2018
04.18

出逢いは嵐のように 1

「私の夫と別れて下さい」

「は?」

「ですから、私の夫と別れて欲しいんです。夫があなたとそういった関係になったのは、気の迷いですから。今後は主人があなたと付き合うことは一切ありませんから。これは手切れ金です。1億ご用意しました。それからこのことは誰にも話さないで下さい。家名に傷が付きますから」

そう言って女性がテーブルの上に置いたのは、額面1億円の小切手。
そしてつくしに注いでいた視線を『金壱億円也』と書かれた文字に向け、そして再びつくしを見た。

「もしこれで足りないとおっしゃるならあと1億お出ししますわ。それで夫とは縁を切って下さい。間違ってもこれ以上夫に近づかないで下さい。もしまた夫に近づこうとするなら私にも考えがありますから」

「…あの。何か勘違いをされているのではないですか?私はあなたのご主人を存知あげないのですが….」

つくしは一瞬言葉に詰まったが、1億とか夫とか。どういう意味が分からず困惑しつつ訊ねたが、相手はそんなつくしの言葉に引きつった表情に変わり、そして怒りをあらわにした。

「この期に及んでまだそんなことを言うつもり?ちゃんと証拠はあるんですからね?夫が白状したわ。それなのに夫を知らないと言うなんて!」

「は、白状?」

「ええ。そうです。あなたと付き合ってもうすぐ1年になると言ったんです。気づかなかった私もバカですけど、夫はもっとバカです。あなたみたいな美人でもない、資産家でもない女と付き合っているって言うんですから、一体どんな得があるのかしらね?身体だって貧相だし、一体夫はあなたのどこに惹かれたのかしらね?」

人を見下すような言葉は、淡いピンク色の口紅を塗った唇から放たれ、品のいいベージュのスーツにパールのネックレスとイヤリングをした女性の顔は、怒りをあらわにした表情から険しい表情に変わり、そして今はこれ以上ないほど険しく感じられた。

だがつくしには、女性の言っている意味が分からなかった。
いや。分からないではない。この女性の夫は牧野つくしと浮気をしていて、それが1年にも及び、それがバレた夫はそのことを妻に告白したと言うことだ。
だがつくしには全く身に覚えのないことだ。それに女性が話しをする夫という男性にも全く心当たりが無い。そしてその男性の妻と名乗る女性が、1億の小切手を用意することが出来る人間であることに驚いていた。

確かに洋服は上品で、身に付けている大振りなパールや隣の席に置かれたハンドバッグは見るからに高級品だと分かる。そして女性の雰囲気から、相手が所謂金持ちの奥様という立ち位置の女性であることも理解出来た。

だが、身に覚えもなければ、心当たりもないことを言われても困惑する以外ないのだが、否定したところで信じてはもらえないような気配が漂っていた。








机上の内線電話が鳴り、受け付けからお客様がお見えですと伝えて来たのは、昼休みに入る直前。どなたですか?と訊いたところ、白石様とおっしゃる女性の方ですと言われたが心当たりは無かった。

だが牧野つくしに会いたいと来ていると言われれば、たとえこちらが知らなくても、会わなければ失礼になる。だからちょうど昼休みということもあり、エントランスホールまで下りると、受付で教えられた背を向けソファに腰を降ろしている髪の長い女性に「お待たせしました。牧野です」と明るく笑顔で声をかけた。

初対面ともなれば第一印象が肝心だ。
そしてここは会社だ。相手が牧野つくしを、と指名して来た以上、つくしにとっては初対面だとしても、相手はつくしのことを知っているということだ。だから、社会人としてのマナーに照らし合わせれば、自ずと微笑みを浮かべて挨拶をするのが礼に叶っているはずだ。
だからつくしは、親しみを込めるとまで言わなくとも、にこやかな表情で名前を名乗った。

だがこちらを振り向いた女性は「私。白石の妻です」と無表情に告げて来た。
だが白石という名前に心当たりもなく、どちらの白石様と訊くのも失礼であり、当たり障りのない言葉を探したが、白石の妻と名乗った女性は、棘を含んだ言葉でつくしに向かって話始めた。

『あなたが牧野つくしさん?….そう?あなたがね?』

そしてつくしに向かって1億受け取って夫と別れてちょうだいと言ってきた。
その女性は、見た所つくしより若い。
恐らく20代前半。だとすれば、夫と呼ばれる男性も恐らくその年頃か。それとももう少し上か。いや。もしかすると1億出せるような家なら、年の差婚で随分と年が離れているのかもしれない。だがどちらにしても、白石という名前に心当たりがなければ、付き合ってもいないのだから別れるも別れないもない。
それに目の前に突き付けられるように置かれた1億円の小切手も、当然受け取ることは出来ないのだから、この女性の勘違いを正す必要があった。

「あの…..申し訳ありません。何か勘違いされていると思います。私はあなたのご主人である白石さんという男性を存知あげないのです。ですからお人違いをされているのではないでしょうか?」

と、つくしは何のことか分からないまま丁寧に訊いたつもりだったが、相手は有無を言わせぬ口調でたたみこんで来た。

「しらじらしいわね?どこまで白を切るつもりなの?1億じゃ足りないなら足りないって言いなさいよ?いいわ。ここでもう1億の小切手を切るわ。だから夫には近づかないでちょうだい!」

女性の声が大きくエントランスに響けば、何事かと受付けの女性の視線がこちらに向いたのが感じられ、つくしは慌てた。
女性は夫の愛人と思われる女と対峙しているのだから、冷静でいられるはずもなく、感情が高ぶっても仕方がないと思うが、ここは会社のエントランスホールであり人の目もある。
そして昼休みということもあり、人の出入りが激しい。現に女性の上げた大きな声に、傍を通った女性の視線が向けられたが、夫に近づかないで。の発言は好奇心を掻き立てるに十分な言葉だ。
だから、気のせいではない。傍を通り過ぎた女性もだが、受付けの女性の視線や、別のソファに腰を降ろしている男性の視線がこちらに向けられているのが感じられた。

「あの。奥様。本当に何か勘違いをされていらっしゃいます。牧野つくしはわたくしですが、私は本当に白石様という男性を知りません。私の知り合いにそういった名前の人物はおりません。ですから_」

と、つくしがそこまで言ったところで、相手は被せるように言った。

「もういいわ。あなたがそこまで言うなら、表面上はそういうことにしておくわ。でも分かってるの。夫の愛人は牧野つくしという名前の女ってね。こんな珍しい名前の女が他にいるなら教えて頂きたいわ。どう?つくしなんて名前。いないわよね?こんな雑草の名前を付ける親を笑っちゃうわ。笑うついでに言わせてもらうけど、雑草なんて見向きもされず踏まれておしまいでしょ?だから黙って小切手を受け取って別れてちょうだい。それがあなたのためよ?」

つくしは自分の名前が嘲笑の対象になることは慣れている。
だが白石と名乗った女性の口から零れる言葉は初対面の人間が言っていい言葉ではない。
そして自分を産んでくれた親のことまで言われる筋合いも侮辱される言われもない。

「….雑草ですか…確かに私の名前は雑草と同じ名前ですけど、両親のことまで言われる筋はないと思います。私の親はもう亡くなっていますけど、両親は両親なりに真面目に考えて名付けてくれたはずです。ですからあなたに名前のことでとやかく言わる筋合いはありません。あなたがそこまで言うなら、私も言わせてもらいます。あなたがそんな女だから旦那様は浮気をされたのではないですか?人の話を訊かずいきなり非難をするような方ですから。旦那様も嫌になったんじゃないんですか?」

「な、なによ….おばさんの癖して!」

「ええ。私はおばさんです。あなたより随分と年上だと思います。だからって何でも言っていいということにはなりません。ましてや私のことを年上と思うなら、それに初対面の人間に対しての口の利き方というものがあると思います。ですから、私はこれ以上あなたとお話することはありません。昼休みですから食事に行きませんと。では失礼いたします」


つくしは、自分を愛人呼ばわりする女性を残し席を立った。
そして後ろを振り返ることはなかった。





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2018
04.19

出逢いは嵐のように 2

「先輩。それでその白石さんって方に心当たりはあるんですか?」

「知らないわよ。白石なんて男」

「でもその白石さんって方の奥さん、1億円の小切手持ってこられたんですよね?それで先輩が素直にはいって言わないからもう1億の小切手を切ってもいいって言ったんですよね?つまり先輩が別れないってゴネたら2億が手に入ったってことですよね?それって凄いじゃないですか。2億といえば一部上場企業の平均的な生涯給与ですよ?大学を卒業して無事定年を迎えることが出来たらそれくらい稼げるといわれる金額ですよ?それをくれるって言うんですから凄いじゃないですか?そんなお金を一瞬で手にすることが出来るなんて、宝くじが当たるとかくらいじゃないとありませんよ?なんだか凄くもったいない話を断ったんですね?どうして別れるって言わなかったんです?」

「桜子。あたしはその白石さんって人を知らないし、不倫もしてないわよ?話の内容を勝手に変えないでくれる?」

夫と別れて欲しい。きっぱり縁を切って欲しい。そう言って1億円の小切手を持って現れた女性の話をしていたが、つくしは不倫もしてなければ、白石という男性にも全く心当たりがなかった。






会社の後輩である三条桜子への打ち明け話は、昼食を取るため訪れた会社近くの庶民派イタリアンレストラン。本日の日替わりランチは、パルメザンチーズの香り豊かなミラノ風カツレツにライスとスープとサラダだった。

二人はつくしが35歳。
三条桜子がひとつ年下の34歳。
滝川産業という道明寺グループの産業機械の専門商社で働いているが、業種で言えば卸売業。
仕事は営業事務。つまり営業の手伝いということになるのだが、機械専門の商社で働いているからといって、機械に強いという訳ではない。

そしてどちらかと言えば、つくしは機械が苦手だ。
だから何でもそうだが、基本的な使い方だけを知り、付随する機能というものに手を出したことはない。
そして機械商社といえば、日常生活とは全く関係のない物を扱っているのが実情だ。
手がける案件は電力、化学等のプラント設備、電子機器や情報機器などの生産財である設備を中心に国内販売や輸入を行っていた。
そんな会社に大学卒業後入社し、真面目に働いていた。だからいきなり不倫相手と決めつけられ、妻に会社に押しかけられるなどとんでもない話だ。いわれもない言いがかりとしか思えなかった。


「でも、その白石さんって何者なんでしょうね?奥さんって方、まだお若いんですよね?」

「うん。多分私たちより一回りは下だと思うわ」

二人より一回り年下というのは、つくしが35歳だということから23歳くらいの年齢に思えた。

「そうですか。その若さで1億円ポンと払えて、もう1億も払えるって言うんですから。相当お金持ちの家の奥様ですよ。ご主人もきっとそうです。もしかするとどこかの会社の社長さんだったりするかもしれませんよ?私が思うに、そのご主人は奥様とは年齢差がかなりあって、奥様って人は実は2度目の奥様でトロフィーワイフ。事業で成功したから昔の古女房を捨てて、若くて綺麗な女性を妻にしたんです。それでもまた他に女性に目がいって、その人を愛人として囲ってたことがバレたって話ですね?それでその人の名前が牧野つくしなんですよ。分かってます。そんな目で見なくても。先輩の名前が使われただけで先輩が不倫するような女性じゃないことくらい知ってますから」


桜子の男と女に関する想像力というのは、あながち外れていない。
何しろ三条桜子は恋愛と美に関しては貪欲で、生まれ持った目鼻立ちが気に入らないと整形をしたくらいだ。そして手に入れた美貌というのは、彼女の長所を強調していて見る者の目を惹く。そして三条家は旧華族の家系のことだけはあり、生まれ持った品というものがある。それはどんなに身に着けようとしてもすぐには身に付けることが出来ない、付け焼刃ではない目に見えない何か。それを品というのだが、やはり人は箸の上げ下げひとつでどのような暮らしをしてきたか分かるのだから、今こうして一緒に食事をしていても、ナイフやフォークの使い方は実にきれいだ。
そしてそんな桜子は、カツレツを切り分けながら訊いた。

「それで綺麗な人でした?」

「え?」

「だから奥様です」

「うん。綺麗な人だった。目鼻立ちもはっきりとしていて、黒い長い髪をして…..うん。綺麗な人だった」

白石の妻と名乗った女性の容貌は、目鼻立ちがはっきりとして、めりはりが感じられる綺麗な人だった。
少しだけ言葉に詰まったのは、そういえば、彼女の雰囲気はなんとなくだが三条桜子に似ていたからだ。つまりその女性も生まれ持った品というものが感じられたということだ。
そして綺麗な女性であることは間違いなく、そんな女性から美人でもないのに、と言われ否定するつもりはなかったが、両親のことを言われムッとしてしまい思わず席を立っていた。

だいたい愛人だということも言いがかりとしか思えないのだから、勝手にしろといった思いもあったからだが、もう少し話をするべきだったのかもしれない。
それにしても、夫の愛人呼ばわりされたことに驚いたこともそうだが、夫が白状したからと言って、会社に乗り込んで来た妻という女性は、余程腹が立っていたということなのだろう。

「白石…..白石…..若くて綺麗な奥さんがいる白石さん。お金持ちの白石さん….」

桜子は1億円の小切手をいとも簡単に愛人と思われる女性に渡すことが出来る白石という人物に心当たりがないか考えているが、つくしはどうでもよかった。

「あのね桜子。その人がお金持ちなのは充分分かったの。
それに白石って人に愛人がいようと恋人がいようと勝手だけど、問題なのは、どうしてその人が私の名前を言ったのかが問題よ。そっちの方が知りたいわよ。人の名前を勝手に使うなんていい迷惑よ!」

つくしは愛人であることは否定したのだ。あの場であれ以上会話をしたとしても、あの女性がつくしの話しを訊くとは思えなかった。
だからさっさと席を後にしたが、何故自分の名前が使われたのか。そのことだけが気になっていた。

「確かにそうですよね。牧野先輩の名前なんて、どこにでもある名前じゃありませんから。
だって私も先輩の名前を初めて訊いたとき、えっ?って思いましたから。でも先輩の名前も私と同じ春に関係のある名前ですからすぐに親しみが持てました。でも私は桜ですから見上げてもらえますけど、先輩はつくしですからねぇ。つくしは踏まれる雑草ですからそこが残念です」

何度となく言われるつくしと言う雑草についての話。
しつこい雑草として有名なつくし。
けれど、つくしは自分がしつこい性格だとは考えたことはない。
どちらかと言えば、さっぱりとした性格だと思っている。ただ、こうと決めたことに対しては、意思を曲げることがない頑固者だと言われたことはあった。それはまさにしつこい雑草であるつくしが、どんなに強力な除草剤を撒かれようと、次の年には芽を出す春の風物詩であるように、こうするんだと決めればやり通してきた自分のポリシーとでも言おうか。とにかく自分で決めたことに対しては、他人のせいにすることなどなく自己責任で人生を歩んできた。
だからこそ、不倫という誰かが悲しむことになる恋愛をしたいとは考えたこともない。
それにしても、いったいどうして夫である白石という人物は牧野つくしが愛人だと言ったのか。
まさかとは思うが同姓同名?

「それにしても、白石っていう人。どうして牧野つくしだなんて名前。知ってたんでしょうね?もしかして、遠い昔先輩のことが好きだった人で先輩にフラれてから、その恨みで先輩の名前を出したとか?違いますか?」

フラれた恨みでその人の名前を語る?
つまりそれは、なりすましということ?
もしそうだとすれば、余程つくしのことが好きだった人と言うことになるが、過去にそういった経験はなかった。
だから言いがかりなのは間違いないのだが、その女性の言った言葉が耳に残っていた。

『もしまた夫に近づこうとするなら私にも考えがありますから』

その言葉の意味は、弁護士を雇って慰謝料の請求でもしようというのか。
ある日突然、家庭裁判所から書類が届くといったことになるのか。
だが『それからこのことは誰にも話さないで下さい。家名に傷が付きますから』の言葉の意味を考えれば、裁判を起こすところまでは行かないはずだが、もし仮に牧野つくしが夫と別れなければ一体何をしようというのか。
白石の妻と名乗ったその女性は、つくしが当然のように妻である自分のことを知っているといった顔だった。だがつくしはその人のことも白石という男の事も全く知らないのだから、何かあるとすれば、それまで大人しく待っているしかないのだが、相手のことが分からないだけに不気味だった。

「でも驚きますよね。怖いですよね。1億の手切れ金を払うから夫と別れて欲しいっていきなり会社に直談判しに来るんですから、もし私だったとしても驚きます。先輩。いくら相手の勘違いだから、自分じゃないから。違うと言ったからといっても気を付けて下さいね。嫉妬に狂った妻ほど恐ろしい女はいませんから。それこそ般若ですからね?」

その言葉は冗談を言っているのではなく、桜子の表情はまじめそのものだった。





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2018
04.20

出逢いは嵐のように 3

司がNYから東京へ住まいを移したのは、日本で立ち上げた新規プロジェクトの指示を出すため、二つの国の間を往復することを止めたからだ。

世間が思い描く独身30半ばの男の独り暮らしと言えば、猥雑な部屋での暮らしといったものを想像するかもしれないが、彼は道明寺財閥の後継者で道明寺ホールディングスの副社長であり大金持ちの男。
そんな男の広々とした部屋には本物の絵画がかかり、一流のインテリアコーディネーターのセンスが光る空間には、シンプルだが選び抜かれた調度品が並べられていた。

だが彼には世田谷に大きな邸があり、そこには大勢の使用人がいて日常生活に不自由することはないのだが、東京に住むことを決めたとき、誰かれなく訪ねてくることがある世田谷の邸ではなく、決められた人間だけが足を踏み入れることが出来るペントハウスに暮らすことを決めた。

それは、身の回りの雑事である洗濯や掃除する使用人といった類の人間以外の出入りは禁じられるということ。だからのんびりとした日曜の朝を迎えることが出来るのだが、休みだからといって世界の全てが休んでいるという訳ではない。

財閥のビジネスはグローバルビジネスであり、東京が日曜だからといって、他の場所が同じように日曜であると考えては駄目だ。つまりビジネスに休みはないということだが、それでも優秀な社員が集まれば、全てが司の指示を待つということもない。だが、送られてくるメールの中には重要案件も含まれていて、気に留めるべきこともあった。

司はベッドから出るとバスローブを羽織り書斎に向かった。
そしてノートパソコンを立ち上げパスワードを入力したが、隣に置かれたスマートフォンに着信があったことを知らせるライトが点滅していることに気付くと軽く舌打ちした。

それは司のプライベートな電話。
その番号を知る人間はごくわずか。
そして電話をかけてくる相手の見当はついていた。
だがその相手を確認することを後回しにした男は、煙草を吸いたい衝動を抑え、部屋を出てダイニングルームに続くキッチンスペースへと足を向けた。そして冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し蓋を開け傾けた。

ガス入りの水は心地よい刺激を喉に与えるが、昨日の酒が残っているというのではない。
それに男は二日酔いといったものを経験したことがない。どんなに飲んでも酒に飲まれることも、アルコールで顔が火照るといったこともない。

そんな男は昨夜ちょっとしたパーティーに参加したが、楽しもうと思った訳ではない。
それがどうでもいいものだとしても、ビジネスには時として受けなければならない接待というものがある。
そしてそのパーティーの主催者が司のために女を用意したと言ったが興味がなかった。
だが彼は禁欲主義者ではない。36歳の男に経験がない方がおかしい。
だが仕事がらみのパーティーで女を調達しようとは思わない。女を斡旋されてまで抱きたいとは思わないこともだが、パーティーピープルと呼ばれる類の女に興味はなかった。

そんな男が付き合っていた女と別れたのは2年前。

『ツカサは結婚する気がないのよね。多分誰とも結婚するつもりはないのよね?でも私は誰かと結婚したいの。それにツカサと付き合ってても、あなたと話をするより秘書の方と話をする方が多かったわ。まるで私の恋人は秘書の方だった。だから別れましょう。私はツカサには似合わないし、ツカサも私には似合わない。だからおしまいにしましょう』

それは揉めることも、禍根を残すこともない実に円満な別れ。
それから彼女は別の男と付き合い結婚し、双子の女の子の母親になった。
そして幸せな結婚生活を送っている。

恋人と別れひとりになった司が独身女性の垂涎の的であることは当然。
彼を射止めようとする女は大勢いた。だが誰かと付き合おうという気にはならなかった。
そして当然だが結婚する気がないのだから、どんなにいい女と言われる女が目の前にいても視界に入ることはなかった。

そしてその気になれば、どんな女もモノにすることが出来る男は、書斎まで戻ると届いたメールに目を通していた。
そしてビジネスメールに紛れ届いている1通のメールに目を留めた。

差出人は姪。
姪の母親は司の姉である椿。
椿は大学を卒業すると同時にロスに拠点を持つホテルチェーンの経営者と結婚した。そしてロスと東京を行き来しながら生活していたが、今はもっぱらロス暮らしだ。
そして姪の下にも男の子が二人いて、彼らも母親と同じアメリカで暮らしているが、姪は日本で暮らしていた。

そんな姪からのメール。
日曜日なら、普段から忙しいと言われている叔父から連絡がもらえると思ったのだろう。日付が変わった途端の時間で送信されていた。
司が東京で暮らすようになり1年になるが、これまで姪からメールが届いたことは一度もなく、もしかすると彼女の母親であり司の姉である椿に何かあったのではないかとクリックした。
だがそこに書かれていたのは姉の事ではなかった。



『叔父様へ
お願いがあります。叔父様だからお願い出来ることなんです。母には言えません。
どうしてもお願いを聞いて欲しいんです。詳しことは会ってお話しします。だから叔父様が都合のいい日に合わせます。お忙しいのは分かっています。叔父様お願いします。』

姪は子供のころ司をお兄ちゃまと呼んでいた。
そして姪は姉の次に自分の近くにいた女性であり、血の繋がりというのは不思議なもので切っても切れない絆というものを感じさせる。
それは両親に対しては感じたことのないまた別の想い。幼いからこそ守ってやらなければならないという心は、相手が女の子だから余計そう感じたのかもしれないが、姉が幼かったらきっとこんな子供だったと思える容貌もあった。

司が幼かった頃、両親は不在で姉の椿は母親代わりだった。
そして少年時代には荒れて迷惑をかけたことがある。
だから今でも姉には頭があがらないところがあるが、そんな姉の娘からお願いがあると言われれば、叔父として話を訊いてやるのは当然だ。
だが姪からのメールに切羽詰まった感はなかったが、切実さというものは感じられた。
だから司はすぐに返信した。

『都合がいいなら今日でもいい。14時に世田谷の邸で会うか?』

司は送信ボタンをクリックした。
すると、待ってましたとばかりにすぐに返事が来た。

『叔父様ありがとうございます。14時に伺います』

そのとき、スマートフォンが鳴り、先ほど着信を残していた人物からの電話だと知り、画面をタップした。

「___ああ。今起きた。何だ?___あ?昨日のパーティーか?面倒くせぇけど行った。ああ、そうだ。案の定女が用意されてた。___あほう。あんな女ども誰が相手にする?それにな、ビジネスと私生活は別だ。商売相手が用意した女なんぞ信じられるか?どれだけ自慢のドレスだか知らねぇけど、めかし込んだ女どものその上っ面が剥がれれば狐だ。あのパーティーにいたのはタヌキ親父が用意したキツネ女だ。______今日か?悪い。今日は14時に約束がある。___いや。女じゃない。姪の美奈だ。どうしても俺に頼みたいことがあるそうだ。だから会う約束をした。____いや。姉ちゃんに何かあったんじゃない。
とにかく、そういうことだ。だから悪いな、あきら」


日本に住まいを移してから、悪友どもと飲みに行くことも多いが、司に特定の女がいないことに余計な心配をする男は昔から世話を焼きたがる。

お前、女無しの生活は大丈夫なのか?
いい歳をした男が2年もヤッてねぇってとなると病気になるぞ。
定期的に出してんのか?まあ、お前の生活の中で何かが先細ることはないと思うが、いくら完全無欠だと言われても女が欲しい時もあるはずだ。いい女を紹介するがどうだ?と言うが余計なお世話だった。


司はそんなあきらからの電話を切り、他にも届いていたメールに目を通していた。
その中には1年前に買収し道明寺グループに加わった滝川産業の社長からのメールも届いていたが、それは司が訪問する日の予定について書かれていた。

買収したはいいが一度も足を運んだことがない会社は多く、日本に居を移したのだから、自分が買った会社を見ることも必要だと思うようになったのはつい最近のこと。
そしてその中のひとつが産業機械専門の商社である滝川産業だ。
滝川産業は1950年創業。従業員300名ほどの会社だが、一部上場であり株価も安定していて業績も悪くない。そして道明寺グループに加わったことにより、今後の経営も安定が見込まれると言われていた。

司は机の上の時計を見た。
世田谷の邸に行くにはまだ早い。
それなら、と秘書から手渡されていた書類に目を落とした。
それは、明日の朝一番に訪問する滝川産業に関する資料。
時間潰しという訳ではないが、姪と会うまでその会社の資料を読み込むことにした。





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2018
04.21

出逢いは嵐のように 4

司が世田谷の邸に着いたのは13時半。
広いエントランスを抜け、向かう先の部屋で待っているのは姪の美奈。
20歳の美奈は、椿の容貌を受け継ぐ母親に勝る美人だ。
そして長い黒髪を持ち、背が高くスタイルがいい。見方によっては姉が二十歳の頃かと思うほど似ているところもあり、司は時に懐かしさを感じることもあった。

彼女は気質も姉によく似ていて、はっきりと物を言い行動的。
つまり有言実行であり、彼女の意思というものを簡単には曲げることが出来ない。
そして親である姉夫婦からして娘の意思を尊重しているのだから、叔父である司も美奈に甘くなるのは当然で彼女の願いを断ることは出来ないはずだ。
だが一体どんな頼みがあるというのか。
どちらにしても、姪の頼みを聞いてやるのだから考えるだけ無駄というものだ。




司が部屋に入ってくると美奈はソファから立ち上がり嬉しそうに声を上げた。

「叔父様!今日は本当にありがとうございます。せっかくのお休みのところお時間を作っていただけて本当に嬉しいです。それにこうして久し振りに叔父様に会えて本当に嬉しいです」

「美奈。久し振りだが元気そうだな」

司は美奈が明るい表情であることから、どんな頼みだろうと大したことはないと思っていた。そして二十歳という年齢から来る輝きというものも感じられ、姪は幸せそうだと感じていた。だが美奈はゆっくりとソファに腰を下ろし、正面に腰を下ろした叔父である司に向かって今にも泣きそうな顔をして見せた。

「叔父様。お願いがあるんです。でもロスにいるお母様には絶対に言わないで下さい。お母様には心配をかけたくないんです。もしこのことがお母様の耳に入ったら私….ほらご覧なさいって絶対に言われるわ。親の言うことに耳を貸さないからよって….。
でもお母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛していた人と結婚出来なかったって聞きたわ。だから私のすることを許してくれたんだと思うの。でも、それが間違っていたということになる。だから….」

「美奈….」

司は話すのを止めた俯いた姪に声を掛けた。

「どうした?何があった?」

姪の口から出た『お母様は自分が若い頃、おばあ様に反対されて本当に愛した人と結婚出来なかった』というのは、椿が道明寺という家のため美奈の父親と結婚をしたことを言っているのだが、今の姉は母親が決めた結婚を恨んではいない。
少なくとも結婚してからの姉は、姉なりに夫となった美奈の父親を愛した。たとえ政略結婚だったとしても、今の二人にそんな過去はまったく感じられない。むしろ心から愛し合って結婚を決めた二人のようにしか思えなかった。

そんな二人の間には美奈の他にも男の子が二人いて、彼らの教育のためアメリカで暮らしている。
そして美奈が言った『私のすることを許してくれた』と言うのは、美奈が18歳で結婚することを許したということだ。
それは、美奈がアメリカで高校を卒業し、日本の大学へ進学したとき知り合った男性と結婚したいと言ってきたことだ。

椿は高校生の頃、他校のごく普通の家庭の男子生徒と恋をした。そしてその生徒と過ごす未来を考えた。だがそれが許されなかったのが彼女の人生。だから我が子が若くして結婚したいと言ってきたとき、それを許したのは、自分の恋を実らすことが出来なかった母が娘へ託した若かりし頃の想いというものがあったのかもしれない。

それに若いからといって反対したところで、美奈は訊く娘ではない。
彼女は強い意思の持ち主で、こうと決めたら貫くだけの根性がある。
それは叔父である司に似ているのかもしれない。何しろ司は、少年時代親の言うことにことごとく反抗した。親の言うことなど屁とも思わなかった。

だが美奈は女の子だ。もし反対して駆け落ちをするということになれば、それはそれで大変なことになる。だから、大学は必ず卒業することを条件に結婚を認めた経緯があった。

そして美奈の夫となった男は彼女より一回り年上の32歳。
知り合ったとき、18歳の姪と30歳の男ということを考えたとき、ティーンエイジャーが12歳も年上の男とどんな会話が成り立つのかと思ったが、美奈は頭がいい。
大学で自分の周りにいる男子学生では物足りなさを感じていたとき、その男と出会い惹かれたということなのだろう。

夫の仕事は道明寺グループの関連会社で役員をしているが、知り合ったのは、男が美奈の通う大学の卒業生であり、姉の椿と美奈が懇意にしている教授のところへ顔を出したことがきっかけだというのだから、男と女の出会いというのは分からないものだ。

司は俯いたまま泣き出した姪に声をかけた。

「美奈。いったい何があった?どうした?隆信(たかのぶ)と何かあったのか?」

美奈の夫の名前は白石隆信。
その名を出した途端、顔を上げた美奈の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
そして酷く苦しそうな声で驚くような言葉を口にした。

「叔父様。あの人、う、浮気しているの。愛人がいるの」

「愛人?」

司は唖然とした。
白石隆信には結婚式のとき会っただけだが、浮気をする、愛人を持つような男には見えなかったからだ。
そして当然だが道明寺グループの社員であるからには、姪の結婚相手としての身元調査も徹底した。だが何も問題はなかったが、それは今から2年前の話だ。

「美奈。それは本当か?お前の思い違いじゃないのか?」

「そうだといいと思った….でも違うの。もうすぐ1年になるの….白状したのよ叔父様。
初めは信じたくなかった。でも帰りが遅い日が増えて、どうしたのって聞いてもはっきり答えないの。仕事が忙しいっていうならまだ分かるけど何も言わないの。今日は朝から接待ゴルフだって言うけど、それも本当かどうか。もしかしたら女と会っているのかもしれない。叔父様。私はもう二十歳よ。成人よ?それに未成年だったとしても、結婚すれば法律上は成人とみなされるわ。私は妻として夫の行動を知る権利があるわ。だから言ったわ。調べればすぐに分かるのよって。そうしたら白状したの」

「美奈…..」

司は姪が涙を流しながら話す様子をどうしたらいいのかと考えあぐねていた。
もし目の前で泣いているのが自分に纏わりつく女どもの偽りの涙ならすぐに分かるし、例え本気で泣かれたとしても相手にすることなどない。だが大切な姪が泣いているとなると話は全く別だ。

「美奈。そんな男とはすぐに別れろ。そんな男はすぐに首にしてやる。お前の前に二度と現れないようにしてやる。だからすぐに別れろ。お前の母親には俺が話しをしてやる」

司はすぐにポケットから携帯電話を取り出し秘書に電話を掛けようとした。

「叔父様待って!首にはしないで。私….別れたくないの。あの人のことが好きなの。たとえ浮気されたとしてもやり直せると思うの。な、何を根拠にって言われたら困るけど、別れたくないの」

司は姉の娘であり姪である美奈から泣きながら頼まれれば、電話を掛けることは出来なかった。そして泣いている姪の口から思わぬことを頼まれた。

「叔父様。お願い。あの人が悪いんじゃないの。相手の女が悪いのよ。だから、叔父様があの女を彼から遠ざけて欲しいの。叔父様なら出来るでしょ?あの女を叔父様に夢中にさせて捨てて!」

「美奈お前…」

「私叔父様の噂は知ってるわ。女性はみんな叔父様のことを好きになるって。叔父様みたいな素敵な人ならどんな女も簡単に自分のものに出来ることも。私だってそのくらい知ってるわ」

姪は叔父が女にモテること。そしてどんな女も簡単に手に入れることが出来ることも知っている。女に関する叔父の評判というのを姪はよく知っているということだ。
それを知っていて、叔父に夫の浮気相手である女を自分に夢中にさせ捨てろと平気で口にすることが出来るのは、姪は姉の娘だが、祖母である道明寺楓の血も確実に受け継いでいるということだ。だから今のような策略的な言葉も平気で口にすることが出来るのだろう。
つまりそれは、敵対する人間に対して容赦がないと言われた鉄の女のDNAは間違いなく孫にも受け継がれているということだ。

「叔父様お願い。私、彼と別れたくない。彼の心は揺れているだけ。だからあの女を遠ざけて欲しいの。叔父様の魅力であの女を虜にして!」

美奈の泣き顔を見るのは、子供のころ転んで泣いた時以来だが、今の顔はあの頃とは違う。
涙を流す顔は愛する人を失いたくない女の顔だ。
司が心許せるのは姉と悪友たちで、姪の悲しみは姉の悲しみだ。
だから姉の悲しむ顔は見たくない。
そして叔父として姪の幸せを祈っている。

「それで?その女はどこの誰か分かっているのか?」

「分かってるわ。私、その女に会いに行ったの。1億で別れてって言ったの。でも彼のことなんて知らないってとぼけたの。私の話なんか聞かなかった。さっさと席を立ったわ。その女は滝川産業って会社に勤める女。名前は牧野つくしよ」





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2018
04.22

出逢いは嵐のように 5

姪の美奈は1億で女に自分の夫と別れるように言った。
まさかあの子が夫の浮気相手にそこまでの行動をするとは思わなかったが、姉や自分の性格を考えれば不思議なことではない。自分の思いをはっきりと形で表すことをする姪は、行動に移すのも早い。そして、祖母の楓から二十歳になれば受け取れる莫大な信託財産の使い道に躊躇はないようで、早速自分のために使うことにしたようだ。

自分の幸せを守るためならどんな手段でも用いる。
それをビジネスに置き換えたとすれば、祖母の楓のようになる可能性もあるということだ。
だがそれが悪いというのではない。それに彼女のその行動力はまさに道明寺家の特徴と言ってもいい。
目的のためには手段は選ばない。
それが楓のやり方であり、そのやり方が道明寺という財閥を大きくしていったのだから。

だがその楓も孫には甘い。
しかし、孫の夫が浮気をしていると知れば容赦はしないはずだ。美奈の言葉など無視して別れさせるかもしれない。
そして母親である椿に若さを理由に反対された結婚だっただけに、やはりと思われたくないという気持と心配を掛けたくないという気持があることも理解出来る。
だから叔父である司にどうにかして夫の浮気相手を遠ざけて欲しいと言って来た。

だが司は、姪が選んだ相手が気に入らないという訳ではないが、結婚してまだ間もないというのに早々に浮気をする男など別れてしまえばいいという思いもあった。
だからその思いをつい口にしてしまったが、人を好きになるという感情は他人には分からないものであり、何故こんな男と?と思ったとしても、逆もまた然りで感情というのは理性でコントロールできるものではないと言われている。

だが司が本気で女を好きになったことがあるかと問われれば、ノーと答える。
過去に付き合っていた女がいたとしても、どこか醒めた目で女を見ていた。女という生き物は、すぐに感情に訴える生き物であり、感情を制御して理性を働かせるといったことが苦手だ。つまりすぐに泣く生き物であり、泣けばなんとかなると思う女は司にしてみればただの煩い女に過ぎなかった。
だが姪は別だ。姪が流す涙は他の女とは別のものだ。
姪は司にとって数少ない家族であり、幼い頃から可愛がってきた姉の子供だ。あきらのような兄と妹との関係とは別の意味での絆や情といったものがあった。

美奈は結婚しているとはいえ、まだ20歳の大学生。
頭がいいとはいえ、司から見れば子供だ。
そしてお嬢さん育ちであることには間違いない。
それに二人が夫婦としてどんな生活を送っているのか知らないが、二十歳という年齢では知らないことも多いはずだ。

そんな姪が自分を頼っているというのだから、何とかしてやらなければと思うのが司だ。
それに例え夫と別れることになっても椿の娘であり、司の姪であり、楓の孫となれば未来はどうにでもなる。若い頃の結婚の失敗に心が傷つくことがあったとしても、時が経てば癒されるはずだ。

それにしても、1億で首を縦に振らなかった相手の女は、美奈がさらにもう1億出すと言っても同じ態度を取ったという。
それは白石隆信という男が、道明寺という日本で一、二を争う財閥の血筋の娘と結婚していることを知っていて、別れるならもっと多くの金を男の妻から引き出せると思っているからなのか。
だがそう考えているならそれは甘い考えであり無理だと分からせてやる必要がある。
そしてその女が金目当てなら司にはうなるほどの金がある。
それに、白石隆信と自分の容貌を比べれば、司の方が比べものにならないほど優れている。
それを充分理解している姪は、司のその魅力を使って女を虜にし、夢中にさせ捨てろと言う。
自分の心が傷ついたのと同じように、相手の女の心を傷つけてくれと言う。
それはある意味残酷な手段。
身も心も弄んで捨てろという言葉が美奈から出るとは思わなかったが、1億、いや2億でも首を縦に振らなかったというなら、相当したたかな女であり、傷付く心というものを持っていないということになる。

「どんな女か知らねぇが、さぞかし自分に自信がある女ってことか?」

司は言うと美奈から訊かされた、滝川産業という社名に皮肉な笑みが浮かんだ。
偶然とは言えその会社は道明寺HDが1年前に買収した会社。そして明日その会社を訪れることになっているからだ。

その会社にいる牧野つくしという女と美奈の夫の付き合いが1年になるというなら、同じグループの会社になったことがきっかけだったのだろうか。接点があるようには思えないが、それでもどこかで繋がりがあるから二人は付き合いを始めたということか。

司は美奈が帰ったあと、すぐに秘書に電話をした。
必ずスリーコール以内に出る男の声はいつもと同じで変わることはなく感情をあらわにすることはない。
そんな男にすぐに滝川産業の牧野つくしについて調べるように告げると、秘書はかしこまりましたと答え電話を切った。
そして世田谷の邸を後にしてペントハウスに戻ったところで電話が鳴った。

「ああ。__そうか分かったか。_____いや。パソコンの方へ送ってくれ。__そうだ。明日滝川産業に行くがその時、牧野つくしという女に会いたい。会えるようにしてくれ」


司はパソコンを立ち上げた。
そして秘書からのメールを開き、牧野つくしについて書かれている内容に目を通したが、それは道明寺グループの全社員についてのデータの中から抜き出されたもので、当然だが簡単にアクセス出来るものではない。

そしてそこに書かれているのは、牧野つくしが35歳で白石隆信より2歳上の女であり、都内の大学を卒業後、産業機械専門の商社である滝川産業に入社し、営業統括本部で営業のサポートをしていると書かれていた。
そして示されている写真はIDカード用に撮影されたもので、肩口で切り揃えられた黒髪に薄化粧なのか唇の色は殆どないといってもいいほど色がない。

だが顔の中で印象的なのは目だ。黒い大きな瞳がカメラ目線なのは当然だが、真っ直ぐこちらを見つめるその瞳の縁に派手な人工的な彩はなく、自然な瞳が強い光を湛えカメラのレンズの向うにいる人間を見ているが、その顔は真面目そのもので、妻のいる男をたぶらかす女には見えなかった。

「この女が牧野つくしか?」

思わず漏れた言葉は、司が想像していた女とは違ったからだ。
着ているものも、雰囲気も彼が考えていた女とはまるで違う。
美奈が提示した1億に頷かず、2億と言っても首を縦に振らなかった女には見えなかった。
いや。外見だけに惑わされるほど愚かしいことはない。
この女は強欲だが謙虚に見せるのが手口なのかもしれない。
何しろ女は化ける。キツネやタヌキと同じで自分の望む姿に化けることが出来る。
IDの写真が薄化粧なだけで、男をたぶらかすと決めれば、目の周りに派手な色を塗り、唇には扇情的な色が塗られるはずだ。
NYにもその手の女は幾らでもいた。つまり金持ちで見た目のいい男を捕まえるためならどんなことでもする女はどこにでもいるということだ。
だから写真とデータだけでは判断することは出来なかった。

司は姪から牧野つくしを虜にして捨ててくれと言われた時、躊躇した。
そんな手間がかかることをするよりも、手っ取り早く決着を付ければいいと感じたからだ。
それは、牧野つくしに自分の立場を認識させるということ。自分が相手にしている男は自分が働く会社の親会社にあたる道明寺財閥に繋がる男であり、男の妻はグループの社長である道明寺楓の孫であるということ。そして二人の関係で不利益を被るのは自分の方だということを。

たが、今は姪の願いを叶えることが面白そうだと感じ始めていた。
弄んで捨てて欲しい。
相手の女の心を傷つけて欲しい。
自分が傷ついたのと同じだけ傷つけて欲しい。
恋を仕掛けて捨てる。それが姪の願い。
それは司にとっては簡単なゲームになるはずだ。
何しろ、彼に堕ちない女はいないと言われているのだから。

司は、大した情報はなかったが必要なことを頭に入れるとメールを閉じた。

「牧野つくしか。会うのが楽しみだ」





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