こちらのお話は短編ですが、黒い彼がいます。
そういった彼を受け付けない方はお控え下さい。
**********************
「クッ….面白い…..世の中にこんな便利なものがあるとは知らなかった。西田お前は知ってたか?」
「はい。これはどこにでも売っているものですから」
椅子に腰かけた男が手にしているのは筒状のウエットティッシュの容器。
その容器には小さな穴があり、そこからズルズルと引き出すことが出来る紙が濡れた状態で出て来ることが面白いと思った。
そしてこれがこんなにも便利なものだとは知らなかった。何しろ彼はそんなものを手にしたことがなかったからだが、それを引き出すと丁寧に広げてみた。
だが一枚では足りないと感じた。
だから二枚三枚と取り出し重ねた。
すると、これならいいだろうと納得することが出来た。
そして今までに見たいことがないほど表情を崩して笑った。
「そうか。俺が知らなかっただけか?」
「はい。ところで最後まで御覧になられますか?」
「いや。いい。見る必要はない。あとはお前に任せる」
そう言った男は立ち上がった。
誰もが見惚れる冷たい美貌を持ち世間の常識など関係ないと言われる男がいる。
彼の名前は道明寺司。道明寺ホールディングス副社長で道明寺財閥の後継者。
男の深い声質と鋭さを宿す瞳は相手に対し威圧感を与えるが、その瞳に見つめられたい。その瞳に自分の姿を写して欲しいと願う人間は男女問わず大勢いた。
そして彼は多くの人間が注目する存在だが、そこにあるのは憧れではなく畏怖というもの。
何故なら彼は極限に至ったとしても、その表情を変えることがないのではないかと言われるほど感情を表さないからだ。
そして全身から危険な雰囲気を漂わせ、触れれば火傷をすると言われているが、その火に触れてみたいと思う女が多いのもの事実。
だが彼が女を抱くのは男としての生理的欲求を解放するためであり、己の下で女が啼く様子は、薄汚いメス豚の喚き以外の何ものでもなかった。
だからどんなに美しい女が裸で目の前に横たわっていたとしても、身体の一部を与えるだけで唇を合わせることも、身体から流れ出るものをすすることもなかった。
女は醜い。
女は平気で嘘をつく。
下手な芝居をして近づいて来る女たちの目に浮かんでいるのは、愛ではなく己の欲望を満たそうとする浅ましい心。
だから女たちの思惑など嘲笑うにしか値しないものばかりであり、女は低俗な動物と見下し嫌悪する以外なかった。
本当の自分を見てくれる女などこの世の中にはいない。
幼い頃から周りにいたのは、媚びへつらう人間ばかり。
大人も自分と同じ年頃の子供たちも全てが彼の顔色を窺い、彼が望むなら自分の大切なものを差し出すことを躊躇いはしなかった。
それは男の持つ力は強大であり、彼の力には誰も逆らうことは出来ないからだが、もし逆らえば、スイカ割りのスイカのように頭を叩き割られるかもしれない。
何しろかつて人間凶器と言われ、ひと蹴りで完膚なきまでに相手を叩きのめすことが出来る男は、喧嘩相手の少年たちの腕をへし折り、地面に転がって呻く彼らに執拗に暴力を振るい情け容赦がなかった。
そしてそんな時、酷薄の笑みが唇に浮かぶが、それが表情を変えない男に見ることが出来る唯一の笑みだとすれば、彼が外道と呼ばれてもおかしくはないはずだ。
ある日そんな男が欲しくてメープルの彼の部屋で待ち伏せした女がいた。
それはどこかの企業のご令嬢。
自分ならそんな男を落すことが出来る。絶対に落としてみせるといった強気の女だった。
だがその女が部屋から運び出されたとき、右目が塞がるほど腫れあがり、頬骨にはひびが入るという重傷を負っていた。また別の女は左の鼓膜が破れ、歯が折れていたという話しもあった。そして別の女は鼻からポタポタと血をこぼしながら部屋から出て来たという。
嘘とセックスとスキャンダルはタブロイド紙が求める三原則で、その時の様子を撮影しようとしたカメラマンがいたが行方不明だと言われている。
だがそれは道明寺司のことを記事にしようとしたからなのか。
それともまた別な理由からなのか。どちらにしても、その男は禁忌を破った。だから処分されたと囁かれていた。
それに記者やカメラマンとて命は惜しい。好き放題書こうものなら潰されることは分かっている。だから今では誰も彼のことは書かなかった。
女は醜い。
女は平気で嘘をつく。
だから男は恋愛に夢中になる人間をバカにしていた。
そして男にとっての人生は、我が身を振り返ることなどなく、いつ死んで惜しくはなかった。
だがそんな男が恋をした。
特別でも何でもない日に出会ったあの時から心が惹かれ魂が震えた。
目に見えない絆を感じた。そして、気付けば太陽の行方をひまわりが追いかけるように、彼女を追いかけていた。
そうだ。あの日からずっと彼女のことだけを考えていた。

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「クッ….面白い…..世の中にこんな便利なものがあるとは知らなかった。西田お前は知ってたか?」
「はい。これはどこにでも売っているものですから」
椅子に腰かけた男が手にしているのは筒状のウエットティッシュの容器。
その容器には小さな穴があり、そこからズルズルと引き出すことが出来る紙が濡れた状態で出て来ることが面白いと思った。
そしてこれがこんなにも便利なものだとは知らなかった。何しろ彼はそんなものを手にしたことがなかったからだが、それを引き出すと丁寧に広げてみた。
だが一枚では足りないと感じた。
だから二枚三枚と取り出し重ねた。
すると、これならいいだろうと納得することが出来た。
そして今までに見たいことがないほど表情を崩して笑った。
「そうか。俺が知らなかっただけか?」
「はい。ところで最後まで御覧になられますか?」
「いや。いい。見る必要はない。あとはお前に任せる」
そう言った男は立ち上がった。
誰もが見惚れる冷たい美貌を持ち世間の常識など関係ないと言われる男がいる。
彼の名前は道明寺司。道明寺ホールディングス副社長で道明寺財閥の後継者。
男の深い声質と鋭さを宿す瞳は相手に対し威圧感を与えるが、その瞳に見つめられたい。その瞳に自分の姿を写して欲しいと願う人間は男女問わず大勢いた。
そして彼は多くの人間が注目する存在だが、そこにあるのは憧れではなく畏怖というもの。
何故なら彼は極限に至ったとしても、その表情を変えることがないのではないかと言われるほど感情を表さないからだ。
そして全身から危険な雰囲気を漂わせ、触れれば火傷をすると言われているが、その火に触れてみたいと思う女が多いのもの事実。
だが彼が女を抱くのは男としての生理的欲求を解放するためであり、己の下で女が啼く様子は、薄汚いメス豚の喚き以外の何ものでもなかった。
だからどんなに美しい女が裸で目の前に横たわっていたとしても、身体の一部を与えるだけで唇を合わせることも、身体から流れ出るものをすすることもなかった。
女は醜い。
女は平気で嘘をつく。
下手な芝居をして近づいて来る女たちの目に浮かんでいるのは、愛ではなく己の欲望を満たそうとする浅ましい心。
だから女たちの思惑など嘲笑うにしか値しないものばかりであり、女は低俗な動物と見下し嫌悪する以外なかった。
本当の自分を見てくれる女などこの世の中にはいない。
幼い頃から周りにいたのは、媚びへつらう人間ばかり。
大人も自分と同じ年頃の子供たちも全てが彼の顔色を窺い、彼が望むなら自分の大切なものを差し出すことを躊躇いはしなかった。
それは男の持つ力は強大であり、彼の力には誰も逆らうことは出来ないからだが、もし逆らえば、スイカ割りのスイカのように頭を叩き割られるかもしれない。
何しろかつて人間凶器と言われ、ひと蹴りで完膚なきまでに相手を叩きのめすことが出来る男は、喧嘩相手の少年たちの腕をへし折り、地面に転がって呻く彼らに執拗に暴力を振るい情け容赦がなかった。
そしてそんな時、酷薄の笑みが唇に浮かぶが、それが表情を変えない男に見ることが出来る唯一の笑みだとすれば、彼が外道と呼ばれてもおかしくはないはずだ。
ある日そんな男が欲しくてメープルの彼の部屋で待ち伏せした女がいた。
それはどこかの企業のご令嬢。
自分ならそんな男を落すことが出来る。絶対に落としてみせるといった強気の女だった。
だがその女が部屋から運び出されたとき、右目が塞がるほど腫れあがり、頬骨にはひびが入るという重傷を負っていた。また別の女は左の鼓膜が破れ、歯が折れていたという話しもあった。そして別の女は鼻からポタポタと血をこぼしながら部屋から出て来たという。
嘘とセックスとスキャンダルはタブロイド紙が求める三原則で、その時の様子を撮影しようとしたカメラマンがいたが行方不明だと言われている。
だがそれは道明寺司のことを記事にしようとしたからなのか。
それともまた別な理由からなのか。どちらにしても、その男は禁忌を破った。だから処分されたと囁かれていた。
それに記者やカメラマンとて命は惜しい。好き放題書こうものなら潰されることは分かっている。だから今では誰も彼のことは書かなかった。
女は醜い。
女は平気で嘘をつく。
だから男は恋愛に夢中になる人間をバカにしていた。
そして男にとっての人生は、我が身を振り返ることなどなく、いつ死んで惜しくはなかった。
だがそんな男が恋をした。
特別でも何でもない日に出会ったあの時から心が惹かれ魂が震えた。
目に見えない絆を感じた。そして、気付けば太陽の行方をひまわりが追いかけるように、彼女を追いかけていた。
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土砂降りの雨の夜、傘をさした女がアパートへ帰る道を歩いていた。
学校を出た時は、これほど酷い雨ではなかったが今では風も出ていて、傘を差しても横から吹き付けてくる雨は服を濡らし手にした鞄も濡らしていた。
だが自宅まであと少しだ。
いつもなら7時半頃には帰っていたが、今日はテストの採点で遅くなり、時計は9時前を指していた。
そんなこともあり人通りのあるはずの道も人影はなかった。
つくしが英徳学園の数学教師として赴任したのは今年の春。
それまでは都内の別の私立高校に勤務していたが、英徳の数学教師でありつくしの学生時代の先輩である女性が体調を崩し、教師の職を辞することになった。そしてその先輩から英徳で働いてみないかといった声がかかり、彼女からの推薦もあり英徳で働くことになった。
英徳学園と言えば、幼稚舎から大学までエスカレーター式に進んでいける私立の名門。
そしてその学園は、金持ちの親を持つ特権階級の子弟が通う学園として有名であり、入学するにあたり重要視されるのは、子供の成績よりも家柄と親の職業と経済状態と言われていた。だがそんな学園でも頭のいい子もいて、教えがいというものがあった。
かつてつくしは英徳の高等部に通わないかと両親から言われたことがあった。だがやはり英徳というブランドは敷居が高く、都立高校へと進学したが、一度は進学を考えたこともあり全く知らない学園ではなかった。
そして英徳で働くことに決めたには、もう一つ理由があった。
3月まで勤めていた私立高校には別居中で離婚調停中の夫が勤務していたからだ。
約1年の交際を経て結婚し、2年の間夫婦として同じ屋根の下に暮らして来たが、ある日突然愛人がいると言われ離婚して欲しいと言われた。
相手は添乗員。
知り合ったきっかけは修学旅行の添乗を務めたその女性からのアプローチだったという。
だがその女性は夫のことをそれほど好きではなかったのか。遊びだったのか。色々と考えているうちに相手の女性から別に私はあなたのご主人と結婚したい訳ではありません。それに家庭を壊す気なんてありません。面倒な付き合いをしたいとは思いませんと言われ彼女は夫と別れた。
すると夫は、あれは一時の気の迷いだ。間違いだった。もう一度やり直そうと言った。だがつくしにはそのつもりはなかった。思えば結婚してから夫との仲は単なる同居人のような関係で、考えてみれば自分でも何故結婚したのか分からなかった。
だから調停を申し立てた。
夜、女性がひとり歩きするのは危険だと言われおり、もしどうしてもそういった状況になるのなら、携帯電話を片手にすぐに警察に通報出来る態勢で歩くことが犯罪防止に繋がると聞いた。けれど今夜は傘をさしており、もう片方は鞄を持ち塞がっているため携帯を持つことは出来なかった。
やがて曲がり角を曲がった所で目の前が突然明るくなり、思わず目をしばたたき、足を止めた。それは停車していた車のヘッドライトが上向きで照らされ、二つの白い眼玉が真っ直ぐ飛んで来たからだ。そして余りの眩しさに思わず傘を持った手で光りを遮るようにして前を見た。
だが逆光の中、運転席の人間の顔は見えず、低いエンジンの音だけが聞こえた。
そしていったい誰が?といった思いと共に、背中に恐怖が甦った。
それは丁度一週間前。今日よりももっと遅い時間のことだった。
駅から自宅まで、後をつけて来る足音を聞いた。
はじめは気のせいだと思った。駅からアパートまでの道は同じ方向へ帰る人がいてもおかしくはないからだ。だが路面に響く足音は、彼女が走れば同じように走っていた。そして止れば足音も止まる。後ろを忠実についてくる足音に、誰かが背後にいることだけは確実に感じられる。もしかすると夫ではないか。だが調停中に相手に接触することは弁護士から禁止されているはずだ。それなら誰が?だから振り返って見たいといった気になった。けれど、怖くて振り返ることを躊躇った。そして足を早め、アパートに辿り着くと階段を駆け上がり部屋に飛び込んだ。
だが今はあの時とは状況が違う。なぜならアパートは車の向うにあり、その道を通らない限りアパートへ帰ることは出来なかった。
そして道の左右は高い塀に囲まれた家が建ち、通行人は誰もおらず、激しく降る雨はアスファルトの上で跳ねているが、足元を気遣う余裕はなく、一週間前、後ろをついてくる足音に恐怖を感じて以来、今はどうすれば目の前のヘッドライトから逃げることが出来るかを考えた。
だがそのとき逆光の中に人影が見えた。
もちろん顔は分かるはずもなく、その姿に恐怖を感じた。
そして正面から歩いて来るのは傘をさした男性だと分かった。それもかなりの長身であることが分かると足が後ずさりをした。
だが男はヘッドライトの光りを背にどんどん近づいて来る。
次の瞬間、つくしは背を向け走り出そうとしたが、男の手が彼女の腕を掴んだ。

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学校を出た時は、これほど酷い雨ではなかったが今では風も出ていて、傘を差しても横から吹き付けてくる雨は服を濡らし手にした鞄も濡らしていた。
だが自宅まであと少しだ。
いつもなら7時半頃には帰っていたが、今日はテストの採点で遅くなり、時計は9時前を指していた。
そんなこともあり人通りのあるはずの道も人影はなかった。
つくしが英徳学園の数学教師として赴任したのは今年の春。
それまでは都内の別の私立高校に勤務していたが、英徳の数学教師でありつくしの学生時代の先輩である女性が体調を崩し、教師の職を辞することになった。そしてその先輩から英徳で働いてみないかといった声がかかり、彼女からの推薦もあり英徳で働くことになった。
英徳学園と言えば、幼稚舎から大学までエスカレーター式に進んでいける私立の名門。
そしてその学園は、金持ちの親を持つ特権階級の子弟が通う学園として有名であり、入学するにあたり重要視されるのは、子供の成績よりも家柄と親の職業と経済状態と言われていた。だがそんな学園でも頭のいい子もいて、教えがいというものがあった。
かつてつくしは英徳の高等部に通わないかと両親から言われたことがあった。だがやはり英徳というブランドは敷居が高く、都立高校へと進学したが、一度は進学を考えたこともあり全く知らない学園ではなかった。
そして英徳で働くことに決めたには、もう一つ理由があった。
3月まで勤めていた私立高校には別居中で離婚調停中の夫が勤務していたからだ。
約1年の交際を経て結婚し、2年の間夫婦として同じ屋根の下に暮らして来たが、ある日突然愛人がいると言われ離婚して欲しいと言われた。
相手は添乗員。
知り合ったきっかけは修学旅行の添乗を務めたその女性からのアプローチだったという。
だがその女性は夫のことをそれほど好きではなかったのか。遊びだったのか。色々と考えているうちに相手の女性から別に私はあなたのご主人と結婚したい訳ではありません。それに家庭を壊す気なんてありません。面倒な付き合いをしたいとは思いませんと言われ彼女は夫と別れた。
すると夫は、あれは一時の気の迷いだ。間違いだった。もう一度やり直そうと言った。だがつくしにはそのつもりはなかった。思えば結婚してから夫との仲は単なる同居人のような関係で、考えてみれば自分でも何故結婚したのか分からなかった。
だから調停を申し立てた。
夜、女性がひとり歩きするのは危険だと言われおり、もしどうしてもそういった状況になるのなら、携帯電話を片手にすぐに警察に通報出来る態勢で歩くことが犯罪防止に繋がると聞いた。けれど今夜は傘をさしており、もう片方は鞄を持ち塞がっているため携帯を持つことは出来なかった。
やがて曲がり角を曲がった所で目の前が突然明るくなり、思わず目をしばたたき、足を止めた。それは停車していた車のヘッドライトが上向きで照らされ、二つの白い眼玉が真っ直ぐ飛んで来たからだ。そして余りの眩しさに思わず傘を持った手で光りを遮るようにして前を見た。
だが逆光の中、運転席の人間の顔は見えず、低いエンジンの音だけが聞こえた。
そしていったい誰が?といった思いと共に、背中に恐怖が甦った。
それは丁度一週間前。今日よりももっと遅い時間のことだった。
駅から自宅まで、後をつけて来る足音を聞いた。
はじめは気のせいだと思った。駅からアパートまでの道は同じ方向へ帰る人がいてもおかしくはないからだ。だが路面に響く足音は、彼女が走れば同じように走っていた。そして止れば足音も止まる。後ろを忠実についてくる足音に、誰かが背後にいることだけは確実に感じられる。もしかすると夫ではないか。だが調停中に相手に接触することは弁護士から禁止されているはずだ。それなら誰が?だから振り返って見たいといった気になった。けれど、怖くて振り返ることを躊躇った。そして足を早め、アパートに辿り着くと階段を駆け上がり部屋に飛び込んだ。
だが今はあの時とは状況が違う。なぜならアパートは車の向うにあり、その道を通らない限りアパートへ帰ることは出来なかった。
そして道の左右は高い塀に囲まれた家が建ち、通行人は誰もおらず、激しく降る雨はアスファルトの上で跳ねているが、足元を気遣う余裕はなく、一週間前、後ろをついてくる足音に恐怖を感じて以来、今はどうすれば目の前のヘッドライトから逃げることが出来るかを考えた。
だがそのとき逆光の中に人影が見えた。
もちろん顔は分かるはずもなく、その姿に恐怖を感じた。
そして正面から歩いて来るのは傘をさした男性だと分かった。それもかなりの長身であることが分かると足が後ずさりをした。
だが男はヘッドライトの光りを背にどんどん近づいて来る。
次の瞬間、つくしは背を向け走り出そうとしたが、男の手が彼女の腕を掴んだ。

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「牧野さん」
「ど、道明寺さん?ああびっくりした。どうしたんですか?」
「驚かせて申し訳ない。これを届けに来たんです」
と言って男はつくしの腕を離すと傘を持つ手に握り締めていた物を見せた。
「あ…」
「これはあなたのですよね?ほらあなたの名前が書かれている」
それは、小さなネームプレートに「マキノ」と書かれたアパートから駅までの通勤に使うために買った自転車の鍵。
どこで無くしたのか分からなかった。だから自転車は駅の駐輪場に置かれたままになっているが、鍵を届けに来てくれたのは、英徳出身で学園に強い影響力を持つ道明寺財閥の後継者、道明寺司だ。
「お困りですよね?もっと早くお渡ししようと思ったんですが、今日になってしまい申し訳ない」
そう言われたつくしは、礼を言って暫く握られていたことで熱を持った鍵を受け取った。
つくしが道明寺司と出会ったのは、ある画家の展覧会でのこと。
好きな画家が個展を開くというので脚を運んだが、その場所で道明寺司に出会った。
出会ったというよりも、ぶつかったという方が正しいはずだ。
そしてそのとき手にしていた鞄が床に落ち中身が散らばったが、その中に英徳学園の教師である身分証明書があった。
そしてそれを拾い上げた男は、自分は英徳の卒業生であると言い、つくしが英徳学園の教師をしていることに偶然ですねと言った。それが二人の出会いだったが、それ以来男は学園を訪れるたび、つくしと言葉を交わすようになった。
とは言えそれは挨拶程度のものだ。
そして今日は学園で理事会があったが、新校舎建設に莫大な金額を寄付した道明寺司が外部理事に就任したのはつい最近だと訊いた。そして今日の理事会に出席するためか。廊下で大勢の取り巻きに囲まれた男を見かけ会釈をしたが言葉を交わすことはなかった。
「牧野さん。気をつけて下さい。こんな雨の中、それもこんな暗がりを歩いて帰れば襲ってくれと言っているようなものです。それに最近この近くで事件があったと訊きました」
それはつくしの住むアパートの近くの空き倉庫で男性の遺体が見つかったという話。
その男性はフリーランスのカメラマンで、何らかのスクープ記事を狙っていたと言われていたが、なぜ何もない倉庫の中で倒れていたのか。外傷は見当たらず、体内から何かが検出されたという話も訊かなかった。それなら自然死ということになるが死亡原因が何であるか。発表されていたとしても、つくしはそこまで気にしていなかった。
「牧野さん。それはそうとお食事はお済ですか?もしそうでなければこれから簡単な食事でもいかがですか?」
「えっ?ええ…でも…..」
「何かご心配ごとでも?もしかしてご主人のことですか?それに学園内で何か困ったことはありませんか?今日は理事会に参加した後であなたとお話し出来ることを楽しみにしていましたが会えなくて非常に残念に思っていたところです。でもこうしてあなたに会うことが出来て嬉しいです」
つくしは、これまでも何度か食事に誘われたことがあった。
だが結婚しています。牧野と名乗っていますがこれは旧姓です。今の名前は川上と言いますが実は離婚調停中なんです。だから男性とふたりで食事に行くことは出来ませんともっともな理由をつけて断っていた。
そして言葉に詰まるのは、時間が遅いこともだが、相手の圧倒的な存在感がそうさせた。
それに学園に大きな影響力を持つ男性と食事をすることに躊躇いがあった。
私学は理事の考えが反映される。だから道明寺司と食事をすることで仕事に影響が出るのではないか。そんな思いがあった。
だが彼は離婚の調停については気にする必要ありません。
私が出来ることなら力をお貸ししましょう。いい弁護士を紹介しましょう。うちの顧問弁護士のひとりですから費用の心配はありませんと言われたが断った。
学園に影響力を持つ人物は、多方面に顔が利くことは知っているが、個人的な問題でありケジメは自分自身でつけるつもりでいた。
そしてつくしが黙っていると、「雨が酷くなりましたね」と言い再び「いかがですか?牧野さん。食事に行きませんか?お昼から何も食べてないとすれば身体に悪いですよ」と言って彼女をじっと見つめていたが、その瞳に捉えられたような感覚に陥った女は思わず「はい」と返事をしていた。

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「ど、道明寺さん?ああびっくりした。どうしたんですか?」
「驚かせて申し訳ない。これを届けに来たんです」
と言って男はつくしの腕を離すと傘を持つ手に握り締めていた物を見せた。
「あ…」
「これはあなたのですよね?ほらあなたの名前が書かれている」
それは、小さなネームプレートに「マキノ」と書かれたアパートから駅までの通勤に使うために買った自転車の鍵。
どこで無くしたのか分からなかった。だから自転車は駅の駐輪場に置かれたままになっているが、鍵を届けに来てくれたのは、英徳出身で学園に強い影響力を持つ道明寺財閥の後継者、道明寺司だ。
「お困りですよね?もっと早くお渡ししようと思ったんですが、今日になってしまい申し訳ない」
そう言われたつくしは、礼を言って暫く握られていたことで熱を持った鍵を受け取った。
つくしが道明寺司と出会ったのは、ある画家の展覧会でのこと。
好きな画家が個展を開くというので脚を運んだが、その場所で道明寺司に出会った。
出会ったというよりも、ぶつかったという方が正しいはずだ。
そしてそのとき手にしていた鞄が床に落ち中身が散らばったが、その中に英徳学園の教師である身分証明書があった。
そしてそれを拾い上げた男は、自分は英徳の卒業生であると言い、つくしが英徳学園の教師をしていることに偶然ですねと言った。それが二人の出会いだったが、それ以来男は学園を訪れるたび、つくしと言葉を交わすようになった。
とは言えそれは挨拶程度のものだ。
そして今日は学園で理事会があったが、新校舎建設に莫大な金額を寄付した道明寺司が外部理事に就任したのはつい最近だと訊いた。そして今日の理事会に出席するためか。廊下で大勢の取り巻きに囲まれた男を見かけ会釈をしたが言葉を交わすことはなかった。
「牧野さん。気をつけて下さい。こんな雨の中、それもこんな暗がりを歩いて帰れば襲ってくれと言っているようなものです。それに最近この近くで事件があったと訊きました」
それはつくしの住むアパートの近くの空き倉庫で男性の遺体が見つかったという話。
その男性はフリーランスのカメラマンで、何らかのスクープ記事を狙っていたと言われていたが、なぜ何もない倉庫の中で倒れていたのか。外傷は見当たらず、体内から何かが検出されたという話も訊かなかった。それなら自然死ということになるが死亡原因が何であるか。発表されていたとしても、つくしはそこまで気にしていなかった。
「牧野さん。それはそうとお食事はお済ですか?もしそうでなければこれから簡単な食事でもいかがですか?」
「えっ?ええ…でも…..」
「何かご心配ごとでも?もしかしてご主人のことですか?それに学園内で何か困ったことはありませんか?今日は理事会に参加した後であなたとお話し出来ることを楽しみにしていましたが会えなくて非常に残念に思っていたところです。でもこうしてあなたに会うことが出来て嬉しいです」
つくしは、これまでも何度か食事に誘われたことがあった。
だが結婚しています。牧野と名乗っていますがこれは旧姓です。今の名前は川上と言いますが実は離婚調停中なんです。だから男性とふたりで食事に行くことは出来ませんともっともな理由をつけて断っていた。
そして言葉に詰まるのは、時間が遅いこともだが、相手の圧倒的な存在感がそうさせた。
それに学園に大きな影響力を持つ男性と食事をすることに躊躇いがあった。
私学は理事の考えが反映される。だから道明寺司と食事をすることで仕事に影響が出るのではないか。そんな思いがあった。
だが彼は離婚の調停については気にする必要ありません。
私が出来ることなら力をお貸ししましょう。いい弁護士を紹介しましょう。うちの顧問弁護士のひとりですから費用の心配はありませんと言われたが断った。
学園に影響力を持つ人物は、多方面に顔が利くことは知っているが、個人的な問題でありケジメは自分自身でつけるつもりでいた。
そしてつくしが黙っていると、「雨が酷くなりましたね」と言い再び「いかがですか?牧野さん。食事に行きませんか?お昼から何も食べてないとすれば身体に悪いですよ」と言って彼女をじっと見つめていたが、その瞳に捉えられたような感覚に陥った女は思わず「はい」と返事をしていた。

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時刻は真夜中で最上階のフロアに残っている人間は秘書以外いなかった。
司はあれから何度か彼女を食事に誘ったが、あの日以来断られ続けていた。
そして離婚が成立していない女が夫以外の男性と出歩くことが良いとは思えない。こういったことは控えたいと言われた。
「何故です?私たちは食事をするだけで男女の仲ではない。何も気にすることはないはずだ」
「ええ…..でも….」
司が好きになった女性は離婚調停中であり彼女の意思を尊重すれば、会えるのは学園を訪れた時しかなかった。
だからその時間を大切にしていた。
彼女といると陽の光りの温かさを感じ、今まで気付かなかったが、心の奥底にあった名もなき花が柔らかな日差しを浴びるとゆっくりと開くように、彼女を見つめれば優しい気持ちになれた。彼女といることで温もりを感じていた。今まで誰にも見せたことがない表情になるのは彼女の前だけだ。そして出会えたことを感謝していた。
そして司には彼女の考えていることが手に取るように分かった。
それは離婚が成立していない女が夫以外の男と出歩くことがモラルに反する。罪悪感があることもそうだが、それと同時に教育者として示しがつかない。既婚女性が独身の男とふたりだけで会うことは、あるまじき行為だと思っていること。そして学園関係者にどう思われるかを心配しているということを。
だが道明寺という名前と莫大な寄付をする外部理事の立場は学園にとって絶対的な力を持ち、司が牧野つくしのことを気にかけている以上彼女のことが誰かの口に上ることはないはずだ。それにもし仮に品のない言葉をかける人間がいれば、その人間は職を失うことになることを彼らは知っている。
「牧野さん。私は私たちの間に何かあるとすれば、それはあなたが自由になった時だと考えていますよ。私はあなたのような女性に会ったことがありません。あなたは自分を飾り立てる人ではない。とても自然だ。それにあなたは誰かに迷惑をかけたり困らせたりすることは嫌いな人だ。違いますか?そんなあなたに私は迷惑をかけたいとは思いません。
むしろ守ってあげたいと思っています。だからあなたが自由になるまで待ちます。そしてあなたの心が私に向いてくれるのを待つつもりです。それに分かっているつもりです。私が傍若無人な振る舞いをすれば良くない結果になるはずだと」
司はあなたのことが好きになったと自分の思いを伝えていた。
そして彼女の司に対する態度は好意的だと思え、彼の言葉に小さく頷いたように思えたのは気のせいではないはずだ。
それに司は女から拒まれたことがなかった。
やんわりとだが断りの言葉を告げられたのは初めての経験だ。
だがそのことが、彼女が軽い女ではないことを表していた。
そして彼女が感情を内に秘めるタイプの人間であることを知った。
だから本当は司と一緒にいたいはずだが、自分の気持を告げることが出来ないのだ。
そして司には分っていた。彼女が彼のものだと。やっと見つけたと思った。目に見えない絆が二人の間にある。彼女こそ魂の伴侶で彼女こそ運命であり自分は彼女を待っていた。
だからどんな女が彼の前にいても心を動かされることはなかったのだ。
会うと心が安らぐのは、時がふたりを巡り逢わせたからだと感じていた。孤独だった幾千もの夜は過ぎ、世界は彼女の中にあって、その手が司を幸せへと導いてくれる。心の暗がりを照らしたのは、彼女の微笑みであり、彼女だけが飢えた男の心を満たす。
だから彼女が欲しかった。
たとえ何万人の女と出会おうと、司が欲しいのは彼女だけ。
世界の全てを手にすることが出来る男が欲しいのは魂が望む女。
そして自分の身の内に溢れんばかりの人を愛するという感情というものがあることを知った。と、同時にその時初めて愛に飢えていたことを知った。それははち切れんばかりの思い。
だから恋人になって優しいキスをしたい。
そして触れたい。触れて欲しい。
触れられることで歓びを感じたい。
そうだ。誰とも感じたことがない歓びを彼女と感じたい。
望むものはすべてこの腕に抱きしめたい。
今はまだ閉ざされている扉をひとつひとつ開いて彼女の心の奥深くに入り込みたい。
だが離婚届けに判を押さない夫がいることが彼女の心の重荷になっている。
つまり夫の存在が二人の関係を前に進める妨げになっているのだ。司を受け入れてもらえないのは、今はただ法律で繋がれた関係の男がいるからだ。
司は執務デスクの上の電話を取った。
「俺だ」
2コールで出た相手は司を待たせることはない。
だが司は椅子に背をもたせかけたまま沈黙していた。

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司はあれから何度か彼女を食事に誘ったが、あの日以来断られ続けていた。
そして離婚が成立していない女が夫以外の男性と出歩くことが良いとは思えない。こういったことは控えたいと言われた。
「何故です?私たちは食事をするだけで男女の仲ではない。何も気にすることはないはずだ」
「ええ…..でも….」
司が好きになった女性は離婚調停中であり彼女の意思を尊重すれば、会えるのは学園を訪れた時しかなかった。
だからその時間を大切にしていた。
彼女といると陽の光りの温かさを感じ、今まで気付かなかったが、心の奥底にあった名もなき花が柔らかな日差しを浴びるとゆっくりと開くように、彼女を見つめれば優しい気持ちになれた。彼女といることで温もりを感じていた。今まで誰にも見せたことがない表情になるのは彼女の前だけだ。そして出会えたことを感謝していた。
そして司には彼女の考えていることが手に取るように分かった。
それは離婚が成立していない女が夫以外の男と出歩くことがモラルに反する。罪悪感があることもそうだが、それと同時に教育者として示しがつかない。既婚女性が独身の男とふたりだけで会うことは、あるまじき行為だと思っていること。そして学園関係者にどう思われるかを心配しているということを。
だが道明寺という名前と莫大な寄付をする外部理事の立場は学園にとって絶対的な力を持ち、司が牧野つくしのことを気にかけている以上彼女のことが誰かの口に上ることはないはずだ。それにもし仮に品のない言葉をかける人間がいれば、その人間は職を失うことになることを彼らは知っている。
「牧野さん。私は私たちの間に何かあるとすれば、それはあなたが自由になった時だと考えていますよ。私はあなたのような女性に会ったことがありません。あなたは自分を飾り立てる人ではない。とても自然だ。それにあなたは誰かに迷惑をかけたり困らせたりすることは嫌いな人だ。違いますか?そんなあなたに私は迷惑をかけたいとは思いません。
むしろ守ってあげたいと思っています。だからあなたが自由になるまで待ちます。そしてあなたの心が私に向いてくれるのを待つつもりです。それに分かっているつもりです。私が傍若無人な振る舞いをすれば良くない結果になるはずだと」
司はあなたのことが好きになったと自分の思いを伝えていた。
そして彼女の司に対する態度は好意的だと思え、彼の言葉に小さく頷いたように思えたのは気のせいではないはずだ。
それに司は女から拒まれたことがなかった。
やんわりとだが断りの言葉を告げられたのは初めての経験だ。
だがそのことが、彼女が軽い女ではないことを表していた。
そして彼女が感情を内に秘めるタイプの人間であることを知った。
だから本当は司と一緒にいたいはずだが、自分の気持を告げることが出来ないのだ。
そして司には分っていた。彼女が彼のものだと。やっと見つけたと思った。目に見えない絆が二人の間にある。彼女こそ魂の伴侶で彼女こそ運命であり自分は彼女を待っていた。
だからどんな女が彼の前にいても心を動かされることはなかったのだ。
会うと心が安らぐのは、時がふたりを巡り逢わせたからだと感じていた。孤独だった幾千もの夜は過ぎ、世界は彼女の中にあって、その手が司を幸せへと導いてくれる。心の暗がりを照らしたのは、彼女の微笑みであり、彼女だけが飢えた男の心を満たす。
だから彼女が欲しかった。
たとえ何万人の女と出会おうと、司が欲しいのは彼女だけ。
世界の全てを手にすることが出来る男が欲しいのは魂が望む女。
そして自分の身の内に溢れんばかりの人を愛するという感情というものがあることを知った。と、同時にその時初めて愛に飢えていたことを知った。それははち切れんばかりの思い。
だから恋人になって優しいキスをしたい。
そして触れたい。触れて欲しい。
触れられることで歓びを感じたい。
そうだ。誰とも感じたことがない歓びを彼女と感じたい。
望むものはすべてこの腕に抱きしめたい。
今はまだ閉ざされている扉をひとつひとつ開いて彼女の心の奥深くに入り込みたい。
だが離婚届けに判を押さない夫がいることが彼女の心の重荷になっている。
つまり夫の存在が二人の関係を前に進める妨げになっているのだ。司を受け入れてもらえないのは、今はただ法律で繋がれた関係の男がいるからだ。
司は執務デスクの上の電話を取った。
「俺だ」
2コールで出た相手は司を待たせることはない。
だが司は椅子に背をもたせかけたまま沈黙していた。

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牧野つくしの夫が交通事故を起こし財閥系列の病院に運び込まれた。
その連絡があったのは、彼女からだったが短い沈黙の後、語られたのは夫は重傷だが生命には別状がないということだった。
だが暫く集中治療室へ入った後、一般病棟に移ったが、身体の様々な機能が失われ、四肢が動かない。言葉を発することが出来ない状態になっていた。
すると彼女は別れを決めた離婚調停中の男とはいえ、未だ夫という立場にある男の世話をし始めた。
それは愛してはいなくても、この状況で離婚をする。身体が不自由になった男を見捨てることが彼女には出来ないことだと分かっていても、不条理を感じていた。だが自分のことより先に人のことを考える。それが彼女の性格だから仕方がなかった。
だがそうそうなると、今まで学園で会えていた時間さえも病院に行くことで会いえなくなった。
それでも司は学園を訪ねると気遣う言葉をかけた。そして離婚調停中のあなたが彼の世話をする必要なないはずだと言った。
だが夫には近しい身内はいない。法律上の家族は自分だけだと言った。だから慈愛の精神といったものがそうさせていると感じていた。
だがそれでも彼女が自分の時間を、生活を、自分を裏切った男に差し出す必要はないはずだ。
そしてそこに浮かび上がるのは、身動きが出来ない男の身体をまるで壊れ物を扱うように丁寧に触れる姿。司がまだ触れたことがない柔らかな手が男の身体に優しく触れている姿。
だが仕方がないのだ。彼が好きになった女性はまだ彼のものではなく、ベッドの上で身動きが取れない男のものなのだから。
そしてその意味は、少しずつだが近づいてきた二人の距離が再び離れていくということ。
彼女が司の前から遠ざかっていくということだ。
だがこの状況は彼女の意思ではないはずだ。
そうだ。それにこの状況が彼女にとっていいはずがない。愛してもいない男の傍に縛られることは彼女の為にはならないはずだ。そして彼女を縛り付けようとする男が憎かった。
「道明寺さん。あの、このようなお部屋を用意して頂いてよろしいのでしょうか?」
司は病院を訪れ夫に付き添うため学園を休んでいた彼女に会った。
そして夫の病室を一般病棟から特別室へと変えさせたが、そこは廊下に子供の泣き声が響くこともなければ、看護師が笑う声が聞こえることもない場所であり、財力がある人間が使うに相応しい特別室の中でも一番いい部屋。
遠慮がちで申し訳なさそうに話す彼女に言ったのは、司が外部理事を務める学園に勤務する教師の家族だからこの待遇は当然だと言った。そしてここは、完全看護であり家族の手を煩わすことは一切ないと告げた。
「ええ構いません。それにここはずっと付き添っている必要はありません。あなたは疲れているはずだ。少しお休みになられた方がいい。学校と病院の往復ではあなたの身体が心配だ」
「すみません。色々とお心遣いを頂いてありがとうございます」
消え入りそうな声で答えると、薬で眠っている夫に視線を向けた。
そして司は彼女の別れるはずだった夫の顔を初めて見たが、すでに2ヶ月近く入院している男の頬はやつれ顔色は青白かった。だがそれよりも彼女の翳りのある顏が気になっていた。疲れている。そう感じていた。
「それにしてもご主人のことは大変でしたね。私に出来ることならどんなことでも言って下さい。私はあなたを大切に思っています。それにあなたがご主人と別れることを止めたとしても、私はあなたの傍にずっといるつもりです。あなたを支えていきたいと思っている。いえ。思っているではありません。私にあなたを支えさせて下さい。それに症状が固定したらリハビリを始めればいい。そうすれば状況も変わるはずです」
司は彼女を励まし、ベッドに横たわっている男に対しての憎悪は髪の毛一本にさえ表さなかった。
「牧野さん。今日はもうお帰りになられた方がいい。私の車で送って行きます。もしご主人に何かあればすぐに連絡があります。それに特別室の夜間の態勢は万全です。何しろ専属体制です。それに今夜は他の部屋に患者はいません。看護師長も夜勤に入ります。うちの看護師長は優秀です。もちろん当直医も優秀です。ですから安心して下さい」
司はそう言って牧野つくしを自宅アパートまで送っていった。
そして再び病院まで戻ると特別室の扉を開け、薄闇に目を凝らし、夫が事故にあったと彼女から連絡を受け、電話を切ると秘書と交わした会話を思い出していた。
「失敗した。川上陽介の命は助かった」
「ミスをしたということでしょうか?」
「ああ。どうやらそうだ」
司は牧野つくしの夫である川上陽介のことを調べ、男が週末になると山梨へ向かうことを知った。
それは釣りをするためだが、中央道を西に走っているところでハンドル操作を誤り中央分離帯に激突した。
だが、その事故はただの運転ミスではない。実は男の車には細工がしてあった。
自動車はもはや家電だと言われる昨今。
電子制御システムになった車は脆弱性がみられる。つまりその道のプロがソフトに細工をすれば、外部から操作することが出来る。運転を乗っ取ることが出来る。川上陽介の車は、ハンドルが固まり動かなくなる細工がされていた。
そして高架橋を走る車は、中央分離帯ではなく、反対側から谷底へ落ちるはずだった。
だがどうやら細工にミスがあったようだ。
「そうですか。これでは牧野様はご主人とは離婚が出来ませんね。あの方は真面目で責任感の強い方ですから」
そう言われた司は彼女の性格は分かっていたから、秘書の言葉を否定できなかった。
それに確実性を求めなかった自分が悪かったのだ。
だからこうしたことは自分の手で行うに限るのだ。どうしても成し遂げたいことがあるなら自分の手ですることが確実だ。
それに永遠に一緒にいたい人のためにすべき事は決まっていた。
神が司に示した方向はただひとつなのだから。
司は薬で眠っている男の傍へ立った。
そして枕元に置かれていた筒形の容器を手に取り蓋を開けた。そこからズルズルと濡れた紙を引き出し丁寧に広げた。一枚、二枚。そして三枚と取り出し重ねた。そして更にもう一枚取り出すとその上に重ね、それを男の顔の上にべたりと張り付けた。
しっかりと濡れたウエットティッシュが何枚も重ねられ、鼻と口を塞がれたとき、息を吸おうとするほど顏に張り付き息が出来なくなる。そして川上陽介は四肢が動かないことから顏の上に乗せられたものを取ることは出来ないが顏を左右に動かすことは出来る。だから司は目覚めた男の顎を掴むと動かないように抑えた。
そして声を出す事は出来ないが呻き声が聞え、なんとか息をしようとしている様子が微かな紙の動きから感じられたが、べったりと張り付いた白い紙に覆われた顔の表情を見ることはない。やがて暫くすると呻くような声は聞こえなくなった。
そして掴んでいた顎の力が緩んだのが感じられた。
2か月後。納骨を終えた女性に司は優しく声を掛けた。
「風が冷たくなった。早く車に戻ろう。足元に気を付けて」
司は彼女の背中に手を添え、身体を気遣う言葉を掛けながら、胸の奥では別のことを考えていた。それは、ずっと待っていた女性を手に入れ、彼女の身体も心も声も全てが司のものになること。
「何不自由させない。あなたのことは私が守るから」
司は車に乗り込むと彼女の頬に手を添えたが睫毛が震えているのが分かった。
だが今まで積み重ねて来たさり気ない日常と、なに気ない会話は彼女の心を掴んだはずだ。
そして雪の白さに負けない肌を持つ女の頬が赤く染まるのは心を許した印。
司は顔を傾け唇に唇を重ねていた。
< 完 > *凶暴な純愛*

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その連絡があったのは、彼女からだったが短い沈黙の後、語られたのは夫は重傷だが生命には別状がないということだった。
だが暫く集中治療室へ入った後、一般病棟に移ったが、身体の様々な機能が失われ、四肢が動かない。言葉を発することが出来ない状態になっていた。
すると彼女は別れを決めた離婚調停中の男とはいえ、未だ夫という立場にある男の世話をし始めた。
それは愛してはいなくても、この状況で離婚をする。身体が不自由になった男を見捨てることが彼女には出来ないことだと分かっていても、不条理を感じていた。だが自分のことより先に人のことを考える。それが彼女の性格だから仕方がなかった。
だがそうそうなると、今まで学園で会えていた時間さえも病院に行くことで会いえなくなった。
それでも司は学園を訪ねると気遣う言葉をかけた。そして離婚調停中のあなたが彼の世話をする必要なないはずだと言った。
だが夫には近しい身内はいない。法律上の家族は自分だけだと言った。だから慈愛の精神といったものがそうさせていると感じていた。
だがそれでも彼女が自分の時間を、生活を、自分を裏切った男に差し出す必要はないはずだ。
そしてそこに浮かび上がるのは、身動きが出来ない男の身体をまるで壊れ物を扱うように丁寧に触れる姿。司がまだ触れたことがない柔らかな手が男の身体に優しく触れている姿。
だが仕方がないのだ。彼が好きになった女性はまだ彼のものではなく、ベッドの上で身動きが取れない男のものなのだから。
そしてその意味は、少しずつだが近づいてきた二人の距離が再び離れていくということ。
彼女が司の前から遠ざかっていくということだ。
だがこの状況は彼女の意思ではないはずだ。
そうだ。それにこの状況が彼女にとっていいはずがない。愛してもいない男の傍に縛られることは彼女の為にはならないはずだ。そして彼女を縛り付けようとする男が憎かった。
「道明寺さん。あの、このようなお部屋を用意して頂いてよろしいのでしょうか?」
司は病院を訪れ夫に付き添うため学園を休んでいた彼女に会った。
そして夫の病室を一般病棟から特別室へと変えさせたが、そこは廊下に子供の泣き声が響くこともなければ、看護師が笑う声が聞こえることもない場所であり、財力がある人間が使うに相応しい特別室の中でも一番いい部屋。
遠慮がちで申し訳なさそうに話す彼女に言ったのは、司が外部理事を務める学園に勤務する教師の家族だからこの待遇は当然だと言った。そしてここは、完全看護であり家族の手を煩わすことは一切ないと告げた。
「ええ構いません。それにここはずっと付き添っている必要はありません。あなたは疲れているはずだ。少しお休みになられた方がいい。学校と病院の往復ではあなたの身体が心配だ」
「すみません。色々とお心遣いを頂いてありがとうございます」
消え入りそうな声で答えると、薬で眠っている夫に視線を向けた。
そして司は彼女の別れるはずだった夫の顔を初めて見たが、すでに2ヶ月近く入院している男の頬はやつれ顔色は青白かった。だがそれよりも彼女の翳りのある顏が気になっていた。疲れている。そう感じていた。
「それにしてもご主人のことは大変でしたね。私に出来ることならどんなことでも言って下さい。私はあなたを大切に思っています。それにあなたがご主人と別れることを止めたとしても、私はあなたの傍にずっといるつもりです。あなたを支えていきたいと思っている。いえ。思っているではありません。私にあなたを支えさせて下さい。それに症状が固定したらリハビリを始めればいい。そうすれば状況も変わるはずです」
司は彼女を励まし、ベッドに横たわっている男に対しての憎悪は髪の毛一本にさえ表さなかった。
「牧野さん。今日はもうお帰りになられた方がいい。私の車で送って行きます。もしご主人に何かあればすぐに連絡があります。それに特別室の夜間の態勢は万全です。何しろ専属体制です。それに今夜は他の部屋に患者はいません。看護師長も夜勤に入ります。うちの看護師長は優秀です。もちろん当直医も優秀です。ですから安心して下さい」
司はそう言って牧野つくしを自宅アパートまで送っていった。
そして再び病院まで戻ると特別室の扉を開け、薄闇に目を凝らし、夫が事故にあったと彼女から連絡を受け、電話を切ると秘書と交わした会話を思い出していた。
「失敗した。川上陽介の命は助かった」
「ミスをしたということでしょうか?」
「ああ。どうやらそうだ」
司は牧野つくしの夫である川上陽介のことを調べ、男が週末になると山梨へ向かうことを知った。
それは釣りをするためだが、中央道を西に走っているところでハンドル操作を誤り中央分離帯に激突した。
だが、その事故はただの運転ミスではない。実は男の車には細工がしてあった。
自動車はもはや家電だと言われる昨今。
電子制御システムになった車は脆弱性がみられる。つまりその道のプロがソフトに細工をすれば、外部から操作することが出来る。運転を乗っ取ることが出来る。川上陽介の車は、ハンドルが固まり動かなくなる細工がされていた。
そして高架橋を走る車は、中央分離帯ではなく、反対側から谷底へ落ちるはずだった。
だがどうやら細工にミスがあったようだ。
「そうですか。これでは牧野様はご主人とは離婚が出来ませんね。あの方は真面目で責任感の強い方ですから」
そう言われた司は彼女の性格は分かっていたから、秘書の言葉を否定できなかった。
それに確実性を求めなかった自分が悪かったのだ。
だからこうしたことは自分の手で行うに限るのだ。どうしても成し遂げたいことがあるなら自分の手ですることが確実だ。
それに永遠に一緒にいたい人のためにすべき事は決まっていた。
神が司に示した方向はただひとつなのだから。
司は薬で眠っている男の傍へ立った。
そして枕元に置かれていた筒形の容器を手に取り蓋を開けた。そこからズルズルと濡れた紙を引き出し丁寧に広げた。一枚、二枚。そして三枚と取り出し重ねた。そして更にもう一枚取り出すとその上に重ね、それを男の顔の上にべたりと張り付けた。
しっかりと濡れたウエットティッシュが何枚も重ねられ、鼻と口を塞がれたとき、息を吸おうとするほど顏に張り付き息が出来なくなる。そして川上陽介は四肢が動かないことから顏の上に乗せられたものを取ることは出来ないが顏を左右に動かすことは出来る。だから司は目覚めた男の顎を掴むと動かないように抑えた。
そして声を出す事は出来ないが呻き声が聞え、なんとか息をしようとしている様子が微かな紙の動きから感じられたが、べったりと張り付いた白い紙に覆われた顔の表情を見ることはない。やがて暫くすると呻くような声は聞こえなくなった。
そして掴んでいた顎の力が緩んだのが感じられた。
2か月後。納骨を終えた女性に司は優しく声を掛けた。
「風が冷たくなった。早く車に戻ろう。足元に気を付けて」
司は彼女の背中に手を添え、身体を気遣う言葉を掛けながら、胸の奥では別のことを考えていた。それは、ずっと待っていた女性を手に入れ、彼女の身体も心も声も全てが司のものになること。
「何不自由させない。あなたのことは私が守るから」
司は車に乗り込むと彼女の頬に手を添えたが睫毛が震えているのが分かった。
だが今まで積み重ねて来たさり気ない日常と、なに気ない会話は彼女の心を掴んだはずだ。
そして雪の白さに負けない肌を持つ女の頬が赤く染まるのは心を許した印。
司は顔を傾け唇に唇を重ねていた。
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