『 恨み骨髄に徹す 』
その言葉が誰のためにあるかと聞かれれば道明寺のためと答えるかもしれない。
つくしはゆっくりと目を開けた。
いつの間にか日が昇り、カーテンを開ければこの季節特有の冷たい陽の光が降り注いでいた。外気との温度差があるのか窓の外側はうっすらと水滴の幕を作っていたが内側には結露は見られなかった。
ガラスの窓は複層構造らしく手のひらで触れてみてもあまり冷たさを感じられなかった。
遮熱と断熱効果が高められたガラスが使われているようだった。
気持ちを切り替えてと自分に言い聞かせていた。だがこの山荘にいても自分にすることなどなく、ただぼんやりと外を眺めて過ごすか書棚に並べられた本を読むしかなかった。
そこには難しい本ばかりが並べられていた。
法律や経済に関係するものが多く、こんな本を誰が山荘でわざわざ読むのだろうかと思った。だがそんな中にも狩猟に関する本もありそれこそがこの山荘の目的の為もっともふさわし本だと思われた。
英語で書かれた原書も何冊かあった。道明寺のものだろうか?
道明寺家の山荘だ。だれか他の人間が読んでもおかしくはない。
つくしは可能性にかけた。
どうしたらここから抜け出すことが出来る?
少なくとも山荘の中では自由に歩き回ることが出来た。
窓から見える景色は山々ばかりで他には何もなかったとしても一日中人工照明の明かりのもとで過ごしていた地下に比べれば環境は随分と変わっていた。
この一帯は手つかずの大自然が残る地域だった。
山並みは高くそびえ、空の方が近く感じられる程だった。
夜、窓から空を見上げれば、星が降るほど瞬いていた。
望遠鏡で・・昔星空を見たことを思い出していた。
道明寺は毎日ここへ来るわけではなかった。
ここがどこかはわからないが、都心から遠く離れた山の上まで車を走らせることは容易ではないだろう。
あいつだって仕事がある。
世田谷の邸に閉じ込められていたときと違い、そのことだけはつくしの心に気持ちの余裕を与えてくれていた。
なぜならこの場所にいるのは自分ひとりだから。
誰かが鉄の扉を開けて入ってくるのをびくびくしながら待つことはなかった。
同じひとりでも空が見え、外の気配が感じられるだけで気持ちも違う。
ただ、管理人がこの山荘に通い食事の世話をしてくれていた。
はじめはこの状況なら逃げ出せると思っていた。年老いた男性相手ならなんとでもなると考えていた。
だがそれは無理だと学習させられた。大きく外に開かれた窓の下は崖でひとつだけある入口は決して逃げられないようにと管理されていた。
山荘だと思って甘く見ていたのが間違いだった。山荘だからこそ、冬の寒さや雪の重み、獣の進入にそなえ頑丈な造りになっていた。
***
管理人の男性は年の頃はいくつだろう。
頭には白髪が混じり、歩き方や背中の曲がり具合からタマさんと同じくらいに思えたが、はっきりとはわからなかった。
無口なのは必要以上につくしと話をすることを禁じられているからだろうか。
それとも元々が寡黙なのだろうか。
明け方、太陽が昇る前にここにきて日没と共にどこかへと帰っていく。ここに通いで来ると言うことはこの男性の住まいは近くにあると言うことだろう。この場所がどこなのか連れてこられたときは眠っていて記憶がない。眠っていたのか、眠らされていたのかと言われればそれは後者の方だった。
暖炉にくべる薪を割る音がして目が覚めることもあった。
階上にある小さな窓から覗いてみれば、時々その男性と目が遭うことがあった。
監視されているということはわかっている。その目的もあってこの男性はこの場所にいるのだから。
だが徐々に挨拶以外の話も出ることがあった。
暫くだが道明寺がこの場所にこなかった。
つくしがその理由を尋ねることはなかったがその男性が教えてくれた。
坊ちゃんはニューヨークです。
一週間もすれば戻りますからと。
一週間。
毎日こうして顔を合わせていれば、少しは親しく振る舞えるようになったのかもしれない。
ある夕方、食事の準備をしている男性が話かけてきた。
「どうしてこの場所にいるのかと考えているのではないですか?」
それはつくし自身がと言うことなのか、それともその男性がと言うことだろうか。
つくしは自分の身に起きていることはわかっている。
だがこの場所に連れてこられた意味まではわからなかった。
ではこの男性はその意味を知っていると言うのだろうか?
テーブルにひとり座るつくしは男性を見ていた。
「この場所から人家まで人間の足では行けませんよ」
やんわりと逃げても無駄だと言われた気がした。
言わんとすることはわかっていた。
「ここは人里から随分と離れています。この山には獣が沢山いますから・・」
つくしは思い切って聞いてみた。
「・・道明寺のこと、よくご存知なんですか?」
「ええ。もちろん。坊ちゃんがお小さい時からここには旦那様と御一緒によく狩に来られていましたよ」
「子供のころから狩を?」
だが特段驚くほどのことでは無かったのかもしれない。
狩猟は人間の生命を維持する目的の為に行われるものとそうでないものがあった。
英国では伝統的なスポーツとして考えられている。上流社会では昔から行われていたことで英国王室も以前はロンドン近郊に専用の狩場を所有していた。
だがそんなスポーツ的な狩猟も今では残酷な行為として廃止論が高まっている。
「ええ」
「旦那様はひとり息子の坊ちゃまは全てにおいて一番でなければと言うお考えの方でしたので・・」
「ですが・・あまりにも沢山のことを学ばせたせいか・・その反動でしょう。だんだんと生活態度が荒れてくるようになりましてね・・」
男性は手を休めることなく話を続けた。
「中等部に進学するころには手が付けられなくなりました」
つくしはそこから先の話は耳にしたことがあった。
同級生に大けがを負わせ、退学に追い込む・・傍若無人を絵に描いたように無軌道な学生生活を送っていた司に出会ったのはつくしが高等部2年の時だったから。
「司坊ちゃんは・・」
そこまで言いかけた男性は口をつぐんでしまった。
これ以上話をすることは雇い主のプライバシーにかかわると思ったのだろう。
「少し前ですが・・」
「あなたがここに来る前ですが坊ちゃんとわたしは狩に出ました」
秋から春先まで。
この時期は狩猟シーズン真っただ中だった。
「このあたりには猪も出ますが、カモシカもいます」
おもに灰色の毛で覆われた1メートル程の体長をもつ動物。
崖地を好んで生活していた。
「そのときはカモシカに出会いましてね」
「カモシカは非常に好奇心が強い動物でしてね。わざわざ人に姿を見せに出てくることがあるんです」
「山里だと庭先にカモシカがいた、なんてこともあります」
「お嬢さん、アオの寒立(かんだ)ちと言う言葉をご存知ですか?」
「アオの寒立ち・・?」つくしは首を横に振った。
「アオと言うのはマタギの言葉でカモシカのことです。マタギ・・わかりますか?」
「ええ・・東北地方の猟師さんのことですよね?」
どう説明しようかと言葉を探している男性につくしは言った。
「まあ・・だいたいそんな感じです」
「アオの寒立ちというのは・・特に寒い冬の日にカモシカが周囲を見渡せるような高い崖の上で何時間も立ったまま、動かないことがあるんですがその状況を言います」
「まるでそれは下界を見下ろす森の神の使いのように・・」
男性はひと息ついて言葉を継いだ。
「坊ちゃんとわたしは出会ったんですよ、そんなアオに・・」
「ひどく寒い日でした。じっと私たちの方を見ているんです。美しい立姿でこちらを見ていました」
「坊ちゃんは・・目が離せなくなったようでした。まるでアオに魅せられてアオと話でもしているかのようでしたね。
アオはとても敏捷なんですが射程距離にいましたからいつでも撃つことは出来ました。
ですがニホンカモシカは国の天然記念物に指定されてますから本来は撃つことは出来ません」
つくしは背中に冷たいものが走ったような気がした。
「アオはおどおどとしたところなど無く、黒々とした丸い目でじっとこちらを見ていました。坊ちゃんは何を思ったのか・・・アオの方へ近づいて行こうとしました。相手は崖の上ですから近づくことは出来るはずがないんですが・・まるでアオに呼ばれたようでした」
「それで・・・道明寺は・・そのカモシカを・・」
「仕留めたかどうかですか?」
男性は憂いを秘めた目でつくしを見た。
「いえ。残念ながら。坊ちゃんは撃ちませんでした」
「天然記念物ですのでむやみに捕獲は出来ません。ですが・・ここのお家の方々はそんなことに気を配られるような方々ではございませんが」
「それでそのカモシカはどうしたんですか?」
「暫くじっとしていましたが、急斜面を難なく駆け上がり林の中に姿を消しました」
「逃げましたよ。坊ちゃんの前から」

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いつの間にか日が昇り、カーテンを開ければこの季節特有の冷たい陽の光が降り注いでいた。外気との温度差があるのか窓の外側はうっすらと水滴の幕を作っていたが内側には結露は見られなかった。
ガラスの窓は複層構造らしく手のひらで触れてみてもあまり冷たさを感じられなかった。
遮熱と断熱効果が高められたガラスが使われているようだった。
気持ちを切り替えてと自分に言い聞かせていた。だがこの山荘にいても自分にすることなどなく、ただぼんやりと外を眺めて過ごすか書棚に並べられた本を読むしかなかった。
そこには難しい本ばかりが並べられていた。
法律や経済に関係するものが多く、こんな本を誰が山荘でわざわざ読むのだろうかと思った。だがそんな中にも狩猟に関する本もありそれこそがこの山荘の目的の為もっともふさわし本だと思われた。
英語で書かれた原書も何冊かあった。道明寺のものだろうか?
道明寺家の山荘だ。だれか他の人間が読んでもおかしくはない。
つくしは可能性にかけた。
どうしたらここから抜け出すことが出来る?
少なくとも山荘の中では自由に歩き回ることが出来た。
窓から見える景色は山々ばかりで他には何もなかったとしても一日中人工照明の明かりのもとで過ごしていた地下に比べれば環境は随分と変わっていた。
この一帯は手つかずの大自然が残る地域だった。
山並みは高くそびえ、空の方が近く感じられる程だった。
夜、窓から空を見上げれば、星が降るほど瞬いていた。
望遠鏡で・・昔星空を見たことを思い出していた。
道明寺は毎日ここへ来るわけではなかった。
ここがどこかはわからないが、都心から遠く離れた山の上まで車を走らせることは容易ではないだろう。
あいつだって仕事がある。
世田谷の邸に閉じ込められていたときと違い、そのことだけはつくしの心に気持ちの余裕を与えてくれていた。
なぜならこの場所にいるのは自分ひとりだから。
誰かが鉄の扉を開けて入ってくるのをびくびくしながら待つことはなかった。
同じひとりでも空が見え、外の気配が感じられるだけで気持ちも違う。
ただ、管理人がこの山荘に通い食事の世話をしてくれていた。
はじめはこの状況なら逃げ出せると思っていた。年老いた男性相手ならなんとでもなると考えていた。
だがそれは無理だと学習させられた。大きく外に開かれた窓の下は崖でひとつだけある入口は決して逃げられないようにと管理されていた。
山荘だと思って甘く見ていたのが間違いだった。山荘だからこそ、冬の寒さや雪の重み、獣の進入にそなえ頑丈な造りになっていた。
***
管理人の男性は年の頃はいくつだろう。
頭には白髪が混じり、歩き方や背中の曲がり具合からタマさんと同じくらいに思えたが、はっきりとはわからなかった。
無口なのは必要以上につくしと話をすることを禁じられているからだろうか。
それとも元々が寡黙なのだろうか。
明け方、太陽が昇る前にここにきて日没と共にどこかへと帰っていく。ここに通いで来ると言うことはこの男性の住まいは近くにあると言うことだろう。この場所がどこなのか連れてこられたときは眠っていて記憶がない。眠っていたのか、眠らされていたのかと言われればそれは後者の方だった。
暖炉にくべる薪を割る音がして目が覚めることもあった。
階上にある小さな窓から覗いてみれば、時々その男性と目が遭うことがあった。
監視されているということはわかっている。その目的もあってこの男性はこの場所にいるのだから。
だが徐々に挨拶以外の話も出ることがあった。
暫くだが道明寺がこの場所にこなかった。
つくしがその理由を尋ねることはなかったがその男性が教えてくれた。
坊ちゃんはニューヨークです。
一週間もすれば戻りますからと。
一週間。
毎日こうして顔を合わせていれば、少しは親しく振る舞えるようになったのかもしれない。
ある夕方、食事の準備をしている男性が話かけてきた。
「どうしてこの場所にいるのかと考えているのではないですか?」
それはつくし自身がと言うことなのか、それともその男性がと言うことだろうか。
つくしは自分の身に起きていることはわかっている。
だがこの場所に連れてこられた意味まではわからなかった。
ではこの男性はその意味を知っていると言うのだろうか?
テーブルにひとり座るつくしは男性を見ていた。
「この場所から人家まで人間の足では行けませんよ」
やんわりと逃げても無駄だと言われた気がした。
言わんとすることはわかっていた。
「ここは人里から随分と離れています。この山には獣が沢山いますから・・」
つくしは思い切って聞いてみた。
「・・道明寺のこと、よくご存知なんですか?」
「ええ。もちろん。坊ちゃんがお小さい時からここには旦那様と御一緒によく狩に来られていましたよ」
「子供のころから狩を?」
だが特段驚くほどのことでは無かったのかもしれない。
狩猟は人間の生命を維持する目的の為に行われるものとそうでないものがあった。
英国では伝統的なスポーツとして考えられている。上流社会では昔から行われていたことで英国王室も以前はロンドン近郊に専用の狩場を所有していた。
だがそんなスポーツ的な狩猟も今では残酷な行為として廃止論が高まっている。
「ええ」
「旦那様はひとり息子の坊ちゃまは全てにおいて一番でなければと言うお考えの方でしたので・・」
「ですが・・あまりにも沢山のことを学ばせたせいか・・その反動でしょう。だんだんと生活態度が荒れてくるようになりましてね・・」
男性は手を休めることなく話を続けた。
「中等部に進学するころには手が付けられなくなりました」
つくしはそこから先の話は耳にしたことがあった。
同級生に大けがを負わせ、退学に追い込む・・傍若無人を絵に描いたように無軌道な学生生活を送っていた司に出会ったのはつくしが高等部2年の時だったから。
「司坊ちゃんは・・」
そこまで言いかけた男性は口をつぐんでしまった。
これ以上話をすることは雇い主のプライバシーにかかわると思ったのだろう。
「少し前ですが・・」
「あなたがここに来る前ですが坊ちゃんとわたしは狩に出ました」
秋から春先まで。
この時期は狩猟シーズン真っただ中だった。
「このあたりには猪も出ますが、カモシカもいます」
おもに灰色の毛で覆われた1メートル程の体長をもつ動物。
崖地を好んで生活していた。
「そのときはカモシカに出会いましてね」
「カモシカは非常に好奇心が強い動物でしてね。わざわざ人に姿を見せに出てくることがあるんです」
「山里だと庭先にカモシカがいた、なんてこともあります」
「お嬢さん、アオの寒立(かんだ)ちと言う言葉をご存知ですか?」
「アオの寒立ち・・?」つくしは首を横に振った。
「アオと言うのはマタギの言葉でカモシカのことです。マタギ・・わかりますか?」
「ええ・・東北地方の猟師さんのことですよね?」
どう説明しようかと言葉を探している男性につくしは言った。
「まあ・・だいたいそんな感じです」
「アオの寒立ちというのは・・特に寒い冬の日にカモシカが周囲を見渡せるような高い崖の上で何時間も立ったまま、動かないことがあるんですがその状況を言います」
「まるでそれは下界を見下ろす森の神の使いのように・・」
男性はひと息ついて言葉を継いだ。
「坊ちゃんとわたしは出会ったんですよ、そんなアオに・・」
「ひどく寒い日でした。じっと私たちの方を見ているんです。美しい立姿でこちらを見ていました」
「坊ちゃんは・・目が離せなくなったようでした。まるでアオに魅せられてアオと話でもしているかのようでしたね。
アオはとても敏捷なんですが射程距離にいましたからいつでも撃つことは出来ました。
ですがニホンカモシカは国の天然記念物に指定されてますから本来は撃つことは出来ません」
つくしは背中に冷たいものが走ったような気がした。
「アオはおどおどとしたところなど無く、黒々とした丸い目でじっとこちらを見ていました。坊ちゃんは何を思ったのか・・・アオの方へ近づいて行こうとしました。相手は崖の上ですから近づくことは出来るはずがないんですが・・まるでアオに呼ばれたようでした」
「それで・・・道明寺は・・そのカモシカを・・」
「仕留めたかどうかですか?」
男性は憂いを秘めた目でつくしを見た。
「いえ。残念ながら。坊ちゃんは撃ちませんでした」
「天然記念物ですのでむやみに捕獲は出来ません。ですが・・ここのお家の方々はそんなことに気を配られるような方々ではございませんが」
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「暫くじっとしていましたが、急斜面を難なく駆け上がり林の中に姿を消しました」
「逃げましたよ。坊ちゃんの前から」

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Comment:2
コメント
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as***na様
か、怪談ですか?(笑)
本当にそれはどんな感じですか?(笑)
と突っ込みをいれたくなります。
怪談話もいいですね。
そう言うお話も好きですのでいつか書くかもしれません。
コメント有難うございました(^^)
か、怪談ですか?(笑)
本当にそれはどんな感じですか?(笑)
と突っ込みをいれたくなります。
怪談話もいいですね。
そう言うお話も好きですのでいつか書くかもしれません。
コメント有難うございました(^^)
アカシア
2016.02.28 21:33 | 編集
