2017
10.15

金持ちの御曹司~誘惑~

最近日系英国人の作家がノーベル文学賞を受賞したことが話題になったが、今日の司は珍しく時間が取れたこともあり、久し振りに読書でもするかといった気になっていた。

普段忙しい彼が、読書をする時間などあるはずもなく、読むといえば、経済新聞かビジネス雑誌といった分野になるのだが、秋の夜長、読書の秋。今回は文芸と呼ばれる本を読もうと思っていた。

世田谷の邸には、英国貴族の邸と見紛うばかり立派な図書室といったものがある。
そしてそこには、道明寺家代々の当主が世界各国から集めた貴重な初版本といったものがコレクションとして収められているが、『書籍』という物体を愛する、ビブリオフィリアと呼ばれる書籍愛好家からすれば、喉から手が出るほど欲しい本が並べられており、まさに垂涎の的といった図書室だ。

そして、そんな図書室には、世間で話題となった本も収めてあった。

司は書棚の前まで来ると、ズラリと並んだ蔵書の中から2冊の本を取り出した。
なぜ2冊なのか。何故なら上下巻に別れていたからだ。

そして司が手に取ったそれは、かつて日本経済新聞に連載されていた小説の本。
当時、経済新聞に連載するに内容が相応しくないのでは?といった意見もあったその小説。
それぞれ家庭を持つ中年の男女が不倫の末、心中するといった内容の小説。
それは、アダムとイブが蛇にそそのかされ、善悪の知恵の実を食べ、天国を追放されることを表す『失楽園』という名前のつけられた小説だった。

そう言えば、当時タマが、その新聞を読み終わったらタマに下さいまし。と言っていたのを思い出した。
そしてその小説は、その後映画になり、テレビドラマにもなったが、性的描写が生々しいことが話題になった。だが司は読んだことがなかった。

ただ、新聞の性質から、読者はビジネスマンが多く、ひと前で堂々とそういった小説が読めることが世の中年男性には有難かったといった話も聞いた。
何しろ、日本を代表する経済新聞だ。どこで広げていたとしても恥ずかしくない。
それにその小説だけを目当てに広げているとは誰も思わないはずだ。

そして不倫をしている男と女の気持ちが分るからと言って、その映画を見ろとやたらと熱心に勧めて来たのが、あきらだった。だが司は、不倫映画なんて俺とつくしの間には関係ねぇと一蹴した。
それに、もしそんな映画を見ていたことをつくしに知られると、恐ろしい誤解が生じるような気がしていたからだ。
そして、あきらがDVDを貸してやると言って置いて行ったが、何故かそのDVDは未だに司の部屋にある。ただ、そこにあると、つくしに見つかったとき、説明に苦慮することが分かっているだけに、早々にあきらに返そうと思っていた。




速読家の司は、あっという間に本を読み終えるとパタンと閉じた。
若い頃は読む気がしなかったその本。
だが何故か今は、妄想の翼が広げられたような気がしていた。
そして、あきらが熱心に勧めていた気持ちが分かったような気がしていた。

ひと言で言えば、いやらしい内容の小説。
大人の男女の性愛にスポットを当てた小説。
人妻を性に目覚めさせ、溺れさせるといった内容が書かれた小説。
そういった小説は、どちらかといえば隠れてこっそり読むことが主流だったあの頃。
それなのに、そんな内容の小説が堂々と読める経済新聞に掲載されていたことを考えれば、発行部数が飛躍的に伸びたはずだ。

そして、司の父親もその新聞を読んでいた。それならば、執務室で堂々と読んでいたのではないか。そんな思いが頭を過った。
だがそれは、司の父親だけではないはずだ。
名だたる企業トップも目を通すと言われる経済新聞だ。
真面目な顔をしたあの企業経営者も、あそこの堅物親父も、そんなことには一切興味がないといったジジイも、毎朝執務室に届けられる新聞を楽しみにしていたということになる。

そして司は思った。
たまには本を読むのもいいものだと。
そして、読んでみれば実に想像力に富んだ作品だと感じた。
ただそれは、ある一点だけに集中していた。

もし、司が主人公で、つくしが不倫相手の女だとすれば、といったことに。









「道明寺支社長。今回はインタビューに応じて下さってありがとうございます。記事は来月号から掲載されますので、原稿が出来上がり次第お持ちいたします」

つくしは、婦人雑誌の記者として道明寺HD日本支社長である道明寺司の取材に来ていた。
取材など殆ど受けたことがないと言われる司のインタビューの約束が取れたのは、まさに奇跡。司の気まぐれとしか言えないことだった。

取材は当初1日で終わる予定だったが、司の希望で1日では話足りないということになり、3日間という異例の取材となった。そして今日がその最終日だった。

「牧野さん。こちらこそ、今回はとても有意義な時間が持てたことを嬉しく思う。あなたは聞き上手だ。聞く力といったものをお持ちだ。そのうえお話をしていて楽しい。あなたならまた次のインタビューも受けたいと思っている」

「・・道明寺支社長。ありがとうございます。お世辞だとしても、出版社に勤める人間として大変光栄です」

「いや。世辞など言ったつもりはない。私は本当のことしか口に出さない男だ。不思議なことだが、あなたと話をしているとおおらかな気持ちになれる。・・それは、あなたの雰囲気がそうさせるのでしょう」

司はソファの真正面に腰を下ろしたつくしの瞳をじっと見つめた。
そして暫く黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。

「・・こんなことを申し上げるべきではないと思いますが、私は一目見てあなたの事が気に入りました。いや、気に入ったなんて言葉では済まされない。好きになったといった言葉の方が正しいはすだ。だがご存知の通り私は結婚している。しかし妻といっても名ばかりだ。だから離婚するつもりだ」

「道明寺支社長・・でもそんなことが出来るはずがないわ・・だってあなたの奥様は・・大河原財閥のお嬢様です。とてもそんなことが出来るとは思えません」

「何故だ?」

司の声色が変わった。

「・・何故出来ない?・・俺は全てを捨ててもいいと思ってる。お前さえいてくれればそれでいい。俺たちがこうして再会したのは運命だ・・そうだろ、つくし。・・・俺は・・あの時・・家のため、財閥のため、お前を・・お前を捨てた・・だがこうして巡り会えたことは運命だ。なあ・・そうだろ?今の俺は何も躊躇うことなんてねぇんだ・・もう他人行儀は止めてくれ!」

「道明寺・・・」


二人は遠い昔、恋人同士だった。
だが、司は経営が傾いた道明寺の家を見捨てることが出来なかった。
だがそれは、家のためではない。世界中にいる何十万という従業員とその家族のため、彼は犠牲になった。それが企業経営者としての責任というものだから。

「つくし・・もう一度俺とやり直そう・・いや・・・やり直してくれ」

「ダメよ・・あたしは、牧野の名前で仕事をしてるけど結婚してる・・だから・・」

「ああ・・知ってる。お前が結婚したって話はあきらから聞いた。・・けど俺はお前のことが諦めきれなかった!」

「道明寺・・ダメよ・・今更そんな・・・」




だが二人は気持ちが抑えきれなかった。
その日から毎週のように会い、身体を重ねた。
場所は、都内のホテル。
伊豆の別荘。
軽井沢の別荘。
しかし、司が自分の車で迎えに来ることはなく、二人とも密会場所を一歩出れば赤の他人を装った。司は大企業の経営者。そしてつくしは名の知れた出版社で働く記者。そして共に家庭のある身。そんな二人がスキャンダルに巻き込まれる訳にはいかなかった。
だが二人は週に一度の関係だけでは耐えられなくなり、一分一秒たりとも離れたくないと思うようになっていた。

ずっと一緒にいたい。

離れたくない。

どこにも行かないで。

そんな思いが積み重なり、心の奥底へ暗い闇が広がるようになっていた。
そして司も、一秒たりともつくしから目が離せなかった。
白く柔らかな肌が他の男のものだとしても、それはもう過去のことだと。
今は二人がこうして一緒いることが当たり前のようになっていた。

やがて二人の関係が週刊誌に取り上げられるようになり、つくしは夫と離婚したが、司の妻は別れようとしなかった。それでも二人は迷うことなく互いの手を取った。



「・・つくし・・愛してる・・」

「つかさ・・」

「・・いいのか?本当に」

「ええ。構わないわ。あんたと一緒なら地獄でも行ける。だからお願い・・」

二人は見つめ合った。
司は、つくしの手にワイングラスを握らせ、それから自らもグラスを握った。
そして二人は全裸のまま乾杯をした。

「・・あんたと一緒に死ぬのは怖くないわ・・」

空腹の胃に沈殿していく毒を含む芳醇な香りのルビー色の液体が、大きな瞳を恍惚とした表情に変えていく。

「・・俺もだ。お前がいれば地獄も天国だろうよ」

空になったグラスが床に転がると、二人は長いキスを交わし、酔いが回ってきたつくしの身体は抱え込まれ、もう二度と離れたくないと身体を絡めながら愛し合った。
やがて身体の芯が収縮すると司を締め付け、危険で誇り高いと言われた男と、かつて彼の恋人だった女は共に絶頂を迎え、意識は眠りの膜に包まれていた。










「・・・つ・・さ・・つか・・・司!!」

「あ?」

「あじゃないでしょ?ちょっと何やってるのよ?いつまで待っても帰ってこないから、滋ちゃんが探しに来たのよ?ホントにもう・・何こんなところで寝てるのよ!」

と言われた司は、道明寺邸の中の図書室にあるカウチで眠っていた。
何故図書室に立ち寄ったか。それは滋が見せて欲しいといった『不思議の国のアリス』を書いた英国人のルイス・キャロル自身が手書きで挿絵を描いた世界に一冊しかない『地下の国のアリス』という本を探しに来たからだ。

それは、『不思議の国のアリス』原型となった物語だが、本は現在大英図書館にあり、展示されていると言われているが、それは偽物であり、司が子供の頃からここにある本が本物だと言われていた。
だがその本を手にとった途端、まさに不思議の国に誘われたように、眠りに落ちていた。



「ねえ。もしかしてアリスみたいに白いウサギを追っかけて夢の世界に旅立ってた?だって司は子供の頃、楓小母様からウサギのぬいぐるみをもらって大切にしてたって話、知ってるわよ?・・もしかして、今でも大切にしてるとか?」

ニヤニヤ笑いを浮かべた滋は訳知り顔で司の片腹を肘で突いた。

「アホか!そんなことあるわけねーだろうが!・・・疲れてたからちょっとウトウトしただけだ!・・おい、この本だろ?お前が見たがってた本!」

司は手元に置かれた古い一冊の本を滋に押し付けた。

「わあ~!ありがとう!まさかこの本が道明寺邸にあるなんて、イギリス人もびっくりよね?」

司に言わせれば、昔から突拍子もないことばかり思いつく滋の方が余程びっくりな存在だ。
やたらと変装したがる、といった趣味のある女の邸には、自前の劇団が持てるのではないかというほどの衣裳部屋なるものが存在するからだ。

それに、滋は不思議の国のアリスに出てくる、いたずら好きのチュシャ猫に思えて仕方がなかった。何しろ、今まで起きた騒動の原因の殆どに、滋が絡んでいることが多かったからだ。
その中でも一番大きなイタズラといえば、滋の島に拉致され、そこからつくしのことだけを忘れたことだ。

「ありがとう司!ほら、つくしが待ってるから行こうよ!」

滋は、司の手を引っ張った。

「・・・あれ?なあにこれ?」

だがそのとき、滋は司が横になっていたカウチの下に落ちていた本を拾い上げた。

「・・やだ・・この本アレじゃない!昔は流行った小説よね?不倫の男女がワインに毒を入れて飲んでセックスしてその最中絶頂を迎えたまま死ぬって話の本よね?」

その言葉に司は思わずピクリと身体が反応した。

「・・え?まさか、司。この本読んでたの?もしかして司、この本で想像してた?・・つくしと繋がったまま逝こうなんてさ!キャー!イヤラシ男!もしかして司って普段からこんなこと考えてるの?やだまさか仕事中もだとか言わないでよね?あ、後で西田さんに聞いてみよ。・・・それにしても本当に男ってなんでこんなくだらない話が思い付くのかな?こんなことやってみなさいよ!死後硬直で固まったら離れなくなるでしょ?・・あ、でもそうか。離れられなくなるからいいのか・・え~でも滋ちゃんは厭だな。だって裸よ?それも結合したままなんてどうやって運ぶのよ?」

司は、寝起きの頭に響く滋のカン高い声を片手で遮り立ち上がった。

「ああ、分かった。ごちゃごちゃ言うな。・・それに俺は繋がったままだろうが_」

ニヤニヤと笑う滋の顔は、まさに『不思議の国のアリス』に出て来るチュシャ猫そのものだ。

「やっぱり読んでたんでしょ?隠さなくてもいいからね?つくしには内緒にしてあげる。・・その代わり『地下の国のアリス』譲ってくれない?勿論タダだなんて言わないから。それにこの本がここにあっても宝の持ちぐされでしょ?こういった夢のある本は滋ちゃんが大切に保管しておいてあげるから!ねぇいいでしょ?」

司はその瞬間、滋に負けたと思った。
そして思った。滋のこの騒々しさを考えたとき、マジでこいつと結婚してなくてよかったと。








「ごめんね、つくし!司が本を探しに行って迷子になったのよ!って言うよりね、夢の世界で迷子になって_」

滋はそこまで言って黙り込んだ。
なぜなら、司にジロリと睨まれたからだ。

「?・・なに?滋さん?」

「え?うんうん・・何でもないの。そ、そろそろ帰るわね。司、今日はありがとう!この本、大切にするからね。じゃあね!つくし。あんたも色々と大変だと思うけど頑張ってね!」

「え?滋さん?まだ来たばかりじゃない?もう帰るって_」

「え?まあね!色々と司には夢があるみたいだから邪魔したら悪いと思ってね・・えっと・・そうそうあたしワイン持って来てたよね?それ二人で飲んで楽しんでね!」

滋はいたずらっぽい笑いを浮かべ、じゃあね!と言って帰っていった。

つくしは、来たと思えば、もう帰るといった滋の行動に目を丸くしていたが、司の表情にピンとくるものがあった。

「・・・ちょっと。滋さんに何か言ったの?」

「あ?・・俺は別に何も言ってねぇぞ?あいつが・・」

と、そこで司の頭の中には、あの小説の中にあった最後のシーンが過った。
繋がったまま逝ってしまった二人の姿が。

決して心中がいいことだとは、思わない。
けれど、あの二人が互いを離したくないと、死んでも繋がったままでいることを望んだ気持ちは理解出来た。なぜなら、司も逝くときは、二人一緒に離れることなく逝きたいからだ。

司はニヤッと笑い、滋が持参したワインを手に取った。
そしてキャビネットからワイングラスをひとつ取り、ソファに座ったつくしの手を取った。
これから二人での行為を考えると、臍のあたりがムズムズとし、司の妄想はあの小説の中の一場面へと変わっていた。

ベッドの上でワイングラスを傾け、恍惚の表情を浮かべた女の顔へ。

ただし、あまり飲ませると意識を飛ばす恐れがある。だから、口移しでひと口だけ飲ませ、いい気分にさせる程度にする。

そこでふと笑いがもれた。
セックスについては、未だに内気さを持つ女だが、少しだけ飲ませれば自分の欲求を示そうとする。ところが、次の瞬間には尻込みをし、恥ずかしがる。だが、そんな女が愛おしくてたまらない。

「つくし・・二人でワイン。楽しもうぜ」

つくしは、どこかしっくりと来ない思いがあったが、自分の手を握った大きな手の温かさに、

「ええ。いいわ」

と言った。
そして司が何を考えていようと、彼のことは信頼しているといった顔は、少し恥かしそうに微笑んでいた。






かつて寂しい夜があったとしても、今はもうそんな夜はない。
夜更けも、夜明けも、全ての時間が彼女と一緒で、太陽が昇れば永遠の時が訪れたように感じられる。
そして命がある限り彼女を愛することを止めない。
今があれば、明日を待つといったことをしなくてもいい。
柔らかな微笑みがあれば、それだけでいい。
だから、人生を自らの意志で終わらせることを選ぶことは決してない。

何故なら、世界が終りを迎える日まで、ずっと一緒にいると決めた二人だから。






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