愛の才能は人一倍あると自負する男は、いつ鍛えているのかいい身体をしている。
そして裸にネクタイが似合うと言われる男は、社員たちの前に立つ時は当然スーツだが、見ている女性社員たちからすれば、脱がないストリップダンサーのように見えて仕方がない。
なぜなら、その立ち姿だけでセクシーだと言われるからだ。
そして彼女たちは想像する。
セクシーな支社長がスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、シャツを脱ぎ捨て黒のブリーフではなく、Gストリング、いわゆる「ひもパン」と言われる卑猥な下着姿のストリップダンサーになって自分だけのためにセクシーなダンスを踊ってくれることを。
一輪の真っ赤なバラを差し出してくれることを。
そしてそのバラの花びらを裸になった自分の身体の上に散らしてくれるのを。
だがそれは女性社員たちの妄想であり司の妄想ではない。
だがセクシーという言葉は、まさに司のために用意された言葉だが、そんな男はどこまでも果てしなく妄想の世界に堕落していきたいと考えている。
しかし普段その世界は司の心の中の奥深くに仕舞われた箱の中にだけ収められているのだが、時々その思いが表に溢れ出てしまうことがある。そして運が悪いことに、そういった時に限って西田がそこにいる。ついこの前は、西田の手を握ってしまうという考えられない失態を犯してしまった。だがまだ唇でなかっただけよしとしよう。
もしその手を引き寄せていたらと思うとゾッとした。
ところで司の好きな食べ物のひとつにお好み焼きがある。
お好み焼きにも種類があると知ったのは、ここ数年の話。
関西風、広島風と色々とあるらしいが、司の知るお好み焼きとは、いわゆる混ぜ焼きと言われるもので、生地となる小麦粉を溶いたものにみじん切りにしたキャベツを混ぜ、豚肉やイカやエビといったものから好きな具材を入れて焼くものだ。
そんなお好み焼きを知ったきっかけは幼い頃、姉に連れられて行った縁日の屋台だった。
だがお好み焼きは単価の安い食べ物であり、司は貧乏人の食べ物だとバカにしていた。
しかし実はそれが食べたくて仕方がなかった。だから姉に食べたいと強請った。
すると姉はお好み焼きの作り方を学び、弟のために焼いてくれるようになった。
だが大人になり、お好み焼きから離れた生活を送っていたが、なんとつくしが司のためにお好み焼きを焼いてくれるという。
それは司が何気なく漏らした「お好み焼きが食べたい」のひと言によって叶えられることになった。
子供の頃よく食べたお好み焼きは姉が焼いてくれた。
そして大人になって食べるお好み焼きは恋人が焼いてくれる。
だから司はお好み焼きを焼くため専用の鉄板をマンションのキッチンに用意させようとしたが、ホットプレートがあればいいと言われ笑われた。だがそのホットプレートが何であるか分からなかったが、急いで使用人に買いに行かせた。
そして想像していた。
牧野つくしがお好み焼き屋で働く姿を。
「いらっしゃい山本さん!お久しぶりですね?暫くお見えにならないからどうしたのかと思っていたんですよ?」
「ああ。ちょっと海外出張だったからな」
「そうですか。山本さんは大きな会社で働いてらっしゃるんですよね。お忙しいですよね」
「いや。それほどでもないが、まあ色々あるな」
司が道明寺ホールディングス日本支社近くにある細い路地の奥に、牧野つくしの切り盛りするお好み焼き屋を見つけたのは偶然だった。
この地域は司の会社によって再開発が予定されていて、近いうちに買収交渉にかかることになっていた。そしていずれこの場所は更地になり大きなビルが建つ。
その前に地上55階から見下ろす世界がどんなものなのか見てみたいといった気になり、ふらりと路地に足を向けた。
そしてその路地で見つけたのが、お好み焼きと書かれた色褪せた暖簾と、やはり同じように色褪せソースの名前が書かれたのぼり旗。
その時思い出したのは、子供の頃、姉と縁日に出掛け、そこで見かけたお好み焼きに興味を抱いたこと。そして姉が弟のためにお好み焼きを焼いてくれたこと。そんな懐かしい想い出とソースの匂いに釣られ引き戸を開けると、そこは5、6人も入ればいっぱいになるカウンターだけの店。そしてそこが白い大きなエプロンにソースのシミを付けた牧野つくしと出会った場所だった。
「ねえ。山本さん知ってたら教えて欲しいんですけど、道明寺支社長さんってどんな人なんですか?ここの土地を買いたいっていうあの会社。道明寺ホールディングスってどんな会社なんですか?あたし、この場所が気に入ってるんです。この店は両親が残してくれた店だし、出来ればここにいたいんです。でも無理ですよね…」
司はこの店の暖簾をくぐり、牧野つくしに会った途端恋におちた。
彼女が焼くお好み焼きの美味さに惚れた。
そして司は本当の名前は名乗らずこの店の常連になった。
何故なら道明寺と名乗れば、この場所を再開発しようとしている男が自分だと分かる。だから山本と名乗っていた。そして彼女からこの場所が道明寺ホールディングスに買収されることについての悩みを打ち明けられていた。この店は両親が残してくれた店だが、土地は借地であり、地上げが始まれば出て行かなければならなくなることを。
「そうだな。多分無理だ。あの会社は大きな会社だ。この辺り一体は買収されてビルが立つらしい。再開発されて生まれ変わることになるだろうな」
「そうですか。やっぱり無理ですよね…..」
「ああ。ちょっと難しいだろうな。けど物は考えようだ。ここじゃなくても移転先でもっと大勢の人間が集まれるいい店にすればいいんじゃないのか?」
司がこの店に通うようになり知ったことがある。
それは、この店は小さなコミュニティのような場所であり、ふらりと訪れる客は皆この場所を憩いの場所のように感じている。
そしてその場所を再開発で取り壊すことは、牧野つくしの人柄を知れば知るほど罪悪感に苛まれた。だが会社が決めたことを変えることは出来ない。ビジネスはビジネスだ。だから司は無理だと言った。だが考えていることがあった。
司は彼女に恋人になって欲しいと言うつもりでいた。そして恋人になった彼女の店を司が出してやるつもりでいた。
それも広く綺麗な場所に彼女が望むような店を用意してやろうと考えていた。
そして今日はその話しをするためにここを訪れていた。恋人になって欲しいと伝え、そして自分が誰であるか打ち明けるつもりでいた。そして分かってもらうつもりでいた。名前を隠したのは、先入観で自分のことを見て欲しくなかったからだと。
「牧野さん俺は……」
と司が声を掛けた時だった。
店の引き戸が開き、入ってきたのは司の秘書の男だった。
「道明寺支社長。こんなところにいらっしゃったんですか。お探ししたんですよ。いつもお昼になると行き先も言わずにお出かけになられるので心配しておりました。それからニューヨークから社長がお見えです。支社長を探していらっしゃいます。すぐに社の方へお戻り下さい」
司は突然現れ不用意な発言をした秘書を睨んだ。
だが時すでに遅し。牧野つくしは、司が山本という名前ではなく、道明寺という名前で呼ばれたことに怪訝な顔をすると彼が何者かということに気付いた。
「….山本さん、あなたは……」
「すまない。俺の名前は山本じゃない。道明寺だ。道明寺ホールディングス日本支社の支社長だ。この場所を再開発しようとしているのは俺の会社だ。俺だ。でも決して騙そうとしたんじゃない」
「酷いわ….騙したのね。あなたは名前を偽ってここに通って、ここを離れたくないって言うあたしを笑ってたのね。….あなたを信用して色々話したのに…あなたは心の中ではこんな古臭い店なんてさっさと畳んで出て行けって思ってたのね!….もう二度とここへ来ないで!あなたの顔なんてもう二度と見たくない!」
司はそう言われたあの日から、つくしの店を訪れることはなかった。
それから時は流れ、牧野つくしの店があった場所を含め、再開発予定地はすべて更地になった。
そして司はあの日以来彼女に会う事はなかった。
「おい!なんでこんな悲しい結末になるんだよ!」
「…..支社長。何が悲しい結末でしょうか?加藤君が説明されていることに何か問題でもあるのでしょうか?」
「……………」
司は会議室で会議中だ。
それも近々発表される某駅前再開発プロジェクトについて概要の説明を担当者の加藤から受けていた。そして再開発にあたり、そこに以前からあった店は、希望すれば新しいビルの中にテナントとして受け入れるといった話になっていて、開発業者と地権者との話し合いも円満に解決していた。だから何も問題はないはずだと西田の目は告げていた。だが、不用意な発言をして、つくしからもう二度と来ないでと言われることになったのは、秘書のせいだと恨んだが頭の中が会議室から遥か彼方にあったなど言えなかった。
「あ。お帰り道明寺!お疲れ様。お好み焼き。これから焼くからね」
司がマンションに帰ったとき、部屋にはあの光景と同じ白い大きなエプロン姿のつくしがいて、ホットプレートを前に焼く準備は出来たとばかり彼の帰宅を待っていた。
「ねえ、それで何を入れようか迷ったんだけどね。道明寺に訊いてからってことで、色々と揃えてるからね?ええっと….豚肉。イカ。タコ。海老。あ、牡蠣も用意してるの。ねえ何がいい?全部入れる?」
「お前は何が入れたい?」
「え?」
「だからお前は何を入れて欲しい?言ってみろ。何を入れて欲しんだ?」
「何をって….」
「だから俺に何を入れて欲しいんだ?」
「やだ、道明寺。何言ってるのよ。道明寺が食べたいものを入れるから言ってくれないと….」
「俺はイカでもタコでも海老でもなくお前が喰いたい。お前以外のものは喰いたくねぇ。それに入れるんじゃなくて入れたい。…..お前のナカに」
司はつくしを貫きたくなっていた。
悲しい結末で終わってしまった白昼夢を打ち消すために一刻でも早くつくしが欲しかった。
だから彼女の身体を抱き上げると、ベッドルームへ運んだ。
そしてつくしも、そんな司の思いに応えるように彼の首に腕を回し身体を寄せた。
無垢な処女から情熱的な恋人へ贈られた愛。
二人が初めての時を迎えてからもう何年も経っているが、愛し合う時は素直になる彼女。
知り合った頃は満足なキスの経験もなく、長く熱いキスをしたら息をするのを忘れたと言ったこともあった。
だが二人の身体は互いと愛を交すように作られていて、身も心も奪われる歓びといったものを知った。そして純粋さと優しさと情熱に包まれるのが二人の愛のかたち。
だから司が両手で彼女の腰を掴み、息が荒く乱れ、ひとつに結ばれた身体を激しく、もっと激しく動かしたとしても、そこにあるのは深い絆だ。
そして司がつくしと一緒に頂点を極める瞬間は、女が彼の肩に爪を立てるとき。
そのとき、司は激しく腰を振り、女がイク瞬間を五感で掴み、神経の末端まで快感の波に包まれたことを知ると己を解き放つ。そして顎を彼女のなだらかな首筋にうずめて目を閉じ、それから二人は激しかった呼吸が収まるまでじっとしている。
すると柔らかな小さな手が司の髪の毛を優しく撫でてくれる。その瞬間が彼にとって何よりも幸せな時間だが、やがて彼女の口から出た言葉に司は笑った。
「ねえ…..お好み焼き…どうするの?焼くの?焼かないの?」
食べ物を粗末にすることを嫌う女の言葉は、実に彼女らしいと思う。
だから女の気持を尊重する男は、喜んで彼女が焼いてくれるお好み焼きを食べるつもりだ。
「ああ。焼いてくれ。運動して腹減ったしな。お前が焼いてくれるお好み焼きが食べたい」
すると嬉しそうに笑う女がいた。
司は翌日機嫌よく出社した。
そしてポケットの中に入れている口紅に指先で触れた。
それは、昨日司の部屋に泊ったつくしが忘れていった口紅で渡そうと持参していた。
だがポケットに手をいれ、口紅に触れた途端ふと思った。
この口紅は司が海外出張に出たとき、彼女に似合うと思い土産として買って帰ったもので、ふんだんに蜜ろうが使われている。
高いプレゼントは受け取らない女も口紅ならと今では愛用していて、その口紅を塗った女とキスをすることは司にとってこの上ない幸せな瞬間だ。
だが暫く会えないとその唇が恋しくなる。キスしたいと思う。
司は、もしかしてこの口紅はつくしの唇の匂いがするのではないかと思った。
だから口紅を取り出し蓋を開けた。
そして捻じってみた。
するとそこにつくしがいつも塗っているピンク色が現れたが、それを暫くじっと見つめた。
そして匂いを嗅いだ。
それは甘い香りがして、つくしの唇から感じる甘さを感じた。
だからつい口紅を自分の唇に少しだけ塗ったがそれは禁断の行為。
それから暫くぼんやりと口紅を眺めていたが、明日からはニューヨーク出張で、この口紅を持って行けば、つくしとキスした気分になれることに気付いた。
この口紅はあいつの唇を彩る色であり、あいつの唇を味わっている感覚が味わえる。
そうだ。この口紅を返すのは止めよう。その代わり帰国の時は大量に買うことにしよう。
そして、そのうちの幾つかを自分用に持っていればいい。但し、一度あいつの唇に触れさせてからだ。
そんなことを考えているとき、ドアをノックする音がした。
司はついいつもの調子で「入れ」と言ったが自分が口紅を塗っていたことを失念していた。
そして慌ててハンカチで口紅を拭おうとした。だが時すでに遅し。西田に見られてしまっていた。
人生は楽しい。
人を愛することは楽しい。
ビバ人生。
現実に引き戻されると嫌なことは多々あれど、それはそれでいいじゃないか。
司にとって牧野つくしが彼の人生で彼女さえいればそれで十分。
視線、仕草、熱い体温。司のその全てが一人の女性だけに向けられていた。
彼女以外は女じゃない。
それに彼女以外欲しくない。
そう思う男は西田の冷たい視線も余裕でスルーすると書類を受け取った。
だがひと言言った。
「あいつには言うなよ」
その時の西田は、いつもと変わらぬ鉄面皮だった。
そして言った。
「ええ。分かっております。男はまず一番に大切な人のことを考えることが必要です。
それに男はズボンのチャックを壊すことが成長の証ですから」
司は西田の言葉に片方の眉を吊り上げた。
そして分かった風なことを言う男が出て行くと、手にしていた口紅を再びポケットに入れたが、さっき唇に塗ったのは冗談であって二度とすることはない。
ただ男は受難に打ち勝つためのお守りとして、彼女の口紅をポケットの中に忍ばせておきたいと思っただけだ。
何しろ司が牧野つくしに差し出しているのは、前人未到の純愛なのだから。

にほんブログ村
そして裸にネクタイが似合うと言われる男は、社員たちの前に立つ時は当然スーツだが、見ている女性社員たちからすれば、脱がないストリップダンサーのように見えて仕方がない。
なぜなら、その立ち姿だけでセクシーだと言われるからだ。
そして彼女たちは想像する。
セクシーな支社長がスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、シャツを脱ぎ捨て黒のブリーフではなく、Gストリング、いわゆる「ひもパン」と言われる卑猥な下着姿のストリップダンサーになって自分だけのためにセクシーなダンスを踊ってくれることを。
一輪の真っ赤なバラを差し出してくれることを。
そしてそのバラの花びらを裸になった自分の身体の上に散らしてくれるのを。
だがそれは女性社員たちの妄想であり司の妄想ではない。
だがセクシーという言葉は、まさに司のために用意された言葉だが、そんな男はどこまでも果てしなく妄想の世界に堕落していきたいと考えている。
しかし普段その世界は司の心の中の奥深くに仕舞われた箱の中にだけ収められているのだが、時々その思いが表に溢れ出てしまうことがある。そして運が悪いことに、そういった時に限って西田がそこにいる。ついこの前は、西田の手を握ってしまうという考えられない失態を犯してしまった。だがまだ唇でなかっただけよしとしよう。
もしその手を引き寄せていたらと思うとゾッとした。
ところで司の好きな食べ物のひとつにお好み焼きがある。
お好み焼きにも種類があると知ったのは、ここ数年の話。
関西風、広島風と色々とあるらしいが、司の知るお好み焼きとは、いわゆる混ぜ焼きと言われるもので、生地となる小麦粉を溶いたものにみじん切りにしたキャベツを混ぜ、豚肉やイカやエビといったものから好きな具材を入れて焼くものだ。
そんなお好み焼きを知ったきっかけは幼い頃、姉に連れられて行った縁日の屋台だった。
だがお好み焼きは単価の安い食べ物であり、司は貧乏人の食べ物だとバカにしていた。
しかし実はそれが食べたくて仕方がなかった。だから姉に食べたいと強請った。
すると姉はお好み焼きの作り方を学び、弟のために焼いてくれるようになった。
だが大人になり、お好み焼きから離れた生活を送っていたが、なんとつくしが司のためにお好み焼きを焼いてくれるという。
それは司が何気なく漏らした「お好み焼きが食べたい」のひと言によって叶えられることになった。
子供の頃よく食べたお好み焼きは姉が焼いてくれた。
そして大人になって食べるお好み焼きは恋人が焼いてくれる。
だから司はお好み焼きを焼くため専用の鉄板をマンションのキッチンに用意させようとしたが、ホットプレートがあればいいと言われ笑われた。だがそのホットプレートが何であるか分からなかったが、急いで使用人に買いに行かせた。
そして想像していた。
牧野つくしがお好み焼き屋で働く姿を。
「いらっしゃい山本さん!お久しぶりですね?暫くお見えにならないからどうしたのかと思っていたんですよ?」
「ああ。ちょっと海外出張だったからな」
「そうですか。山本さんは大きな会社で働いてらっしゃるんですよね。お忙しいですよね」
「いや。それほどでもないが、まあ色々あるな」
司が道明寺ホールディングス日本支社近くにある細い路地の奥に、牧野つくしの切り盛りするお好み焼き屋を見つけたのは偶然だった。
この地域は司の会社によって再開発が予定されていて、近いうちに買収交渉にかかることになっていた。そしていずれこの場所は更地になり大きなビルが建つ。
その前に地上55階から見下ろす世界がどんなものなのか見てみたいといった気になり、ふらりと路地に足を向けた。
そしてその路地で見つけたのが、お好み焼きと書かれた色褪せた暖簾と、やはり同じように色褪せソースの名前が書かれたのぼり旗。
その時思い出したのは、子供の頃、姉と縁日に出掛け、そこで見かけたお好み焼きに興味を抱いたこと。そして姉が弟のためにお好み焼きを焼いてくれたこと。そんな懐かしい想い出とソースの匂いに釣られ引き戸を開けると、そこは5、6人も入ればいっぱいになるカウンターだけの店。そしてそこが白い大きなエプロンにソースのシミを付けた牧野つくしと出会った場所だった。
「ねえ。山本さん知ってたら教えて欲しいんですけど、道明寺支社長さんってどんな人なんですか?ここの土地を買いたいっていうあの会社。道明寺ホールディングスってどんな会社なんですか?あたし、この場所が気に入ってるんです。この店は両親が残してくれた店だし、出来ればここにいたいんです。でも無理ですよね…」
司はこの店の暖簾をくぐり、牧野つくしに会った途端恋におちた。
彼女が焼くお好み焼きの美味さに惚れた。
そして司は本当の名前は名乗らずこの店の常連になった。
何故なら道明寺と名乗れば、この場所を再開発しようとしている男が自分だと分かる。だから山本と名乗っていた。そして彼女からこの場所が道明寺ホールディングスに買収されることについての悩みを打ち明けられていた。この店は両親が残してくれた店だが、土地は借地であり、地上げが始まれば出て行かなければならなくなることを。
「そうだな。多分無理だ。あの会社は大きな会社だ。この辺り一体は買収されてビルが立つらしい。再開発されて生まれ変わることになるだろうな」
「そうですか。やっぱり無理ですよね…..」
「ああ。ちょっと難しいだろうな。けど物は考えようだ。ここじゃなくても移転先でもっと大勢の人間が集まれるいい店にすればいいんじゃないのか?」
司がこの店に通うようになり知ったことがある。
それは、この店は小さなコミュニティのような場所であり、ふらりと訪れる客は皆この場所を憩いの場所のように感じている。
そしてその場所を再開発で取り壊すことは、牧野つくしの人柄を知れば知るほど罪悪感に苛まれた。だが会社が決めたことを変えることは出来ない。ビジネスはビジネスだ。だから司は無理だと言った。だが考えていることがあった。
司は彼女に恋人になって欲しいと言うつもりでいた。そして恋人になった彼女の店を司が出してやるつもりでいた。
それも広く綺麗な場所に彼女が望むような店を用意してやろうと考えていた。
そして今日はその話しをするためにここを訪れていた。恋人になって欲しいと伝え、そして自分が誰であるか打ち明けるつもりでいた。そして分かってもらうつもりでいた。名前を隠したのは、先入観で自分のことを見て欲しくなかったからだと。
「牧野さん俺は……」
と司が声を掛けた時だった。
店の引き戸が開き、入ってきたのは司の秘書の男だった。
「道明寺支社長。こんなところにいらっしゃったんですか。お探ししたんですよ。いつもお昼になると行き先も言わずにお出かけになられるので心配しておりました。それからニューヨークから社長がお見えです。支社長を探していらっしゃいます。すぐに社の方へお戻り下さい」
司は突然現れ不用意な発言をした秘書を睨んだ。
だが時すでに遅し。牧野つくしは、司が山本という名前ではなく、道明寺という名前で呼ばれたことに怪訝な顔をすると彼が何者かということに気付いた。
「….山本さん、あなたは……」
「すまない。俺の名前は山本じゃない。道明寺だ。道明寺ホールディングス日本支社の支社長だ。この場所を再開発しようとしているのは俺の会社だ。俺だ。でも決して騙そうとしたんじゃない」
「酷いわ….騙したのね。あなたは名前を偽ってここに通って、ここを離れたくないって言うあたしを笑ってたのね。….あなたを信用して色々話したのに…あなたは心の中ではこんな古臭い店なんてさっさと畳んで出て行けって思ってたのね!….もう二度とここへ来ないで!あなたの顔なんてもう二度と見たくない!」
司はそう言われたあの日から、つくしの店を訪れることはなかった。
それから時は流れ、牧野つくしの店があった場所を含め、再開発予定地はすべて更地になった。
そして司はあの日以来彼女に会う事はなかった。
「おい!なんでこんな悲しい結末になるんだよ!」
「…..支社長。何が悲しい結末でしょうか?加藤君が説明されていることに何か問題でもあるのでしょうか?」
「……………」
司は会議室で会議中だ。
それも近々発表される某駅前再開発プロジェクトについて概要の説明を担当者の加藤から受けていた。そして再開発にあたり、そこに以前からあった店は、希望すれば新しいビルの中にテナントとして受け入れるといった話になっていて、開発業者と地権者との話し合いも円満に解決していた。だから何も問題はないはずだと西田の目は告げていた。だが、不用意な発言をして、つくしからもう二度と来ないでと言われることになったのは、秘書のせいだと恨んだが頭の中が会議室から遥か彼方にあったなど言えなかった。
「あ。お帰り道明寺!お疲れ様。お好み焼き。これから焼くからね」
司がマンションに帰ったとき、部屋にはあの光景と同じ白い大きなエプロン姿のつくしがいて、ホットプレートを前に焼く準備は出来たとばかり彼の帰宅を待っていた。
「ねえ、それで何を入れようか迷ったんだけどね。道明寺に訊いてからってことで、色々と揃えてるからね?ええっと….豚肉。イカ。タコ。海老。あ、牡蠣も用意してるの。ねえ何がいい?全部入れる?」
「お前は何が入れたい?」
「え?」
「だからお前は何を入れて欲しい?言ってみろ。何を入れて欲しんだ?」
「何をって….」
「だから俺に何を入れて欲しいんだ?」
「やだ、道明寺。何言ってるのよ。道明寺が食べたいものを入れるから言ってくれないと….」
「俺はイカでもタコでも海老でもなくお前が喰いたい。お前以外のものは喰いたくねぇ。それに入れるんじゃなくて入れたい。…..お前のナカに」
司はつくしを貫きたくなっていた。
悲しい結末で終わってしまった白昼夢を打ち消すために一刻でも早くつくしが欲しかった。
だから彼女の身体を抱き上げると、ベッドルームへ運んだ。
そしてつくしも、そんな司の思いに応えるように彼の首に腕を回し身体を寄せた。
無垢な処女から情熱的な恋人へ贈られた愛。
二人が初めての時を迎えてからもう何年も経っているが、愛し合う時は素直になる彼女。
知り合った頃は満足なキスの経験もなく、長く熱いキスをしたら息をするのを忘れたと言ったこともあった。
だが二人の身体は互いと愛を交すように作られていて、身も心も奪われる歓びといったものを知った。そして純粋さと優しさと情熱に包まれるのが二人の愛のかたち。
だから司が両手で彼女の腰を掴み、息が荒く乱れ、ひとつに結ばれた身体を激しく、もっと激しく動かしたとしても、そこにあるのは深い絆だ。
そして司がつくしと一緒に頂点を極める瞬間は、女が彼の肩に爪を立てるとき。
そのとき、司は激しく腰を振り、女がイク瞬間を五感で掴み、神経の末端まで快感の波に包まれたことを知ると己を解き放つ。そして顎を彼女のなだらかな首筋にうずめて目を閉じ、それから二人は激しかった呼吸が収まるまでじっとしている。
すると柔らかな小さな手が司の髪の毛を優しく撫でてくれる。その瞬間が彼にとって何よりも幸せな時間だが、やがて彼女の口から出た言葉に司は笑った。
「ねえ…..お好み焼き…どうするの?焼くの?焼かないの?」
食べ物を粗末にすることを嫌う女の言葉は、実に彼女らしいと思う。
だから女の気持を尊重する男は、喜んで彼女が焼いてくれるお好み焼きを食べるつもりだ。
「ああ。焼いてくれ。運動して腹減ったしな。お前が焼いてくれるお好み焼きが食べたい」
すると嬉しそうに笑う女がいた。
司は翌日機嫌よく出社した。
そしてポケットの中に入れている口紅に指先で触れた。
それは、昨日司の部屋に泊ったつくしが忘れていった口紅で渡そうと持参していた。
だがポケットに手をいれ、口紅に触れた途端ふと思った。
この口紅は司が海外出張に出たとき、彼女に似合うと思い土産として買って帰ったもので、ふんだんに蜜ろうが使われている。
高いプレゼントは受け取らない女も口紅ならと今では愛用していて、その口紅を塗った女とキスをすることは司にとってこの上ない幸せな瞬間だ。
だが暫く会えないとその唇が恋しくなる。キスしたいと思う。
司は、もしかしてこの口紅はつくしの唇の匂いがするのではないかと思った。
だから口紅を取り出し蓋を開けた。
そして捻じってみた。
するとそこにつくしがいつも塗っているピンク色が現れたが、それを暫くじっと見つめた。
そして匂いを嗅いだ。
それは甘い香りがして、つくしの唇から感じる甘さを感じた。
だからつい口紅を自分の唇に少しだけ塗ったがそれは禁断の行為。
それから暫くぼんやりと口紅を眺めていたが、明日からはニューヨーク出張で、この口紅を持って行けば、つくしとキスした気分になれることに気付いた。
この口紅はあいつの唇を彩る色であり、あいつの唇を味わっている感覚が味わえる。
そうだ。この口紅を返すのは止めよう。その代わり帰国の時は大量に買うことにしよう。
そして、そのうちの幾つかを自分用に持っていればいい。但し、一度あいつの唇に触れさせてからだ。
そんなことを考えているとき、ドアをノックする音がした。
司はついいつもの調子で「入れ」と言ったが自分が口紅を塗っていたことを失念していた。
そして慌ててハンカチで口紅を拭おうとした。だが時すでに遅し。西田に見られてしまっていた。
人生は楽しい。
人を愛することは楽しい。
ビバ人生。
現実に引き戻されると嫌なことは多々あれど、それはそれでいいじゃないか。
司にとって牧野つくしが彼の人生で彼女さえいればそれで十分。
視線、仕草、熱い体温。司のその全てが一人の女性だけに向けられていた。
彼女以外は女じゃない。
それに彼女以外欲しくない。
そう思う男は西田の冷たい視線も余裕でスルーすると書類を受け取った。
だがひと言言った。
「あいつには言うなよ」
その時の西田は、いつもと変わらぬ鉄面皮だった。
そして言った。
「ええ。分かっております。男はまず一番に大切な人のことを考えることが必要です。
それに男はズボンのチャックを壊すことが成長の証ですから」
司は西田の言葉に片方の眉を吊り上げた。
そして分かった風なことを言う男が出て行くと、手にしていた口紅を再びポケットに入れたが、さっき唇に塗ったのは冗談であって二度とすることはない。
ただ男は受難に打ち勝つためのお守りとして、彼女の口紅をポケットの中に忍ばせておきたいと思っただけだ。
何しろ司が牧野つくしに差し出しているのは、前人未到の純愛なのだから。

にほんブログ村
スポンサーサイト
Comment:11