願いすることにどこか遠慮があった。だが背に腹は代えられないではないが、スマホを掴むとホワイドボードに貼り付けてある店の番号にすぐさま電話を掛けようとした。
だがつい最近ガラパゴスと呼ばれた機種から買い替えたばかりの電話は最新式だと言われ、使い方に難儀をしていた。
それでも使わなければ慣れないと言われ、積極的に使うように心がけていた。
たかが34歳で時代から取り残されたくはなかった。だが以前のように携帯を開けば数字が並んでいた方が楽だった。だから一瞬どうすれば数字が表れるのか機械を睨んだが、なんとか電話の機能を呼び出すと番号を押した。
「あ。丸源さんですか?私4丁目の牧野です。_____え?はい。そうです。5階の。すいません、ぎりぎりの時間ですけど注文お願いしてもいいですか?___五目チャーハンと春巻き。え?えっと…春巻きは4つお願いします。それから鶏の唐揚げも。___はい。以上です」
これで食べ物は確保した。だから飢える心配はない。
つくしはホッとひと息つくと上着を脱いだ。
それにしても暑かった。単なる暑いというよりも蒸し暑かった。
秋なのに季節外れの暑さにエアコンのスイッチを入れたが送風口からは涼しい風が降りてこなかった。
まるでサウナのようで、もしかすると留守にしていた間にエアコンが壊れてしまったのかもしれない。
いや。そんなことがあるはずないと思いたいのだが、エアコンが壊れているとすれば最悪だった。そうなると仕方がないと窓辺に行き、カーテンを開けると窓を開けた。
だが窓を開けたところで蒸し暑さが一掃されることもなく、逆に外の蒸し暑い空気が部屋の中に流れ込んで来るだけだった。だがそれでも暫く留守にしていた部屋の空気が入れ替わっただけでも気分が良かった。
「はぁ~。お腹すいた。それにしても家に食べ物がないことがこれほど惨めに感じられるなんて初めてだわ。これなら途中でどこかお店にでも寄ってもらえばよかったわ」
だが船を降りると、まっすぐにマンションまで送られた。
それはそれで疲れていたから良かったのだが、やはりお腹に何か入れなくては空腹で眠れそうになかった。お腹のラブコールを無視することは出来なかった。
だがこうしてお腹が空くということは良いことだ。それに海の上では必ずしも食べたい物が食べれるとは限らないのだから、陸に上がった以上、好きなものを食べる権利がある。
と、なるともう一品頼んでおくべきだったと後悔した。
つくしが乗っていた船は、海洋調査船と呼ばれる遠洋、国際航海も出来る大きな船。
充実した設備を持ち、専属の料理人もいる立派な船だ。
といっても、2週間も船の上にいるとさすがに陸が恋しくなる。それでもつくしの仕事は海が相手。
だが今日で、つくしにとって半年に一度の海洋調査は終わった。
これからは陸で人間を相手にしなければならないが、そんな彼女の仕事は大学の海洋学部の准教授で専門は海洋生態学。研究テーマは日本近海にいる深海ザメの生態学的研究だ。
「やっぱりもう一品頼もうかな…..」
つくしはもう一品頼むか迷っていたが、出前のメニューに目を落とすと自分を納得させていた。
食べれなかったら明日に回せばいい。
それに明日は休みだから残ったら昼食べればいい。
そう思ったとき、時計の針は8時57分を指していた。だがまだ間に合うはずだ。それにあれだけの注文が直ぐに作れるはずがない。だからつくしはもう一度電話を掛けようとしたが、買い替えたばかりでまだ慣れないスマホも、たった今使ったばかりなのだから簡単に使うことが出来た。
「あ、もしもし?さっき電話した4丁目の牧野です。すみません、追加注文いいですか?豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せもお願いします」

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新連載始めました。よろしければお付き合い下さいませ。
その代わり中から浴びたのは大量の冷気。
そして食べ物で目に止まったのは、賞味期限の切れたハムと干からびたちりめんじゃこ。それに黒ずんだバナナ。次に野菜室を開けたが、そこにあったのは元気のないレタスとピーマンと人参。
そうだ。留守にする前に粗方の物を処分したのだ。
だからこれではどう考えてもお腹の足しになりそうな物は作れなかった。
仕方がないとばかり、しぶしぶ冷蔵庫の扉を閉めると、確か買い置きのカップ麺があったはずだと、それらの定位置を探したが見当たらなかった。
それならコンビニへ行けばいいのだが、行く元気もなければ、これからどこかへ食べに出ようという気にもならなかった。何しろ帰って来たのは午後8時半を回っていてヘトヘトだった。そうなると出前を頼むしかないと思った。
そこは馴染みの中華料理店。
美味しい、安い、ボリューム満点のその店の夜の営業は10時までで、顔なじみのつくしの注文には、ギリギリの時間でも快く対応してくれた。
だがこうしてはいられないと慌てた。いくら顔なじみで近くの店だとは言え、食べに行くならまだしも出前の受付けは9時までで、気付けば時計の針は8時50分を指していたからだ。そんなこともあり、ギリギリの時間でお願いすることにどこか遠慮があった。だが背に腹は代えられないではないが、スマホを掴むとホワイドボードに貼り付けてある店の番号にすぐさま電話を掛けようとした。
だがつい最近ガラパゴスと呼ばれた機種から買い替えたばかりの電話は最新式だと言われ、使い方に難儀をしていた。
それでも使わなければ慣れないと言われ、積極的に使うように心がけていた。
たかが34歳で時代から取り残されたくはなかった。だが以前のように携帯を開けば数字が並んでいた方が楽だった。だから一瞬どうすれば数字が表れるのか機械を睨んだが、なんとか電話の機能を呼び出すと番号を押した。
「あ。丸源さんですか?私4丁目の牧野です。_____え?はい。そうです。5階の。すいません、ぎりぎりの時間ですけど注文お願いしてもいいですか?___五目チャーハンと春巻き。え?えっと…春巻きは4つお願いします。それから鶏の唐揚げも。___はい。以上です」
これで食べ物は確保した。だから飢える心配はない。
つくしはホッとひと息つくと上着を脱いだ。
それにしても暑かった。単なる暑いというよりも蒸し暑かった。
秋なのに季節外れの暑さにエアコンのスイッチを入れたが送風口からは涼しい風が降りてこなかった。
まるでサウナのようで、もしかすると留守にしていた間にエアコンが壊れてしまったのかもしれない。
いや。そんなことがあるはずないと思いたいのだが、エアコンが壊れているとすれば最悪だった。そうなると仕方がないと窓辺に行き、カーテンを開けると窓を開けた。
だが窓を開けたところで蒸し暑さが一掃されることもなく、逆に外の蒸し暑い空気が部屋の中に流れ込んで来るだけだった。だがそれでも暫く留守にしていた部屋の空気が入れ替わっただけでも気分が良かった。
「はぁ~。お腹すいた。それにしても家に食べ物がないことがこれほど惨めに感じられるなんて初めてだわ。これなら途中でどこかお店にでも寄ってもらえばよかったわ」
だが船を降りると、まっすぐにマンションまで送られた。
それはそれで疲れていたから良かったのだが、やはりお腹に何か入れなくては空腹で眠れそうになかった。お腹のラブコールを無視することは出来なかった。
だがこうしてお腹が空くということは良いことだ。それに海の上では必ずしも食べたい物が食べれるとは限らないのだから、陸に上がった以上、好きなものを食べる権利がある。
と、なるともう一品頼んでおくべきだったと後悔した。
つくしが乗っていた船は、海洋調査船と呼ばれる遠洋、国際航海も出来る大きな船。
充実した設備を持ち、専属の料理人もいる立派な船だ。
といっても、2週間も船の上にいるとさすがに陸が恋しくなる。それでもつくしの仕事は海が相手。
だが今日で、つくしにとって半年に一度の海洋調査は終わった。
これからは陸で人間を相手にしなければならないが、そんな彼女の仕事は大学の海洋学部の准教授で専門は海洋生態学。研究テーマは日本近海にいる深海ザメの生態学的研究だ。
「やっぱりもう一品頼もうかな…..」
つくしはもう一品頼むか迷っていたが、出前のメニューに目を落とすと自分を納得させていた。
食べれなかったら明日に回せばいい。
それに明日は休みだから残ったら昼食べればいい。
そう思ったとき、時計の針は8時57分を指していた。だがまだ間に合うはずだ。それにあれだけの注文が直ぐに作れるはずがない。だからつくしはもう一度電話を掛けようとしたが、買い替えたばかりでまだ慣れないスマホも、たった今使ったばかりなのだから簡単に使うことが出来た。
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Comment:7
司は無表情にスマホを見つめていた。表情はまったくなかったはずだ。
電話に出た途端、4丁目のマキノと名乗った相手に豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せをお願いしますと言われ思考の焦点が合わなかった。
いったいこれは誰からの電話なのか。
転送されてきたこの電話番号を知る人間は限られている。ましてや女でこの番号を知っているのは姉だけ。それなら間違い電話ということになるが、相手は司が名乗らなくても勝手に喋り、こちらが通話終了のボタンにタッチする間もなく一方的に電話を切り間違いだと言う間もなかった。
「おい、司どうした?何か問題でもあったのか?」
「いいや。単なる間違い電話だ。どっかの女が豚肉とニラの料理を頼んで来た」
「豚肉とニラか?そりゃ多分中華のメニューだな。それにしてもお前、いつから中華料理屋始めたんだ?それとも盗聴されてもいいように何かの暗号か?」
あきらは半分冗談のつもりで言ったが、親友の顔はムッとしていた。
「あきら。これはプライベートなスマホだ。盗聴防止機能が付いているのはビジネスの電話だ。それにこの電話は転送されて来た電話だ。その番号を知ってる人間は秘書と姉ちゃんだけだ」
女が掛けてきた電話番号は、司の自宅の電話番号。必要ないと思われた固定電話だが、緊急時の回線だと言われ取り付けてあった。
「そうか。ま、お前のところは色々と大掛かりなビジネスを手掛けてるから大変だよな。ビジネスの世界は食うか食われるか。伸るか反るかはしょっちゅうだ。チャンスは逃さない。それが会社を発展させていくことになるからな。ライバルがいないと思われてるお前でも油断は出来ないってことだよな?」
司は幼馴染みであり美作商事の専務のあきらと車で移動中だった。
そしてふたりが一緒にいたのは、同じパーティーに出席して来たからだ。
どうでもいい退屈なパーティーでも顔見せ程度に出席するのは、ニューヨークにいる社長の代わりだからだ。
司の母親は、道明寺ホールディングスの社長だが、普段はニューヨークで暮らしていた。
そして副社長の司は東京。そんな息子にわたくしの代わりに出席して頂戴と言われ、なんとはなしに出席することになったパーティー。
そのパーティーが純粋なビジネスならまだしも、社長である母親が自分の代わりに出席しろといったのは、世に大企業と言われる企業の社長連中が年頃の娘を同伴し、取っ替え引っ替え司の前に現れるというもの。それはまるで犬のブリーダーが自慢の愛犬を連れ競技会場を歩いて回る品評会のような状態で、父親の背中にゼッケンが縫い付けられていてもおかしくはなかった。
派手な香水に濃い化粧。
カーペットに少しでも凹凸があれば引っ掛かってしまうのではないかと思える細く高いヒール。中にはサンバを踊るのかといったようなドレスを着た女もいた。
とにかくそういった女が次から次へと司の前に現れ誘惑を試みたが、司は相手にしなかった。
「それにしても、世の中には暇な女がなんと多いことか。まあ、お前が来るってことが分れば、女どもは目の色を変えてお前に会いに来るはずだ。道明寺ホールディングスの副社長のお前は独身。そんなお前の目に止まれば玉の輿だ。そりゃあもう目の色変えてどころじゃない。真剣そのものの態度でお前の傍に行こうとしている女は大勢いたな。それでどうだ?お眼鏡に敵う女はいたか?」
顔を見れば結婚しろという母親。
パーティーが母親の画策した大規模な見合いの手段だとすれば、それは失敗に終わった。
と同時に次の作戦を考えることは目に見えていた。
いくら司が結婚する気はないと言っても諦めの悪い母親は、それを受け入れようとはしない。まさかとは思うが願掛けをしているではないだろうが、一人息子がいつまでも独身でいられると道明寺の将来に関わるとでも思っているのか。とにかく諦めが悪かった。
「なあ、司。お前女と付き合うのはいいが、結婚は出来ないってなんでだよ?俺たちのように大企業の跡取りともなれば、結婚して子孫を残すことを求められる。俺もいい加減に結婚しろってせっつかれてるところだ。だが今は俺のことはいい。それよりお前のことだ。
今日のパーティーのメンツを見てみろ。どの女の父親も日本を代表する超が付く一流企業の経営者だ。だがそんな経営者も道明寺財閥との姻戚関係を望んでいる。
それに女の方もお前と結婚出来ることを夢に見ている。言葉は悪いが今日お前の前に並んだ女は、お前の言うがままになるような女だ。結婚したら適当に抱いときゃ満足するはずだ。それに女たちも父親同伴ってことは、もしお前と結婚出来たとしても、それが政治的なとは言わないが政略的なものだってことは分かってるはずだ。この際だ。この辺り手を打ってみるのもありじゃねぇのか?
それにお前の心に何かの枷があるようには思えねぇんだわ。それなのに何でそこまで必要に結婚を否定する?」
あきらは「枷」を強調して司を見たたが、司に枷などなかった。
そして窓の外へ視線を向けると、車窓を流れて行く景色を見ながら答えた。
「結婚は社会的なことだ。対外的なことが求められる。それが面倒なんだよ。それに自由がなくなる。それに今まで出会った女の中に何かを犠牲にしてまで結婚したいと思える人間はいなかった」
「なるほどな。確かに結婚すればパーティーやら行事やら妻も一緒に出歩くことが当たり前になるな。つまり自分のライフスタイルを脅かされるのが嫌だってことか。けどな。何も恋愛をして結婚する必要はねぇんだぞ?どうせ相手の女に求められるのは、子孫を残すこと。それにお前が何かを我慢する必要もなければ、譲れないものを譲る必要もない。名目上の結婚で済ませればそれでいいはずだ」
あきらもいずれは結婚する。
相手は何処かの企業のご令嬢であることは間違いない。それはいずれ美作商事の社長となるあきらに課された義務だと分かっていて腹を括っていた。
だが司はそうではなかった。
「一緒にいても必要以上にベタベタしたがる。それが生理的に合わねぇんだよ」
「おい。お前なあ、女と寝る時はベタベタするのが当たり前だろ?ベタベタするなって言うならお人形とでもヤルしかねぇだろ?けどダッチワイフとじゃ汗をかくこともなければ、熱い身体を感じることもねぇんだぞ?たとえ相手の女を愛していなくても、ヤッてる時くらいベタベタしてやれよ。まあそれでも男は下半身を興奮させても頭は冷静だってこともあるが、お前の場合は常にそれだってことか」
司の男女関係は淡泊だった。女と付き合いはしたが、常に距離を置いていた。
恋におちたことも恋をしたこともなかった。
「それにしてもお前もいつかは結婚するはずだ。それが本意であろうがなかろうがその日は必ず来るはずだ。まあ俺はお前がそうなる日を楽しみにしてるがな。それでこれからどうする?まだ9時を回ったところだ。口直しに飲みに行くんだろ?」
あきらがそう言うと司は窓の外を見ながら、「ああ」と低い声で言った。

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電話に出た途端、4丁目のマキノと名乗った相手に豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せをお願いしますと言われ思考の焦点が合わなかった。
いったいこれは誰からの電話なのか。
転送されてきたこの電話番号を知る人間は限られている。ましてや女でこの番号を知っているのは姉だけ。それなら間違い電話ということになるが、相手は司が名乗らなくても勝手に喋り、こちらが通話終了のボタンにタッチする間もなく一方的に電話を切り間違いだと言う間もなかった。
「おい、司どうした?何か問題でもあったのか?」
「いいや。単なる間違い電話だ。どっかの女が豚肉とニラの料理を頼んで来た」
「豚肉とニラか?そりゃ多分中華のメニューだな。それにしてもお前、いつから中華料理屋始めたんだ?それとも盗聴されてもいいように何かの暗号か?」
あきらは半分冗談のつもりで言ったが、親友の顔はムッとしていた。
「あきら。これはプライベートなスマホだ。盗聴防止機能が付いているのはビジネスの電話だ。それにこの電話は転送されて来た電話だ。その番号を知ってる人間は秘書と姉ちゃんだけだ」
女が掛けてきた電話番号は、司の自宅の電話番号。必要ないと思われた固定電話だが、緊急時の回線だと言われ取り付けてあった。
「そうか。ま、お前のところは色々と大掛かりなビジネスを手掛けてるから大変だよな。ビジネスの世界は食うか食われるか。伸るか反るかはしょっちゅうだ。チャンスは逃さない。それが会社を発展させていくことになるからな。ライバルがいないと思われてるお前でも油断は出来ないってことだよな?」
司は幼馴染みであり美作商事の専務のあきらと車で移動中だった。
そしてふたりが一緒にいたのは、同じパーティーに出席して来たからだ。
どうでもいい退屈なパーティーでも顔見せ程度に出席するのは、ニューヨークにいる社長の代わりだからだ。
司の母親は、道明寺ホールディングスの社長だが、普段はニューヨークで暮らしていた。
そして副社長の司は東京。そんな息子にわたくしの代わりに出席して頂戴と言われ、なんとはなしに出席することになったパーティー。
そのパーティーが純粋なビジネスならまだしも、社長である母親が自分の代わりに出席しろといったのは、世に大企業と言われる企業の社長連中が年頃の娘を同伴し、取っ替え引っ替え司の前に現れるというもの。それはまるで犬のブリーダーが自慢の愛犬を連れ競技会場を歩いて回る品評会のような状態で、父親の背中にゼッケンが縫い付けられていてもおかしくはなかった。
派手な香水に濃い化粧。
カーペットに少しでも凹凸があれば引っ掛かってしまうのではないかと思える細く高いヒール。中にはサンバを踊るのかといったようなドレスを着た女もいた。
とにかくそういった女が次から次へと司の前に現れ誘惑を試みたが、司は相手にしなかった。
「それにしても、世の中には暇な女がなんと多いことか。まあ、お前が来るってことが分れば、女どもは目の色を変えてお前に会いに来るはずだ。道明寺ホールディングスの副社長のお前は独身。そんなお前の目に止まれば玉の輿だ。そりゃあもう目の色変えてどころじゃない。真剣そのものの態度でお前の傍に行こうとしている女は大勢いたな。それでどうだ?お眼鏡に敵う女はいたか?」
顔を見れば結婚しろという母親。
パーティーが母親の画策した大規模な見合いの手段だとすれば、それは失敗に終わった。
と同時に次の作戦を考えることは目に見えていた。
いくら司が結婚する気はないと言っても諦めの悪い母親は、それを受け入れようとはしない。まさかとは思うが願掛けをしているではないだろうが、一人息子がいつまでも独身でいられると道明寺の将来に関わるとでも思っているのか。とにかく諦めが悪かった。
「なあ、司。お前女と付き合うのはいいが、結婚は出来ないってなんでだよ?俺たちのように大企業の跡取りともなれば、結婚して子孫を残すことを求められる。俺もいい加減に結婚しろってせっつかれてるところだ。だが今は俺のことはいい。それよりお前のことだ。
今日のパーティーのメンツを見てみろ。どの女の父親も日本を代表する超が付く一流企業の経営者だ。だがそんな経営者も道明寺財閥との姻戚関係を望んでいる。
それに女の方もお前と結婚出来ることを夢に見ている。言葉は悪いが今日お前の前に並んだ女は、お前の言うがままになるような女だ。結婚したら適当に抱いときゃ満足するはずだ。それに女たちも父親同伴ってことは、もしお前と結婚出来たとしても、それが政治的なとは言わないが政略的なものだってことは分かってるはずだ。この際だ。この辺り手を打ってみるのもありじゃねぇのか?
それにお前の心に何かの枷があるようには思えねぇんだわ。それなのに何でそこまで必要に結婚を否定する?」
あきらは「枷」を強調して司を見たたが、司に枷などなかった。
そして窓の外へ視線を向けると、車窓を流れて行く景色を見ながら答えた。
「結婚は社会的なことだ。対外的なことが求められる。それが面倒なんだよ。それに自由がなくなる。それに今まで出会った女の中に何かを犠牲にしてまで結婚したいと思える人間はいなかった」
「なるほどな。確かに結婚すればパーティーやら行事やら妻も一緒に出歩くことが当たり前になるな。つまり自分のライフスタイルを脅かされるのが嫌だってことか。けどな。何も恋愛をして結婚する必要はねぇんだぞ?どうせ相手の女に求められるのは、子孫を残すこと。それにお前が何かを我慢する必要もなければ、譲れないものを譲る必要もない。名目上の結婚で済ませればそれでいいはずだ」
あきらもいずれは結婚する。
相手は何処かの企業のご令嬢であることは間違いない。それはいずれ美作商事の社長となるあきらに課された義務だと分かっていて腹を括っていた。
だが司はそうではなかった。
「一緒にいても必要以上にベタベタしたがる。それが生理的に合わねぇんだよ」
「おい。お前なあ、女と寝る時はベタベタするのが当たり前だろ?ベタベタするなって言うならお人形とでもヤルしかねぇだろ?けどダッチワイフとじゃ汗をかくこともなければ、熱い身体を感じることもねぇんだぞ?たとえ相手の女を愛していなくても、ヤッてる時くらいベタベタしてやれよ。まあそれでも男は下半身を興奮させても頭は冷静だってこともあるが、お前の場合は常にそれだってことか」
司の男女関係は淡泊だった。女と付き合いはしたが、常に距離を置いていた。
恋におちたことも恋をしたこともなかった。
「それにしてもお前もいつかは結婚するはずだ。それが本意であろうがなかろうがその日は必ず来るはずだ。まあ俺はお前がそうなる日を楽しみにしてるがな。それでこれからどうする?まだ9時を回ったところだ。口直しに飲みに行くんだろ?」
あきらがそう言うと司は窓の外を見ながら、「ああ」と低い声で言った。

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Comment:4
「それで、注文したはずの豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せが届けられなかったことがショックだったんですね?」
「そうなのよ。確かに注文したの。でもね、おかもちの中から出て来たお皿の中に豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せが無かったの。注文した時点で口もお腹の中も豚肉とニラが溢れていたのに、注文が伝わってなかったのかもしれないわ。あの店は最近中国から来た留学生がアルバイトしてるんだけど、多分彼が聞いたのね。だから聞き取れなかったのかもしれないし、最後まで確認しなかった私が悪かったのね」
あの時は注文時間がギリギリで慌てていたこともあり、注文だけ伝えるとすぐに電話を切ってしまった。それに『豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ』はかなり長い名前のメニューだから、外国人留学生のアルバイトには聞き取れなかったのかもしれないと思った。
「でもお腹いっぱい食べたんですよね?それならいいじゃないですか。その豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せが無くてもお腹は膨れたんですよね?それよりエアコンが壊れていたって方が重要じゃないですか?修理してもらったんですか?」
2週間の船の生活から解放され、自宅マンションに戻ったとき、部屋の蒸し暑さに辟易した。
エアコンのスイッチを入れたが送風口からは冷気は吐き出されなかった。だから翌日修理を呼んだ。
「うん。メーカーも丁度季節の端境期で割と暇だったみたいで、土曜の朝に電話をしたら翌日の日曜の午後には来てくれたから助かったわ。とにかく買い替える必要はないみたいで、持って来てくれた部品だけで修理が出来たみたい。だから大幅な出費は抑えられたわけ」
帰宅した翌日の土曜は荷物の整理をしながら家事をこなした。
そして日曜はエアコンの修理業者を待ちながら、仕事を片付けていた。
「そうですか。じゃあお家のことは、それでいいとして、今日から本業の方もお願いしますね。例の研究費の件。頑張って勝ち取って下さいね。何しろうちの学部はマイナーですから、研究費は少ないんです。だから研究を進めるためにも研究費獲得は急務です。それを充分理解して下さいね。それにうちの教授はアカデミックすぎて世間に疎い人で研究費を集めるのも下手です。だから准教授の先輩が頑張らなきゃいけないんですからね」
つくしの勤務する大学にある海洋学部。
その中の海洋生物学科で准教授を務めるつくしに課せられたのは研究費の捻出だ。
そしてつくしのことを先輩と呼ぶ三条桜子は、高校時代の後輩で、頭の良いつくしが国立大学へ進んだのに対し、彼女はお嬢様大学を卒業したが、何故か国立大学の教授の秘書として就職をした。そして教授が出張で留守の研究室でのふたりは、こうして一緒に弁当を食べていた。
「分かってるわよ桜子。でも桜子みたいなしっかりした女性が教授の秘書で本当に良かったわ」
「そうでしょ?副島教授は浮世離れしてるというのか、世間に疎いというのか。海の中のことばっかり考えてる人ですからね。それに自分が死んだら水葬にしてくれって言ってますよ。ほら、昔は長い船旅で亡くなった人がいるとご遺体を海に流すことがあったじゃないですか。まあ今でもたまにありますけど、それは事情によるじゃないですか?でも教授は本気でそれを考えてますからね。私の身体はサメのエサにしてくれって本気で言ってますよ?教授はそれが死体遺棄罪にあたるとか考えていませんし、奥様にしてみればバカも休み休み言いなさいってことらしいですけど、頭がいい人は何を考えているのか凡人には分からないことが多いですから」
確かに極端に頭がいい人間は何を考えているか分からないことが多い。
だがそれは、脳の使い方が違うからだと言われているが、つくしが所属する研究室の副島という男性教授は61歳になるが日本に於いてのサメ研究の第一人者と言われていて、若い頃からサメ一筋だった。
そしてつくしも日本近海にいる深海ザメの生態を研究していた。
実はあまり知られていないが日本近海、特に駿河湾には多くの深海ザメがいて、その生態には謎が多いと言われていた。
だがサメの研究は、あまりにもマイナーなため研究費は少なかったが、研究を進めるためには資金が必要だ。しかし国が主体の研究補助金は競争率が高く、得られる見込みはない。それならと、ある企業の財団からの援助に望みをかけた。
それが道明寺財閥によって設立された道明寺財団。
国内の大学に籍を置く若手研究者を対象に、研究活動の助成をすることを目的に設立されたその財団が募集する研究助成事業に応募した。40歳以下の若手研究者が対象で、他にもある条件はクリアしていた。
だが問題は研究対象が深海ザメということに、どれくらい興味を示してくれるかということだ。だから申請書には心を込め記入した。
『深海ザメは深海の食物連鎖の中でトップにいる生き物。サメは頂点捕食者で彼らを食べる生き物はいない。だからサメの身体の中には有毒な化学物質が濃縮されて溜まりやすく、有機塩素系化合物が高濃度で検出されている。つまり深海ザメの生態を調べることで、綺麗だと言われる深海の汚染について知ることが出来る』と。そして過去に書いた論文を添えた。
「それで牧野先輩。明日は面接に行かれるんですよね?丸の内にある道明寺ビル。あのピカピカのビルに面接に行くんですよね?」
丸の内にある道明寺ビルは、別名道明寺タワーと呼ばれる建て替えられたばかりの超高層ビルで輝いて見えた。そしてそのビルの中に道明寺財団はあった。
「そうなのよ。封筒を見た時はまさかって思ったけど、それでもやったって思ったわ」
海洋調査に行く前に届いた書類には、書類での審査はパスしたと書かれていた。
だが申請書類だけでパスしたとは思っていない。当然詳しく調べられたはずで、面接まで行けることが嘘のようだと思っていた。
そして明日は道明寺ビルにある道明寺財団で直接自分の熱意を伝えることが出来る。
「牧野先輩….いえ。牧野准教授。明日は頑張って下さいね。それからあの道明寺財閥が設立した財団です。道明寺ホールディングス本社と同じビルの中にあるんですから、もしかすると道明寺司に会えるかもしれませんよ?」
道明寺司。
道明寺ホールディングス副社長のその名前を知らない人はいないと言われるほど知名度がある経済人で、その姿は雑誌やテレビで見たことがあった。それに道明寺財団の研究助成事業へ申請を出すとき、プロフィールを見た。英徳学園出身でコロンビア大学卒業。道明寺ニューヨークで働きながら、ハーバードビジネススクールでMBAを取得。それから数年間ニューヨークで働き、その後日本に帰国と書いてあった。
「だって財団の理事に名前があるんですから、彼も面接に現れるかもしれませんよ?何しろサメの研究をしている女なんてそうはいませんから珍しいから見てやろうって現れるかもしれませんよ?それに牧野先輩はご存知ないかもしれませんが、道明寺司って経済界のサメだって言われてますから。ある意味研究対象になるかもしれませんね?」
「なにそれ?道明寺司ってサメ並の脳しかないってこと?」
サメは脊椎動物の中で体重と脳の重量比率が最も小さく、サメの脳と言えばバカの例えとして使われるが、道明寺司はバカなのか?もしかしてあの経歴は嘘なのか?
「違います!そうじゃなくて行動がサメだってことです。つまりビジネスに於いては凶暴だってことです。それに女性に対しても冷たいって評判なんです。でも噂はありますから決して女性が嫌いって訳でもなさそうなんですよ。とにかくあのクールな外見は一見の価値があります。だから先輩。もし会うことがあれば、しっかり見て下さいね。二度と会うことはないと思いますから」

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「そうなのよ。確かに注文したの。でもね、おかもちの中から出て来たお皿の中に豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せが無かったの。注文した時点で口もお腹の中も豚肉とニラが溢れていたのに、注文が伝わってなかったのかもしれないわ。あの店は最近中国から来た留学生がアルバイトしてるんだけど、多分彼が聞いたのね。だから聞き取れなかったのかもしれないし、最後まで確認しなかった私が悪かったのね」
あの時は注文時間がギリギリで慌てていたこともあり、注文だけ伝えるとすぐに電話を切ってしまった。それに『豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せ』はかなり長い名前のメニューだから、外国人留学生のアルバイトには聞き取れなかったのかもしれないと思った。
「でもお腹いっぱい食べたんですよね?それならいいじゃないですか。その豚肉とニラともやしの春雨炒め卵乗せが無くてもお腹は膨れたんですよね?それよりエアコンが壊れていたって方が重要じゃないですか?修理してもらったんですか?」
2週間の船の生活から解放され、自宅マンションに戻ったとき、部屋の蒸し暑さに辟易した。
エアコンのスイッチを入れたが送風口からは冷気は吐き出されなかった。だから翌日修理を呼んだ。
「うん。メーカーも丁度季節の端境期で割と暇だったみたいで、土曜の朝に電話をしたら翌日の日曜の午後には来てくれたから助かったわ。とにかく買い替える必要はないみたいで、持って来てくれた部品だけで修理が出来たみたい。だから大幅な出費は抑えられたわけ」
帰宅した翌日の土曜は荷物の整理をしながら家事をこなした。
そして日曜はエアコンの修理業者を待ちながら、仕事を片付けていた。
「そうですか。じゃあお家のことは、それでいいとして、今日から本業の方もお願いしますね。例の研究費の件。頑張って勝ち取って下さいね。何しろうちの学部はマイナーですから、研究費は少ないんです。だから研究を進めるためにも研究費獲得は急務です。それを充分理解して下さいね。それにうちの教授はアカデミックすぎて世間に疎い人で研究費を集めるのも下手です。だから准教授の先輩が頑張らなきゃいけないんですからね」
つくしの勤務する大学にある海洋学部。
その中の海洋生物学科で准教授を務めるつくしに課せられたのは研究費の捻出だ。
そしてつくしのことを先輩と呼ぶ三条桜子は、高校時代の後輩で、頭の良いつくしが国立大学へ進んだのに対し、彼女はお嬢様大学を卒業したが、何故か国立大学の教授の秘書として就職をした。そして教授が出張で留守の研究室でのふたりは、こうして一緒に弁当を食べていた。
「分かってるわよ桜子。でも桜子みたいなしっかりした女性が教授の秘書で本当に良かったわ」
「そうでしょ?副島教授は浮世離れしてるというのか、世間に疎いというのか。海の中のことばっかり考えてる人ですからね。それに自分が死んだら水葬にしてくれって言ってますよ。ほら、昔は長い船旅で亡くなった人がいるとご遺体を海に流すことがあったじゃないですか。まあ今でもたまにありますけど、それは事情によるじゃないですか?でも教授は本気でそれを考えてますからね。私の身体はサメのエサにしてくれって本気で言ってますよ?教授はそれが死体遺棄罪にあたるとか考えていませんし、奥様にしてみればバカも休み休み言いなさいってことらしいですけど、頭がいい人は何を考えているのか凡人には分からないことが多いですから」
確かに極端に頭がいい人間は何を考えているか分からないことが多い。
だがそれは、脳の使い方が違うからだと言われているが、つくしが所属する研究室の副島という男性教授は61歳になるが日本に於いてのサメ研究の第一人者と言われていて、若い頃からサメ一筋だった。
そしてつくしも日本近海にいる深海ザメの生態を研究していた。
実はあまり知られていないが日本近海、特に駿河湾には多くの深海ザメがいて、その生態には謎が多いと言われていた。
だがサメの研究は、あまりにもマイナーなため研究費は少なかったが、研究を進めるためには資金が必要だ。しかし国が主体の研究補助金は競争率が高く、得られる見込みはない。それならと、ある企業の財団からの援助に望みをかけた。
それが道明寺財閥によって設立された道明寺財団。
国内の大学に籍を置く若手研究者を対象に、研究活動の助成をすることを目的に設立されたその財団が募集する研究助成事業に応募した。40歳以下の若手研究者が対象で、他にもある条件はクリアしていた。
だが問題は研究対象が深海ザメということに、どれくらい興味を示してくれるかということだ。だから申請書には心を込め記入した。
『深海ザメは深海の食物連鎖の中でトップにいる生き物。サメは頂点捕食者で彼らを食べる生き物はいない。だからサメの身体の中には有毒な化学物質が濃縮されて溜まりやすく、有機塩素系化合物が高濃度で検出されている。つまり深海ザメの生態を調べることで、綺麗だと言われる深海の汚染について知ることが出来る』と。そして過去に書いた論文を添えた。
「それで牧野先輩。明日は面接に行かれるんですよね?丸の内にある道明寺ビル。あのピカピカのビルに面接に行くんですよね?」
丸の内にある道明寺ビルは、別名道明寺タワーと呼ばれる建て替えられたばかりの超高層ビルで輝いて見えた。そしてそのビルの中に道明寺財団はあった。
「そうなのよ。封筒を見た時はまさかって思ったけど、それでもやったって思ったわ」
海洋調査に行く前に届いた書類には、書類での審査はパスしたと書かれていた。
だが申請書類だけでパスしたとは思っていない。当然詳しく調べられたはずで、面接まで行けることが嘘のようだと思っていた。
そして明日は道明寺ビルにある道明寺財団で直接自分の熱意を伝えることが出来る。
「牧野先輩….いえ。牧野准教授。明日は頑張って下さいね。それからあの道明寺財閥が設立した財団です。道明寺ホールディングス本社と同じビルの中にあるんですから、もしかすると道明寺司に会えるかもしれませんよ?」
道明寺司。
道明寺ホールディングス副社長のその名前を知らない人はいないと言われるほど知名度がある経済人で、その姿は雑誌やテレビで見たことがあった。それに道明寺財団の研究助成事業へ申請を出すとき、プロフィールを見た。英徳学園出身でコロンビア大学卒業。道明寺ニューヨークで働きながら、ハーバードビジネススクールでMBAを取得。それから数年間ニューヨークで働き、その後日本に帰国と書いてあった。
「だって財団の理事に名前があるんですから、彼も面接に現れるかもしれませんよ?何しろサメの研究をしている女なんてそうはいませんから珍しいから見てやろうって現れるかもしれませんよ?それに牧野先輩はご存知ないかもしれませんが、道明寺司って経済界のサメだって言われてますから。ある意味研究対象になるかもしれませんね?」
「なにそれ?道明寺司ってサメ並の脳しかないってこと?」
サメは脊椎動物の中で体重と脳の重量比率が最も小さく、サメの脳と言えばバカの例えとして使われるが、道明寺司はバカなのか?もしかしてあの経歴は嘘なのか?
「違います!そうじゃなくて行動がサメだってことです。つまりビジネスに於いては凶暴だってことです。それに女性に対しても冷たいって評判なんです。でも噂はありますから決して女性が嫌いって訳でもなさそうなんですよ。とにかくあのクールな外見は一見の価値があります。だから先輩。もし会うことがあれば、しっかり見て下さいね。二度と会うことはないと思いますから」

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一張羅のスーツを着る。
一番いい靴を履く。
化粧をきちんとする。
いくら論文の出来が良かったとしても身なりも大切ですからね。
先輩は平均以上の知性の持ち主ですから、それなりの格好をすれば出来る女に見えるはずです。
だから黒のパンツスーツに黒の3センチヒールの靴。書類バッグもやはり黒だったが、つくしにとっては黒が一番落ち着く色であり、無難な色だから正式な場所へ出る時はいつも黒を着ていた。
そして桜子の言う出来る女とはビジネスウーマンという意味だが、道明寺ビルの中に一歩足を踏み入れた途端、ここは学生で溢れている大学とは違い、つくしのにわか仕立てのビジネスウーマンは周りの雰囲気に呑み込まれそうになっていた。
しかし研究室の将来が掛かった今、雰囲気に呑み込まれる訳にはいかなかった。
だが建て替えられてまだ間もない道明寺ビルの高い吹き抜けがある広いロビーの床は、顔が映るほど磨き上げられていて、高く細いヒールの靴を履いた女性がカツカツと音を響かせ颯爽と歩いて行く。そして高級スーツに身を包み、高そうなブリーフケースを持った男性がエレベーターから降りて来ると周りに目を向けることなくつくしのすぐ傍を駆け抜けた。
一流企業で働く人間は、誰もが多忙を極めているようで他人のことは気に止めはしない。
そんな場所の時の流れが大学と違っていて当然だが、その中で唯一気にしてくれる人がいるとすれば、受付のデスクに座る女性で、つくしはその女性の元へ足を向けた。
「あの。道明寺財団へ行きたいんですけど、どう行けばいいですか?」
「お約束ですか?」
「え?は、はい。14時にお約束をしている牧野と申します」
時間は余裕を持って来たが、初めて来るこの場所で迷子になる訳にはいかなかった。
だから魅力的な若い女性に、にっこりと微笑みを向けられ、そちらのエレベーターで40階までお上がり下さい。そちらが財団のフロアでございます。と言われ礼を言って示されたエレベーターに乗った。
操作盤の上にある階数表示が点滅しながら箱は上昇して行くが、つくしの他には誰もおらず、このエレベーターが止るフロアは限られていて、目的地の40階以外では、さらに上層の階だけに止まるようだ。
そして箱の上昇と共に胃の中では神経がピリピリと暴れ出したようで、胃酸が逆流しているような感じがした。
つくしは、時計にちらりと目をやった。
遅すぎず。早や過ぎない。アカデミックな世界にいる人間は常識に外れた所があると言われるが、つくしはそうではないと自負していた。そしてこのまま行けば、指定された時間の少し前に到着する予定だ。
それに多少胃が痛みを訴えたとしても、今日のこの面接で深海ザメの生態の研究の必要性を訴え、なんとしても研究助成金を勝ち取りたかった。
もしスポーツで絶対に負けられない試合があるとすれば、今日のこの面接も絶対に負けられない面接だった。いや。面接に勝も負けるもないのだが、一発真剣勝負なのはスポーツと同じで敗者復活戦はないのだから。
それに今のこの胃の痛みは一時のことで、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うではないか。
つくしは掌に「人」という字を書いて舐めた。
「大丈夫よ。胃の痛みなんて一過性のものよ。面接が始まれば治るわ」
つくしは自分に気合いを入れた。
そしてもう間もなく着くはずの40階で取るべき行動を頭の中でシュミレーションしていた。だがその時だった。エレベーターが静かに止まり、箱の中の明かりが一瞬だけ消え、そして再び灯ったが、あきらかにエレベーターは上昇するのを止めていた。
「…え?なに?エレベーター止まったの?嘘でしょ?ちょっと…冗談は止めてよ…なによこれ!ここのビルまだ新しいんでしょ?それなのにどうして止まるのよ!ちょっと!」
つくしは急いで操作パネルにある緊急連絡用ボタンを押した。
「あの!エレベーターが35階で止ったんですけど。何かあったんですか?すみません。すぐに動かして下さい。急いでるんです。40階に行かなきゃならないんです!」
***
司は昼食会を終え社に戻る車の中で、秘書から午後からのスケジュールが変更になったと訊かされた。
「それで?14時からの会議が中止になった代わりが財団の面接か?」
「はい。統括本部長がサハリンのガス田開発の件で急遽現地に向かうことになり、本日の会議は中止になりましたが、丁度その時間に財団の方で今年度の研究助成事業に申請があった研究者との面接がございます。その面接に副社長も出席するようにとニューヨークから連絡が入りました」
「ニューヨークから?」
「はい。理事長である社長から理事のひとりである副社長に出席するようにとのことです」
本来なら14時からはエネルギー事業部の会議に出席する予定だったが、統括本部長の出張で会議が中止になったとしても、他にもすることがあるはずだ。それに司は財団の理事として名前が出てはいるが、運営について一切関与していなかった。だから何故突然財団の事業に関することに出席しろと言ってきたのか。
「西田。俺が出席する理由はなんだ?それともアレか?将来ノーベル賞でも取るような研究者がいるのか?」
財団が助成して来た研究者の中にノーベル賞を貰った人間はいなかったが、財団としては、それを期待しているのは言うまでもない。
「さあ、どうでしょう。将来ノーベル賞を取るかどうかは未知数ですが研究分野を問わず若手の研究者を育てることは、今後の日本の為であり道明寺の為になる。それが副社長がお生まれになった年に財団を創設された亡きお父様のお考えでした。社長もそのお考えを副社長にも受け継いで欲しいと望んでいらっしゃいます。いずれにしても道明寺財団は道明寺財閥のひとつですから、将来副社長にも関与していただくことになります。ですから社長はこの機会に副社長にも最終面接に臨んでいただきたいとお考えなのです」
その答えは至極真っ当な答えに聞こえるが、本当にそれだけなのか。
社長である母親は、ビジネスに関して先見の明があることは否定できない。
それなら今年の申請者の中にビジネスに関する研究をしている人間がいるということになるが、もしそうなら会ってみたいという気があった。
「分かった。それで今日の面接には何人が来る?」
「はい。本日はおひとりです。牧野様とおっしゃる女性の方で海洋生態学を専門にご研究されていらっしゃいます」
「牧野?」
「はい。何か?」
「いや。つい最近そんな名前の女から電話が掛かって来たが、一方的に喋って切った」
「そうでしたか。あまり珍しいお名前ではありませんが、どちらにしても副社長には選考委員の方々とその方の面接に臨んでいただきます」

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一番いい靴を履く。
化粧をきちんとする。
いくら論文の出来が良かったとしても身なりも大切ですからね。
先輩は平均以上の知性の持ち主ですから、それなりの格好をすれば出来る女に見えるはずです。
だから黒のパンツスーツに黒の3センチヒールの靴。書類バッグもやはり黒だったが、つくしにとっては黒が一番落ち着く色であり、無難な色だから正式な場所へ出る時はいつも黒を着ていた。
そして桜子の言う出来る女とはビジネスウーマンという意味だが、道明寺ビルの中に一歩足を踏み入れた途端、ここは学生で溢れている大学とは違い、つくしのにわか仕立てのビジネスウーマンは周りの雰囲気に呑み込まれそうになっていた。
しかし研究室の将来が掛かった今、雰囲気に呑み込まれる訳にはいかなかった。
だが建て替えられてまだ間もない道明寺ビルの高い吹き抜けがある広いロビーの床は、顔が映るほど磨き上げられていて、高く細いヒールの靴を履いた女性がカツカツと音を響かせ颯爽と歩いて行く。そして高級スーツに身を包み、高そうなブリーフケースを持った男性がエレベーターから降りて来ると周りに目を向けることなくつくしのすぐ傍を駆け抜けた。
一流企業で働く人間は、誰もが多忙を極めているようで他人のことは気に止めはしない。
そんな場所の時の流れが大学と違っていて当然だが、その中で唯一気にしてくれる人がいるとすれば、受付のデスクに座る女性で、つくしはその女性の元へ足を向けた。
「あの。道明寺財団へ行きたいんですけど、どう行けばいいですか?」
「お約束ですか?」
「え?は、はい。14時にお約束をしている牧野と申します」
時間は余裕を持って来たが、初めて来るこの場所で迷子になる訳にはいかなかった。
だから魅力的な若い女性に、にっこりと微笑みを向けられ、そちらのエレベーターで40階までお上がり下さい。そちらが財団のフロアでございます。と言われ礼を言って示されたエレベーターに乗った。
操作盤の上にある階数表示が点滅しながら箱は上昇して行くが、つくしの他には誰もおらず、このエレベーターが止るフロアは限られていて、目的地の40階以外では、さらに上層の階だけに止まるようだ。
そして箱の上昇と共に胃の中では神経がピリピリと暴れ出したようで、胃酸が逆流しているような感じがした。
つくしは、時計にちらりと目をやった。
遅すぎず。早や過ぎない。アカデミックな世界にいる人間は常識に外れた所があると言われるが、つくしはそうではないと自負していた。そしてこのまま行けば、指定された時間の少し前に到着する予定だ。
それに多少胃が痛みを訴えたとしても、今日のこの面接で深海ザメの生態の研究の必要性を訴え、なんとしても研究助成金を勝ち取りたかった。
もしスポーツで絶対に負けられない試合があるとすれば、今日のこの面接も絶対に負けられない面接だった。いや。面接に勝も負けるもないのだが、一発真剣勝負なのはスポーツと同じで敗者復活戦はないのだから。
それに今のこの胃の痛みは一時のことで、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うではないか。
つくしは掌に「人」という字を書いて舐めた。
「大丈夫よ。胃の痛みなんて一過性のものよ。面接が始まれば治るわ」
つくしは自分に気合いを入れた。
そしてもう間もなく着くはずの40階で取るべき行動を頭の中でシュミレーションしていた。だがその時だった。エレベーターが静かに止まり、箱の中の明かりが一瞬だけ消え、そして再び灯ったが、あきらかにエレベーターは上昇するのを止めていた。
「…え?なに?エレベーター止まったの?嘘でしょ?ちょっと…冗談は止めてよ…なによこれ!ここのビルまだ新しいんでしょ?それなのにどうして止まるのよ!ちょっと!」
つくしは急いで操作パネルにある緊急連絡用ボタンを押した。
「あの!エレベーターが35階で止ったんですけど。何かあったんですか?すみません。すぐに動かして下さい。急いでるんです。40階に行かなきゃならないんです!」
***
司は昼食会を終え社に戻る車の中で、秘書から午後からのスケジュールが変更になったと訊かされた。
「それで?14時からの会議が中止になった代わりが財団の面接か?」
「はい。統括本部長がサハリンのガス田開発の件で急遽現地に向かうことになり、本日の会議は中止になりましたが、丁度その時間に財団の方で今年度の研究助成事業に申請があった研究者との面接がございます。その面接に副社長も出席するようにとニューヨークから連絡が入りました」
「ニューヨークから?」
「はい。理事長である社長から理事のひとりである副社長に出席するようにとのことです」
本来なら14時からはエネルギー事業部の会議に出席する予定だったが、統括本部長の出張で会議が中止になったとしても、他にもすることがあるはずだ。それに司は財団の理事として名前が出てはいるが、運営について一切関与していなかった。だから何故突然財団の事業に関することに出席しろと言ってきたのか。
「西田。俺が出席する理由はなんだ?それともアレか?将来ノーベル賞でも取るような研究者がいるのか?」
財団が助成して来た研究者の中にノーベル賞を貰った人間はいなかったが、財団としては、それを期待しているのは言うまでもない。
「さあ、どうでしょう。将来ノーベル賞を取るかどうかは未知数ですが研究分野を問わず若手の研究者を育てることは、今後の日本の為であり道明寺の為になる。それが副社長がお生まれになった年に財団を創設された亡きお父様のお考えでした。社長もそのお考えを副社長にも受け継いで欲しいと望んでいらっしゃいます。いずれにしても道明寺財団は道明寺財閥のひとつですから、将来副社長にも関与していただくことになります。ですから社長はこの機会に副社長にも最終面接に臨んでいただきたいとお考えなのです」
その答えは至極真っ当な答えに聞こえるが、本当にそれだけなのか。
社長である母親は、ビジネスに関して先見の明があることは否定できない。
それなら今年の申請者の中にビジネスに関する研究をしている人間がいるということになるが、もしそうなら会ってみたいという気があった。
「分かった。それで今日の面接には何人が来る?」
「はい。本日はおひとりです。牧野様とおっしゃる女性の方で海洋生態学を専門にご研究されていらっしゃいます」
「牧野?」
「はい。何か?」
「いや。つい最近そんな名前の女から電話が掛かって来たが、一方的に喋って切った」
「そうでしたか。あまり珍しいお名前ではありませんが、どちらにしても副社長には選考委員の方々とその方の面接に臨んでいただきます」

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「お願いします!早く出して下さい!2時に道明寺財団の方とお約束があるんです!」
つくしは閉じ込められたエレベーターの中で操作パネルに内臓されているマイクに向かって訴えていた。14時からの面接の約束に余裕で間に合う時間にこのビルに到着したが、あまり早く訪問するのは常識に外れている。だから自分で時間を調節し、丁度いいと思える時間に40階を目指した。それなのに上昇中のエレベーターが突然停止し、中に閉じ込められていた。
『お客様。お急ぎのところ大変申し訳ございません。只今保守点検作業員がそちらに向かっております。間もなく到着するはずですからもう少々お待ち下さい。それからご気分が悪いなど体調の変化がございましたら床に腰を降ろしてお待ち下さい。またお洋服等で身体をきつく締め付けるようなものがございましたら、少し緩めてご着用下さい』
操作パネルのスピーカーから聞こえてきた声は、決まりきったセリフを言っているにしても、あまり焦っていないように感じたのは気のせいか。
それは当然モニターしているであろう箱の中にいるのは、比較的若く体力がありそうに見える女性がひとりいるだけで、体調に急激な変化を起こすような高齢者は乗ってはいないからだ。
だが狭い箱の中で閉じ込められることは、年齢問わずどの人間にとっても精神的に恐ろしいはずだ。だが今のつくしはそれどころではなかった。
それなら何が恐ろしいのか。
それは面接開始時間に遅れ選考委員を待たせることで、悪い印象を与えてしまうことだ。
何しろ選考委員には分野を問わず高名な大学教授や、名誉教授の面々が名を連ねていて、気難しそうな人もいた。仮にエレベーターが止って中に閉じ込められたとしても、そうなったのは君の運が無かったからだ。人間は不測の事態に備えなければならない。そんなことを言われはしないかと思った。いや。だがそれはないはずだと頭を振った。それにいくらなんでもエレベーターに一人で閉じ込められた女が、アクション映画さながらに扉をこじ開け外に出るなど出来るはずがないのだから。
それでも時に頭のいい人間は訳の分からないことを言い出すことがある。
凡人には考えられないような行動を取ることもある。
特に研究熱心な学者は、物事に対して一直線ということが多い。事実つくしの研究室の副島教授がそうではないか。ある時、突然目の前の海に飛び込んだことがあった。
それはそこにエイがいたからだが、エイの長い尻尾にある棘には毒があり、刺されると死んでしまうこともあるが、何を思ったのか、そのエイを捕まえようとしたことがあった。
「牧野君。私が若い頃はよく海でエイと一緒に泳いだんだよ。だからつい懐かしくなってね。それにエイは唐揚げや煮付にして食べると意外と美味いんだよ。特にこのアカエイはね。但し、時間がたつとアンモニア臭くなるからそれが困るんだがね」
と言って笑った。
だが今は副島教授のことはどうでもいい。
今はなんとしても目の前に見えて来た研究助成金のために、ここから出ることを考えなければならなかった。
つくしは腕時計を見た。
2時まであと5分しかない。
マイクに向かって窮状を訴えてから少なくとも10分はたっているはずだ。
「あの!すみません。まだですか?お願いします。早くここから出して下さい。2時までに40階の道明寺財団まで行かなきゃいけないんです!」
だが返された言葉は、『もう少しだけお待ち下さい。只今係の者がそちらに向かっております』だった。
***
司は研究助成事業への申請者の一人との面接に臨むため、数名の選考委員と共に40階の財団の会議室にいた。
時計の針は2時15分を指していて、約束の時間をとっくに過ぎていても、相手が来ないということに苛立ちを感じていた。
テーブルの上には申請者である牧野つくしが提出した申請書類と論文の写しが置かれていて少しだが目を通した。
研究者は論文を書いてこそ研究者と言えるが、牧野つくしという女もいくつかの学術論文を仕上げていた。そして専門が深海ザメということに興味を惹かれた。だがいくら興味深い論文を書いていたとしても、時間が守れないようなだらしない人間に金を出そうとは思わなかった。
そして何の説明もないまま待つ時間だけが過ぎれば、相手に対する印象が悪くなるということをその女は知らないのか。大学の准教授という立場の女は、遅れるなら遅れるといった連絡をするという常識を持ち合わせていないのか。
「いったいどういうことだ。申請者はどこにいる?」
司は声を荒げ言った。
「た、大変申し訳ございません。大学の研究室の方へ連絡を取りましたが、牧野准教授は予定通り今日の面接に臨むため昼前には出掛けたということです」
司の傍に控えていた財団職員はまだ若い男性で声が震えていて、ポケットから取り出したハンカチで額を流れる汗を拭った。
それは今まで理事のひとりでありながら、顔を見せたことがなかった司がこの場所にいることに緊張しているからだ。
「その女の大学はどこにある?」
「は、はい。港区です」
「港区だと?隣の区だろうが。大学が港区の何処にあるか知らねぇが、とっくに大学を出たんなら着いていてもおかしくないはずだが?それで本人から連絡は?」
「いえ。それがまだ……。で、ですがもしかすると予測不可能な事態に巻き込まれている可能性もあります。たとえばですが交通事故に遭われたとか…..」
男性はそこまで言って司の眉間に皺が寄ったのを見た。すると差し出がましいことを申し上げましたと頭を下げた。
司はどんな理由があったとしても、時間が守れない人間は嫌いだった。
それはビジネスに於いてだけではなく、社会人として守るべきことであり、もしアクシデントに巻き込まれているとしても、息をしている限り何らかの方法で連絡があっても良さそうなものだ。だがその連絡さえ入れようとしない牧野という女の研究に金を出すことはないと決めると椅子から立ち上がった。そして会議室を出ようと扉へ向かった丁度その時だった。ひとりの女が扉を開けると慌てた様子で部屋の中へ飛び込んで来た。

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つくしは閉じ込められたエレベーターの中で操作パネルに内臓されているマイクに向かって訴えていた。14時からの面接の約束に余裕で間に合う時間にこのビルに到着したが、あまり早く訪問するのは常識に外れている。だから自分で時間を調節し、丁度いいと思える時間に40階を目指した。それなのに上昇中のエレベーターが突然停止し、中に閉じ込められていた。
『お客様。お急ぎのところ大変申し訳ございません。只今保守点検作業員がそちらに向かっております。間もなく到着するはずですからもう少々お待ち下さい。それからご気分が悪いなど体調の変化がございましたら床に腰を降ろしてお待ち下さい。またお洋服等で身体をきつく締め付けるようなものがございましたら、少し緩めてご着用下さい』
操作パネルのスピーカーから聞こえてきた声は、決まりきったセリフを言っているにしても、あまり焦っていないように感じたのは気のせいか。
それは当然モニターしているであろう箱の中にいるのは、比較的若く体力がありそうに見える女性がひとりいるだけで、体調に急激な変化を起こすような高齢者は乗ってはいないからだ。
だが狭い箱の中で閉じ込められることは、年齢問わずどの人間にとっても精神的に恐ろしいはずだ。だが今のつくしはそれどころではなかった。
それなら何が恐ろしいのか。
それは面接開始時間に遅れ選考委員を待たせることで、悪い印象を与えてしまうことだ。
何しろ選考委員には分野を問わず高名な大学教授や、名誉教授の面々が名を連ねていて、気難しそうな人もいた。仮にエレベーターが止って中に閉じ込められたとしても、そうなったのは君の運が無かったからだ。人間は不測の事態に備えなければならない。そんなことを言われはしないかと思った。いや。だがそれはないはずだと頭を振った。それにいくらなんでもエレベーターに一人で閉じ込められた女が、アクション映画さながらに扉をこじ開け外に出るなど出来るはずがないのだから。
それでも時に頭のいい人間は訳の分からないことを言い出すことがある。
凡人には考えられないような行動を取ることもある。
特に研究熱心な学者は、物事に対して一直線ということが多い。事実つくしの研究室の副島教授がそうではないか。ある時、突然目の前の海に飛び込んだことがあった。
それはそこにエイがいたからだが、エイの長い尻尾にある棘には毒があり、刺されると死んでしまうこともあるが、何を思ったのか、そのエイを捕まえようとしたことがあった。
「牧野君。私が若い頃はよく海でエイと一緒に泳いだんだよ。だからつい懐かしくなってね。それにエイは唐揚げや煮付にして食べると意外と美味いんだよ。特にこのアカエイはね。但し、時間がたつとアンモニア臭くなるからそれが困るんだがね」
と言って笑った。
だが今は副島教授のことはどうでもいい。
今はなんとしても目の前に見えて来た研究助成金のために、ここから出ることを考えなければならなかった。
つくしは腕時計を見た。
2時まであと5分しかない。
マイクに向かって窮状を訴えてから少なくとも10分はたっているはずだ。
「あの!すみません。まだですか?お願いします。早くここから出して下さい。2時までに40階の道明寺財団まで行かなきゃいけないんです!」
だが返された言葉は、『もう少しだけお待ち下さい。只今係の者がそちらに向かっております』だった。
***
司は研究助成事業への申請者の一人との面接に臨むため、数名の選考委員と共に40階の財団の会議室にいた。
時計の針は2時15分を指していて、約束の時間をとっくに過ぎていても、相手が来ないということに苛立ちを感じていた。
テーブルの上には申請者である牧野つくしが提出した申請書類と論文の写しが置かれていて少しだが目を通した。
研究者は論文を書いてこそ研究者と言えるが、牧野つくしという女もいくつかの学術論文を仕上げていた。そして専門が深海ザメということに興味を惹かれた。だがいくら興味深い論文を書いていたとしても、時間が守れないようなだらしない人間に金を出そうとは思わなかった。
そして何の説明もないまま待つ時間だけが過ぎれば、相手に対する印象が悪くなるということをその女は知らないのか。大学の准教授という立場の女は、遅れるなら遅れるといった連絡をするという常識を持ち合わせていないのか。
「いったいどういうことだ。申請者はどこにいる?」
司は声を荒げ言った。
「た、大変申し訳ございません。大学の研究室の方へ連絡を取りましたが、牧野准教授は予定通り今日の面接に臨むため昼前には出掛けたということです」
司の傍に控えていた財団職員はまだ若い男性で声が震えていて、ポケットから取り出したハンカチで額を流れる汗を拭った。
それは今まで理事のひとりでありながら、顔を見せたことがなかった司がこの場所にいることに緊張しているからだ。
「その女の大学はどこにある?」
「は、はい。港区です」
「港区だと?隣の区だろうが。大学が港区の何処にあるか知らねぇが、とっくに大学を出たんなら着いていてもおかしくないはずだが?それで本人から連絡は?」
「いえ。それがまだ……。で、ですがもしかすると予測不可能な事態に巻き込まれている可能性もあります。たとえばですが交通事故に遭われたとか…..」
男性はそこまで言って司の眉間に皺が寄ったのを見た。すると差し出がましいことを申し上げましたと頭を下げた。
司はどんな理由があったとしても、時間が守れない人間は嫌いだった。
それはビジネスに於いてだけではなく、社会人として守るべきことであり、もしアクシデントに巻き込まれているとしても、息をしている限り何らかの方法で連絡があっても良さそうなものだ。だがその連絡さえ入れようとしない牧野という女の研究に金を出すことはないと決めると椅子から立ち上がった。そして会議室を出ようと扉へ向かった丁度その時だった。ひとりの女が扉を開けると慌てた様子で部屋の中へ飛び込んで来た。

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