日本を代表する会社、いや世界的企業といった会社がある。
世界68か国・地域に192の拠点を持ち、資源開発、インフラ事業、金融事業、また機械、金属、化学といった分野での輸出入の取引を展開する会社。
そんな会社の副社長は、午前中の退屈な会議を終えると早々に執務室に足を向けた。
2年前に建て替わったこのビルも、この会社も彼の所有物であり、最上階のフロアにいる全ての人間が彼を見れば、直立不動の姿勢で挨拶をする。
そんな男は、視線が合えば長い睫毛に囲まれた漆黒の瞳で射すくめるように見るが、顔のパーツの配置もバランスも完璧な左右対称の美しさは、まさに神の美の采配と言える。
そして、そこにゴージャスとセクシーという言葉が加わるのだから、神はそこいらの男へ配分する美はなかったはずで、不公平としか言いようがないが、男と目が合った人間は伸びた背筋が一層伸びる。
そして人並み外れた高い身長とスタイルを持ち、歩く姿は颯爽としており、使い古された言葉で言えばモデル並、いやモデル以上の美貌を持つと言われ、芸能人なら女性週刊誌によく見られる『抱かれたい男』の上位に入る男とまで言われていた。そして当然だが、同年代の男性の中に彼以上の男を探すことは難しいと言われていた。
決して着飾るといった訳ではないが、身に纏うスーツが高級なのは当たり前なのだが、ネクタイも腕時計も一流のものが彼に似合うのは当然であり、まさに生まれた時からそういったものを身に付けていたといってもおかしくはない男。靴はイタリア製のハンドメイドであり、踵が減ることはないと言われる。そして隠された身体には、程よく筋肉がついているのが分る。
まさに見る者はうっとりといった眼差しを向ける男。
だがそんな男は笑わない。形のいい唇を持つ男だが、その唇が笑った形を作ったところを見た事がないと言われていた。
事実、形のいい眉を吊り上げることはあっても、口元が綻ぶところは見たことがない。
だがもしそんな姿をカメラに収めることが出来るなら、その写真は間違いなく高値が付くはずだ。
しかし、彼は写真を撮られることを嫌う。その為新聞に載る写真といったものは、口元を硬く引き結んだものばかりだった。
彼は笑わない男。
けれど、彼がその気になって微笑めば、棺桶に横たわった女性も飛び起きて来るのではないかと言われている。だが思いがけず目と目が合ったとしても、ひたと相手を見据えるだけで感情が動かされることはない。
そんな男は、このビルが建て替わった2年前NYから帰国した。
初めの頃、女性の秘書が帰国した男の目に止まろうとしたが、何も起きなかった。
そしてその女性は、昼間から夢想に耽るといった理由で別の部署に異動になり、彼の秘書は少し遅れてNYから来た銀縁眼鏡の男に落ち着いた。
秘書の男は、一緒に乗り込んだエレベーターの中、階数ボタンの前に立ち、一番上を押すと、じっと前を見つめていた。
NY時代から長年仕えた自分の上司は、頭のいい男で教養も学歴も家柄も申し分のないのだが笑わない。
少しは笑えばいいものをと思うのだが、口角がほほ笑みの形に上がることを見ることはなかった。だがそれは少年時代からそうであったことを思えば、それも仕方がないのかと思う。
しかし、数少ない笑った顔の中、唇から覗いた歯の並びは綺麗なアーチを描いていた。
そして欧米では美しい歯はステイタスシンボルのひとつだが、その歯は不自然さの目立つ白さといった訳ではない。
開いた口から覗く白い歯は、完璧な噛み合わせと美しさを持ち、男の切れ長の瞳が鋭い刃物のようだというのなら、その歯はその刃物と双璧をなすやはり切れ味の鋭い刃物。
そしてその歯になら咀嚼され食い殺されてもいいと思う女性も多い。だからこそ、その歯の美しさが感じられる微笑みを見たいと思うのだが、何しろひと前で笑うことがなく、眉を動かしただけで反応が掴めないことさえある。
秘書は少年時代の男を知っているが、あの頃も笑うことがなかったと記憶していた。
それは、家庭環境といったものがそうさせたのだろうと思うが、あの頃の男は自ら進んで虚無の世界に身を置き、完璧と言われた手で拳を作り、誰彼構わず殴り倒していたことがあった。
そしてそんな男に恋人はいない。
だからといって女と付き合ったことがない訳ではない。ただ、仕事以上に夢中になれる女性がいないだけだ。
そして世間は、彼の女性に対する基準といったものが厳しいからだと思っている。
それならそのレベルがどれくらいのものなのか。
それは2年前、NYを去るとき別れたと言われる女性を基準に考えれば分るはずだ。
モデルのように美しい男に寄り添うのは、やはりモデルのような美人。
だがモデルではない。どこかの企業のご令嬢。
そして頭のいい男はその女性と結婚することはなかった。それは女に縛られることがまっぴらだからだ。そして彼は、男なら誰もが必要とする範囲以上の付き合いを求められると別れを告げる。
だがそれは、付き合いを始める段階で女性も承知していたはず。しかし付き合いを始めるとどうしても彼の魅力に囚われてしまう。
そして出来ることなら、彼の吐き出した息でもいいから持ち帰りたいと思う。
そんな危うい思いを女にさせる魅力を持つと言われる男。
だが女に無関心な視線さえ投げかけることがない男。
彼の名前は道明寺司。道明寺ホールディングス副社長。35歳。
大きな背中と広い肩を持つ男は、最上階でエレベーターのドアが開くと、癖のある前髪をかきあげた。

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世界68か国・地域に192の拠点を持ち、資源開発、インフラ事業、金融事業、また機械、金属、化学といった分野での輸出入の取引を展開する会社。
そんな会社の副社長は、午前中の退屈な会議を終えると早々に執務室に足を向けた。
2年前に建て替わったこのビルも、この会社も彼の所有物であり、最上階のフロアにいる全ての人間が彼を見れば、直立不動の姿勢で挨拶をする。
そんな男は、視線が合えば長い睫毛に囲まれた漆黒の瞳で射すくめるように見るが、顔のパーツの配置もバランスも完璧な左右対称の美しさは、まさに神の美の采配と言える。
そして、そこにゴージャスとセクシーという言葉が加わるのだから、神はそこいらの男へ配分する美はなかったはずで、不公平としか言いようがないが、男と目が合った人間は伸びた背筋が一層伸びる。
そして人並み外れた高い身長とスタイルを持ち、歩く姿は颯爽としており、使い古された言葉で言えばモデル並、いやモデル以上の美貌を持つと言われ、芸能人なら女性週刊誌によく見られる『抱かれたい男』の上位に入る男とまで言われていた。そして当然だが、同年代の男性の中に彼以上の男を探すことは難しいと言われていた。
決して着飾るといった訳ではないが、身に纏うスーツが高級なのは当たり前なのだが、ネクタイも腕時計も一流のものが彼に似合うのは当然であり、まさに生まれた時からそういったものを身に付けていたといってもおかしくはない男。靴はイタリア製のハンドメイドであり、踵が減ることはないと言われる。そして隠された身体には、程よく筋肉がついているのが分る。
まさに見る者はうっとりといった眼差しを向ける男。
だがそんな男は笑わない。形のいい唇を持つ男だが、その唇が笑った形を作ったところを見た事がないと言われていた。
事実、形のいい眉を吊り上げることはあっても、口元が綻ぶところは見たことがない。
だがもしそんな姿をカメラに収めることが出来るなら、その写真は間違いなく高値が付くはずだ。
しかし、彼は写真を撮られることを嫌う。その為新聞に載る写真といったものは、口元を硬く引き結んだものばかりだった。
彼は笑わない男。
けれど、彼がその気になって微笑めば、棺桶に横たわった女性も飛び起きて来るのではないかと言われている。だが思いがけず目と目が合ったとしても、ひたと相手を見据えるだけで感情が動かされることはない。
そんな男は、このビルが建て替わった2年前NYから帰国した。
初めの頃、女性の秘書が帰国した男の目に止まろうとしたが、何も起きなかった。
そしてその女性は、昼間から夢想に耽るといった理由で別の部署に異動になり、彼の秘書は少し遅れてNYから来た銀縁眼鏡の男に落ち着いた。
秘書の男は、一緒に乗り込んだエレベーターの中、階数ボタンの前に立ち、一番上を押すと、じっと前を見つめていた。
NY時代から長年仕えた自分の上司は、頭のいい男で教養も学歴も家柄も申し分のないのだが笑わない。
少しは笑えばいいものをと思うのだが、口角がほほ笑みの形に上がることを見ることはなかった。だがそれは少年時代からそうであったことを思えば、それも仕方がないのかと思う。
しかし、数少ない笑った顔の中、唇から覗いた歯の並びは綺麗なアーチを描いていた。
そして欧米では美しい歯はステイタスシンボルのひとつだが、その歯は不自然さの目立つ白さといった訳ではない。
開いた口から覗く白い歯は、完璧な噛み合わせと美しさを持ち、男の切れ長の瞳が鋭い刃物のようだというのなら、その歯はその刃物と双璧をなすやはり切れ味の鋭い刃物。
そしてその歯になら咀嚼され食い殺されてもいいと思う女性も多い。だからこそ、その歯の美しさが感じられる微笑みを見たいと思うのだが、何しろひと前で笑うことがなく、眉を動かしただけで反応が掴めないことさえある。
秘書は少年時代の男を知っているが、あの頃も笑うことがなかったと記憶していた。
それは、家庭環境といったものがそうさせたのだろうと思うが、あの頃の男は自ら進んで虚無の世界に身を置き、完璧と言われた手で拳を作り、誰彼構わず殴り倒していたことがあった。
そしてそんな男に恋人はいない。
だからといって女と付き合ったことがない訳ではない。ただ、仕事以上に夢中になれる女性がいないだけだ。
そして世間は、彼の女性に対する基準といったものが厳しいからだと思っている。
それならそのレベルがどれくらいのものなのか。
それは2年前、NYを去るとき別れたと言われる女性を基準に考えれば分るはずだ。
モデルのように美しい男に寄り添うのは、やはりモデルのような美人。
だがモデルではない。どこかの企業のご令嬢。
そして頭のいい男はその女性と結婚することはなかった。それは女に縛られることがまっぴらだからだ。そして彼は、男なら誰もが必要とする範囲以上の付き合いを求められると別れを告げる。
だがそれは、付き合いを始める段階で女性も承知していたはず。しかし付き合いを始めるとどうしても彼の魅力に囚われてしまう。
そして出来ることなら、彼の吐き出した息でもいいから持ち帰りたいと思う。
そんな危うい思いを女にさせる魅力を持つと言われる男。
だが女に無関心な視線さえ投げかけることがない男。
彼の名前は道明寺司。道明寺ホールディングス副社長。35歳。
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最上階の角にある執務室は床から天井までガラス張り。
そこから見える景色は抜群で、まるで一枚の大きな絵画のように見える。だが、その景色をじっくりと眺めたことがあるのかと問われれば、無いと答えるはずだ。
司は、右手でネクタイを緩めると、上着を脱ぎデスクの上へ置いた。
それを取り上げ皺にならないようにとハンガーにかける秘書は、普段から官能的な低音と言われる男の声のトーンが、一段低くなれば機嫌が悪いということを理解しているが、若い頃の傍若無人さを知っていれば大したことはないと思う。
「おい西田。なんだこの数字は?」
「はい。どの数字でございましょう」
司は革の椅子に座りデスク越しにファイルを秘書に投げた。
「このプロジェクトに関する経費だ。なんでこんなに金額が高い?」
「ご承認いただけないとおっしゃるのですか?」
「ああ。承認出来ねぇな。説明が欲しい。責任者は誰だ?」
これは仕事上の会話であり、凄みがあるとは言えないが、責任者と言われる人物がその声を聞けば、背中に冷たい汗が流れ、胃が縮み上がる思いをするはずだ。そして的を射た話が出来なければ、刺すように鋭い視線で切り刻まれる思いをする。そして自分が追い込まれて行くような気分になるはずだ。
だがこれはいつも通りのやり取りであり、男に仕えている年上の秘書は平然としていた。
そして、執務室における友好関係と言われるものが二人の間に無くても、秘書は気にしてはいない。何故なら、全ては秘書として仕えた長年の経験といったものに裏打ちされているからだ。
西田はファイルを開き、中を見た。
「こちらはウズベキスタンの大型発電プラント建設受注の件ですね。そうなるとインフラ事業本部の米田部長が責任者となりますが今すぐ呼び出しましょうか?」
中央アジアに位置するウズベキスタン共和国でのプラントの受注は、国の電力事業運営にも携わる大型プロジェクトであり、道明寺の技術能力を問う試金石となると言われているプロジェクトだ。そしてこれを成功させれば、次に繋がることは間違いない。
そのため、社としてはかなりの力を入れてはいるが、経費と呼ばれる金額の高さに疑問を持った。
「ああ。呼んでくれ」
「承知しました。それでは今すぐ_」
と、言いかけた途端、男の右手が上がり秘書の言葉を遮る仕草をした。
「いや。・・午後からでいい」
秘書は男のひと呼吸の間に不審そうな顔をした。
何故なら、男は『向こう』にいた頃を含め、これまで今すぐという言葉を遮ったことがなかったからだ。それなのに、午後からでいいと言ったことに驚きを隠せず思わず聞いた。
「どうかなされましたか?副社長。医師を呼びましょうか?」
秘書が一番に考えたのは、連日仕事が遅くまで長引いたことにより疲れが溜まっているのではないかということだ。
そして、もし体調が優れないというなら、躊躇うことなく医師を呼ぶつもりでいた。
二人は秘書と副社長という立場とは言え、少年時代から彼を知る男は、長い付き合いがあり、互いに慣れ親しんだ関係でもあるからだ。
そして、次期社長である副社長が倒れるといったことになれば、企業経営に大きな影響を与えることになるからだ。
かつて道明寺財閥の御曹司と呼ばれたことは、今は遠い昔の話であり、背中に背負う物の大きさを十分に理解している男は、今では秘書の言うことを頭から否定することはないが、それでも時に声を荒げることもある。
だが今の状況は、そういったものとは違う。
「いや。大丈夫だ。少し頭痛がする。西田、薬を。それからコーヒーをくれ」
苦悶の表情を浮かべている訳ではないが、秀麗な男がすらりと長い指をこめかみに当てた仕草は、それはそれで見る者の心を奪う。
もし秘書が女性なら間違いなく心配のあまりベタベタとした態度を取るだろう。
だがそれが好ましい光景とは言えず、西田は自分が秘書で良かったと思っていた。
何故なら、過去の態度を窺い知る立場としては、男としての欲求を果たすこと以外に於いて女に触れられれば、目の中に怒りがちらつくのを知っているからだ。
それは、才気は仕事の面だけに向けられ、女を見る目は無情な面が目立ち、感傷に浸るといったことがないように思えた。
「副社長、アスピリンとカフェインの同時摂取は胃に悪影響を与える恐れがあり、お身体にいいとは言えません。それにカフェインとの相互副作用といったものが懸念されます」
秘書は自分が仕える男のコーヒーの好みを知っている。
ブルマンをブラックで飲むのだが、昼食前のこの時間、つまり空きっ腹に罪のように黒いブラックコーヒーとアスピリンを摂取すれば胃に良い訳がないと咎めた。
「西田。お前は言われたことをすればいい」
よく通る低い声で言う男は椅子に座り無表情な顔をしていたが、目は違う。
目だけは痛みの為なのか、それとも、はいと言わなかった秘書に対する苛立ちなのか。どちらとも取れる思いがちらついていた。
だが秘書は男がどんな態度を見せようが怯むことはない。
今は副社長と呼ばれる男だが、彼が少年の頃からを知っている。
美しい顔立ちをした少年を。だがあの頃は決して褒められる少年ではなかった。
だからどんなに凄まれようと気に留めることはない。
そして、上司の体調管理も秘書の仕事のひとつなのだから、例え凄まれようと自分のやるべきことは心得ており、それをしなかったことにより体調を崩すことがあっては秘書の名折れとなり、西田も表情を変えることなく答えた。
「副社長。アスピリンはお持ちしますが、ご一緒にコーヒーを飲むのはお控え下さい」
秘書は司に向かって言い、薬と水を用意するため執務室を出た。
司は西田が出ていくと、椅子に背中を預け、高価な靴に包まれた足をデスクに上げ、複雑な笑みを頬に刻んでいた。
ひと前では笑顔を見せることがないと言われる男の笑み。
司は先日の出張で一人の勇敢な女性に出会っていた。
そしてその女性を思い出し笑っていた。
確率で言えば、再び会うことはないと思われる女性。
背は低く、見積もったところで司より25センチは低い。
細身で胸は小さく、黒髪に自然な顔色。
感情の答えは分からないが、何故かその女性のことが頭に浮かんでいた。

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そこから見える景色は抜群で、まるで一枚の大きな絵画のように見える。だが、その景色をじっくりと眺めたことがあるのかと問われれば、無いと答えるはずだ。
司は、右手でネクタイを緩めると、上着を脱ぎデスクの上へ置いた。
それを取り上げ皺にならないようにとハンガーにかける秘書は、普段から官能的な低音と言われる男の声のトーンが、一段低くなれば機嫌が悪いということを理解しているが、若い頃の傍若無人さを知っていれば大したことはないと思う。
「おい西田。なんだこの数字は?」
「はい。どの数字でございましょう」
司は革の椅子に座りデスク越しにファイルを秘書に投げた。
「このプロジェクトに関する経費だ。なんでこんなに金額が高い?」
「ご承認いただけないとおっしゃるのですか?」
「ああ。承認出来ねぇな。説明が欲しい。責任者は誰だ?」
これは仕事上の会話であり、凄みがあるとは言えないが、責任者と言われる人物がその声を聞けば、背中に冷たい汗が流れ、胃が縮み上がる思いをするはずだ。そして的を射た話が出来なければ、刺すように鋭い視線で切り刻まれる思いをする。そして自分が追い込まれて行くような気分になるはずだ。
だがこれはいつも通りのやり取りであり、男に仕えている年上の秘書は平然としていた。
そして、執務室における友好関係と言われるものが二人の間に無くても、秘書は気にしてはいない。何故なら、全ては秘書として仕えた長年の経験といったものに裏打ちされているからだ。
西田はファイルを開き、中を見た。
「こちらはウズベキスタンの大型発電プラント建設受注の件ですね。そうなるとインフラ事業本部の米田部長が責任者となりますが今すぐ呼び出しましょうか?」
中央アジアに位置するウズベキスタン共和国でのプラントの受注は、国の電力事業運営にも携わる大型プロジェクトであり、道明寺の技術能力を問う試金石となると言われているプロジェクトだ。そしてこれを成功させれば、次に繋がることは間違いない。
そのため、社としてはかなりの力を入れてはいるが、経費と呼ばれる金額の高さに疑問を持った。
「ああ。呼んでくれ」
「承知しました。それでは今すぐ_」
と、言いかけた途端、男の右手が上がり秘書の言葉を遮る仕草をした。
「いや。・・午後からでいい」
秘書は男のひと呼吸の間に不審そうな顔をした。
何故なら、男は『向こう』にいた頃を含め、これまで今すぐという言葉を遮ったことがなかったからだ。それなのに、午後からでいいと言ったことに驚きを隠せず思わず聞いた。
「どうかなされましたか?副社長。医師を呼びましょうか?」
秘書が一番に考えたのは、連日仕事が遅くまで長引いたことにより疲れが溜まっているのではないかということだ。
そして、もし体調が優れないというなら、躊躇うことなく医師を呼ぶつもりでいた。
二人は秘書と副社長という立場とは言え、少年時代から彼を知る男は、長い付き合いがあり、互いに慣れ親しんだ関係でもあるからだ。
そして、次期社長である副社長が倒れるといったことになれば、企業経営に大きな影響を与えることになるからだ。
かつて道明寺財閥の御曹司と呼ばれたことは、今は遠い昔の話であり、背中に背負う物の大きさを十分に理解している男は、今では秘書の言うことを頭から否定することはないが、それでも時に声を荒げることもある。
だが今の状況は、そういったものとは違う。
「いや。大丈夫だ。少し頭痛がする。西田、薬を。それからコーヒーをくれ」
苦悶の表情を浮かべている訳ではないが、秀麗な男がすらりと長い指をこめかみに当てた仕草は、それはそれで見る者の心を奪う。
もし秘書が女性なら間違いなく心配のあまりベタベタとした態度を取るだろう。
だがそれが好ましい光景とは言えず、西田は自分が秘書で良かったと思っていた。
何故なら、過去の態度を窺い知る立場としては、男としての欲求を果たすこと以外に於いて女に触れられれば、目の中に怒りがちらつくのを知っているからだ。
それは、才気は仕事の面だけに向けられ、女を見る目は無情な面が目立ち、感傷に浸るといったことがないように思えた。
「副社長、アスピリンとカフェインの同時摂取は胃に悪影響を与える恐れがあり、お身体にいいとは言えません。それにカフェインとの相互副作用といったものが懸念されます」
秘書は自分が仕える男のコーヒーの好みを知っている。
ブルマンをブラックで飲むのだが、昼食前のこの時間、つまり空きっ腹に罪のように黒いブラックコーヒーとアスピリンを摂取すれば胃に良い訳がないと咎めた。
「西田。お前は言われたことをすればいい」
よく通る低い声で言う男は椅子に座り無表情な顔をしていたが、目は違う。
目だけは痛みの為なのか、それとも、はいと言わなかった秘書に対する苛立ちなのか。どちらとも取れる思いがちらついていた。
だが秘書は男がどんな態度を見せようが怯むことはない。
今は副社長と呼ばれる男だが、彼が少年の頃からを知っている。
美しい顔立ちをした少年を。だがあの頃は決して褒められる少年ではなかった。
だからどんなに凄まれようと気に留めることはない。
そして、上司の体調管理も秘書の仕事のひとつなのだから、例え凄まれようと自分のやるべきことは心得ており、それをしなかったことにより体調を崩すことがあっては秘書の名折れとなり、西田も表情を変えることなく答えた。
「副社長。アスピリンはお持ちしますが、ご一緒にコーヒーを飲むのはお控え下さい」
秘書は司に向かって言い、薬と水を用意するため執務室を出た。
司は西田が出ていくと、椅子に背中を預け、高価な靴に包まれた足をデスクに上げ、複雑な笑みを頬に刻んでいた。
ひと前では笑顔を見せることがないと言われる男の笑み。
司は先日の出張で一人の勇敢な女性に出会っていた。
そしてその女性を思い出し笑っていた。
確率で言えば、再び会うことはないと思われる女性。
背は低く、見積もったところで司より25センチは低い。
細身で胸は小さく、黒髪に自然な顔色。
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2年前に建て替わったビルのフロアにつくしはいた。
そこは、道明寺ホールディングス株式会社日本支社。
彼女は食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課に勤務していた。
長い名前だが、大きな会社は細かな部署割りがされているのが当然で、略して『食飲第二部コーヒー三』と言われており、社内便として使用される定形外封筒に貼られた宛名表には、簡素化されたその名称が書かれ、そしてその下に『牧野様』と書かれていた。
つくしは、その名前の通りコーヒーに関係する仕事をしていた。
それは、コーヒー豆の輸入を取り扱う部署にいるということだ。
入社して暫くは、所属部署のよく分からない名前に慣れるのが大変だった。
そして社内の事業部は多方面に渡るのだから、直接的に関係ないとしても、交わされる会話に略した部署名を言われ、それはどこ?と疑問に思うことが多かった。
だが、慣れてみれば、
『食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課、牧野』と長ったらしい名前を封筒に書く手間が省ける便利さはある。
そして、今朝もミーティングから戻ってみれば、社内便が配達されており、机の上には、つくし宛にいくつかの封筒が置かれていた。
無駄な紙を無くそうと電子化が叫ばれている世の中とは言え、何でもかんでもペーパーレスに出来るはずもなく、まだ紙を使うことが多い。
そのため、書類が封筒に入れられ、社内便として送られて来ることは珍しいことではない。
そして、つくしは紙に出して読む方が頭に入ることが多い。だから、読書をするのもタブレットではなく紙の本だ。
つくしは、椅子に腰かけ手にした封筒を開けようとしていた。
「つくし!お土産どうもありがとう。あのチョコレートとても美味しかったわ。で、どうだったのベトナムは?」
ミーティングから戻って来たつくしに声をかけて来たのは、同期入社の原田久美子と言い、同じ食品事業部の人間だが、つくしが飲料第二部コーヒー三課に対し、彼女は飲料第一部茶類課の人間で紅茶の担当と言われる部署にいる。
「え?うん。無事終わったわよ?」
つくしは、1週間ベトナムへ出張していた。
それは、コーヒーの生産量がブラジルに次ぎ世界第二位となった国へ現地視察としての訪問だった。
「そう。お疲れ様。でも大変だったわね?聞いたわよ?帰りの飛行機で席が無いって言われたらしいわね?海外でそんな目に合うなんて!冗談じゃないわよね?でも予定通り無事帰って来たのよね?さすがつくし!なんとか席を用意させたんでしょ?」
それは3日前、ベトナムの空港で起きた事件だった。
ハノイを出発する航空機にチェックインをしようとしたところ、チケットは手元にあるのに、予約がされてないと言われ揉めた。
「うん。だって最終便の飛行機よ?真夜中の出発よ?その飛行機に乗れなかったら空港で夜を明かすことになるのよ?それにわざわざしなくてもいいリコンファーム(予約再確認)までしたのよ?それなのに席がないなんて酷いと思うでしょ?」
ハノイの空港は、道明寺HDと関係の深い日本の大手ゼネコンT建設が建設したとてもきれいな空港だが、そこのベンチで一夜を明かそうとは思わない。
そして、過去に予約した航空機に乗れなかった経験を持つつくしは、信頼を置いていいはずの社内手配の航空券であるにも関わらず、今では殆ど必要のないリコンファームが癖になっていた。
「まあねぇ。何に対しても言えることだけど、人間がすることだからミスがないとは言えないでしょ?ごく稀にそういったことがあるのよね?でもそれが海外。しかも女ひとりの出張じゃあ心細いところもあるけど、さすが牧野主任だわ!で、なんとか食い下がった訳ね?」
航空機は新幹線とは違い、席がないからといって立って帰りますとは言えない。
そして丁度観光シーズンと言われる季節。ハイシーズンと言われる時に次の便に席があるはずもなく、どうしてもその便で帰りたい思いがあり、必死で食い下がった。
だが下手をすれば、迷惑な客として空港警備員に連行される恐れもあった。
「うん・・まあね。おかげで帰りは搭乗直前でキャンセルになったビジネスクラスで帰ってこれたんだけどね。でも疲れたわよ。帰りの飛行機の中じゃ涎垂らして寝てたかもしれないわ」
「ははは!まさか!いい年した女が大口開けて寝てるなんてことないでしょ?ビジネスクラスだから機内食もよかったはずだし、座席もゆったりしているからのんびり出来たでしょ?」
「うん。でもね、ホント疲れてたから殆ど寝てたの。だってギリギリまで乗れるか乗れないか分からなかったんだから精神的に疲れたわよ?」
「なるほどねぇ・・。これがプライベートジェット持ちの人間なら違うんだろうけど、所詮我々はしがない会社員だもの仕方がないわよ?でもうちの副社長みたいに雲の上の人間なら違うんだろうねぇ。だって副社長はジェットセッターだもんねぇ・・。とにかくお疲れ様!まあ、あたし達は今日も一日地上で頑張るしかないわね?じゃあね、つくし!」
原田久美子は、にこやかに笑い、自分の部署に戻っていった。
久美子が言ったうちの副社長とは道明寺司のことだ。
そして自家用機を使って世界を飛び回る人間をジェットセッターと言うが、まさにその通りだ。
2年前このビルが建て替わったと同時にNYから帰国した道明寺財閥の後継者。
社内に於ける副社長は、女性社員たちの間では雲の上の存在。
だが、昼の社員食堂に行けば、必ずどこかのグループの間で話題に上る存在。
仕事の能力は高く、外見もいい。そしてその家柄も申し分がない。
だから女性社員の間では憧れの存在なのだが、つくしは全く意識したことがない。
何故なら、視野の片隅にも入らないのだから、意識しようがないからだ。
それに同じ社内の中にいたとしても、すれ違ったことさえない。つまり2年同じビルで仕事をしているが、本人を見たことがない。
だがそれは道明寺司という人物が、下々の社員が使用するエレベーターを使うこが無いといったこともある。それに日本支社のトップと口を利くような立場にいる人間は限られており、間違ってもつくしが彼のような人物と接点を持つことになるとは思えないからだ。
それに、仕事は別として共通の話題があるとは思えない。
それでも、後で知ったのだが、つくしがベトナムにいた頃、副社長である道明寺司もベトナムにいたということを。
そして副社長について女性社員の間にある噂を知っている。
それは、副社長は笑わないということ。
だが、神々のフロアと呼ばれる最上階にいる男が笑うかどうかなど、つくしには関係が無い話しだ。彼はつくしに給料を支払ってくれる人以外の何者でもない。
努力して入った道明寺という会社で、自分が頑張った分だけの給料を支払ってくれる人物だ。そうだ。それだけの人物であり、それ以外の何者でもない。
つくしは、都内の公立高校を卒業し、やはり都内の国立大学をアルバイトと奨学金で学び卒業した。そして就職するなら道明寺だと決めていた。だが、念のため花沢物産と美作商事も受けた。
それは、自分の可能性を試したい。グローバルな環境で仕事がしたかったからだ。
そしてその夢は叶い、道明寺に入社し、年に何度かは海外出張もひとりでこなせるようになり主任に昇進した。
そんなつくしの人生は今のところ順調だ。
だがそれは異性関係を除いてのことだが。今のつくしに恋人はいない。けれど、別にそれでもいいと思っていた。恋人は欲しいからといって目の前に現れることはないのだから。
だがそんなつくしは、同期入社の久美子に言わせれば淡泊すぎるらしい。
だが、いったい何が淡泊なのか?
それは、恐らく久美子が紹介してきた男性に対する態度がそう思わせたのだろう。
『つくしもそろそろ新しい彼氏を見つけなさい!それにね、つくしはあっさりし過ぎなのよ!だから彼が他の女に走るのよ!』
つくしは、久美子から話しかけられた事により、開こうとしてそのままになっていた封筒を開け、中の書類を取り出した。

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そこは、道明寺ホールディングス株式会社日本支社。
彼女は食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課に勤務していた。
長い名前だが、大きな会社は細かな部署割りがされているのが当然で、略して『食飲第二部コーヒー三』と言われており、社内便として使用される定形外封筒に貼られた宛名表には、簡素化されたその名称が書かれ、そしてその下に『牧野様』と書かれていた。
つくしは、その名前の通りコーヒーに関係する仕事をしていた。
それは、コーヒー豆の輸入を取り扱う部署にいるということだ。
入社して暫くは、所属部署のよく分からない名前に慣れるのが大変だった。
そして社内の事業部は多方面に渡るのだから、直接的に関係ないとしても、交わされる会話に略した部署名を言われ、それはどこ?と疑問に思うことが多かった。
だが、慣れてみれば、
『食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課、牧野』と長ったらしい名前を封筒に書く手間が省ける便利さはある。
そして、今朝もミーティングから戻ってみれば、社内便が配達されており、机の上には、つくし宛にいくつかの封筒が置かれていた。
無駄な紙を無くそうと電子化が叫ばれている世の中とは言え、何でもかんでもペーパーレスに出来るはずもなく、まだ紙を使うことが多い。
そのため、書類が封筒に入れられ、社内便として送られて来ることは珍しいことではない。
そして、つくしは紙に出して読む方が頭に入ることが多い。だから、読書をするのもタブレットではなく紙の本だ。
つくしは、椅子に腰かけ手にした封筒を開けようとしていた。
「つくし!お土産どうもありがとう。あのチョコレートとても美味しかったわ。で、どうだったのベトナムは?」
ミーティングから戻って来たつくしに声をかけて来たのは、同期入社の原田久美子と言い、同じ食品事業部の人間だが、つくしが飲料第二部コーヒー三課に対し、彼女は飲料第一部茶類課の人間で紅茶の担当と言われる部署にいる。
「え?うん。無事終わったわよ?」
つくしは、1週間ベトナムへ出張していた。
それは、コーヒーの生産量がブラジルに次ぎ世界第二位となった国へ現地視察としての訪問だった。
「そう。お疲れ様。でも大変だったわね?聞いたわよ?帰りの飛行機で席が無いって言われたらしいわね?海外でそんな目に合うなんて!冗談じゃないわよね?でも予定通り無事帰って来たのよね?さすがつくし!なんとか席を用意させたんでしょ?」
それは3日前、ベトナムの空港で起きた事件だった。
ハノイを出発する航空機にチェックインをしようとしたところ、チケットは手元にあるのに、予約がされてないと言われ揉めた。
「うん。だって最終便の飛行機よ?真夜中の出発よ?その飛行機に乗れなかったら空港で夜を明かすことになるのよ?それにわざわざしなくてもいいリコンファーム(予約再確認)までしたのよ?それなのに席がないなんて酷いと思うでしょ?」
ハノイの空港は、道明寺HDと関係の深い日本の大手ゼネコンT建設が建設したとてもきれいな空港だが、そこのベンチで一夜を明かそうとは思わない。
そして、過去に予約した航空機に乗れなかった経験を持つつくしは、信頼を置いていいはずの社内手配の航空券であるにも関わらず、今では殆ど必要のないリコンファームが癖になっていた。
「まあねぇ。何に対しても言えることだけど、人間がすることだからミスがないとは言えないでしょ?ごく稀にそういったことがあるのよね?でもそれが海外。しかも女ひとりの出張じゃあ心細いところもあるけど、さすが牧野主任だわ!で、なんとか食い下がった訳ね?」
航空機は新幹線とは違い、席がないからといって立って帰りますとは言えない。
そして丁度観光シーズンと言われる季節。ハイシーズンと言われる時に次の便に席があるはずもなく、どうしてもその便で帰りたい思いがあり、必死で食い下がった。
だが下手をすれば、迷惑な客として空港警備員に連行される恐れもあった。
「うん・・まあね。おかげで帰りは搭乗直前でキャンセルになったビジネスクラスで帰ってこれたんだけどね。でも疲れたわよ。帰りの飛行機の中じゃ涎垂らして寝てたかもしれないわ」
「ははは!まさか!いい年した女が大口開けて寝てるなんてことないでしょ?ビジネスクラスだから機内食もよかったはずだし、座席もゆったりしているからのんびり出来たでしょ?」
「うん。でもね、ホント疲れてたから殆ど寝てたの。だってギリギリまで乗れるか乗れないか分からなかったんだから精神的に疲れたわよ?」
「なるほどねぇ・・。これがプライベートジェット持ちの人間なら違うんだろうけど、所詮我々はしがない会社員だもの仕方がないわよ?でもうちの副社長みたいに雲の上の人間なら違うんだろうねぇ。だって副社長はジェットセッターだもんねぇ・・。とにかくお疲れ様!まあ、あたし達は今日も一日地上で頑張るしかないわね?じゃあね、つくし!」
原田久美子は、にこやかに笑い、自分の部署に戻っていった。
久美子が言ったうちの副社長とは道明寺司のことだ。
そして自家用機を使って世界を飛び回る人間をジェットセッターと言うが、まさにその通りだ。
2年前このビルが建て替わったと同時にNYから帰国した道明寺財閥の後継者。
社内に於ける副社長は、女性社員たちの間では雲の上の存在。
だが、昼の社員食堂に行けば、必ずどこかのグループの間で話題に上る存在。
仕事の能力は高く、外見もいい。そしてその家柄も申し分がない。
だから女性社員の間では憧れの存在なのだが、つくしは全く意識したことがない。
何故なら、視野の片隅にも入らないのだから、意識しようがないからだ。
それに同じ社内の中にいたとしても、すれ違ったことさえない。つまり2年同じビルで仕事をしているが、本人を見たことがない。
だがそれは道明寺司という人物が、下々の社員が使用するエレベーターを使うこが無いといったこともある。それに日本支社のトップと口を利くような立場にいる人間は限られており、間違ってもつくしが彼のような人物と接点を持つことになるとは思えないからだ。
それに、仕事は別として共通の話題があるとは思えない。
それでも、後で知ったのだが、つくしがベトナムにいた頃、副社長である道明寺司もベトナムにいたということを。
そして副社長について女性社員の間にある噂を知っている。
それは、副社長は笑わないということ。
だが、神々のフロアと呼ばれる最上階にいる男が笑うかどうかなど、つくしには関係が無い話しだ。彼はつくしに給料を支払ってくれる人以外の何者でもない。
努力して入った道明寺という会社で、自分が頑張った分だけの給料を支払ってくれる人物だ。そうだ。それだけの人物であり、それ以外の何者でもない。
つくしは、都内の公立高校を卒業し、やはり都内の国立大学をアルバイトと奨学金で学び卒業した。そして就職するなら道明寺だと決めていた。だが、念のため花沢物産と美作商事も受けた。
それは、自分の可能性を試したい。グローバルな環境で仕事がしたかったからだ。
そしてその夢は叶い、道明寺に入社し、年に何度かは海外出張もひとりでこなせるようになり主任に昇進した。
そんなつくしの人生は今のところ順調だ。
だがそれは異性関係を除いてのことだが。今のつくしに恋人はいない。けれど、別にそれでもいいと思っていた。恋人は欲しいからといって目の前に現れることはないのだから。
だがそんなつくしは、同期入社の久美子に言わせれば淡泊すぎるらしい。
だが、いったい何が淡泊なのか?
それは、恐らく久美子が紹介してきた男性に対する態度がそう思わせたのだろう。
『つくしもそろそろ新しい彼氏を見つけなさい!それにね、つくしはあっさりし過ぎなのよ!だから彼が他の女に走るのよ!』
つくしは、久美子から話しかけられた事により、開こうとしてそのままになっていた封筒を開け、中の書類を取り出した。

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つくしは社内便の封筒から取り出した書類を見て一、二秒考えた。
『ウズベキスタン共和国の大型発電プラント建設受注に関する_』
そこに書かれていた文字は、つくしには全く関係のない文字の並びだが、それを目で追いすぐに理解した。この封筒の差出人は、間違った書類をつくし宛の封筒に入れたということを。
差出人はインフラ事業部、海外事業本部太田となっており、新興国と呼ばれるウズベキスタンの国家的プロジェクトである電力事業に、海外事業本部が契約を取り付けたといったニュースは耳にしていたが、その書類が間違ってつくしの手元に届いたということだ。
だが不思議なのは、インフラ事業部と食品事業部とはまったくと言っていいほど縁がない部署であり、いったい何の書類を送るつもりだったのかということになる。
つくしは、すぐにパソコンの社内用メールアドレスの中からインフラ事業部、海外事業本部を探し、太田正樹という名前を見つけ、その人物が差出人だと理解した。
だが、一番下にあるということは、入社年次が一番若いことになり、まだ入社して間もない人間なのかもしれない。
間違った書類が届くことは、今までもあった。
久美子ではないが、人間のやることにミスがないとは言えないからだ。それに、このことを責めるつもりはない。
ただ、差出人は、この書類が本来届いているはずの相手に連絡をしているかもしれない。
そして、届いていないことに気付き、慌てているのではないか。
そう思ったつくしは、電話を取った。そしてアドレスにある内線番号に電話をした。
社内便は急がない文書のやり取りに使われる。
そして、大した書類ではないが、それでも文書で出す意味のある書類が送られることが多い。
だが、この書類はこんな定形外封筒に入れられ、宛名が書かれて回されるような書類ではないはずだ。そして、この書類はどう考えても急がないといった書類ではない。
何故なら一番上の紙を捲って出て来たのは、承認を要する書類であることが分かり、事業部長欄には米田とサインがしてあり、もうひとつの欄は空欄になっているが、そこは、言わずと知れた副社長のサインが必要となる箇所であることが分かる。
そう考えているうちに、相手が電話を取った。
「あ、食飲第二部コーヒー三の牧野と言います。そちらのウズベキスタン関係の書類が私宛に届いたんですが_」
『どちらですか?!どこに届いたんですか?!』
最後まで言わないうちに男の大きな声で言われ、つくしは思わず一瞬受話器から耳を遠ざけた。
「食飲第二部コーヒー三の牧野です」
『え?何で?どうして?何でうちの書類が食品事業部にあるんですか?』
それはこっちが訊きたいくらいだ。
そして、相手の声は疑問符ばかりが付いていて、自分が間違ったとは思っていない口調で、すみませんのひと言もない。それに声高な声で話すことにつくしはカチンと来た。
「どうしてって、間違って送られたのはそちらじゃないですか!?」
『そんなことはどうでもいいんです!その書類、すぐ欲しいんです!すぐに!すぐにです!』
やはりすみませんのひと言もなく、今度は感嘆符ばかりが耳に付く。
だが酷く慌てていることだけは、感じられる。
そして電話の相手に対するマナーに欠ける喋りは、新入社員なのだろうとつくしは推測した。そしてそんな相手と必要以上に会話をし、今ここで何かを言ったところで仕方がないと、黙って書類を返すことにした。
「・・そうですか。お急ぎの書類なんですね?では取りに来て下さい。私は牧野ですが、フロアの入口から入って一番奥がうちの部署です。今日は社内にいますからいつ取りに来て下さっても_」
『牧野さん!お願いです!今すぐインフラ事業部まで持って来て下さい!僕、手が離せないんです!でもその書類がすぐにいるんです!すぐに!!』
つくしは、またしても最後まで言わせてもらえず、今度は捲し立てられるように命令され、呆れ返ると同時に腹が立ち、さっきまでの落ち着いた口調はガラリと変わり、詰問するような口調になった。
「あのね、どうして私があなたの所まで持って行かなきゃならないんですか?間違えたのはあなたでしょ?それなのに人に持って来いってどういうことですか?」
『牧野さん!どうもこうもないんです!朝からその書類を探してたんです。でもどこを探してもなくて本当に困ってたんです!その書類、副社長に承認を頂く書類なんです!課長や部長のサインもしてあるし、新しく作り変えることは出来ないんです。その書類じゃなきゃダメなんです。それも今日提出しろって出張する部長に言われてたんです。ここまで言えば分かりますよね?書類を紛失したからといって新しく作ったところで、部長のサインはもらえないんです!だからその書類じゃなきゃダメなんです!』
受話器の向うから唾が飛んで来そうな勢いで喋られ、新入社員と推測できる男性の慌てふためく姿が思い浮かぶ。もうこうなったら電話口で言い合ったところで仕方がない。
つくしは、ため息をつき、電話の向うの男性に告げた。
「分かったわよ。じゃあ私が持って行ってあげるから。インフラ事業部は40階よね?うちは15階だから少し待っててくれる?太田・・君だったわよね?」
『本当ですか?有難うございます!助かります』
すると、さっきまで言葉尻が疑問符や感嘆符ばかりだったのが、惨めなくらいのお願い口調に変わったが、それが意図してのものなのか。もしそうだとすれば、電話の相手はかなりの演技力を持っているはずだ。
『でも牧野さん!40階じゃダメなんです。本当は55階の秘書室まで届けないと駄目なんです!もう10時半です!副社長に至急提出な書類なんです。一刻を争う書類なんです。だから55階のエレベーターを降りた所で待ってて下さい!お願いします!僕これからもうひとつの書類をプリントアウトしなくちゃいけないんです!でも終わったらすぐに行きますから!牧野さん、お願いします!お願いしますね!』
相手はそれだけ言うと、つくしに口を挟む暇を与えることなく電話を切った。
つくしは、席に座ったまま、思わず身体がのけ反っていた。
だが電話の向うで慌てる若い男性の姿が目に浮かび、仕方がないと気を取り直し、書類を手に席を立った。
彼も道明寺に憧れて入社したはずだ。そんな会社で頑張っている自分より若い男性を先輩社員として暖かく、いや厳しく育てていくことも必要だ。
だから書類を渡すとき、将来使い物にならないと言われないためにも、厳しく言ってやるつもりだ。
宛名と内容物はきちんと確認すること。
これが社内だからよかったようなものの、間違って社外に送られるようなことがあっては始末書ものだと。
「ごめん、ちょっと書類届けに行って来るから席空けるね」
つくしは、立ち上がり、向かいに座る男性に声をかけた。
彼はつくしより二つ年上の36歳だが気軽に会話が出来る同僚だ。
そして男の数も質も揃っていると言われる道明寺HDで働くだけあって、仕事が出来る男だが、結婚していて子供が二人いる。
「ああ。話は聞こえてたからな。40階のインフラ事業部だろ?またなんでそんなところからうちへ書類が来るんだ?」
「知らないわよ。でも急いでるみたいだし、相手は忙しいの一点張りだし、副社長に回す書類らしいの。だからちょっと届けてくるから」
「そうか。あいつらも大変だな。何しろうちの部署と違ってインフラ事業部は収益も莫大だし副社長相手なら一刻を争うのも当然だ。行ったついでに40階の見学でもしてこいよ」
「うん。そうね。ちょっと見学して来るわね?」
つくしは、気軽に言ったが無意識に頭に手をやり、肩口で切りそろえられた髪に乱れがないかと整えた。
本当は40階ではなく、55階、神々のフロアと呼ばれる場所に足を踏み入れるとは言わなかった。
そしてつくしは、55階に足を踏み入れるのは初めてだ。
黒を基調にしたガラス張りの超高層ビルの最上階。
そこにあるのは、秘書室と役員室に彼ら専用の会議室。
そして2年前に日本に帰国した副社長の執務室がある。
もしかすると、未だに見たことがない副社長を目にすることが出来るかもしれない。
だが、万が一そんなことになったとしても、立ち止まって深々と頭を下げるだけで、会話を交わすことはないと、それだけは絶対に言える。
つくしは、チャコールグレーのジャケットとスカートの皺を伸ばし、エレベーターに乗り最上階のボタンを押したが、それを見た先に乗っていた社員の視線が一斉に緊張したように見えたのは気のせいか。
いや。そうではない。
つくしも、55階のボタンに触れた途端、緊張していた。

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『ウズベキスタン共和国の大型発電プラント建設受注に関する_』
そこに書かれていた文字は、つくしには全く関係のない文字の並びだが、それを目で追いすぐに理解した。この封筒の差出人は、間違った書類をつくし宛の封筒に入れたということを。
差出人はインフラ事業部、海外事業本部太田となっており、新興国と呼ばれるウズベキスタンの国家的プロジェクトである電力事業に、海外事業本部が契約を取り付けたといったニュースは耳にしていたが、その書類が間違ってつくしの手元に届いたということだ。
だが不思議なのは、インフラ事業部と食品事業部とはまったくと言っていいほど縁がない部署であり、いったい何の書類を送るつもりだったのかということになる。
つくしは、すぐにパソコンの社内用メールアドレスの中からインフラ事業部、海外事業本部を探し、太田正樹という名前を見つけ、その人物が差出人だと理解した。
だが、一番下にあるということは、入社年次が一番若いことになり、まだ入社して間もない人間なのかもしれない。
間違った書類が届くことは、今までもあった。
久美子ではないが、人間のやることにミスがないとは言えないからだ。それに、このことを責めるつもりはない。
ただ、差出人は、この書類が本来届いているはずの相手に連絡をしているかもしれない。
そして、届いていないことに気付き、慌てているのではないか。
そう思ったつくしは、電話を取った。そしてアドレスにある内線番号に電話をした。
社内便は急がない文書のやり取りに使われる。
そして、大した書類ではないが、それでも文書で出す意味のある書類が送られることが多い。
だが、この書類はこんな定形外封筒に入れられ、宛名が書かれて回されるような書類ではないはずだ。そして、この書類はどう考えても急がないといった書類ではない。
何故なら一番上の紙を捲って出て来たのは、承認を要する書類であることが分かり、事業部長欄には米田とサインがしてあり、もうひとつの欄は空欄になっているが、そこは、言わずと知れた副社長のサインが必要となる箇所であることが分かる。
そう考えているうちに、相手が電話を取った。
「あ、食飲第二部コーヒー三の牧野と言います。そちらのウズベキスタン関係の書類が私宛に届いたんですが_」
『どちらですか?!どこに届いたんですか?!』
最後まで言わないうちに男の大きな声で言われ、つくしは思わず一瞬受話器から耳を遠ざけた。
「食飲第二部コーヒー三の牧野です」
『え?何で?どうして?何でうちの書類が食品事業部にあるんですか?』
それはこっちが訊きたいくらいだ。
そして、相手の声は疑問符ばかりが付いていて、自分が間違ったとは思っていない口調で、すみませんのひと言もない。それに声高な声で話すことにつくしはカチンと来た。
「どうしてって、間違って送られたのはそちらじゃないですか!?」
『そんなことはどうでもいいんです!その書類、すぐ欲しいんです!すぐに!すぐにです!』
やはりすみませんのひと言もなく、今度は感嘆符ばかりが耳に付く。
だが酷く慌てていることだけは、感じられる。
そして電話の相手に対するマナーに欠ける喋りは、新入社員なのだろうとつくしは推測した。そしてそんな相手と必要以上に会話をし、今ここで何かを言ったところで仕方がないと、黙って書類を返すことにした。
「・・そうですか。お急ぎの書類なんですね?では取りに来て下さい。私は牧野ですが、フロアの入口から入って一番奥がうちの部署です。今日は社内にいますからいつ取りに来て下さっても_」
『牧野さん!お願いです!今すぐインフラ事業部まで持って来て下さい!僕、手が離せないんです!でもその書類がすぐにいるんです!すぐに!!』
つくしは、またしても最後まで言わせてもらえず、今度は捲し立てられるように命令され、呆れ返ると同時に腹が立ち、さっきまでの落ち着いた口調はガラリと変わり、詰問するような口調になった。
「あのね、どうして私があなたの所まで持って行かなきゃならないんですか?間違えたのはあなたでしょ?それなのに人に持って来いってどういうことですか?」
『牧野さん!どうもこうもないんです!朝からその書類を探してたんです。でもどこを探してもなくて本当に困ってたんです!その書類、副社長に承認を頂く書類なんです!課長や部長のサインもしてあるし、新しく作り変えることは出来ないんです。その書類じゃなきゃダメなんです。それも今日提出しろって出張する部長に言われてたんです。ここまで言えば分かりますよね?書類を紛失したからといって新しく作ったところで、部長のサインはもらえないんです!だからその書類じゃなきゃダメなんです!』
受話器の向うから唾が飛んで来そうな勢いで喋られ、新入社員と推測できる男性の慌てふためく姿が思い浮かぶ。もうこうなったら電話口で言い合ったところで仕方がない。
つくしは、ため息をつき、電話の向うの男性に告げた。
「分かったわよ。じゃあ私が持って行ってあげるから。インフラ事業部は40階よね?うちは15階だから少し待っててくれる?太田・・君だったわよね?」
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『でも牧野さん!40階じゃダメなんです。本当は55階の秘書室まで届けないと駄目なんです!もう10時半です!副社長に至急提出な書類なんです。一刻を争う書類なんです。だから55階のエレベーターを降りた所で待ってて下さい!お願いします!僕これからもうひとつの書類をプリントアウトしなくちゃいけないんです!でも終わったらすぐに行きますから!牧野さん、お願いします!お願いしますね!』
相手はそれだけ言うと、つくしに口を挟む暇を与えることなく電話を切った。
つくしは、席に座ったまま、思わず身体がのけ反っていた。
だが電話の向うで慌てる若い男性の姿が目に浮かび、仕方がないと気を取り直し、書類を手に席を立った。
彼も道明寺に憧れて入社したはずだ。そんな会社で頑張っている自分より若い男性を先輩社員として暖かく、いや厳しく育てていくことも必要だ。
だから書類を渡すとき、将来使い物にならないと言われないためにも、厳しく言ってやるつもりだ。
宛名と内容物はきちんと確認すること。
これが社内だからよかったようなものの、間違って社外に送られるようなことがあっては始末書ものだと。
「ごめん、ちょっと書類届けに行って来るから席空けるね」
つくしは、立ち上がり、向かいに座る男性に声をかけた。
彼はつくしより二つ年上の36歳だが気軽に会話が出来る同僚だ。
そして男の数も質も揃っていると言われる道明寺HDで働くだけあって、仕事が出来る男だが、結婚していて子供が二人いる。
「ああ。話は聞こえてたからな。40階のインフラ事業部だろ?またなんでそんなところからうちへ書類が来るんだ?」
「知らないわよ。でも急いでるみたいだし、相手は忙しいの一点張りだし、副社長に回す書類らしいの。だからちょっと届けてくるから」
「そうか。あいつらも大変だな。何しろうちの部署と違ってインフラ事業部は収益も莫大だし副社長相手なら一刻を争うのも当然だ。行ったついでに40階の見学でもしてこいよ」
「うん。そうね。ちょっと見学して来るわね?」
つくしは、気軽に言ったが無意識に頭に手をやり、肩口で切りそろえられた髪に乱れがないかと整えた。
本当は40階ではなく、55階、神々のフロアと呼ばれる場所に足を踏み入れるとは言わなかった。
そしてつくしは、55階に足を踏み入れるのは初めてだ。
黒を基調にしたガラス張りの超高層ビルの最上階。
そこにあるのは、秘書室と役員室に彼ら専用の会議室。
そして2年前に日本に帰国した副社長の執務室がある。
もしかすると、未だに見たことがない副社長を目にすることが出来るかもしれない。
だが、万が一そんなことになったとしても、立ち止まって深々と頭を下げるだけで、会話を交わすことはないと、それだけは絶対に言える。
つくしは、チャコールグレーのジャケットとスカートの皺を伸ばし、エレベーターに乗り最上階のボタンを押したが、それを見た先に乗っていた社員の視線が一斉に緊張したように見えたのは気のせいか。
いや。そうではない。
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当然だが最上階のフロアに着くまで乗っていたのは、つくしだけだった。
そしてエレベーターの扉が軽やかな音を立て開いた先に足を踏み出したが、そこは神々のフロアと呼ばれる55階。静まり返った中、流れる空気は気のせいか高級な匂いがした。
だがそこに、インフラ事業部の太田正樹と思われる人物はおらず、つくしは、来るのが早すぎたことだけは理解することが出来た。
そして、この場所に一人佇む人間に不信な目を向ける人物がいるとすれば、秘書室から出て来た男性だ。
このフロアの廊下には、当然のように高度な監視システムが働いているが、黒い髪を後ろに撫でつけ、銀縁眼鏡をかけた男性は、エレベーターの前に立つつくしに厳しい視線を向けて来た。そしてその男性は、年の頃からすれば、いつも副社長の傍にいると言われる有能で完璧な秘書だと思われた。
かつて副社長には、女性秘書がついていた頃があったが、すぐに配置転換をされたと聞いた。
何かミスをしたのか。それとも副社長が気に入らなかったのか。
どちらにしても、つくしには関係のない話でどうでもいいことだ。
だが今、目の前にいる相手は、つくしのことをどうでもいいとは思わない。不審人物なら即対処されるはずだが、ジャケットの左胸にある道明寺HDの社章を認めると口を開いた。
「何か御用でしょうか?」
「あの。食品事業部の牧野と申しますが、インフラ事業部の太田さんはこちらにお見えでしょうか?」
「インフラ事業部の太田さん。・・いえ。こちらにはいらっしゃいませんが」
秘書の視線はつくしの目をじっと見て離れない。
それは、社員とは言えアポイント無しで副社長をはじめとする役員に近づく人間を警戒する態度としては当たり前だ。
「そうですか。あの実はこちらで太田さんと仕事の件で待ち合わせをしておりまして・・すみません。少しこちらで待たせて頂いてもよろしいでしょうか」
「こちらでですか?」
「・・はい」
と、つくしは返事をしたものの、相手の怪訝な態度と声にしまったと思った。
考えてみれば、いくら急いでいるからといって役員室や副社長の執務室があるフロアで待ち合わせをする社員がどこにいるというのだ。
そして、それに気付いたとき、つくしはさーっと血の気が引いたと思ったら、今度は顔が火照っていた。そして急に落ち着かなくなっていた。
だがその時だった。長い廊下の向うに見える扉が開き、男性が出て来るのが見えた。
そして秘書の背中の向うからこちらへ真っ直ぐ歩いて来る男性に目が奪われていた。
その男性は、道明寺司。35歳独身。
道明寺財閥の跡取りであり道明寺HD副社長にして、日本支社の実質的なトップ。
女性社員の情報網によれば、嫌いなものは仕事の出来ない社員、意思決定の遅い人間、女性秘書、そして無意味な笑顔。好きなものは・・・知らない。
だがピンストライプのダークスーツが似合う男は、美し過ぎる存在で女性社員の憧れの的であり、彼女たちの理想が具現化されたもの。そして女性週刊誌でセクシーな男性億万長者の特集があれば、間違いなく1位を取ると言われる男。
その男が長い脚を使いつくしの方へ歩いて来る。
そんな男の形のいい眉と深い眼窩に収められた黒い瞳は、鋭い刃物のような煌めきを放つが、それはハンターと呼ばれる野生動物の瞳に見えた。
そうだ。その視線に感情の色はなく、人を射抜くことが出来るような鋭さが感じられる。
そして今、その目はつくしを捉えていたが、それはまるで広い草原の中、群れから離れた一頭の草食動物が自分の縄張りへ迷い込んだのを見つけたような目だ。
そんな瞳を持つ男との距離はどんどん縮まる。
だが、もし今、踵を返し駆け出したとすれば、野生動物の習性として逃げる動物を追いかけて掴まえるのだろうか。いや。そんなことを考えることは間違っている。道明寺司が何かを追いかけて掴まえるなんてことは考えられない。何故なら、欲しいものがあれば何でも手に入る人間だからだ。
そしてつくしは、初めて見る道明寺司が極めて有能と言われる秘書の隣に立ったとき、その圧倒的な存在感に息が止りそうになった。
それは長身だからというのではない。
たとえ180センチ以上あっても存在感がない男は大勢いる。
だが道明寺副社長にはオーラがある。それは、人を惹き付けるオーラだ。どんな人間もひれ伏すようなオーラだ。
同期の久美子に、男性に対してあっさりし過ぎだと言われたつくしでも、目の前にいる男の強烈なオーラを無視することなど無理だ。
そして険しそうに引き結ばれた薄い唇が開かれ、女心をくすぐると言われるバリトンが聞えた。
「西田。インフラ事業部の書類はどうなってる?」
「はい。申し訳ございません。まだ提出されていないようです。ですが、提出が遅れ申し訳ないと、すぐに持ってくると言ってはおりましたがまだのようです」
「西田。担当者をすぐに呼べ」
「はい。大変申し訳ございません。担当の米田は本日出張しております」
舌打ちとも取れるような音がし、つくしは自分が手にしている書類が、その舌打ちの原因だったと口を開いた。
「あの、その書類ですが・・」
男はそれまでつくしの存在など気にしていないといった様子だったが、聞こえた声に彼女を見た。
そして彼女が手にしている封筒に目をやり、腕が伸びて来たかと思えば封筒を取り上げ中の書類を出した。と、そのとき、かすかな香りがした。
「お前か。最後にミスしたのは。ゼロが多いなんぞ計算の仕方が分ってねぇんじゃねぇのか?」
何の話かさっぱり分からないが、その声のトーンは低く、ついさっきまで声高に喋っていた太田とは真逆の抑揚のない言い方。そしてその言葉に、いい印象などない。
「まあいい。すぐ説明しろ。承認はそれからだ」
司は書類を手にしたまま、執務室へと足を向けた。
だが、つくしが後ろをついて来る気配がないことに気付くと、立ち止まり振り返った。
「早くしろ!そこで突っ立てる時間があるならさっさと説明しろ!」
と、一喝されたが大きな勘違いがあるとつくしは首を振った。
「説明って・・あの私は違う_」
だが男は聞いてない。
「何が違う?書類を持って来たのはお前だろうが。ごちゃごちゃ言わずに早くしろ」
そして言葉を遮られたが、今日は太田といい、道明寺副社長といい、人に話しを聞いてもらえない日のようだ。
だがつくしは、ここで誤解を受けたままでいるのは本意ではないと口を開いた。
「でも違うんです!私はただその書類をここで渡すために待っているだけなんです。それに私はインフラ事業部の人間ではありません。食品事業部の人間です!」
そうだ。つくしは食品事業部だ。
担当はコーヒーであり、ウズベキスタンの電力事業とは全く関係がない。だから問題の書類を手にしていたとしても、黙っていればよかったのだ。それなのに思わず口を開いていた。
「食品事業部だと?それならなぜ食品事業部の人間がウズベキスタンの発電プラントの書類を持ってる?いったいどういう事だ?」
「それは・・」
それは、インフラ事業部の男性が間違ってつくしへ書類を送付して来たことが発端なのだが、その事実をここで話すことが何故か躊躇われた。そして、このことが目に余る失態という程のものなのか。と問われれば、社内だけのミスで済んだからいいようなものの、書類が入れ替った事実があるのなら、この書類が社外へ流出するといった可能性もあったのだから単純なミスとしては見なされないはずだ。
そして、ミスをしたのは太田という男性だが、彼はどう考えても新人社員だ。つくしには弟がいるが、ふとその弟のことが頭に浮かび、姉心とでも言うのか、庇うわけではないが、本当のことが言えなかった。
そこで、つくしは秘書の方を振り返った。
つくしは秘書に自分が食品事業部の人間であると、そしてインフラ事業部の太田という人間を待っていると告げた。だがそれなのに何も言わず黙っているではないか。
上司の言うことに逆らわない秘書というのがいるとは知っているが、つくしがインフラ事業部の人間ではないとひと言言ってくれてもいいと思うが、言わない。
もしかして、この秘書はイエスマンなのだろうか。
「おい。何を考えてる?お前俺のスケジュールを台無しにするつもりか?いいか?俺はお前のところの書類待つために時間を取った。その時間を無駄にするつもりか?」
つくしの背後から聞こえてくる声は怒気を含んでいる。
だが、なぜ自分が副社長からの怒りを受け止めなければならないのか。
インフラ事業部の太田正樹はいったい何をしているのか?
プリントアウトする書類があると言っていたが、プリンターが詰まったのか?それともトナー切れか?だから他の部署のプリンターに接続し直し手間がかかっているのか?
つくしは、今までの人生で自分とは関係ないことに振り回されることに慣れてない。
いや。多少は振り回されたことがあったが、仕事の面では順風満帆であり、少なくとも副社長を相手にミスをしたことなどない。
それなのに何故副社長から怒られなければならない?
「おい!早く来い!お前がこの書類を持ってたんだ。説明するのはお前だろうが。それとも何か?お前は自分の仕事に責任が持てない人間か?」
つくしは、仕事に責任が持てない人間だと思われたことにムカついていた。
だが、これは自分の仕事ではない。それでも人の話を聞こうとはしない男に腹が立った。
そしてその相手が副社長だろうが、セクシーな億万長者部門第1位だろうが関係ない。
「来るのか。来ないのか。それともここで説明するつもりか?」
その声につくしは弾かれたように振り返った。
「行かせて頂きます。どうやら何か誤解があるようですので、その説明をさせて頂きます!」
「ふうん。お前、なかなか言うな」
司は左手に書類を持ち、空いた右手で前髪を無造作にかき上げたが、その姿は男として完璧さを誇る男の何気ない仕草だとしても、やはりつくしはムカついていた。

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そしてエレベーターの扉が軽やかな音を立て開いた先に足を踏み出したが、そこは神々のフロアと呼ばれる55階。静まり返った中、流れる空気は気のせいか高級な匂いがした。
だがそこに、インフラ事業部の太田正樹と思われる人物はおらず、つくしは、来るのが早すぎたことだけは理解することが出来た。
そして、この場所に一人佇む人間に不信な目を向ける人物がいるとすれば、秘書室から出て来た男性だ。
このフロアの廊下には、当然のように高度な監視システムが働いているが、黒い髪を後ろに撫でつけ、銀縁眼鏡をかけた男性は、エレベーターの前に立つつくしに厳しい視線を向けて来た。そしてその男性は、年の頃からすれば、いつも副社長の傍にいると言われる有能で完璧な秘書だと思われた。
かつて副社長には、女性秘書がついていた頃があったが、すぐに配置転換をされたと聞いた。
何かミスをしたのか。それとも副社長が気に入らなかったのか。
どちらにしても、つくしには関係のない話でどうでもいいことだ。
だが今、目の前にいる相手は、つくしのことをどうでもいいとは思わない。不審人物なら即対処されるはずだが、ジャケットの左胸にある道明寺HDの社章を認めると口を開いた。
「何か御用でしょうか?」
「あの。食品事業部の牧野と申しますが、インフラ事業部の太田さんはこちらにお見えでしょうか?」
「インフラ事業部の太田さん。・・いえ。こちらにはいらっしゃいませんが」
秘書の視線はつくしの目をじっと見て離れない。
それは、社員とは言えアポイント無しで副社長をはじめとする役員に近づく人間を警戒する態度としては当たり前だ。
「そうですか。あの実はこちらで太田さんと仕事の件で待ち合わせをしておりまして・・すみません。少しこちらで待たせて頂いてもよろしいでしょうか」
「こちらでですか?」
「・・はい」
と、つくしは返事をしたものの、相手の怪訝な態度と声にしまったと思った。
考えてみれば、いくら急いでいるからといって役員室や副社長の執務室があるフロアで待ち合わせをする社員がどこにいるというのだ。
そして、それに気付いたとき、つくしはさーっと血の気が引いたと思ったら、今度は顔が火照っていた。そして急に落ち着かなくなっていた。
だがその時だった。長い廊下の向うに見える扉が開き、男性が出て来るのが見えた。
そして秘書の背中の向うからこちらへ真っ直ぐ歩いて来る男性に目が奪われていた。
その男性は、道明寺司。35歳独身。
道明寺財閥の跡取りであり道明寺HD副社長にして、日本支社の実質的なトップ。
女性社員の情報網によれば、嫌いなものは仕事の出来ない社員、意思決定の遅い人間、女性秘書、そして無意味な笑顔。好きなものは・・・知らない。
だがピンストライプのダークスーツが似合う男は、美し過ぎる存在で女性社員の憧れの的であり、彼女たちの理想が具現化されたもの。そして女性週刊誌でセクシーな男性億万長者の特集があれば、間違いなく1位を取ると言われる男。
その男が長い脚を使いつくしの方へ歩いて来る。
そんな男の形のいい眉と深い眼窩に収められた黒い瞳は、鋭い刃物のような煌めきを放つが、それはハンターと呼ばれる野生動物の瞳に見えた。
そうだ。その視線に感情の色はなく、人を射抜くことが出来るような鋭さが感じられる。
そして今、その目はつくしを捉えていたが、それはまるで広い草原の中、群れから離れた一頭の草食動物が自分の縄張りへ迷い込んだのを見つけたような目だ。
そんな瞳を持つ男との距離はどんどん縮まる。
だが、もし今、踵を返し駆け出したとすれば、野生動物の習性として逃げる動物を追いかけて掴まえるのだろうか。いや。そんなことを考えることは間違っている。道明寺司が何かを追いかけて掴まえるなんてことは考えられない。何故なら、欲しいものがあれば何でも手に入る人間だからだ。
そしてつくしは、初めて見る道明寺司が極めて有能と言われる秘書の隣に立ったとき、その圧倒的な存在感に息が止りそうになった。
それは長身だからというのではない。
たとえ180センチ以上あっても存在感がない男は大勢いる。
だが道明寺副社長にはオーラがある。それは、人を惹き付けるオーラだ。どんな人間もひれ伏すようなオーラだ。
同期の久美子に、男性に対してあっさりし過ぎだと言われたつくしでも、目の前にいる男の強烈なオーラを無視することなど無理だ。
そして険しそうに引き結ばれた薄い唇が開かれ、女心をくすぐると言われるバリトンが聞えた。
「西田。インフラ事業部の書類はどうなってる?」
「はい。申し訳ございません。まだ提出されていないようです。ですが、提出が遅れ申し訳ないと、すぐに持ってくると言ってはおりましたがまだのようです」
「西田。担当者をすぐに呼べ」
「はい。大変申し訳ございません。担当の米田は本日出張しております」
舌打ちとも取れるような音がし、つくしは自分が手にしている書類が、その舌打ちの原因だったと口を開いた。
「あの、その書類ですが・・」
男はそれまでつくしの存在など気にしていないといった様子だったが、聞こえた声に彼女を見た。
そして彼女が手にしている封筒に目をやり、腕が伸びて来たかと思えば封筒を取り上げ中の書類を出した。と、そのとき、かすかな香りがした。
「お前か。最後にミスしたのは。ゼロが多いなんぞ計算の仕方が分ってねぇんじゃねぇのか?」
何の話かさっぱり分からないが、その声のトーンは低く、ついさっきまで声高に喋っていた太田とは真逆の抑揚のない言い方。そしてその言葉に、いい印象などない。
「まあいい。すぐ説明しろ。承認はそれからだ」
司は書類を手にしたまま、執務室へと足を向けた。
だが、つくしが後ろをついて来る気配がないことに気付くと、立ち止まり振り返った。
「早くしろ!そこで突っ立てる時間があるならさっさと説明しろ!」
と、一喝されたが大きな勘違いがあるとつくしは首を振った。
「説明って・・あの私は違う_」
だが男は聞いてない。
「何が違う?書類を持って来たのはお前だろうが。ごちゃごちゃ言わずに早くしろ」
そして言葉を遮られたが、今日は太田といい、道明寺副社長といい、人に話しを聞いてもらえない日のようだ。
だがつくしは、ここで誤解を受けたままでいるのは本意ではないと口を開いた。
「でも違うんです!私はただその書類をここで渡すために待っているだけなんです。それに私はインフラ事業部の人間ではありません。食品事業部の人間です!」
そうだ。つくしは食品事業部だ。
担当はコーヒーであり、ウズベキスタンの電力事業とは全く関係がない。だから問題の書類を手にしていたとしても、黙っていればよかったのだ。それなのに思わず口を開いていた。
「食品事業部だと?それならなぜ食品事業部の人間がウズベキスタンの発電プラントの書類を持ってる?いったいどういう事だ?」
「それは・・」
それは、インフラ事業部の男性が間違ってつくしへ書類を送付して来たことが発端なのだが、その事実をここで話すことが何故か躊躇われた。そして、このことが目に余る失態という程のものなのか。と問われれば、社内だけのミスで済んだからいいようなものの、書類が入れ替った事実があるのなら、この書類が社外へ流出するといった可能性もあったのだから単純なミスとしては見なされないはずだ。
そして、ミスをしたのは太田という男性だが、彼はどう考えても新人社員だ。つくしには弟がいるが、ふとその弟のことが頭に浮かび、姉心とでも言うのか、庇うわけではないが、本当のことが言えなかった。
そこで、つくしは秘書の方を振り返った。
つくしは秘書に自分が食品事業部の人間であると、そしてインフラ事業部の太田という人間を待っていると告げた。だがそれなのに何も言わず黙っているではないか。
上司の言うことに逆らわない秘書というのがいるとは知っているが、つくしがインフラ事業部の人間ではないとひと言言ってくれてもいいと思うが、言わない。
もしかして、この秘書はイエスマンなのだろうか。
「おい。何を考えてる?お前俺のスケジュールを台無しにするつもりか?いいか?俺はお前のところの書類待つために時間を取った。その時間を無駄にするつもりか?」
つくしの背後から聞こえてくる声は怒気を含んでいる。
だが、なぜ自分が副社長からの怒りを受け止めなければならないのか。
インフラ事業部の太田正樹はいったい何をしているのか?
プリントアウトする書類があると言っていたが、プリンターが詰まったのか?それともトナー切れか?だから他の部署のプリンターに接続し直し手間がかかっているのか?
つくしは、今までの人生で自分とは関係ないことに振り回されることに慣れてない。
いや。多少は振り回されたことがあったが、仕事の面では順風満帆であり、少なくとも副社長を相手にミスをしたことなどない。
それなのに何故副社長から怒られなければならない?
「おい!早く来い!お前がこの書類を持ってたんだ。説明するのはお前だろうが。それとも何か?お前は自分の仕事に責任が持てない人間か?」
つくしは、仕事に責任が持てない人間だと思われたことにムカついていた。
だが、これは自分の仕事ではない。それでも人の話を聞こうとはしない男に腹が立った。
そしてその相手が副社長だろうが、セクシーな億万長者部門第1位だろうが関係ない。
「来るのか。来ないのか。それともここで説明するつもりか?」
その声につくしは弾かれたように振り返った。
「行かせて頂きます。どうやら何か誤解があるようですので、その説明をさせて頂きます!」
「ふうん。お前、なかなか言うな」
司は左手に書類を持ち、空いた右手で前髪を無造作にかき上げたが、その姿は男として完璧さを誇る男の何気ない仕草だとしても、やはりつくしはムカついていた。

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