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2018
09.21

想い出の向こう側 1

どの子供にも大切にしているおもちゃがあるはずだ。
だが少年にはそういったおもちゃが無かった。
いや無かったのではない。沢山ありすぎてたったひとつの大切な物を見つけることが出来なかったという方が正しいはずだ。

少年は裕福すぎるほど裕福な家に生まれ、誰もが羨む生活を送っていた。
我儘は我儘とは言われず、当たり前の行動として受け止められ、欲しいものがあれば直ぐに手に入れること出来た。だがその生活は決して楽しいとは言えず、家庭教師が何人もいる生活に自由は無かった。


「あなたはこの家の跡取りよ。将来は会社の社長になるの。そのためには今から学ぶべきことが沢山あるわ」

そう言った母親は忙しい人で傍にいることはなかった。
鉄の女と呼ばれている自分の母親はビジネス優先で、子供のことなどどうでもいいと思っているのか。彼の誕生日だろうと、高熱で苦しもうと傍にいることはなかった。

そんなあるとき少年は沢山のおもちゃの中から、ふわふわとした手触りの白いウサギのぬいぐるみを見つけた。
それは初めて見るぬいぐるみで、白いウサギにはプラスチックで出来た赤い小さな目がついていて、まっすぐ少年を見つめていた。

少年は思った。
おかしいな。こんなぬいぐるみ見た事ないぞ。いったい誰がここに置いたんだ?
それに少年は初等部2年生で、ぬいぐるみで遊ぶような年齢ではない。
ましてやウサギのぬいぐるみなど男の子が持つものではないと思っている。それなら彼の仲間の誰かが持ち込んだものなのか?だが彼の仲間たちの中には、ぬいぐるみで遊ぶような人間はいない。いやかつて類がクマのぬいぐるみを大切にしていたが、今はもう違う。
だとすれば、このぬいぐるみは一体誰のものなのか?だが少年はピンときた。

「そうか!これはねーちゃんのものだ!」

少年には姉がいて、こういったぬいぐるみを幾つか持っていたことを思い出した。
だが何故そのぬいぐるみがこの部屋にあるのか。ここは少年の部屋の奥にあるおもちゃが沢山置かれている小部屋。棚には超合金で出来た変形するロボットや航空機のミニチュア。そしてミニカーが数多く飾られている男の子らしい部屋だ。そんな金属やプラスチックのおもちゃの中にポツンと置かれていたウサギのぬいぐるみは、まったく雰囲気にそぐわない異質の存在で、ウサギも異空間に迷い込んだと感じているはずだ。

「ねーちゃん、なんでこのウサギ。こんなところに置いてったんだ?」

そう呟いた少年は、白いウサギを手に部屋を出た。






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2018
09.22

想い出の向こう側 2

姉の部屋へ向かっていた少年は、途中何人かの使用人に出会った。
するとそのたび立ち止まって頭を下げられるが、いつものことで気に留めなかった。
生まれた時から見慣れたそこは、どこまで歩いても行き止まることがないのではと思える長い廊下。だから本当に行き止まることがないのかを確かめるため、廊下の端から端まで走ったことがあったが、いくら走っても左右の壁が途切れることはなく、やっぱり行き止まることは無いのかと思っていたが、やがて着いた場所は天井が高くシャンデリアがいくつも吊り下げられた広くがらんとした部屋だった。

そして廊下のテーブルに置かれた花瓶や壁に飾られている絵画は、少年でも描けるような線だけの絵だったり、溶けていく時計の絵だったり、黄色い大きなひまわりが描かれているものだったりするのだが、彼には価値があるようには思えなかった。

それよりも実物を正確に再現して作られたミニカーの方が少年にとっては価値があった。
そして将来は、そのミニカーの本物に乗ると決めていた。つい最近もスピードの出る本物のスポーツカーに乗せてもらったばかりで、景色が高速でどんどん後ろへ流れて行く様子に心臓がドキドキした。
だが今は手にしたウサギを姉の部屋へ持って行くことだけを考えていたが、それは家庭教師の1人から訊かされた話しを思い出していたからだ。



『ウサギは仲間がいないと寂しくて死ぬことがあります。
大勢の仲間と一緒に仲良く遊ぶのがウサギです』


そんな話を訊かされていたのだから、たとえそれがぬいぐるみで本物のウサギではなくても、早く仲間の元へ返してやろうと思っていた。
そしてその時、誰かに名前を呼ばれたような気がして振り返った。
だがそこには誰もおらず長い廊下が続いているだけで、気のせいだった。


「ねーちゃん。部屋にいるかな?」

少年の姉は中等部1年だ。
だがすでに高等部の勉強をしていて頭がいい。だから家庭教師は姉のことを凄いと褒める少年にとっては自慢の姉だ。
それに幼い頃いつも傍にいてくれたのは姉と使用人頭のタマだった。
そこで少年は思った。もしかすると姉は勉強しているかもしれない。もしそうなら邪魔をしてはいけない。すると少年の足は自ずと止まった。そして考えた。そうだタマの部屋へ持っていこう。タマならこのぬいぐるみを預かってくれるはずだ。それに確かタマの部屋には陶器で出来たウサギがあった。だからこのウサギも寂しくないはずだ。
そうだ。そうしよう。少年はそう決めると向かう先をタマの部屋へと変更するため回れ右をした。

するとその時、また誰かに名前を呼ばれたような気がして、少年は振り向くとあたりを見回した。だが廊下には誰もいなかった。

そして手にしたウサギのぬいぐるみに目を落とした。
するとウサギの目に何かを慈しみたいといった表情が浮かんだように思えたが、気のせいだと思った。ただのプラスチックの赤い目にそんなものが浮かぶはずもなく、そこには少年の顔が映っているだけだった。






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2018
09.23

想い出の向こう側 3

「タマ!」

少年は部屋の扉を開くと名前を呼んだ。
だが返事は無かった。
タマの部屋は、少年の祖父が彼女のために建てた和室。
畳の部屋が二間あり、和箪笥が置かれ、ちゃぶ台が置かれた部屋は、冬になればそれがこたつに変わり、火鉢に火が入れられる。物が多いとは思わなかったが使用人という仕事柄掃除は得意だから部屋はいつもきれいに片付けられていた。

そして和箪笥の上には写真が飾られていて、傍には花が飾られていたが、写った人物はタマの旦那さんだった人で、戦争で亡くなったと教えてくれた。
この邸に50年勤めているというタマの手は姉と違い枯れ木のような手だが、その手が旦那さん、と言って写真を撫でる姿を見たことがあった。

少年は手にしたウサギのぬいぐるみを飾り棚の上に置かれている陶器のウサギの隣に置いたが、久し振りにこの部屋に来た少年が目を止めたのは、新たに置かれた緑色のカエルと豚の姿をした陶器の置物。
つまりそこには、ウサギが二匹とカエルと豚が並んでいるのだが、何故かそれが滑稽に思えた。だがウサギは仲間が出来て嬉しそうに見えた。
少年はよし。これでウサギは寂しくないはずだ。そう思うと背中を向け部屋を出ようとしたところで後ろから声をかけられた。

「坊ちゃん駄目ですよ。そのウサギの居場所はここではありません」

誰もいないと思っていた部屋から聞こえる声は、聞き慣れた老女の声。
びっくりした司は後ろを振り返った。

「坊ちゃん。そのウサギをここに置いて行っては駄目です。その子がいる場所は坊っちゃんのお部屋です」

老女はそう言うとウサギのぬいぐるみを棚から取ると少年に手渡した。

「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、このウサギは坊ちゃんがまだお小さい頃、熱を出していた坊ちゃんの枕元にタマが置いたものです。同じ動物でもここにあるウサギやカエルたちとは意味が違います。なにしろそのウサギは坊っちゃんの傍にいることが出来ないお母様がお求めになられたものですから」

少年の母親は彼が高熱を出した時も傍にいなかった。
そしてそう言ったタマは振り返ると陶器で出来た置物たちの説明を始めた。

「ウサギとカエルは貯金箱です。背中に穴が開いていてそこに小銭を入れて溜めます。坊っちゃんは小銭をご存知ですか?お札ではなく細かいお金のことですが、見たことがありますか?世の中の人間はお財布に溜まった小銭をコツコツ溜めることをします。その小銭を溜めるための入れ物を貯金箱と言います。そちらの陶器のウサギは前からありましたが、一杯になったので新しくカエルを買いました。それから豚は蚊やり豚という名前がついていて、お腹の中がこのように空洞になっているのは、ここに緑色のグルグル渦を巻いたものを入れて火を点け蚊を落とすためです」

タマはそこまで言うと司の手を取り諭すように言った。

「坊ちゃん。ここにいる動物の置物はみんな意味があってここにいます。ただの飾りものではありません。みんなタマに必要とされているからここにいる。でもそのウサギはタマが必要としているものではありません。ウサギを必要としているのは坊っちゃんのはずです。
この子は柔らかい布で出来ていて、ベッドで一緒に寝ることが出来るのはこの子だけですから。それにこの子は坊っちゃんを守ってくれます。母親というのは、本当はいつも子供の傍にいたいものです。でもお母様はそれが出来ません。だから自分の代わりにこの子を置いていったんですよ?」

確かに少年のおもちゃは、みなプラスチックや超合金といった固いもので出来ていて、布で出来たものは無かった。
だがこのウサギが母親から贈られたものであっても、初等部2年生の少年がウサギのぬいぐるみと一緒に寝ているなど恥ずかしいことだと思っている。
それに母親が自分の代わりにウサギを置いていくとはどう考えても信じられなかった。

「坊ちゃん。この子は坊っちゃんを守ってくれるはずです。この子はたとえ坊っちゃんがこの子の存在を忘れたとしても、可愛がってくれたことは忘れません。人形には魂がありますからね。だからこの子をどこかにやるということはお止め下さい。お部屋の隅でもいいんです。せめてもう少しだけ沢山あるおもちゃと一緒に置いてあげて下さい。そしていつかお部屋から全てのおもちゃが移される時が来たら、その時はこの子をタマの所へお持ち下さい。この子がまた必要とされる時までタマがお預かりしておきますから」


タマにそう言われた少年は、再びウサギを手にすると自分の部屋へ戻り、学習机の上にウサギを座らせた。そしてプラスチックで出来た赤い小さな目をじっと見つめた。するとウサギの顔が微笑んだように見えた。

「なんだよ。また俺の部屋に戻れて嬉しいのか?」

少年が問い掛けた瞬間ウサギがゆらりと前へ傾いた。






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2018
09.24

想い出の向こう側 4

机の上でゆらりと前へ傾いたウサギのぬいぐるみが頷いたように見えたのは気のせいか。
いや違う。確かに「うん」と頷いた。だから飛び上がるほど驚いた。
そして後ろへ下がった司に対しウサギが話しかけてきた。

_うん。またこの部屋へ戻ってこれて嬉しいよ。僕はいつも君を見守って来たからね。それなのに忘れちゃうなんて酷いよ。でもダメだよ。タマさんの言う通りでまだ僕の役目は終わってないんだから。

信じられないことが起こっている。
これは夢ではないか。

司は目の前で喋るウサギのぬいぐるみに信じられない思いで目を擦った。そしてこれは夢ではないかと右耳を引っ張ってみた。今ここでこうしてウサギを前にしていることもだが、タマと喋ったことも夢ではないかと思った。だから目を擦ればウサギは消えていると思った。だが消えてはいなかった。そして引っ張った耳は痛く、これが夢ではないことを少年に教えた。だがやはり信じられなくて今度は暫く目をつむった。それは時間をかければ次に目を開けた時、ウサギは消えていて、何も無かったのではないかと思ったからだ。
だが目を開けた時もウサギはそこにいて司をじっと見つめていた。

_どうしてそんなに驚くんだい?さっきも言ったよね?
僕はいつも君を見守って来た。それに君は僕の手を離しちゃ駄目だよ。
少なくとも今はまだ駄目だよ。

ウサギは目を開けた司に、ひと息つくと深刻そうな口調で言葉を継いだ。

_司くん。君は僕の手を離すととんでもない大人になるんだ。
だからそうならないためにも、僕が君の傍にいなきゃならないと思ってる。
人は後悔すれば素敵な人になれるけど、君はこれからちょっと困った少年になるから後悔するかと言えばそれは無いんだ。司くんは自分の人生は敷かれたレールの上を走るしかない、そう思った瞬間からどんどん酷い人間になって行くんだ。でもそれは本当の君の姿じゃない。だから僕は君がそうならないようにしたい。何しろ人生は後ろへは戻れない。前に進むしかないんだからね。それに君がずっと酷い人間でいたら僕は悲しいからね。

ぬいぐるみのウサギが語りかける。
目を擦っても耳を引っ張っても消えないウサギに、はじめは驚いたが何故か不思議なことに怖いとは思わなかった。
だから司は、白いウサギが喋る様子をじっと見ていた。
だがウサギが話している内容は未来のことでよく分からなかった。
何しろ7歳の子供が未来のことを真剣に考えているはずもなく、たまに会う母親から将来あなたは社長になると言われればそうなのだろうと漠然と考えるしかなかった。
つまり7歳の少年にすれば、向かう先など分からなくても、この車に乗れと言われれば乗るしかないのだから。

_それからひとりの人間が死ぬまでに会う人の数は知れてるけど、司くんの場合は普通の人よりも多いんだ。でもそれは未来の司くんがどんな人生を送るかによると思うけどね。
それに司くんもいつか自分にとって大切な人に出会うけど、その人を悲しませないためにも僕が傍にいる必要があると思うよ。

ウサギは司の未来を見て来たように話をするが、司にすれば未来の話などどうでもよかった。それに7歳児に向かって、いつか大切な人と出会うと言われても意味が分からなかった。
だが興味はあった。自分が酷い人間になると言われたことを聞き流すことは出来なかった。

「お前は俺の未来を知っているのか?」

_そうだよ。だから僕は君から離れる訳にはいかないんだ。
だって司くんが酷い少年になる姿は見たくないからね。
それに僕を手放したら君にとっての大切な想い出を手放すことになるんだよ。
タマさんも言ったよね?君が熱を出して寝込んでいる時、僕はずっと君の枕元にいた。胸の中に抱きしめられたこともあった。でも大人になって行くにつれ僕のことを忘れてしまうのは仕方がないよ。おもちゃっていうのはそんなものだから。
でも今よりもっと幼かった司くんは僕のことを大切に思っていてくれたよ。

ウサギは司の目をじっと見つめ言葉を継いだ。

_それからね。何かを大切にしたことがある人間は、その何かに守られるんだ。
つまり楽しかった想い出に守られるんだよ。司くんの場合は僕だ。君は僕を大切にしてくれた。だから僕には司くんを守る役目がある。
それに想い出っていうのは、買おうと思っても買えない。自分の心の中にあるもので、他の人には分からない。それが自分を守ってくれるんだ。
それから司くんはおもちゃもだけど、欲しいものは何でも持ってるよね。でも沢山持ち過ぎると何が本当に大切な物か分からなくなってくるんだよ。そうじゃない?欲しいものを全部貰ったとしても幸せだって思えないこともあると思うんだ。

ウサギはそこで一旦口を噤んだ。

_司くん。君が今より大人になって来ると、君の周りには沢山の人が集まってくる。
でもその人たちは君のことが本当は好きじゃない。だけど好きなフリをして近づいてくるはずだ。それは君が持ってるものが欲しいから。君の外見が素敵だから。君が将来社長になるから近づいてくる。君のことが好きじゃなくても周りにある物に惹かれて近づいて来るんだ。それを知った君は酷い人間になってしまうんだ。

ウサギはそこで再び口を噤んだが、司にしてみれば、よく喋るウサギだなと思っていた。

_でもね。そんな君はある時恋をする。その人は真面目で貧しい女性。そんな女性を君はお金を使って自分の傍に置こうとする。だけどその人は君のことを蛇のような男だって嫌がって逃げるんだ。でも君はその女性のことが好きで自分の全てを与えたいと思うんだ。やがてその人と心が通じ合って幸せを感じるようになる。君はその人と出会えたことを本当に喜んでいた。だけど__

司はウサギから自分がどんな大人になるか聞かされながら、その女性のことを考えてみたが、ウサギが黙ってしまったことに何とはなしに訊いていた。

「それでその人とはどうなるんだ?」

_ある日その人を忘れてしまうんだ。でもそれは君のせいじゃない。
だけどそこから先の君は、昔の恋を忘れた君はたとえ欲しいものを全部手に入れたとしてもちっとも幸せじゃなくなる。幸せの言葉の意味すら忘れた人間になって心の中にあった人を愛する気持ちを忘れて生きていく。君の人生は虚無だらけの人生になる。そしてかつて恋をした女性に蛇のようだって言われた君は、蛇以上に恐れられる人間になってしまうんだ。

ウサギはそう言うとプラスチックで出来た赤い目を曇らせた。

_司くん。大人になるとみんなが言う言葉がある。それは人は想い出だけでは生きていけないと言う言葉。でも人は想い出がなければ生きてはいけない。人が生きていくことが出来るのは、過去があるからだ。何の想い出もない人間は空洞だよ。からっぽだよ。

空洞。からっぽ。
司は空洞の意味は分からなかったが、からっぽの意味は分かった。
だが人間がからっぽの意味が分からなかった。それでもウサギの話に口を挟むことはなく訊いていた。

_とにかく人は沢山の想い出があるから人生を送ることが出来るんだよ。そして人生の最期に頭を過るのは沢山の想い出の中から自分にとって忘れられないこと。だから僕はこれからの君の未来に相応しい想い出を沢山作ってあげようと思ってここにいるんだ。最期に良い人生だったって言ってもらえるようにね。でも君は僕のことを忘れてしまう。今よりもっと小さな頃はいつも君の傍に僕を置いてくれたのにね。

ウサギはそこまで言うと喋り出した時が突然だったと同じように、今度は突然黙り込んでしまった。
司はウサギが再び口を開くのではないかと暫く待った。だがウサギはそれきり口を開くことは無かった。
そしてその顔はどことなく悲しそうな顔に見えた。





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2018
09.25

想い出の向こう側 最終話

7歳の子供が4歳の頃のことを覚えているかと問われても覚えてはいなかったはずだ。
だが司はあの日がいつだったのか、正確な日付は覚えていなくても7歳の時ウサギと交わした会話を思い出していた。
それは4歳の我が子が熱を出し、子供部屋のベッドで寝ている姿を見た時だった。

妻からのメールで、幼稚舎から電話があり蓮が熱を出したから迎えに行って来ると連絡を受けたのは経営会議の最中だったが、再び受けたメールに書かれていたのは、風邪をひいたということ。だが熱はたいして高くなく心配なさそうだとあった。

司は結婚して子供が三人いる。長男の圭は8歳の小学3年生。次男の蓮は4歳で幼稚舎に通っている。そして生まれて間もない3番目の子供は女の子の彩。
妻は初恋の人で大恋愛の末、結ばれたが、彼女と出会うまでの人生はウサギが7歳の少年に話した通りの人生だった。

あの時、ウサギと話をしてから1ヶ月ほど後、やっぱりこのウサギは自分の部屋には相応しくないと言ってタマの部屋へ持って行った。そして3年生になると小部屋の中のおもちゃをすっかり片付け模様替えをした。
それはおもちゃに興味がなくなったこともだが、その代わり覚えたのは喧嘩をすること。
3年生から4年生。そして5年生から6年生へと学年が上がるたび、喧嘩の回数が増え、人を傷つけることに罪悪を感じることがなくなりむしろ楽しさを覚えていた。
そしてエスカレーター式に進学する学園で彼に逆らう人間はおらず、ウサギが言った通り司の周りには彼の容貌と道明寺という名前と財力に惹かれた人間が集まるようになった。
だがそんな人間たちの人としての薄っぺらさが鼻につくようになれば、彼らが傍にいることが許せなくなった。だから司の周りにいたのは、幼い頃からの親友たちだけで、他の人間を近くに立ち入らせることは許さなかった。

やがて高等部で妻と出会ったが、初めは彼女のことが気に入らなかった。
その女が生涯を供にしたいと思える女だとは思えなかった。そして蛇だと言われたことがあった。だが気付けば蛇以上の執拗さで彼女を求め追いかけていた。
やがて真夏のひまわりのような彼女は司のことを好きになってくれた。
だが司は暴漢に襲われ意識不明の重体に陥り、目覚めた時には彼女のことを忘れ、別れを決めた彼女からウサギのぬいぐるみを渡されると同時に、野球のボールを頭にぶつけられ彼女のことを思い出し、再び目の前に現れたウサギに、あの時のことを思い出した。
そしてウサギがタマの手から母親の元に戻り、やがて恋人の手を経て司の元へ戻って来たことに巡り合わせを感じた。



7歳の頃、何かを宿していた白いウサギのぬいぐるみも今は古さが感じられる。
そしてあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。だがどちらにしても大人になった男にウサギがあの時のように口を開くことがないと感じていた。
だが司の手元に戻って来た時のウサギの目には何かがあった。
それは、『やあ。また逢えたね』という懐かしさを感じさせる感情。だがウサギが発したのはそれだけで、それ以上は何も語らなかった。











「司?どうしたの?」

「いや、なんでもない。蓮のウサギはまだ新しいな」

「うん。でも生まれた時からいつも一緒にいて何度も洗濯してるから新品とは違うけどね。
それでもまだ4年なら新しい方かもしれないわね?蓮のウサギに比べたら圭のウサギは少し疲れてるかも。だって一度背中からパンヤ…..ええっと詰め物が覗いちゃって縫ったの。でも圭ったらあたしに見せる前に自分でなんとかしようとしたみたいで、接着剤で無理矢理くっ付けようとしたから布がおかしな方向に引きつってたの。でもそれをなんとか直したけどやっぱり後遺症っていうの?あのウサギの背中は変に硬くなっちゃって接着剤の跡が残ってるの。でもそれはウサギを大切に思う圭の気持だから。あの子が自分のウサギに愛着があった証拠だからあれでいいのよね。それにあの子はあたしに似て物を大切にする子でほんと良かったわ」

妻の言葉には若干の棘が感じられたが、司は無視をした。
そして子供たちは皆それぞれが1匹ずつウサギのぬいぐるみを持っていた。
それは妻が夫の母親に倣い与えたもの。
だが妻が彼の母親のように子供たちを置いて何処かへ出かけるということはなかった。
そしてそれぞれが名前を付け大切にしていたが、長男の圭は、既にぬいぐるみから卒業していて、今は棚に飾られているが、まだ4歳の蓮は広い邸のどこかに置き忘れたのか。ウサギを探して火が付いたように泣いていることがあった。そんな我が子のためウサギにGPS発信機を付けるべきか本気で悩んだことがあったという妻だったが、使用人総出で探せばすぐに見つかることから事なきを得ていたが、どうやら4歳の蓮にとってのウサギは友達とは違う存在らしい。そしてまだ赤ん坊の彩の枕元にあるウサギはヨダレでベトベトにされていた。




幼い子供にとってぬいぐるみとは。
ギュッと抱きしめて可愛がる対象であると同時に友達でもある。
夢の中まで付き合ってくれる大切な友達。だから我が子がぬいぐるみに向かって話かけていることもあった。
特に長男の圭は、今は大きくなりぬいぐるみに興味を示すことは無くなったが、まだ言葉が出なかった頃、ウサギに向かってよく話をしていた。それはもしかすると圭にだけに語りかけてきたウサギの言葉を理解していたのかもしれない。

そして司もぬいぐるみのウサギと会話をした。
だがあれは現実だったのか。それとも夢だったのか。
もし夢だとすれば、とっくに忘れていてもおかしくはないのだが、今でも記憶の片隅にあった。そしてあの時のことを誰かに言えば夢を見たんだと言われたはずだ。
だが現実だったにしろ、夢であったにしろ、清らかな何かが宿ったぬいぐるみは、司のことを本気で心配していた。
そしてあの時ウサギが言った過去も想い出も何も持たない人間はからっぽだの言葉は正しいと思えるようになっていた。過去があるから未来がある。想い出があるから人は生きていけるのだ。



「ねえ司。三人の子供たちには沢山の想い出を作ってあげようね。この子たちが大人になっても思い出してもらえるような楽しい想い出を沢山作ってあげようね。未来も大切だけど大切な想い出があるってことはこの子たちの財産だもの」

「そうだな。人生は後ろへは戻れないんだからな」

「そうよ。だから子供たちの想い出作りは親であるあたしたちの役目でしょ?」

そう言って冷却シートが貼られた蓮の額に触れた手は、クルクルと巻いた髪の毛をそっと撫でた。そして何気なく言われたその言葉は親なら誰もが思うこと。
だがそのことに気付く親ばかりではないことを司は知っている。

「ああ分かってる。俺たちの仕事は子供たちが喜んで振り返れる想い出を作ってやることだ」

司はそう言うと妻の肩に手を回し、部屋を出ようと促した。







過去に戻る道はないが未来へ通じる道はある。
だが想い出があれば、過去の自分に戻ることは出来る。
あの頃の幼かった自分に。
そしてあの経験は、7歳の子供に許された僅かな時間が見せた幻だったとしても、あれは紛れもなく想い出。
そして想い出の向こう側にあるもの。それは未来。
だが毎日は昨日と同じ日が繰り返されるだけのことだとしても、それが幸せだということを今の司は知っている。そして過去の積み重ねの上にあるはずの未来が今以上に幸せであるようにと家族を守るのが司の役目だ。

そして、歴史に『もし(IF)』がないのと同じで人生ですでに起きたことや、済んでしまったことを変えることは出来ない。だが犯してしまった過ちを見つめることで今を変えること。未来を変えることは出来る。それは想い出があるから出来ることであり、それを持ち合わせていない人間に過去を振り返ることは出来ない。
だから司は妻に出会う前の自分を振り返る。あの時こうしていれば、という言葉は使いたくはないが、もし、という言葉で過去に戻れるなら酷い人間になるという司を守ってくれると言ったウサギを手放すことをしなかったはずだ。だが司は妻と出会って変わった。いや。妻が自分を変えてくれたと思っている。


司は静かに子供部屋を出ると妻の手を取った。
そしてふたりは微笑みを交し東の角部屋へと向かっていたが、今はあの時のウサギも夫婦の寝室であるその部屋で、神様から遣わされた想い出を管理するおもちゃとしての役割を終えたとばかり白い身体を休めていた。




< 完 >*想い出の向こう側*

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