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2017
12.05

恋におちる確率 21

「副社長?・・道明寺副社長?」

つくしが足を踏み入れた部屋に男の姿は無かった。
広いペントハウスの中、間取りなど知らないつくしが知るのはこの黒い部屋だけで、他にどこにどんな部屋があるのか知らないのだから名前を呼ぶしかない。

何故なら勝手に扉を開け、プライバシーの侵害といったことを言われたくはないからだ。
それにもし誰かがいたとすれば、それこそどう対処すればいいか分からないからだ。
それはつまり女性の存在といったことだ。だが玄関に靴はなかった。

すると少したって再び聞えた声は、すぐ傍にある扉の向うから聞こえて来た。
つくしは軽くノックをし、ドアノブを回した。そこは広いダイニングルームとキッチン。
そして先程鼻をかすめた香りはそこからしていたのだと分かった。
それはコーヒーの香り。いつもつくしが会社で副社長である道明寺司のために淹れている豆の香りと同じだ。

いくらお金がかかっているのか想像すら出来ないほどのペントハウスは、どこもかしこも高級な造りなのは分かるが、ぐるりと見回した広々とした部屋の基調色は黒であり、一度も使われたことがないようなダイニングテーブルと椅子がある。

やはりどちらも黒のそれは、比するものない存在感といったものが感じられた。ここで綺麗にセッティングされた皿が並べば、さぞかし見栄えがするはすだと思うが、副社長であるあの男が、ここで料理を食べることなどないはずだ。

そして、この部屋の空気はモダンというのか、冷たいというのか、どちらにしても道明寺司のイメージとしてはピッタリなのだが、おおよそ使われたことのない家具はまさにオブジェとしての意味しかなさないはずだ。

そしてその向うに見えるやはり黒いキッチン。
黒いキッチンなど見た事がないつくしは、これでは汚れが目立ってしょうがない。掃除はこまめにしなければみっともない。そんなことが頭を過るが、そのスペースに立つバスローブ姿の人物を認識すると口を開いた。

「道明寺副社長?」

そこに立っていた男は、左手を右手で押さえているが、その手に当てられた白い布が赤く染まっているのが見えた。

「副社長!?」

つくしは鞄を置き、数歩足を踏み出したところで止められた。

「それ以上来るな。床が濡れてる。それにカップの破片が飛んでいるはずだ。怪我をする」

「・・え?」

一瞬理解できなかった言葉の意味。
少しだけ近づき床を見れば、砕け散った磁器の欠片がそこかしこにあることに気付く。

「ああ・・カップを落した。それを掴んで切っちまった。・・お前、スリッパはどうした?」

近寄ろうとしたつくしの脚は、薄いストッキングだけの状態だ。確かにその脚で近寄れば濡れるだろう。そして床に落ちたカップの破片を踏みつけることになるはずだ。

「スリッパですか?」

「ああ。玄関のどっかにあるはずだ。履いて来い。それからここに来てくれ」

「わ、分かりました」

つくしは、急いで踵を返し長い廊下の先にある玄関へと急いだ。







司は普通の声で軽く声をかけたつもりだった。
だが実際は痛みで手が疼いていた。その感情が顔に過ったのか。女は言われたことをするため慌てた様子で廊下へと走り出ていった。

今朝は珍しくコーヒーが飲みたくなり、キッチンに立った。
そこには、水が一滴も流れたことがないのではないかと思われる輝きを持ったシンクがある。そして大型の冷蔵庫があるが、中は邸から通いの使用人が補充する飲み物が置かれているだけで、食べ物といったものはない。だがコーヒーに拘りがある主のため、いつでも飲めるようにと、司の好みに挽かれた豆が常に新鮮な状態で置かれていた。

そんな豆でコーヒーを淹れる気になったのは、随分と久し振りのことだ。
司は自分でコーヒーを淹れることが出来る。それだけは彼がキッチンで出来る唯一のことだ。
だが、その時ふと頭を過ったのは、料理が趣味だという新堂巧のことだ。

いつもなら会社で出されるコーヒーで十分だった。
だが昨夜はあきらと遅くまで飲んでいた。だが決して飲み過ぎた訳でも、ましてや酔った訳でもない。ただ出社前に少し頭をクリアにしておく必要があった。いや、厳密に言えば、牧野つくしが迎えに来るまでに頭をすっきりさせておく必要があった。
だから迎えの時間も近かったが、シャワーを浴びると、キッチンに立った。
そして真夜中だが明け方だか、その時あきらの言った言葉が甦り手元が狂った。
そこに丁度チャイムの音がした。







「司。それはお前、新堂巧に牽制されたってことだ」

「どういう意味だ?」

「だから、お前・・」

司は業務提携契約調印式の後、新堂巧が応接室で取った行動をあきらに話した。
それを聞いたあきらは大きなため息と共に言葉を吐き出した。

「お前は身体中を駆け巡る衝動っての感じたことはないのか?いや・・ねぇよな。お前が衝動的に何かしたことがあるって言えば、ガキの頃、気に入らねぇ男を突然ぶん殴ったことぐれぇだな」

呆れたように話されるあきらの言葉は、そこから先は諭すように語られた。

「いいか司。お前が俺に話した新堂巧の態度は、天上の誰かに牧野つくしと恋をしろって囁かれたってことだ。人はな、神の存在を信じる者とそうじゃねぇ者がいるが、新堂巧は信じる者は救われるじゃねぇけど、天の配剤を受けたって言ったんだろ?それは牧野つくしに一目惚れしたってことが、神の啓示だって受け取ったってことだ。だからその男は、自分の気持ちを正直に伝えただけだ。目の前に対象者である牧野つくしが現れたらその気持ちを止められねぇってことで、調印式の後、彼女に自分の思いを伝えたってことだ」

「けど、なんで俺にまで自分の気持ちを伝える必要がある?」

「なんでって。おまえな。小学生じゃあるまいし、自分の気持ちってのが分るだろ?それともアレか?お前は女とは遊びだけの関係しか持たなかったから、女を好きになる気持ちってのが分んねぇってことか?・・・まあ仕方ねぇって言えばそうだよな。何しろお前は何もしなくても女が寄ってくる男だ。それに俺みたいに、かりそめでもいいから恋を楽しむってこともねぇもんな。そんなお前が人を好きになるって気持ちを理解しろって言われても今更困るよな・・・」

あきらは人妻以外とは付き合わない男だが、男と女の役割といったものを心得ている。
それがアバンチュールと言われても、その恋を楽しむことをしている。そして女なら誰もが男にして欲しいと思う事をしてやることが出来る男だ。
それは、相手に尽くすということだ。

あきらにとって既婚の女はいずれ別れる上でのつき合いだが、それでも二人だけの時は、大切にして守ってやらなくてはならないと思うから相手に尽くすことが出来る。
だから別れる時、女たちはその別れを悲しむ。

「まあ俺だってお前のことが言えた義理じゃねぇけど、男と女のカップルがどういった意味を持つかくらいのことは理解してる。それにめくるめく恋ってのは、新しい相手とじゃねぇと味わうことが出来ねぇってことで、俺は人妻との恋を楽しんでるわけだが、俺もいつかはどっかの誰かと結婚するだろうけど、そん時は出来ればビジネス絡みじゃねぇ女がいいと思ってる。けど、何もかもが自分の思い通りに行かねぇこともあるからな・・・。
それにお前もゆくゆくは跡継ぎが必要になる身だ。けど戦略的な結婚を考えてるなら女を本気で好きになる必要はねぇよな。けどお前も一度くらい本気で恋をしてみろ。今の自分の気持ちに気付くかどうかはお前次第だが、気になる女がいるなら早々に手を打たねぇと他の男に取られちまうぞ?」






気になる女がいれば_

司があきらの言葉を反芻している間に、女はスリッパを履き、慌てて戻って来たが、その手にはタオルが何枚か握られていた。
そして彼の前に立ち、血で染まったタオルに視線を向けているが、その表情は真剣だ。

「すみません、副社長。勝手にバスルームに入らせていただきました。手を切られたんですよね?まだ出血されてますか?新しいタオルをお持ちしましたので、とりあえずこちらと交換しましょう。それから会社へ行く前に病院へ寄って診て頂きませんと。左手ですよね?利き手じゃなくて良かったですね?」

そう言った女は司を見上げた。
そして司はそんな女を見下ろしていた。

「・・ああ。親指の付け根だ。けど出血はもうしてねぇはずだ」

「そうですか。良かった!では着替えて頂いて病院へ行きましょう。あ、足元、気を付けて下さいね」

司は普段、疲れを感じることも、ぼんやりとすることもない。
だが一瞬牧野つくしの何かに囚われたようになり、足元を見ていなかった。そのため、床に砕けて転がっている磁器の欠片の上へ足を踏みだそうとしていた。
そして、キッチンシンクの前から動くことを躊躇った。
いや、躊躇ったのではない。足が動かなかった。
そして自分を見上げる黒い瞳をじっと見ていた。

司は、どんな女に対しも覚めた目でその姿を観察してみるのだが、今、目の前にいる女に欠点を見つけようとは思わなかった。
そして司は、コーヒーと煙草だけで一日を終えることが出来る男だ。だが今欲しいのは、コーヒーでも煙草でもない。何かもっと別のものが欲しい。
だがそれはいったい何なのか。

欲しいものなら何でも手に入る男。
望まなくとも手に入れることが出来る男。
そんな男は、即物的な生き方をする女を軽蔑していた。だが、今司を見上げる女の瞳の中に、そういった欲望は感じられなかった。そして司の中に沸き起こったのは、目の前の女に触れたいといった触覚的な欲望。そしてそれは、キスしたい。抱きしめたいという欲望。
そしてそんな思いとは別に目を逸らすことが出来ない、独占したい、そしてもっと深く関わりたいといった思いが沸き起こった。

それは、朝靄が晴れ、明るい陽射しと太陽が顔を覗かせた空を見上げるような気持。
暗闇を閉じ込めていた箱が開き、その中にあった大切な何かを目にしたような驚き。
そしてあらためて、昨夜のあきらの言葉が大きな意味を持つことを理解した。

『気になる女がいるなら早々に手を打たねぇと他の男に取られちまうぞ?』

司は数秒間、黙ったまま牧野つくしを見つめ、そしてひと呼吸おくと静かに口を開いていた。

「・・・この前は悪かったな」

「・・え?・・あの、何のことでしょうか?」

女はいったい何の話かと聞いた。
仕事以外で口を利くことを嫌がるような上司に謝られることをされただろうかと訝しげだ。

「・・パンだ。この前のクロワッサンだ」

クロワッサン。
朝のコーヒーと一緒に出された日があった。あれは女が秘書になってまだ数日しか経っていない時だった。余計なことをするなと睨んだ。
司は、それを詫びていた。
何故今更そんなことをと思うが、口をついた言葉に、目の前にいる女は驚いた様子で瞳は大きく開かれた。
そして司は一旦口を閉じたが、それからまた再び口を開いたとき、

「牧野・・おまえ新堂巧のことは_」

「副社長。あのことは_」

と、司と女の言葉が重なった。





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コメント
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dot 2017.12.05 07:14 | 編集
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dot 2017.12.05 07:35 | 編集
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dot 2017.12.05 12:00 | 編集
と*****ン様
あのことは・・
えー。気にすることはない話です!(笑)
美味しいクロワッサンです食べたいですねぇ。
コーヒー豆、いつも挽いてもらったものを購入しています。
今我が家には、グアテマラ、ホンジュラスそしてルワンダがあります。
残念ながら坊ちゃんが好きなブルマンはございません!(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.12.05 22:25 | 編集
司*****E様
司のペントハウスに足を踏み入れるつくし。
恐る恐る・・といった感じでしょうか(笑)
司。独身35歳。コーヒーだけは自分で淹れることが出来るようですね?(笑)
NYで暮らしている時、学んだのではないでしょうか?
あきらの言葉に自分がつくしのことを気にしていることを気づかされました。
徐々に動き出した恋ですが、ある日突然大きく目覚めるのか。それともじわじわと浸透して行くのか。
司ですからねぇ(笑)
頑張れ!副社長!
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.12.05 22:34 | 編集
H様
おはようございます^^
え?女を連れ込んでいると思いましたか?
いえ。大丈夫です。そんなことはしていません。
司は今まで自宅に女を入れたことはなかったはずです。
但し、本気の女性は違うはずですが、彼は今まで本気になった女はいません。
司を嫉妬でクラクラさせる(笑)いいですねぇ。
女に振り回されるクールな副社長!
一度痛い目に・・・そんな思いもあります(笑)
拍手コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.12.05 22:41 | 編集
か**り様
さすがあきら!マダムキラーは違いますねぇ(笑)
ぼやぼやしてたら、私は誰かのいい子に~♪(≧▽≦)
もちろん、知ってます!文字を拝見しただけで、メロディーが流れました(笑)
リンダ困っちゃう(≧▽≦)
そして新堂巧。牽制したようで、司に火をつけたかもしれませんね?(笑)
行けっ!35歳!独身!副社長!「どうにもとまらない」状態になることを祈りましょう(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.12.05 22:52 | 編集
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dot 2017.12.06 14:58 | 編集
さ***ん様
ぼんやりとしている副社長(笑)
そんな司にお目に掛かることは、珍しいことかもしれません。
司、何かを見つけたようです。そしてついに副社長お目覚めになられました!
しかし、謝罪の言葉が・・・(笑)
「パンのことよりも、他に謝ることがあるでしょうが!このセクハラ副社長!」(byつくし)
しかし恋をしたことがない男、女に詫びたことがない男ですから謝り方を知りません。
さて、これからどうするのでしょうか?(笑)
コメント有難うございました^^
アカシアdot 2017.12.06 21:53 | 編集
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