2015
10.14

恋におちたら

Category: 恋におちたら
彼が車に乗り込んだとき、雨が降り始めていた。
雨には匂いがある。そんなことに気がついたのはいつの頃だったか。
司の乗った車は事故渋滞に巻き込まれ遅々として進まなかった。
ただでさえ不快な気分がいっそう荒れる。
まだ約束の時間には充分間に合うはずだ。男との約束に遅れは許されない。
相手はこれから先も道明寺HDにとっての重要顧客であるだろうし、すでに何年も前から良好な関係を築いてきた。遅れて悪い印象を与えるのは考えものだった。
司は信号が変わるのをイライラしながら待っていた。
車窓から反対車線のすれ違う車をぼんやりと眺めながらこれから会う男はどんな質問をしてくるだろうかと考えていた。

前回の会合で男が話題にしたのはある資本への投資に対する利益率がかんばしくない件についてだった。
「あなたの若さでこの案件を扱うのはまだ難しいのではないですか?」
そう言われ、投資先の業績の推移と財務状況、生産、販売そしてその経営拡大計画に至るまでの幅広い説明を求められた。
彼がその件で男を満足させられる説明を終えたあと、今度は別の案件のことを持ち出してきた。
「道明寺さん、今日は有意義な話し合いが出来てよかった」
最後にはそう言われ男は満足して帰って行った。
数分後、司が時間を遅らせて店の外に出たとき、男は車に乗り込んでいるところだった。
司は大きく息をしていた。そして男の車が出発したときはほっとしていた。

さて、今夜はどんな難題をぶつけてくる?
司の車が会合の指定場所近くの交差点にさしかかったとき、ますます渋滞がひどくなり車の流れが完全に止まってしまい約束の時間に間に合いそうになかった。
「司様、このままでは会合には間に合いそうにありません」
運転手にそう言われ遅れるわけにはいかず、彼は仕方なく車を降りると傘の波をかき分けて近くの地下鉄の駅へと急いだ。所詮ひと駅だ。
人ごみのなかわずかな隙間を見つけては前の方へと進んで行く。
イタリア製の最高級ローファーとオーダーメイドのイギリス製のスーツを身に纏った男が地下鉄の階段を足早に下る。
彼は人の群れを縫ってプラットホームへ降り立った。


司は次の電車が暗闇の先、トンネルの奥から現れるのを苛立たしい思いで待っていた。
そして線路越しに反対側のプラットホームを眺めていた。
向かいのプラットホームもこちらに劣らず混んでいる。
そんな彼の目に赤いものが飛び込んできた。
彼の注意を惹いたのは時計を覗きこんでいる若い女性だった。
その女性も司と同じく約束の時間を気にしていると思われた。
ほんの一瞬、彼女が顔をあげてこちらを見たとき、司はこれから会う男のことを忘れた。
そして何もかも忘れたように彼女を見ていた。
女性の方は彼の視線には気づかないまま手にした傘の柄を握りしめて自分が乗る電車が現れるトンネルの方を見ていた。
背の高さは160センチくらいと見当をつけた。
今どきの女性には珍しく真っ直ぐな漆黒の髪の持ち主だ。
好奇心から興味がわいただけだと自分に言い聞かせたが、自分でもそんなことは信じていなかった。
だが相手が線路の向こう側にいてはどうしようもない。なにか行動しようにも遅すぎると思った。
彼女は再び時計に目を落としたあと顔を上げると、彼が自分を見つめていることに気がついた。



彼はほほ笑んだ。
気がつけばほほ笑えんでいた。
ほんの束の間の出来事だった。
ちょうどそのとき、互いのプラットホームへと同時に電車が滑り込み視線が遮られた。
司のまわりにいた人間は電車に乗り込むために前へと進んで行く。
発車のアナウンスが流れた。
そして、電車が動き出したとき、そこにいたのは司ただひとりだった。
同時に反対側のホームの電車が動き出しトンネルの中へと消えて行ったとき、司の顔にはほほ笑みが広がった。
反対側のホームにもひとりの女性が残り彼にむかってほほ笑み返していた。


構内を駆け抜けた風が彼女の着ているコートの前をはだけさせていた。
彼は翌朝にはジェットに乗り込んでNYへと向かわなければならなかった。
彼女とまたこの駅で逢えるのだろうか?


彼女はベージュのコートを着ていた。
そして手には赤い傘が握られていた。








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