声が訊きたい。
そう思わないことがなかったNYと東京との離れた生活。
それは、それまでの己の身勝手な生き方と非常識さを痛感し未熟さを知った生活。
そんな中、小さな誤解が解けなくて二人の間の距離が必要以上に開いたことがあった。
そして離れ離れになる状況を作った自分に負い目を感じたことがあった。
寂しいと感じるとき。
それはひとり過ごす夜が長いと感じたとき。
だが目を閉じればその人の姿が瞼に浮かび心が躍る。
それがたとえ夢の中だけのことだとしても、傍に寄り添う彼女の姿があった。
見えない腕が抱きしめてくれるのを感じた。
電話をすれば相手が見えない分、耳を澄まし、言葉の端に感じられる想いを理解しようとする。それは遠く離れた恋人同士なら誰もが思うこと。
会話の中に寂しさを隠し、つとめて明るく話す彼女がいることもあった。
そして二人の間に流れる沈黙が怖くて、口を閉ざすことが出来ないことがあった。
だが時に二人同時に黙り込むこともあった。
そんな時、いつも先に口を開くのは司の方で言いたいことはひとつだけ。
会いたい。
早く会いたい。
一点の曇も影もない眼差しに会いたい。
だから翼が欲しい。
距離と時間を一気に飛び越える翼が欲しい。
そんなことを考えたことがあった。
そして会話の終わりには決まってすることがある。
それを見た人間は驚きの表情を浮かべるはずだ。
だがそれを微笑ましいと思う人間もいるはずだ。
それは小さな機械にキスをすること。
そうすると彼女からもキスの音が返ってくる。
離れ離れになってからずっと続けてきた習慣。
男が特定の女の前だけで見せる態度があるとすれば、司のその態度はまさにそれだ。だが目の前に彼女はいない。だが遠く離れた恋人同士なら、そうすることが当たり前だと言っても可笑しくはないはずだ。
そして小さな声で囁かれる愛してるの言葉。
その言葉を面と向かって言うのが恥ずかしいという女は、遠い昔の話で今はいない。
離れているからこそ言葉というものは大切で、表情が見えない遠く離れた相手に思いを伝えることが出来るのは言葉だけだ。
だから何度でも繰り返し伝えたいその言葉。
そして電話を切るのはいつも彼女の方だが、それも二人で決めたこと。そうしなければいつまで経っても切ることが出来ないから。
そして手にしている小さな機械のディスプレイに再びキスをする男は、睡眠時間が削られても電話の時間を優先する。
何故なら彼女の声を聴けば心が休まるから。
だが電話を切れば寂しい。孤独が募る。
いい年をした男が何をと思われたとしても、それが司の正直な気持ちだ。
人生は長いと言われるが、いつ何時何があるか予測不可能。
そして人生の歯車は回り続け止まることはない。
振り返ることなく前を向き突き進まなければならない。
そんな人生のなか、二人の恋は出会って今まで幾度となく危機的状況を迎えた。
だが嵐の中に生きているといった少女と、その少女を愛した男が乗った船は、大海を彷徨う小舟ではない。
それは大きな船で男の大きな手が導く母船。
どんな嵐も乗り越えるだけの力を持ち、多くの小舟を率いる船。
高波を受け、強風を受けても航海を止めることのない船。
だがいくら男が強くても二人だけでは乗り切れないこともある。
周囲からは『永すぎた春』になるのではないかと言われたこともあった。
他に女がいるのではないか。そんな言葉が囁かれたこともあった。
芯が強いと言われる女でも、時に弱さを感じさせることもある。壊れそうになった恋心といったものもあった。男を信じているとは言え、日本にいる女は不安を感じたこともあったはずだ。
だが友人たちが二人を応援した。
ひとりじゃないと励ました。
力になった。
未来に向かって進む船に乗る二人にエールを送った。
距離的なギャップを乗り越え、滅多に会えない状況の中、会う事が許されれば密度の濃い時間を共有した。互いの近況を語り尽くし、抱き合った。
二人が共に過ごす日はいつか来ると信じていた。
そして司は、晴れて最愛の人と離れていた時間を過去のものとすることが許された。
それは決められていたより長かった6年という歳月を経た柔らかな風が吹く春。
ぬくぬくとした暖かさに咲く桜は、はらはらとその身を散らし花筏となり川を流れていく。
この国に咲く美しい花が満開になり白い花びらが風に舞う季節。それを掴もうとした小さな手を司は知っている。
そんな季節に、小さな窓から見える外の景色が大きな街を見下ろす場所までくれば、変わらない景色と、ひまわりのような笑顔が彼を待っているはずだ。
そしてNYでの長かった暮らしを終え東京の空の下に降り立ったとき、見上げた空は青く、飛行機雲が西の空に向かって何本も伸びていたが、その空の青さを瞳に映せる女性がこの街にいる。
彼女に最後に会ったのは、一年前のちょうど今頃、桜の花が咲く同じ季節。
遥か彼方まで飛べる翼が欲しいと願った男に与えられた翼は、掌の中の小さな機械が伝えてくれないものを与えようとしていた。
やっと。
やっとだ。
やっと会える。
それはどんなカメラにも写せない笑顔を持つ人に会うこと。
深く暗い水の底にいても、輝きを失うことがない彼だけの生ける宝石。
彼はこれからその女性に会いに行く。彼女の瞳がキラキラと光るのが見たい。
そして優しい声が聴きたい。柔らかく小さな身体を抱きしめたい。
だがそれはその人の驚く顏が見たくて内緒の行動。
司は車を彼女の住むアパートへ走らせた。
だが彼女はいなかった。
しかし彼女の居場所はすぐに分かった。
そこは道の向う側にあるバス停。そこでバスを待つ彼女の姿を見つけた。
そしてその時司は長いトンネルを抜けた先に淡く広がる光りを見た。
だがさっきまで晴れていた空から突然降り出した雨に、傘を持っていないのか少し慌てた彼女がいた。
それはいつか見た光景と似ていた。
あれはまだ二人の気持がどこかあやふやだった高校生の頃の話。立ち尽くした二人は、濡れた髪の間から互いの顔を見つめていた。
だが春の雨はあの時と違っている。とはいえまだ冷たい雨は髪を、肩を濡らしていく。
長い時間雨に打たれれば風邪をひくだろう。
バスが来るまでそのまま待つか。それともどこかで雨宿りをするか。迷っているのが見て取れた。だが彼女は決心したのか、そのままそこにいた。
だから司は車を降りると急ぎ足で彼女の元へ向かった。そしてスーツが雨に濡れて色が変わる前に後ろから傘を差しかけた。
「道明寺・・」
振り向いた顔は驚いていた。
「どうして?」
そう言って泣きそうな顔になった。
「牧野。帰ってきた」
その言葉にうん、と言って頷いた彼女。
壊れそうになったこともあった二人の心。
けれどこの先そんなことはないと言える。
だから司はその想いを言葉にした。
「もう二度とお前と離れることはないと誓える。待たせて悪かった」
濃紺のベルベッドの小箱をポケットの中に持つ男は、そう言って愛しい人を強く抱きしめた。
< 完 > *伝えたい想い*

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そして離れ離れになる状況を作った自分に負い目を感じたことがあった。
寂しいと感じるとき。
それはひとり過ごす夜が長いと感じたとき。
だが目を閉じればその人の姿が瞼に浮かび心が躍る。
それがたとえ夢の中だけのことだとしても、傍に寄り添う彼女の姿があった。
見えない腕が抱きしめてくれるのを感じた。
電話をすれば相手が見えない分、耳を澄まし、言葉の端に感じられる想いを理解しようとする。それは遠く離れた恋人同士なら誰もが思うこと。
会話の中に寂しさを隠し、つとめて明るく話す彼女がいることもあった。
そして二人の間に流れる沈黙が怖くて、口を閉ざすことが出来ないことがあった。
だが時に二人同時に黙り込むこともあった。
そんな時、いつも先に口を開くのは司の方で言いたいことはひとつだけ。
会いたい。
早く会いたい。
一点の曇も影もない眼差しに会いたい。
だから翼が欲しい。
距離と時間を一気に飛び越える翼が欲しい。
そんなことを考えたことがあった。
そして会話の終わりには決まってすることがある。
それを見た人間は驚きの表情を浮かべるはずだ。
だがそれを微笑ましいと思う人間もいるはずだ。
それは小さな機械にキスをすること。
そうすると彼女からもキスの音が返ってくる。
離れ離れになってからずっと続けてきた習慣。
男が特定の女の前だけで見せる態度があるとすれば、司のその態度はまさにそれだ。だが目の前に彼女はいない。だが遠く離れた恋人同士なら、そうすることが当たり前だと言っても可笑しくはないはずだ。
そして小さな声で囁かれる愛してるの言葉。
その言葉を面と向かって言うのが恥ずかしいという女は、遠い昔の話で今はいない。
離れているからこそ言葉というものは大切で、表情が見えない遠く離れた相手に思いを伝えることが出来るのは言葉だけだ。
だから何度でも繰り返し伝えたいその言葉。
そして電話を切るのはいつも彼女の方だが、それも二人で決めたこと。そうしなければいつまで経っても切ることが出来ないから。
そして手にしている小さな機械のディスプレイに再びキスをする男は、睡眠時間が削られても電話の時間を優先する。
何故なら彼女の声を聴けば心が休まるから。
だが電話を切れば寂しい。孤独が募る。
いい年をした男が何をと思われたとしても、それが司の正直な気持ちだ。
人生は長いと言われるが、いつ何時何があるか予測不可能。
そして人生の歯車は回り続け止まることはない。
振り返ることなく前を向き突き進まなければならない。
そんな人生のなか、二人の恋は出会って今まで幾度となく危機的状況を迎えた。
だが嵐の中に生きているといった少女と、その少女を愛した男が乗った船は、大海を彷徨う小舟ではない。
それは大きな船で男の大きな手が導く母船。
どんな嵐も乗り越えるだけの力を持ち、多くの小舟を率いる船。
高波を受け、強風を受けても航海を止めることのない船。
だがいくら男が強くても二人だけでは乗り切れないこともある。
周囲からは『永すぎた春』になるのではないかと言われたこともあった。
他に女がいるのではないか。そんな言葉が囁かれたこともあった。
芯が強いと言われる女でも、時に弱さを感じさせることもある。壊れそうになった恋心といったものもあった。男を信じているとは言え、日本にいる女は不安を感じたこともあったはずだ。
だが友人たちが二人を応援した。
ひとりじゃないと励ました。
力になった。
未来に向かって進む船に乗る二人にエールを送った。
距離的なギャップを乗り越え、滅多に会えない状況の中、会う事が許されれば密度の濃い時間を共有した。互いの近況を語り尽くし、抱き合った。
二人が共に過ごす日はいつか来ると信じていた。
そして司は、晴れて最愛の人と離れていた時間を過去のものとすることが許された。
それは決められていたより長かった6年という歳月を経た柔らかな風が吹く春。
ぬくぬくとした暖かさに咲く桜は、はらはらとその身を散らし花筏となり川を流れていく。
この国に咲く美しい花が満開になり白い花びらが風に舞う季節。それを掴もうとした小さな手を司は知っている。
そんな季節に、小さな窓から見える外の景色が大きな街を見下ろす場所までくれば、変わらない景色と、ひまわりのような笑顔が彼を待っているはずだ。
そしてNYでの長かった暮らしを終え東京の空の下に降り立ったとき、見上げた空は青く、飛行機雲が西の空に向かって何本も伸びていたが、その空の青さを瞳に映せる女性がこの街にいる。
彼女に最後に会ったのは、一年前のちょうど今頃、桜の花が咲く同じ季節。
遥か彼方まで飛べる翼が欲しいと願った男に与えられた翼は、掌の中の小さな機械が伝えてくれないものを与えようとしていた。
やっと。
やっとだ。
やっと会える。
それはどんなカメラにも写せない笑顔を持つ人に会うこと。
深く暗い水の底にいても、輝きを失うことがない彼だけの生ける宝石。
彼はこれからその女性に会いに行く。彼女の瞳がキラキラと光るのが見たい。
そして優しい声が聴きたい。柔らかく小さな身体を抱きしめたい。
だがそれはその人の驚く顏が見たくて内緒の行動。
司は車を彼女の住むアパートへ走らせた。
だが彼女はいなかった。
しかし彼女の居場所はすぐに分かった。
そこは道の向う側にあるバス停。そこでバスを待つ彼女の姿を見つけた。
そしてその時司は長いトンネルを抜けた先に淡く広がる光りを見た。
だがさっきまで晴れていた空から突然降り出した雨に、傘を持っていないのか少し慌てた彼女がいた。
それはいつか見た光景と似ていた。
あれはまだ二人の気持がどこかあやふやだった高校生の頃の話。立ち尽くした二人は、濡れた髪の間から互いの顔を見つめていた。
だが春の雨はあの時と違っている。とはいえまだ冷たい雨は髪を、肩を濡らしていく。
長い時間雨に打たれれば風邪をひくだろう。
バスが来るまでそのまま待つか。それともどこかで雨宿りをするか。迷っているのが見て取れた。だが彼女は決心したのか、そのままそこにいた。
だから司は車を降りると急ぎ足で彼女の元へ向かった。そしてスーツが雨に濡れて色が変わる前に後ろから傘を差しかけた。
「道明寺・・」
振り向いた顔は驚いていた。
「どうして?」
そう言って泣きそうな顔になった。
「牧野。帰ってきた」
その言葉にうん、と言って頷いた彼女。
壊れそうになったこともあった二人の心。
けれどこの先そんなことはないと言える。
だから司はその想いを言葉にした。
「もう二度とお前と離れることはないと誓える。待たせて悪かった」
濃紺のベルベッドの小箱をポケットの中に持つ男は、そう言って愛しい人を強く抱きしめた。
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