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2018
02.24

Wonderful Life ~恋におちる確率 番外編~

Category: Wonderful Life
我が子の誕生を待ちわびる父親というのは、周りから見ればそれは嬉しそうな表情を浮かべるが、道明寺HDのトップとなった男のその顔に浮かんでいるのは、それとはまた別の表情。
だがそれは決して哀しいとか辛いといった表情ではない。
それなら一体どんな表情が浮かんでいるのか。

それは高齢初産ということもあり、早めに入院した妻に不満があるのではない。
大事を取ってのことでそれを勧めたのは司だ。
だから決してそのことを後悔している訳ではない。
むしろそれで良かったはずだ。自分がいない時何かあって大変だからだ。
だが何故これを夫に託すのか。
どうしてこれを男に託すのか。
こんなものは、女の友人に預ければいいはずだ。


それなのに、

「司。明日から入院するからこれお願いね?」

と言って渡された横幅30センチ、奥行き22センチ、高さ15センチほどのホーローで出来た四角い白い箱。いつも台所の片隅にひっそりと置かれたそれは、大理石で出来たキッチンカウンターの上に鎮座していた。

今では道明寺家の食卓に欠かせないものを供給してくれる小さな箱の名は「ぬか床」。
漬物のひとつであるぬか漬けを作るため、米ぬかを乳酸菌発酵させたその存在に司は頭を痛めていた。何故なら一日一度は手を入れかき混ぜろと言われたからだ。

訊けばぬか床は、育てる、飼育するといった言葉が似合うと言われ、箱の中には発酵に欠かせない乳酸菌がうごめいているという。そしてぬか床は育てているうちに愛着がわくと言うが、つまり妻にとってこのぬか床は愛着のあるものだということだ。
結婚と同時にぬか床を作り、今では丁度いい塩梅だと言われるぬか床。
温度管理も大切だと言われ、20度から25度といった人間が快適といわれる温度が菌たちにも最適だと言われているが、その中に手を突っ込む勇気がまだ持てなかった。



「大丈夫。しっとりとしてふかふかで柔らかくて気持がいいから」

そんなことを言う妻。
だがどう見てもふかふかといった感じには見えなかった。
それに司にとってしっとりとしてふかふかで柔らかいという言葉は、ぬか床に対して使われるものではなく、妻の柔らかな身体に対して使われるものだ。

それなのに、

「全体に空気が入るように底の方からかき混ぜてね」

つまり下から上へとかき混ぜろ。だが優しく丁寧にやれ。
と言うことは、手首までしっかりと入れなければならないということだ。
それならば、絶対にバスを使う前にやるべきだと決定した。
だが困った。
なぜかこの中に手を入れることが躊躇われる。
だが理由を訊かれても答えようがない。それに人間誰しもそういった存在のものがあるはずだ。何しろ今目の前に見えるのは、ねっとりとした泥のようにしか見えず、そしてこの中に億単位の微生物がいるなら、ぬか床がうごめいて見えるのは気のせいではない。だが毎日手をかけてやらないと死んでしまうと言われれば、責任は司にあるということになる。

たかがぬか床。

されどぬか床。

それにしてもまさか司は自分がこんなにもぬか床に躊躇いを覚えるとは思わなかった。
それに世間が知れば不思議に思うはずだ。
いや知られるはずはないのだが、道明寺HDの社長ともあろう男が、ぬか床に手を突っ込むことを躊躇っているということを。いやそれ以前に何故道明寺司がぬか床の管理をしなければならないのか不思議に思うはずだ。
だがそれは愛しい人からの頼まれものだから嫌とは言えなかった。

そんなことから司は西田にこのぬか床を専務秘書の野上に預かってもらえないかと言った。
何しろ西田と野上は熟年の愛を育んでいる最中。
50代の野上ならぬか床の扱いにも精通しているように思えたからだ。
だが西田からダメだと断られた。

「社長。失礼ですがこちらのぬか床は奥様が大切にされているぬか床ではありませんか?ここは奥様の手だけが入る。奥様の心がこのぬか床にはあるのではないでしょうか?恐らくこちらのぬか床は奥様にとって我が子同然の存在。真心を込めかき混ぜることで、菌たちも奥様の期待に応えてくれるというものです。そんなぬか床に赤の他人が手を入れるなどとんでもございません。それに奥様もこちらのぬか床に手を入れてもいいと思っているのは社長だけのはずです。そうでなければお友達にお預けになられたはずです」

と、もっともらしいことを言われれば、預かってくれとは言えなかった。

司は毎日妻がそれを混ぜる後ろ姿を見て来た。
だから妻がどんなにぬか床を大切にしていたかを理解出来た。だがどうしてもその中に手を突っ込むことが躊躇われ、次に助けを求めたのはあきらだ。



『はあ?なんだそりゃ?』

電話に出たあきらは、掴みどころのない男の話からでも、その中に含まれた言いたいことを理解した。
なにしろあきらは幼馴染みであり親友だ。今は立派な経営者となった男が若干日本語が不自由だと言われていた頃から、理解力のない人間なら理解出来ない男の言葉に含まれる気持を汲み取ることをしてきた。

『そうか。おまえの言いたいことは分かった。ぬか床に手を突っ込むことが躊躇われるってことだろ?』

そうだと言った司に電話口のあきらは大笑いした。

『それにしても、世界中の女に見せてやりてぇよ!お前がぬか床に手を入れる姿を!』

「うるせぇ!それより直接手を突っ込まなきゃなんねぇのか?他にいい方法はねぇのか?スプーンで混ぜたらダメか?」

『ああ。ぬか床を混ぜるなら直接手を入れる以外ねぇぞ?それにしてもお前がぬかの中に手を突っ込むことをそんなに躊躇うとは思わなかった。まあ確かに、ぬかに手を入れれば、ぬか臭くなることは確かだ。それに突っ込むなら夜の方がいいのは確かだな。朝そんなモンに手をいれたら一日中匂うかもしれねぇからな』

あきらは母親がぬか漬けに嵌ったことがあると言った。
だから知識としてはあると言う。そしてその頃は、朝食は和食で必ずぬか漬けが添えられていたと言う。

『なあ司。ぬか床はヨーグルトと同じようなものだ。色が違うだけだ。だからそんなに神経質になる必要はねぇと思うがな。まあお前は昔からどこか潔癖なところがあったが、いいか司。それは奥さんが大切にしてるぬか床だ。ちゃんと毎日混ぜてやれ。たとえそれがお前の美学に逆らうとしても、誰が見てる訳でもねぇだろ?それに奥さんが退院してきてぬか床が親父の靴下のような臭いになってたらショックだぞ?』

「なんだよ?その親父の靴下って」

そんな言葉があきらの口から飛び出し、司はなぜそんなたとえが出るのかと訊いた。

『ああ。ぬか床の管理を失敗するとそんな臭いがするらしいからな。お前も気をつけろ?お前の靴下の臭いがどんなんだか知らねぇけど、お前も子供が生まれたら親父になるんだ。そうなるとお前の靴下も親父臭いってことになるけどな?ま、お前のように全てがパーフェクトな男でも出来ないことがひとつくらいあってもいいんじゃねぇの?けど今回はそうはいかねぇよな?奥さんの大切なぬか床だからな。ま、頑張れよ!じゃあな!』

「おい!あきらちょっと待て!クソッ。あいつ切りやがった!」

あきらは、笑うだけ笑いさっさと電話を切った。




司は、キッチンカウンターの上で彼の手で混ぜられることを待つぬか床に目を落しじっと見つめた。そして覚悟を決めた。
いつまでもこうしていても埒が明かないのだと。
こうなったら意を決してぬかの中に手を突っ込むしかないと。
あきらも言ったようにこのぬか床に手を入れていいのは、妻と自分以外許されないのだからやらなければならないということだ。
それに道明寺司の辞書には不可能という文字はないと言われている。
そうだ。やってやれないことはない。
いや。やらなければならない。
たとえそれがビジネスには全く関係ない未知の領域だとしても。


「よし、やってやろうじゃねぇの」

覚悟を決めネクタイを緩め、シャツの袖口のカフスを外し、捲り上げた。
だが今見下ろしている四角いホーロー容器の中に得体のしれない生き物が棲み付いていないとしても、実際このぬか床の底がどうなっているのか知らないのだから、やはりもしかするとエイリアンのような生き物が司に向かって飛び出してくるかもしれない。
だが今やらなくていつやると言うのだ。愛しい妻に一日に一度必ず混ぜろと言われたのだ。
司はざわめく気持ちを抑え恐る恐る手を入れた。





クチュ・・・

「・・・・」


そこはなんとも言えないヒンヤリとした感触。
すぐに指先がつるつるとした冷たいものに触れたがそれは容器の底。
それから恐る恐るゆっくりとぬかを混ぜる。
そこは確かにふかふかとした感触があった。
そして何度か混ぜ、ぬか床の表面を平らにすれば、ふかふかとした感触と共にぷちぷちといった下から微かに押し上げてくるような感覚がある。
それはつまり発酵しているという感触。

「・・・やべぇ・・・なんか気持ちいい」

司はこの感触が癖になりそうだと感じた。
それからは毎晩、妻の病室に立ち寄り、自宅へ戻るとぬか床を混ぜ、そして今では慣れた手つきでぬか床の表面を丁寧に整えていた。








世界一カッコイイと言われる男と奥手の女との間に生まれたのは男の子。
それは司にとって有り余るほどの幸運の日。
分娩室の外で息を、緊張を押し殺し、妻の声や医者の声とは別に弱々しくも逞しい声が上がり、扉が開き看護師が出て来て「無事にお生まれになられましたよ」と声をかけた瞬間、彼の顔に浮かんだのは安堵と歓びとこの世で感じられる全ての感情。
そして大きな声で泣いていた我が子が眩しそうに目を開いたとき、その瞳が見たのは微笑みを浮かべた父親の顔。

「パパだぞ?俺がお前のパパだ」

司はこの世界に産まれて来た我が子に父親として挨拶をした。
愛妻以外の女に興味のない男が一番大切なのはもちろん妻だが、それと同じくらい我が子のことは大切。
産まれた瞬間から愛されている子供はすでに司の心を奪っていた。
そして我が子を抱いたそのとき、大きな幸せを手に入れたことと同時に気付いたのは、我が子の肌の柔らかさが毎日混ぜているぬか床と同じ様にふわふわと柔らかな感触であることだ。

司はふと思った。
今の自分なら我が子の世話も出来ると。
自信があると。
何故そう思ったのか。
毎日ぬか床の世話をしてきた男は、それまで何かの世話をしたことがなかった。
だが妻が入院してからは、生き物だと言われているぬか床の世話を完璧にしてきたからだ。
だから子どもの世話も出来ると思うのだが、ぬか床と息子を一緒にするなと怒られるかもしれないが、腕の中で自分を見つめる我が子の顔に浮かぶのは、全面的な信頼。
その信頼をこれから先もずっと向けられる親になりたい。
そして小さくて無防備な命が立派に成長するまでどんなことをしても守っていく。
息子が父親の足あとをたどるなら、息子が誇りに思える親でいたい。

司の結婚してからの人生は些細なことなど笑い飛ばすことが出来るほど充実していた。
そしてすぐに思い浮かんだ。
息子が生まれた今、次は妻によく似た可愛らしい女の子が欲しいと。

自分の人生の中で家族という存在に重きを置いたことはなかった。
妻に会うまでならそんな未来など考えもしなかった。
だが今は子供達が自分の腕の中へ駆け寄って来る姿が目に浮かんでいた。

「つくし。よく頑張って産んでくれた」

司は言葉に表せないほどの感情と共に我が子を抱いたままベッドに寝ている妻を見下ろした。そして優しく微笑む妻に息子の姿を見せた。

「どうだ?俺にそっくりだろ?」

そうは言ったがその顔がどちらに似ているかなどまだ分からない。
だが額は知性が感じられる広さがあった。

「そうね?きっと司にそっくりになるわ。美男子で背が高くて頭がよくて。それから女の子にモテるわね?」

「ああ。そうだ、いい男になることは間違いない。だから次は可愛い女の子が欲しい」

その時、妻が一瞬ギョッとした顔になったのを見た。だから司は直ぐにじゃなくてもいいと言ったが、彼女はその言葉を信じてはいない。
医者がいいと言えば毎日のように求められるのは目に見えているからだ。









小さな細い身体が産み出した命は、司のこれからの人生を変えてくれるはずだ。
今まで彼が知らなかった新しい世界を見せてくれる。
それが大家族になるのも大歓迎だ。
賑やかな家庭というのは彼が幼い頃は無かったものであり、経験したことはないが、家族が増えるたび、笑顔が増えるたび幸福が増えるはずだ。
そしてこれからの毎日に笑いが絶えなければもっといい。
それに少なくともぬか床については笑いながら褒めてもらえるはずだ。

司が始めた素晴らしい人生はこの先もずっと続いていく。

二人の命がある限り永遠に。




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