男は駐車場に車を止めると外へ出た。
山間部を通る高速道路にある小さなパーキングエリアは人影もまばらだった。
それもそうだろう。ここはトイレと自動販売機があるだけのスペースで売店などは無く、無人化されていたからだ。
遠くに見えるはずの山がはっきりとした稜線を持って見えていた。
山が近くに見えると雨が降る。そんなことわざがあるが本当だろうか。
だとすれば、これから行く場所は雨になるということか?雪にならないだけまだマシか。
恋愛中の少年と少女というのはいったいどのような時を過ごすというのか。
葬儀屋風情の男はそんなことには興味がなかったが、道明寺という大きな財閥の次の総帥となる男の若い頃には興味があった。
道明寺司は男が仕える人物の息子だ。少年時代に恋をしたがその恋が実ることなく、何年も相手の少女の面影を追っていたと耳にしたことがあった。そして今では大人になったかつて少女だった女を山奥の山荘に監禁している。
その女の名前は牧野つくし。道明寺司のひとつ下の学年にいた女だと聞いている。
道明寺司が牧野つくしを監禁している。そんな記事が週刊誌に載ったとしたらどうなる?写真が世間にもたらす効果は絶大だ。だが彼のそんな私生活が世間に暴かれることは決してないだろう。
そう言えば、花沢物産の専務の話が週刊誌を騒がせたことがあったはずだ。
あれは専務が仕事もせずに女に金をつぎ込んでいる。確かそんな話しだったと記憶している。
明らかに書かせたものだとわかっていたが、人々は全てとは言わなくとも、書かれたことと見たことを信じるものだ。
それに確か同じ頃だったはずだ。花沢物産は提携工作を進めていた会社を道明寺HDにかすめ取られる形で失った。あの専務は道明寺司の親友だった男だ。だが牧野つくしを挟んで二人の仲は割れていた。
牧野つくしの両親が交通事故で亡くなったあと、姉と弟の力になったのは花沢物産の専務となったひとり息子だ。あの事故から10年、女は花沢邸で暮らしていたが邸を出てひとり暮らしを始めた途端、行方不明になっていた。だが失踪届は出されていない。いや、出されていたが握りつぶされていた。
握りつぶしたのは道明寺司で、花沢物産の専務は牧野つくしを探しているらしい。
はたして花沢類は牧野つくしのことが好きなのか?
そうでなければ邸に住まわせて面倒を見ることはしないはずだ。
そんな男を憎んでいるのは道明寺司だ。私生活の対立をビジネスにまで持ち込むようでは、まだまだ青いとしか言えないが、人の感情はそう簡単に割り切れるものではないはずだ。
道明寺司の父親は息子が一人の女に執着することに懸念を抱いていた。
牧野つくしを巡って花沢物産の跡取りとの揉め事など馬鹿バカしいにも程があるというものだ。それにこれ以上息子の人生がおかしくなるのを見過ごすわけにはいかないということだ。あの娘に道明寺家の跡取りを生ませるなど、とんでもない話しなのだろう。
道明寺司の父親。今でも多方面への権勢をほしいままにする男。その男から渡された紙は既に灰となって手元にはない。いつもそうだ。言葉に出さないし記録に残すことはしない。
渡された紙は読めばその場で火をつけ燃やされる。尋ねたいのはやまやまだが男は質問されるのを嫌う。故に書かれていたことが全てとなる。
例えその言葉が短くてもだ。
世の中には想像もつかない世界があるというが、唸るほどの金がある男の黒い瞳は、ひどく恐ろしい。
『 行った先で何をしたとしても私には関係がない 』
その言葉には言外の脅が含まれていた。だがそれはいつものことだった。
不愉快な仕事ではあるがそれが彼の仕事だと理解していた。
ミスを犯したことは一度もなかった。雇い主の命令を実行する。それが彼の使命なのだ。
男は車に乗り込むとエンジンをかけ、煙草に火をつけた。
ここから先、高速道路を降りた先の山道は、くねくねと曲がっているが運転しにくい道ではないだろう。恐らくあと1時間もすれば目的地に到着するはずだ。
フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちてきたのがわかった。まだワイパーを動かすほどの雨ではなかったが、これから向かう先の雨はいったいどんな雨なのか。
男は時計を見て、ニューヨークの現地時間を計算した。真夜中か。連絡するなら全てが終わって夜が明けてからがいいだろう。
***
いつかここでの生活にも終わりが来る。
そう信じている。
冬の空気は乾燥し風は冷たい手となってつくしの頬を撫でていく。
いつまでこの山荘に留まることになるのか。季節は移ろい月日を重ねていた。
用意される洋服もこの寒さをやり過ごせるだけの物へと変わって来た。
とはいえ寒さを感じるのはこの空気のせいだけではなく、強い不安がそうさせるのだろう。
木々の葉は全て落ちてしまった淋しいしい風景の中、淋しい時間だけが流れていく。
深い思考に身を任せた。
道明寺の傍から逃げないと言った。
物理的に難しいからだというわけではなかった。
道明寺はあの頃ふたりで分け合っていたものを取り戻そうとしていると気づいたからだ。それを奪ってしまったのはあたしだ。そしてその時、道明寺は心を失った。
ふたりで分け合っていたもの_
高校生の分際で何を分けっていたのかと言われるかもしれない。だが当時のあたし達には確かに分け合ったものがあった。
未来へ向かっての跳躍途中にあるふたりの心の中には、どこか儚げではあったが掴みたい夢があったはずだ。たとえ一緒に過ごした時間が短かったとしても、ふたりには互いを思いやる気持ちがあった。分け合っていたのはそんな気持ちだったはずだ。
あたしは見かけ以上のものは持っていない少女だった。
それに対する道明寺は見かけ以上に全てを持っている少年。だがその少年は希薄な家族関係からなのか、母親からの母性愛を受けなかったからなのか、絶えず愛を求めていた。
自分の存在意義は認められていたとしても、それは道明寺家という家を受け継ぐだけの器だとしか考えていなかった。一度でもいいから両親から抱きしめてもらえていたなら。
一度でもいいから一緒に遊んでもらえたら。だが両親は自分の子どもを孤独の中に放置した。
親からしっかりと抱きしめられた記憶のない子ども。
愛されるということを与えてもらえなかった子どもが大人になるということは、酷く切ない話しだ。大人になった今、そのことはつくしにもよくわかっていた。
そんな育ち方をした人間は、自分に欠けているものを補おうとする。人間だれしもそうだろう。貧しければそれを補いたいと思うのも当然だろう。幼い頃、体が弱かった子どもが健康な体を取り戻し、出来なかったスポーツに励みたい。人それぞれだが自分に足らないものを補いたいと思うのは人間として当然の欲求だ。
道明寺の望みはたったひとつだけ。自分を愛して欲しい。愛してくれる人間が、親から与えられるはずだった無償の愛が欲しい。
ただ、それだけだった。
あの頃の道明寺には心があった。
だが、今は心があったはずの場所に巣食っているのはあたしに対しての復讐。
常軌を逸したこの行為は道明寺の怒りと悲しみと憎しみの全てが込められていた。道明寺は罪を犯しているとは考えていない。一度は自分の手の中にあったはずのものを取り返したと考えているからだろう。お金のために彼を捨てた氷の心を持つ女を。そして類の元にいた女を。
一度捕まえたら決して逃がしはしないとこの山荘に連れてこられたのは裏切った罰。
赤ん坊を孕ませて道明寺という家を継がせる。それが両親とあたしに対しての復讐だと言った。
だけどその方法で復讐出来る日は永遠に来ないはずだ。
つくしはそう言いたかった。
言えばここから解放されるのだろうか?
つくしはコーヒーを飲み、カップを置くと弱々しいほほ笑みを見せた。
「木村さん、外に出たいんですけど・・」
ここにいる限り会うのは管理人と道明寺のふたりだけだ。他に話しをする人間はいない。
だからおのずと木村と話しをするようになる。
「これからですか?」
「はい。ちょっと外の空気を吸いたいんです」
最近では人にほほ笑みかけることがなく、笑うという行為を忘れてしまいそうになっていた。だから木村に対してほほ笑みかけた。そうすることが自分にとって自然なことのように思えたからだ。今の自分の置かれた状況を考えてみれば、笑うことは不自然かもしれないが笑わないでいる方が辛かった。
笑いたかった。心の底から笑いたい。
いつかまた自然と笑いがこみ上げる日が来るのだろうか。
「そうですか。では少しお待ちください。外に出る準備をしますので」
山荘の管理人である木村の仕事はつくしの監視をすることだ。
「牧野様もくれぐれも暖かい服装でお願いいたします。外は冷えますので風邪などひかれては大変ですから」
風邪をひくと大変。
確かにこの山荘から病院に行くとなると大変だろう。
それなら_もし病気になればここから出て行くことが出来るということだろうか。
わざと風邪をひく。
ふと。そんなことを考えてしまった。
つくしは紅褐色のダウンジャケットを着ていたし、マフラーをし、手袋もはめていた。
だが冷気は隙間から滲み込んで来ては体温を奪っていくように感じられた。
冷たさが心を凍らせていくようだ。だが身も心も凍りつくような寒さとはまだ言えないはずだ。酷寒と呼ぶ季節とはまだ言えなかった。
いつもの小径をのんびりと歩く。
深く息を吸って吐いた。
外の空気は確かにひんやりとしていた。季節は確実に進んでいる。
見渡す景色はまだ白くはないが、いずれこの場所は雪に覆われる。
それでもあたしはまだこの場所で過ごすのだろうか。この場所には当然だがあたし以外は誰もいない。木村を除いて。
一羽の鳥が鳴き声をあげて空を横切った。すると続いて仲間の鳥たちだろうか。集団が追いつくと群れをなして空の彼方へと飛んで行くのが見えた。
一羽だけ飛んでいたのはリーダーだったのか。それとも集団から逃げようとしていた鳥だったのか。後者の鳥にかつての自分の姿を重ね合わせていた。
体に触れていれば、いつか心にも触れることが出来るのだろうか?
この手が道明寺の心に届く日がくるのだろうか?
たまらなく淋しかった。寒くて、淋しい。その思いは体が寒いだけではなく心が寒いということだ。もし時間が戻るならあの頃の、10年前の道明寺にしっかりと抱きしめて欲しい。
これまで起きたことを全て忘れ、つくしが欲しかったあの日の道明寺に会いたかった。
運命に抗うことは出来ない。
それならあたし達の運命はどこへ向かっているのだろう。
道明寺の傍から逃げないと言ったがそれは、屈辱的な降伏なんかじゃない。
今の状況は悪い夢だと思いたい。
あたしが会いたいのは心に闇を抱く男じゃない。
胸の中にある気持ちは、心の奥にある気持ちはあの頃と同じなのに、二人を隔てる壁は大きかった。またこうしてあたしが道明寺を愛するように仕向けることが復讐だとしたら、それはとっくに成功している。
だけど_
これは愛なんだろうか。
愛だとすれば、あたしは愛の奴隷だということだ。
このままでは、二人の愛の行きつく先は破滅だけだ。
***
司は世田谷の邸にいた。
「経営会議のメンバーを招集してくれ」
「経営会議のメンバーですか?」
「ああ。大至急だ」
唐突に言われた秘書だったが顔色ひとつ変えなかった。
「承知しました。1時間もあれば集まれるはずです」
秘書はそう言うと連絡を取るため部屋から出て行った。
本来なら今日は、取引先の会長とゴルフに出かけているはずだった。だが先方の体調が優れないということで急遽キャンセルになっていた。意図せず手に入れた自由な時間。それなら近々開かれる経営会議の参加者を呼び出して話しでも聞くかと考えていた。経営会議は会社の最高意思決定機関だが重要事項は司が判断し、経営会議が追認する形が殆どだ。だがその前に根回しをすることも重要だと気づかされた。根回しを怠ったために通すことが出来なかった案件もあったからだ。
廊下のはずれにある東の角部屋は長い間主がおらず空っぽだった。
忌まわしい部屋だと思っていた。思い出は幾つかあったがもうとっくに記憶の彼方へと消えていた。この部屋に存在するのは10年前の亡霊だ。夜になるとその亡霊が出て来て俺に悪夢を見させる。ぼんやりと暗闇を見つめれば、女に捨てられ荒んでしまったあの頃の俺の姿が見えた。
あの日から心を凍らせて生きて来た。
今夜もまたあの亡霊が現れるのだろうか。
哀しみに心が歪み、再びひとりになってしまったあの頃の自分に会わなければならないのか。ひとりの女に執着するあまり狂ってしまった男に。
自分の亡霊に会う_
冗談じゃねえ。
この亡霊を追い払ってくれるのはあいつしかいない。
だが夢の中で救いを求めて伸ばした手は、虚しく空を切るだけ何も掴むことは出来ない。
どれほど名前を呼んでも決して振り返ることなく去って行ったあの女。
まきの_
そうだ。あいつが俺にこんな亡霊を見させるんだ。
だから運命は決まっている。
たとえ復讐心が収まったとしても、罰を与えたいという気持ちがなくなったとしても、永遠に放しはしない。どうしようもなく歪んでしまった行動に終止符を打つ。そんなことは出来ないだろう。
亡霊は見たくない。そうなれば選択肢は他にない。
「ヘリを用意してくれ。山荘に向かう。会議は中止だ」

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山間部を通る高速道路にある小さなパーキングエリアは人影もまばらだった。
それもそうだろう。ここはトイレと自動販売機があるだけのスペースで売店などは無く、無人化されていたからだ。
遠くに見えるはずの山がはっきりとした稜線を持って見えていた。
山が近くに見えると雨が降る。そんなことわざがあるが本当だろうか。
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恋愛中の少年と少女というのはいったいどのような時を過ごすというのか。
葬儀屋風情の男はそんなことには興味がなかったが、道明寺という大きな財閥の次の総帥となる男の若い頃には興味があった。
道明寺司は男が仕える人物の息子だ。少年時代に恋をしたがその恋が実ることなく、何年も相手の少女の面影を追っていたと耳にしたことがあった。そして今では大人になったかつて少女だった女を山奥の山荘に監禁している。
その女の名前は牧野つくし。道明寺司のひとつ下の学年にいた女だと聞いている。
道明寺司が牧野つくしを監禁している。そんな記事が週刊誌に載ったとしたらどうなる?写真が世間にもたらす効果は絶大だ。だが彼のそんな私生活が世間に暴かれることは決してないだろう。
そう言えば、花沢物産の専務の話が週刊誌を騒がせたことがあったはずだ。
あれは専務が仕事もせずに女に金をつぎ込んでいる。確かそんな話しだったと記憶している。
明らかに書かせたものだとわかっていたが、人々は全てとは言わなくとも、書かれたことと見たことを信じるものだ。
それに確か同じ頃だったはずだ。花沢物産は提携工作を進めていた会社を道明寺HDにかすめ取られる形で失った。あの専務は道明寺司の親友だった男だ。だが牧野つくしを挟んで二人の仲は割れていた。
牧野つくしの両親が交通事故で亡くなったあと、姉と弟の力になったのは花沢物産の専務となったひとり息子だ。あの事故から10年、女は花沢邸で暮らしていたが邸を出てひとり暮らしを始めた途端、行方不明になっていた。だが失踪届は出されていない。いや、出されていたが握りつぶされていた。
握りつぶしたのは道明寺司で、花沢物産の専務は牧野つくしを探しているらしい。
はたして花沢類は牧野つくしのことが好きなのか?
そうでなければ邸に住まわせて面倒を見ることはしないはずだ。
そんな男を憎んでいるのは道明寺司だ。私生活の対立をビジネスにまで持ち込むようでは、まだまだ青いとしか言えないが、人の感情はそう簡単に割り切れるものではないはずだ。
道明寺司の父親は息子が一人の女に執着することに懸念を抱いていた。
牧野つくしを巡って花沢物産の跡取りとの揉め事など馬鹿バカしいにも程があるというものだ。それにこれ以上息子の人生がおかしくなるのを見過ごすわけにはいかないということだ。あの娘に道明寺家の跡取りを生ませるなど、とんでもない話しなのだろう。
道明寺司の父親。今でも多方面への権勢をほしいままにする男。その男から渡された紙は既に灰となって手元にはない。いつもそうだ。言葉に出さないし記録に残すことはしない。
渡された紙は読めばその場で火をつけ燃やされる。尋ねたいのはやまやまだが男は質問されるのを嫌う。故に書かれていたことが全てとなる。
例えその言葉が短くてもだ。
世の中には想像もつかない世界があるというが、唸るほどの金がある男の黒い瞳は、ひどく恐ろしい。
『 行った先で何をしたとしても私には関係がない 』
その言葉には言外の脅が含まれていた。だがそれはいつものことだった。
不愉快な仕事ではあるがそれが彼の仕事だと理解していた。
ミスを犯したことは一度もなかった。雇い主の命令を実行する。それが彼の使命なのだ。
男は車に乗り込むとエンジンをかけ、煙草に火をつけた。
ここから先、高速道路を降りた先の山道は、くねくねと曲がっているが運転しにくい道ではないだろう。恐らくあと1時間もすれば目的地に到着するはずだ。
フロントガラスにポツポツと雨粒が落ちてきたのがわかった。まだワイパーを動かすほどの雨ではなかったが、これから向かう先の雨はいったいどんな雨なのか。
男は時計を見て、ニューヨークの現地時間を計算した。真夜中か。連絡するなら全てが終わって夜が明けてからがいいだろう。
***
いつかここでの生活にも終わりが来る。
そう信じている。
冬の空気は乾燥し風は冷たい手となってつくしの頬を撫でていく。
いつまでこの山荘に留まることになるのか。季節は移ろい月日を重ねていた。
用意される洋服もこの寒さをやり過ごせるだけの物へと変わって来た。
とはいえ寒さを感じるのはこの空気のせいだけではなく、強い不安がそうさせるのだろう。
木々の葉は全て落ちてしまった淋しいしい風景の中、淋しい時間だけが流れていく。
深い思考に身を任せた。
道明寺の傍から逃げないと言った。
物理的に難しいからだというわけではなかった。
道明寺はあの頃ふたりで分け合っていたものを取り戻そうとしていると気づいたからだ。それを奪ってしまったのはあたしだ。そしてその時、道明寺は心を失った。
ふたりで分け合っていたもの_
高校生の分際で何を分けっていたのかと言われるかもしれない。だが当時のあたし達には確かに分け合ったものがあった。
未来へ向かっての跳躍途中にあるふたりの心の中には、どこか儚げではあったが掴みたい夢があったはずだ。たとえ一緒に過ごした時間が短かったとしても、ふたりには互いを思いやる気持ちがあった。分け合っていたのはそんな気持ちだったはずだ。
あたしは見かけ以上のものは持っていない少女だった。
それに対する道明寺は見かけ以上に全てを持っている少年。だがその少年は希薄な家族関係からなのか、母親からの母性愛を受けなかったからなのか、絶えず愛を求めていた。
自分の存在意義は認められていたとしても、それは道明寺家という家を受け継ぐだけの器だとしか考えていなかった。一度でもいいから両親から抱きしめてもらえていたなら。
一度でもいいから一緒に遊んでもらえたら。だが両親は自分の子どもを孤独の中に放置した。
親からしっかりと抱きしめられた記憶のない子ども。
愛されるということを与えてもらえなかった子どもが大人になるということは、酷く切ない話しだ。大人になった今、そのことはつくしにもよくわかっていた。
そんな育ち方をした人間は、自分に欠けているものを補おうとする。人間だれしもそうだろう。貧しければそれを補いたいと思うのも当然だろう。幼い頃、体が弱かった子どもが健康な体を取り戻し、出来なかったスポーツに励みたい。人それぞれだが自分に足らないものを補いたいと思うのは人間として当然の欲求だ。
道明寺の望みはたったひとつだけ。自分を愛して欲しい。愛してくれる人間が、親から与えられるはずだった無償の愛が欲しい。
ただ、それだけだった。
あの頃の道明寺には心があった。
だが、今は心があったはずの場所に巣食っているのはあたしに対しての復讐。
常軌を逸したこの行為は道明寺の怒りと悲しみと憎しみの全てが込められていた。道明寺は罪を犯しているとは考えていない。一度は自分の手の中にあったはずのものを取り返したと考えているからだろう。お金のために彼を捨てた氷の心を持つ女を。そして類の元にいた女を。
一度捕まえたら決して逃がしはしないとこの山荘に連れてこられたのは裏切った罰。
赤ん坊を孕ませて道明寺という家を継がせる。それが両親とあたしに対しての復讐だと言った。
だけどその方法で復讐出来る日は永遠に来ないはずだ。
つくしはそう言いたかった。
言えばここから解放されるのだろうか?
つくしはコーヒーを飲み、カップを置くと弱々しいほほ笑みを見せた。
「木村さん、外に出たいんですけど・・」
ここにいる限り会うのは管理人と道明寺のふたりだけだ。他に話しをする人間はいない。
だからおのずと木村と話しをするようになる。
「これからですか?」
「はい。ちょっと外の空気を吸いたいんです」
最近では人にほほ笑みかけることがなく、笑うという行為を忘れてしまいそうになっていた。だから木村に対してほほ笑みかけた。そうすることが自分にとって自然なことのように思えたからだ。今の自分の置かれた状況を考えてみれば、笑うことは不自然かもしれないが笑わないでいる方が辛かった。
笑いたかった。心の底から笑いたい。
いつかまた自然と笑いがこみ上げる日が来るのだろうか。
「そうですか。では少しお待ちください。外に出る準備をしますので」
山荘の管理人である木村の仕事はつくしの監視をすることだ。
「牧野様もくれぐれも暖かい服装でお願いいたします。外は冷えますので風邪などひかれては大変ですから」
風邪をひくと大変。
確かにこの山荘から病院に行くとなると大変だろう。
それなら_もし病気になればここから出て行くことが出来るということだろうか。
わざと風邪をひく。
ふと。そんなことを考えてしまった。
つくしは紅褐色のダウンジャケットを着ていたし、マフラーをし、手袋もはめていた。
だが冷気は隙間から滲み込んで来ては体温を奪っていくように感じられた。
冷たさが心を凍らせていくようだ。だが身も心も凍りつくような寒さとはまだ言えないはずだ。酷寒と呼ぶ季節とはまだ言えなかった。
いつもの小径をのんびりと歩く。
深く息を吸って吐いた。
外の空気は確かにひんやりとしていた。季節は確実に進んでいる。
見渡す景色はまだ白くはないが、いずれこの場所は雪に覆われる。
それでもあたしはまだこの場所で過ごすのだろうか。この場所には当然だがあたし以外は誰もいない。木村を除いて。
一羽の鳥が鳴き声をあげて空を横切った。すると続いて仲間の鳥たちだろうか。集団が追いつくと群れをなして空の彼方へと飛んで行くのが見えた。
一羽だけ飛んでいたのはリーダーだったのか。それとも集団から逃げようとしていた鳥だったのか。後者の鳥にかつての自分の姿を重ね合わせていた。
体に触れていれば、いつか心にも触れることが出来るのだろうか?
この手が道明寺の心に届く日がくるのだろうか?
たまらなく淋しかった。寒くて、淋しい。その思いは体が寒いだけではなく心が寒いということだ。もし時間が戻るならあの頃の、10年前の道明寺にしっかりと抱きしめて欲しい。
これまで起きたことを全て忘れ、つくしが欲しかったあの日の道明寺に会いたかった。
運命に抗うことは出来ない。
それならあたし達の運命はどこへ向かっているのだろう。
道明寺の傍から逃げないと言ったがそれは、屈辱的な降伏なんかじゃない。
今の状況は悪い夢だと思いたい。
あたしが会いたいのは心に闇を抱く男じゃない。
胸の中にある気持ちは、心の奥にある気持ちはあの頃と同じなのに、二人を隔てる壁は大きかった。またこうしてあたしが道明寺を愛するように仕向けることが復讐だとしたら、それはとっくに成功している。
だけど_
これは愛なんだろうか。
愛だとすれば、あたしは愛の奴隷だということだ。
このままでは、二人の愛の行きつく先は破滅だけだ。
***
司は世田谷の邸にいた。
「経営会議のメンバーを招集してくれ」
「経営会議のメンバーですか?」
「ああ。大至急だ」
唐突に言われた秘書だったが顔色ひとつ変えなかった。
「承知しました。1時間もあれば集まれるはずです」
秘書はそう言うと連絡を取るため部屋から出て行った。
本来なら今日は、取引先の会長とゴルフに出かけているはずだった。だが先方の体調が優れないということで急遽キャンセルになっていた。意図せず手に入れた自由な時間。それなら近々開かれる経営会議の参加者を呼び出して話しでも聞くかと考えていた。経営会議は会社の最高意思決定機関だが重要事項は司が判断し、経営会議が追認する形が殆どだ。だがその前に根回しをすることも重要だと気づかされた。根回しを怠ったために通すことが出来なかった案件もあったからだ。
廊下のはずれにある東の角部屋は長い間主がおらず空っぽだった。
忌まわしい部屋だと思っていた。思い出は幾つかあったがもうとっくに記憶の彼方へと消えていた。この部屋に存在するのは10年前の亡霊だ。夜になるとその亡霊が出て来て俺に悪夢を見させる。ぼんやりと暗闇を見つめれば、女に捨てられ荒んでしまったあの頃の俺の姿が見えた。
あの日から心を凍らせて生きて来た。
今夜もまたあの亡霊が現れるのだろうか。
哀しみに心が歪み、再びひとりになってしまったあの頃の自分に会わなければならないのか。ひとりの女に執着するあまり狂ってしまった男に。
自分の亡霊に会う_
冗談じゃねえ。
この亡霊を追い払ってくれるのはあいつしかいない。
だが夢の中で救いを求めて伸ばした手は、虚しく空を切るだけ何も掴むことは出来ない。
どれほど名前を呼んでも決して振り返ることなく去って行ったあの女。
まきの_
そうだ。あいつが俺にこんな亡霊を見させるんだ。
だから運命は決まっている。
たとえ復讐心が収まったとしても、罰を与えたいという気持ちがなくなったとしても、永遠に放しはしない。どうしようもなく歪んでしまった行動に終止符を打つ。そんなことは出来ないだろう。
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ち**ち様
司の父親に不穏な動きが・・司の父親はつくしをどうしたいのか・・
山荘で何かが起こりそうです。
司もこれから山荘に向かうようです。
どうなるんでしょうか・・
コメント有難うございました^^
司の父親に不穏な動きが・・司の父親はつくしをどうしたいのか・・
山荘で何かが起こりそうです。
司もこれから山荘に向かうようです。
どうなるんでしょうか・・
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:18 | 編集

as**ana様
お久しぶりの更新となりました。
なかなか進まず申し訳ないです^^
気になる所が色々・・
次回、なるべく早くUPしたいです。
コメント有難うございました^^
お久しぶりの更新となりました。
なかなか進まず申し訳ないです^^
気になる所が色々・・
次回、なるべく早くUPしたいです。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:21 | 編集

つ*さ様
いつもお待たせして申し訳ございません。
気長にお待ち頂けるとのこと。
ありがとうございます!
次回はなるべく早く・・と思うのですがどうも遅筆です(笑)
コメント有難うございました^^
いつもお待たせして申し訳ございません。
気長にお待ち頂けるとのこと。
ありがとうございます!
次回はなるべく早く・・と思うのですがどうも遅筆です(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:26 | 編集

さと**ん様
危ない!つくし!散歩している場合じゃないぞ!
と木村さんに伝えたいです。
司も突然山荘へ・・
葬儀屋風情の男。怖いです。つくしの運命は!!
次回、暫く先になると思います(笑)
コメント有難うございました^^
危ない!つくし!散歩している場合じゃないぞ!
と木村さんに伝えたいです。
司も突然山荘へ・・
葬儀屋風情の男。怖いです。つくしの運命は!!
次回、暫く先になると思います(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:31 | 編集

司×**OVE様
司の父親、つくしの排除に乗り出したようです。
この父親は司のことは跡継ぎとして見ているだけのようです。
酷いお父さんですよね。これ以上司からつくしを取り上げたらどうなるんでしょう・・
いつかの日か、二人が笑い合える日が来ることを願います。
コメント有難うございました^^
司の父親、つくしの排除に乗り出したようです。
この父親は司のことは跡継ぎとして見ているだけのようです。
酷いお父さんですよね。これ以上司からつくしを取り上げたらどうなるんでしょう・・
いつかの日か、二人が笑い合える日が来ることを願います。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:38 | 編集

こ**る様
長らくお待たせいたしましたm(__)m
司の父親の使者。怖いですねぇ。つくしちゃんピンチです!
散歩している場合ではありません!
司は暗闇に堕ちてしまったようですが、浮上してくれるのでしょうか。
司はつくしに対しては純粋で繊細でしたよね?・・今の彼にそんなところはあるのでしょうか?(笑)
コメント有難うございました^^
長らくお待たせいたしましたm(__)m
司の父親の使者。怖いですねぇ。つくしちゃんピンチです!
散歩している場合ではありません!
司は暗闇に堕ちてしまったようですが、浮上してくれるのでしょうか。
司はつくしに対しては純粋で繊細でしたよね?・・今の彼にそんなところはあるのでしょうか?(笑)
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:47 | 編集

サ*ラ様
本当に久しぶりの更新で、お待たせいたしました。
つくしちゃんピンチです。司も野生の勘なのか突然山荘へ向かうと言い出しました。
何か予感がしたのでしょうか?暗闇に堕ちた坊っちゃんでもつくしのピンチは分かるのでしょうか(笑)
つくしちゃんの発言も気になりますね。頑張れ二人!
次回の更新も少し時間が空くと思います。
コメント有難うございました^^
本当に久しぶりの更新で、お待たせいたしました。
つくしちゃんピンチです。司も野生の勘なのか突然山荘へ向かうと言い出しました。
何か予感がしたのでしょうか?暗闇に堕ちた坊っちゃんでもつくしのピンチは分かるのでしょうか(笑)
つくしちゃんの発言も気になりますね。頑張れ二人!
次回の更新も少し時間が空くと思います。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.28 23:57 | 編集

マ**チ様
何の前触れもなくです!短編も何の前触れもなくです(笑)
マ**様のお好きな西田さんではないんです。死神みたいな男(笑)
確かにそうですね。葬儀屋風情の男ですし・・。
えっ!アカシアがドS?(笑)ドSの坊っちゃんは大好きですが、アカシアもドSだったんですね?知りませんでした!(笑)
夜更かし同盟してないですね?(笑)ご褒美ですか?えー・・なるべく早めに努力します^^
コメント有難うございました^^
何の前触れもなくです!短編も何の前触れもなくです(笑)
マ**様のお好きな西田さんではないんです。死神みたいな男(笑)
確かにそうですね。葬儀屋風情の男ですし・・。
えっ!アカシアがドS?(笑)ドSの坊っちゃんは大好きですが、アカシアもドSだったんですね?知りませんでした!(笑)
夜更かし同盟してないですね?(笑)ご褒美ですか?えー・・なるべく早めに努力します^^
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.29 00:05 | 編集

チ**ム様
お久しぶりのこちらの司。舞台は山奥の山荘です。
つくしは冬の寂しい季節にひとり、司のことを考えて過ごしています。
いえいえ素敵なコメントを有難うございます。
着眼点は皆様色々です^^
暗いお話ですが、気になって頂きありがとうございます。
コメント有難うございました^^
お久しぶりのこちらの司。舞台は山奥の山荘です。
つくしは冬の寂しい季節にひとり、司のことを考えて過ごしています。
いえいえ素敵なコメントを有難うございます。
着眼点は皆様色々です^^
暗いお話ですが、気になって頂きありがとうございます。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.29 00:19 | 編集

pi**mix様
二人の心に変化が見え始めているのに、何者かが・・
そうなんです。司の父親が・・
類はどうしているんでしょうね!つくしがピンチです!!
いつも遅筆で申し訳ございませんm(__)m
次回、なるべく早くお読み頂けるようにしたいと思います。
コメント有難うございました^^
二人の心に変化が見え始めているのに、何者かが・・
そうなんです。司の父親が・・
類はどうしているんでしょうね!つくしがピンチです!!
いつも遅筆で申し訳ございませんm(__)m
次回、なるべく早くお読み頂けるようにしたいと思います。
コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.29 00:24 | 編集

名無し様
つくしちゃん、誰かに狙われていますね。
司はどうするのでしょうか・・
つくしちゃん散歩している場合ではありません!
頑張れ二人!応援してあげるくらいしかできません。
拍手コメント有難うございました^^
つくしちゃん、誰かに狙われていますね。
司はどうするのでしょうか・・
つくしちゃん散歩している場合ではありません!
頑張れ二人!応援してあげるくらいしかできません。
拍手コメント有難うございました^^
アカシア
2016.09.29 01:18 | 編集
