北陸の地から日本海に突き出た能登半島の春はまだ先という頃、一組の男女が乗ったタクシーが奥能登の海に面したひなびた旅館の前に到着した。
降りて来たのは中年よりも年を重ねた男女。
二人は冬のコートを着ていたが、今の能登の寒さには丁度いいはずだ。そして荷物は男が手にしたボストンバックひとつといった少なさだった。
ガラガラと引く扉が開かれれば、その音を訊き付け奥から出て来たのは、年配の男でこの宿の主人。いらっしゃいませと声をかけたが到着した客に目を見張った。
殺風景な玄関に佇む男は背が高く誰もが目を奪われるほど目鼻立ちがはっきりとして、まるで往年の映画俳優のようなオーラが感じられた。もしかすると、近くで映画のロケでもしているのではと思うほど整った顔立ちをしていたが、髪には所々銀色に光るものが見えた。
そして隣に立つ女の方は男より随分と背が低いが、見た所同じ年頃で大きな黒目が印象的な優しそうな顔立ちをしていた。
そんな二人は、どう見ても田舎のひなびた旅館に泊まるような人間には見えなかった。
何故ならひと目見て上等な身なりをしていることが分るからだ。
そして二人の身なりもだが、それとなく感じられる雰囲気といったものもあった。
それを品と言う言葉で表すなら、まさに男の方は堂々としていて風格といったものが感じられ、大企業の重役ではないかといった雰囲気があった。誰にも文句は言わせないといった意思の強さが感じられた。
今日の宿泊客は一組だけで、その一組は東京からの客だという。
そして予約台帳に住まいは東京都世田谷区だと書かれているが、宿の主人は確か世田谷という場所は金持ちが住む地域があったな、とテレビ番組か何かで見たような気がしたと思い出していた。
そんな客ならなおさらこんなひなびた旅館でなくとも中能登へ行けば、七尾湾に面した場所に立派な旅館が立ち並ぶ日本有数の温泉地がある。主人の前に立つ男女はどう考えてもそちらの方が似合う。それなのに何故?といった思いがあるが、旅館が客を選べるはずもなく、こんな古い旅館に来てくれただけでも、ありがたいというものだ。
予約は中村という名前で入っているが、果たしてそれが本当の名前なのか。
男女二人の関係を訊ねることもないのだが、年の頃からすれば夫婦と考えるのが普通だが、そうでもないことも考えられる。
もしかすると、二人は道ならぬ恋をしているのではないか。
そう思ってしまうのは、やはりどう考えてもこんな宿に泊まるような人間ではないと感じるからだ。だから人目を引くことのない、ひなびた宿に泊まることを選らばざるを得ない関係と思ってしまうのが、長年旅館を経営してきた人間の考えることだ。
だが二人がどんな関係だろうと主人には関係のない話しだ。
それでも、こういったひなびた宿で道ならぬ仲の二人が、思いを遂げるということもあり、主人はさりげなく二人の左手を見た。するとそれぞれの薬指に嵌められた指輪が目に止まり、夫婦かと少し安堵した思いで言った。
「どうぞ。お上がりになって下さい。寒かったことでしょう。さあさあどうぞ中へお入り下さい」
そう言われた男は靴を脱ぎ、低い上がり框に揃えて置かれているビニールで出来たスリッパを履いた。
そして連れの女に声をかけた。
「牧野。行こう」
主人は、ああ、自分の見立ては間違っていたかと思う。
長年の勘でだいたいのことは分かるのだが、女の名は「まきの」という名字なのだと自分の考えが外れたのだと思う。
そして男の名前はなんと言うのか知らないが恐らく中村というのは偽名のはずだ。
そうなるとやはりこの二人は道ならぬ恋の最中、つまり不倫旅行ということなのだろうか。
だがそんな主人の思いなど全く気にすることなく男は再び女に声をかけた。
「牧野。靴を脱いで」
そう言われた女は靴を脱ぐとスリッパを履いた。

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降りて来たのは中年よりも年を重ねた男女。
二人は冬のコートを着ていたが、今の能登の寒さには丁度いいはずだ。そして荷物は男が手にしたボストンバックひとつといった少なさだった。
ガラガラと引く扉が開かれれば、その音を訊き付け奥から出て来たのは、年配の男でこの宿の主人。いらっしゃいませと声をかけたが到着した客に目を見張った。
殺風景な玄関に佇む男は背が高く誰もが目を奪われるほど目鼻立ちがはっきりとして、まるで往年の映画俳優のようなオーラが感じられた。もしかすると、近くで映画のロケでもしているのではと思うほど整った顔立ちをしていたが、髪には所々銀色に光るものが見えた。
そして隣に立つ女の方は男より随分と背が低いが、見た所同じ年頃で大きな黒目が印象的な優しそうな顔立ちをしていた。
そんな二人は、どう見ても田舎のひなびた旅館に泊まるような人間には見えなかった。
何故ならひと目見て上等な身なりをしていることが分るからだ。
そして二人の身なりもだが、それとなく感じられる雰囲気といったものもあった。
それを品と言う言葉で表すなら、まさに男の方は堂々としていて風格といったものが感じられ、大企業の重役ではないかといった雰囲気があった。誰にも文句は言わせないといった意思の強さが感じられた。
今日の宿泊客は一組だけで、その一組は東京からの客だという。
そして予約台帳に住まいは東京都世田谷区だと書かれているが、宿の主人は確か世田谷という場所は金持ちが住む地域があったな、とテレビ番組か何かで見たような気がしたと思い出していた。
そんな客ならなおさらこんなひなびた旅館でなくとも中能登へ行けば、七尾湾に面した場所に立派な旅館が立ち並ぶ日本有数の温泉地がある。主人の前に立つ男女はどう考えてもそちらの方が似合う。それなのに何故?といった思いがあるが、旅館が客を選べるはずもなく、こんな古い旅館に来てくれただけでも、ありがたいというものだ。
予約は中村という名前で入っているが、果たしてそれが本当の名前なのか。
男女二人の関係を訊ねることもないのだが、年の頃からすれば夫婦と考えるのが普通だが、そうでもないことも考えられる。
もしかすると、二人は道ならぬ恋をしているのではないか。
そう思ってしまうのは、やはりどう考えてもこんな宿に泊まるような人間ではないと感じるからだ。だから人目を引くことのない、ひなびた宿に泊まることを選らばざるを得ない関係と思ってしまうのが、長年旅館を経営してきた人間の考えることだ。
だが二人がどんな関係だろうと主人には関係のない話しだ。
それでも、こういったひなびた宿で道ならぬ仲の二人が、思いを遂げるということもあり、主人はさりげなく二人の左手を見た。するとそれぞれの薬指に嵌められた指輪が目に止まり、夫婦かと少し安堵した思いで言った。
「どうぞ。お上がりになって下さい。寒かったことでしょう。さあさあどうぞ中へお入り下さい」
そう言われた男は靴を脱ぎ、低い上がり框に揃えて置かれているビニールで出来たスリッパを履いた。
そして連れの女に声をかけた。
「牧野。行こう」
主人は、ああ、自分の見立ては間違っていたかと思う。
長年の勘でだいたいのことは分かるのだが、女の名は「まきの」という名字なのだと自分の考えが外れたのだと思う。
そして男の名前はなんと言うのか知らないが恐らく中村というのは偽名のはずだ。
そうなるとやはりこの二人は道ならぬ恋の最中、つまり不倫旅行ということなのだろうか。
だがそんな主人の思いなど全く気にすることなく男は再び女に声をかけた。
「牧野。靴を脱いで」
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宿の主人は二人を旅館の中で一番いい部屋へと案内した。
だが元々ここは、海に面していることから釣り人が好んで泊る宿であり、どの部屋がどうといった優劣もない。そしてこの季節は釣り人が来ることもないのだから閑散とし、部屋も空いている。だから当然日当たりが良く、海の見える二階の角部屋を用意した。
扉の向うは三畳ほどの次の間に十畳の和室。そしてトイレと風呂がある。
建物は海に面していることから長い間海風に晒されているが、日本家屋はきちんと建てれば長持ちすると言われており、数年前に水回りの修繕をしていることもあるが、二階建てのこの宿は古いがしっかりとした造りだった。
窓の外は灰色の雲と、海は冷たい北風を受け白い波頭が立っていた。
奥能登の海の先は大陸で冬は厳しい寒さがやって来るが、もうそろそろ春の兆しが感じられてもいい頃だ。だがまだ寒いこの季節は観光には向いていない。
こういった商売は意味のない問いかけをすることもあるが、今回は別だ。主人は目の前の二人に興味があった。
だからそんな思いから何故この季節に奥能登を訪れることにしたのか訊きたいと思った。それは宿の主人が客に訊くこととしてはごく普通の問いかけであり、特段おかしなことではないはずだ。
主人は男がコートを脱ぎ寛いだ様子で座卓の前に座っているのとは対照的に、コートを着たまま窓の外をじっと眺めている女に訊くことにしたが、もし女が男の妻なら奥様と呼ぶべきだが、二人を夫婦と断定することは出来ず、その呼び方はしなかった。
「お客様、奥能登は初めてですか?それとも以前いらしたことがあるのですか?」
主人は女に訊いたつもりだったが、その質問に答えたのは男の方だった。
「ああ。以前一度来たことがあるがその時は和倉温泉に泊った」
「そうですが。それはよろしいですね。あそこにはいい旅館が沢山ありますから」
と、主人は答えたが、その時思ったのは、堂々と和倉温泉に宿泊したということは、二人は先ほど考えていた道ならぬ恋をしているのではないということだ。
それならこの二人は何故隠れるようにひなびたこの宿へ来たのか。奥能登の観光なら和倉温泉に泊まっても出来るはずであり、こうして隠れるように田舎のひなびた宿に泊まる必要はないのではと思う。
しかし今の世の中どこで誰が見ているのか分からない。それにもし男が名の知れた大企業の重役なら、地方の温泉地だとしても、彼の顔を知っている人間がいるかもしれないからこの宿を選んだのか。
だがどちらにしても、相手の女を「まきの」という名字と思える名で呼ぶのなら、二人は夫婦ではない。それに男が「中村」だとすれば、左手に嵌った指輪から彼にも家族がいるはずだ。と、なるとやはり今でいうところのW不倫という言葉が当てはまるのだろう。
それにしても、男が主人の思う通り大企業の重役だとすれば、こうしたことが公になれば色々と不味いこともあるはずだ。
それならやはり何も訊くべきではないという結論に至り、主人は館内の説明と食事は何時にお持ちしましょうかと訊き、直ぐに温かいお茶をご用意致しますのでと言って部屋を後にしたが、廊下を進みながら考えた。
もし二人が道ならぬ恋を自分達の命をかけ成就させようとするなら、止めなければといった思いがある。それはどんな事情があろうとも、自ら命を断つといったことだけはしてはならないことだ。死んであの世で結ばれようとするなど考えてはならないことだ。
主人は廊下の突き当りの階段まで来ると一番奥の部屋を振り返った。そしてまさかとは思うが何も起こらないで欲しいと願った。
「奥能登の春は都会より遅いのでもう少し寒い日があるようですけど、すぐに暖かくなるはずです。どうぞお茶とお菓子をお持ちしましたのでお召し上がりになって下さい」
と、着物を着た丸顔の若い娘が二人分のお茶とお菓子を盆に乗せ現れたが、それに答えたのは男の方だ。
「ああ。ありがとう。東京の方がここより暖かいな」
「お客さん東京からですか?東京はここと違って暖かいんでしょうね?」
ああそうだな、と答えた男は薄く笑ったがそれ以上会話をする気は無いのか「これを」と心付けを渡した。受け取った娘は丁寧に礼を述べ、胸元へそれを収めると、次の間まで下がり、襖を静かに締め部屋を出て行った。
だが部屋の中の女は相変わらず窓の外を眺めていて男の方を見ることはなかった。
「牧野。こっちに来て座ろう」
そう言われたが女はじっと外を眺めていた。
だから男は再び言った。
「牧野。座ってお茶を飲もう」
すると女は振り向き言った。
「ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?」

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だが元々ここは、海に面していることから釣り人が好んで泊る宿であり、どの部屋がどうといった優劣もない。そしてこの季節は釣り人が来ることもないのだから閑散とし、部屋も空いている。だから当然日当たりが良く、海の見える二階の角部屋を用意した。
扉の向うは三畳ほどの次の間に十畳の和室。そしてトイレと風呂がある。
建物は海に面していることから長い間海風に晒されているが、日本家屋はきちんと建てれば長持ちすると言われており、数年前に水回りの修繕をしていることもあるが、二階建てのこの宿は古いがしっかりとした造りだった。
窓の外は灰色の雲と、海は冷たい北風を受け白い波頭が立っていた。
奥能登の海の先は大陸で冬は厳しい寒さがやって来るが、もうそろそろ春の兆しが感じられてもいい頃だ。だがまだ寒いこの季節は観光には向いていない。
こういった商売は意味のない問いかけをすることもあるが、今回は別だ。主人は目の前の二人に興味があった。
だからそんな思いから何故この季節に奥能登を訪れることにしたのか訊きたいと思った。それは宿の主人が客に訊くこととしてはごく普通の問いかけであり、特段おかしなことではないはずだ。
主人は男がコートを脱ぎ寛いだ様子で座卓の前に座っているのとは対照的に、コートを着たまま窓の外をじっと眺めている女に訊くことにしたが、もし女が男の妻なら奥様と呼ぶべきだが、二人を夫婦と断定することは出来ず、その呼び方はしなかった。
「お客様、奥能登は初めてですか?それとも以前いらしたことがあるのですか?」
主人は女に訊いたつもりだったが、その質問に答えたのは男の方だった。
「ああ。以前一度来たことがあるがその時は和倉温泉に泊った」
「そうですが。それはよろしいですね。あそこにはいい旅館が沢山ありますから」
と、主人は答えたが、その時思ったのは、堂々と和倉温泉に宿泊したということは、二人は先ほど考えていた道ならぬ恋をしているのではないということだ。
それならこの二人は何故隠れるようにひなびたこの宿へ来たのか。奥能登の観光なら和倉温泉に泊まっても出来るはずであり、こうして隠れるように田舎のひなびた宿に泊まる必要はないのではと思う。
しかし今の世の中どこで誰が見ているのか分からない。それにもし男が名の知れた大企業の重役なら、地方の温泉地だとしても、彼の顔を知っている人間がいるかもしれないからこの宿を選んだのか。
だがどちらにしても、相手の女を「まきの」という名字と思える名で呼ぶのなら、二人は夫婦ではない。それに男が「中村」だとすれば、左手に嵌った指輪から彼にも家族がいるはずだ。と、なるとやはり今でいうところのW不倫という言葉が当てはまるのだろう。
それにしても、男が主人の思う通り大企業の重役だとすれば、こうしたことが公になれば色々と不味いこともあるはずだ。
それならやはり何も訊くべきではないという結論に至り、主人は館内の説明と食事は何時にお持ちしましょうかと訊き、直ぐに温かいお茶をご用意致しますのでと言って部屋を後にしたが、廊下を進みながら考えた。
もし二人が道ならぬ恋を自分達の命をかけ成就させようとするなら、止めなければといった思いがある。それはどんな事情があろうとも、自ら命を断つといったことだけはしてはならないことだ。死んであの世で結ばれようとするなど考えてはならないことだ。
主人は廊下の突き当りの階段まで来ると一番奥の部屋を振り返った。そしてまさかとは思うが何も起こらないで欲しいと願った。
「奥能登の春は都会より遅いのでもう少し寒い日があるようですけど、すぐに暖かくなるはずです。どうぞお茶とお菓子をお持ちしましたのでお召し上がりになって下さい」
と、着物を着た丸顔の若い娘が二人分のお茶とお菓子を盆に乗せ現れたが、それに答えたのは男の方だ。
「ああ。ありがとう。東京の方がここより暖かいな」
「お客さん東京からですか?東京はここと違って暖かいんでしょうね?」
ああそうだな、と答えた男は薄く笑ったがそれ以上会話をする気は無いのか「これを」と心付けを渡した。受け取った娘は丁寧に礼を述べ、胸元へそれを収めると、次の間まで下がり、襖を静かに締め部屋を出て行った。
だが部屋の中の女は相変わらず窓の外を眺めていて男の方を見ることはなかった。
「牧野。こっちに来て座ろう」
そう言われたが女はじっと外を眺めていた。
だから男は再び言った。
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すると女は振り向き言った。
「ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?」

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『ねえ。どうしてあたし達こんなところにいるの?』
司はそう訊かれたが黙ったまま彼女を見つめていた。
だがそれは最近ではいつもそうだった。
どうして?
なぜ?
質問ばかり繰り返す。
そして司が何も言わないことに女は再び訊いた。
どうして、と。
だが何度訊かれても返す答えはいつも同じだ。
「ここが牧野のいる場所だからだ。お前がここに来たいと言ったからだ」
「そんなこと言った覚えがないわ」
「いや。言ったんだ」
「嘘よ。あたしそんなこと言わないもの。それにこんな所に来たいだなんて言ってないわ」
「牧野…。いいか?お前がここに来たいといったから俺はお前とここに来た」
すると彼女は黙った。
だが再び口を開くと言った。
「あなた…誰?」
「牧野。道明寺だ。道明寺司だ。お前の夫だ」
「嘘。あたし道明寺と結婚なんかしてないわ。道明寺はニューヨークにいるもの」
「牧野…..まあいいからここへ来て座りなさい」
司はそう言って立ち上がるとコートを脱がせ座卓の前に座らせた。
そして彼女が淹れられたお茶に口を付け、まんじゅうを包む薄紙を剥がす様子を眺めていた。
二人は夫婦だ。
生きていくことの素晴らしさを教えてくれたのは妻だ。
彼が生きていく上で欠かせない人だ。
出逢いのその日から彼女に惹き付けられた。
だが彼女が司に振り向いてくれるまで時間がかかった。何でも自分の想い通りにして来た少年は、他人の心を理解することが出来なかった。他人を傷付けることなど気に留めたこともなかった。
だが彼は変わった。人の心を理解しようとした。そして彼女に自分と同じ気持ちになって欲しいと望んだ。やがてその願いが叶い、二人で幸せになりたくて出来ることなら何でもした。
二人の前に立ちはだかる高い壁というものがあるなら、それをぶち壊してやると言った。
だが彼女はそれを壊すのではなく、乗り越えることを望んだ。だからNYと東京で離れ離れになった4年間というものがあった。そして晴れて彼女と生きて行くことが出来たのは、司が大学を卒業して3年が経ってから。付き合い始めて7年という時が流れていた。
妻のこの症状はかつて司が陥った記憶喪失ではない。
ただ、記憶があやふやになっているだけだ。
そして彼が妻のことを牧野と呼ぶのは、彼女がその呼び名が好きだから。
彼がかつてそう呼んでいた名前で呼ばれることで安心するから。
そして夫である司のことも道明寺と呼ぶ。
それは彼女がそう呼ぶのが好きだから。
結婚するまでの間その名前で彼を呼んでいたから、今は遠い昔に呼び合っていた名前で呼ぶことで、彼女が彼を何者であるか理解することが出来るから道明寺と呼んでいた。
司はそれでも構わなかった。自分のことを理解出来るなら道明寺だろうが、司だろうが構わなかった。たとえ時に彼が誰か分からなくなり、彼と結婚していることを忘れているとしても、道明寺という名前を覚えているだけでよかった。
妻が認知症と呼ばれるものを患ったのは58歳のとき。
65歳未満の人間が発症すれば若年性認知症と呼ばれるが、妻の場合はアルツハイマー型認知症。
だが最初は気付かなかった。
些細なことを忘れてもそれは疲れていたから。もう歳だから。
ちょっとした失敗もよくあることと片付けていたから。
約束の時間を忘れたのは、手帳を見なかったから。
年を取れば徐々に身体が衰えるのは当たり前であり、若い頃と同じようには行かなくなると分かっていたから認知機能の低下とは思わなかった。
発症の平均年齢は約51歳と言われ、早ければ40代前半からということも訊く進行性の病気は、完治は難しいと言われ徐々に認知機能が失われて行く。
今日が何年の何月何日なのかも、自分の名前も、人間の基本的動作である食事や排泄の仕方といったことも忘れ、人として尊厳を保つことが難しくなり日常の生活にも支障をきたすようになる病。
そうなることを恐れる人間は多いが、まさか妻がその病に罹るとは思いもしなかった。
だがそれは、本人も思いもしなかったことだ。
司は世界中の医師に訊いた。
どうすればこの病を治すことが出来るのか。
完全に治らなくとも進行を止めることは出来ないのかと。
だが大勢の医師に問うたが答えは皆同じで首を横に振る。
現代の医療で治すことは出来ません。
特効薬を発見することが出来ればノーベル賞ものだと言われる病に治療薬はございません。
だが一時回復に向ったこともあった。
そして時に正常に戻っていることもあった。
そんな時は司と呼び、瞳にはっきりとした意思が宿る。若い頃、彼が惚れた強い意思を湛えたきらきらとした黒い瞳がじっと司を見つめ問いかける。
『あたしどうしたの?』と。
そしてごく普通の会話が成り立つことがある。
そんな時、愛しさと悲しさと嬉しさの全てが混ざり合い、抱きしめて名前を呼ぶ。
「つくし。つくし。お前どこに行こうとしてる?」
すると笑って答える。
「え?なに?あたしどこへも行かないよ?ずっと司の傍にいるって約束したでしょ?」
その答えを訊くたび胸のうちに吹き荒れる風がある。
その笑顔を見るたびそのままでいて欲しいと願う。時が止ればいいと願う。
そして必ず抱きしめて言う。
「大丈夫だ。俺がついてる。俺がいるから大丈夫だ」と。
だが何が大丈夫なのかと妻は訊かない。
そして司も大丈夫だからとしか言えなかった。
そして思う。彼女が自分を置いて別の世界へ行こうとしていることをどうしたら止めることが出来るのかと。だがどんなに金を積もうとこの病を治すことは出来ない。
どれだけ高名な医師に尋ねても治療方法は確立されてないと言う。
だから司に出来ることは、彼女の傍にいて彼女のすることを見て、彼女の考えを汲み取ってやること。
少しでも思考が保たれているのならその思いを理解してやること。
それが出来るのは自分だけなのだから。
そして61歳になった今。この半年で彼女の病は進んでいた。
医師はおずおずとだがはっきりと言葉にした。
自宅で見ることが難しくなれば入院をお考え下さい。その時は万全を期して奥様のお世話を致しますと。
そして言った。
来年の今頃にはご主人のことも理解出来なくなるでしょうと。
妻は自分の病を知った時、これから自分が向かう先に見える世界を知り言った。
「司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの」
それは冬の能登の風物詩と言われる「波の花」。
11月中旬から2月下旬の海が荒れ波も高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気温が2度以下、7メートル程度の風速が発生条件だと言われ、見ることが出来れば幸運と呼ばれる波の花は、海水中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が岩にぶつかるたび空気を含み、せっけん状の泡が作られて雪のように海岸を覆い、風に乗って高く舞う。
だが、海が汚染されていると泡が作られにくいと言われている。
それを見に行ったのは、病を寄せ付けることがないと言われ、元気だけがあたしの取り柄だからと言っていた頃、テレビ番組を見ていた妻が言ったひと言。
『あの景色が見たい』
それは、自らどこかに行きたいと言ったことのない妻の口から珍しく出た言葉で、司は願いを叶えてやろうと思った。
だから能登の天候と自分のスケジュールを照らし合わせ、思い立ったら吉日とばかりジェットを飛ばし行ったが、あれから何年経ったのか。
『あの景色が見たい』
そんな妻の思いを叶えてやれるのは、今年の冬が最後だと医師から言われた。
それは二人だけで行動できるチャンスは今だけと言う意味。
今ならまだ司ひとりで彼女の世話ができる。
だから司は妻を連れこの場所に来た。

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どうして?
なぜ?
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どうして、と。
だが何度訊かれても返す答えはいつも同じだ。
「ここが牧野のいる場所だからだ。お前がここに来たいと言ったからだ」
「そんなこと言った覚えがないわ」
「いや。言ったんだ」
「嘘よ。あたしそんなこと言わないもの。それにこんな所に来たいだなんて言ってないわ」
「牧野…。いいか?お前がここに来たいといったから俺はお前とここに来た」
すると彼女は黙った。
だが再び口を開くと言った。
「あなた…誰?」
「牧野。道明寺だ。道明寺司だ。お前の夫だ」
「嘘。あたし道明寺と結婚なんかしてないわ。道明寺はニューヨークにいるもの」
「牧野…..まあいいからここへ来て座りなさい」
司はそう言って立ち上がるとコートを脱がせ座卓の前に座らせた。
そして彼女が淹れられたお茶に口を付け、まんじゅうを包む薄紙を剥がす様子を眺めていた。
二人は夫婦だ。
生きていくことの素晴らしさを教えてくれたのは妻だ。
彼が生きていく上で欠かせない人だ。
出逢いのその日から彼女に惹き付けられた。
だが彼女が司に振り向いてくれるまで時間がかかった。何でも自分の想い通りにして来た少年は、他人の心を理解することが出来なかった。他人を傷付けることなど気に留めたこともなかった。
だが彼は変わった。人の心を理解しようとした。そして彼女に自分と同じ気持ちになって欲しいと望んだ。やがてその願いが叶い、二人で幸せになりたくて出来ることなら何でもした。
二人の前に立ちはだかる高い壁というものがあるなら、それをぶち壊してやると言った。
だが彼女はそれを壊すのではなく、乗り越えることを望んだ。だからNYと東京で離れ離れになった4年間というものがあった。そして晴れて彼女と生きて行くことが出来たのは、司が大学を卒業して3年が経ってから。付き合い始めて7年という時が流れていた。
妻のこの症状はかつて司が陥った記憶喪失ではない。
ただ、記憶があやふやになっているだけだ。
そして彼が妻のことを牧野と呼ぶのは、彼女がその呼び名が好きだから。
彼がかつてそう呼んでいた名前で呼ばれることで安心するから。
そして夫である司のことも道明寺と呼ぶ。
それは彼女がそう呼ぶのが好きだから。
結婚するまでの間その名前で彼を呼んでいたから、今は遠い昔に呼び合っていた名前で呼ぶことで、彼女が彼を何者であるか理解することが出来るから道明寺と呼んでいた。
司はそれでも構わなかった。自分のことを理解出来るなら道明寺だろうが、司だろうが構わなかった。たとえ時に彼が誰か分からなくなり、彼と結婚していることを忘れているとしても、道明寺という名前を覚えているだけでよかった。
妻が認知症と呼ばれるものを患ったのは58歳のとき。
65歳未満の人間が発症すれば若年性認知症と呼ばれるが、妻の場合はアルツハイマー型認知症。
だが最初は気付かなかった。
些細なことを忘れてもそれは疲れていたから。もう歳だから。
ちょっとした失敗もよくあることと片付けていたから。
約束の時間を忘れたのは、手帳を見なかったから。
年を取れば徐々に身体が衰えるのは当たり前であり、若い頃と同じようには行かなくなると分かっていたから認知機能の低下とは思わなかった。
発症の平均年齢は約51歳と言われ、早ければ40代前半からということも訊く進行性の病気は、完治は難しいと言われ徐々に認知機能が失われて行く。
今日が何年の何月何日なのかも、自分の名前も、人間の基本的動作である食事や排泄の仕方といったことも忘れ、人として尊厳を保つことが難しくなり日常の生活にも支障をきたすようになる病。
そうなることを恐れる人間は多いが、まさか妻がその病に罹るとは思いもしなかった。
だがそれは、本人も思いもしなかったことだ。
司は世界中の医師に訊いた。
どうすればこの病を治すことが出来るのか。
完全に治らなくとも進行を止めることは出来ないのかと。
だが大勢の医師に問うたが答えは皆同じで首を横に振る。
現代の医療で治すことは出来ません。
特効薬を発見することが出来ればノーベル賞ものだと言われる病に治療薬はございません。
だが一時回復に向ったこともあった。
そして時に正常に戻っていることもあった。
そんな時は司と呼び、瞳にはっきりとした意思が宿る。若い頃、彼が惚れた強い意思を湛えたきらきらとした黒い瞳がじっと司を見つめ問いかける。
『あたしどうしたの?』と。
そしてごく普通の会話が成り立つことがある。
そんな時、愛しさと悲しさと嬉しさの全てが混ざり合い、抱きしめて名前を呼ぶ。
「つくし。つくし。お前どこに行こうとしてる?」
すると笑って答える。
「え?なに?あたしどこへも行かないよ?ずっと司の傍にいるって約束したでしょ?」
その答えを訊くたび胸のうちに吹き荒れる風がある。
その笑顔を見るたびそのままでいて欲しいと願う。時が止ればいいと願う。
そして必ず抱きしめて言う。
「大丈夫だ。俺がついてる。俺がいるから大丈夫だ」と。
だが何が大丈夫なのかと妻は訊かない。
そして司も大丈夫だからとしか言えなかった。
そして思う。彼女が自分を置いて別の世界へ行こうとしていることをどうしたら止めることが出来るのかと。だがどんなに金を積もうとこの病を治すことは出来ない。
どれだけ高名な医師に尋ねても治療方法は確立されてないと言う。
だから司に出来ることは、彼女の傍にいて彼女のすることを見て、彼女の考えを汲み取ってやること。
少しでも思考が保たれているのならその思いを理解してやること。
それが出来るのは自分だけなのだから。
そして61歳になった今。この半年で彼女の病は進んでいた。
医師はおずおずとだがはっきりと言葉にした。
自宅で見ることが難しくなれば入院をお考え下さい。その時は万全を期して奥様のお世話を致しますと。
そして言った。
来年の今頃にはご主人のことも理解出来なくなるでしょうと。
妻は自分の病を知った時、これから自分が向かう先に見える世界を知り言った。
「司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの」
それは冬の能登の風物詩と言われる「波の花」。
11月中旬から2月下旬の海が荒れ波も高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気温が2度以下、7メートル程度の風速が発生条件だと言われ、見ることが出来れば幸運と呼ばれる波の花は、海水中に浮遊する植物性プランクトンの粘液が岩にぶつかるたび空気を含み、せっけん状の泡が作られて雪のように海岸を覆い、風に乗って高く舞う。
だが、海が汚染されていると泡が作られにくいと言われている。
それを見に行ったのは、病を寄せ付けることがないと言われ、元気だけがあたしの取り柄だからと言っていた頃、テレビ番組を見ていた妻が言ったひと言。
『あの景色が見たい』
それは、自らどこかに行きたいと言ったことのない妻の口から珍しく出た言葉で、司は願いを叶えてやろうと思った。
だから能登の天候と自分のスケジュールを照らし合わせ、思い立ったら吉日とばかりジェットを飛ばし行ったが、あれから何年経ったのか。
『あの景色が見たい』
そんな妻の思いを叶えてやれるのは、今年の冬が最後だと医師から言われた。
それは二人だけで行動できるチャンスは今だけと言う意味。
今ならまだ司ひとりで彼女の世話ができる。
だから司は妻を連れこの場所に来た。

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座卓の上に夕食の準備が整ったのは午後7時。
それは妻がいつも食事をする時間。
並べられているのは天ぷらや刺身。加賀料理のひとつである治部煮や胡麻豆腐。固形燃料の上に置かれた鉄鍋には蓋がされていた。そして大きなカニが一杯付いていた。
「どうぞ。こちらが“干しくちこ”です」
と言って着物を着た若い丸顔の娘は、司の前にだけそれを置いた。
「干しくちこ」はナマコの生殖巣を原料とした乾物で日本酒との相性が抜群だと言われているが、三味線のバチの形をしたその乾物には、約50匹のナマコの卵巣が使われていることから、能登の最高級珍味で珍味の極めつけと言われている。
だが司は頼んだ覚えはなかった。そんな男の表情を見た娘は言葉を添えた。
「宿からのサービスです。いいんです。今の季節お客さんが少ないですから、いつまでも置いていても仕方がありませんから。それから熱燗はどちらに置きましょうか?」
と言われ司は自分の方へ置いてくれと言った。
そして娘は緑色の固形燃料に火をつけ、お食事が終わられましたらお電話下さい。と言って部屋から出ていった。
「牧野。食事をしよう。こっちへ来て座るんだ」
司は客室内ベランダの椅子に腰掛けている妻に声をかけたが、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。だが視線の先は暗闇で何も見えるはずはないのだがそれでも外を眺めていた。
そしてガラス窓には司と妻の顔が映っているが、夫と視線が合った妻は振り返ると立ち上がった。そして大人しく座卓に着いた。
「司。連れて来てくれてありがとう。約束守ってくれたのね?」
脳は不思議なもので突然覚醒することがあると言われていたが、妻が自分のことを司と呼んだ瞬間、嗚呼、彼女が戻ってきたと嬉しくなった。黒い瞳が意思を持って自分を見ていることが嬉しかった。
だがまたいつ元の状態に戻るか分からない。だから話したい大切なことがあるなら今なのだが、自分の話しよりもまず妻の言いたいことを訊くべきだと分かっていた。だから「ああ」と返事をすると妻が言葉を継ぐのを待った。
「波の花。見れると思う?」
「多分見れるはずだ」
と答え妻の顔をじっと見つめた。
『司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの』
それは妻が正常な状態のとき言われた言葉だが、その願いを叶えるためここに来た。
だがそれが意味するのは、今が妻にとって何もかも忘れてしまう前のかけがえのない時間だということになる。
その意味を妻は理解しているのか。それともそうではないのか。
夫のそんな思いをよそに、妻は微笑みを浮かべていた。
「そう。良かった。ねえ、それあたしが注いであげるから」
そう言って司の方へ置かれていた徳利に手を伸ばした。そんな妻に司は猪口を手に取ったが「少しでいいから」と差し出した。
高校生の頃から当たり前のように酒を飲んでいた男は、渡米してから酒を控えるようになった。それは、酒を飲んで憂さを晴らす必要が無くなったからだ。
そして結婚してからの司は、外で飲むのは仕事の付き合いだけになった。
人間は目標が出来れば前を向いて歩くことが出来る。
初めての恋を成就させるためならどんなことでも出来た。若い司の一直線ともいえる思いは、過去の自分を捨て、目的に向って前を見つめ歩くことだけをした。そして初恋の人と一緒になり人生最大の幸福を感じた。
長い結婚生活の中で楽しい思い出は沢山あるが、年を重ねると、家ではこうして妻に酌をしてもらうこともよくあった。その時はしみるほど幸せを感じた。
子供が生まれた時もそれは嬉しかった。
幸せな出来事は数えきれないほどあった。
そして子供たちが結婚するとまた二人だけの生活になり、人生を楽しもうとしていた矢先、認めがたい現実というものに出くわした。
あの時妻はこれも運命だと受け止めた。そしてこれからの人生について考えた。
司は妻が無邪気な少女のような姿になることが悲しいのではない。
ただ自分のことを忘れ、二人の想い出を忘れていくことが哀しかった。
二人にとってかけがえのない想い出が妻の中から失われていくのが辛かった。
だが認めなければならない。
夫のことを忘れ、子供たちのことを忘れ、自分が誰であるかを忘れていく妻を。
けれど、目の前で添えられたスプーンで胡麻豆腐を掬い美味しそうに食べる姿は以前と同じ妻だ。だからその姿に希望が見えることもある。
「…..ねえ。司。あたしのもうひとつお願い覚えてるわよね?」
手を止め口をついたその言葉。
何の話しをしようとしているのか分かった。
大きな黒い瞳は、真剣な色を湛え彼を見ていたが、司もまたそんな妻を見つめていた。
そして嘘をついても仕方ないという思いから正直に答えた。
何しろ妻がこうして正常でいる時間がどれくらいなのか分からないのだから、会話が成り立つ時は真摯に答えていた。
「ああ。覚えてる」
「そう。良かった」
と言って再び豆腐を掬う妻はどこかホッとしたような顔をしていた。
『そう。良かった』
その言葉の意味は、彼女のもうひとつの願いを叶えてやること。
いや。叶えて欲しいと言われた。
あたしの記憶が消え去ってしまう前に願いを訊いて、必ず叶えて欲しいと言われた。
それは波の花を見ることと同じくらい大切なことだからと。
『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』
終生の愛を誓ってから随分と時が経っていたが、これほど辛いと感じたことはなかった。
愛しているからこそ彼女の願いならどんなことでも叶えてやりたい。だが彼女のその願いだけはどうしても叶えてやることは出来ない。
だがそのことを見越していたのか妻は言った。
『あたし辛いの。司のことを忘れてしまうのが。一生この人と生きて行こうって。一生この人を愛していこうって決めた人を忘れるのが辛いの。司の顔を見て誰って言ったときの司の顔を想像すると辛いの』
そう言ってぽろぽろと涙を零す姿が瞼に焼き付いている。
黒い瞳に浮かんだ涙がどんなものだろうと、どんな涙が零れ落ちようと、その涙は全て受け止めると結婚したとき誓った。
そして全ての涙をゆだねて欲しいと言った。
だから妻の流す涙は夫である自分が受け止めてやらなければならなかった。
だが彼女のあの時の涙をどうすればいいのか分からなかった。
流れ続ける涙を止めてやることが出来なかった。
そして渡された封筒。
結婚してから自分の我を通したことのない妻が、これだけはどうしても叶えて欲しいと言い手渡してきた封筒。
そして言った言葉。
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』
その言葉がふざけて言ったなら彼にも分る。
だが低く真剣な声色で言われ、司を黙らせるだけの落ち着きがあった。
そして彼女の表情は弛緩などしておらず、瞳もはっきりとした意思を示していた。
その瞳はかつて司を虜にした真っ直ぐな瞳。信念を持つ女の強い瞳。
周りが止めたところで、自分が信じることはやり抜くといった女の瞳。
だから恐かった。と同時に妻の言葉に込められた意味を充分理解した。
だがその言葉がどんなに夫を傷つけたか妻は分かっていたのか。
だから明日ばかりは、妻が正常な状態でいないで欲しいと心から願わずにはいられなかった。

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だが司は頼んだ覚えはなかった。そんな男の表情を見た娘は言葉を添えた。
「宿からのサービスです。いいんです。今の季節お客さんが少ないですから、いつまでも置いていても仕方がありませんから。それから熱燗はどちらに置きましょうか?」
と言われ司は自分の方へ置いてくれと言った。
そして娘は緑色の固形燃料に火をつけ、お食事が終わられましたらお電話下さい。と言って部屋から出ていった。
「牧野。食事をしよう。こっちへ来て座るんだ」
司は客室内ベランダの椅子に腰掛けている妻に声をかけたが、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていた。だが視線の先は暗闇で何も見えるはずはないのだがそれでも外を眺めていた。
そしてガラス窓には司と妻の顔が映っているが、夫と視線が合った妻は振り返ると立ち上がった。そして大人しく座卓に着いた。
「司。連れて来てくれてありがとう。約束守ってくれたのね?」
脳は不思議なもので突然覚醒することがあると言われていたが、妻が自分のことを司と呼んだ瞬間、嗚呼、彼女が戻ってきたと嬉しくなった。黒い瞳が意思を持って自分を見ていることが嬉しかった。
だがまたいつ元の状態に戻るか分からない。だから話したい大切なことがあるなら今なのだが、自分の話しよりもまず妻の言いたいことを訊くべきだと分かっていた。だから「ああ」と返事をすると妻が言葉を継ぐのを待った。
「波の花。見れると思う?」
「多分見れるはずだ」
と答え妻の顔をじっと見つめた。
『司。お願いがあるの。あたしが司のことを忘れてしまう前に、何もかも忘れてしまう前に行きたい所があるの。能登半島のあの景色が見たいの。若い頃二人で行ったあの景色が見たいの』
それは妻が正常な状態のとき言われた言葉だが、その願いを叶えるためここに来た。
だがそれが意味するのは、今が妻にとって何もかも忘れてしまう前のかけがえのない時間だということになる。
その意味を妻は理解しているのか。それともそうではないのか。
夫のそんな思いをよそに、妻は微笑みを浮かべていた。
「そう。良かった。ねえ、それあたしが注いであげるから」
そう言って司の方へ置かれていた徳利に手を伸ばした。そんな妻に司は猪口を手に取ったが「少しでいいから」と差し出した。
高校生の頃から当たり前のように酒を飲んでいた男は、渡米してから酒を控えるようになった。それは、酒を飲んで憂さを晴らす必要が無くなったからだ。
そして結婚してからの司は、外で飲むのは仕事の付き合いだけになった。
人間は目標が出来れば前を向いて歩くことが出来る。
初めての恋を成就させるためならどんなことでも出来た。若い司の一直線ともいえる思いは、過去の自分を捨て、目的に向って前を見つめ歩くことだけをした。そして初恋の人と一緒になり人生最大の幸福を感じた。
長い結婚生活の中で楽しい思い出は沢山あるが、年を重ねると、家ではこうして妻に酌をしてもらうこともよくあった。その時はしみるほど幸せを感じた。
子供が生まれた時もそれは嬉しかった。
幸せな出来事は数えきれないほどあった。
そして子供たちが結婚するとまた二人だけの生活になり、人生を楽しもうとしていた矢先、認めがたい現実というものに出くわした。
あの時妻はこれも運命だと受け止めた。そしてこれからの人生について考えた。
司は妻が無邪気な少女のような姿になることが悲しいのではない。
ただ自分のことを忘れ、二人の想い出を忘れていくことが哀しかった。
二人にとってかけがえのない想い出が妻の中から失われていくのが辛かった。
だが認めなければならない。
夫のことを忘れ、子供たちのことを忘れ、自分が誰であるかを忘れていく妻を。
けれど、目の前で添えられたスプーンで胡麻豆腐を掬い美味しそうに食べる姿は以前と同じ妻だ。だからその姿に希望が見えることもある。
「…..ねえ。司。あたしのもうひとつお願い覚えてるわよね?」
手を止め口をついたその言葉。
何の話しをしようとしているのか分かった。
大きな黒い瞳は、真剣な色を湛え彼を見ていたが、司もまたそんな妻を見つめていた。
そして嘘をついても仕方ないという思いから正直に答えた。
何しろ妻がこうして正常でいる時間がどれくらいなのか分からないのだから、会話が成り立つ時は真摯に答えていた。
「ああ。覚えてる」
「そう。良かった」
と言って再び豆腐を掬う妻はどこかホッとしたような顔をしていた。
『そう。良かった』
その言葉の意味は、彼女のもうひとつの願いを叶えてやること。
いや。叶えて欲しいと言われた。
あたしの記憶が消え去ってしまう前に願いを訊いて、必ず叶えて欲しいと言われた。
それは波の花を見ることと同じくらい大切なことだからと。
『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しいの』
終生の愛を誓ってから随分と時が経っていたが、これほど辛いと感じたことはなかった。
愛しているからこそ彼女の願いならどんなことでも叶えてやりたい。だが彼女のその願いだけはどうしても叶えてやることは出来ない。
だがそのことを見越していたのか妻は言った。
『あたし辛いの。司のことを忘れてしまうのが。一生この人と生きて行こうって。一生この人を愛していこうって決めた人を忘れるのが辛いの。司の顔を見て誰って言ったときの司の顔を想像すると辛いの』
そう言ってぽろぽろと涙を零す姿が瞼に焼き付いている。
黒い瞳に浮かんだ涙がどんなものだろうと、どんな涙が零れ落ちようと、その涙は全て受け止めると結婚したとき誓った。
そして全ての涙をゆだねて欲しいと言った。
だから妻の流す涙は夫である自分が受け止めてやらなければならなかった。
だが彼女のあの時の涙をどうすればいいのか分からなかった。
流れ続ける涙を止めてやることが出来なかった。
そして渡された封筒。
結婚してから自分の我を通したことのない妻が、これだけはどうしても叶えて欲しいと言い手渡してきた封筒。
そして言った言葉。
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』
その言葉がふざけて言ったなら彼にも分る。
だが低く真剣な声色で言われ、司を黙らせるだけの落ち着きがあった。
そして彼女の表情は弛緩などしておらず、瞳もはっきりとした意思を示していた。
その瞳はかつて司を虜にした真っ直ぐな瞳。信念を持つ女の強い瞳。
周りが止めたところで、自分が信じることはやり抜くといった女の瞳。
だから恐かった。と同時に妻の言葉に込められた意味を充分理解した。
だがその言葉がどんなに夫を傷つけたか妻は分かっていたのか。
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Comment:4
「凄い!見て!あんなに沢山!それあんなに高いところまで舞い上がってるわ!」
子供のようにはしゃぐ妻。
二人の目の前に広がる風景は遠い昔見た景色。
それは妻が見たいと言っていた日本海の風物詩と言われ冬の能登の風物詩である波の花。
海が荒れ波が高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気象条件が揃ったその日。打ち寄せる波がせっけんの泡のようになり、風に乗って高く舞っていた。
タクシーを降りた二人は、目の前の海岸に荒波が打ちつけ泡が舞う様子を眺めていたが、司の目に映る妻は正常な状態でいることは分っていたが珍しいことだと思った。
それは能登に着いた昨日。
冷えたこの場所の空気に脳が覚醒したのか。それともこの土地の記憶といったものが脳に何らかの作用をもたらしたのか。ここに来たいと願った妻の心に何らかの働きをもたらしたのか。
夕食を食べ始めると正常に戻りそれからも変わることなく朝起きても変わらなかった。
そして今の妻は寒さに頬を赤く染め海を見ていた。
夜明けを迎え隣に寝ていた妻の姿は健やかだった。
何かに困惑したような表情もなければ、眉間に皺を寄せ司の顔を見てあなたは誰とは言わなかった。思考が途切れたようになり、遠くを見るような瞳で焦点が合わないような表情をすることも無かった。
そして二人は昨日抱き合った。
それは何年振りかの行為。
それが妻が妻でなくなる前に神が与えた夫婦としての最後の夜だとすれば、愛さずにはいられなかった。だから心と身体の全てを使って愛した。
妻が今のような状態になって間もない頃一度だけ抱こうとしたことがあった。
それは自分の愛で状況を変えたいと思ったから。抱き合えば何かが変わるのではないかといった願いもあった。
だがそのとき妻の顔に浮かんだのは17歳の少女のような戸惑い。
それはまるでまだ互いの身体を知る前の表情。
そして微かに浮かんでいる怖いといった思い。だから抱く事は出来なかった。その代わり髪を撫でた。撫で続ければ表情が和らいた。それから頬を撫で、指で唇に触れた。そして眠りにつくまでずっと抱いていた。
あの日、司の腕の中にいた妻の姿は遠い昔、南の島のコテージで抱き合おうとした若かった二人の姿に重なるものがあった。それは無理に抱く事はなく唇を額に押しあてた少年の想い。
人を守ることを知らなかった少年が初めて守りたいと思えた人への慈しみ。
18歳の少年と17歳の少女の純情とも言える一夜。
そして共に切なさを抱えたまま迎えた別れの朝。
けれどあの朝、彼は彼女に会うこともなければ別れの言葉を告げることもなく旅立った。
だが昨日の夜は違った。
二人にとってこの場所は結婚してから訪れた想い出の場所。
その場所で求めたのは妻の方だ。それは何かを自分の身体に刻み込むような求め方。
司の全てを受け入れてくれた。
心が繋がっていると感じた。
愛があると感じた。
だから司はこれまでの人生の全てを注ぎ込むつもりで抱いた。
それは言葉に表すことが出来ない感情。
愛おしくて、慈しみたくて、離したくないといった想い。だから愛してるの言葉を囁き、あたしも愛してるという言葉を囁かれた。
たとえそれが夢の中の出来事だとしても良かった。
司の胸に顔を埋めている姿が幻だとしても愛してるの言葉が訊けただけでよかった。
そして妻が辿り着く先がどんな世界だとしても、胸の中には変わらぬ愛があるのだから、その世界を受け止めてやる覚悟は出来ていた。
見えない迷路に迷い込んだとしても、付き添ってやるつもりでいた。
やがて変わり果てていく姿があったとしても、それでも妻は妻だ。
人は誰ひとりとして同じ人間はいないという。
それは育ってきた環境や生き様が違うから。だが二人は同じ人生を背負ってここまで生きてきたのだからある意味同じ人間であり、二人で一人の人間だ。だからどちらか片方がいなくなるということは残された人間は生きていくことが出来なくなる。
だが妻から渡されている封筒に収められている手紙は、自らの意思で命を絶つといった想いが書かれていた。
そして自分がいなくなっても、この手紙があれば大丈夫だからと言った。
誰にも迷惑をかけることはないからと。
辛く哀しく我儘な思いだけど叶えて欲しいと言って。
手紙を受け取った司は、妻が決めた覚悟といったものを理解させられた。
だから妻の周りの警護を強化した。
自分が傍にいなくても24時間必ず誰かが傍にいた。それは過去になかった妻に対する警護態勢。決して一人っきりにはさせなかった。
だが今、こうして妻にせがまれこの場所に立ち、海に起こる自然現象を目の当たりにし、日常生活から解放されたようになれば、妻の想いを、妻が望むことをさせてやることが彼女の幸せなのかとも思う。自分が自分でなくなる、自分が失われていく現実から解放してやりたいといった想いが過る。
人はいつか空へ帰るのだから。
波の花がやがて消えていくのと同じで、人も風に乗り高い空へと昇っていくのだから。
だが、かつての妻は命の尊さを彼に解いた。
生きることの歓びを司に教えた。
二人の間に新しい命を生み出した。
だがそのこともいずれ忘れてしまうという。
だからそれが辛いのだと。
自分が自分でなくなることの辛さに負けてしまうと。
想い出が駄目になってしまうのが辛いのだと。
老いは誰にでも訪れるとはいえ早すぎるこの状況に何故どうしてという思いばかりが溢れたことがあった。もしかするとこれは過去に自分が犯した罪が起因しているのではないか。ふいにそんな思いが浮かんだことがあった。だが今はそんなことを考えることは間違っていると思えるようになっていた。
因果応報などあってたまるか。
二人は生死を越えた場所で繋がっているのだから。
「つくし。もういいだろ?もう十分見ただろ?いつまでもここにいても風邪をひく。旅館に戻ろう」
「….うん。そうね。ありがと、司。ここに連れて来てくれて」
命じるように言ったが、そのあと素直に返された言葉に涙が溢れそうになった。
他愛もない会話が交わせることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「つくし…愛してる。俺は結婚したとき一生お前を愛し続けると誓った。だからその想いはこれから先、何があったとしても変わらない」
二人は司のコートのポケットの中で手を繋いで互いの手のぬくもりを分かち合っていたが、彼の言葉にギュッと握り返された小さな手。
それは、彼女は司だけが頼りで、彼の手を握っていれば何も怖くない。迷うことなどないと信頼を寄せる手。
彼もまた彼女のその温もりを失いたくない。
それは唯一愛した人の手であり彼を孤独の闇から救い出してくれた人の手。
かけがえのない彼だけの温もりで失いたくない温もりを持つ人の手。
繋いだ手のひらは彼だけのもので失いたくない。
そう願う男が妻の瞳の中に見る己の姿は、紛れもなく彼女に終生の愛を誓った男の姿。
だが『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しい』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った妻。
司は妻の手を取り待たせていたタクシーへ向かっていたが、妻が正常でいる以上否が応でもその言葉を引き寄せなければならなかった。

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子供のようにはしゃぐ妻。
二人の目の前に広がる風景は遠い昔見た景色。
それは妻が見たいと言っていた日本海の風物詩と言われ冬の能登の風物詩である波の花。
海が荒れ波が高く寒さが厳しい日に現れる現象。
気象条件が揃ったその日。打ち寄せる波がせっけんの泡のようになり、風に乗って高く舞っていた。
タクシーを降りた二人は、目の前の海岸に荒波が打ちつけ泡が舞う様子を眺めていたが、司の目に映る妻は正常な状態でいることは分っていたが珍しいことだと思った。
それは能登に着いた昨日。
冷えたこの場所の空気に脳が覚醒したのか。それともこの土地の記憶といったものが脳に何らかの作用をもたらしたのか。ここに来たいと願った妻の心に何らかの働きをもたらしたのか。
夕食を食べ始めると正常に戻りそれからも変わることなく朝起きても変わらなかった。
そして今の妻は寒さに頬を赤く染め海を見ていた。
夜明けを迎え隣に寝ていた妻の姿は健やかだった。
何かに困惑したような表情もなければ、眉間に皺を寄せ司の顔を見てあなたは誰とは言わなかった。思考が途切れたようになり、遠くを見るような瞳で焦点が合わないような表情をすることも無かった。
そして二人は昨日抱き合った。
それは何年振りかの行為。
それが妻が妻でなくなる前に神が与えた夫婦としての最後の夜だとすれば、愛さずにはいられなかった。だから心と身体の全てを使って愛した。
妻が今のような状態になって間もない頃一度だけ抱こうとしたことがあった。
それは自分の愛で状況を変えたいと思ったから。抱き合えば何かが変わるのではないかといった願いもあった。
だがそのとき妻の顔に浮かんだのは17歳の少女のような戸惑い。
それはまるでまだ互いの身体を知る前の表情。
そして微かに浮かんでいる怖いといった思い。だから抱く事は出来なかった。その代わり髪を撫でた。撫で続ければ表情が和らいた。それから頬を撫で、指で唇に触れた。そして眠りにつくまでずっと抱いていた。
あの日、司の腕の中にいた妻の姿は遠い昔、南の島のコテージで抱き合おうとした若かった二人の姿に重なるものがあった。それは無理に抱く事はなく唇を額に押しあてた少年の想い。
人を守ることを知らなかった少年が初めて守りたいと思えた人への慈しみ。
18歳の少年と17歳の少女の純情とも言える一夜。
そして共に切なさを抱えたまま迎えた別れの朝。
けれどあの朝、彼は彼女に会うこともなければ別れの言葉を告げることもなく旅立った。
だが昨日の夜は違った。
二人にとってこの場所は結婚してから訪れた想い出の場所。
その場所で求めたのは妻の方だ。それは何かを自分の身体に刻み込むような求め方。
司の全てを受け入れてくれた。
心が繋がっていると感じた。
愛があると感じた。
だから司はこれまでの人生の全てを注ぎ込むつもりで抱いた。
それは言葉に表すことが出来ない感情。
愛おしくて、慈しみたくて、離したくないといった想い。だから愛してるの言葉を囁き、あたしも愛してるという言葉を囁かれた。
たとえそれが夢の中の出来事だとしても良かった。
司の胸に顔を埋めている姿が幻だとしても愛してるの言葉が訊けただけでよかった。
そして妻が辿り着く先がどんな世界だとしても、胸の中には変わらぬ愛があるのだから、その世界を受け止めてやる覚悟は出来ていた。
見えない迷路に迷い込んだとしても、付き添ってやるつもりでいた。
やがて変わり果てていく姿があったとしても、それでも妻は妻だ。
人は誰ひとりとして同じ人間はいないという。
それは育ってきた環境や生き様が違うから。だが二人は同じ人生を背負ってここまで生きてきたのだからある意味同じ人間であり、二人で一人の人間だ。だからどちらか片方がいなくなるということは残された人間は生きていくことが出来なくなる。
だが妻から渡されている封筒に収められている手紙は、自らの意思で命を絶つといった想いが書かれていた。
そして自分がいなくなっても、この手紙があれば大丈夫だからと言った。
誰にも迷惑をかけることはないからと。
辛く哀しく我儘な思いだけど叶えて欲しいと言って。
手紙を受け取った司は、妻が決めた覚悟といったものを理解させられた。
だから妻の周りの警護を強化した。
自分が傍にいなくても24時間必ず誰かが傍にいた。それは過去になかった妻に対する警護態勢。決して一人っきりにはさせなかった。
だが今、こうして妻にせがまれこの場所に立ち、海に起こる自然現象を目の当たりにし、日常生活から解放されたようになれば、妻の想いを、妻が望むことをさせてやることが彼女の幸せなのかとも思う。自分が自分でなくなる、自分が失われていく現実から解放してやりたいといった想いが過る。
人はいつか空へ帰るのだから。
波の花がやがて消えていくのと同じで、人も風に乗り高い空へと昇っていくのだから。
だが、かつての妻は命の尊さを彼に解いた。
生きることの歓びを司に教えた。
二人の間に新しい命を生み出した。
だがそのこともいずれ忘れてしまうという。
だからそれが辛いのだと。
自分が自分でなくなることの辛さに負けてしまうと。
想い出が駄目になってしまうのが辛いのだと。
老いは誰にでも訪れるとはいえ早すぎるこの状況に何故どうしてという思いばかりが溢れたことがあった。もしかするとこれは過去に自分が犯した罪が起因しているのではないか。ふいにそんな思いが浮かんだことがあった。だが今はそんなことを考えることは間違っていると思えるようになっていた。
因果応報などあってたまるか。
二人は生死を越えた場所で繋がっているのだから。
「つくし。もういいだろ?もう十分見ただろ?いつまでもここにいても風邪をひく。旅館に戻ろう」
「….うん。そうね。ありがと、司。ここに連れて来てくれて」
命じるように言ったが、そのあと素直に返された言葉に涙が溢れそうになった。
他愛もない会話が交わせることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
「つくし…愛してる。俺は結婚したとき一生お前を愛し続けると誓った。だからその想いはこれから先、何があったとしても変わらない」
二人は司のコートのポケットの中で手を繋いで互いの手のぬくもりを分かち合っていたが、彼の言葉にギュッと握り返された小さな手。
それは、彼女は司だけが頼りで、彼の手を握っていれば何も怖くない。迷うことなどないと信頼を寄せる手。
彼もまた彼女のその温もりを失いたくない。
それは唯一愛した人の手であり彼を孤独の闇から救い出してくれた人の手。
かけがえのない彼だけの温もりで失いたくない温もりを持つ人の手。
繋いだ手のひらは彼だけのもので失いたくない。
そう願う男が妻の瞳の中に見る己の姿は、紛れもなく彼女に終生の愛を誓った男の姿。
だが『波の花を見た後、旅館で食事をしたら早く寝てあたしをひとりにして欲しい』
『冬の月を見上げても探さないで欲しい』と言った妻。
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