「ママ。さっきの方、道明寺さんですよね?」
「橘さん知ってるの?」
L字型のカウンターの内側に立つママと呼ばれた女性は、隣で興味津々な表情で見つめてくる年上の男性を見た。
「そんなのあたり前じゃないですか。あの道明寺さんを知らない人なんてこの街にいません。・・でもママ、その名刺、名前と電話番号だけで他に何も書いていませんね?」
橘は、ママと呼んだ女の掌の中にある名刺を覗いたが、書かれているはずの肩書は無く、上質な白い紙には、縦に名前が印刷されているだけだ。そしてその名前の下には、走り書きされた数字が並んでいた。
「そうね。でも書く必要ないんじゃないの?橘さんが言ったように、このお名刺を見て思いつく人はあの方以外いないでしょ?」
道明寺司、と書かれていれば、経済人であれば誰もが知る名前であり、そうでなくとも道明寺HDと言えば、日本を代表する企業グループであり誰もが知っていた。
そんな男に肩書など無用の長物であり、知らなければ経済人として失格だと言われているだけに、逆に知らない人間を探す方が難しいはずだ。
そして橘の言うとおり、この街に住む人間なら誰でも知っている名前だ。
「それって個人的な名刺ってことですよね?その電話番号もさっき書かれた番号ですから個人的な番号ってことですよね?それをママに渡すなんて、道明寺さん余程ママのことを信頼してるんですね?」
長い間変わることのない個人的な番号。
その番号を知っている人間は数少ない。
そしてその番号を知りたいと願う人間は多い。
しかし、心を許せる親しい友人以外知らない番号。
そんな番号を諳(そら)んじることが出来る人間は幸運な人間と言えるはずだ。
「・・それにしても道明寺さんって背が高くて、すらっとしてカッコいいですよね。それにやはり近寄りがたい感じがします」
すらっとしてカッコいい。
そんな言葉だけで片づけるには勿体ないほどの容姿の持ち主は、高校生の頃よりも一段と男前が上がったとママは思っていた。そしてその頃から感じられる彼独特のオーラといったものは、彼を知らない人間にとっては、挑戦的な鋭さを感じるはずだ。
実際向けた切れ長の瞳は怜悧な光りをたたえており、そんな男の前に出れば、誰もが緊張し、自然と背筋が伸び、身構える姿勢になる。
そしてそんな男の瞳は、漆黒の闇だと言われていたが、ひとりの少女を見つめる時、その瞳は夜空に輝く星のような光りを放っていた。
「そうね。あの人は昔から近寄り難い人だったの。それは今でも変わらないわ」
橘は、道明寺司という人物が昔から近寄り難い人だと言ったママが、なぜそんな男と親しげに口を利くことが出来るのかと興味を抱いた。そしてその理由を聞いたが、そんな橘にママは、古い知り合いなのよ。
と、呟きはしたがそれ以上は何も話はしなかった。
「それにしても道明寺さんほど男性なら、うちじゃなくてももっと凄い店をご存知のはずですよね?この店にいるのはママとバーテンダーの私だけですよ?それにこんな小さな店じゃなくて、もっと大きくて素敵な店をご存知のはずですよね?」
こんな小さな店。
確かにそうだ。小さなバーは6坪ほどの広さであり、畳で言えば12畳程度。
つまり6畳が二間程度の広さしかない。
ママは、クスッと笑いカウンターの上に置かれていたグラスを下げた。
開店前の店で出したウィスキーの水割りは1杯だけ。それをぐいっと飲み、腰を上げた男は名刺をママに預けると帰っていった。その理由は言わずもがなだ。ママは男がこの店を訪ねて来た理由を知っている。
「ママ、道明寺さんの左手の指に指輪はありませんでしたけど、結婚してますよね?」
「してないわよ」
きっぱりと否定したママの声に嘘はない。
「そうでしたか?そんな噂があったことを記憶していますが」
左手の薬指に指輪がないからと言って、独身とは限らない。
橘はそう言いたいのだ。
確かに結婚していても、指輪を嵌めない男は少なくない。
それは、単に指輪を嵌めることが嫌だというのか。それとも、指輪を嵌めていることで、周りの女性の見る目が変わって来ることが嫌なのか。だが、彼は違う。好きな人との結婚指輪なら喜んで嵌めるはずだ。
「それは橘さんの記憶違いよ。道明寺さんはこの世で一番好きな女性と生涯を共にするって男性なの。だからひとりよ」
そうだ。
彼はずっとひとりだ。
たったひとり欲しかった女性がいたが、その人とは未だに一緒になることが出来なかった。
「・・一番好きな女性ですか。二番目は必要ないってことですよね?」
「そうね。二番目の女性じゃ満足なんてしないと思うわ。それから偽者もね」
「なんですか?その偽者って?」
「まがい物ってことよ」
まがい物。
それがかつての自分のことだと桜子は思っていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
「橘さん知ってるの?」
L字型のカウンターの内側に立つママと呼ばれた女性は、隣で興味津々な表情で見つめてくる年上の男性を見た。
「そんなのあたり前じゃないですか。あの道明寺さんを知らない人なんてこの街にいません。・・でもママ、その名刺、名前と電話番号だけで他に何も書いていませんね?」
橘は、ママと呼んだ女の掌の中にある名刺を覗いたが、書かれているはずの肩書は無く、上質な白い紙には、縦に名前が印刷されているだけだ。そしてその名前の下には、走り書きされた数字が並んでいた。
「そうね。でも書く必要ないんじゃないの?橘さんが言ったように、このお名刺を見て思いつく人はあの方以外いないでしょ?」
道明寺司、と書かれていれば、経済人であれば誰もが知る名前であり、そうでなくとも道明寺HDと言えば、日本を代表する企業グループであり誰もが知っていた。
そんな男に肩書など無用の長物であり、知らなければ経済人として失格だと言われているだけに、逆に知らない人間を探す方が難しいはずだ。
そして橘の言うとおり、この街に住む人間なら誰でも知っている名前だ。
「それって個人的な名刺ってことですよね?その電話番号もさっき書かれた番号ですから個人的な番号ってことですよね?それをママに渡すなんて、道明寺さん余程ママのことを信頼してるんですね?」
長い間変わることのない個人的な番号。
その番号を知っている人間は数少ない。
そしてその番号を知りたいと願う人間は多い。
しかし、心を許せる親しい友人以外知らない番号。
そんな番号を諳(そら)んじることが出来る人間は幸運な人間と言えるはずだ。
「・・それにしても道明寺さんって背が高くて、すらっとしてカッコいいですよね。それにやはり近寄りがたい感じがします」
すらっとしてカッコいい。
そんな言葉だけで片づけるには勿体ないほどの容姿の持ち主は、高校生の頃よりも一段と男前が上がったとママは思っていた。そしてその頃から感じられる彼独特のオーラといったものは、彼を知らない人間にとっては、挑戦的な鋭さを感じるはずだ。
実際向けた切れ長の瞳は怜悧な光りをたたえており、そんな男の前に出れば、誰もが緊張し、自然と背筋が伸び、身構える姿勢になる。
そしてそんな男の瞳は、漆黒の闇だと言われていたが、ひとりの少女を見つめる時、その瞳は夜空に輝く星のような光りを放っていた。
「そうね。あの人は昔から近寄り難い人だったの。それは今でも変わらないわ」
橘は、道明寺司という人物が昔から近寄り難い人だと言ったママが、なぜそんな男と親しげに口を利くことが出来るのかと興味を抱いた。そしてその理由を聞いたが、そんな橘にママは、古い知り合いなのよ。
と、呟きはしたがそれ以上は何も話はしなかった。
「それにしても道明寺さんほど男性なら、うちじゃなくてももっと凄い店をご存知のはずですよね?この店にいるのはママとバーテンダーの私だけですよ?それにこんな小さな店じゃなくて、もっと大きくて素敵な店をご存知のはずですよね?」
こんな小さな店。
確かにそうだ。小さなバーは6坪ほどの広さであり、畳で言えば12畳程度。
つまり6畳が二間程度の広さしかない。
ママは、クスッと笑いカウンターの上に置かれていたグラスを下げた。
開店前の店で出したウィスキーの水割りは1杯だけ。それをぐいっと飲み、腰を上げた男は名刺をママに預けると帰っていった。その理由は言わずもがなだ。ママは男がこの店を訪ねて来た理由を知っている。
「ママ、道明寺さんの左手の指に指輪はありませんでしたけど、結婚してますよね?」
「してないわよ」
きっぱりと否定したママの声に嘘はない。
「そうでしたか?そんな噂があったことを記憶していますが」
左手の薬指に指輪がないからと言って、独身とは限らない。
橘はそう言いたいのだ。
確かに結婚していても、指輪を嵌めない男は少なくない。
それは、単に指輪を嵌めることが嫌だというのか。それとも、指輪を嵌めていることで、周りの女性の見る目が変わって来ることが嫌なのか。だが、彼は違う。好きな人との結婚指輪なら喜んで嵌めるはずだ。
「それは橘さんの記憶違いよ。道明寺さんはこの世で一番好きな女性と生涯を共にするって男性なの。だからひとりよ」
そうだ。
彼はずっとひとりだ。
たったひとり欲しかった女性がいたが、その人とは未だに一緒になることが出来なかった。
「・・一番好きな女性ですか。二番目は必要ないってことですよね?」
「そうね。二番目の女性じゃ満足なんてしないと思うわ。それから偽者もね」
「なんですか?その偽者って?」
「まがい物ってことよ」
まがい物。
それがかつての自分のことだと桜子は思っていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
スポンサーサイト
Comment:10
スイス製高級ライターが灯した炎は、煙草の先に火をつけるとすぐに消された。
そして、口から吐き出された白い煙はゆっくりと上へと昇っていった。
だがその煙草は、直ぐに灰皿の上でくの字に折れ曲がり、紙を捲る乾いた音だけが執務室に聞こえていた。
道明寺司。道明寺HDの副社長であり、道明寺財閥の後継者。
彼は手元の書類に目を通していた。
初対面の人間に対し、冷たい印象を与えると言われる切れ長の瞳。
だがその瞳は、言い換えれば涼しげな眼元といった言い方も出来るはずだ。
そして、今その瞳が追うのは、日本企業が8年ぶりにアメリカを逆転したと言われる総資産利益率のグラフだ。
総資産とは、企業が持つ借入金も含め、工場や店舗、現金などの全財産のことだが、道明寺HDは、財務テクニックを駆使することよりも、不要な分野からの撤退や事業売却を進め、成長分野に集中投資した結果、利益率が上がっていた。
それを成し遂げたのは、25歳で専務取締役となり、30歳で副社長の座に着いた司だ。
そして35歳の今、ひとりの女性を探していた。
その女性は彼を暗闇から連れ出したくれた女性。
彼の周りにあった漆黒の闇を取り払ってくれた人。
彼の初恋の女性だ。彼女の名前は牧野つくし。
司は彼女との大切な想い出を記憶の中で反芻していた。
それはまさに追憶にふけっていると言っても過言ではない。
何故なら、司の記憶には、彼女の存在は高校生の時から止まったままだからだ。
あるひとつのことだけを忘れてしまった男。
それは、記憶を失う前に一番拘り、執着していたことだけを完全に忘れ去っていた。
司は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負い、以来過去の記憶の一部を失ってしまう所謂特殊な記憶喪失と呼ばれる症状に陥っていた。そしてその症状を抱えたままNYへと住まいを移していた。
そんな司に周りの人間は、思い出せと言ったが、思い出すことはなく、苛立ちばかりを募らせていた頃があった。その苛立ちの原因はいったい何なのか。
日を追うごとに募るその感情に、頭の中にどろどろとした澱(おり)が溜まる一方であり、晴れることはなかった。
だが財閥後継者として名声を馳せ、ビジネス取引を子供の頃の喧嘩と引き換えに楽しむようになれば、味も香りもない勝利であっても、それを勝ち取る楽しさを覚えた。
やがて、どんな勝負にも勝つことが求められるビジネスの世界に於いて、勝ち取る勝利が多ければ多いほど高揚感が高まり、この世界で生きて行くことが悪いとは思わなくなっていた。
だが、結婚だけはどうしてもする気になれなかった。
どんなに美しいと言われる女を抱いても満たされることはなく、何かが足りなかった。
欲しい物は全て手に入れることが出来る地位にいたが、手に取るものは求めるものではない。いつもそう感じていた。
だがそんなある日、突然記憶が戻った。
NYの執務室。椅子の向きを変え、窓の外に見える赤く染まった夕陽を眺めていたとき、高校生だった彼女が現れた。
次第に明晰になり、頭の中に甦る牧野つくしの存在。
姿が瞼に浮かび、声が確実に甦り耳に聞こえていた。
時は着実に流れているが、頭の中に現れたのは、高校生の頃の彼女の姿。
忘却していたいくつもの出来事が、一度に頭の中に甦り、視線は窓の外を眺めているも、抜け殻のように中空を彷徨っていた。
あのとき、椅子に座っていなければ、倒れていたはずだ。
そして目の前に見える夕陽に押し潰されそうになっていた。
ある日突然、天から贈られた記憶の欠片。
やがて、記憶の中にある少女の顔が涙で歪んで見え、後悔などといった生易しいもので片づけられるようなものではない感情が湧き上がっていた。
そして、それから1時間以上、秘書の入室も許さず電話も取り次がせなかった。
そんな司が帰国し、三条桜子が銀座で経営する小さなバーを初めて訪れた。
彼女が店をオープンしたのが丁度5年前、6坪ほどの小さな店だが評判がいいと言われていた。
それは三条の客に対する態度が、次から次へと客を呼び込むからだ。
決して一見さんお断りといった店ではないが、ああいった店は、人の繋がりから顧客が増えていく。
誰かが連れて来た客が、また別の客を呼び、口コミで広がる客の輪。
それが企業経営者や文化人といった上質な客といったレベルになれば、その店の格も上がって来る。
そうなるとそこは、所謂紳士の隠れ家的存在の店となり、常連だけが訪れるような店になる。
三条の店はそういった店だ。
それに三条には、どこか品があった。
元々旧華族といった由緒ある家に生まれた彼女は、その生まれが訪れる客からすれば魅力的でもあるが、華がある。
そして今でこそバーのママといった立場だが、その店も元々親族の女性が経営していたバーを引き継ぎ始めた道楽のようなものだ。今の彼女はバーの他にもアロマオイルを販売する小さな店のオーナーでもあった。
そんな三条は大学も出ており、芸能、スポーツそして政治経済の分野まで幅広い知識を持っており、客との話も弾んでいた。そのためには、もちろん自分の知識を増やすことも必要だが、彼女はそれを見事にやってのけていた。
そして、相手の話したいことを黙って聞くといったことも得意だった。
彼女は鋭い観察眼といったものも持ち合わせており、黙る時は黙り、相手が欲しいと思う答えを返すことが出来た。
だが遠い昔、司にとって三条桜子は嫌な女だった。
両親亡きあと、彼らが残した資産で祖母に育てられた少女は、猫を被るのが得意で、人を騙すのが得意だと言われていた。そして、自分の存在を無視し、自尊心を傷つけた司に復讐することを目的に、彼が好きだった少女へ近づき、彼女を罠に嵌め、貶めようとしたことがあった。
だがそんな三条は、自分が貶めた少女に助けられたことにより、彼女の親友となり、それからはどんなことがあろうと、彼女の傍で彼女を支え続けたと言われていた。
そして、司が牧野つくしの記憶を失い、牧野つくしの存在を跳ね除けていた頃、それでも執拗に彼女のことを伝えて来たのが三条だった。
三条だけが、何年も牧野つくしのことを彼に伝えて来ていた。
そんな三条だからこそ、彼女の、牧野つくしの居場所を知っているはずだ。
そう思った司は三条桜子の店を訪れていた。
だが三条の口は堅かった。
司が理解に及ばない相手と言う人間も稀にいるが、その一人が三条桜子だ。
三条は、ほほ笑みを浮かべることが商売だが、その瞳は笑ってはいなかった。
だが女に直感があるなら、男にも直感といったものがある。
特に司は、牧野つくしに対しての感だけは特出したものがあった。
それにどれだけ三条が隠そうとしても、心の微妙な乱れといったものを感じることが出来た。
今では、あの頃の、遠い昔のわだかまりはない。
それは、三条を牧野つくしの友人と認めているからだ。
そうでなければ、女を一人相手にするほど簡単なことはない。
ただ店を潰してやるとでも言えばいい。だが牧野つくしの友人相手に言う言葉ではない。
だから名刺を渡した。
この名刺を彼女に渡して欲しいと。
そして連絡をくれるようにと。
名刺に書かれた11桁の番号。
だがその番号が鳴ることはなかった。

にほんブログ村

応援有難うございます。
そして、口から吐き出された白い煙はゆっくりと上へと昇っていった。
だがその煙草は、直ぐに灰皿の上でくの字に折れ曲がり、紙を捲る乾いた音だけが執務室に聞こえていた。
道明寺司。道明寺HDの副社長であり、道明寺財閥の後継者。
彼は手元の書類に目を通していた。
初対面の人間に対し、冷たい印象を与えると言われる切れ長の瞳。
だがその瞳は、言い換えれば涼しげな眼元といった言い方も出来るはずだ。
そして、今その瞳が追うのは、日本企業が8年ぶりにアメリカを逆転したと言われる総資産利益率のグラフだ。
総資産とは、企業が持つ借入金も含め、工場や店舗、現金などの全財産のことだが、道明寺HDは、財務テクニックを駆使することよりも、不要な分野からの撤退や事業売却を進め、成長分野に集中投資した結果、利益率が上がっていた。
それを成し遂げたのは、25歳で専務取締役となり、30歳で副社長の座に着いた司だ。
そして35歳の今、ひとりの女性を探していた。
その女性は彼を暗闇から連れ出したくれた女性。
彼の周りにあった漆黒の闇を取り払ってくれた人。
彼の初恋の女性だ。彼女の名前は牧野つくし。
司は彼女との大切な想い出を記憶の中で反芻していた。
それはまさに追憶にふけっていると言っても過言ではない。
何故なら、司の記憶には、彼女の存在は高校生の時から止まったままだからだ。
あるひとつのことだけを忘れてしまった男。
それは、記憶を失う前に一番拘り、執着していたことだけを完全に忘れ去っていた。
司は暴漢に刺され、瀕死の重傷を負い、以来過去の記憶の一部を失ってしまう所謂特殊な記憶喪失と呼ばれる症状に陥っていた。そしてその症状を抱えたままNYへと住まいを移していた。
そんな司に周りの人間は、思い出せと言ったが、思い出すことはなく、苛立ちばかりを募らせていた頃があった。その苛立ちの原因はいったい何なのか。
日を追うごとに募るその感情に、頭の中にどろどろとした澱(おり)が溜まる一方であり、晴れることはなかった。
だが財閥後継者として名声を馳せ、ビジネス取引を子供の頃の喧嘩と引き換えに楽しむようになれば、味も香りもない勝利であっても、それを勝ち取る楽しさを覚えた。
やがて、どんな勝負にも勝つことが求められるビジネスの世界に於いて、勝ち取る勝利が多ければ多いほど高揚感が高まり、この世界で生きて行くことが悪いとは思わなくなっていた。
だが、結婚だけはどうしてもする気になれなかった。
どんなに美しいと言われる女を抱いても満たされることはなく、何かが足りなかった。
欲しい物は全て手に入れることが出来る地位にいたが、手に取るものは求めるものではない。いつもそう感じていた。
だがそんなある日、突然記憶が戻った。
NYの執務室。椅子の向きを変え、窓の外に見える赤く染まった夕陽を眺めていたとき、高校生だった彼女が現れた。
次第に明晰になり、頭の中に甦る牧野つくしの存在。
姿が瞼に浮かび、声が確実に甦り耳に聞こえていた。
時は着実に流れているが、頭の中に現れたのは、高校生の頃の彼女の姿。
忘却していたいくつもの出来事が、一度に頭の中に甦り、視線は窓の外を眺めているも、抜け殻のように中空を彷徨っていた。
あのとき、椅子に座っていなければ、倒れていたはずだ。
そして目の前に見える夕陽に押し潰されそうになっていた。
ある日突然、天から贈られた記憶の欠片。
やがて、記憶の中にある少女の顔が涙で歪んで見え、後悔などといった生易しいもので片づけられるようなものではない感情が湧き上がっていた。
そして、それから1時間以上、秘書の入室も許さず電話も取り次がせなかった。
そんな司が帰国し、三条桜子が銀座で経営する小さなバーを初めて訪れた。
彼女が店をオープンしたのが丁度5年前、6坪ほどの小さな店だが評判がいいと言われていた。
それは三条の客に対する態度が、次から次へと客を呼び込むからだ。
決して一見さんお断りといった店ではないが、ああいった店は、人の繋がりから顧客が増えていく。
誰かが連れて来た客が、また別の客を呼び、口コミで広がる客の輪。
それが企業経営者や文化人といった上質な客といったレベルになれば、その店の格も上がって来る。
そうなるとそこは、所謂紳士の隠れ家的存在の店となり、常連だけが訪れるような店になる。
三条の店はそういった店だ。
それに三条には、どこか品があった。
元々旧華族といった由緒ある家に生まれた彼女は、その生まれが訪れる客からすれば魅力的でもあるが、華がある。
そして今でこそバーのママといった立場だが、その店も元々親族の女性が経営していたバーを引き継ぎ始めた道楽のようなものだ。今の彼女はバーの他にもアロマオイルを販売する小さな店のオーナーでもあった。
そんな三条は大学も出ており、芸能、スポーツそして政治経済の分野まで幅広い知識を持っており、客との話も弾んでいた。そのためには、もちろん自分の知識を増やすことも必要だが、彼女はそれを見事にやってのけていた。
そして、相手の話したいことを黙って聞くといったことも得意だった。
彼女は鋭い観察眼といったものも持ち合わせており、黙る時は黙り、相手が欲しいと思う答えを返すことが出来た。
だが遠い昔、司にとって三条桜子は嫌な女だった。
両親亡きあと、彼らが残した資産で祖母に育てられた少女は、猫を被るのが得意で、人を騙すのが得意だと言われていた。そして、自分の存在を無視し、自尊心を傷つけた司に復讐することを目的に、彼が好きだった少女へ近づき、彼女を罠に嵌め、貶めようとしたことがあった。
だがそんな三条は、自分が貶めた少女に助けられたことにより、彼女の親友となり、それからはどんなことがあろうと、彼女の傍で彼女を支え続けたと言われていた。
そして、司が牧野つくしの記憶を失い、牧野つくしの存在を跳ね除けていた頃、それでも執拗に彼女のことを伝えて来たのが三条だった。
三条だけが、何年も牧野つくしのことを彼に伝えて来ていた。
そんな三条だからこそ、彼女の、牧野つくしの居場所を知っているはずだ。
そう思った司は三条桜子の店を訪れていた。
だが三条の口は堅かった。
司が理解に及ばない相手と言う人間も稀にいるが、その一人が三条桜子だ。
三条は、ほほ笑みを浮かべることが商売だが、その瞳は笑ってはいなかった。
だが女に直感があるなら、男にも直感といったものがある。
特に司は、牧野つくしに対しての感だけは特出したものがあった。
それにどれだけ三条が隠そうとしても、心の微妙な乱れといったものを感じることが出来た。
今では、あの頃の、遠い昔のわだかまりはない。
それは、三条を牧野つくしの友人と認めているからだ。
そうでなければ、女を一人相手にするほど簡単なことはない。
ただ店を潰してやるとでも言えばいい。だが牧野つくしの友人相手に言う言葉ではない。
だから名刺を渡した。
この名刺を彼女に渡して欲しいと。
そして連絡をくれるようにと。
名刺に書かれた11桁の番号。
だがその番号が鳴ることはなかった。

にほんブログ村

応援有難うございます。
Comment:3
バスは帰宅する乗客を乗せ走っていたが、止ったバス停から制服を着た女子高校生が二人乗り込んで来ると、つくしの前の空いた席に座った。そして、楽しそうな笑い声を交え、同じクラスの男子生徒のことを話しはじめた。
「ねえ、浅野君って絶対香織のことが好きよ」
「え~っ!!嘘!ショック!なんであんな女がいいのよ!美人でもないし地味だし、どこがいいんだか」
「何言ってんのよ。香織は頭がいいもの。やっぱ他人より何かひとつ抜きん出ているって凄いことなのよ?」
「でもさ、香織は地元の国立大学に進学するって言ってるし、浅野君って東京の大学目指してるんだよね?じゃあ、もし二人が付き合うとなると遠距離恋愛ってこと?」
「うん。でもそうなると難しんじゃない?やっぱり離れてると心も離れてくるんじゃない?それに浅野君も東京で新しい出会いがあるだろうし、いくら今、彼女のことが好きだって思っても人の心って変わるじゃない?」
「そうよね・・。東京に行けばもっと広い世界を知るんだし、浅野君みたいに頭が良かったら大学卒業したら海外とか行っちゃうかもね?」
「あ~、あり得るわね。だって浅野君って大きな夢があるって言ってたし、海外とかでバリバリ働いててもおかしくないよね?」
「そうよ!浅野君って文句なくかっこいいもん。背も高いし、外人の中にいても見劣りしないと思う!」
女子高校生のお喋りは、それからどこの店の何が美味しいといった話しに変わり、やがて自分達の将来の話へと変わっていった。
その声は、未来を語る少女のどこか夢見がちで、それでも現実を踏まえているようで、最近の高校生は随分と大人だと感じていた。
つくしは暫く二人の話に耳を傾けていたが、自分が降りるバス停が近づいてくると、誰かが押した降車ボタンの音に席を立った。
そして、彼らの横を通り過ぎるとき、二人にチラリと視線を向けたが、彼らの話の内容から受験生だと思っていたが、やはりその手には参考書が握られていた。
バスを降りた途端、前方から差し込む夕陽の眩しさに一瞬目を細め歩きだしたが、先ほどまで聞いていた女子高校生の会話に、つくしも丁度あの年頃、他愛もない話しに盛り上がったことがあったと、自分の学生時代を懐かしく思い出していた。
だが、あの二人のように純粋に学生生活を楽しめた時間は短かった。
そして彼女たちが交わしていた会話の中に、自分の姿を見たような気がしていた。
『美人でもないし地味だし、どこがいいんだか』
それは、当時高校生だったつくしに向かって放たれた言葉ではなかっただろうか。
つくしは、過去の記憶を紐解いていた。
あまり裕福と言えなかった生活のなか、親の求めに応じた形で進学した高校で、貧乏だと言われたが、何故か自分がそれほど貧しい生活をしていると感じることもなく、どちらかと言えば、そのことを当然として受け止め、卑屈になることもなく過ごしていた。
そんな彼女がよく言われたのが、貧乏なのが潔過ぎるといったことだ。
『貧乏が当たり前になると、貧乏だと思えなくなるんだな』
そんなことも言われたが、その通りではないかと思っていた。
つくしが進学した英徳学園は、日本の特権階級の最上段にいる人間の子弟が通う学園だ。
広大な敷地に、幼稚舎から大学まで、エスカレーター式に進んでいける私立の学園であり、求められるのは、経済状況と家柄であり、頭の良さや人間性は関係ないといっても過言ではなかったはずだ。
それならなぜ、つくしのような家庭環境で受け入れられたのか。
それは、成績が抜群によかったということ以外なく、求められたのは、その頭のよさだけだ。
つくしも、勿論そのつもりでいた。
いい成績を収め、奨学金で大学へ進学する。そのことを夢見ていた。
人生の目的のため、自分のすべきことをするだけ。そんな思いで高校での3年間が過ぎることだけを願っていた。
だから目立たない生徒でいたはずだ。
なのに、人生は分からないものだと、つくづく思った。
まさか、あの学園で自分の人生で一番大切になる人に出会うとは思わなかった。
道明寺司。
初恋ではなかったが、いつの間にか心が惹かれた人。
そして今では記憶の奥底へ沈めた人。
思えば、二人が一緒に過ごした時間は短く、その時間に青春の全てが凝縮されていたはずだ。
高校に入学して間もない頃、教室の窓から偶然見かけた彼は、他人にやさしい眼差しを向けたことがない、イラつきを背中にしょって歩いていると言われ、絶対に関わりたくない男だった。
闇の中に暮らす男だと言われ、彼に目を付けられた人間は、最終的に学園から去ることになる運命だと言われていた。そして下手をすれば、半殺しの目に合わされる。そんな言葉がまことしやかに囁かれていたが、それが真実であると知ったのは、自分が標的にされた時だった。
つくしは、道明寺司に目を付けられ、学園中から目の敵のようにいじめられた。
それなのに、そんな男からある日突然好きだと言われたことが、不思議でならなかった。
どうして自分なのか。そればかりを考え過ごしたことがあった。
だがやがて、そんな男と恋に堕ち、二人は一生に一度と言われる恋愛を始めたが、暴漢に襲われた彼は、つくしのことだけを忘れ、この国を去っていった。
それから、彼がいなくなったあとの学園生活を、どう過ごしたのかよく覚えていない。
それなら何故、今こんなことを思うのか。
それは三条桜子から電話を受けたからだ。
「先輩。お久しぶりです。お元気ですか?」
丁寧で繊細な声で開口一番、そう言って話だした桜子は、少し固い口調だった。
「今、少し話しても大丈夫ですか?」
電話が掛かってきたのは、桜子が銀座で経営しているバーが開店する前の時間だ。
遅くまで開いているバーは、客足が途絶えたことがないと言われるほど繁盛しており、彼女はいつも忙しくしていた。
つくしは、開店前の忙しい時間にわざわざ電話をかけて来たのだから、急用なのだろうと察し、返事をした。
「桜子。開店前でしょ?忙しいんじゃない?あたしは大丈夫だけど、桜子はいいの?」
「ええ。大丈夫です。もう準備は終わりましたから」
受話器の向こうから聞こえてくる声は、一旦呼吸を整えるように黙った。
そして、思い切ったような口調で話しを継いだ。
「道明寺さんがお店にいらっしゃいました」
つくしが黙っていると、聞こえなかったのかと思ったのか、桜子はもう一度、名前を繰り返した。
「先輩?聞こえてます?道明寺さんです。道明寺さんがお見えになられたんです。それから名刺を置いていかれました。携帯電話の番号が書かれてます。・・・読み上げましょうか?」
最後のひと言は、迷いながら発せられた言葉だ。
そしてその瞬間、つくしの中に、長い間耳にすることがなかった声が甦っていた。
低く、優しい声で彼女の名前を呼んだ男の声が。
だが、つくしは、その声を頭の中で振り払い、遡ろうとしていた過去の記憶に蓋をした。
桜子は、黙り込んでしまったつくしに
「どうします?番号、言いましょうか?それとも名刺。送りましょうか?」
と言ったが、つくしがなおも黙ったままでいると
「もしもし?聞いてますか?」
と小声で囁いた。
それが二日前に掛かって来た電話だ。
つくしは、あの時、掠れた声しか出なかったが、名刺は送らなくていいと断った。
だが桜子は、つくしの言葉を聞かなかったとでもいうのか、名刺が送られて来た。
そして名刺一枚の為に、わざわざ宅配便を使うという念の入れようは、確実に受け取ったことを確認したい為だといったことが感じられ、彼女がいったいどういったつもりなのかと、思いあぐねていた。
上質な白い紙に印刷された肩書のない名前だけの名刺。
そしてその名前の下に走り書きされた携帯電話の番号。
桜子からの電話がなければ、そしてこの名刺をこうして手に取らなければ、彼のことを思い出すことはなかった。
いや、だがそれは嘘だ。雑誌や新聞記事でその名前を目にすることはあった。
決められたレールの上を走ることを始めた男は、自分に求められる義務と責任を果たしていた。そんな男の、経済人としての活躍は目覚ましく、持って生まれた地位と己が築いた業績が彼の凡庸ではない生き方を示していた。
そして、そんな様子を目にすれば、当時二人の間にあったことを順に思い出していた。
だが、そんなことを考えるだけ無駄だ、現実を見つめろと、自分自身に言い聞かせた日々があった。
そうだ。
二人はあのとき、別れたはずだ。
彼がひとりの少女の記憶を忘れ去った時に。
あれから17年という時間が流れ、あの頃の記憶に触れられるような特別な感情は、今はもうない。だが名刺を手にすれば、目に見えない何かを感じてしまうのは、仕方がないのだろうか。
にわかに出てきた風に、遠くの大陸から運ばれて来る冷たい空気が感じられ、まだコートを着ていないつくしの身体は思わず寒さに震えた。
つくしが、縁もゆかりもない日本海に面した北の国に移り住んで5年になる。
加賀百万石の城下町と言われる金沢。
そこが今のつくしが暮らす街だった。

にほんブログ村

応援有難うございます。
「ねえ、浅野君って絶対香織のことが好きよ」
「え~っ!!嘘!ショック!なんであんな女がいいのよ!美人でもないし地味だし、どこがいいんだか」
「何言ってんのよ。香織は頭がいいもの。やっぱ他人より何かひとつ抜きん出ているって凄いことなのよ?」
「でもさ、香織は地元の国立大学に進学するって言ってるし、浅野君って東京の大学目指してるんだよね?じゃあ、もし二人が付き合うとなると遠距離恋愛ってこと?」
「うん。でもそうなると難しんじゃない?やっぱり離れてると心も離れてくるんじゃない?それに浅野君も東京で新しい出会いがあるだろうし、いくら今、彼女のことが好きだって思っても人の心って変わるじゃない?」
「そうよね・・。東京に行けばもっと広い世界を知るんだし、浅野君みたいに頭が良かったら大学卒業したら海外とか行っちゃうかもね?」
「あ~、あり得るわね。だって浅野君って大きな夢があるって言ってたし、海外とかでバリバリ働いててもおかしくないよね?」
「そうよ!浅野君って文句なくかっこいいもん。背も高いし、外人の中にいても見劣りしないと思う!」
女子高校生のお喋りは、それからどこの店の何が美味しいといった話しに変わり、やがて自分達の将来の話へと変わっていった。
その声は、未来を語る少女のどこか夢見がちで、それでも現実を踏まえているようで、最近の高校生は随分と大人だと感じていた。
つくしは暫く二人の話に耳を傾けていたが、自分が降りるバス停が近づいてくると、誰かが押した降車ボタンの音に席を立った。
そして、彼らの横を通り過ぎるとき、二人にチラリと視線を向けたが、彼らの話の内容から受験生だと思っていたが、やはりその手には参考書が握られていた。
バスを降りた途端、前方から差し込む夕陽の眩しさに一瞬目を細め歩きだしたが、先ほどまで聞いていた女子高校生の会話に、つくしも丁度あの年頃、他愛もない話しに盛り上がったことがあったと、自分の学生時代を懐かしく思い出していた。
だが、あの二人のように純粋に学生生活を楽しめた時間は短かった。
そして彼女たちが交わしていた会話の中に、自分の姿を見たような気がしていた。
『美人でもないし地味だし、どこがいいんだか』
それは、当時高校生だったつくしに向かって放たれた言葉ではなかっただろうか。
つくしは、過去の記憶を紐解いていた。
あまり裕福と言えなかった生活のなか、親の求めに応じた形で進学した高校で、貧乏だと言われたが、何故か自分がそれほど貧しい生活をしていると感じることもなく、どちらかと言えば、そのことを当然として受け止め、卑屈になることもなく過ごしていた。
そんな彼女がよく言われたのが、貧乏なのが潔過ぎるといったことだ。
『貧乏が当たり前になると、貧乏だと思えなくなるんだな』
そんなことも言われたが、その通りではないかと思っていた。
つくしが進学した英徳学園は、日本の特権階級の最上段にいる人間の子弟が通う学園だ。
広大な敷地に、幼稚舎から大学まで、エスカレーター式に進んでいける私立の学園であり、求められるのは、経済状況と家柄であり、頭の良さや人間性は関係ないといっても過言ではなかったはずだ。
それならなぜ、つくしのような家庭環境で受け入れられたのか。
それは、成績が抜群によかったということ以外なく、求められたのは、その頭のよさだけだ。
つくしも、勿論そのつもりでいた。
いい成績を収め、奨学金で大学へ進学する。そのことを夢見ていた。
人生の目的のため、自分のすべきことをするだけ。そんな思いで高校での3年間が過ぎることだけを願っていた。
だから目立たない生徒でいたはずだ。
なのに、人生は分からないものだと、つくづく思った。
まさか、あの学園で自分の人生で一番大切になる人に出会うとは思わなかった。
道明寺司。
初恋ではなかったが、いつの間にか心が惹かれた人。
そして今では記憶の奥底へ沈めた人。
思えば、二人が一緒に過ごした時間は短く、その時間に青春の全てが凝縮されていたはずだ。
高校に入学して間もない頃、教室の窓から偶然見かけた彼は、他人にやさしい眼差しを向けたことがない、イラつきを背中にしょって歩いていると言われ、絶対に関わりたくない男だった。
闇の中に暮らす男だと言われ、彼に目を付けられた人間は、最終的に学園から去ることになる運命だと言われていた。そして下手をすれば、半殺しの目に合わされる。そんな言葉がまことしやかに囁かれていたが、それが真実であると知ったのは、自分が標的にされた時だった。
つくしは、道明寺司に目を付けられ、学園中から目の敵のようにいじめられた。
それなのに、そんな男からある日突然好きだと言われたことが、不思議でならなかった。
どうして自分なのか。そればかりを考え過ごしたことがあった。
だがやがて、そんな男と恋に堕ち、二人は一生に一度と言われる恋愛を始めたが、暴漢に襲われた彼は、つくしのことだけを忘れ、この国を去っていった。
それから、彼がいなくなったあとの学園生活を、どう過ごしたのかよく覚えていない。
それなら何故、今こんなことを思うのか。
それは三条桜子から電話を受けたからだ。
「先輩。お久しぶりです。お元気ですか?」
丁寧で繊細な声で開口一番、そう言って話だした桜子は、少し固い口調だった。
「今、少し話しても大丈夫ですか?」
電話が掛かってきたのは、桜子が銀座で経営しているバーが開店する前の時間だ。
遅くまで開いているバーは、客足が途絶えたことがないと言われるほど繁盛しており、彼女はいつも忙しくしていた。
つくしは、開店前の忙しい時間にわざわざ電話をかけて来たのだから、急用なのだろうと察し、返事をした。
「桜子。開店前でしょ?忙しいんじゃない?あたしは大丈夫だけど、桜子はいいの?」
「ええ。大丈夫です。もう準備は終わりましたから」
受話器の向こうから聞こえてくる声は、一旦呼吸を整えるように黙った。
そして、思い切ったような口調で話しを継いだ。
「道明寺さんがお店にいらっしゃいました」
つくしが黙っていると、聞こえなかったのかと思ったのか、桜子はもう一度、名前を繰り返した。
「先輩?聞こえてます?道明寺さんです。道明寺さんがお見えになられたんです。それから名刺を置いていかれました。携帯電話の番号が書かれてます。・・・読み上げましょうか?」
最後のひと言は、迷いながら発せられた言葉だ。
そしてその瞬間、つくしの中に、長い間耳にすることがなかった声が甦っていた。
低く、優しい声で彼女の名前を呼んだ男の声が。
だが、つくしは、その声を頭の中で振り払い、遡ろうとしていた過去の記憶に蓋をした。
桜子は、黙り込んでしまったつくしに
「どうします?番号、言いましょうか?それとも名刺。送りましょうか?」
と言ったが、つくしがなおも黙ったままでいると
「もしもし?聞いてますか?」
と小声で囁いた。
それが二日前に掛かって来た電話だ。
つくしは、あの時、掠れた声しか出なかったが、名刺は送らなくていいと断った。
だが桜子は、つくしの言葉を聞かなかったとでもいうのか、名刺が送られて来た。
そして名刺一枚の為に、わざわざ宅配便を使うという念の入れようは、確実に受け取ったことを確認したい為だといったことが感じられ、彼女がいったいどういったつもりなのかと、思いあぐねていた。
上質な白い紙に印刷された肩書のない名前だけの名刺。
そしてその名前の下に走り書きされた携帯電話の番号。
桜子からの電話がなければ、そしてこの名刺をこうして手に取らなければ、彼のことを思い出すことはなかった。
いや、だがそれは嘘だ。雑誌や新聞記事でその名前を目にすることはあった。
決められたレールの上を走ることを始めた男は、自分に求められる義務と責任を果たしていた。そんな男の、経済人としての活躍は目覚ましく、持って生まれた地位と己が築いた業績が彼の凡庸ではない生き方を示していた。
そして、そんな様子を目にすれば、当時二人の間にあったことを順に思い出していた。
だが、そんなことを考えるだけ無駄だ、現実を見つめろと、自分自身に言い聞かせた日々があった。
そうだ。
二人はあのとき、別れたはずだ。
彼がひとりの少女の記憶を忘れ去った時に。
あれから17年という時間が流れ、あの頃の記憶に触れられるような特別な感情は、今はもうない。だが名刺を手にすれば、目に見えない何かを感じてしまうのは、仕方がないのだろうか。
にわかに出てきた風に、遠くの大陸から運ばれて来る冷たい空気が感じられ、まだコートを着ていないつくしの身体は思わず寒さに震えた。
つくしが、縁もゆかりもない日本海に面した北の国に移り住んで5年になる。
加賀百万石の城下町と言われる金沢。
そこが今のつくしが暮らす街だった。

にほんブログ村

応援有難うございます。
Comment:4
つくしが金沢に暮らすようになったのは5年前。
きっかけは、この街に暮らす絵本作家の担当になったからだ。
奨学金を使い大学を卒業したつくしは、小さな出版社を就職先に選んだ。
何故その出版社を就職先に選んだか。
それは本屋で偶然手に取った一冊の絵本に惹かれたからだ。
絵本と言えば、どうしても子供が読む物と思ってしまうが、その絵本は子供が読むというよりも、大人が読むに値する内容が書かれていた。
しかし絵本は絵が主流であって、書かれた文章は短文な物が多く、大人が読めば1~2分もあれば簡単に読み終えてしまう。
だが、その絵本を読み終わったとき、胸に残るなんとも言えない温かさを感じ、再びその絵本の表紙を開いてしまっていた。
書かれているのは、命の大切さについてだったが、絵本を見て目頭が熱くなる。
そんな経験を今までしたことがなかったつくしは、絵本編集の仕事に就きたいと思った。
そして願いが叶い、入社して3年後、ひとりの女性絵本作家の担当を任されたが、その女性作家が金沢在住であり、そんなことから月に一度は金沢へ足を運んでいた。
その女性絵本作家は作も絵も両方を自分ひとりで描いていたが、それは大変な苦労があった。だがその作家は4年前、65歳で亡くなった。
それは丁度つくしが30歳の誕生日を迎えた翌日。
年の瀬の粉雪が舞う寒い日の朝だった。
癌だったが、宣告され、余命一年と言われたとき、つくしは身寄りの無いその女性の世話をしたいと、女性が亡くなる1年前、29歳の時この街へ住まいを移していた。
そして、その女性が亡くなった後、東京の出版社は退職し、この街で新しい就職先を見つけそのまま暮らしていた。
女性作家は最期を看取ってくれたつくしに絵を残してくれた。
それはキャンバスに描かれた油絵。
金沢の風景が描かれているものが数点。そしてつくしの肖像画だった。
風景絵画のひとつに、金沢の街を流れる川が描かれていたものがあった。
金沢という街には犀川と浅野川という二つの川が流れている。
犀川には「男川」浅野川には「女川」といった別名があるが、犀川は、水の量が豊かで勢いがあることから男川と呼ばれ、浅野川は、歩いて渡れそうなほど水の流れがゆっくりとしていることから女川と呼ばれ金沢市民に親しまれていた。
女性作家が残してくれた川の絵は、「女川」と呼ばれる浅野川の風景だった。
浅野川は、金沢を代表する伝統工芸品である加賀友禅を作る過程で行われる糊を洗い流す作業を行ってきた川だ。だが今ではその川で糊を流す友禅流しをする染色店は少ない。それでも、加賀友禅を制作するうえで欠かせない浅野川の清流。
その清流に感謝し、また加賀友禅に携わって来た故人を供養するため、毎年行われる加賀友禅燈ろう流しは一見の価値がある。
つくしはそんな浅野川の河畔を歩くのが好きだ。
特に大正時代に架けられ、国の登録有形文化財に指定されたアーチ橋である浅野川大橋の姿を眺め、その向うにある、ひがし茶屋街と呼ばれる金沢らしい地区があるが、移り住んだ頃から度々訪れていた。
東京で生まれ育ったつくしにとって、街の中を大きな川がゆったりと流れる姿は、憧憬を感じさせ、今まで嗅いだこともなかった川面を渡る風の匂いに、移り行く季節を肌で感じながら、何故か懐かしさを感じていた。それは、恐らくまだ幼かった頃、両親に連れられ父方の祖父母のいる田舎を訪ねたとき感じた懐かしさだと思っていた。
祖父母の住んでいたのは、小さな地方都市であり、街中を大きな川が流れ、遠くに山を眺めることができた。
そして、郊外には田んぼが広がり、カエルが鳴いていたと記憶していた。
既に他界してしまった祖父母は、つくし達が東京へ戻るとき、「またおいで」と言ってくれたが、交通費が掛かることもあり、そう何度も訪れることは無かったが、その街の匂いと金沢の街の匂いがどこか似ていると感じていた。
そして今まさに感じているのは、そんな匂いだ。
つくしはバスを降り、夕暮れ時が始まった街を歩きながら考えていた。
桜子から電話を受けたが、彼がNYから帰国したことが信じられなかったが、一時帰国だと思っていただけに、偶然手にした週刊誌に、道明寺司が生活の拠点を日本に移すと書かれた記事に悪い冗談のような気がしていた。
そして、あのとき桜子の口から語られた「道明寺さんの記憶は戻ってます」の言葉が頭の中でずっと回っていた。
つくしは自分に言い聞かせた。
記憶が戻ったからといって、どうしろというのか。
もう関係ないはずだ。二人はあの時別れた。記憶が戻ったからと会いに来られても困るが、携帯電話の番号を知ったところで電話を掛けることなどない。
あの日、つくしに向けられた切れ長の目の中に、激しい感情を見たが、その感情のうねりに愛情が感じられることはなく、憎しみが感じられた。そして眼元に浮かんだのは皮肉をこめた笑いだった。
あの時、どれくらい悲しんだか。
今はもう覚えて無かった。
いや、思い出すことはしなくなったといった方が正しいのかもしれない。
「 Time cures all things 」
時が全てを癒してくれる。
時薬(ときぐすり)、日にち薬といった言葉があるが、そうなのかもしれなかった。
過ぎてしまった想い出。今ならそう言える。
東京の記憶は東京に置いておくことがいいはずだ。
自宅マンションはバス停から歩いて15分の場所にある。
こうして考え事をするには、ちょうどいい距離と時間だと思う。
今日は帰りにスーパーに寄る必要はない。昨日のうちにカレーを作り置きしているからだ。
とは言え、サラダくらいは作ろうと思う。その為の材料が冷蔵庫にあることも確認済だ。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぐと、廊下の先にある部屋に急いだ。
そこはリビングダイニングルームだ。
手にした鞄を置き、カウンターで仕切られたキッチンへゆくと、壁のフックに掛けてあるエプロンを身に付けた。
そして、ソファに座る人物に声をかけた。
「ごめんね、少し遅くなっちゃった」

にほんブログ村

応援有難うございます。
きっかけは、この街に暮らす絵本作家の担当になったからだ。
奨学金を使い大学を卒業したつくしは、小さな出版社を就職先に選んだ。
何故その出版社を就職先に選んだか。
それは本屋で偶然手に取った一冊の絵本に惹かれたからだ。
絵本と言えば、どうしても子供が読む物と思ってしまうが、その絵本は子供が読むというよりも、大人が読むに値する内容が書かれていた。
しかし絵本は絵が主流であって、書かれた文章は短文な物が多く、大人が読めば1~2分もあれば簡単に読み終えてしまう。
だが、その絵本を読み終わったとき、胸に残るなんとも言えない温かさを感じ、再びその絵本の表紙を開いてしまっていた。
書かれているのは、命の大切さについてだったが、絵本を見て目頭が熱くなる。
そんな経験を今までしたことがなかったつくしは、絵本編集の仕事に就きたいと思った。
そして願いが叶い、入社して3年後、ひとりの女性絵本作家の担当を任されたが、その女性作家が金沢在住であり、そんなことから月に一度は金沢へ足を運んでいた。
その女性絵本作家は作も絵も両方を自分ひとりで描いていたが、それは大変な苦労があった。だがその作家は4年前、65歳で亡くなった。
それは丁度つくしが30歳の誕生日を迎えた翌日。
年の瀬の粉雪が舞う寒い日の朝だった。
癌だったが、宣告され、余命一年と言われたとき、つくしは身寄りの無いその女性の世話をしたいと、女性が亡くなる1年前、29歳の時この街へ住まいを移していた。
そして、その女性が亡くなった後、東京の出版社は退職し、この街で新しい就職先を見つけそのまま暮らしていた。
女性作家は最期を看取ってくれたつくしに絵を残してくれた。
それはキャンバスに描かれた油絵。
金沢の風景が描かれているものが数点。そしてつくしの肖像画だった。
風景絵画のひとつに、金沢の街を流れる川が描かれていたものがあった。
金沢という街には犀川と浅野川という二つの川が流れている。
犀川には「男川」浅野川には「女川」といった別名があるが、犀川は、水の量が豊かで勢いがあることから男川と呼ばれ、浅野川は、歩いて渡れそうなほど水の流れがゆっくりとしていることから女川と呼ばれ金沢市民に親しまれていた。
女性作家が残してくれた川の絵は、「女川」と呼ばれる浅野川の風景だった。
浅野川は、金沢を代表する伝統工芸品である加賀友禅を作る過程で行われる糊を洗い流す作業を行ってきた川だ。だが今ではその川で糊を流す友禅流しをする染色店は少ない。それでも、加賀友禅を制作するうえで欠かせない浅野川の清流。
その清流に感謝し、また加賀友禅に携わって来た故人を供養するため、毎年行われる加賀友禅燈ろう流しは一見の価値がある。
つくしはそんな浅野川の河畔を歩くのが好きだ。
特に大正時代に架けられ、国の登録有形文化財に指定されたアーチ橋である浅野川大橋の姿を眺め、その向うにある、ひがし茶屋街と呼ばれる金沢らしい地区があるが、移り住んだ頃から度々訪れていた。
東京で生まれ育ったつくしにとって、街の中を大きな川がゆったりと流れる姿は、憧憬を感じさせ、今まで嗅いだこともなかった川面を渡る風の匂いに、移り行く季節を肌で感じながら、何故か懐かしさを感じていた。それは、恐らくまだ幼かった頃、両親に連れられ父方の祖父母のいる田舎を訪ねたとき感じた懐かしさだと思っていた。
祖父母の住んでいたのは、小さな地方都市であり、街中を大きな川が流れ、遠くに山を眺めることができた。
そして、郊外には田んぼが広がり、カエルが鳴いていたと記憶していた。
既に他界してしまった祖父母は、つくし達が東京へ戻るとき、「またおいで」と言ってくれたが、交通費が掛かることもあり、そう何度も訪れることは無かったが、その街の匂いと金沢の街の匂いがどこか似ていると感じていた。
そして今まさに感じているのは、そんな匂いだ。
つくしはバスを降り、夕暮れ時が始まった街を歩きながら考えていた。
桜子から電話を受けたが、彼がNYから帰国したことが信じられなかったが、一時帰国だと思っていただけに、偶然手にした週刊誌に、道明寺司が生活の拠点を日本に移すと書かれた記事に悪い冗談のような気がしていた。
そして、あのとき桜子の口から語られた「道明寺さんの記憶は戻ってます」の言葉が頭の中でずっと回っていた。
つくしは自分に言い聞かせた。
記憶が戻ったからといって、どうしろというのか。
もう関係ないはずだ。二人はあの時別れた。記憶が戻ったからと会いに来られても困るが、携帯電話の番号を知ったところで電話を掛けることなどない。
あの日、つくしに向けられた切れ長の目の中に、激しい感情を見たが、その感情のうねりに愛情が感じられることはなく、憎しみが感じられた。そして眼元に浮かんだのは皮肉をこめた笑いだった。
あの時、どれくらい悲しんだか。
今はもう覚えて無かった。
いや、思い出すことはしなくなったといった方が正しいのかもしれない。
「 Time cures all things 」
時が全てを癒してくれる。
時薬(ときぐすり)、日にち薬といった言葉があるが、そうなのかもしれなかった。
過ぎてしまった想い出。今ならそう言える。
東京の記憶は東京に置いておくことがいいはずだ。
自宅マンションはバス停から歩いて15分の場所にある。
こうして考え事をするには、ちょうどいい距離と時間だと思う。
今日は帰りにスーパーに寄る必要はない。昨日のうちにカレーを作り置きしているからだ。
とは言え、サラダくらいは作ろうと思う。その為の材料が冷蔵庫にあることも確認済だ。
玄関の鍵を開け、靴を脱ぐと、廊下の先にある部屋に急いだ。
そこはリビングダイニングルームだ。
手にした鞄を置き、カウンターで仕切られたキッチンへゆくと、壁のフックに掛けてあるエプロンを身に付けた。
そして、ソファに座る人物に声をかけた。
「ごめんね、少し遅くなっちゃった」

にほんブログ村

応援有難うございます。
Comment:6
「おかえり。大丈夫だよ。そんなに遅い時間じゃないだろ?」
ソファに座った人物の視線が新聞から離れたのは、つくしの声が聞えたからだ。
「病院、どうだった?」
「ああ。相変らずだよ」
「そう・・・。でも調子はいいんでしょ?」
「うん。まあまあ・・ってところかな?」
つくしは、話をしながら、サラダを作るため、冷蔵庫からレタスやハムを取り出していた。
それからゆで卵を作ろうと湯を沸かし始めた。そして作り置きしていたカレーの入った鍋を同じように冷蔵庫から取り出すと火にかけた。炊飯器はタイマーでセットしてあり、既にご飯は炊き上がっていた。
「カレー、すぐ出来るからね」
「大丈夫だよ、そんなに急がなくても」
「でもほんとにすぐ出来るから」
そう言われた人物は、わかったよ、と笑いながら言って再び新聞に視線を落とした。
つくしは、2年前結婚した。
相手の男性は篠田雄一と言い、つくしより3歳上の37歳。
ほっそりとした体型に整った目鼻立ち。北陸の人間は男性でも色白なのが当たり前なのか、雄一も色白だ。
夫は、都内の一流大学の法学部を卒業し、弁理士資格を取得、大手メーカーの知的財産部を経て、金沢にいる兄が所長を務める篠田特許事務所へ入所した。
弁理士とは、特許権や意匠権、実用新案権や商標権などの知的財産権を取得したい人の為に、代理となり特許庁へ手続きを行うのが仕事だ。また、知的財産の専門家として知的財産権の取得についての相談を受け、自社製品を模倣された時の対策や、逆に他社の権利を侵害していないかの調査をする。例えば、これから申請しようとする商標が、既に登録されているものと類似していないかと調べたりするのだが、そうなると何千枚といった莫大な資料に目を通すこともある。
それは、出版社を退職後、普通のOLとして働き始めたつくしとは全く接点のない仕事だ。
実際二人が出会ったのは、市内にある画廊が開催した展覧会でのことだ。
絵本の仕事をしていたつくしは、絵に興味があった。そんなことから、足を運んだ画廊だったが、そこで夫となる雄一に話しかけられた。
決して怪しい者ではありませんと言い、仕事が弁理士であると告げられ、その仕事柄からくるものなのか、初めから真面目な声色で話しかけてきた。
つくしにしてみれば、ただ絵を見に来ただけで、買うつもりなどない。だが、雄一は事務所に飾る絵を探しに来たと言い、初対面のつくしに、あなたならどの絵が好きですか?と問いかけてきた。だがつくしは答えなかった。
その代わり、こう答えていた。
絵というのは、見る人間によって受け止め方が違います。
自分がいいと思った絵でも、他の人が見れば、そうは思わないことも多いはずです。
絵は見る側の人間が、その絵の中に、自分にしか感じられない特別なことがあることに気付いた時、その絵がいい絵だ、好きだと思えるんです。芸術というのは、そういったものではないですか?だから絵を見るのに他人の意見は関係ないと思いますよ?
どこか突き放したように答えた時、雄一の顔は、一見して大人しそうに見えるつくしから、まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのか、困惑ぎみに笑っていた。
それが、二人の始まりだった。
「何か手伝おうか?」
雄一は、そう言ってソファから立ち上がろうとした。
だがつくしは断った。
「うんうん。大丈夫。病院で疲れてるでしょ?休んでていいから」
夫は気持ちの優しい人だ。
それに仕事も真面目なら、人間も真面目だった。
そんな夫との関係は夫婦というよりも、相互依存といった形で成り立っているように思う。
だが考えてみれば、どこの夫婦もそういったものではないだろうか?
そして、二人とも恋や愛といったものに不器用な人間だ。
事実つくしに恋愛と呼べるものがあるとすれば、それは司とつき合った短い時間しかない。
つくしは、司に忘れ去られてから、学業、そして仕事に邁進して来た。
恋愛適齢期と言われる年齢でも、恋がしたいといった欲求が希薄だったのかもしれないが、一度簡単に忘れられるといった経験をすると、男女の間に揺るぎない愛情といったものが存在するのかと疑わしく思え、雄一と知り合うまで、男性と付き合ったことがなかった。
だが、友人である桜子の恋愛話を聞き、疑似体験をしたことはあった。
つくしが雄一に対しての感情は、初め無関心だったものが好感へと変わりはしたが、それは友人としての変化であり、あくまでも友人として信頼感を覚えていた。
だから結婚して欲しいと言われ、正直なところ困惑を隠せなかった。
それでも、自分を求めてくれる人がいることが、嬉しいと思える感情はあった。
けれど、あのとき心から愛した人は、つくしを忘れ、NYへ行ってしまった。
だが、自分の命が尽きる訳ではないのだから、いつまでも悲しんでいても仕方がない。
もし、どんなに洗っても取れないシミが心の中にあるとしても、そのシミを覆い隠せばいいはずだ。それにいつかは前を向いて歩いていかなければならない日が来る。だから雄一からプロポーズされたとき、このままずっとこの街に暮らす未来を考えてみた。
それでも、時に心の奥へ追いやっていた想いがフッと気まぐれに湧き上がって来たことがあった。
それが道明寺司のことだと分かっていたが、いつまでも彼のことを気にしても自分の為にはならないと、決断をした。
「ごめん、お待たせ」
つくしは温めたカレーとサラダを盆にのせ、ダイニングテーブルへと運んだ。
「だから、そんなに待ってないって言ってるだろ?」
確かに卵を茹で、殻を剥き、レタスやハム、トマトといった食材と皿に盛りつけるのに、さして時間は掛からなかったが、やはり目の前で待たれれば、そう口にしてしまうのが人間だ。
「さっき読んでた新聞にも載ってたけど、道明寺HDの副社長って日本に帰って来たんだな。あそこの知的財産部に大学時代の友人がいるけど、やり手副社長の帰国で日本支社は身の引き締まる思いなんじゃないか?」
ソファから立ち上がった雄一がダイニングテーブルに着き、放った言葉につくしの視線が揺れた。
「そういえば、君も英徳学園出身だったよな?学年はひとつ違いだとしても見た事くらいあるんだろ?道明寺司って言えば、道明寺財閥の跡取りで次期社長。凄いよな。そんな男と同じ学園にいたなんて」
確かにそんな男と同じ学園にいた。
そしてその人と恋をした。一生に一度あるかないかといった恋を。
だから、それから誰とも恋をしたことがなかった。
そして夫となった雄一とも恋には堕ちなかった。
それでも彼とこうして暮らしていた。
雄一は、いただきますと言ってスプーンを手に取り、カレーを口に運んでいるが、品の悪さを微塵も感じさせない食べ方と、伏せられた睫毛の長さに、つくしは同じような食べ方をしていた人物を思い出していた。
「・・ゴホッ・・ゴメン、水を・・」
「ごめん!すぐ用意するから!」
ぼんやりとしていたつくしは、水を出すのを忘れていたことに気付き、慌てて立ち上がった。そして食器棚へ駆け寄りグラスを掴み、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、グラスに注いだ。
「大丈夫?ねえ、今日は早く横になった方がいいわ。病院で疲れたんでしょ?」
「・・だ、大丈夫だよ。君の作ったカレーはちゃんと食べるから」
雄一は差し出された水を飲み、それからひと呼吸置き、再びスプーンでカレーを掬った。
「無理しないでいいのよ?」
「いや。・・大丈夫だ。本当に・・」
だがそうは言っても大丈夫そうには見えず、つくしは心を痛めていた。
そして一瞬でも夫の仕草があの人の姿に見えてしまったことが、まだ道明寺司のことを忘れられずにいるのだと感じていた。
それはまさに、桜子から送られてきた名刺を捨てることも、燃やすことも出来ないことが示しているではないか。
送られて来た名刺が、静けさを取り戻していた心に小さな波を立てていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
ソファに座った人物の視線が新聞から離れたのは、つくしの声が聞えたからだ。
「病院、どうだった?」
「ああ。相変らずだよ」
「そう・・・。でも調子はいいんでしょ?」
「うん。まあまあ・・ってところかな?」
つくしは、話をしながら、サラダを作るため、冷蔵庫からレタスやハムを取り出していた。
それからゆで卵を作ろうと湯を沸かし始めた。そして作り置きしていたカレーの入った鍋を同じように冷蔵庫から取り出すと火にかけた。炊飯器はタイマーでセットしてあり、既にご飯は炊き上がっていた。
「カレー、すぐ出来るからね」
「大丈夫だよ、そんなに急がなくても」
「でもほんとにすぐ出来るから」
そう言われた人物は、わかったよ、と笑いながら言って再び新聞に視線を落とした。
つくしは、2年前結婚した。
相手の男性は篠田雄一と言い、つくしより3歳上の37歳。
ほっそりとした体型に整った目鼻立ち。北陸の人間は男性でも色白なのが当たり前なのか、雄一も色白だ。
夫は、都内の一流大学の法学部を卒業し、弁理士資格を取得、大手メーカーの知的財産部を経て、金沢にいる兄が所長を務める篠田特許事務所へ入所した。
弁理士とは、特許権や意匠権、実用新案権や商標権などの知的財産権を取得したい人の為に、代理となり特許庁へ手続きを行うのが仕事だ。また、知的財産の専門家として知的財産権の取得についての相談を受け、自社製品を模倣された時の対策や、逆に他社の権利を侵害していないかの調査をする。例えば、これから申請しようとする商標が、既に登録されているものと類似していないかと調べたりするのだが、そうなると何千枚といった莫大な資料に目を通すこともある。
それは、出版社を退職後、普通のOLとして働き始めたつくしとは全く接点のない仕事だ。
実際二人が出会ったのは、市内にある画廊が開催した展覧会でのことだ。
絵本の仕事をしていたつくしは、絵に興味があった。そんなことから、足を運んだ画廊だったが、そこで夫となる雄一に話しかけられた。
決して怪しい者ではありませんと言い、仕事が弁理士であると告げられ、その仕事柄からくるものなのか、初めから真面目な声色で話しかけてきた。
つくしにしてみれば、ただ絵を見に来ただけで、買うつもりなどない。だが、雄一は事務所に飾る絵を探しに来たと言い、初対面のつくしに、あなたならどの絵が好きですか?と問いかけてきた。だがつくしは答えなかった。
その代わり、こう答えていた。
絵というのは、見る人間によって受け止め方が違います。
自分がいいと思った絵でも、他の人が見れば、そうは思わないことも多いはずです。
絵は見る側の人間が、その絵の中に、自分にしか感じられない特別なことがあることに気付いた時、その絵がいい絵だ、好きだと思えるんです。芸術というのは、そういったものではないですか?だから絵を見るのに他人の意見は関係ないと思いますよ?
どこか突き放したように答えた時、雄一の顔は、一見して大人しそうに見えるつくしから、まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのか、困惑ぎみに笑っていた。
それが、二人の始まりだった。
「何か手伝おうか?」
雄一は、そう言ってソファから立ち上がろうとした。
だがつくしは断った。
「うんうん。大丈夫。病院で疲れてるでしょ?休んでていいから」
夫は気持ちの優しい人だ。
それに仕事も真面目なら、人間も真面目だった。
そんな夫との関係は夫婦というよりも、相互依存といった形で成り立っているように思う。
だが考えてみれば、どこの夫婦もそういったものではないだろうか?
そして、二人とも恋や愛といったものに不器用な人間だ。
事実つくしに恋愛と呼べるものがあるとすれば、それは司とつき合った短い時間しかない。
つくしは、司に忘れ去られてから、学業、そして仕事に邁進して来た。
恋愛適齢期と言われる年齢でも、恋がしたいといった欲求が希薄だったのかもしれないが、一度簡単に忘れられるといった経験をすると、男女の間に揺るぎない愛情といったものが存在するのかと疑わしく思え、雄一と知り合うまで、男性と付き合ったことがなかった。
だが、友人である桜子の恋愛話を聞き、疑似体験をしたことはあった。
つくしが雄一に対しての感情は、初め無関心だったものが好感へと変わりはしたが、それは友人としての変化であり、あくまでも友人として信頼感を覚えていた。
だから結婚して欲しいと言われ、正直なところ困惑を隠せなかった。
それでも、自分を求めてくれる人がいることが、嬉しいと思える感情はあった。
けれど、あのとき心から愛した人は、つくしを忘れ、NYへ行ってしまった。
だが、自分の命が尽きる訳ではないのだから、いつまでも悲しんでいても仕方がない。
もし、どんなに洗っても取れないシミが心の中にあるとしても、そのシミを覆い隠せばいいはずだ。それにいつかは前を向いて歩いていかなければならない日が来る。だから雄一からプロポーズされたとき、このままずっとこの街に暮らす未来を考えてみた。
それでも、時に心の奥へ追いやっていた想いがフッと気まぐれに湧き上がって来たことがあった。
それが道明寺司のことだと分かっていたが、いつまでも彼のことを気にしても自分の為にはならないと、決断をした。
「ごめん、お待たせ」
つくしは温めたカレーとサラダを盆にのせ、ダイニングテーブルへと運んだ。
「だから、そんなに待ってないって言ってるだろ?」
確かに卵を茹で、殻を剥き、レタスやハム、トマトといった食材と皿に盛りつけるのに、さして時間は掛からなかったが、やはり目の前で待たれれば、そう口にしてしまうのが人間だ。
「さっき読んでた新聞にも載ってたけど、道明寺HDの副社長って日本に帰って来たんだな。あそこの知的財産部に大学時代の友人がいるけど、やり手副社長の帰国で日本支社は身の引き締まる思いなんじゃないか?」
ソファから立ち上がった雄一がダイニングテーブルに着き、放った言葉につくしの視線が揺れた。
「そういえば、君も英徳学園出身だったよな?学年はひとつ違いだとしても見た事くらいあるんだろ?道明寺司って言えば、道明寺財閥の跡取りで次期社長。凄いよな。そんな男と同じ学園にいたなんて」
確かにそんな男と同じ学園にいた。
そしてその人と恋をした。一生に一度あるかないかといった恋を。
だから、それから誰とも恋をしたことがなかった。
そして夫となった雄一とも恋には堕ちなかった。
それでも彼とこうして暮らしていた。
雄一は、いただきますと言ってスプーンを手に取り、カレーを口に運んでいるが、品の悪さを微塵も感じさせない食べ方と、伏せられた睫毛の長さに、つくしは同じような食べ方をしていた人物を思い出していた。
「・・ゴホッ・・ゴメン、水を・・」
「ごめん!すぐ用意するから!」
ぼんやりとしていたつくしは、水を出すのを忘れていたことに気付き、慌てて立ち上がった。そして食器棚へ駆け寄りグラスを掴み、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、グラスに注いだ。
「大丈夫?ねえ、今日は早く横になった方がいいわ。病院で疲れたんでしょ?」
「・・だ、大丈夫だよ。君の作ったカレーはちゃんと食べるから」
雄一は差し出された水を飲み、それからひと呼吸置き、再びスプーンでカレーを掬った。
「無理しないでいいのよ?」
「いや。・・大丈夫だ。本当に・・」
だがそうは言っても大丈夫そうには見えず、つくしは心を痛めていた。
そして一瞬でも夫の仕草があの人の姿に見えてしまったことが、まだ道明寺司のことを忘れられずにいるのだと感じていた。
それはまさに、桜子から送られてきた名刺を捨てることも、燃やすことも出来ないことが示しているではないか。
送られて来た名刺が、静けさを取り戻していた心に小さな波を立てていた。

にほんブログ村

応援有難うございます。
Comment:10