2018
04.05

あの頃の想いをふたたび 1 

「おっさん。あの人のこと好きなのか?」

司は突然そんなことを言われ声がした方を見た。
話かけてきたのは9歳か10歳かといったところの男の子。
そんな子供が睨みつけるように彼を見ていた。

「おっさん。そうだろ?あの人のことが好きだからだろ?だからこんな所からあの人のこと見てんだろ?だっておっさん先週の金曜もいたよな。それもあんな高級な車で乗りつけてさ。おっさんすげぇ金持ちなんだな?あ。もしかしておっさん世間でいうところのストーカーって奴だろ?そうだろ?俺ストーカーってもっとキモイ恰好してると思ったけど、おっさんなかなかイケメンだしいい服着てるし、背も高いし、モテんじゃねぇのかよ?それに幾つだか知らねぇけど、いい大人だろ?あの人のことが好きならストーカーなんかしねぇで告白すりゃいいじゃん」

突然話しかけて来た子供はペラペラとよく喋る。
それも司の行動を知っているかのように喋るが、確かに先週の金曜日この場所にいた。
それは買い物帰りの主婦や帰宅途中の学生、自転車で通り過ぎる女性をよそに、ということだ。そしてそこは街の小さなパン屋の店先が見える場所。そこに彼は佇んでいた。

それにしてもやけに馴れ馴れしいというのか、見知らぬ他人に対しての口の利き方が悪いというのか、礼儀を知らないというのか、とにかく司に向かっておっさんを連発するこの子供はいったい何なのか。

司には同じ年頃の甥がいるがこんな口の利き方はしない。
ましてや夕方のこの時間、甥は習い事の時間のはずだ。ピアノだったかヴァイオリンだったか忘れたが確かそんな習い事の時間があったはずだ。だがこの子はそういったこともなければ、友達と遊ぶといったこともせず、大人の行動を気にしているがこれは単なる好奇心なのか。それともこの子にとって何か意味のある行動なのか。
そんな司の思いをよそに男の子は司が黙っていることに業を煮やしたように言った。

「おっさん。黙ってねぇで何とか言えよ?おっさんストーカーだろ?」

ストーカーに向かってストーカーと訊いてそうだと答える人間はいないはずだが、そこはまだ子供だからなのか。思ったことを口に出すのが子供らしいと言えばそうなのだが、司が黙っていてもお構いなく話しかけてくるのも空気の読めない子供の特徴だ。

「おっさん聞いてんのかよ?」

そして恐らくこのまま黙っていても話を止めることはないだろう。
それにしても全く知らない大人の男に臆することなく話かけてくるのだからが、怖いもの知らずというのか、向こう見ずというのか。目の前にいる男の子は司が自分の質問に答えるまで梃子でも動かないといった風に司の前に立っていた。それなら自分が立ち去ればいいのだが、まだこの場所を離れたたくはなかった。そんな思いから司は仕方なく口を開くと低い声で言った。

「坊主….言っとくが俺はストーカーじゃねぇ」

「ふーん。それなら何だよ?知り合いなら電柱の影に隠れるなんてことしねぇよな?おっさんいったい何者だ?」

と、先ほどから司のことをおっさんと呼びストーカー呼ばわりして見上げる男の子こそ何者なのか。生意気を通り越し、高圧的ともいえる態度を取ることになんてガギだといった思いを抱いていた。

「あ。俺のこと気になってんだ?けど名前なんて名乗らねぇからな。何しろ名前は個人情報だし、おっさんの名前も知らねぇのに俺が名乗る必要なんてねぇからな。おっさん俺が誰か知りたかったら自分の名前を名乗れよ?」

自分から司に話しかけておいて名を名乗れというのは、小学生だとしてもいい根性している。親の教育といったものはどうなっているのか。親の顔が見てみたいと思った。
だが今の司はそんなことを思う自分を胸の裡で笑った。彼が9歳か10歳の頃と言えばやはり生意気だったからだ。そしてその頃だったはずだ。同級生を殴って鼻の骨を折るという大怪我をさせていた。だが目の前の子供は暴力を振るうような子供には見えず、どちらかと言えば屁理屈を捏ねる子供に思えた。

「俺は別にお前の名前なんて知りたきゃねぇよ。いいからお前どっか行け。それに俺はストーカーじゃねぇ。あいつの知り合いだ」

「ふーん。知り合いならなんでコソコソしてんだよ?俺知ってるぞ?おっさん30分はここにいてあの店のこと見てるだろ?俺よっぽど警察に言おうかと思ったくらいだ。けど、おっさんの髪の毛くるくるしてるから許してやろうと思った。それ天パだろ?そんなにくるくるしてたら子供の頃イジメられただろ?だから許してやる」

そう言った男の子の髪も緩やかだが癖があり巻いていた。

「しっかしおっさん、ホントに何者だ?」

そう言って司の傍で彼をおっさん呼ばわりしてうさん臭そうな目で見上げる男の子は、司が名乗るまで引き下がらないつもりなのか、かなりしつこい。

「おっさん、もしかしてあの人の元カレか?そうだろ。付き合っててフラれたんだろ?でもあの人のこと忘れられなくて電柱の影から見てるってヤツだ。となるとやっぱりおっさんストーカーじゃん」

司は自分のことをストーカーと決めつけ、彼の傍を離れない子供の存在が目障りで邪魔だった。
それにおっさんと言うのは、中年男の呼称であり司はまだ中年と言われるには早いはずだ。
だが子供相手に感情を剥き出しにして怒鳴るといった大人げないことはしないつもりだ。
だからその代わり淡々と答えた。

「坊主。俺はおっさんでもなければストーカーでもねぇ。本当に彼女の知り合いだ。それにお前が誰だか知らねぇけど関係ねぇだろ?だからあっちに行け」

「なんだよ?その言い方。俺は犬や猫じゃねぇぞ?それに俺のことそんな風に追い払えると思ったら大きな間違いだ。小学生だからってバカにすんなよ?」

とムキになったように言われたが、何故この子がこんなにも自分に構うのか。
男の子は司の前を動こうとはしなかった。





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こちらのお話は短編です。
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2018
04.06

あの頃の想いをふたたび 2

ただでさえ目立つと言われる男が、電柱の傍で小学生の男の子と言い合っているではないが話しをしている姿は人目を引く。先週もこの場所に立つ司を挙動不審な男と視線を向けて来る人間もいた。だが大半の人間は目を合すことなく通り過ぎていった。それは司の出で立ちに関わらない方がいいと決めたということだ。

目の前の男の子が言ったように、ひと目見て分かる高級そうなスーツに身を包んだ眼光鋭い男からは、只者ではないといった空気が感じられ下手に関わるとろくでもないことになるのではないかといった気がするからだ。

それは彼が道明寺HDという真っ当な会社の副社長の地位についている男だとしても、近くを通る人間たちには、司の広い背中には牙を剥いた龍がうねっているのではないか。そんな雰囲気を感じさせるものがあったのかもしれない。
だが男の子はそんなことなど気にしない。むしろ司にいたく興味があるといった感じだ。
そしてその男の子は司に向かって再び言った。

「おっさん。あの人のことが好きなんだろ?だからここにいるんだろ?」

二人の傍を通り過ぎて行く人間が彼らの会話を訊かなければ、親子だと思うだろう。それは父と子と想定するに丁度いい年齢の開きが感じられるからだ。司は28歳。もし子供が9歳なら18歳の時の子供ということになる。

だが司に子供はいない。
だがもし目の前にいる男の子が彼の子供だとすれば、それは彼が記憶を失っていた間に起こった出来事だということになる。




司が港で暴漢に刺され記憶を失ったのは高校3年生の時。
そしてその前日、初恋の人である牧野つくしと何の隔たりもなく結ばれた夜があった。もし子供がいるとすればその一夜の結果だが、彼女が出産をした記録はなかった。
だから突然自分の前に現れた男の子が彼の子供であるということはない。

司が欠落した記憶は彼女のことだけ。
そして彼女と過ごした一夜を隅々まで思い出したのは10年後。
それは前触れもなく唐突に頭の中に現れた一人の女性の姿。まるでテレビのスイッチが突然入れられ画像が目の前に広がるように女性の姿が見えた。そして画面は女性の姿を映し出したまま動きを止めた。そしてその女性の名前が牧野つくしであり当時17歳。画像の場所は英徳学園の屋上で彼女が作ってくれた弁当を食べているところだった。
そして司は自分では不完全だと思わなかった記憶を取り戻し彼女に会いに来た。

だが今日までの人生を振り返ったとき、自分が薄汚く思えた。
好きな女以外抱かないと言った男はこの10年で女を知り、さほど欲しくもない女を抱き愛情がなくても肌を合わせた。身体本意の関係にもならない一夜だけの女。そんな女がいたのが司のNYでの10年だった。

かつて性欲に関係なく彼女を抱きしめているだけでよかった男は、この10年で相手の心よりも単なる肉の重みを感じるだけの関係を結ぶ男になり下がった。
それを男だから仕方がないといった理由で括るのは、言い訳であり軽い言葉としか感じなかった。

それでも、動物の世界では強い者が、多くのメスと交わり子孫を残すことが当たり前だ。
だが人間は動物ではない。いや、人間も動物だと考えないこともない。だが人間は本能に任せ行動する動物にはない理性がある。だから人間が人間でいられるのであってそこが動物とは違うところだ。
だから今の司は感情だけで行動することが出来ず、彼女に会いたいという思いを理性が抑えていた。

そして本来なら男と女が肌を合わせるのは、相手の心と身体の温かさを感じたいからであり、性的なことが前面に来るべきではないのだ。若い頃の司はそう言った考えの男だった。
そして彼女は慈悲に溢れた心を持つ少女だった。自分のことよりも他人を思いやるという心は彼女に出会うまで知らなかった稀有な心。

そんな心を持つ彼女は自分を忘れた男の記憶を取り戻そうと、自分のことを思い出してもらおうとした。
彼が彼女のことを忘れたことをいいことに、取り入ろうとした女がいたとしても、彼女はその女を責めなかった。
そして彼にとって何が大切で、何がそうでないかを伝えようとした仲間もいたが、司は自分の心の中に、彼女の居場所を作ることはなかった。
そして司は彼女の心を踏みにじり捨てた。



だから彼女の前に現れることを躊躇っていた。
今更どのツラ下げて現れたのかと言われることを恐れていた。
そして先週と今日のこの日。この場所で彼女が働くパン屋を遠くから見ていたということだ。

そんな司の前に現れた子供は、とにかくしつこい。
いったい司の何がその子供の興味を惹いたのか。
司が先週もここにいたことを知るその子は、この辺りに住んでいるということは分かる。
そうでなければここに30分も司がいたことなど知ることはないのだから。

だが、子供が一人の男を興味深く見るといったことをするのだろうか。子供が興味を抱く対象といったものは、移ろいやすいと言われ、好奇心が旺盛なら旺盛なほど新しいものに目を奪われるという。
だがこの男の子はじっと司を観察していたということになる。
それこそ、男の子をストーカーと言ってもいいほどだ。
そして子供ならではの率直さで言葉を述べる。

「おっさん。あの人の事が好きだからここにいるんだよな?」

司の周りにいた人間たちは本物の言葉というものを喋ることはない。
だが今の司はどれが本物の言葉であり偽物であるか見分ける方法を知っている。
そして司自身もビジネスに於いて上っ面をいかに綺麗に装うか。舌先三寸とも言える言葉を喋ることもできる。
だからそこ、自分の口から出る彼女に対しての言葉がどこまで信じて貰えるのか自信がなかった。今でも彼女のことを愛していると。その言葉を伝えるためにここにいるが、10年間を振り返れば、あんなに愛していた人を捨てた男は、その人の前に立つ資格がないように感じられていた。

だが目の前の男の子が喋る言葉は本物だろう。それに街角にじっと立ち尽くしある一点を見つめる男は少年から見れば、おかしな人間と思われたとしても仕方がないのかもしれない。
だから興味を示したとしても不思議ではない。
だがこのしつこさは一体なんなのか?
男の子は逃がすものかと司の前に立ちはだかっていると言ってもいい。
そんな男の子に初めて司は訊いた。

「お前。誰だ?あいつと関係のある人間か?」

「おっさん。やっと俺に興味持ったか?俺が誰か知りたくなったのか?それなら特別に教えてやってもいいけど、おっさん、本当にあの人の知り合いなら名前名乗れよ?それにストーカーじゃねぇって言ったけどそうじゃねぇ証拠を見せろ。そうしたらここから解放してやってもいいぜ」

と男の子は言ったが、解放するもなにも大人の男と小学生では体格も腕力も全てが違う。
子供ひとりかわして逃げることなど造作もない。
だが男の子はニヤリと笑って口を開いた。

「おっさん。逃げようなんて思うなよ?俺の前から無理矢理逃げようとしたら大声で叫んでやる。助けてくれ!誘拐される!殺される!ってな」




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2018
04.07

あの頃の想いをふたたび 3

司は男の子と一緒に公園のベンチにいた。
だが厳密に言えば少年はベンチに座ることはなく彼の前で立っていた。それは、そうすることで目線が同じ高さになることを意識していると言ってもいいはずだ。

そして司がここにいるのは、男の子が司を脅すような言葉を言ったからではない。
子供が大人に対して生意気な口を利くのは強がりであることが殆どだからだ。
だがそれが何に対しての強がりなのか。
どういった理由で司の事が気になるのか。それをどうしても知りたいと思った。
たとえ相手がクソガキだとしても牧野つくしに何らかの関係があるのならそれを知りたいと思った。

そして少年が彼女のことを気にかける理由といったものを知りたいと思った。
そうだ。少年はまるで彼女を守ることが自分の役目であるように振る舞っていると言ってもおかしくはない。
そんなことから一瞬だが頭を過ったのは、まさか、この男の子は年齢的なことからも、二人の間に授かった子供ではないのかということだ。だが彼女が出産した記録はなかった。

司が知っている彼女の人生とは。
牧野つくしは高校を卒業したのち街の小さなパン屋に仕事を求めた。
パン職人になるには免許も資格もいらない。それは貧しかった家庭に育った彼女が望んだとこと。彼女は高齢な店主から指導を受けパンを作る技術を学び、今では店主に変わってパンの製造から店の運営まで任されていた。そして近いうちに跡継ぎのいない店主からその店の経営を譲り受けることになっていた。

それはつまり彼女がその店のオーナーになることであり、その為に必要な資金の融資を金融機関に申し込んでいることも知っていた。それは地域に根ざした企業を支援するという信用金庫。道明寺HDは信用金庫と取引をしたことはなかったが、調べれば簡単に分ることだった。そして融資をするかどうかの結果は問題ないということだ。
つまりそれは、現在の店の経営状況と彼女の真面目な人柄と、学ぶことへの姿勢と努力をする姿が認められたということだ。


そしてパン造りは朝が早い。
つまり早朝から店を閉める時間までずっと働いていた。そして休みは日曜日だけ。
店の形態としては、朝食としての定番のパンといったものから、本日のおすすめのパンといったものを作ってはいるが、品数は多くはない。だが人気がある店で開店と同時に焼きたてのパンを求め客が入る。人によっては、パンは毎日の食卓に欠かせないものであり、自分の好みがある。だから街のパン屋というのは、固定客というものが付くのが当然であり、彼女のパンに大勢の客がいることも知っていた。
だが司はパンがどうやって作られるのか知らない。
それでも彼女が大量の小麦粉にまみれ仕事をしていることだけは理解していた。

司の知らない間に大人の女性として、人生を歩んでいる彼女。
だがそのため働き尽くめの人生を送っているようにも見える。
そしてそんな彼女は独身で男はいなかった。
それは恋愛に現を抜かしている暇などないといったことなのか。
パン職人として一人前になるまでは恋をしている暇はなかったということか。

「おっさん。いつまでも黙ってねぇで名前を言えよ。おっさんあの人の知り合いだって言ったけど本当にそうなのかよ?嘘ついてたら承知しねぇからな!」

子供がいくら啖呵を切ったところで迫力などない。
だがイライラとする子供の姿は可笑しかった。

「坊主。それでなんだ?お前しつこく俺と…..彼女との関係を訊きたがるがどうしてそんなに気になるんだ?」

「おっさん。その前におっさんの名前を言えよ。おっさんなんて名前だよ?」

質問に質問を返す子供というのは頭がいいのか。
それとも人の話を訊いていないのか。どちらにしてもここまで饒舌に喋る男の子の頭は回転が速いということだけは分かる。そして性格は決しておっとりとは言えない。だが所詮子供は子供だ。いくら威勢よく言っていたとしも、司が本気で何か言えば子供は泣きだすはずだ。

けれど何故かそんな気にはなれなかった。話しているうちに相手のペースに乗せられるではないが、その生意気さと必死さが心地よく感じられた。何しろここまで司に真剣に向かって来る人間などいなかったのだから。

「俺の名前か?」

「そうだよ。おっさん誰だよ?おっさん俺におっさんて呼ばれるの嫌だろ?だからおっさんが名前を教えたら俺はその名前で呼んでやる。それから俺の名前も教えてやる。俺は約束したことは絶対に守る男だから心配するな。男としてするべきことも理解してるからな」

と、男の子は真面目な顔をして言ったが、司は名前を告げるのを躊躇った。
それは子供が牧野つくしに近い人物なら、名前を告げることで彼女に自分の存在が伝わることが分っていたからだ。だがそれだけはどうしても避けたい思いがあった。
彼女に自分の存在を知られるのなら、自身が彼女の前で自分の気持を伝えたいからだ。それまでは、自分が記憶を取り戻し、日本にいることを知られたくはなかった。

「俺の名前は高杉。高杉哲也だ。それに俺はストーカーじゃねぇ。知り合いだ…….いや….随分前だが彼女と…牧野つくしと付き合っていたことがある」

司は嘘の名前を告げたが次に口をついたのは真実。
そして漢字はどんな字を書くんだと問われ説明したが、何故この子にそんなことを話してしまったのか。と思うも何故か口をついていた。

「ふーん。やっぱりそうか。ところで俺の名前は賢(まさる)って言う。賢者の賢って書いて賢だ。頭のよさそうな名前だろ?で、おっさん…じゃねぇ、哲也は…牧野つくしの元カレか。
ちなみに俺はあのパン屋の常連だ。だから牧野つくしのことは良く知ってるぜ?何しろあの店のパンは物心ついた頃から毎日食べてるんだ。作った人間のことを知ってるからあのパンの旨さも理解出来る。牧野つくしはまごころを込めてパン生地を捏ねる。だからあそこのパンには気持ちが込められている。この街で一番美味いパンだ。いや日本で一番美味いと思う」

司は賢と名乗った少年が言う言葉は正しいと分かっている。
彼は自分では買いに行くことは出来ないが、使用人に買いに行かせ彼女が作ったパンを食べた。それはカンパーニュと呼ばれる食事用のパンでスープによく合うフランスパンの一種。
どこかで食べた他のカンパーニュより美味いと思った。シンプルなパンだからこそ分る味というものがあった。

「それでなんで牧野つくしのこと見てたんだよ?やっぱ哲也はストーカーじゃねぇって言ったけど牧野つくしのことが忘れられなくてのこのこ現れたってことかよ?」

少年は司が名前を名乗ると、彼女の名前をフルネームで話すようになり、司を哲也と呼び捨てにして、自分の考えが当たっていたことにやっぱりな、と言った。そしてさも分かったように元カノが忘れられない気持ちは分からないでもねぇけどストーカーなんかしたって自分が哀しくなるだけだぞと言葉を継いだ。

「それで?哲也はなんの仕事してんだよ?あんないい車乗ってるくらいだから仕事してんだろ?けど、仕事してんならこんな所で昔の彼女のケツ追っかけてていいのか?」

あんないい車と言われた車は、公園の横に止められていたが、少年は車に興味があるのか。
黒の外国車は人を威圧する車であり、下手に近寄り傷でもつければそれこそ大変なことになると思われているはずだ。だが司にとって車など単なる移動するための道具であり、どうでもいいものだ。そして少年は司の仕事のことを訊いてきた。それはまるで父親が娘の交際相手に君の職業はなんだね?と訊くような口ぶりだった。

「ああ。俺は会社を経営してるから自由が効く」

「ふーん。哲也はアレか?青年実業家ってヤツか?すげえじゃん。で、何の会社だよ?」

「色々と手広くやってる」

「なんだよそれ?その手広くってのは?あ!哲也んとこの会社ってブラック企業か?だから手広くなんて言葉で誤魔化してんだろ?」

次から次へと言葉を繰り出してくる少年。
そして最近の小学生は何でも知っている。
だが子供の口からまさかブラック企業などという言葉が出るとは思わなかったが、周りの大人たちの会話から知ったのか。それともテレビのニュースで知ったのか。だが道明寺HDの系列の中にそういった会社があるといったことは司の耳に届いてはいなかった。
そして少年は司の返事を待っていた。

「うちの会社はそんな会社じゃねぇな」

それにしても、と思う。何故自分は目の前の少年にこうも話しをしてしまうのか。
相手は見ず知らずの小学生。それも生意気を絵に描いたような口ぶり。
子供扱いされることはまっぴらごめんといった態度を取る男の子。だが問題児だとは思えず不思議と憎ったらしいとは思えなかった。そして今は小生意気な口を利くが、幼い頃は、きらきらとした瞳をして親を見ていたはずだ。

「ところでいくら牧野つくしが忘れられないからって元サヤに戻ろうとしても無理だと思うぞ?」

少年が幼かった頃のことを考えていた時、唐突に言われた言葉に司は訊いた。

「どういう意味だ?」

「だって牧野つくしは好きな男がいるって話だ」





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2018
04.08

あの頃の想いをふたたび 4

街は夕暮れ時。
少し前まで公園にいた親子連れや、ベンチに腰掛けていた年寄りたちは家路についた。
世間では間もなく夕食の時間。もう少しすれば近隣の住宅やマンションの窓に明かりが灯るはずだ。


賢と名乗る少年の口から告げられた『牧野つくしは好きな男がいる』の言葉。
それは彼女の作るパンを長年食べ、あの店の常連だから知り得たことなのだろうか。
だが少年の口から零れた言葉は、勘違いなのではないだろうか。
たかが10歳ほどの子供が馴染みのパン屋の女性の恋愛について何を知っているというのか。そう思うのが普通だ。

それでも何かの拍子に少年に言ったのかもしれない。
そしていくら今の彼女が誰とも付き合っていなかったとしても、心の中までは調べようがないのだから思う人がいたとしてもおかしくはない。それに司は10年も彼女のことを忘れていたのだ。彼女がパン職人として働くことを決め、店を任され、経営を引き継ぐことが出来るようになるまで恋をすることがなかったとしても、これからは今までの人生とはまた別の新しい一歩を踏み出そうとしていたとしてもおかしくはない。


司の知らない彼女の10年。
いくら遡ろうとしても戻ることの出来ない10年。
最後に見た顔は、大きく見開いた瞳と一直線に結ばれた口元だった。
二人の関係を壊したのは司であり、彼女ではない。だから好きな男がいると言われたとしても仕方がない話だ。
ただ、彼女のことを思い出し直ぐに帰国したのは、贖罪の気持と共に今でも愛しているという言葉を伝えたいからだ。

最近撮られた写真で見る彼女は、少女の頃とは違い柔らかさが感じられる笑みを浮かべていた。それは社会での経験が色々な意味で彼女を成長させたということだろう。
白い粉にまみれた手がパン生地を持ち上げて裏返すことを繰り返す姿は真剣そのもので、自分が作るパンは誰にも負けないといった気持ちが感じられる。
そして色の白さが際立っていたが、あの当時が硬質の陶器だったとすれば、今は表面に滑らかさと丸みが感じられた。それは大人の女性として身に付けたしなやかさなのか。
そうはいっても17歳の少女の頃の面影は失われてはおらず、司が知っている表情が感じられる写真もあった。
そしてあの頃も化粧が似合わない顔だったが今もそう感じられた。だが薄化粧の黒髪の女性は紛れもなく牧野つくしだ。

どんなことでもそうだが、自分の仕事に誇りを持つ人間の顔は輝いて見える。
そんな輝きが感じられる写真は司にとって明るい陽の光りだった少女の眩しさそのもの。
放蕩とまでは言わないがNYで女と遊んでいた頃、その陽光は前を向き掲げた目標に向かって歩いていた。
もし、司が彼女のことを忘れなければ、その光りは彼だけを照らし、そして普通の恋人同士とまでは言わないが、困難を乗り越えながらも共に過ごす時間が持てたはずだ。
だが今となっては手遅れでどうしようもないのか。







「哲也。俺の話訊いてんのかよ?」

司は哲也という名前が咄嗟に名乗った自分の名であることを失念していた。
だから少年が首を斜めにしたとき、返事が出来なかった。
だがその反応は無表情であり少年にしてみれば、昔別れた女とよりを戻したいと訪れた男が、女には好きな男がいると訊かされ、その事にショックを受けたと感じたのだろう。

「哲也は牧野つくしのことが好きなんだろ?それなら好きな女に男がいたとしても、その男から奪えばいいんじゃねーのか?」

まさか小学生にそんなことを言われるとは思いもしなかったが、小学生も5、6年生になると4割は恋人がいるといった話を訊く。だがもちろん大人の付き合いとは違い、互いに好きだと認め合い、消しゴムを貸すだの本を貸すだのといったレベルの付き合いだが、少年がそんな小学生レベルの恋をしているとしても、他の男子児童と女子児童を取り合うといった考えはあるのだろうか。それにしても、小学生と恋について話をするとは思いもしなかった。
そして少年は常日頃から大人に対し自分の意見をはっきりと言う子供なのか、返事をしない司に業を煮やしたように言葉を継いだ。

「どうすんだよ哲也?牧野つくしに会いたいからここにいるんだろ?
そりゃあ俺は元サヤなんて無理だって言ったけど、さっさと諦めんのかよ?
情けねぇよな。いい年した男がそんなんでどーすんだよ?会社沢山持ってんだろ?経営者ってのは物事の判断を付けるのにそんなに迷うもんなのかよ?まったくどうかしてるぜ。俺なら昔のカノジョでもまた好きになったらさっさとコクるぜ?相手に好きな男がいても言わなきゃ自分の想いは伝わんねぇだろ?なんなら俺が牧野つくしに言ってやろうか。物欲しそうにパンを見てるんじゃなくて牧野つくしを見てる男がいるってな」

少年はそう言うと、司の傍を離れ駆け出そうとしていた。目的地はもちろんパン屋だ。
だから司は慌てて立ち上がると少年を止めた。

「おい待て!止めろ!」

「何だよ?俺が親切心で言って来てやる。哲也が自分で牧野つくしの所へ行けねぇから俺が代わりに行ってやるって言ってんだろ?なんで止めんだよ!哲也は牧野つくしの面影だけを追って生きるのか?それでいいのか?」

振り返った少年は司を叱責した。
司の前に突然現れたこの男の子はいったい何者なのか。
見知らぬ人間に声をかけることから始まり、小学生が身近にいる好きな女の子のことを話すのではなく大人の恋愛について語る少年。
いったい何がこの少年をここまで言わせるのか。司はそんな思いから訊いた。

「お前誰だ?何のためにそんなことをする?」

「だから言っただろ?俺はあの店の美味いパンを毎日食べさせてもらってるただの常連だ。
それから何のためって言われたら…..おっさん….じゃねぇ哲也のためじゃねぇ。牧野つくしのためだ。あいつ好きは男がいるけど、なんかアレなんだよ。はっきりしねぇって言うの?朝早くからパンばっか捏ねてるからか男と接することが極端に少ない。だから女子を捨ててるところがあるんだ。それでも牧野つくし目当てに店に来るヤツらもいるから、その中の誰かが好きなのかと思うけど、わかんねぇ。なんか掴みどころが無いって感じだ。だから思った。もし元カレの哲也のことがほんの少しでも心のどこかにあってまだ気にしてるなら、それを忘れるきっかけを与えてやろうと思う。世話になってるんだからそれくらいするのが俺の役目だ」

何のためにと問われた少年が返した言葉は、司の為にひと肌ぬいでやろうというのではない。勿論それは分かっていた。だが会話の中に挟まれた世話になっているとはどういった意味なのか。何を言おうとしているのか分からなかった。
しかし、パンを買う客がそのパンを作る牧野つくしの世話になっているという意味なら製造者と消費者の関係が近ければ近いほどそういった表現がされることがある。
だが少年が個人的に世話になっているとすればそれは一体どういう意味なのか。

司はそのことを訊こうと思った。
携帯の着信音が鳴ったのはその時だった。
上着のポケットの中から取り出すと耳に当てた。

「なんだ?___ああ___その件か。それは向うへ戻ってからでもいいはずだ。ああ分った。もう少ししたら戻る」

と言って電話を切った。
そして携帯をポケットに入れ再び目の前に立つ少年に目を向けた。

「悪かったな。仕事の電話だ」

「向うへ戻るって、どこか遠くに住んでんのか?」

「ああ。今は東京だが普段はニューヨークに住んでる」

NYで10年暮らした男は擦れていた。
だが目の前の少年は生意気なことも口にするが、司を見つめる瞳は澄んでいる。
そして自分の気持ちを率直に話す。そういったことが出来るのは、もしかすると今だけなのかもしれないが、それでも言葉に嘘が無い分なぜか清々しさが感じられた。
それは大人になった自分には無いもので羨ましくも感じられた。人は年を取るほど感情を表に出さない。いや。出せない感情といったものがある。そして感情を隠し嘘をつくことが出来るようになればそれが大人になった証拠だと言われている。

「そっか。哲也は随分遠くに住んでんだな。それでどうする?牧野つくしに会いたいんだろ?けど行けねぇって言うなら俺が行って元カレが会いたいって言ってるって伝えてやるぜ?でも哲也が行くなら俺は行かねぇ。それに哲也もいつまでここに通うつもりか知らねぇけど仕事も忙しいんだろ?いつかニューヨークへ戻るんだろ?だったらさっさと行って来いよ。それから牧野つくしにフラれたら......もうここに来るな。牧野つくしのことは諦めろ」






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2018
04.09

あの頃の想いをふたたび 5

つくしの起床時間は朝4時20分。
住むアパートは職場であるパン屋から自転車で片道5分の場所にある。
顔を洗い、身支度をして自転車に乗り5時に店に着くと仕込みを始める。
真冬には日の出には程遠い暗闇の中を自転車を漕ぐ事になるが近いこともあり苦にはならなかった。

パン屋によっては、2時や3時といった時間から仕込みを始めるところもある。だがつくしの店は焼き上げるパンの数が多くないため、仕込みの時間も短くて済む。そして開店時間の9時までひたすらパンを焼き上げる作業をする。
そして今日も営業時間の終わりである19時を過ぎれば、いつものように店頭に並べられたトレーから売れ残ったパンを集めていた。

高校を卒業しこの店で働きはじめて9年。
家族同様の付き合いをしている店主は夫婦ふたり暮らしで跡継ぎはいない。
ある日、店主が店を継ぐ人間がいないんだが、やる気があるかと言われ二つ返事で受けた。
そしてここを買い取るための資金は、長年この店と取引がある信用金庫に融資を申し込んでいて審査が通るよう祈っていた。
そして家族同様の従業員はつくしの他に同じパン職人である四つ年下の女性と、販売を担当するパートの女性がひとり。つまり街の小さなパン屋は夫婦と従業員3人で切り盛りしていた。

就職先にパン屋を選んだのは、もともと食べることが好きだったこともあるが、自分が作ったものを人に食べてもらいたいといった思いもあった。それなら何がいいかと考えたとき、経験がある無しに関わらず、専門的な資格も必要がないことからパン職人になろうと思った。手で生地を捏ねる作業は力がいるが、体力には自信があった。それに朝早く起きることが苦痛だとは思わなかった。むしろ朝早く起きることで得をしたように感じていた。

それは早起きは三文の徳と言う言葉があるように、太陽が昇る前に活動することで、昇り来る朝日を最初に浴びることが幸せであるように思えたからだ。
そして時に思う。
かつてその太陽が沈む様子を南の島で眺めたことを。
ただの女の子とただの男が砂浜に腰を下ろし沈む太陽を眺めていたことを。
それは世界がここしかなくて、二人だけのような時間で、ロマンチックな恋愛がからきし駄目だった少女が恋を認識した瞬間だった。だがその恋は突然終わりを迎えた。それは理不尽な出来事の結果であり二人うちの一人は自分の意思として選んだ別れではなかった。


つくしはなんとはなしに窓の外を見た。
日が暮れ始めた歩道を歩く人々は帰宅を急いでいるのか。わき目を振ることなく真っ直ぐ前を向き歩いている。
所々にある街灯の明かりが下を通り抜ける人の顔を照らし見えることもあるが、こちらを見ることはない。

この9年間。数えきれないほどしてきたパンを集める作業。
そして数えきれないほど立ったこの場所。
何かを待っていた訳ではないが、それでもこの場所で何かを待っていた。
いや。何かを待っていたのではない。誰かを待っていたと言った方がいい。

それは、もしかしてあの人が記憶を取り戻し会いに来てくれるのではないかといった微かな希望がなかったとは言えなかった。背の高い男性のシルエットにもしかしてと思ったことがあった。雨の降る日に傘をさすことなく飛び込んで来る人がいればもしかしてと思ったことがあった。だがそれは初めの頃だけだ。1年が過ぎ2年が過ぎ、やがて3年も過ぎればテレビや雑誌であの人のことを見る機会が増えれば増えるほどそれはもうないのだと。失われてしまった自分の記憶が戻ることは決してないのだと理解するようになっていた。
そして身の程といったものを改めて認識した。

それはテレビや雑誌で見る男の住む世界には恋というものはなく、真似事のようなことすらなかった。つまりそれは遊びであり、結婚する相手というのは本人の意思とは関係なく決められるということ。それが財閥の後継者としては当たり前のことであり周知のことなのだ。

そして彼のような男は庶民の娘など歯牙にも掛けないということ。世界的な財閥の跡取り息子とごく普通の.....いやそれよりも下の家庭に育った少女とでは、はじめから住む世界が違っていたのだ。

だがそれは知り合った頃言われていたことだ。
分っていたことだ。
だから仕方がないのだ。
これが運命なら受け入れるしかないのだ。
運命がそれぞれ別の方を向いているならその道を進むしかないのだ。
二人の道が交差したのは人生の中のほんの一瞬の出来事でこれから先、交わることは絶対にないのだから。
だから再出発をすることにした。
下を向き現れることのない人のことを考えるのは、時間の無駄であり前進あるのみだと気持ちを入れ替えた。そしていつか自分の店を持つという目標を定めた。それがもう間もなく叶うはずだ。だから窓の外に背の高い人影を探している場合ではない。



「ねえ。牧野さん。もうすぐこのお店のオーナーになるけど、楽しみよね?融資の審査結果もそろそろ分るのよね?でも大丈夫。牧野さんなら問題ないから。絶対に大丈夫よ」

レジを閉める作業をしている女性に声をかけられ、つくしは振り向いた。

「そう思う?そうだといいんだけど。世の中には絶対なんて言葉はないから結果が出るまで何とも言えないけどね?」

「うんうん。牧野さんなら絶対大丈夫。それにオーナーも言ってたじゃない?牧野さんにならこの店を安心して譲れる。うちの味は牧野さんが引き継いでくれたんだから彼女がいなくなったらこの街の朝の食卓から美味いパンが消えるぞって信用金庫さんを脅してたじゃない?
まあそれは冗談だけど。絶対大丈夫だと思うわ。で、その先のことを考えればうちは固定客が多いけどこれからは益々頑張らなきゃね?牧野さんの焼くパンの評判は誰に訊いても凄く美味しいってことだから心配してないけど、新規開拓じゃないけど近くの集合住宅にチラシでも配る?」

と、言った女性はつくしが働き始めた頃からパートで働いている30代の主婦だが、いつもこうやって頼もしい発言をしてくれるムードメーカー的存在だ。

「そうよね….。新しいマンションも建ったみたいだし、そこの管理人さんにお願いしてチラシを置いてもらうのもいいかもしれないわね?」

「それから新しくバイトを雇う件だけど、人来ると思う?今って人手不足でしょ?うちの時給で来てくれる人いると思う?18歳以上だから大学生でもいいと思うけど、どうかしらねぇ?だって入口に張り紙して1ヶ月になるけど応募者ゼロ。これじゃ全然ダメよね。もしかして張り紙が目立たない?インパクトが弱い?もっと派手に書く?働いてくれる方はパン食べ放題とか!何かいい方法考えなきゃねぇ。何しろ今のオーナー夫婦が引退しちゃうと働き手を二人失うわけで、仕事を3人で回すとなれば忙しいわよね?はぁ~参るわね。でもなんとかやらなきゃね!うん。働くのみだわ!」

今の世の中、働き手が確保できなくて会社が立ち行かなくなるといった話があるが飲食や販売、サービス業といった分野は特に人手不足と言われている。
だからこの店がアルバイトを募集するにあたっての時給で働いてくれる人が現れるのかと問われても分からなかった。
だがその時給以上は出せない。その代わり賄いではないが、焼きたてのパンは食べ放題だ。
だから働いてくれる人が現れるまで待つしかないのだが、パートの女性が言うとおり現れなければ仕方がない。暫くは3人でという状況が続くだろう。

「ねえ、牧野さん。でもさ。もし来てくれる人がイケメンの男の人だったらどうしよう!あたし仕事にならないかも。ほらイケメン俳優に似てるとか……あと….ほらあの人…..よくテレビや雑誌で取り上げられてるイケメンの副社長がいるじゃない?ほら、えーっとあの人よ、あの人!道明寺HDの副社長!あの人みたいな人でもいいわ!」

女性の口から飛び出した道明寺HD副社長という言葉に一瞬だけ胸が弾んだ。
だが、まさかという思いと共に笑いが込み上げた。
それはタキシードや高級なスーツではなく、店の名前が入ったエプロン姿の男がにこやかな笑みを張り付けながら客の対応をする姿。パンを袋に入れ、レジを打ちお釣りを渡す姿。
そんな姿を想像したとき、それは絶対にあり得ないことだからと言って声を上げて笑った。
本当に笑えた。
お腹の底から笑えた。
その名前を訊くことが辛いこともあったが、今はそうではない。だからこそこんなにも笑えるのだと思った。伸ばされた手を掴むことが出来なかったが、今はそれで良かったのだと思う。所詮住む世界が違った人なのだから。












「ここで働きたいんだがバイトの募集はまだしてるのか?」

背後で自動扉が開いた瞬間、香るのはパンの匂いとは別の香り。
と、同時に目の前にいる女性の口がポカンと開き、視線はつくしの後ろに注がれた。


振り向いたその先にいたのは、さり気ないという言葉が全く似合わない男だった。





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