司は執務室の扉を開けた。
室内は黒を基調に整えられ、静かで、一面ガラス張りの向うは明るい陽射しに照らされているが、彼について来た女の顔は、外の明るさとは対照的であり、気難しいとまでは言わないが、眉間に皺が寄っていた。そして足音さえしないが、ドスドスと音を立て歩いたとしても、おかしくはない雰囲気があった。
司は執務デスクの椅子に腰を下ろし、書類を目の前に置き、デスクの向うに立つ女を見た。
彼に向かって言われる言葉の中に、カリスマ性があるといった言葉があるが、それが一番感じられるのは、仕事に取り組む姿だと言われていた。
実際こうして重厚なデスクを前に相手を見つめる姿は凄みがあり、威圧感を与えると言われていた。
そして彼は、その威圧感を女に与えようとしていた。
「それで?説明とやらを聞かせてもらおうか。お前は食品事業部の人間だと言ったが、名前は?それにどうしてこの書類を持っている?」
女が手にしていた書類というのは、経費と呼ばれる項目の数字がやたらと大きかったことに疑問が生じたため、責任者である事業部長を呼び確認させたが、単なる数字の打ち間違えだということが判明した。そして訂正された書類の提出を待っていたところだ。
「私は食品事業部、飲料本部、食料第二部、コーヒー三課の牧野と申します」
廊下で息巻いた女は、息を整え長ったらしい部署名を言い、それから名前を名乗ったが、表情には先程まで感じていたとげとげしさとは別の感情が浮かんでいた。
それは、男の態度に気圧されたのか、それともこの部屋の持つ雰囲気に気後れしたのか。
そして誰にでも言えることだが、一度口から出た言葉は回収が効かないことと同じで、自分の勤める会社の経営者に対し、強気な態度をとったことへの後悔もあるはずだ。
そんな思いから、次に発せられた言葉は、どこか遠慮が感じられた。
「私がその書類を持っていたのは、実はその_」
と、言いかけたところで、ノックの音がした。
そして入れと言う低い声に、秘書が足音も立てず部屋に入ってきた。
「失礼いたします。インフラ事業部の太田と名乗る人物が副社長にお会いしたいと申しておりますがいかがいたしましょう」
「太田?誰だそいつは?」
「はい。彼は牧野さんがお持ちの書類の件について話しがしたいと申しております。それからお調べ致しましたが、本物かどうかを別にして牧野と言う女性社員は確かに食品事業部にいらっしゃいます」
その言葉に女がムッとしたような顔になったのは言うまでもないが、自分の存在が認められたことは大きいようだった。その証拠に小さく息を吐いた様子が見て取れたが、それは安堵を示していた。
「それで?その太田はこの女の書類について話しがしたいってことだが、理由は言ったか?」
「はい。先ほど秘書室を訪ねて来たところで、牧野さんの行方を聞かれました。その後わたくしが、牧野さんは持参された書類と共に副社長室へお入りになりましたとお伝えしましたところ、本来彼が持ってくるべきであった書類が牧野さんの手にあるということが分かりました。そして何故食品事業部の人間である牧野さんが、インフラ事業部の書類をお持ちだったかということを話し始めたのですが、太田が言うには誤って牧野さんに送ってしまったそうです」
「誤送付か?」
「はい。幸い社内だけのことです」
「分かった。太田を通せ」
失礼致しますと言って部屋の入口で深々と頭を下げたのは、肩書も何もない若い男だった。
そしてその男を見つめるのは、司の鋭い視線。
それに対し、司の視線を受け止める若い男は、副社長に糾弾されることを予想しているのかオドオドとしていた。
「お前が太田か?」
「・・はい。インフラ事業部海外事業本部の太田正樹と申します。あの・・秘書の方には申し上げたのですが、副社長に提出する書類を間違って食品事業部宛に送ってしまって・・」
小声の歯切れ悪さのような喋りになるのは、自分の仕事のミスを副社長の前で告白しなければならなくなった為だ。
そしてそれは、自分のせいで全く関係のないつくしを巻き込んでしまった事への申し訳ないといった思いも込められている。
「どうしてこんな事になったのか理由を聞かせてもらおうか」
厳しい目を向けられた太田はつっかえつっかえ口を開く。
そして額に浮かんでいるのは汗と緊張感だ。
「・・・はい。牧野さんに送る予定だった書類といったものはありません。でも何故牧野さんの所へ書類が送られてしまったのか。それはたまたまそこに社内便の封筒があったからです。そこにたまたま牧野さんの名前が書かれていたからに過ぎません」
「意味がわかんねぇな。そこに牧野の名前があったってどういう意味だ?」
副社長の強い出方の前に若い太田は顔が真っ青になった。
そして緊張が一気に高まったのか、直立不動で立つ身体の横に沿わせている手が震えているのが見えた。
そこでつくしは太田が口を開く前に口を開いた。
何故なら太田正樹は、もはや副社長相手にきちんと業務の説明が出来るとは思えなかったからだ。
「あの副社長、社内便の封筒は定形外封筒が使われるんです。その表に宛名表を貼って使っています。それは何行にもなっていて上の行を消して、下に書いていくシステムなんです。恐らく太田くんの言いたいことは、彼の手元に最後の宛名が私宛になった封筒があって、これは想像ですが、彼は何故か差出人だけを自分に書き直した時点で、別の事に気を取られたのでしょう。そしてその封筒に、間違って書類を入れたということではないでしょうか?忙しいと注意力が散漫になります。でもこれは言い訳にしかすぎません。それに彼がミスしたのは確認を怠ったためとしか言いようがありません。でも今後は気を付けると思います。そうでしょ?太田くん?」
何故かつくしは、初めて会った太田正樹のフォローに回っていた。
それは、副社長の前で青ざめ震えている彼が気の毒になったからだ。
そしてそれが、つくしの悪い癖と言えばそうなのだろう。
黙っていればいいものの、全く知らない相手に同情ではないが、見るに見かね口を挟んでいた。
そして、話し終えたつくしは、太田の顔に視線を移し、そして再び副社長である男の顔に視線を移した。
すると男の目はつくしの目をとらえた。
彼女は、その目に、自分の話の内容が理解されたのだと、冷静な目で司を見ていたが、司はそんな女に探るような眼差しを向け言った。
「お前たちはどういった関係だ?」
「はあ?」
思いもしなかった言葉に思わず出た突拍子もない声。
「だからどういった関係だ?」
「ど、どういった関係も何もありません。私は今、初めて彼に会いました。今の今まで顔も知らなかった相手ですよ?変なことを言わないで下さい」
いきなり訳の分からないことを言われ、それも仕事には全く関係の無いことを言われ意味が分からないが静かに反論した。
「そうか。それにしてはやけにこの男を庇うな。廊下でもそうだったが、さっさと本当のことを言えばよかったものを、何を躊躇ってた?それにもしこの男がここに現れなかったらお前は事業部が違うこの男の為に犠牲になるつもりだったのか?」
「あの、それはどういう意味ですか?何が犠牲ですか?」
静かな反論は、徐々にうねりが現れ始めた。
「お前はこの男が好きなんだろ?だからこの男を庇った。どうしようもないミスをするような男だが、女の中にはそういった男が好きな物好きもいるらしいからな。・・そうか、お前はこの男のミスを庇って俺に何か差し出すつもりでいたのか?」
男が女に向かってそういった言い方をするのは、身体を担保や口止めとして差し出すつもりかと言った意味だ。
「な、なによそれ・・冗談じゃないわよ!どうして私がこの人の為にそんなことしなきゃならないのよ!私言いましたよね?私は今の今までこの人に会ったことさえないんですよ?それにどう見たって10歳以上離れているはずです!私にそんな趣味はありません!」
「そうか?自分よりも随分と若い男が好きな女もいるがお前は違うか?」
「ええ!違います!」
つくしは、廊下では言い過ぎたと、穏やかに話をしようと思ったが、まさか自分の会社の副社長にセクハラ発言と取れる言葉を言われるとは思いもしなかった。
副社長の嫌いなものは仕事の出来ない社員、意思決定の遅い人間、女性秘書、そして無意味な笑顔と言うが、実は女性蔑視発言をするような男だったのだ。
そして、どんなにハンサムだろうと、どんなにお金持ちだろうと、女性社員の憧れの的と言われる男の本性をここに見た、といった感じだ。
もう今となっては、目の前の男に対し険悪な眼差しを向ける以外他の目を向けることなど出来なかった。
「行くわよ!太田くん!こんな・・男が副社長だなんて、道明寺なんて将来潰れちゃうわね!」
今では二人のやり取りをオロオロと見守る太田は、つくしの発言に戸惑いを隠せない状態だ。
「あの、でも僕は副社長に説明する義務が_」
「何が副社長よ!こんな人最低よ!」
そして、部屋に入る時はドスドスと音を立てなかったが、出で行く時は、大地を踏みしめるではないが、ヒールの音を響かせ出て行った。
だが行くわよ、と言われた太田は、困った犬のような顔でどうしたらいいものかと司の顔を見た。すると、司は
「太田、お前ももういい。行け」
と犬のように命令し、太田はお辞儀をすると、静に扉を閉めた。
そしてそのとき、扉の外にいたつくしには、高笑いをする男の声が聞こえ、わざと足音高く廊下を歩いた。そしてエレベーターのボタンを叩きながら、
「なによ!あの男!頭がおかしいんじゃない!」
とずばり口にした。
「いいんですか?あんなに怒らせて。かなり怒ってましたが?」
「ああ。いいんだ。俺はあれくらい威勢のいい女が見たかった。あの時、必死になってたあの女の姿が印象的だったからな。なあ西田。あの女どう思う?面白そうだろ?」
「ええ。確かに今まで司様の周りにはいなかったタイプの女性ですね?」
西田の言う通り、今まであんな女は司の周りにはいなかった。
そして面白い。と司は思った。女相手の会話が奇妙なほど可笑しく感じられた。
何故なら、初めこそ礼儀正しく接しようとする態度が見受けられたが、そのうち心の中の声ではないが、あんた何様だと思ってるのよ、といった思いが見え隠れし始めた。
そうだ。声に出されなくとも、廊下で振り返った態度にその思いを感じることが出来た。
そして交わした会話の最後にはそれに近い言葉を口にした。
今まで司にそんな態度を取る女はいなかった。
だがあの女は違う。相手が誰であっても、怯まないといった態度を取る。
それが例え自分の雇い主だとしても同じのようだ。
そして、つつけばつつくだけ、まるで針を纏った河豚のようにその感情が膨らんでいく様子が笑えた。そして司にここまで息巻く女は初めてだった。
だが実は女には見覚えがあった。
つい最近出張したベトナムの空港で、航空会社のカウンター係員に必死に何かを訴える女がいたが、それが彼女だ。
何かあったのだろうとは思ったが、今のご時世でのその行動は、好ましからぬ人物として下手をすれば連行されてもおかしくはない。
そんなある意味勇敢な行動を取る女の姿に、何故か視線が向いた。そしてその姿を横目に、ロビーを横切った。
そして、廊下に出た途端、西田の向う、エレベーターの前、廊下の端に立つその女の視線を捉えたとき、思わず笑みが零れそうになっていた。確率で言えば、再び会うことはないと思われた女性がそこにいたからだ。
あの時の服装はラフだったが、あの時の女だとすぐに気付いた。
その背の高さ。決してスタイルがいいという訳ではない身体の細さ。
そしてどこにでもある髪型。
あの時は遠目だったこともあり、年齢は分からなかったが、こうして近くで見れば20代後半、もしくは30代前半だと推測出来た。大きな黒い瞳に怒りを湛え、睨みつけ、自分が正しいと信じることは貫く姿勢がなんとも言えず小気味よい。
そしてある意味女の勇気ある行動は、退屈だった日常の生活に何らかの変化をもたらすような気がしていた。
だが手にしていた書類に対しての懸念が残ったのは確かだ。全く関係のない部署の、それも承認を要するような書類を手にした社員がいるということが、社内の業務態勢はどうなっているのかと思わずにはいられなかったからだ。
だが、その問題はもういい。
それよりも、今はもっと面白い問題を見つけたのだから。
「しかし、ああいった発言を繰り返されますと、セクハラで訴えられる恐れがありますので程々でお願い致します」
セクハラと思われて当然の発言もわざとしたが、それは彼女との会話を楽しむためだ。
「ああ。分かってる。それよりも西田。あの女の下の名前は?」
「はい。つくし様です。牧野つくし様。34歳、独身でございます」

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司は執務デスクの椅子に腰を下ろし、書類を目の前に置き、デスクの向うに立つ女を見た。
彼に向かって言われる言葉の中に、カリスマ性があるといった言葉があるが、それが一番感じられるのは、仕事に取り組む姿だと言われていた。
実際こうして重厚なデスクを前に相手を見つめる姿は凄みがあり、威圧感を与えると言われていた。
そして彼は、その威圧感を女に与えようとしていた。
「それで?説明とやらを聞かせてもらおうか。お前は食品事業部の人間だと言ったが、名前は?それにどうしてこの書類を持っている?」
女が手にしていた書類というのは、経費と呼ばれる項目の数字がやたらと大きかったことに疑問が生じたため、責任者である事業部長を呼び確認させたが、単なる数字の打ち間違えだということが判明した。そして訂正された書類の提出を待っていたところだ。
「私は食品事業部、飲料本部、食料第二部、コーヒー三課の牧野と申します」
廊下で息巻いた女は、息を整え長ったらしい部署名を言い、それから名前を名乗ったが、表情には先程まで感じていたとげとげしさとは別の感情が浮かんでいた。
それは、男の態度に気圧されたのか、それともこの部屋の持つ雰囲気に気後れしたのか。
そして誰にでも言えることだが、一度口から出た言葉は回収が効かないことと同じで、自分の勤める会社の経営者に対し、強気な態度をとったことへの後悔もあるはずだ。
そんな思いから、次に発せられた言葉は、どこか遠慮が感じられた。
「私がその書類を持っていたのは、実はその_」
と、言いかけたところで、ノックの音がした。
そして入れと言う低い声に、秘書が足音も立てず部屋に入ってきた。
「失礼いたします。インフラ事業部の太田と名乗る人物が副社長にお会いしたいと申しておりますがいかがいたしましょう」
「太田?誰だそいつは?」
「はい。彼は牧野さんがお持ちの書類の件について話しがしたいと申しております。それからお調べ致しましたが、本物かどうかを別にして牧野と言う女性社員は確かに食品事業部にいらっしゃいます」
その言葉に女がムッとしたような顔になったのは言うまでもないが、自分の存在が認められたことは大きいようだった。その証拠に小さく息を吐いた様子が見て取れたが、それは安堵を示していた。
「それで?その太田はこの女の書類について話しがしたいってことだが、理由は言ったか?」
「はい。先ほど秘書室を訪ねて来たところで、牧野さんの行方を聞かれました。その後わたくしが、牧野さんは持参された書類と共に副社長室へお入りになりましたとお伝えしましたところ、本来彼が持ってくるべきであった書類が牧野さんの手にあるということが分かりました。そして何故食品事業部の人間である牧野さんが、インフラ事業部の書類をお持ちだったかということを話し始めたのですが、太田が言うには誤って牧野さんに送ってしまったそうです」
「誤送付か?」
「はい。幸い社内だけのことです」
「分かった。太田を通せ」
失礼致しますと言って部屋の入口で深々と頭を下げたのは、肩書も何もない若い男だった。
そしてその男を見つめるのは、司の鋭い視線。
それに対し、司の視線を受け止める若い男は、副社長に糾弾されることを予想しているのかオドオドとしていた。
「お前が太田か?」
「・・はい。インフラ事業部海外事業本部の太田正樹と申します。あの・・秘書の方には申し上げたのですが、副社長に提出する書類を間違って食品事業部宛に送ってしまって・・」
小声の歯切れ悪さのような喋りになるのは、自分の仕事のミスを副社長の前で告白しなければならなくなった為だ。
そしてそれは、自分のせいで全く関係のないつくしを巻き込んでしまった事への申し訳ないといった思いも込められている。
「どうしてこんな事になったのか理由を聞かせてもらおうか」
厳しい目を向けられた太田はつっかえつっかえ口を開く。
そして額に浮かんでいるのは汗と緊張感だ。
「・・・はい。牧野さんに送る予定だった書類といったものはありません。でも何故牧野さんの所へ書類が送られてしまったのか。それはたまたまそこに社内便の封筒があったからです。そこにたまたま牧野さんの名前が書かれていたからに過ぎません」
「意味がわかんねぇな。そこに牧野の名前があったってどういう意味だ?」
副社長の強い出方の前に若い太田は顔が真っ青になった。
そして緊張が一気に高まったのか、直立不動で立つ身体の横に沿わせている手が震えているのが見えた。
そこでつくしは太田が口を開く前に口を開いた。
何故なら太田正樹は、もはや副社長相手にきちんと業務の説明が出来るとは思えなかったからだ。
「あの副社長、社内便の封筒は定形外封筒が使われるんです。その表に宛名表を貼って使っています。それは何行にもなっていて上の行を消して、下に書いていくシステムなんです。恐らく太田くんの言いたいことは、彼の手元に最後の宛名が私宛になった封筒があって、これは想像ですが、彼は何故か差出人だけを自分に書き直した時点で、別の事に気を取られたのでしょう。そしてその封筒に、間違って書類を入れたということではないでしょうか?忙しいと注意力が散漫になります。でもこれは言い訳にしかすぎません。それに彼がミスしたのは確認を怠ったためとしか言いようがありません。でも今後は気を付けると思います。そうでしょ?太田くん?」
何故かつくしは、初めて会った太田正樹のフォローに回っていた。
それは、副社長の前で青ざめ震えている彼が気の毒になったからだ。
そしてそれが、つくしの悪い癖と言えばそうなのだろう。
黙っていればいいものの、全く知らない相手に同情ではないが、見るに見かね口を挟んでいた。
そして、話し終えたつくしは、太田の顔に視線を移し、そして再び副社長である男の顔に視線を移した。
すると男の目はつくしの目をとらえた。
彼女は、その目に、自分の話の内容が理解されたのだと、冷静な目で司を見ていたが、司はそんな女に探るような眼差しを向け言った。
「お前たちはどういった関係だ?」
「はあ?」
思いもしなかった言葉に思わず出た突拍子もない声。
「だからどういった関係だ?」
「ど、どういった関係も何もありません。私は今、初めて彼に会いました。今の今まで顔も知らなかった相手ですよ?変なことを言わないで下さい」
いきなり訳の分からないことを言われ、それも仕事には全く関係の無いことを言われ意味が分からないが静かに反論した。
「そうか。それにしてはやけにこの男を庇うな。廊下でもそうだったが、さっさと本当のことを言えばよかったものを、何を躊躇ってた?それにもしこの男がここに現れなかったらお前は事業部が違うこの男の為に犠牲になるつもりだったのか?」
「あの、それはどういう意味ですか?何が犠牲ですか?」
静かな反論は、徐々にうねりが現れ始めた。
「お前はこの男が好きなんだろ?だからこの男を庇った。どうしようもないミスをするような男だが、女の中にはそういった男が好きな物好きもいるらしいからな。・・そうか、お前はこの男のミスを庇って俺に何か差し出すつもりでいたのか?」
男が女に向かってそういった言い方をするのは、身体を担保や口止めとして差し出すつもりかと言った意味だ。
「な、なによそれ・・冗談じゃないわよ!どうして私がこの人の為にそんなことしなきゃならないのよ!私言いましたよね?私は今の今までこの人に会ったことさえないんですよ?それにどう見たって10歳以上離れているはずです!私にそんな趣味はありません!」
「そうか?自分よりも随分と若い男が好きな女もいるがお前は違うか?」
「ええ!違います!」
つくしは、廊下では言い過ぎたと、穏やかに話をしようと思ったが、まさか自分の会社の副社長にセクハラ発言と取れる言葉を言われるとは思いもしなかった。
副社長の嫌いなものは仕事の出来ない社員、意思決定の遅い人間、女性秘書、そして無意味な笑顔と言うが、実は女性蔑視発言をするような男だったのだ。
そして、どんなにハンサムだろうと、どんなにお金持ちだろうと、女性社員の憧れの的と言われる男の本性をここに見た、といった感じだ。
もう今となっては、目の前の男に対し険悪な眼差しを向ける以外他の目を向けることなど出来なかった。
「行くわよ!太田くん!こんな・・男が副社長だなんて、道明寺なんて将来潰れちゃうわね!」
今では二人のやり取りをオロオロと見守る太田は、つくしの発言に戸惑いを隠せない状態だ。
「あの、でも僕は副社長に説明する義務が_」
「何が副社長よ!こんな人最低よ!」
そして、部屋に入る時はドスドスと音を立てなかったが、出で行く時は、大地を踏みしめるではないが、ヒールの音を響かせ出て行った。
だが行くわよ、と言われた太田は、困った犬のような顔でどうしたらいいものかと司の顔を見た。すると、司は
「太田、お前ももういい。行け」
と犬のように命令し、太田はお辞儀をすると、静に扉を閉めた。
そしてそのとき、扉の外にいたつくしには、高笑いをする男の声が聞こえ、わざと足音高く廊下を歩いた。そしてエレベーターのボタンを叩きながら、
「なによ!あの男!頭がおかしいんじゃない!」
とずばり口にした。
「いいんですか?あんなに怒らせて。かなり怒ってましたが?」
「ああ。いいんだ。俺はあれくらい威勢のいい女が見たかった。あの時、必死になってたあの女の姿が印象的だったからな。なあ西田。あの女どう思う?面白そうだろ?」
「ええ。確かに今まで司様の周りにはいなかったタイプの女性ですね?」
西田の言う通り、今まであんな女は司の周りにはいなかった。
そして面白い。と司は思った。女相手の会話が奇妙なほど可笑しく感じられた。
何故なら、初めこそ礼儀正しく接しようとする態度が見受けられたが、そのうち心の中の声ではないが、あんた何様だと思ってるのよ、といった思いが見え隠れし始めた。
そうだ。声に出されなくとも、廊下で振り返った態度にその思いを感じることが出来た。
そして交わした会話の最後にはそれに近い言葉を口にした。
今まで司にそんな態度を取る女はいなかった。
だがあの女は違う。相手が誰であっても、怯まないといった態度を取る。
それが例え自分の雇い主だとしても同じのようだ。
そして、つつけばつつくだけ、まるで針を纏った河豚のようにその感情が膨らんでいく様子が笑えた。そして司にここまで息巻く女は初めてだった。
だが実は女には見覚えがあった。
つい最近出張したベトナムの空港で、航空会社のカウンター係員に必死に何かを訴える女がいたが、それが彼女だ。
何かあったのだろうとは思ったが、今のご時世でのその行動は、好ましからぬ人物として下手をすれば連行されてもおかしくはない。
そんなある意味勇敢な行動を取る女の姿に、何故か視線が向いた。そしてその姿を横目に、ロビーを横切った。
そして、廊下に出た途端、西田の向う、エレベーターの前、廊下の端に立つその女の視線を捉えたとき、思わず笑みが零れそうになっていた。確率で言えば、再び会うことはないと思われた女性がそこにいたからだ。
あの時の服装はラフだったが、あの時の女だとすぐに気付いた。
その背の高さ。決してスタイルがいいという訳ではない身体の細さ。
そしてどこにでもある髪型。
あの時は遠目だったこともあり、年齢は分からなかったが、こうして近くで見れば20代後半、もしくは30代前半だと推測出来た。大きな黒い瞳に怒りを湛え、睨みつけ、自分が正しいと信じることは貫く姿勢がなんとも言えず小気味よい。
そしてある意味女の勇気ある行動は、退屈だった日常の生活に何らかの変化をもたらすような気がしていた。
だが手にしていた書類に対しての懸念が残ったのは確かだ。全く関係のない部署の、それも承認を要するような書類を手にした社員がいるということが、社内の業務態勢はどうなっているのかと思わずにはいられなかったからだ。
だが、その問題はもういい。
それよりも、今はもっと面白い問題を見つけたのだから。
「しかし、ああいった発言を繰り返されますと、セクハラで訴えられる恐れがありますので程々でお願い致します」
セクハラと思われて当然の発言もわざとしたが、それは彼女との会話を楽しむためだ。
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「はい。つくし様です。牧野つくし様。34歳、独身でございます」

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Comment:5
つくしは無表情を装おうとしたが、目には依然として怒りがちらついていると自分でも分かっていた。そして、こんなに怒ったのは初めてだ。
何故なら自分の会社の副社長にセクハラ発言をされたからだ。
チビで、デブで、ハゲで、ブ男で脳みそがカラッポで・・・と、言いたいのだがそれとは真逆な男、道明寺司にだ。
インフラ事業部の太田が、仕事のミスを長々と説教されるとか、大きな声で叱られるならまだ分る。それが何故かその矛先がつくしに向かい、好きな男のミスを庇う為なら自分の身体を差し出すのかと言われ耳を疑った。
だが数秒後には、その言葉が紛れもない女性蔑視発言だと脳が認識した途端、猛然と腹が立った。そして次の瞬間にはムカついた。
それにしても、あの男は副社長という自分の立場を理解していないのではと思わざるを得なかった。だが誰もがうっとりと見つめる男で、つくしも一瞬男のオーラに圧倒された。
そしてあくまでも仮の話だが、もし女性社員の誰かがあんなことを言われれば、喜んではい、と答えるはずだ。
しかし、もし何かが起き、女としてどうしてもといった究極の選択を強いられたとき、間違ってもあんたみたいな男に抱かれるものですか、と言ってやればよかった。
そうすれば、あの男の傲慢さに一矢報いることが出来るはずだ。
だが、それは世の中の殆どの女性に意思に反する行いだ。
そうだ。女性なら誰も夢見る男である副社長に抱かれたくないなどと言う女はいないはずだ。
そして会社で社長に次ぎ偉い立場にいることで、傲慢になっているとしても、あの発言は間違いなくセクハラだ。それに証人ならあの若い社員がいる。
まさか副社長であるあの男の言葉通り、自分の為に身体を張ってもらえるとは思ってもいないだろうが、あの男の言葉の意味は理解したはずだ。けれど、あの若い社員が副社長の発言を証言してくれるとは思えない。副社長に逆らえば、次の日に自分の席がなくなっていたとしても、おかしくはないからだ。
とりあえず、つくしは一刻も早く55階から離れたかった。
だからエレベーターのボタンを叩きながら、暴言を吐いていた。
「・・あの牧野さん、本当にご迷惑をお掛けしました」
まだ頭から湯気が出ているつくしは、エレベーターを降りると、自分の部署に向かってずんずんと歩いていたが、その声に足を止め、くるりと振り返った。
そして、副社長室では半べそ状態だったインフラ事業部太田の申し訳なさそうな顔に向かい合った。
太田は最上階でエレベーターに乗り込むと、自分のフロアのボタンを押す事はなく、少し離れてつくしの後ろに立ち、食品事業部のある15階でエレベーターを降り、つくしを追いかけて来た。
「あの・・・牧野さん、本当にすみませんでした」
深々と頭を下げる太田は、申し訳なさで一杯といった顔で再び謝った。
そうやって謝っている太田につくしは、もういいからと言った。
「太田くん。もう済んだことだからいいわよ。あなただってわざと間違えた訳じゃないでしょ?」
「勿論です。そんな・・・僕は・・」
書類を誤送付というケアレスミスをした自分が許せないこともあるだろうが、まだシュンとした姿勢でつくしの前に立ち尽くす太田は反省しきりだ。
だがそれは当然だと言えば当然だ。本来なら秘書室経由で副社長まで回るはずだった書類が、自分のミスでつくしの手元に届き、そこから彼女を巻き込む形となり、そしてつい先ほどの出来事だ。
そんな執務室での状況をどう捉えたのか分からないが、つくしがエレベーターに辿り着くまでに彼女に追いついたのだから、あの男は若い男のミスを許したということだろう。
そしてよく見れば、太田は美形と呼ばれる部類に入る男性だと気付いた。
薄茶色の目に、少しウェーブのかかった髪に色白で、一見するとハーフかと思える顔立ちをしていた。けれど、どことなく線が弱い。貧弱とまでは言わないが、どこか頼りなさが感じられる。
だがそれは、さっき見たあの男の印象が強すぎたせいなのかもしれない。
そして時間が経てば、副社長に投げつけた『こんな人最低よ』の言葉は、言い過ぎたかもしれないと思い始めていた。いやだがあの男の言葉は、つくしの気持ちを逆撫でしたとしか言いようがなかった。
だが今後、給料が減額されたり、昇進が拒まれたりすることがあるかもしれない。
もしかすると、明日から別の部署に異動になってしまう可能性もある。
そうだ。愚かにも副社長にあんな口の利き方をした人間は、恐らくこの会社に、いや、会社以外の世界でもいないはずだ。何しろ世界でも有数の大企業と呼ばれる道明寺HDの次期社長であり財閥の後継者。だがあの男の尊大な表情は、つくしの神経を尖らせたとしか言いようがない。
だが考えた。もしかすると、あんな言い方ではなく、大人の女性として、もっと上手い言い方があったはずだ。あんなに激しく言葉を交すのではなく、軽く受け流すことも出来たはずだ。そう考え始めると、頭の中はパニックに陥りそうだった。
「・・牧野さん?あの・・牧野さん?」
「え?」
太田は何か語りかけていたようだが、つくしはあの男のことを考え中で聞いていなかった。
「あの、今回の事で何かあれば、僕のせいです。本当なら僕が副社長に怒られるはずだったのに、牧野さんまで巻き込んでしまって・・」
「太田くん。もういいから。もう済んだことだから」
つくしは、そう言うしか言葉が見つからなかった。
それに、もうそれ以上の言葉を彼に言ったところで、本当にもう済んだことなのだからとしか言いようがない。仕事は仕事。ビジネスはビジネスだ。ミスをして怒られることがあるのが当然の世界。そして、失敗は無きに越したことはないが、完璧な人間などいない。
現に副社長である道明寺司だって、見た目完璧、頭脳明晰。だが、あの女性蔑視発言は頂けない。そうだ、まったく頂けない。あれではどこかのイヤラシイ中年セクハラ親父と同じだ。
しかし、それと同時に思うのは、自分の口から出た言葉を、取り消す事が出来ないということだ。『こんな人最低よ』と口走った言葉は今も副社長室の中に置かれているはずだ。
「でも、僕どうしたらいいんですか?・・もうなんだか責任感じちゃって胃が痛いです」
「あのね、太田くん。あなた入社したばかりなんでしょ?こんなことで胃が痛いだなんて言ってたら、仕事なんて出来ないわよ?あなたはこれから先の人生をこの会社で過ごそうと思ってるんでしょ?それならもっとタフでなきゃ。特にプラント事業部の中でも海外事業本部なんでしょ?それにこれから海外での仕事も増えるはずよ?現地にだって行く事も多くなるはず。だから神経は図太く、胃は丈夫でいなきゃ海外での仕事なんて出来ないんだからね?」
「・・はい」
と、太田は言い、つくしの言葉に頷くだけだが、副社長室では額に汗を浮かべ真っ青だった顔も、今では色を取り戻していた。
「だからね?私のことは気にしなくていいから。自分の部署に戻って仕事しなさい。私も自分の仕事に戻るから。ね?」
そう言って太田を励ましてみたが、つくし自身は、自分の気持ちに余裕が持てずにいた。
だが仕事をするには、気持ちの切り替えが肝心だ。
いつまでも失敗を心の中で悔やんでも、いいことにはならないからだ。
現に太田が書類を誤送付するといったことは、新人ならではといったミスではなく、何年仕事をしたとしてもあり得るミスだ。だが、55階での出来事はあり得ない話だ。
つくしに促された太田は、自分の部署に戻ることを決めたようで、彼女に向かって再び頭を下げ、踵を返した。
「はぁ~。なんかもう嫌!」
「何が嫌なんだ?40階の仕事見学で何かあったのか?」
ドスンと椅子に腰かけ、呟いたつくしに、向かいの席でパソコンに向かっている同僚が声をかけた。
「40階?」
「お前インフラ事業部まで行って来たんだろ?」
きょとんとした声で答え、あ、そうだった。40階まで書類を届け、見学をしてくると言い席を離れたことを思い出した。
「で、どうだった?あいつらの仕事ぶりは?あそこは男臭い部署だからな。いい男でもいたか?しかしその顔じゃいなかったって顔だな。それになんかお前悲壮な顔をしてるが、何かあったのか?」
悲壮な顔と言われ、やはり先ほどの事が顔に現れているかとつくしは落ち込んだ。
「うんうん。何もないわ。多分今頃ベトナムの出張の疲れが出て来たんだと思う。・・・ちょっとコーヒーでも飲んで来る」
席を立ち、フロアにある休憩室へと足を向け、自販機の前に立ちお金を入れ、ボタンを押す。そして、出て来たミルク入りのコーヒーを飲みながら考えた。
今は太田のことより、副社長である道明寺司のことが頭の中にある。
いくらお金がっても、能力は買えないのだから、この会社を経営している男は頭がいいはずだ。それなのに何故、あんな女性を侮辱するような発言をしたのか?今はそればかりが頭の中を巡っていた。
まさかとは思うが、わざと言った?
もしかしてからかわれた?
だが、もしそうだとすれば、いったい何故?
だが分るはずもない。
今日の今日まで副社長とは全く接点などなかったのだから。
「おい牧野。しかし急な事で驚いたけど凄いな」
つくしは、コーヒーを飲む手を止め、声をかけて来た同僚男性の声に振り返ったが、何の話だかさっぱり分からなかった。
だから「なんですか?」と聞いたが、ひと呼吸置いた同僚の声は、信じられない言葉を告げた。
「牧野。お前、来月から秘書課に異動だとよ」

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何故なら自分の会社の副社長にセクハラ発言をされたからだ。
チビで、デブで、ハゲで、ブ男で脳みそがカラッポで・・・と、言いたいのだがそれとは真逆な男、道明寺司にだ。
インフラ事業部の太田が、仕事のミスを長々と説教されるとか、大きな声で叱られるならまだ分る。それが何故かその矛先がつくしに向かい、好きな男のミスを庇う為なら自分の身体を差し出すのかと言われ耳を疑った。
だが数秒後には、その言葉が紛れもない女性蔑視発言だと脳が認識した途端、猛然と腹が立った。そして次の瞬間にはムカついた。
それにしても、あの男は副社長という自分の立場を理解していないのではと思わざるを得なかった。だが誰もがうっとりと見つめる男で、つくしも一瞬男のオーラに圧倒された。
そしてあくまでも仮の話だが、もし女性社員の誰かがあんなことを言われれば、喜んではい、と答えるはずだ。
しかし、もし何かが起き、女としてどうしてもといった究極の選択を強いられたとき、間違ってもあんたみたいな男に抱かれるものですか、と言ってやればよかった。
そうすれば、あの男の傲慢さに一矢報いることが出来るはずだ。
だが、それは世の中の殆どの女性に意思に反する行いだ。
そうだ。女性なら誰も夢見る男である副社長に抱かれたくないなどと言う女はいないはずだ。
そして会社で社長に次ぎ偉い立場にいることで、傲慢になっているとしても、あの発言は間違いなくセクハラだ。それに証人ならあの若い社員がいる。
まさか副社長であるあの男の言葉通り、自分の為に身体を張ってもらえるとは思ってもいないだろうが、あの男の言葉の意味は理解したはずだ。けれど、あの若い社員が副社長の発言を証言してくれるとは思えない。副社長に逆らえば、次の日に自分の席がなくなっていたとしても、おかしくはないからだ。
とりあえず、つくしは一刻も早く55階から離れたかった。
だからエレベーターのボタンを叩きながら、暴言を吐いていた。
「・・あの牧野さん、本当にご迷惑をお掛けしました」
まだ頭から湯気が出ているつくしは、エレベーターを降りると、自分の部署に向かってずんずんと歩いていたが、その声に足を止め、くるりと振り返った。
そして、副社長室では半べそ状態だったインフラ事業部太田の申し訳なさそうな顔に向かい合った。
太田は最上階でエレベーターに乗り込むと、自分のフロアのボタンを押す事はなく、少し離れてつくしの後ろに立ち、食品事業部のある15階でエレベーターを降り、つくしを追いかけて来た。
「あの・・・牧野さん、本当にすみませんでした」
深々と頭を下げる太田は、申し訳なさで一杯といった顔で再び謝った。
そうやって謝っている太田につくしは、もういいからと言った。
「太田くん。もう済んだことだからいいわよ。あなただってわざと間違えた訳じゃないでしょ?」
「勿論です。そんな・・・僕は・・」
書類を誤送付というケアレスミスをした自分が許せないこともあるだろうが、まだシュンとした姿勢でつくしの前に立ち尽くす太田は反省しきりだ。
だがそれは当然だと言えば当然だ。本来なら秘書室経由で副社長まで回るはずだった書類が、自分のミスでつくしの手元に届き、そこから彼女を巻き込む形となり、そしてつい先ほどの出来事だ。
そんな執務室での状況をどう捉えたのか分からないが、つくしがエレベーターに辿り着くまでに彼女に追いついたのだから、あの男は若い男のミスを許したということだろう。
そしてよく見れば、太田は美形と呼ばれる部類に入る男性だと気付いた。
薄茶色の目に、少しウェーブのかかった髪に色白で、一見するとハーフかと思える顔立ちをしていた。けれど、どことなく線が弱い。貧弱とまでは言わないが、どこか頼りなさが感じられる。
だがそれは、さっき見たあの男の印象が強すぎたせいなのかもしれない。
そして時間が経てば、副社長に投げつけた『こんな人最低よ』の言葉は、言い過ぎたかもしれないと思い始めていた。いやだがあの男の言葉は、つくしの気持ちを逆撫でしたとしか言いようがなかった。
だが今後、給料が減額されたり、昇進が拒まれたりすることがあるかもしれない。
もしかすると、明日から別の部署に異動になってしまう可能性もある。
そうだ。愚かにも副社長にあんな口の利き方をした人間は、恐らくこの会社に、いや、会社以外の世界でもいないはずだ。何しろ世界でも有数の大企業と呼ばれる道明寺HDの次期社長であり財閥の後継者。だがあの男の尊大な表情は、つくしの神経を尖らせたとしか言いようがない。
だが考えた。もしかすると、あんな言い方ではなく、大人の女性として、もっと上手い言い方があったはずだ。あんなに激しく言葉を交すのではなく、軽く受け流すことも出来たはずだ。そう考え始めると、頭の中はパニックに陥りそうだった。
「・・牧野さん?あの・・牧野さん?」
「え?」
太田は何か語りかけていたようだが、つくしはあの男のことを考え中で聞いていなかった。
「あの、今回の事で何かあれば、僕のせいです。本当なら僕が副社長に怒られるはずだったのに、牧野さんまで巻き込んでしまって・・」
「太田くん。もういいから。もう済んだことだから」
つくしは、そう言うしか言葉が見つからなかった。
それに、もうそれ以上の言葉を彼に言ったところで、本当にもう済んだことなのだからとしか言いようがない。仕事は仕事。ビジネスはビジネスだ。ミスをして怒られることがあるのが当然の世界。そして、失敗は無きに越したことはないが、完璧な人間などいない。
現に副社長である道明寺司だって、見た目完璧、頭脳明晰。だが、あの女性蔑視発言は頂けない。そうだ、まったく頂けない。あれではどこかのイヤラシイ中年セクハラ親父と同じだ。
しかし、それと同時に思うのは、自分の口から出た言葉を、取り消す事が出来ないということだ。『こんな人最低よ』と口走った言葉は今も副社長室の中に置かれているはずだ。
「でも、僕どうしたらいいんですか?・・もうなんだか責任感じちゃって胃が痛いです」
「あのね、太田くん。あなた入社したばかりなんでしょ?こんなことで胃が痛いだなんて言ってたら、仕事なんて出来ないわよ?あなたはこれから先の人生をこの会社で過ごそうと思ってるんでしょ?それならもっとタフでなきゃ。特にプラント事業部の中でも海外事業本部なんでしょ?それにこれから海外での仕事も増えるはずよ?現地にだって行く事も多くなるはず。だから神経は図太く、胃は丈夫でいなきゃ海外での仕事なんて出来ないんだからね?」
「・・はい」
と、太田は言い、つくしの言葉に頷くだけだが、副社長室では額に汗を浮かべ真っ青だった顔も、今では色を取り戻していた。
「だからね?私のことは気にしなくていいから。自分の部署に戻って仕事しなさい。私も自分の仕事に戻るから。ね?」
そう言って太田を励ましてみたが、つくし自身は、自分の気持ちに余裕が持てずにいた。
だが仕事をするには、気持ちの切り替えが肝心だ。
いつまでも失敗を心の中で悔やんでも、いいことにはならないからだ。
現に太田が書類を誤送付するといったことは、新人ならではといったミスではなく、何年仕事をしたとしてもあり得るミスだ。だが、55階での出来事はあり得ない話だ。
つくしに促された太田は、自分の部署に戻ることを決めたようで、彼女に向かって再び頭を下げ、踵を返した。
「はぁ~。なんかもう嫌!」
「何が嫌なんだ?40階の仕事見学で何かあったのか?」
ドスンと椅子に腰かけ、呟いたつくしに、向かいの席でパソコンに向かっている同僚が声をかけた。
「40階?」
「お前インフラ事業部まで行って来たんだろ?」
きょとんとした声で答え、あ、そうだった。40階まで書類を届け、見学をしてくると言い席を離れたことを思い出した。
「で、どうだった?あいつらの仕事ぶりは?あそこは男臭い部署だからな。いい男でもいたか?しかしその顔じゃいなかったって顔だな。それになんかお前悲壮な顔をしてるが、何かあったのか?」
悲壮な顔と言われ、やはり先ほどの事が顔に現れているかとつくしは落ち込んだ。
「うんうん。何もないわ。多分今頃ベトナムの出張の疲れが出て来たんだと思う。・・・ちょっとコーヒーでも飲んで来る」
席を立ち、フロアにある休憩室へと足を向け、自販機の前に立ちお金を入れ、ボタンを押す。そして、出て来たミルク入りのコーヒーを飲みながら考えた。
今は太田のことより、副社長である道明寺司のことが頭の中にある。
いくらお金がっても、能力は買えないのだから、この会社を経営している男は頭がいいはずだ。それなのに何故、あんな女性を侮辱するような発言をしたのか?今はそればかりが頭の中を巡っていた。
まさかとは思うが、わざと言った?
もしかしてからかわれた?
だが、もしそうだとすれば、いったい何故?
だが分るはずもない。
今日の今日まで副社長とは全く接点などなかったのだから。
「おい牧野。しかし急な事で驚いたけど凄いな」
つくしは、コーヒーを飲む手を止め、声をかけて来た同僚男性の声に振り返ったが、何の話だかさっぱり分からなかった。
だから「なんですか?」と聞いたが、ひと呼吸置いた同僚の声は、信じられない言葉を告げた。
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Comment:9
来月から秘書課に異動。
その来月という言い方は、ある意味誤解を与えることがある。
なぜなら月初めに言われるのと、月末に言われるとでは大きな差があるからだ。
事実、つくしが来月からと告げられた時点で今月の営業日はあと四日しかなく、業務の引継ぎであっという間に時は過ぎ、気付けば明日から最上階、神々のフロアと呼ばれる55階での勤務を控えていた。
それにしても、こんな短期間でこの時期に異動があること自体が前代未聞のはずだ。
しかし、どんなことにでも異例や特例といったことがあるのが当然であり、つくしの異動も異例の中のひとつだと思えば、よくある話しといった言葉で片づけられても不思議ではない。
それでも何故、食品事業部の人間が秘書課に異動になるのか?
異動の希望など過去にも出した覚えはないし、望んでもない。だから何故?どうして?
の言葉が大きな疑問符付きで頭の中に渦巻くのは当然だ。
休憩室でコーヒーを飲んでいたところ、同僚から思わぬ知らせを聞き、慌てて席に戻り、メールを開き、送られてきた人事通達の内容に我が目を疑った。
大きな目をさらに見開き、画面を凝視し、その文字を追ったが、
『食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課
主任、牧野つくし
11月1日付けで秘書課異動を命ずる。』
と、確かに書かれていた。
「あの、部長。でもどうして私が秘書課に異動なんですか?」
つくしは部長席まで駆け寄った。
だが何度聞いたところで、その真相が明らかになる訳もなく、食品事業部部長もコーヒー三課の課長も、上からの指示があればその指示に従うしかないのだから、答えは「指示があったから」としか答えようがない。そして明確な理由が明らかに出来ない彼らは、咳払いや口ごもるしか出来なかった。
だが、同期の原田久美子は違った。
「ちょっとつくし。もしかしてあんた道明寺副社長に見初められたとかじゃないの?だって社内の噂によると嫌いなもののひとつが女性秘書だっていう副社長の傍に行くことが出来るなんて尋常じゃないわよ?」
尋常じゃない。
言葉を変えれば異常ということだ。確かに異常だとつくしも思った。
そして絶対に言えるのは、見初められてのではない。これだけは確かだ。
「ねえ、つくしは今まで道明寺副社長と会ったことがあるの?もしかして何か接点があってつくしの人間性が認められた結果だとか?」
「まさか!接点なんてないわよ!・・どうしてあたしがあの男と・・・じゃない副社長と接点があるのよ?」
久美子にはあの日起きた事を話してないが、接点は数日前の副社長室での出来事だ。
だから突然の人事異動に思い当たるとすれば、つくしが最低呼ばわりしたことを根に持ち、何かしようと企んでいるのではないかということだ。
これはもしかすると、秘書室という名の窓際に追いやられ、仕事もさせてもらえず、身の置き所がない状態へ追い込み、自ら退職を申し出るように仕向けようとしているのではないか。そんな思いが過る。
「そうよね・・社員食堂にさえ来たことがない副社長がつくしの行きつけのラーメン屋に来ることもないだろうし、逆につくしが高級レストランで食事をするなんてこともないから接点なんて探しようがないし本当に不思議よね?でもね、今社内の女性社員の話題はどうしてつくしが秘書課に異動になったかって話で持ち切りよ?だって感じるでしょ?この空気。あたし達の周りだけ違うでしょ?」
確かにそうだ。
社員食堂の中、つくし達の周りだけ何故か人がいない。
そして遠目に二人を見る女性たちの姿があるが、その視線は絶対何かあったのだという懐疑的な視線。
そんな視線にさらされ、背中や首の後ろがむずむずとし、豚肉の生姜焼きを口に運ぶ箸が重く感じられた。
だがそのとき、向かいに座る久美子は、手にしていた箸を置き、身の乗り出すようにして箸を持つつくしの手を両手でガシッと掴み、真剣な眼差しで言った。
「ねえ、つくし。よく聞いて。これをきっかけにいっそのこと副社長と恋におちてみるってのはどう?つくしは彼氏がいないひとり者。副社長も噂によれば今は多分ひとり。妙齢な年ごろの男と女が傍にいて互いが惹かれ合うってことがあるじゃない?ほら、ロマンス小説とかでよくあるじゃない?アレよ、アレ。深夜遅くまで二人だけで仕事をしていい雰囲気になる副社長と秘書のロマンス!・・・牧野くん、随分と遅くなってしまって申し訳ない。だが、ちょうどいい機会だし話しておきたいことがある。私は君のことが前から気になっていた。だから秘書に抜擢したんだ。牧野くん、君は私のことをどう考えている?私は真剣だ。だから君も・・・キャーあたし、イケないこと想像しちゃうわ!」
久美子の思い描いているロマンスは、大富豪の社長に見初められた平凡な女性秘書が、華やかな世界へ足を踏み出す。恐らくそんな物語なのだろう。
そんな久美子の手は、興奮のあまりつくしの手を上下に揺らすのだから、箸先の生姜焼きのタレが飛び散りそうになることを懸念し、つくしは自分の手を引き抜こうするが、久美子はしっかりとつくしの手を握り離そうとはしない。だがつくしはなんとか手を解こうとする。
「・・ねえ、久美子。・・あの男・・じゃない道明寺副社長は女の秘書が嫌いって話しでしょ?それなのにどうしてあたしが秘書課にって思うけど、秘書室勤務になったからって副社長付になる訳じゃないでしょ?」
そうだ。秘書課に異動になったからといって副社長付になるとは限らない。
だから、久美子の話しが明後日の方向へと向かう前につくしは否定した。
だが相変わらず手は離してもらえない。
「何言ってるのよ!専務や常務にはお局クラスの秘書がいるんだし、副社長付になるに決まってるじゃない。いい?副社長には秘書の鏡、懐刀って呼ばれる秘書がいるけど、その人はNY時代から仕えている人で副社長の子供の頃を知る西田秘書。でもやっぱりひとりじゃ忙しいんじゃない?副社長のスケジュールの管理は西田秘書だろうけど、ほら、年齢の事もあるじゃない?西田秘書もそれなりの年だしさ、病気で休んだりとかもするだろうし・・・とにかく秘書室の事情で誰か有能な人材をってことになったんじゃない?もうこれはなんだかロマンスの香りがプンプンするわ!大人の愛が燃えるのよ!」
だがつくしには、とても秘書室の事情とは思えなかった。
そして久美子がロマンスの香りがするなら、つくしには陰謀の匂いではないが、きな臭ささが感じられた。
「ねえ、つくし!副社長のあの引き締まったしなやかな身体に抱きしめられたいと思うでしょ?動きのひとつひとつがセクシーなんだもの!もうつくしの事が羨ましくて仕方がないわ!」
じゃああたしと代わって!
と、口に出してみたい気がしたが、そんな言葉を呟けば、手を挙げる女性が大勢いるはずだ。
そして、つくしのその言葉は風に乗って社内中を駆け巡り、副社長の傍にいたくないと思う牧野つくしはおかしな女だといった噂が広まることだろう。そして今は、どうしてつくしが秘書課に異動になるのかが多くの臆測を呼んでいるというのに、それ以上に臆測を与える原因となる言動は控えなければといった思いがある。だから口に出すことはしなかった。
そして、今はあの男のことより、目の前にある豚肉の生姜焼き定食の続きを食べたい思いがあり、なんとか手を離してもらおうとしたが、やっと久美子の手が離れた。
そして話題が変わったことにホッと胸を撫で下ろす。
「ねえ、つくし。ところであんた昨日若い男の子と食事に行ったって言うけど、誰よそれ?まさか恋人が出来たなんてことないわよね?」
「違うわよ。ちょっと仕事で色々とあってその関係よ。だいたいあたしよりも一回りも若い男の子に興味なんてないわよ。ランチミーティングっていったら変だけど、その延長みたいなものだから」
「その人お客さんなの?」
「・・うん。突然異動することになったからって連絡したら、じゃあお昼でもって言われてね・・」
得意先の人間とのランチミーティングといったものは、よくある話しであり、久美子の手前、そういうことにした。
だが相手はあの若い社員だ。
インフラ事業部の太田から電話がかかって来たのは、人事通達が届いた日の夕方だった。
そしてその通達を見た太田は、突然つくしが秘書課に異動になることを、ただ事ではないと感じたのだろう。それは、自分のせいで副社長に反論したため、この人事異動が行われたのではないか、そう思ったことは間違いない。
だからやはり自分が悪かったのだと。
迷惑をかけたのだといった思いが募り、太田はお詫びの印といっては何ですが、と食事に誘ったということだ。だがつくしは断った。もう済んだことだから気にしなくていいからと。
しかし太田はどうしてもお願いします。と言い引き下がらず執拗だった。
この点は、ある意味線が細いと感じられていた太田正樹も、営業としての資質はあると言えるのかもしれない。それなら、とつくしの提案で行きつけの中華料理店でランチをご馳走してもらった。
注文したのは、酢豚定食。杏仁豆腐のデザートを付けてもらい1200円といつものランチより豪華だった。
「へえ~。あんた昔から若い男の子には人気があったもんね?でもさ、一回り年下でもつくしは若く見えるから、傍から見たら年齢差があるようには見えないかもね?で、どこに行ったの?」
「どこって、中華料理よ?」
「まさか!あんたの行きつけのラーメン屋?」
「あのね、あそこはラーメン屋じゃなくてちゃんとした中華料理店なのよ?あの店の酢豚とチャーハンは絶品なんだから!」
つくしは、入社以来その中華料理店の大ファンだ。
そこは、道明寺ビルから少し離れた場所にある昔ながらの庶民的な中華料理店。
昼間は近くの会社のサラリーマンで賑わいを見せる店であり、つくしは酢豚定食もチャーハンもラーメンも、とにかくどのメニューも大好きだ。
「はいはい。つくしは男よりも食い気の方が優先なのよね?まあいいわ。でもこれからは秘書室勤務になるんだから、そんなラーメン屋・・じゃなくて中華料理店に気軽に足を運ぶなんて時間もなくなるだろうし、その店でご馳走してもらえて良かったわね?」
つくしは、久美子の話を聞きながら途中になっていた豚肉の生姜焼きを口に運び大きく頷く。
「とにかく、つくしは明日から55階の秘書室勤務になるんだから、頑張ってね。何しろあのフロアには神様がいるんだからね?」
そうだ。
会社員にとって副社長をはじめとする役員は偉い。
だから55階は神々のフロアと呼ばれる。
そしてつくしは、あの日のあの男の発言は冗談だったのか、本気で言ったのか分からないが、どちらにしても彼女にとって嫌な男となった道明寺司のいるフロアで明日から働く。
だからもうこうなったら腹を括り、覚悟を決めるしかない。
だがいったい何の覚悟を決めるというのか?
「・・それと・・・もしかするとロマンスの神様もいるかもね?」
と、久美子は言ったがロマンスの神様は・・・いないと思う。
ロマンスの神様・・・
そう言えば確かそんな歌があった。
だがその歌によれば、土曜日に遊園地に行って1年たったらハネムーンだなんて言うのだから、もし55階にロマンスの神様がいるとすれば、道明寺司と遊園地に行けば1年後には結婚していることになる。
だがそれはない。絶対にない。
あの男と遊園地に行くことなんて絶対にないと断言出来る。
だから雑草を自負する女は、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟を持ち、明日からの業務に備え気合いを入れた。

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なぜなら月初めに言われるのと、月末に言われるとでは大きな差があるからだ。
事実、つくしが来月からと告げられた時点で今月の営業日はあと四日しかなく、業務の引継ぎであっという間に時は過ぎ、気付けば明日から最上階、神々のフロアと呼ばれる55階での勤務を控えていた。
それにしても、こんな短期間でこの時期に異動があること自体が前代未聞のはずだ。
しかし、どんなことにでも異例や特例といったことがあるのが当然であり、つくしの異動も異例の中のひとつだと思えば、よくある話しといった言葉で片づけられても不思議ではない。
それでも何故、食品事業部の人間が秘書課に異動になるのか?
異動の希望など過去にも出した覚えはないし、望んでもない。だから何故?どうして?
の言葉が大きな疑問符付きで頭の中に渦巻くのは当然だ。
休憩室でコーヒーを飲んでいたところ、同僚から思わぬ知らせを聞き、慌てて席に戻り、メールを開き、送られてきた人事通達の内容に我が目を疑った。
大きな目をさらに見開き、画面を凝視し、その文字を追ったが、
『食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課
主任、牧野つくし
11月1日付けで秘書課異動を命ずる。』
と、確かに書かれていた。
「あの、部長。でもどうして私が秘書課に異動なんですか?」
つくしは部長席まで駆け寄った。
だが何度聞いたところで、その真相が明らかになる訳もなく、食品事業部部長もコーヒー三課の課長も、上からの指示があればその指示に従うしかないのだから、答えは「指示があったから」としか答えようがない。そして明確な理由が明らかに出来ない彼らは、咳払いや口ごもるしか出来なかった。
だが、同期の原田久美子は違った。
「ちょっとつくし。もしかしてあんた道明寺副社長に見初められたとかじゃないの?だって社内の噂によると嫌いなもののひとつが女性秘書だっていう副社長の傍に行くことが出来るなんて尋常じゃないわよ?」
尋常じゃない。
言葉を変えれば異常ということだ。確かに異常だとつくしも思った。
そして絶対に言えるのは、見初められてのではない。これだけは確かだ。
「ねえ、つくしは今まで道明寺副社長と会ったことがあるの?もしかして何か接点があってつくしの人間性が認められた結果だとか?」
「まさか!接点なんてないわよ!・・どうしてあたしがあの男と・・・じゃない副社長と接点があるのよ?」
久美子にはあの日起きた事を話してないが、接点は数日前の副社長室での出来事だ。
だから突然の人事異動に思い当たるとすれば、つくしが最低呼ばわりしたことを根に持ち、何かしようと企んでいるのではないかということだ。
これはもしかすると、秘書室という名の窓際に追いやられ、仕事もさせてもらえず、身の置き所がない状態へ追い込み、自ら退職を申し出るように仕向けようとしているのではないか。そんな思いが過る。
「そうよね・・社員食堂にさえ来たことがない副社長がつくしの行きつけのラーメン屋に来ることもないだろうし、逆につくしが高級レストランで食事をするなんてこともないから接点なんて探しようがないし本当に不思議よね?でもね、今社内の女性社員の話題はどうしてつくしが秘書課に異動になったかって話で持ち切りよ?だって感じるでしょ?この空気。あたし達の周りだけ違うでしょ?」
確かにそうだ。
社員食堂の中、つくし達の周りだけ何故か人がいない。
そして遠目に二人を見る女性たちの姿があるが、その視線は絶対何かあったのだという懐疑的な視線。
そんな視線にさらされ、背中や首の後ろがむずむずとし、豚肉の生姜焼きを口に運ぶ箸が重く感じられた。
だがそのとき、向かいに座る久美子は、手にしていた箸を置き、身の乗り出すようにして箸を持つつくしの手を両手でガシッと掴み、真剣な眼差しで言った。
「ねえ、つくし。よく聞いて。これをきっかけにいっそのこと副社長と恋におちてみるってのはどう?つくしは彼氏がいないひとり者。副社長も噂によれば今は多分ひとり。妙齢な年ごろの男と女が傍にいて互いが惹かれ合うってことがあるじゃない?ほら、ロマンス小説とかでよくあるじゃない?アレよ、アレ。深夜遅くまで二人だけで仕事をしていい雰囲気になる副社長と秘書のロマンス!・・・牧野くん、随分と遅くなってしまって申し訳ない。だが、ちょうどいい機会だし話しておきたいことがある。私は君のことが前から気になっていた。だから秘書に抜擢したんだ。牧野くん、君は私のことをどう考えている?私は真剣だ。だから君も・・・キャーあたし、イケないこと想像しちゃうわ!」
久美子の思い描いているロマンスは、大富豪の社長に見初められた平凡な女性秘書が、華やかな世界へ足を踏み出す。恐らくそんな物語なのだろう。
そんな久美子の手は、興奮のあまりつくしの手を上下に揺らすのだから、箸先の生姜焼きのタレが飛び散りそうになることを懸念し、つくしは自分の手を引き抜こうするが、久美子はしっかりとつくしの手を握り離そうとはしない。だがつくしはなんとか手を解こうとする。
「・・ねえ、久美子。・・あの男・・じゃない道明寺副社長は女の秘書が嫌いって話しでしょ?それなのにどうしてあたしが秘書課にって思うけど、秘書室勤務になったからって副社長付になる訳じゃないでしょ?」
そうだ。秘書課に異動になったからといって副社長付になるとは限らない。
だから、久美子の話しが明後日の方向へと向かう前につくしは否定した。
だが相変わらず手は離してもらえない。
「何言ってるのよ!専務や常務にはお局クラスの秘書がいるんだし、副社長付になるに決まってるじゃない。いい?副社長には秘書の鏡、懐刀って呼ばれる秘書がいるけど、その人はNY時代から仕えている人で副社長の子供の頃を知る西田秘書。でもやっぱりひとりじゃ忙しいんじゃない?副社長のスケジュールの管理は西田秘書だろうけど、ほら、年齢の事もあるじゃない?西田秘書もそれなりの年だしさ、病気で休んだりとかもするだろうし・・・とにかく秘書室の事情で誰か有能な人材をってことになったんじゃない?もうこれはなんだかロマンスの香りがプンプンするわ!大人の愛が燃えるのよ!」
だがつくしには、とても秘書室の事情とは思えなかった。
そして久美子がロマンスの香りがするなら、つくしには陰謀の匂いではないが、きな臭ささが感じられた。
「ねえ、つくし!副社長のあの引き締まったしなやかな身体に抱きしめられたいと思うでしょ?動きのひとつひとつがセクシーなんだもの!もうつくしの事が羨ましくて仕方がないわ!」
じゃああたしと代わって!
と、口に出してみたい気がしたが、そんな言葉を呟けば、手を挙げる女性が大勢いるはずだ。
そして、つくしのその言葉は風に乗って社内中を駆け巡り、副社長の傍にいたくないと思う牧野つくしはおかしな女だといった噂が広まることだろう。そして今は、どうしてつくしが秘書課に異動になるのかが多くの臆測を呼んでいるというのに、それ以上に臆測を与える原因となる言動は控えなければといった思いがある。だから口に出すことはしなかった。
そして、今はあの男のことより、目の前にある豚肉の生姜焼き定食の続きを食べたい思いがあり、なんとか手を離してもらおうとしたが、やっと久美子の手が離れた。
そして話題が変わったことにホッと胸を撫で下ろす。
「ねえ、つくし。ところであんた昨日若い男の子と食事に行ったって言うけど、誰よそれ?まさか恋人が出来たなんてことないわよね?」
「違うわよ。ちょっと仕事で色々とあってその関係よ。だいたいあたしよりも一回りも若い男の子に興味なんてないわよ。ランチミーティングっていったら変だけど、その延長みたいなものだから」
「その人お客さんなの?」
「・・うん。突然異動することになったからって連絡したら、じゃあお昼でもって言われてね・・」
得意先の人間とのランチミーティングといったものは、よくある話しであり、久美子の手前、そういうことにした。
だが相手はあの若い社員だ。
インフラ事業部の太田から電話がかかって来たのは、人事通達が届いた日の夕方だった。
そしてその通達を見た太田は、突然つくしが秘書課に異動になることを、ただ事ではないと感じたのだろう。それは、自分のせいで副社長に反論したため、この人事異動が行われたのではないか、そう思ったことは間違いない。
だからやはり自分が悪かったのだと。
迷惑をかけたのだといった思いが募り、太田はお詫びの印といっては何ですが、と食事に誘ったということだ。だがつくしは断った。もう済んだことだから気にしなくていいからと。
しかし太田はどうしてもお願いします。と言い引き下がらず執拗だった。
この点は、ある意味線が細いと感じられていた太田正樹も、営業としての資質はあると言えるのかもしれない。それなら、とつくしの提案で行きつけの中華料理店でランチをご馳走してもらった。
注文したのは、酢豚定食。杏仁豆腐のデザートを付けてもらい1200円といつものランチより豪華だった。
「へえ~。あんた昔から若い男の子には人気があったもんね?でもさ、一回り年下でもつくしは若く見えるから、傍から見たら年齢差があるようには見えないかもね?で、どこに行ったの?」
「どこって、中華料理よ?」
「まさか!あんたの行きつけのラーメン屋?」
「あのね、あそこはラーメン屋じゃなくてちゃんとした中華料理店なのよ?あの店の酢豚とチャーハンは絶品なんだから!」
つくしは、入社以来その中華料理店の大ファンだ。
そこは、道明寺ビルから少し離れた場所にある昔ながらの庶民的な中華料理店。
昼間は近くの会社のサラリーマンで賑わいを見せる店であり、つくしは酢豚定食もチャーハンもラーメンも、とにかくどのメニューも大好きだ。
「はいはい。つくしは男よりも食い気の方が優先なのよね?まあいいわ。でもこれからは秘書室勤務になるんだから、そんなラーメン屋・・じゃなくて中華料理店に気軽に足を運ぶなんて時間もなくなるだろうし、その店でご馳走してもらえて良かったわね?」
つくしは、久美子の話を聞きながら途中になっていた豚肉の生姜焼きを口に運び大きく頷く。
「とにかく、つくしは明日から55階の秘書室勤務になるんだから、頑張ってね。何しろあのフロアには神様がいるんだからね?」
そうだ。
会社員にとって副社長をはじめとする役員は偉い。
だから55階は神々のフロアと呼ばれる。
そしてつくしは、あの日のあの男の発言は冗談だったのか、本気で言ったのか分からないが、どちらにしても彼女にとって嫌な男となった道明寺司のいるフロアで明日から働く。
だからもうこうなったら腹を括り、覚悟を決めるしかない。
だがいったい何の覚悟を決めるというのか?
「・・それと・・・もしかするとロマンスの神様もいるかもね?」
と、久美子は言ったがロマンスの神様は・・・いないと思う。
ロマンスの神様・・・
そう言えば確かそんな歌があった。
だがその歌によれば、土曜日に遊園地に行って1年たったらハネムーンだなんて言うのだから、もし55階にロマンスの神様がいるとすれば、道明寺司と遊園地に行けば1年後には結婚していることになる。
だがそれはない。絶対にない。
あの男と遊園地に行くことなんて絶対にないと断言出来る。
だから雑草を自負する女は、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟を持ち、明日からの業務に備え気合いを入れた。

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つくしは、入社して以来こんなに緊張したことはない。
入社試験の時、筆記試験や作文、そして面接を何度も繰り返したが緊張などしなかった。
けれど、今朝は妙に早く目が覚め、部屋のカーテンを開けた。だがまだ日の出前の時刻であり、視線の先には薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっていた。
試験の結果が送られて来たとき、せっかくですが当社とはご縁がございませんでした。といった文言を目にすることなく、歓びを噛みしめた。そして、あの日の歓びを無駄にすることなく今日まで仕事に励んで来た。
そんな平凡な毎日に、今日という日が特別な日といった訳ではない。
ただ、今日から55階にある秘書室勤務となるつくし。
突然の異動は何を示しているのか。それとも何かを示そうとしているのか。
考えたところで分からないのだから、考えるのは止めた。
その代わり胸の中にあるのは、やってやるわよ、かかってきなさいよ。といった思い。
だが何に対して敵対心を向けているのか。それは、勿論副社長である道明寺司に対してだ。
何故なら、この季節外れの突然の異動はあの男の思いつき以外に考えられないからだ。
そして、これが思いつきだろうと、気まぐれだろうと、所詮しがない会社員は会社の命令に従う以外なかった。
そして、つくしが知る秘書の仕事と言えば、仕える人間のスケジュールを管理するといった事くらいしか頭になかった。
そんなつくしだが、秘書は人一倍身なりに気を遣わなければならないことは知っている。
だからスーツは、いつものスーツ以外に2着新調した。だがさすがに一度に2着は痛い出費となった。
いつもより30分早い電車に乗り込み、会社を目指す。
何故なら、初日から遅刻するような羽目にはなりたくないからだ。
そして、いつもと同じ会社だというのに、まるで登る山が違うように感じられるのは、最上階の55階がアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロと同じ別名を持つからだ。
キリマンジャロは現地の言葉では「神の家」と呼ばれており、コーヒー三課にいたつくしにすれば、キリマンジャロは馴染のある名前だが、そのキリマンジャロと同じ意味を持つ「神々のフロア」にある秘書室に勤務するのだから緊張するなと言われる方が無理だ。
あの日訪れた55階は、キリマンジャロの頂上のように空気が薄い場所ではなかったが、間近で道明寺司を見た瞬間は息が詰まりそうになる思いをした。だが、執務室でのセクハラ発言に頭の中は沸騰直前のやかんのようになったはずだ。
コーヒーを淹れる湯の温度は80度くらいから97度がベストだと言われるが、もしつくしがやかんなら、あの時コーヒーに一番いいと言われる温度でいたのかもしれない。
そして今は、外面はやる気のあるビジネスウーマンだが、内面はいったいどんな業務を任されるのかと胃に若干ピリピリと痛みを感じながら、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す女だ。だがその途端、周りの視線が感じられた。
だが周りの目は気にしない。それにエレベーターが上昇するにつれ、次第に覚悟が出来た。
それは、雑草を自負する女の心の中にある、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟。だがあまり気負っても駄目だと考えを改める。
そうだ。秘書の業務といったものは、今までの仕事とは違い、自分のペース配分といったものは関係ない。相手に合わせることが求められるはずだ。
それにしても、いったい誰の担当になるのか。まさか、あの男の担当になるとは考えていないが、何故か嫌な予感が頭を過る。
つくしは、9時からの業務開始に対し、8時には55階のフロアにいた。
少し早すぎたのではないかといった思いがあるが、その時、秘書室の扉が開き、ひとりの女性が出て来た。上品な装いの50代前半といった年令に見えるその女性は、開口一番言った。
「あなたが牧野つくしさんね?」
装いが上品なら、声も上品だ。
つくしがはい、と答えると女性は万事心得た様子で自己紹介を始めた。
「私は野上。野上雅子です。専務担当秘書よ。随分と早く出社したのね?でも感心だわ。秘書としての勤務は9時からかもしれないけど、それ以前にすることはあるものね。西田室長は副社長と一緒に出社されるからまだだけど、どうぞこちらへ」
と言って秘書室へ案内された。
そして背を向けていた女性に、
「石井さん。こちら今日から秘書課で働くことになった牧野さん」
と紹介された。
「はじめまして牧野さん。常務担当秘書の石井誠子です。随分と早く出社したのね?でもあなた偉いわね?」
久美子が言っていた専務や常務といった役員にはお局クラスの秘書がいるといった話しは、この二人のことだろう。二人とも同じ年頃であり、随分と落ち着いて見えた。
そして考えてみたが、もしかすると二人のうちのどちらかが、秘書の仕事から離れることになり、その後任としてつくしが選ばれたのかもしれないといった思いが過る。
そして、そんな二人から感じられるのは、母か姉かといった雰囲気で、よくある新人に対し意地悪をするとか、仲間外れにするという低次元の話はここにはないようだ。
「牧野さん。あなた副社長の秘書として西田室長の下に付くことになったそうだけど、あの副社長が女性秘書を受け入れるなんて信じられないことなのよ?」
「そうよ?秘書課の女性はわたし達二人だけで、あとの役員についているのは男性なの。以前副社長がNYからこちらにいらした時、女性の秘書がついたことがあったのよ?だけどすぐに異動させられたわ。まあね、彼女は秘書というよりも、女を前面に出すような人だったから副社長にしてみれば目障りだったんだと思うわ。何しろ副社長は公私混同を嫌う方なの。だから彼女のような人はお嫌いだったの。はっきり言えば人選を間違ったとしか言いようがないの。でも今回あなたを選んだのは西田室長だから、心配してないわ」
二人の女性の会話から、つくしが思い描いたどちらかの女性の後任として抜擢されたという微かな期待は、見事に打ち消された。そしてやはり自分が仕えるのは、副社長である道明寺司であることがはっきりした。
「でも牧野さんは食品事業部だったのよね?それもコーヒー三課。じゃあ副社長のお好みのコーヒーの淹れ方もすぐにマスターできるわね?あの方はブルマンのブラックがお好みなの。でもね、淹れ方は副社長の好みがあるの。だからそれは西田室長から直接教えてもらえばいいと思うけど頑張ってね。朝まず飲まれるのはそのコーヒーだからその一杯が重要よ?まさにその一杯が副社長のご機嫌を左右するではないけれど、無きにしも非ずってところかしらね?だから牧野さん次第で副社長の一日が決まることになるのかもしれないわね?」
秘書課の古参秘書から聞かされる話に耳を傾けていたが、そうこうするうちに秘書室の監視モニターが映し出したのは、開いたエレベーターの扉からひとりの男が降りて来た姿と、彼の後ろに従う男の姿だ。
「あら。今日はいつもより早いわね?さあ、牧野さん。副社長がいらしたわ。ご挨拶に行きましょう」
司は、今まで秘書からおはようございます、と声をかけられてもそちらを見ることはなかった。
だが今朝の彼は機嫌が良かった。
ものごとは、思い通りに行くことと、そうでないことがあるが、司の場合思い通りに行かないことはない。
そんな彼の前にある日突然現れた牧野つくしは、思わぬ楽しみを味あわせてくれた。
今まで彼の周りにいた容姿だけが取り柄で頭はカラッポといった女と違い、司に意見するだけの気骨があった。
だが仕事上で相手に合わせなければならないことは、合わせることが出来るのだろう。
牧野つくしについて調べさせた結果、周りから見た仕事の評価もよく、そして人柄も問題ないと書いてあった。
そしてあの日の出来事から、とにかく、正義感が強い女だということは理解出来た。
自分が信じることに対しては、揺るぐことない信念を持ち行動する女。
そんな女が目新しいと感じたのか、それともただ単に退屈しのぎとして傍においてみたいと感じたのか。どちらにしても、彼女は今日から司の秘書として彼の傍で働く事になった。
だがまさか、その年になって秘書として働き始めることになるとは、思いもしなかったはずだ。
何故なら、司の会社では異動があるとしても、ある程度関連のある部門への異動が殆どだったからだ。だから今回のようにまったく違う部署への異動は稀な話であり、誰もが驚いて当然だ。そして本人が嫌だと言っても、社員である以上嫌だとは言えない立場にあり、もし嫌だと言えば、辞めざるを得ない。そんなことからも、当の本人がしぶしぶ承諾する様子が目に浮かんだ。
司は彼女に視線を向けたが、特に何も言わず、目の前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
その代わり西田が彼女に声をかけた。
「牧野さん。さっそくですが本日より宜しくお願いいたします。それでは、副社長室へどうぞ。そちらで詳しいお話をさせていただきます」
司は牧野つくしへの奇妙な反応を抑えつけ、落ち着いた口調で有無を言わさないと言われる西田の声を背中で聞いていた。そしてその声に静かに答える声は、本人は隠そうとしているが、緊張が感じられ、先日の勇ましさを今はどこかへ収めているのだろうと感じていた。
さしずめあの時は、針を纏った河豚だったが、今は野兎の毛皮を纏ったリスといったところだ。恐らく買ったばかりのスーツを身に纏い、武装ではないが、その姿は彼女がイメージする秘書といったものを表しているはずだ。
地味な紺のスーツに地味な靴。
そして恐らく一度も染めたことなどない真っ黒な髪。
だが紺という色は、色の濃い分、額縁のように中にある肌を引き立たせるが、まさに細く白い首筋を引き立たせていた。だがキュッと結ばれた唇と大きな瞳は、相変わらず司のことを最低な人と思っているようだ。
あの時、太田という社員を庇うようなことなど口にしなければいいものを、あの出来事は後悔していないように見える。だが、何故自分が55階で仕事をすることになったのかは、薄々気づいているはずだ。
だがそれは、司にも言えることだ。牧野つくしを女として意識している気持ちが無いのかと言われれば、それは違うはずだが、まずは牧野つくしの感情の移り変わる様子が面白く、近くで見てみたいといった気にさせられていた。
いずれにせよ、執務室の中、ほんの1週間前に立っていたその場所で、今は西田に秘書としての心得といったものを伝授されようとしている女が、これからどういった働きをしてくれるのか楽しみだ。
「あなたは本日よりわたくしの下で副社長の秘書として働いて頂くことになります。秘書の仕事というものは、机上で学ぶことはありません。仕事は実践あるのみということで身体で覚えて頂きますが、秘書の仕事は他人には見えずらい仕事といったものが殆どです。
そして秘書の仕事は評価されにくい仕事です。この仕事をしたからといって数字が上がるといった訳でもございません」
司は西田の話を聞きながら、牧野つくしが今何を考えているのか知ろうとした。
だがその表情は、1週間前の態度とは大違いで、これから仕える男に失礼にならないようにといった気持ちが現れていた。
「しかしながら多くの機密文書も扱うことになります。ですからご自分の立場をきちんと理解して頂くことが必要です。つまり口は堅くといったことが要求されます。いいですか。牧野さん。秘書の仕事は上司のニーズに応えることが役目です。ですが、上司に言われてからでは遅いことがあります。ですから、そういったことが無いように、自らが上司のニーズを把握し、自分の役割を認識することが重要となります。そして秘書というのは、上司の経営の補佐といったものが仕事であり、本来なら身の回りのお世話や健康管理といったものは秘書の仕事ではありません。ですが副社長のように独身となりますとある程度秘書が補佐する必要がある。そうお考えいただけたらと思います」
西田はそこで一旦話しを終えたが、次の言葉が口をついたとき、司の目の前に立つ女の大きな瞳が、つい先ほどとは一転し、あの時と同じように険悪な表情で彼を見つめる様子に笑いを堪えた。
「と、いうことで牧野さん。明日から副社長のお迎えは牧野さんがいらして下さい」

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けれど、今朝は妙に早く目が覚め、部屋のカーテンを開けた。だがまだ日の出前の時刻であり、視線の先には薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっていた。
試験の結果が送られて来たとき、せっかくですが当社とはご縁がございませんでした。といった文言を目にすることなく、歓びを噛みしめた。そして、あの日の歓びを無駄にすることなく今日まで仕事に励んで来た。
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ただ、今日から55階にある秘書室勤務となるつくし。
突然の異動は何を示しているのか。それとも何かを示そうとしているのか。
考えたところで分からないのだから、考えるのは止めた。
その代わり胸の中にあるのは、やってやるわよ、かかってきなさいよ。といった思い。
だが何に対して敵対心を向けているのか。それは、勿論副社長である道明寺司に対してだ。
何故なら、この季節外れの突然の異動はあの男の思いつき以外に考えられないからだ。
そして、これが思いつきだろうと、気まぐれだろうと、所詮しがない会社員は会社の命令に従う以外なかった。
そして、つくしが知る秘書の仕事と言えば、仕える人間のスケジュールを管理するといった事くらいしか頭になかった。
そんなつくしだが、秘書は人一倍身なりに気を遣わなければならないことは知っている。
だからスーツは、いつものスーツ以外に2着新調した。だがさすがに一度に2着は痛い出費となった。
いつもより30分早い電車に乗り込み、会社を目指す。
何故なら、初日から遅刻するような羽目にはなりたくないからだ。
そして、いつもと同じ会社だというのに、まるで登る山が違うように感じられるのは、最上階の55階がアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロと同じ別名を持つからだ。
キリマンジャロは現地の言葉では「神の家」と呼ばれており、コーヒー三課にいたつくしにすれば、キリマンジャロは馴染のある名前だが、そのキリマンジャロと同じ意味を持つ「神々のフロア」にある秘書室に勤務するのだから緊張するなと言われる方が無理だ。
あの日訪れた55階は、キリマンジャロの頂上のように空気が薄い場所ではなかったが、間近で道明寺司を見た瞬間は息が詰まりそうになる思いをした。だが、執務室でのセクハラ発言に頭の中は沸騰直前のやかんのようになったはずだ。
コーヒーを淹れる湯の温度は80度くらいから97度がベストだと言われるが、もしつくしがやかんなら、あの時コーヒーに一番いいと言われる温度でいたのかもしれない。
そして今は、外面はやる気のあるビジネスウーマンだが、内面はいったいどんな業務を任されるのかと胃に若干ピリピリと痛みを感じながら、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す女だ。だがその途端、周りの視線が感じられた。
だが周りの目は気にしない。それにエレベーターが上昇するにつれ、次第に覚悟が出来た。
それは、雑草を自負する女の心の中にある、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟。だがあまり気負っても駄目だと考えを改める。
そうだ。秘書の業務といったものは、今までの仕事とは違い、自分のペース配分といったものは関係ない。相手に合わせることが求められるはずだ。
それにしても、いったい誰の担当になるのか。まさか、あの男の担当になるとは考えていないが、何故か嫌な予感が頭を過る。
つくしは、9時からの業務開始に対し、8時には55階のフロアにいた。
少し早すぎたのではないかといった思いがあるが、その時、秘書室の扉が開き、ひとりの女性が出て来た。上品な装いの50代前半といった年令に見えるその女性は、開口一番言った。
「あなたが牧野つくしさんね?」
装いが上品なら、声も上品だ。
つくしがはい、と答えると女性は万事心得た様子で自己紹介を始めた。
「私は野上。野上雅子です。専務担当秘書よ。随分と早く出社したのね?でも感心だわ。秘書としての勤務は9時からかもしれないけど、それ以前にすることはあるものね。西田室長は副社長と一緒に出社されるからまだだけど、どうぞこちらへ」
と言って秘書室へ案内された。
そして背を向けていた女性に、
「石井さん。こちら今日から秘書課で働くことになった牧野さん」
と紹介された。
「はじめまして牧野さん。常務担当秘書の石井誠子です。随分と早く出社したのね?でもあなた偉いわね?」
久美子が言っていた専務や常務といった役員にはお局クラスの秘書がいるといった話しは、この二人のことだろう。二人とも同じ年頃であり、随分と落ち着いて見えた。
そして考えてみたが、もしかすると二人のうちのどちらかが、秘書の仕事から離れることになり、その後任としてつくしが選ばれたのかもしれないといった思いが過る。
そして、そんな二人から感じられるのは、母か姉かといった雰囲気で、よくある新人に対し意地悪をするとか、仲間外れにするという低次元の話はここにはないようだ。
「牧野さん。あなた副社長の秘書として西田室長の下に付くことになったそうだけど、あの副社長が女性秘書を受け入れるなんて信じられないことなのよ?」
「そうよ?秘書課の女性はわたし達二人だけで、あとの役員についているのは男性なの。以前副社長がNYからこちらにいらした時、女性の秘書がついたことがあったのよ?だけどすぐに異動させられたわ。まあね、彼女は秘書というよりも、女を前面に出すような人だったから副社長にしてみれば目障りだったんだと思うわ。何しろ副社長は公私混同を嫌う方なの。だから彼女のような人はお嫌いだったの。はっきり言えば人選を間違ったとしか言いようがないの。でも今回あなたを選んだのは西田室長だから、心配してないわ」
二人の女性の会話から、つくしが思い描いたどちらかの女性の後任として抜擢されたという微かな期待は、見事に打ち消された。そしてやはり自分が仕えるのは、副社長である道明寺司であることがはっきりした。
「でも牧野さんは食品事業部だったのよね?それもコーヒー三課。じゃあ副社長のお好みのコーヒーの淹れ方もすぐにマスターできるわね?あの方はブルマンのブラックがお好みなの。でもね、淹れ方は副社長の好みがあるの。だからそれは西田室長から直接教えてもらえばいいと思うけど頑張ってね。朝まず飲まれるのはそのコーヒーだからその一杯が重要よ?まさにその一杯が副社長のご機嫌を左右するではないけれど、無きにしも非ずってところかしらね?だから牧野さん次第で副社長の一日が決まることになるのかもしれないわね?」
秘書課の古参秘書から聞かされる話に耳を傾けていたが、そうこうするうちに秘書室の監視モニターが映し出したのは、開いたエレベーターの扉からひとりの男が降りて来た姿と、彼の後ろに従う男の姿だ。
「あら。今日はいつもより早いわね?さあ、牧野さん。副社長がいらしたわ。ご挨拶に行きましょう」
司は、今まで秘書からおはようございます、と声をかけられてもそちらを見ることはなかった。
だが今朝の彼は機嫌が良かった。
ものごとは、思い通りに行くことと、そうでないことがあるが、司の場合思い通りに行かないことはない。
そんな彼の前にある日突然現れた牧野つくしは、思わぬ楽しみを味あわせてくれた。
今まで彼の周りにいた容姿だけが取り柄で頭はカラッポといった女と違い、司に意見するだけの気骨があった。
だが仕事上で相手に合わせなければならないことは、合わせることが出来るのだろう。
牧野つくしについて調べさせた結果、周りから見た仕事の評価もよく、そして人柄も問題ないと書いてあった。
そしてあの日の出来事から、とにかく、正義感が強い女だということは理解出来た。
自分が信じることに対しては、揺るぐことない信念を持ち行動する女。
そんな女が目新しいと感じたのか、それともただ単に退屈しのぎとして傍においてみたいと感じたのか。どちらにしても、彼女は今日から司の秘書として彼の傍で働く事になった。
だがまさか、その年になって秘書として働き始めることになるとは、思いもしなかったはずだ。
何故なら、司の会社では異動があるとしても、ある程度関連のある部門への異動が殆どだったからだ。だから今回のようにまったく違う部署への異動は稀な話であり、誰もが驚いて当然だ。そして本人が嫌だと言っても、社員である以上嫌だとは言えない立場にあり、もし嫌だと言えば、辞めざるを得ない。そんなことからも、当の本人がしぶしぶ承諾する様子が目に浮かんだ。
司は彼女に視線を向けたが、特に何も言わず、目の前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
その代わり西田が彼女に声をかけた。
「牧野さん。さっそくですが本日より宜しくお願いいたします。それでは、副社長室へどうぞ。そちらで詳しいお話をさせていただきます」
司は牧野つくしへの奇妙な反応を抑えつけ、落ち着いた口調で有無を言わさないと言われる西田の声を背中で聞いていた。そしてその声に静かに答える声は、本人は隠そうとしているが、緊張が感じられ、先日の勇ましさを今はどこかへ収めているのだろうと感じていた。
さしずめあの時は、針を纏った河豚だったが、今は野兎の毛皮を纏ったリスといったところだ。恐らく買ったばかりのスーツを身に纏い、武装ではないが、その姿は彼女がイメージする秘書といったものを表しているはずだ。
地味な紺のスーツに地味な靴。
そして恐らく一度も染めたことなどない真っ黒な髪。
だが紺という色は、色の濃い分、額縁のように中にある肌を引き立たせるが、まさに細く白い首筋を引き立たせていた。だがキュッと結ばれた唇と大きな瞳は、相変わらず司のことを最低な人と思っているようだ。
あの時、太田という社員を庇うようなことなど口にしなければいいものを、あの出来事は後悔していないように見える。だが、何故自分が55階で仕事をすることになったのかは、薄々気づいているはずだ。
だがそれは、司にも言えることだ。牧野つくしを女として意識している気持ちが無いのかと言われれば、それは違うはずだが、まずは牧野つくしの感情の移り変わる様子が面白く、近くで見てみたいといった気にさせられていた。
いずれにせよ、執務室の中、ほんの1週間前に立っていたその場所で、今は西田に秘書としての心得といったものを伝授されようとしている女が、これからどういった働きをしてくれるのか楽しみだ。
「あなたは本日よりわたくしの下で副社長の秘書として働いて頂くことになります。秘書の仕事というものは、机上で学ぶことはありません。仕事は実践あるのみということで身体で覚えて頂きますが、秘書の仕事は他人には見えずらい仕事といったものが殆どです。
そして秘書の仕事は評価されにくい仕事です。この仕事をしたからといって数字が上がるといった訳でもございません」
司は西田の話を聞きながら、牧野つくしが今何を考えているのか知ろうとした。
だがその表情は、1週間前の態度とは大違いで、これから仕える男に失礼にならないようにといった気持ちが現れていた。
「しかしながら多くの機密文書も扱うことになります。ですからご自分の立場をきちんと理解して頂くことが必要です。つまり口は堅くといったことが要求されます。いいですか。牧野さん。秘書の仕事は上司のニーズに応えることが役目です。ですが、上司に言われてからでは遅いことがあります。ですから、そういったことが無いように、自らが上司のニーズを把握し、自分の役割を認識することが重要となります。そして秘書というのは、上司の経営の補佐といったものが仕事であり、本来なら身の回りのお世話や健康管理といったものは秘書の仕事ではありません。ですが副社長のように独身となりますとある程度秘書が補佐する必要がある。そうお考えいただけたらと思います」
西田はそこで一旦話しを終えたが、次の言葉が口をついたとき、司の目の前に立つ女の大きな瞳が、つい先ほどとは一転し、あの時と同じように険悪な表情で彼を見つめる様子に笑いを堪えた。
「と、いうことで牧野さん。明日から副社長のお迎えは牧野さんがいらして下さい」

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55階で仕事をするにあたり覚悟を決めてきたが、副社長付の秘書として、その業務に男の自宅へのお迎えといったものが含まれるとは考えもしなかった。
つくしは、目の前に座る男から何故かリラックスした雰囲気を感じたが、その男の態度は無視し、秘書室長の西田に向かって言った。
「あの、西田さんちょっと待って下さい。今秘書は上司の経営の補佐が仕事であり身の周りのお世話や健康管理は秘書の仕事ではないとおっしゃいましたよね?それなら朝のお迎えも秘書の仕事ではありませんよね?」
西田の言葉を正確に読み取っていたはずのつくしは、確信を持って言った。
「ええ。確かに言いました」
「それなら_」
と、言いかけたところで銀縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男は、彼女の言葉を遮った。
「但し、副社長の場合はある程度補佐する必要がある、とわたくしは付け加えました。いいですか牧野さん。あなたも社会人となって随分と経っている。そうすれば、ものごとには例外といったものが幾つもあるということは、お分かりのはずです。副社長の場合はその例外だとお思い下さい。いえ、例外ではありませんね。副社長の立場になれば秘書が迎えに行くのは当然のことと言えるはずです。何しろ副社長はお忙しい方です。スムーズに行動して頂くためにも、車内では当日のスケジュール等の確認をしなければなりません。決して一分一秒を争う訳ではございませんが、それでも副社長の時間というのは、大変貴重な時間であり、無駄な時間はございません」
勿論、つくしだってそのくらい理解している。
経営トップの身体はひとつしかないが、彼に係る仕事は多いはずだ。そして、そのひとつひとつが例え小さな事であっても、数が集まれば、塵も積もれば山となるではないが、膨大な仕事量をとなる。そしてそれを一日のうちの決められた時間でこなさなければならないのだから、時間が貴重だということは十分理解出来る。
だが今まで秘書室長の西田が行っていたことなら、そのまま彼が続ければいいはずだ。
それに社内の噂によれば、女の秘書が嫌いという男の元へ女の自分が毎朝迎えに行くことを、この部屋の主は認めているのか?
そして、その思いを口に出し言いたいが、果たしてそんな言葉を口にしていいのかといった躊躇いがあった。
「いいですか牧野さん。秘書になったからといって決して滅私奉公をしろと言っている訳ではございません。ただ、あなたには道明寺HDの副社長の秘書になるといった自覚を持って頂きたいのです。先ほども言いましたように、秘書の仕事は上司のニーズに応えることです。ですから副社長が何を求めてらっしゃるのか。そういったことも考えて行動しなければなりません」
それなら、やはり是非とも聞いてみたいといった気になる。
あなたは女性秘書がお迎えに伺うことになってもいいのかと。
そして、どうして自分があなたの秘書として仕えなければならないのかと。
ひとつ質問するならふたつだって変わりはしないはずだ。
「では、まずは副社長のお好みのコーヒーの淹れ方からお伝えしたいと思いますので、給湯室へ参りましょう」
西田はそう言って背中を向けたが、つくしの足は、ふたつの質問をぶつけたい、とその場所に貼りついていた。
そして思わず口を開く。
「あの!」
「はい。なんでございましょう?」
こちらを振り返った西田だが、つくしの視線は執務デスクの向うにいる男に向けられていた。そして、男の黒い目もつくしをじっと見つめていた。だがその目には、先ほどまでのリラックスしていた態度は見当たらず、射すくめるではないが、何の感情も見当たらず冷たさが感じられた。
「副社長にお尋ねしたいことがあります。初日にこんなことを聞く失礼をお許し下さい。
私の上司だった人は、どうして私が秘書課に異動になったのか教えてくれませんでした。彼らの答えは咳払いをするか、口ごもることでした。ですからお聞きしたいんです。何故私があなたの秘書になることになったのかを。きちんとした理由があるなら教えて下さい。それにあなたは女性の秘書が嫌いだといった噂があります。それなのに何故女性である私があなたの秘書になることが出来たのでしょうか?」
それは、ある意味挑戦的な質問の仕方かもしれない。
だがつくしにしてみれば、この異動は絶対にインフラ事業部のあの一件が発端だと思えるからだ。
そして、自分の立場を利用して、弱い者いじめとは言わないが、副社長である男は、あの日彼のことを最低とのたまった女に嫌がらせでもしようとしているのではないか。その思いは辞令が出た時からずっと頭の中にある。だから負けるものですか!といった気持ちでいるが、本当は違うというのなら、そう言って欲しい。
「お前が異動になった理由か?」
「はい」
司を見るつくしの表情は真剣だ。
その視線を受け止める男はつくしが納得するような理由を教えてくれるのか。
そしてその理由によっては、これから始まる新しい仕事に対するモチベーションといったものが変わる。
男の黒い瞳もつくしをじっと見つめているが、その目には何の表情も浮かんでいない。だが共に互いの瞳から視線を離さずにいた。
黒い大きな瞳は、嘘や偽りは聞きたくないといった思いが感じられ、司は口を開く。
「西田の母親がここの所具合が悪い。この男の母親は高齢で今は田舎の老人ホームで暮らしているが医者からはいつ何時がないと言われたそうだ。そうだな?西田?」
男の言葉につくしは後ろを振り返った。
「はい。わたくしの母は新潟で暮らしておりますが、最近体調が思わしくありません。もうかなりの年ですので覚悟はしておりますが、母の子供はわたくしだけでして息子としての役割といったものを果たすべき時期が来たかと思っております」
「まあ。それは・・・」
そこまで言われれば、つくしも理解出来る。
忙しいと言われる副社長に同行しなければならない秘書は、自分の年老いた母親がいつ何時ないと知ったとき、どんな気持ちでいただろう。
つくしには弟がいるが、両親は既に亡くなっている。だから西田の気持ちが理解出来る。
「わたくしとしては東京の介護施設に転居して欲しいと思っておりましたが、母は周りの環境が変わる、東京の言葉や気候に馴染めないと言い、生まれ育った場所から離れることには抵抗があるようです。ですから新潟へ行くための時間を取る必要があるのですが、何しろわたくしは副社長の秘書としてお傍に控える必要がございます。今はそういったことからなかなか故郷へ戻る時間を見つけることが出来ずにおります」
無表情な銀縁眼鏡の男だが、語られる言葉は紛れもなく老いた母を思う言葉だ。
「牧野さん。ここからは、どうしてあなたが副社長の秘書に抜擢されたのか。わたくしがお話致します。それは先日の出来事が関係あります。あなたもご存知の通り、あの時わたくしもここにおりました。その時あなたのようにはっきりと物が言える人間なら女性だとしても副社長の秘書として相応しいと感じ、あなたには食品事業部から秘書課へ異動して頂くことに致しました。あなたにしてみれば思いもよらなかった事だったでしょう。これはある意味わたくしの都合であり、もしあなたがあの日のことを気にしていらっしゃるとしても、副社長に他意はございません」
語られた西田の口調は静かで、表情は真面目だった。
それに先輩女性秘書から、あなたを選んだのは西田室長だと聞かされていただけに、その話に頷けた。
「そうですか」
つくしは、西田の言葉に、自分が選ばれたのは、真っ当な理由があったのだと、朝からピリピリと感じていた胃の痛みが少し和らいだと感じていた。
「それから副社長が女性の秘書が嫌いだという噂ですが、そのようなことはございません。NYでわたくしの下についていたのは女性秘書でしたが、彼女に対しての副社長の態度はわたくしに対する態度と変わりませんでしたので」
そこまで言われれば、つくしも納得しない訳にはいかなかった。
そして自分が思っていたように、道明寺司が自分に対し、何らかの嫌がらせをしようとしていると考えているのは勘違いだったのだと安心した。
そうすると、それまで肩に力が入っていたのが、すうっと抜けたように感じられた。
「牧野さん。ご納得いただけたのなら、給湯室へ参りましょう。副社長のコーヒーをお淹れいたしませんと」
つくしは、今度は司に一礼をすると、彼に背中を向けた。
そして西田の後に続き、部屋を出た。
静かに椅子に座ったまま司は閉じられた扉を見つめていた。
牧野つくしは、思っていることがすぐに顔に現れる。
目の前の扉は、少し前まで彼女にとって開きたくない扉だったはずだ。
だが、一礼した彼女の表情は入って来た時に比べ和らいでいた。
そしてこの次に扉を開けて入ってくるとき、どんな表情をしているか。
それが楽しみだった。

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つくしは、目の前に座る男から何故かリラックスした雰囲気を感じたが、その男の態度は無視し、秘書室長の西田に向かって言った。
「あの、西田さんちょっと待って下さい。今秘書は上司の経営の補佐が仕事であり身の周りのお世話や健康管理は秘書の仕事ではないとおっしゃいましたよね?それなら朝のお迎えも秘書の仕事ではありませんよね?」
西田の言葉を正確に読み取っていたはずのつくしは、確信を持って言った。
「ええ。確かに言いました」
「それなら_」
と、言いかけたところで銀縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男は、彼女の言葉を遮った。
「但し、副社長の場合はある程度補佐する必要がある、とわたくしは付け加えました。いいですか牧野さん。あなたも社会人となって随分と経っている。そうすれば、ものごとには例外といったものが幾つもあるということは、お分かりのはずです。副社長の場合はその例外だとお思い下さい。いえ、例外ではありませんね。副社長の立場になれば秘書が迎えに行くのは当然のことと言えるはずです。何しろ副社長はお忙しい方です。スムーズに行動して頂くためにも、車内では当日のスケジュール等の確認をしなければなりません。決して一分一秒を争う訳ではございませんが、それでも副社長の時間というのは、大変貴重な時間であり、無駄な時間はございません」
勿論、つくしだってそのくらい理解している。
経営トップの身体はひとつしかないが、彼に係る仕事は多いはずだ。そして、そのひとつひとつが例え小さな事であっても、数が集まれば、塵も積もれば山となるではないが、膨大な仕事量をとなる。そしてそれを一日のうちの決められた時間でこなさなければならないのだから、時間が貴重だということは十分理解出来る。
だが今まで秘書室長の西田が行っていたことなら、そのまま彼が続ければいいはずだ。
それに社内の噂によれば、女の秘書が嫌いという男の元へ女の自分が毎朝迎えに行くことを、この部屋の主は認めているのか?
そして、その思いを口に出し言いたいが、果たしてそんな言葉を口にしていいのかといった躊躇いがあった。
「いいですか牧野さん。秘書になったからといって決して滅私奉公をしろと言っている訳ではございません。ただ、あなたには道明寺HDの副社長の秘書になるといった自覚を持って頂きたいのです。先ほども言いましたように、秘書の仕事は上司のニーズに応えることです。ですから副社長が何を求めてらっしゃるのか。そういったことも考えて行動しなければなりません」
それなら、やはり是非とも聞いてみたいといった気になる。
あなたは女性秘書がお迎えに伺うことになってもいいのかと。
そして、どうして自分があなたの秘書として仕えなければならないのかと。
ひとつ質問するならふたつだって変わりはしないはずだ。
「では、まずは副社長のお好みのコーヒーの淹れ方からお伝えしたいと思いますので、給湯室へ参りましょう」
西田はそう言って背中を向けたが、つくしの足は、ふたつの質問をぶつけたい、とその場所に貼りついていた。
そして思わず口を開く。
「あの!」
「はい。なんでございましょう?」
こちらを振り返った西田だが、つくしの視線は執務デスクの向うにいる男に向けられていた。そして、男の黒い目もつくしをじっと見つめていた。だがその目には、先ほどまでのリラックスしていた態度は見当たらず、射すくめるではないが、何の感情も見当たらず冷たさが感じられた。
「副社長にお尋ねしたいことがあります。初日にこんなことを聞く失礼をお許し下さい。
私の上司だった人は、どうして私が秘書課に異動になったのか教えてくれませんでした。彼らの答えは咳払いをするか、口ごもることでした。ですからお聞きしたいんです。何故私があなたの秘書になることになったのかを。きちんとした理由があるなら教えて下さい。それにあなたは女性の秘書が嫌いだといった噂があります。それなのに何故女性である私があなたの秘書になることが出来たのでしょうか?」
それは、ある意味挑戦的な質問の仕方かもしれない。
だがつくしにしてみれば、この異動は絶対にインフラ事業部のあの一件が発端だと思えるからだ。
そして、自分の立場を利用して、弱い者いじめとは言わないが、副社長である男は、あの日彼のことを最低とのたまった女に嫌がらせでもしようとしているのではないか。その思いは辞令が出た時からずっと頭の中にある。だから負けるものですか!といった気持ちでいるが、本当は違うというのなら、そう言って欲しい。
「お前が異動になった理由か?」
「はい」
司を見るつくしの表情は真剣だ。
その視線を受け止める男はつくしが納得するような理由を教えてくれるのか。
そしてその理由によっては、これから始まる新しい仕事に対するモチベーションといったものが変わる。
男の黒い瞳もつくしをじっと見つめているが、その目には何の表情も浮かんでいない。だが共に互いの瞳から視線を離さずにいた。
黒い大きな瞳は、嘘や偽りは聞きたくないといった思いが感じられ、司は口を開く。
「西田の母親がここの所具合が悪い。この男の母親は高齢で今は田舎の老人ホームで暮らしているが医者からはいつ何時がないと言われたそうだ。そうだな?西田?」
男の言葉につくしは後ろを振り返った。
「はい。わたくしの母は新潟で暮らしておりますが、最近体調が思わしくありません。もうかなりの年ですので覚悟はしておりますが、母の子供はわたくしだけでして息子としての役割といったものを果たすべき時期が来たかと思っております」
「まあ。それは・・・」
そこまで言われれば、つくしも理解出来る。
忙しいと言われる副社長に同行しなければならない秘書は、自分の年老いた母親がいつ何時ないと知ったとき、どんな気持ちでいただろう。
つくしには弟がいるが、両親は既に亡くなっている。だから西田の気持ちが理解出来る。
「わたくしとしては東京の介護施設に転居して欲しいと思っておりましたが、母は周りの環境が変わる、東京の言葉や気候に馴染めないと言い、生まれ育った場所から離れることには抵抗があるようです。ですから新潟へ行くための時間を取る必要があるのですが、何しろわたくしは副社長の秘書としてお傍に控える必要がございます。今はそういったことからなかなか故郷へ戻る時間を見つけることが出来ずにおります」
無表情な銀縁眼鏡の男だが、語られる言葉は紛れもなく老いた母を思う言葉だ。
「牧野さん。ここからは、どうしてあなたが副社長の秘書に抜擢されたのか。わたくしがお話致します。それは先日の出来事が関係あります。あなたもご存知の通り、あの時わたくしもここにおりました。その時あなたのようにはっきりと物が言える人間なら女性だとしても副社長の秘書として相応しいと感じ、あなたには食品事業部から秘書課へ異動して頂くことに致しました。あなたにしてみれば思いもよらなかった事だったでしょう。これはある意味わたくしの都合であり、もしあなたがあの日のことを気にしていらっしゃるとしても、副社長に他意はございません」
語られた西田の口調は静かで、表情は真面目だった。
それに先輩女性秘書から、あなたを選んだのは西田室長だと聞かされていただけに、その話に頷けた。
「そうですか」
つくしは、西田の言葉に、自分が選ばれたのは、真っ当な理由があったのだと、朝からピリピリと感じていた胃の痛みが少し和らいだと感じていた。
「それから副社長が女性の秘書が嫌いだという噂ですが、そのようなことはございません。NYでわたくしの下についていたのは女性秘書でしたが、彼女に対しての副社長の態度はわたくしに対する態度と変わりませんでしたので」
そこまで言われれば、つくしも納得しない訳にはいかなかった。
そして自分が思っていたように、道明寺司が自分に対し、何らかの嫌がらせをしようとしていると考えているのは勘違いだったのだと安心した。
そうすると、それまで肩に力が入っていたのが、すうっと抜けたように感じられた。
「牧野さん。ご納得いただけたのなら、給湯室へ参りましょう。副社長のコーヒーをお淹れいたしませんと」
つくしは、今度は司に一礼をすると、彼に背中を向けた。
そして西田の後に続き、部屋を出た。
静かに椅子に座ったまま司は閉じられた扉を見つめていた。
牧野つくしは、思っていることがすぐに顔に現れる。
目の前の扉は、少し前まで彼女にとって開きたくない扉だったはずだ。
だが、一礼した彼女の表情は入って来た時に比べ和らいでいた。
そしてこの次に扉を開けて入ってくるとき、どんな表情をしているか。
それが楽しみだった。

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