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2018
09.27

臥待月 1

Category: 臥待月(完)
<臥待月(ふしまちづき)>









「社長。おひとりで大丈夫ですか?」

西田がそう言うのは、もう何度目になるのか。
自分より年下の男に仕える秘書は心配そうに訊くが司は心配無用だといった表情を浮かべた。

「大丈夫だ。ここはいい。お前はもう帰れ。俺がここにいることはお前以外知らんのだから何も心配することはない」

「しかし……。そうはおっしゃいますがお待ちします」

「心配するな。帰れ。たまには早く帰って嫁さん孝行をしろ」

司はそう言って西田を帰らせようとしたが、秘書はここで待っていると言った。









時刻は午後9時。5時で閉園した遊園地に人影はなく風は冷たく感じられたが、その風が都会の淀んだ空気を一掃してくれたのか。夜空は晴れていた。
土日ともなれば大勢の人間でごった返すこの場所も、誰もいないとなれば寂しいもので、都会のど真ん中とは思えないほどの静けさがあった。

ゲートをくぐり園内に入ると何とも言えない匂いがした。
それはつい数時間前までここに大勢の人間がいた名残なのか。だがアスファルトの地面は綺麗に掃除がされ、食べ物の残りかすもキャンディの包み紙も落ちてはいなかったが、一瞬感じた匂いはどこか懐かしさを感じさせた。
そんな場所は賑やかな街の中にぽっかりと出来た暗がりで、昼間の明るさとは違う顔を見せ、まるで別世界に入り込んでしまったような感覚に陥った。
そして本来なら恐怖とスリルを感じさせる遊具も今は動きを止め、明日の喧騒に備えひっそりと暗がりに横たわっていた。

司はそんな遊具たちの傍を通り過ぎ真っ直ぐ目的の場所へ向かった。
ここには一度しか来たことがなかったが、足が迷うことなくその場所へ向かうのは、そこがどこから見ても分かる場所にあるからだ。

普段司がいるビルの最上階からも見えるそこは、二重の円を描く大きな鉄の輪が奇妙なほどゆっくりと回っていて、日暮れた空の残照にライトアップされた姿が浮かび上がり、雨になればその光が暗闇に滲む姿がそこにあった。
1回転する時間を計ったことがあったが、約20分かかるそれは観覧車。世の中の時の流れとはまったく違う時の流れがそこにあった。
そして下に立ち見上げるそれは、あの時と同じではない。あれから新しいものになった鉄の輪は大都市に相応しい大きさに変わっていた。そして淡い光に照らされていた。

観覧車を動かしてもらうことにしたのは、またいつか乗りたいと思っていたからだ。
あの時、他にも色々な遊具に乗ったが司は楽しめたとは言えず、恥ずかしい話だが酔ったようになった。だが一緒に乗った女は嬉しそうで楽しそうに笑っていた。

_こんなに笑ったの久し振り。

と言って笑いながら涙を浮かべていたが、4日前から付き合い始めたふたりが庶民デートだと言って訪れたのがこの遊園地だった。あれは今から40年も前の話。60歳を前にした男の記憶の片隅に残る想い出だ。だがあの日は喧嘩をした。それはダブルデートで一緒にいた彼女の友人の連れの男を殴ったことが発端だった。

「ちょっと待って!私も乗せて」

ゴンドラが動き出す直前に扉を開け、息を切らせながら乗り込んで来たのは妻だ。

「西田さんから連絡があったの。あなたがここに向かってるって。観覧車に乗るって。だから私も急いでここに来たの」

「西田が?」

「そうよ。西田さんからあなたが閉園後の遊園地を貸し切ったって話を訊いて飛んで来たの。でもどうしたの?いきなり遊園地を貸し切るなんて言い出して。それも自分だけ楽しもうとしたなら酷い裏切りよね?こういった楽しみはまず妻に声をかけるべきでしょ?」

そう言って司の前に座った妻は、あの時と同じように楽しそうに笑っていた。






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2018
09.28

臥待月 2

Category: 臥待月(完)
妻の突然の行動。
それは昔からそうだったが、動き出そうとする観覧車の扉を開け乗り込んで来るという危険極まりない行為は褒められたことではない。
だがその行動力が時に司を引っ張り、時に悩ませながらも二人で人生を歩んで来た。
しかし、それでも危ないことはするな、と司が言ってやらなければ他の誰かが言えるはずもなく、司は呆れたように危ないじゃないか、と言ったが妻は気にしていなかった。

「大丈夫よ。まだ動いてなかったんだし平気、平気」

と言って笑いながらゆっくりと高度を上げていくゴンドラの中から外の景色を眺めているが、園内は明かりがなく、時折小さな光がチラチラと動いているのは巡回中の警備員で、昼間なら見えるはずの景色は見えなかった。

しかしそれでも夜空へゆっくりと上昇すれば、アクリル板の窓から見える景色は、遠くにビルの明かりや家々の明かりが眼下に見え始め、「わあ、きれいね」と妻の口から漏れれば、そうだな、と返すと外を見ていた妻が司の方へ顔を向けた。

「ねえ。それにしても懐かしいわね。ここ。あの時この遊園地でデートしたの覚えてる?あなたが庶民デートに耐えられるか。お金を使わず楽しむことが出来るか試したあのデート」

「ああ。勿論覚えてる。俺と付き合うことに決めたお前が俺を誘った」

使用人として道明寺の邸で働き始めた妻が2ヶ月ちゃんと向き合ってみると言った結果、普通の付き合いを望む彼女に付き合い庶民デートと呼ばれるダブルデートをすることになった。

「そうよ。でもデートしないって誘ったら嫌だって断られたわ」

「そうだったか?俺の記憶の中じゃ違うけどな」

「違わないわよ。知らない人間と遊べるかって怒った。でもちょっと遅れたけど来てくれたわよね?」

「まあな。あの時はお前がどうしてもっていう顔をしてたから仕方なく行ったんだ。それにダブルデートなのにお前がひとりじゃ可哀想だと思ってな」

渋谷のハチ公前で待ち合わせをするという彼女のレベルに合わせることが求められたデートだった。だが既にあの頃の司は彼女のためならどんなことでもするつもりでいた。
自分の我を通すより、彼女の望むように行動したいと思っていた。
ただ思いとは裏腹な言葉が出てしまうのは、我慢など必要としない世界に育った男が簡単には足を踏み入れることが出来ない彼女の世界に戸惑っていたからだ。

「ふふふ….分かってるわよ。今更そんな言い方しなくてもいいでしょ?私とデート出来ることが嬉しいから来たって言えばいいのに本当に意地っ張りなんだから」

「よく言うぜ。意地っ張りなのはお前の方だったろ?」

妻は違うわよ、と言って頬を膨らませ怒ったような顔をしたが、淡い夜間照明の中、きらきら光るふたつの大きな目は笑っていて小さく吹き出していた。

「そうね。よく考えてみれば私たちはふたりとも意地っ張りなところがあって素直じゃないところもあったわよね?でも司は結婚してからはいい旦那さんになったし、子供たちが生まれてからはいい父親になったわ。それに会社だってお母様の跡を継いで立派な社長さんになったし、昔を知る人間からすれば、人ってこんなにも変わることが出来るんだってことが信じられなかったかもしれないわね?それに人にはそれぞれに器があると言われるけど司の器は本物だった。世間が言ったようなただのお坊ちゃまじゃなかったものね?」

「お坊ちゃまか。随分と懐かしい呼び方をするな」

その言葉は使用人が幼い司を呼ぶ時そう呼ばれていたことがあった。
だが大人になってからのその呼び方には親の七光り。青二才。お前にビジネスの何か分かる。
そんな侮蔑的な意味が込められていた。

「そうよ。覚えてる?あの時、優紀が連れてきた中塚くんって人があなたのことをお坊ちゃまって言ったら青筋が立ってた。それにあのダブルデートは物凄い緊張感があってとても楽しめる状態じゃなかったわ。でもその中で唯一あなたも楽しめたのがこの観覧車だったわよね?」

あのデートの中で唯一甘い雰囲気があったとすれば観覧車の中だったが、あの時はキスをしようとした司に対し顔を真っ赤にして目を閉じた彼女がいたが、いいところでゴンドラは地上に降りた。それから彼女の友人が連れて来た男を殴ったが、それは彼女のことをバカにする発言があったからだ。

もともと司は惚れたらどこまでも一途な人間だ。
そんな男の拳は凶器と言われるほど威力があり、相手は恐れをなして逃げたが殴った理由を言わなかったために彼女と喧嘩になった。
司は周りからは他人を思いやる気持ちがないように思われていたが、表現方法が不器用なだけでそうではない。そのため誤解されることもあったが、大事な時は彼女の気持を優先し、いい時も悪い時も全てを自分の責任で彼女を守って来た。
そしてふたりの目の前にそびえていた現実の壁というものを乗り越え結婚した。


「ねえ。でもどうして突然ここに来ることにしたの?」

妻の問いかけに司は答えるべきかどうか迷ってから、「ちょっと考え事があってな」と答えた。





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2018
09.29

臥待月 3

Category: 臥待月(完)
「会社のこと?それとも英(すぐる)のこと?あの子に何かあったの?」

考え事があった。
その言葉に返されたのは心配そうな表情と妻であり母である女のごく当たり前の言葉。

「いや。英のことじゃない。あいつは真面目にやってる。心配するな。何の問題もない」

「…..そう。それならいいんだけど。それなら駿のこと?あの子は中東にいるけど、何か問題でもあった?」

「いいや。あいつも元気にやってるから心配するな。向うでのビジネスは問題ない。アラビア語が出来るあいつは現地の有力者と懇意にしている。長年培ってきた人間関係の良さはあいつの人柄だがそれが役に立っているようだ」

ふたりの間には司の特徴的な髪の毛を受け継いだ3人の男の子がいるが、長男の英は道明寺ホールディングスの副社長として司の右腕として働いていた。そして次男の駿はやはり家業である道明寺へ入社すると、学生時代に身につけたアラビア語を生かし、中東で道明寺と現地の有力な財閥系企業との合弁会社である石油化学事業会社の社長をしていた。

「じゃあ遼のこと?」

三男の遼は銀行に就職し、ニューヨークで働いている。
上の二人の性格は司に似ていたが、三番目の遼は妻に似ていて子供の頃から数字に強く数学が得意だった。そしてその数字に向けられた興味は、やがて経済に向けられたが、道明寺に入社するよりも銀行で働くことを選び、ウォール街に支店を持つ日系の銀行で為替ディーラーとして働き始めたが、今ではアナリストとして時にテレビの経済ニュースで意見を述べる姿を見ることがあった。そんな遼は三人の息子の中で唯一の独身だったが、先日ニューヨークを訪れた司に結婚したい人がいると言って来た。

「実はな、ニューヨークで遼に会ったが結婚したい人がいると言って来た」

「嘘!遼が?」

「ああ。あいつ向うで知り合った女性と結婚を考えているらしい」

「あの子は数字が恋人だ。答えがひとつしかない数学の問題を解くと頭がスッキリするって言ってたけど、ついに結婚することにしたのね!」

男の子を育てた母親というのは、子供たちが大人になると自分から離れていくのを寂しいと感じるものだと訊く。
それは幼かった息子たちは母親にとっては恋人のような存在だと言われるからだが、親は親であり恋人ではないのだから、親離れをしようとしている我が子をいつまでも手元に置こうとする方がおかしい。だがその点妻は違った。親離れ大賛成。経済的に苦労した自分の経験がそうさせるのか。早くから自立した人間でいることを子供たちにも説いていた。
そして実際子供たちは、母親の言葉を実践ではないが早くから自立した生活を送るようになった。長男も次男も高校までは英徳だったが大学は海外。そして三男も上二人の兄と同じく海外だった。

そして上の二人が結婚を決めた時も一番に話しをしたのは、母親ではなく父親の司だった。
それは、家庭の中で父親の存在がそれほど遠いものだと考えなかったことにある。
それに男の子は母親とはいえやはり異性である親には言えないことがあるからだ。
そして男の子はある年齢が来ると父親の存在が自分の未来を映す鏡のように思えてくる。
だから子供たちは同性である父親に自分の未来の姿を見て、まず司に話しをしていた。

「それにしても女の子に全然興味がなかった遼がねぇ….。ねえ、それでどんな人?」

「ああ。同じ銀行に勤めるイギリス人らしい」

「イギリスの人?え?......どうしよう司。私それほど英語が得意じゃないんだけどお嫁さんになる人は日本語が話せるのかしら?」

と言うが若い頃司とニューヨークで暮らしたことがある妻の英語力は、日常の会話をするには十分だった。

「心配するな。あいつの話だとオックスフォード出身でハーバードに留学した才媛で日本語も問題ないそうだ。それに彼女の父親はイギリスで判事をしているらしい。それから兄と妹がいてその二人も優秀らしいぞ。遼のヤツ、随分と堅い家のお嬢さんとの結婚を決めたようだが、まあ真面目なあいつにはいいかもしれんな」

三兄弟の中で一番妻に似て真面目な性格の遼が選んだ相手が同じ職場の行員だとしても不思議ではない。だが逆に全く異なる環境の二人だったとしても、それは若い頃の自分達のようだと思うはずだ。

「….そう。お父様はイギリスの判事さんなのね?」

「そうだ。お前今イギリス人の判事と訊いて笑っただろ?」

司がそう訊いたのは、彼女の肩が小刻みに揺れていたからだ。

「べ、別に笑ってなんかないわよ!ただ、どんなに素敵な人でもあの法廷用のカツラを付けるのかと思うと笑えちゃって!だって音楽室に貼ってあったバッハのような髪型のカツラだなんてどう考えても笑えるじゃない?」

「ああ。確かにな。だが民事裁判じゃああいったカツラやガウン(法服)の着用は廃止になったがな」

イギリスの法廷では、男性女性に関係なく判事と弁護士の法廷用カツラや黒いガウンの着用が義務付けられている。それは18世紀から続く伝統で、公平な裁判を行うための匿名性、つまり年齢や国籍を隠すためと言われているが、2008年に民事と家事の裁判では廃止されていた。

「でも笑えるわよ。あのカツラ!いくら伝統だからって初めて見た時、思わず吹き出しそうになったもの」

かつて子供たちが幼かった頃、イギリスに数年滞在したことがあった。
その時、妻と子供たちは社会見学といってイギリスの裁判所で行われた模擬裁判を見学したことがあった。そしてその時、音楽教室に貼られていたバッハやモーツアルトのようなカツラをつけた判事や弁護士の姿に目を丸くしたと言った妻がいた。

「イギリス時代か。懐かしいな」

「そうね。短かったけど私にも子供たちにもいい経験になったわ」

ロンドンを起点に忙しいビジネスの合間を縫ってヨーロッパ各国を旅したことは、今では家族の大切な想い出だ。そして末っ子の結婚話は、夫婦にとって本当の意味でこれでやっと子供たちが一人前の大人として親の手から離れて行くことを意味していた。

「遼の選んだ人ってどんな人かしらね?可愛い人?それとも綺麗な人?ねえどっちのタイプだと思う?」

「さあ。どうだろうな。そのうち彼女を連れて挨拶に来るだろう。それまで楽しみに待てばいい」

「そうね。でも果報は寝て待てって言うけど本当にその通りね。あの遼が結婚するなんて凄いことだもの。それにしても相手のお嬢さんは目が高いわね!遼の顔はあなたに似てるけど、性格は私に似て真面目だからお嫁さんを泣かすことは絶対にないだろうし、30過ぎて独身でいた方が可笑しいのよ」

親が子を褒めることを親バカと言うが、妻のその口振りはまさにソレだ。
だが司は思った。
本当の意味で末の息子が親の手から離れていく事に寂しさを感じないのか。
同じ親でも男親と女親とでは違う。母親が自分のお腹を痛めて産んだ我が子は、男親が考える息子に対しての思いとは違うはずだ。それにいくら夫が傍にいるとはいえ、我が子は夫とはまた別の存在だ。

「….つくし」

「ん?なに?」

「寂しなら寂しいって言えよ。無理することねぇんだぞ?」

「何言ってるのよ。私の傍にはいつも司がいるじゃない。それに子供たちはいつか離れていくものよ。でも良かったわね。これで道明寺家は安泰ね!」

司は妻が言った私の傍にはいつも司がいるの言葉を否定するつもりはない。だから彼女の言葉に素直に頷いた。

「ああ。そうだ。俺はお前の傍を離れるつもりはねぇからな。何しろ神様の前で一生お前を愛するって誓ったんだからな」

神の前で誓い合った夜。言葉など要らないと抱き合ったあの夜からずっとその思いは変わらないのだから。





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2018
09.30

臥待月 4

Category: 臥待月(完)
やがてゴンドラは時計で言えば10時の高さになった。
つまりもうすぐ頂点に達する。そしてこの高さまでくれば、遠くではあったが目線の先に見えるのは道明寺本社ビル。
最上階の自分の部屋の辺りに明かりはないが、他の部屋には明かりが灯っているのが分かる。いつもはあちら側から見ているこの場所に自分がいて、向う側を眺めるのは不思議な気持ちがするが新鮮な思いもしていた。

そして晴れた夜空に月が見えた。十五夜を過ぎるとゆっくりと昇って来るようになる月は、丁度この時間には空に昇り、いびつな楕円の黄色は押し潰されそうな卵の黄身ようにも見えるが、その月がゴンドラの中を照らし始めた。

「なあ、つくし」

ふたりは少しの間黙って月を見ていたが、司が口を開いた。

「ん?なに?まだ他に何かあるの?」

「お前覚えてるか。オーロラを見に行ったことを」

オーロラが見たいと妻が言い出したのは、3人の子供たちが家を出てアメリカに滞在している頃だった。
夏は白夜になることから見ることが出来ないオーロラを見るためには、暗い夜が長く続く真冬にオーロラベルトと呼ばれる北緯65度から70度付近一帯へ行かなければならないが、カナダにするか、アラスカにするか。それとも北欧にするか考えた末、ニューヨークからの帰路に寄ることが出来る場所にしようということから、月の光が邪魔をしない新月の日にアラスカのフェアバンクスを訪れたことがあった。だがその日に確実に見ることが出来るとは限らないが、ふたりが訪れたその日は見ることが出来た。

「勿論覚えているわよ。天空に舞う光の舞いだもの。大きな光りのカーテンが色と輝きを変えながら動くんだもの。手を伸ばせばすぐそこにあって掴めそうなくらいだった。奇跡としか言いようがなかった。本当に凄かったわ」

夫婦ふたりでマイナス20度近くに下がった11月の深夜。
夜空を見上げ空いっぱいに広がる天空の神秘を眺めた。そしてそれは、まるでふたりの為に演じられた舞のように思えた。

「でも寒かったわよね。マイナス20度なんて初めて経験するじゃない?だから寒いって言うよりも痛いって言う方が正しいかもしれないわね。鼻で息をしたら奥がツーンと痛くなるし、睫毛が真っ白になったけど身体は超あったか下着を着てたから問題なかったけど、まさか睫毛が白くなるなんて信じられなかったわよね?でもあれほど寒いなら昔テレビで見たんだけど冷凍バナナで釘が打てるかと思って本当かって訊いてみたけど、それは無理だって言われて残念と思ったけど濡れタオルはカチカチになったわよね?」

あの時は泊ったホテルのルームサービスでバナナを頼むから食べるかと思ったが、それを手に持ち外へ出たから何をするかと思えば、案内役の人間にこれを凍らせたら釘を打てますかと訊いた時は笑った。そしてその時の案内役は、

「日本人の方はこんなに寒いと必ずといっていいほど同じことをしたがるんですよ。でもバナナで釘が打てるようにするには、マイナス260度ほどで窒素凍結でもしなければ無理ですよ。それから凍った薔薇がパリパリと音を立てて砕けるのも同じですからね」と言って笑われた。

「ああ。そんなことがあったな。結局バナナは部屋に戻って喰ったんだったな」

「そうよ。バナナは所詮バナナで金槌ではないって言われたわ。でもコマーシャルでは凍ったバナナで釘が打てたのよ?」

司はそれがどんなコマーシャルだったかは知らないが、妻が子供の頃見たというコマーシャルでは寒さで凍ったバナナで釘を打つことが出来たらしい。

「でも自然って本当に凄いわね。オーロラってこの世のものとは思えない景色だったわね」

司はバナナはさておき、その意見には素直に同意していた。
だがあの時真っ白な息を吐きながらふたりで見上げた空もだが、今こうして都会の真ん中にぽっかりと開いた漆黒の空間に仄かな光を帯びて浮かぶゴンドラから見上げる空も美しいと感じていた。そしてゴンドラが頂点に達すると視界には月しかなかった。

「でもアラスカで見たオーロラも良かったけど、北欧で空の上から見たオーロラも良かったわね」

妻が言う空の上から見たオーロラ。
アラスカで見たオーロラを忘れることが出来ず、今度はロンドンからの帰り少し遠回りをしてフィンランドの北極圏上空を通過しながら見た。

「そうだな。あの時のオーロラも素晴らしかった」

窓なら幾つもあるのに、ふたりが額を寄せ合いひとつの窓から見た光りのカーテンの輝きは神秘的で美しかった。そしてそこは機内であり寒さが感じられない場所だったが、アラスカで見た時と同じ切れる程の空気の冷たさを感じた。だがそれは決して嫌なものではなく、むしろ清々しい冷たさだった。
そしてオーロラを見たこともそうだが、子供たちがふたりの手を離れると色々な所へ行った。子供が親の手から離れた夫婦は皆そうしているものだと思った。だがそうではないといった話も訊いたが、ふたりは出来る限り一緒にいた。



「ねえ。私に話したいのは遼のことは別として本当はオーロラの話なんかじゃないんでしょ?観覧車に乗ったのは考え事があるからって言ったわよね?」

頂点を過ぎたゴンドラがゆっくりと下降し始めた時、妻が向かいの席から言った。

「ああ。遼のことはそうだが、オーロラは月が綺麗だったから思い出した。空が近かったから思い出した」

「じゃあそろそろ話してくれる?本当は何を考えているのか」






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2018
10.01

臥待月 最終話

Category: 臥待月(完)
「お見通しなんだな」

「そうよ。私たち何年夫婦をやってると思うの?司が私のことが分るように、私もあなたのことは分かってるつもりよ」

だが何年夫婦であっても互いを理解出来ない人間も多い。
そして殆どの夫婦は、結婚当初あったいい意味での緊張感も、やがて子供が生まれ成長し時間が経つと別の感覚に変わる。だがそれが何であるかは夫婦それぞれで違うはずだが、互いが互いに対し興味を無くしてしまう夫婦もいる。だが司と妻の間にもたらされたのは、ぬくもりのある生活。だから妻が言った通りで、彼女は司が口にしたこととは別のことを考えていることに気付いていた。

「それに司が何を考えていたとしても反対はしないわ」

「反対しない?」

「ええ。そうよ。私が今まで司のすることで何か反対したことがあった?それにもし反対したとしても、あなたは心に決めたことを簡単に止めるような人じゃないもの」

分かったような口を利く妻だが、若い頃は司の気持を読むことはなく、イライラすることもあった。だが司と一緒に暮らしているうちに鈍感ではなくなっていた。
それがいいことなのか。それとも悪いことなのか。夫に向かって不敵な笑みを浮かべるが、それは全く構わなかった。それが夫婦なのだから。

「社長を退こうと思っている。後進に道を譲ろうと思ってな」

「引退するの?」

「ああ。そのつもりだ。後は副社長の英に任せるつもりだ」

「英に?」

「ああ。あいつならもう十分立派にやれる。あいつは初めから俺の跡を継ぐつもりでいた。その意思は英が道明寺に入社した時改めて本人の口から訊かされたが、この家に生まれた以上そのつもりでいたそうだ。だがいつそれを決めたかまでは教えてはくれなかったが、少なくとも俺が高校生の頃そう考えたのと同じだったはずだ」

司が高校3年の時、父親が倒れ家業を継ぐ決心をしたが、彼の右腕として副社長を務める英は、自分が道明寺英として何を求められているかを感じ取ったのは早かった。
どんなに妻が普通に育てたつもりでいても、周囲が普通の子供に接する以上の態度で接すれば、子供は自分が何者であるか自問をする。
それに子供には子供の世界がある。無神経な言葉を投げかける大人もいる。その中で自ずと知る出自とアイデンティティー。父親の生き方の中に自分の未来を見たのはいつだったのか。司には分からなかったが、正直息子が会社を継ぐつもりでいると言った時は嬉しかった。

「そうね。司が会社を継ぐ決心をしたのも高校生の頃だったものね。あの時は司が4年間ニューヨークで勉強して私を迎えに来るって言ってくれて嬉しかったわ」

道明寺という家から逃げることばかりを考えていた少年の心を変えたのは妻だった。
ふたりの未来を考えた時、何がベストであるか。何が彼女にとって一番いいことなのか。それを考えたとき司の心は決まった。

「でも4年の時間と距離がふたりを駄目にするかもしれないと思ったこともあったのよ?ふたりには未来がないんじゃないか。そう思ったことがあったのよ?」

子供に自立と質素倹約を教えてきた妻は、そう言い添えて笑ったが、ふたりは司が帰国して2年後に結婚した。
そしてプロポーズの言葉は、「一生の住所はここでいいか?」だった。




「でも英は驚くんじゃない?自分に社長はまだ早いって思うんじゃない?」

「どうだろうな。だがいずれにしても継ぐつもりでいるんだ。遅いも早いもないだろ?それに俺が社長の椅子を継いだのはあいつよりも若かった」

実際司は31歳で社長に就任した。
英は34歳。年令の割りにしっかりとしていると言えば、それこそ親の贔屓目だと言われるかもしれないが、それでも息子は同じ年頃の自分に比べれば優秀だと言えた。
それに英にはなんとは無しに話していたが、60歳を前に人生のギアチェンジをするには少し早いんじゃないかと言われた。
だが司は社長を退く決心をした。後任の社長は息子だが決して世襲という訳ではない。
能力がない人間に会社を任せることはしない。



「それで。社長を退任した後はどうするの?」

「俺か?立場としてなら会長だな」

「会長さん?」

「ああ。母親が俺に対してやっていたようにあいつを見守るつもりだ」

既に亡くなっている司の母親は生前よく言っていた。

『どんなに優秀な人間であっても躓くことがあるわ。社内で軋みが生じることもあるわ。その時は経験がある者が手を差し出さなければ会社は傾くわ』

それは一度傾きかけたことがある道明寺を知る母親だから言えた言葉。
ビジネスに絶対という言葉はなく、母親がいつも張りつめていたのは、そういったことがあったからだと知ったのは、司自身が社長の座についてからだ。



「それなら司も今までより少しは楽になれるわね?ゆっくり出来るわね?」

「ああ。そうだな。ゆっくり考える時間も持てるはずだ」

「そう。良かったわ。司は働き過ぎだから、これからは少しのんびりした方がいいのよ。あ、もうすぐ着くわね。あの時も短く感じたけど、今夜もそうだったわね。あっという間に終わったからキスする時間がなかったわね」

「そうだな。あの時もそうだったな」

音も揺れもないゴンドラの中で交わされる夫婦の会話がそこで終わったのは、地表が近づいて来たからだ。








司は向かい側の窓を見ていた。
外が暗く中が明るい状態で窓が鏡になった窓鏡に映るのはひとりの男の顔。
そしてその顔の下の座席には、彼がいつも持ち歩いている写真が置かれていた。
それは満面の笑みを浮かべた妻の写真。
その写真を撮影したのは司だ。




死が二人を分かつまで。
その誓いが全うされたのは2年前の夏の日。
享年56歳。彼の妻である道明寺つくしはこの世を去った。健康診断で悪性腫瘍が見つかり手術をしたが間に合わなかった。

「人間の寿命は概ね決まっているそうだが心臓が一生のうちに打つ鼓動ってのは決まってない。だがな。恋をして鼓動する回数が多い人間ほど寿命が短いらしい。
恋をしなければ心臓は激しく鼓動することもない。心臓に負担をかけることはない。だから恋をしなかった人間は長生きする。俺はお前に恋をしたからいつも鼓動が早かった。だから俺の方がお前より先に逝くはずだ」

冗談でそんな言葉を交わした後のことだった。
だが妻には聞こえたはずだ。
あの時も激しく打っていた夫の胸の鼓動が。


ふたりの愛に影が差す事はなかった。
司にとって妻は太陽だった。
そして今彼女は太陽に見える月になり、臥待月がゴンドラを照らしていたが、浮かび上がった人影はひとつで視線の先に彼女の姿はなかったが、たった今まで妻はそこにいた。
司は一度好きになった女性と離れることは出来ないし、忘れることは出来ない。
だからたとえ彼女の姿がそこになくても、声だけでもそこにあるなら、臥待月が空に昇っていた日に逝った彼女の傍にいることが出来るなら、またここに会いに来る。
そしていつになるか分からないが、司も月の上で待つ彼女の傍に行くはずだ。
永遠に一度しか巡り合うことが出来ない人の傍に。




やがてゴンドラが地上に降りると秘書がそこにいた。

「社長。奥様にはお会いすることが出来ましたか?」

「ああ。会えた。誰よりも遠い場所にいるが、誰よりも近い場所にいる。月の上にいたが同じ空の下にいる」

「はい。今日は19日で奥様の月命日。臥待月の日でしたから今夜は月の上から社長を見つめていらっしゃいます」

老齢のベテラン秘書はそう言って空を見上げたが、司からこの場所を貸し切れと言われた時は驚いたはずだ。だがふたりの若い頃のことを知る秘書は直ぐに察した。
そして子供たちから比翼連理の言葉はふたりの為にあると言われたが、片割れを失った男は決して飛べない鳥ではない。何故ならここに来れば空高く飛ぶことが出来る。そして彼女に会えると分かったから寂しくはなかった。


「それから西田。その社長という呼び方は止めてくれ」

「やはり決心は変わらないということですね」

「ああ。あとは英に任せる。それに遼も結婚するんだ。親の役割から一線を退かせてもらうつもりだ。つくしは最後まで遼が結婚するか心配していたが、あいつも生涯の伴侶を決めた。それをつくしに報告出来た。それに伝えたいことは伝えることが出来たと思っている」

司は自分にしか見えない景色を見た。
群青色の晴れた夜空に浮かぶ楕円の月の上にいる最愛の人の姿を。
それにいつかは彼も妻の待つ世界へ旅立つ日が来る。
だがその日がいつであるかは、神のみぞ知ることであり司は知りたいとは思わなかったが、人は人生の先が見えてくると、過去を振り返りたがる。そしてその過去が曖昧な記憶に変わる前に頭に刻み付けておきたいと思うようになると言うが、妻と過去の想い出を語り合ったのは、あちらの世界へ逝く日が近いということなのか。
だがもしそうだとしても怖くはなかった。
むしろ妻と会うことで温かで優しい想いを感じることが出来たのだから。
そして今夜見た月は、今まで見たどの月よりも美しかった。





< 完 > *臥待月(ふしまちづき)* 

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