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2018
03.21

雨の約束 最終話

あれから6年が経ったが鳥の鳴き声が記憶の想起となり忘れていた人を思い出した。
だがその人は忘れたくて忘れた人ではない。忘れたくはなかった人だ。
その人は世界のどこにいても会いに行くと言ってくれた人で、どんな涙も引き受けてくれる人。そして時に優柔不断な私を引っ張って行ってくれる人。
夜明けのベッドの中、目覚めた私に口づけ、お前はまだ寝てろと言ってシャツを着る人は情熱をぶつけて来る人。それは出会ったその日からずっとそうだった。

あの日まで。







つくしはじっと前を向いたまま彼を見ていた。
すると彼はそんなつくしに、白い布を取る手を止め彼女を見た。

「牧野。思い出したか?」

突然そう言われ、

「…え?な、何?」

と言ったが掠れた声しか出なかった。

「思い出しだんだろ?」


思い出した___。

記憶の扉が音を立て開いた瞬間、目の前の男の存在がどれほど大切な人だったかに気付いた。だがそれと同時に感じたのは、これが現実なのか、それとも夢なのかということだ。
それは頭の中が混乱しているということだ。だから今の感情を言葉にしようとしたが、口をつくのは戸惑いの言葉だった。そして何か言おうとするが言葉が上手く出なかった。

「あの….」

「牧野?どうした?言ってくれ。俺が誰か思い出したんだろ?俺とお前が恋人同士だったことを思い出したんだろ?なあ牧野。俺のことを思い出したんだろ?そうだろ?」

「お、お願い。ちょっと待って」

と答えたが彼は引き下がらなかった。
訊く事を止めなかった。
まるで人が変わったように熱心に訊いた。

「思い出したんだろ?俺のことを思い出したんだよな?」

そして近づいてくると、ポケットからライターを取り出し矢継ぎ早に言った。

「このライターはお前が俺の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。煙草を止めろと言ったが、止められない俺にお前がくれた!お前が就職して最初の年にくれた誕生日プレゼントだ!高い買い物だったはずで無理しやがってと俺は言った。
けど、このライターをお前だと思えば大切に扱えるはずだ。火を点ければ熱い思いをするのはあたしなのよ?だから火を点けないでってお前、俺にくれただろ?
そのお返しってったら変だが、お前に何かプレゼントしてやりたかった俺は、あの部屋で寒そうにしてたお前にファンヒーターを買った!」

分ってる。
思い出した。
見覚えのある喫茶店。
見覚えのあるゲームセンター。
見覚えのあるレストラン。
そして見覚えがある風景。
全て二人で一緒に行った場所だ。
二人の間に起きたことで覚えていないことなどないのだから。

そして部屋にあるファンヒーターは彼が買ってくれたものだ。
就職して最初の年ということは、今から11年前のものだ。あの当時、まだお金がなく、今のようなマンションではなく、古いアパートの一室に暮らしていた。部屋には備え付けのエアコンはあったが古いもので、なかなか暖かくならず寒い思いをしていた。だからファンヒーターか電気ストーブがあればと言った。すると買ってやると言われたが断った。そして彼の誕生日に18金で縁取りされた黒いライターを買いイニシャルを入れてもらいプレゼントしたが、それは煙草を止めさせるため。そのライターを私だと思うことで火を点けることを躊躇えばと願ったから。
あの時、こんなモン買う位ならヒーターでも買えばいいものを、無理しやがってと言われた。だけど嬉しそうに笑った。大切にすると言った。そして翌日には狭いアパートの部屋なら直ぐにでも温まると言われたヒーターが届けられた。



「道明寺…うん。分かってる。思い出したよ。アンタのことも何もかもね」

つくしが口を開くと、男は小さな笑みを口元に浮かべた。
そして静かに言った。

「一緒に行ってくれるか?」と。

どこへ行くのとは訊かなかった。
何故ならどこへ行くのか分っているから。
そして、この人と一緒ならどこへでも行けると思ったから。
何も怖くはなかった。それとは逆に温かい気持ちが溢れ、涙が溢れた。



巻き戻る記憶は6年前のあの日を脳裡に映し出した。
だが記憶というのは目で見たものだけを映し出すのではない。
音や匂い。手触りといったものまで記憶されていて、あの瞬間のことが目の前に現れたように感じられた。


それは悲しい別れの記憶。

6月の日曜。
冷たく激しい雨がアスファルトを叩く、昼と夜との境目の明るさの時間。
二人は事故に遭った。
あの日、道明寺の運転する車は、北軽井沢の別荘から都内に戻るため高速道路を走っていたが、激しい雨で前が見えにくかった。
そしてその時、前方を走る車がスリップしたのか、ガードレールにぶつかり跳ね返り回転しながらこちらへ向かって横滑りをしてくるのが見えた。その車を避けようとしたが、避けきれず衝突した。 

その瞬間、フロントガラスは砕け、雨のように降り注いだ。それと同時に雨が顔を叩いた。
そしてシートベルトが身体に喰い込み痛かった。一瞬のことで自分の身に何が起きたか理解するのに数秒かかったが意識はあった。だが身体は金属の塊に挟まれていた。
そして鼓膜に甦るのは、自分が上げた声。
それは叫び声。つんざくように響いたのは彼の名前。
だが何度呼んでも返事がなかった。
助手席に座っていた私は、運転席に座る彼を見たが、後ろへ倒れた頭は動かなかった。
道明寺、しっかりして!と叫び声を上げ泣いた。なんとかシートベルトを外し彼の顔に手を触れ、そして再び叫んだ。道明寺、しっかりして!と。だが返事はない。それでも何度も名前を呼んだ。
道明寺!道明寺!しっかりして!お願い目を開けて!

手を触れた頬の温もりは、雨に濡れ冷たくなっていくのが感じられた。けれど、微かな息遣いと共に色を失いつつある目を開き私を見た。だが暫く何も言わなかった。そしてあの時、小さな声で言った。


俺はもう駄目だがお前はまだ大丈夫だ。
生きることが出来る。だから俺の分まで生きてくれ。
いや。駄目だな。お前が来るまで一人で待つには長すぎる。
だから俺はまたいつかお前の前に現れる。
だからその時は俺と一緒に行ってくれるな?

いつかきっと会えるから。


いつかきっと___


だから___














記憶の奥底に封じ込められていたあの日の光景が、頭の中で崩れ溢れ出てくるのが分かった。おびただしい血が雨で流れていく様子が目の前に現れたが、つくしの身体から流れたものなのか。それとも彼の身体からのものなのか。
雨は二人の身体から流れ出る血と体温を奪った。
それは、空からの雨と一緒に涙の雨が頬を伝ったあの日の光景。


いつまでも一緒にいようと誓ったふたり。
離れたくなかった。
いつまでもずっと触れていたかった。たとえその身体が冷たくなっても一緒にいれば幸せだから。だから一緒に行きたかった。彼と同じ場所へ。
待つのは厭だから今すぐ一緒に連れてってと言った。
だが連れていってはくれなかった。

そして意識を失った。
次に目覚めたとき病院のベッドの上にいた女は彼の記憶がなかった。何ひとつ覚えてなかった。そして長い入院生活を過ごし退院したが誰も彼のことを話さなかった。
それは事故の話に過敏な反応を示していたからだ。あの頃、誰かが事故の話しをしようとすれば、発作を起こしたように身体が痙攣した。そして暫くの間、雨が降る夜外に出るのが厭だった。そんな女を見た医者は、彼のことを覚えていないなら話さない方がいいでしょうと言ったが、何のことか分からなかった。そして付き合っていた彼のこと、彼に繋がる人の事を忘れ生活していた。
だから三条桜子に会っても気が付かなかった。


だが三条桜子は今この国にいない。
いや違う。彼女はこの世にいない。
彼女は私たちが事故に遭う前、フロリダの高速道路で事故に遭い亡くなった。
彼女の住まいだったあの邸の門は、固く閉ざされ出入りする人間は誰もいない。
そしてかつて沈丁花が香っていたあの広い庭も今は草が生い茂っているはずだ。
あの桜の木はどうなったのだろう。
あの日ライトアップされていた桜は?
彼女がつけていた桜色の口紅と同じ色の桜の花を咲かせる木は?

だが確かに三条桜子はいた。
交差点で信号待ちの私の横で具合が悪そうにしゃがみこんだ。
あれは彼女が亡くなったとき胸が痛かったということなのか。そうだ。胸を強く打ちつけて亡くなったと訊いた。

あの日。家の前で見送られた時、彼女は微笑みを浮かべていた。
けれど背後にある夜は暗かった。それは彼女の姿を呑み込んでしまう暗闇だった。
そして車に乗り振り返ったとき、彼女の姿がぼやけ始めたように見えた。
やがて車がスピードを上げると、小さくなるその姿は闇に呑まれ消えた。
それはあの夜は闇が深かったからだと思った。だが違う。三条桜子は別の世界から訪ねてきたということだ。あの時飲んだお茶は、特別なお茶だと言ったが、それは道明寺を思い出させようと淹れたものだったのかもしれない。

そしてあの日から夢を見るようになっていた。
夢の内容はいつも同じでそれは行ったことも、見たことももない場所の夢。
それが喫茶店でありゲームセンターだった。
そして目の前に現れる長く暗いトンネル。
その向うから微かな光りが差し込み、やがてトンネルの中が真っ白な光りで満たされ視線の先に人影が見える。その人に近づこうとしてトンネルの中を走って行くが、いつまでたってもその人が立つ場所に近づくことが出来なかった。そして夢の中なのに、はっきりとした雨の匂いを感じることが出来た。


「あの時、俺は神と取引をした。お前を生かす代償として俺の記憶を全て消すと言われた。
お前の中にある俺という男の存在を全て。それが神との約束だった。それにお前も俺のことを覚えてたら哀しむだろ?
ただし、それはあくまでも短い期間。けどな、愛してる女の記憶から二人で過ごした時間を消されることは辛かった」

忘れ去られること。
それは、自分が存在したことを否定されること。
故人は誰かの記憶の中で生き続けることで自分が生きた証を確かめる。
それは、愛しい人や家族だったりする。
だが私は、彼の思い出だけを置き去りにして生きてきた6年間があった。

「それからお前の病気のことだが、知っている」

「え….」

この人は分かっているから迎えに来た。
私が苦しむのを見たくないからなのだろう。
三条桜子を助けた日。あの日の前日、健康診断の再検査の結果を訊くため医者を訪れた。
そして告げられたのは、末期ガン。
長くてあと半年と言われた。


あの日、この世にいない人、他の人には見えない人を助け会話をした。
だからあの交差点で誰もふたりの方を見なかった。誰も助けようと手を差し出さなかった。それもそのはずだ。あの時はつくしひとりが、しゃがみこんだとしか見えなかったはずだ。
それは物を落した人間が何かを拾おうとする姿に見えたのだろう。
そして喫茶店では紅茶を二つ頼んだが、ウェイトレスは可笑しいと思ったはずだ。だが何も言わなかった。

そして人生で一番愛した人に再会した。

心も身体も深く結びついた人に。


「牧野。お前が苦しむ姿は見たくない。だから行こう。俺と一緒に。少し早いかもしれねぇけどいいだろ?」

差し出された手はいつかの手と同じ。
高校生の頃、彼が命を落としそうになった時も同じように手が差し出された。

「なあ。俺だけだろ?お前の手を取ることが出来るのも、お前を愛せるのも。それにお前が愛せるのは俺だけだ」

自信満々に言うその姿。
だが確かにそうだ。
私が愛することが出来るのは彼だけだ。だからあの事故以来誰とも付き合う気にはなれなかった。誰も好きになることはなかった。

「俺は忘れられている間もずっとお前の傍にいた。ずっとお前を見ていた」

そうだろう。
彼は知り合った頃しつこい男だった。
初めそんな男が嫌いだった。
けれどいつの間にか心の奥にいた。
だから傍にいたというのは本当だと思う。
二人は目には見えない絆で繋がっていたのだから。


「牧野…」

つくしは頷いた。
そして手を差し出した。
魂が眠るとき一緒にいたいと願った人と旅立つことに何を恐れる必要があるというのか。
それに生まれ変わっても愛し合える自信がある。
きっとまた巡り合うことが出来るはずだ。

あの雨の日に約束した。

いつかきっと会えるからと。



「牧野。会いたかった」

そう言って、ふわりと抱きしめられた胸は温かかった。

「道明寺。あたしも会いたかった。ごめんね。6年も忘れてて」













10日後、ひとりの女性が病院で静かに息を引き取った。
そして失いつつある意識の中で思い浮かべたのは遠い昔の楽しかった思い出。
もう決して離さないといった男の優しい手。
今、やっとその手を掴むことが出来た。
迷いも不安もなかった。
そして悔いはなかった。



本当ならあの雨の夜に共に旅立っていた命だったのだから。

そしてその日は、今から6年前の事故と同じ雨の日曜日だった。




< 完 > *雨の約束*

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2018
03.23

幸せの前ぶれ ~続・雨の約束~ 

「アナタハ カミヲ シンジマスカ?」

つくしは、そう言って声をかけて来た怪しげな人間を無視して手首の時計に目を落すと歩くスピードを上げた。そして隣で歩く女に声を掛けた。

「もう……遅いんだから…何やってるのよ。先方との約束は13時でしょ?化粧直しに時間取られてる場合じゃないでしょ?ほら。早く!」

「だって先輩。これから向かう会社の副社長って凄い有名な人なんですよ?お金持ちで美形で背が高くて、知ってます?足なんて凄い長いんですよ?こーんなに長いんですよ?それにお金持ちの規模だって日本一ですよ?世界でも上位20に入るんですよ?そんな人に会いに行くのに口紅を塗り直すくらいいいじゃないですか。本当ならファンデーションも全部落として初めから塗り直したいくらいなんですからね?それに言わせて頂きますけど、私は先輩のその無頓着さが信じられません!先輩こそ口紅塗り直して下さいよ!そんなんじゃ逆に相手に失礼です。それに、これから人に会うって言うのにどうして昼食にペペロンチーノが食べれるんですか?せめてミートソースにして下さいよ?あれなら匂わないじゃないですか」

足がこーんなに長いと自分の身体を使って男を形容する女は、塗り直し桜色になった唇の形を不満げに変えた。


つくしは、グラフィックデザイナーとして広告代理店から依頼を受け、打ち合わせのためクライアントである会社に向かっていた。
そして彼女の助手として付いて来たのは、同じ事務所で働いている三条桜子。
二人が向かっているのは、目の前にそびえ立つ地上55階建ての道明寺ホールディングス日本支社。春の陽射しを受けたビルは輝いて見えた。


「あのね。ミートソースはソースが飛び散るかもしれないからダメ。だからペペロンチーノにしたの。それに私は顔で仕事をしようなんて考えてないの。いい?桜子。仕事は頭でするもの。顔じゃないの。それに相手だって仕事相手に顔を求めてるわけじゃないでしょ?
いくらこれから行く会社の副社長が美形の男だからって、頭が良くなきゃ副社長なんてやってられないでしょ?それにその人アメリカ帰りでしょ?仕事に性的なことを持ち込めばセクハラになるってことも理解してるはずよ?だから口紅が少しくらい落ちてても何も言わないし、気にしないわよ。それにニンニクの匂いなんて近寄らない限り分からないから大丈夫。それより時間に遅れる方がビジネスにはマイナスよ!だから急いで!」

そう言って桜子を急がせる女は、肩に掛けた鞄をかけ直す仕草をした。

「わ、分かりましたから!それにしても先輩ったら仕事ばっかりで男のことに興味ないんですか?そんなんじゃ行き遅れになりますよ?」

「何言ってるのよ?男なんて星の数ほどいるんだから、そのうち自分に一番合う人に巡り逢うわよ?だいたい桜子は目移りし過ぎなの。いい加減一人の人に決めなさい?あっちもこっちもじゃ、あんたいずれ刺されるわよ?」

三条桜子は、細身だがダイナマイトボディの持ち主で色気がある。
そしてその色気でどんな男も手玉に取ると言われる美貌の持ち主だ。
だから、すれ違う男性の視線は桜子に向けられているが、彼女はそれが当然といった顔で全く気止めることはない。それに桜子は、相手から言い寄られるよりも、自分から仕掛けに行く所謂肉食系女子と言われるタイプで、ここぞという時は、狙った男を完璧に仕留める女だ。

「ご心配には及びません。私は男とは節度をもって付き合ってますから。それにそんなこと言いますけどね?先輩は真面目過ぎて男と付き合わないじゃないですか。言わせていただけば、先輩はもう少し男に興味を持った方がいいと思います。それに先輩は分かったような口の利き方をしますけど、男性経験なんて無いでしょ?後生大事にとは言いませんけど、いつまでもバージンを守ってるようじゃ人生の一番いい時が失われてしまいますからね?それに男がいない人生なんて楽しくないじゃないですか?」

つくしは、足早に歩きながら桜子の言う節度を知りたいとは思わなかったが、隣を歩く女の言葉に決然と言った。

「別に男がいなくても楽しいわよ?男だけが人生じゃないもの」

「またそんなこと言って。先輩は人生の半分を無駄にしてます。
いいですか?人生の半分は睡眠ですが、それを除いた残り半分の時間はとっても大切な時間ですよ?それを仕事ばかりしてどうするんです?この前だって休日を返上して仕事したんじゃないですか?それはデートする相手がいないからですよね?いいですか、先輩。人は愛し愛されるからこそ楽しい人生を送ることが出来るんです。先輩もその気になれば恋が出来るはずです。だからその気になって下さい。なんなら私が誰かお世話しましょうか?男と対等に働きたいって気持ちも分りますけど、先輩は女なんですからね?時に男を頼ってもいいんですからね?」

また始まった。
つくしは桜子の説教とまでは言わないが、恋をしろという言葉は耳にタコが出来るほど訊かされていた。それに桜子の言う通り29歳のつくしはバージンで、男と女の関係については疎い。けれど別にそのことが悪いとは思ってはいない。
それにいつか運命の人に出会えることを夢見ている。
だがそれを桜子に言えば笑われるに決まっている。だから言わなかった。


いつかきっと会えるから。

誰と会えるのか分からないが、時々夢に現れる人が言うその言葉が好きだった。
そしてその人と出会えば、名前など知らなくても、二人とも互いが互いに求めている人だと分かるはずだ。

つくしが密かに夢の中の恋人と呼んでいる人の顔は分からないが、低く優しい声をしていた。そして近くに行くことは出来なかったが、背の高い人だということは分かる。

いつかきっと会えるから。

その人がそう言うのだから、いつか会う日が来ると信じていた。
きっと二人は出会うことが約束されているはずだから。










二人は道明寺ビルのロビーに足を踏み入れたが、そこでつくしの足が止った。

「桜子。ごめん。ちょっとこれ持ってて」

と言われた桜子は、つくしが肩から掛けていた鞄を受け取った。
そしてつくしがスーツの上着の左右のポケットに手を入れ何かを探す様子を見ていた。

「先輩どうしたんですか?何か忘れ物ですか?」

「うん。無いのよ?おかしいな.....確かここに入れたはずだったんだけど」

「何を入れたんですか?」

「うん。これから向かう場所を書いた紙。おかしいわね?確かにここに入れたんだけど」

「先輩。それならどこかの会議室じゃないですか?それにたとえ場所を忘れたとしても、受付けで聞けばどこで何があるか教えてくれますから大丈夫です。先輩って変んなところでおっちょこちょいというか、慌てますよね?大丈夫ですから。さあ行きましょう」

そう言われ、それまでつくしが先を歩いていたが、そこから先はまるでつくしが後輩か付き添いかといった風に桜子が前を歩き出し、つくしが後ろを歩き出そうとしていた。
その時だった。
後ろから風が吹き、自動ドアが開いたのか感じられた。
そしてふわりと春の風が吹き込むと同時に深呼吸した瞬間、感じられた微かな香り。
それまでロビーに満ちていた声はどこかに吸い込まれるように消え、その場にいた人間の視線がつくしの後方に動いたのが感じられた。
だからつくしも振り向いた。するとひとりの男がこちらに向かって歩いて来ていた。
そしてその後に続く大勢の男たちがいた。

だが誰もがひとりの男に注目していた。
それは先頭を歩く背の高い男。
印象的な切れ長の瞳と癖のある黒い髪が特徴的。
長い脚で力強く歩く姿は自信に満ち、自分の前に立ちはだかる人間はなく、神のように振る舞うことを許されたといった態度。
そしてつくしはその男と目が合った。
それは数秒という短い一瞬。
だがその瞬間、何かが甦った気がした。
不思議な気持ちがした。
世界が広がった気がした。

そして男も彼女に視線をしっかりと合わせた。
その表情は平静で瞳は彼女を見ているようで、見ていないように感じられた。
だが次の瞬間、男の表情が変わった。
笑ったのだ。
だがそれは、僅かに唇の両端を上げた程度。


「牧野先輩!先輩!早くして下さい。打ち合わせ始まっちゃうじゃないですか!遅れるって心配してたのは先輩でしょ?ほら早くして下さい!エレベーター閉まちゃいますから!」

「えっ?う、うん。い、今行くから!」

気付けば桜子はエレベーターの前でつくしを呼んでいた。
そしてつくしの横を通り過ぎようとしていた男は、何故か突然彼女に近づくと耳元に口を近づけ言った。

「お前、ニンニク臭いな。あの店のマルゲリータは美味いが仕事前にペペロンチーノは止めた方がいいな」

「え?」

それは一瞬の出来事。
きょとんとした顔をした女は、遠ざかって行く男の背中を見送った。









二人の人生が過去から綴られているなら、それは幾億もの夜を越え繋がっている。
そしてそれを運命というのなら、過去が哀しみや切なさが溢れたものだったとしても、これからの二人の間には、穏やかで幸せな時の流れがあるはずだ。


恋は何度してもいい。
それが過去から決められているなら、なおさらいい。
それにたとえ問題があったとしても、それを乗り越えることが恋の醍醐味だ。
だから二人はこれから恋をする。
少なくとも男の方は既に恋におちていた。

そしてそれは、二人は永遠の恋におちると前世から決められた運命だから。
二人の運命の歯車は、たった今、回り始めた。





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