「バ、バイトの募集ですか?」
「ああ。店の表に貼ってあるだろ?まだ募集してんのか?」
「え?ええ…まだ募集中ですが…あの….あなたが…..うちでアルバイトですか?」
「ああ。そのつもりだが悪いか?」
司の問いかけに答えたのは牧野つくしの向う側にいる女性。
アルバイトをしたいと現れた男に、しどろもどろになりながら答えるのは、彼がアルバイトとはかけ離れた生活を送っている人物だと知っているからだ。
つまりそれは、司のことを知っているということだ。
そして道明寺HDの副社長がなぜ庶民が利用するような小さなパン屋を尋ねて来たのか。
なぜアルバイトに興味を持ったのか。
半信半疑といった口調でバイトをするのかと尋ねた女性は、男の言葉にどう答えればいいのか考えあぐねているのが分かった。
だがその時、司の前で動くことなくじっとしている女は、間違いなく緊張した姿勢で目の前に立つ男を見つめていた。
「牧野先輩?明日なんですけど、老人ホームから頼まれてるパンは何時に焼き上がればいいんでしたっけ?」
そう言って調理場から出て来たのは、つくしの後輩にあたる四つ年下のパン職人の山下由香利。
23歳の由香利は高校を卒業後、料理の専門学校を卒業し、大手のベーカリーで働いていたが、午前2時から出勤という激務から解放されたいとその会社を辞めた。
それは丁度高齢の店主がパンを捏ねる作業が負担になりはじめた頃で、誰か雇おうと職安に出した求人に応募して来たのが彼女だった。
そして1年前このパン屋に就職した。
そんな彼女が店先に見たのは、いつもなら先輩パン職人の牧野つくしとパートの女性の二人だけのはずだが、そこに1人の男性がいることに気付いた。
男性は背が高く、髪の毛に特徴がありモデルのようなという形容詞だけでは言葉として不十分な美貌を持つ男性。広い肩を包み込む濃紺のスーツは、誰が見ても吊るしなどではなく一流テイラーの仕立てだと分かるもの。そして近寄りがたいオーラが感じられるが、それは超一流と呼ばれる人間だけが持つ不可侵性。
もし誰かが断りもなく男性に近寄ろうとすれば、その身体が一刀両断されてもおかしくはない雰囲気があった。
その男性の傍にいることが出来るのは、彼が心から信頼した人間だけ。心を許した僅かな人間だけだ。だが遠くから見惚れることなら許されるはずだ。
そして由香利はそんな男を知っていた。
「…..え?嘘!なんで?どうして道明寺司がここにいるの?なんで?え?なんで?パン買いに来たの?え?嘘!まさか信じられない!どうしよう!うちの店に道明寺司がいる!嘘みたいにカッコいい….あのあたし英徳じゃなかったけどF4のファンだったんです!それも道明寺つか…いえ、道明寺さんの大ファンだったです!嘘みたい!でも本物ですよね?道明寺さんですよね?やだどうしよう!どうしたらいいの!?」
由香利の声は若い女性独特の高い声で興奮していたが、それでも店の入口に佇む男の視線は彼女に向けられることはなかった。
その視線は彼の真正面で微動だにしない女性に向けられていた。と、そのことに気付いた由香利は、男が閉店後の店に駆け込みでパンを買いに来たのではないことを理解した。
それは、自分がひとしきりはしゃぎ終えると、その場の空気がピンと張りつめていることを感じたからだ。そして男の視線がひとりの女性に定められたまま全く動こうとしないこともだが、見つめられている女性の表情が、いつもの彼女の表情ではないと分かったからだ。
それはいつもの明朗さといったものはなく、動揺と困惑が一緒になった顔。美人というよりも可愛らしいという言葉が似合う顔はいつも笑顔を浮かべていたから、由香利は今まで見たこともない表情を浮かべたつくしが心配になった。
「あの…..どうしたんですか?牧野先輩?」
由香利は男の視線が向けられたつくしに訊いたが返事はなかった。
「ゆ、由香利ちゃん。ここはいいからあっちに行きましょう?裏で手伝って欲しいことがあるの。ほら、お客さんにプレゼントしようと思って焼いたクッキーがあるじゃない?由香利ちゃんが焼いてくれたあのクッキー。あれね。ひと袋に何個くらい入れたらいいと思う?あたし迷っちゃって相談しようと思ったの。だから今からいい?いいわよね?」
と言ったパートの女性は由香利よりも一回りも年上だけのことはあり、断固たる声色で有無を言わせない強さがあった。彼女は男が視線をじっとひとりの女性に向けていることの意味を察していた。だから由香利をこの場所から連れ出そうとしていた。
「え?で、でも牧野先輩?え?あの….」
ちょっときょとんとした表情を浮かべた由香利はつくしの方へ視線を動かした。
「由香利ちゃん。あのね、こちらの方は牧野さんのお客様みたいなの。だから向うへ行きましょう?明日の老人ホームのパンは…..ええっと….10時までに届ければいいの。だからそんなに急がないから大丈夫。ね?あっちに行きましょう?」
由香利は束の間逡巡したが、そう言われ返事をする間もなく腕を引っ張られ扉の向うへ連れて行かれた。
そして扉がバタンと音を立て閉められると、店の中にはふたりの人間が残された。
騒々しさが去った後の静けさというのは、息詰まるような重苦しさが感じられた。
そして急に静まり返った店の中は、さほど広くなく、どちらかと言えば狭い方だ。
そんな空間に閉じ込められた訳ではないが、まるで密室の中にいるように感じられたのは司だ。
それは自身が緊張していることもだが、彼女の沈黙が怖かった。
何か言って欲しいと思った。だが、口を開かなければならないのは自分であり、謝らなければならないことがあるはずだ。だからなんとか口を開いた。
「…..牧野」
掠れた声しか出なかった。
本人に向かってそう呼んだのは、南の島で二人にとっての初めての夜を過ごし船が港に着いたとき以来だ。
牧野行くぞ、と手を伸ばした瞬間が最後だった。
だが差し出された手を掴むことは無かった。
あれから10年。その名前を口にすることは無かったが、彼女のことを思い出した瞬間、圧倒的な強さでのしかかってきた忘却という罪の重さにそれまで過ごした10年という時間が、世界が一変した。そして怒涛のように押し寄せて来た後悔に心臓が凍りついた。
それは彼女に対し行った己の言動に対しての嫌悪。
司が始めて好きになった女性だった。
地獄の果てまで追いかけると言った女性だった。
だが拒絶した。見下した。罵倒した。
そんな男は、大バカ野郎の自分が彼女に対し取り返しのない行動を取ったことを許してもらうためには何をすればいいのか。
そしていつもなら言葉を選ぶことなどないが、今は選ばなければならないはずだ。
だから言葉が出なかった。だが彼女のことはあの頃と変わらず好きだ。
いや。あの頃以上に好きだ。それは10年間心の奥にあった潜在的な思い。それが10年経って甦った。
「…牧野、俺は_」
「道明寺。冗談は止めて。アルバイトしたいだなんて下手な嘘をつかないでくれる?それから….いったいあたしに何の用があるのか知らないけど用があるなら早く言って」

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「え?ええ…まだ募集中ですが…あの….あなたが…..うちでアルバイトですか?」
「ああ。そのつもりだが悪いか?」
司の問いかけに答えたのは牧野つくしの向う側にいる女性。
アルバイトをしたいと現れた男に、しどろもどろになりながら答えるのは、彼がアルバイトとはかけ離れた生活を送っている人物だと知っているからだ。
つまりそれは、司のことを知っているということだ。
そして道明寺HDの副社長がなぜ庶民が利用するような小さなパン屋を尋ねて来たのか。
なぜアルバイトに興味を持ったのか。
半信半疑といった口調でバイトをするのかと尋ねた女性は、男の言葉にどう答えればいいのか考えあぐねているのが分かった。
だがその時、司の前で動くことなくじっとしている女は、間違いなく緊張した姿勢で目の前に立つ男を見つめていた。
「牧野先輩?明日なんですけど、老人ホームから頼まれてるパンは何時に焼き上がればいいんでしたっけ?」
そう言って調理場から出て来たのは、つくしの後輩にあたる四つ年下のパン職人の山下由香利。
23歳の由香利は高校を卒業後、料理の専門学校を卒業し、大手のベーカリーで働いていたが、午前2時から出勤という激務から解放されたいとその会社を辞めた。
それは丁度高齢の店主がパンを捏ねる作業が負担になりはじめた頃で、誰か雇おうと職安に出した求人に応募して来たのが彼女だった。
そして1年前このパン屋に就職した。
そんな彼女が店先に見たのは、いつもなら先輩パン職人の牧野つくしとパートの女性の二人だけのはずだが、そこに1人の男性がいることに気付いた。
男性は背が高く、髪の毛に特徴がありモデルのようなという形容詞だけでは言葉として不十分な美貌を持つ男性。広い肩を包み込む濃紺のスーツは、誰が見ても吊るしなどではなく一流テイラーの仕立てだと分かるもの。そして近寄りがたいオーラが感じられるが、それは超一流と呼ばれる人間だけが持つ不可侵性。
もし誰かが断りもなく男性に近寄ろうとすれば、その身体が一刀両断されてもおかしくはない雰囲気があった。
その男性の傍にいることが出来るのは、彼が心から信頼した人間だけ。心を許した僅かな人間だけだ。だが遠くから見惚れることなら許されるはずだ。
そして由香利はそんな男を知っていた。
「…..え?嘘!なんで?どうして道明寺司がここにいるの?なんで?え?なんで?パン買いに来たの?え?嘘!まさか信じられない!どうしよう!うちの店に道明寺司がいる!嘘みたいにカッコいい….あのあたし英徳じゃなかったけどF4のファンだったんです!それも道明寺つか…いえ、道明寺さんの大ファンだったです!嘘みたい!でも本物ですよね?道明寺さんですよね?やだどうしよう!どうしたらいいの!?」
由香利の声は若い女性独特の高い声で興奮していたが、それでも店の入口に佇む男の視線は彼女に向けられることはなかった。
その視線は彼の真正面で微動だにしない女性に向けられていた。と、そのことに気付いた由香利は、男が閉店後の店に駆け込みでパンを買いに来たのではないことを理解した。
それは、自分がひとしきりはしゃぎ終えると、その場の空気がピンと張りつめていることを感じたからだ。そして男の視線がひとりの女性に定められたまま全く動こうとしないこともだが、見つめられている女性の表情が、いつもの彼女の表情ではないと分かったからだ。
それはいつもの明朗さといったものはなく、動揺と困惑が一緒になった顔。美人というよりも可愛らしいという言葉が似合う顔はいつも笑顔を浮かべていたから、由香利は今まで見たこともない表情を浮かべたつくしが心配になった。
「あの…..どうしたんですか?牧野先輩?」
由香利は男の視線が向けられたつくしに訊いたが返事はなかった。
「ゆ、由香利ちゃん。ここはいいからあっちに行きましょう?裏で手伝って欲しいことがあるの。ほら、お客さんにプレゼントしようと思って焼いたクッキーがあるじゃない?由香利ちゃんが焼いてくれたあのクッキー。あれね。ひと袋に何個くらい入れたらいいと思う?あたし迷っちゃって相談しようと思ったの。だから今からいい?いいわよね?」
と言ったパートの女性は由香利よりも一回りも年上だけのことはあり、断固たる声色で有無を言わせない強さがあった。彼女は男が視線をじっとひとりの女性に向けていることの意味を察していた。だから由香利をこの場所から連れ出そうとしていた。
「え?で、でも牧野先輩?え?あの….」
ちょっときょとんとした表情を浮かべた由香利はつくしの方へ視線を動かした。
「由香利ちゃん。あのね、こちらの方は牧野さんのお客様みたいなの。だから向うへ行きましょう?明日の老人ホームのパンは…..ええっと….10時までに届ければいいの。だからそんなに急がないから大丈夫。ね?あっちに行きましょう?」
由香利は束の間逡巡したが、そう言われ返事をする間もなく腕を引っ張られ扉の向うへ連れて行かれた。
そして扉がバタンと音を立て閉められると、店の中にはふたりの人間が残された。
騒々しさが去った後の静けさというのは、息詰まるような重苦しさが感じられた。
そして急に静まり返った店の中は、さほど広くなく、どちらかと言えば狭い方だ。
そんな空間に閉じ込められた訳ではないが、まるで密室の中にいるように感じられたのは司だ。
それは自身が緊張していることもだが、彼女の沈黙が怖かった。
何か言って欲しいと思った。だが、口を開かなければならないのは自分であり、謝らなければならないことがあるはずだ。だからなんとか口を開いた。
「…..牧野」
掠れた声しか出なかった。
本人に向かってそう呼んだのは、南の島で二人にとっての初めての夜を過ごし船が港に着いたとき以来だ。
牧野行くぞ、と手を伸ばした瞬間が最後だった。
だが差し出された手を掴むことは無かった。
あれから10年。その名前を口にすることは無かったが、彼女のことを思い出した瞬間、圧倒的な強さでのしかかってきた忘却という罪の重さにそれまで過ごした10年という時間が、世界が一変した。そして怒涛のように押し寄せて来た後悔に心臓が凍りついた。
それは彼女に対し行った己の言動に対しての嫌悪。
司が始めて好きになった女性だった。
地獄の果てまで追いかけると言った女性だった。
だが拒絶した。見下した。罵倒した。
そんな男は、大バカ野郎の自分が彼女に対し取り返しのない行動を取ったことを許してもらうためには何をすればいいのか。
そしていつもなら言葉を選ぶことなどないが、今は選ばなければならないはずだ。
だから言葉が出なかった。だが彼女のことはあの頃と変わらず好きだ。
いや。あの頃以上に好きだ。それは10年間心の奥にあった潜在的な思い。それが10年経って甦った。
「…牧野、俺は_」
「道明寺。冗談は止めて。アルバイトしたいだなんて下手な嘘をつかないでくれる?それから….いったいあたしに何の用があるのか知らないけど用があるなら早く言って」

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司*****E様
おはようございます^^
ついに二人のご対面!(笑)
司がバイトなんてするはずないと思いながらも声を掛けるパートの女性。
そして年下の若い由香利は司にキャーキャー(≧▽≦)
街の小さなパン屋に司が現れたらそれはもう驚きますよね?
それでもバケットを抱えて歩く姿は様になりそうですね?
さ、司。覚悟を決めて、つくしに詫びましょう(笑)そして自分の気持を素直に伝えましょう!
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
ついに二人のご対面!(笑)
司がバイトなんてするはずないと思いながらも声を掛けるパートの女性。
そして年下の若い由香利は司にキャーキャー(≧▽≦)
街の小さなパン屋に司が現れたらそれはもう驚きますよね?
それでもバケットを抱えて歩く姿は様になりそうですね?
さ、司。覚悟を決めて、つくしに詫びましょう(笑)そして自分の気持を素直に伝えましょう!
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.04.10 22:46 | 編集

み***ん様
おはようございます^^
あの男の子は、パートの女性の子供なのか?
え~。どうなんでしょう(笑)
そして司がバイトをする!?(笑)
そうですよね。考えられませんよね?
突然現れた司に心が動揺するつくし。彼女の思いは...。
え?このお店はどうなっているのかですか?
街の小さなパン屋で、今は高齢夫婦の夫がオーナーで妻が手伝い。
つくしと、パートの30代女性と23歳の山下由香利で切り盛りしております!え?そう言うことではない?(笑)
コメント有難うございました^^
おはようございます^^
あの男の子は、パートの女性の子供なのか?
え~。どうなんでしょう(笑)
そして司がバイトをする!?(笑)
そうですよね。考えられませんよね?
突然現れた司に心が動揺するつくし。彼女の思いは...。
え?このお店はどうなっているのかですか?
街の小さなパン屋で、今は高齢夫婦の夫がオーナーで妻が手伝い。
つくしと、パートの30代女性と23歳の山下由香利で切り盛りしております!え?そう言うことではない?(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2018.04.10 22:57 | 編集
