パーティー会場から逃げ出した司は地下にある駐車場を目指し走っていた。
だがそんな司を女たちが追ってきた。
「ツカサ!どうして逃げるのよ!」
「ちょっと!私とのことは遊びだったの?!」
「ねえ!感謝祭の前の日の夜に言ったことは嘘だったの?!」
「一緒にジェットコースターに乗ったとき私のことを好きだと言ったじゃない!」
「ハワイで夕陽を見ながらクルージングしたとき愛してるって言ったわよね?!」
「シドニーのオペラハウスで一緒にオペラを見たとき私の手を握って永遠の愛を君に誓うって言ったわよね?」
「独立記念日の花火を見ながら二人の未来のためにってワインで乾杯したわよね!」
「サンモリッツのスキー場でゲレンデが溶けるほどの恋がしたいって言ったわよね!」
「カリブ海で海賊の船を撃沈させたとき、これで世界はふたりのものだって言ったわよね!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサーーーーー!!!」
叫びながら追いかけてくるパーティードレスの女たち。
そんな女たちの口から銃弾よろしく、ほとばしる言葉は全て嘘でそんなことを言った覚えもなければ、した覚えもない。大体ジェットコースターなどこれまでの人生の中で一度も乗ったことがない。いや、ジェトコースターのような恋ならしたことがある。そう、あの時は時のレールを走りながら恋人の手をしっかりと握りしめていた。
それに恋人とはハワイで夕陽を見ながらクルージングをしたことがある。シドニーのオペラハウスで有名オペラ歌手の舞台を見たこともある。アメリカ独立記念日の夜。ニューヨークで打ち上げられる花火を見たこともある。
だがカリブで海賊と闘ったことなどない。あの女は現実と映画を混同している。
それに誰かと闘わなくても、すでに世界は司のものだ。
だが司は振り返った時に見た女たちが髪を振り乱して追いかけてくる姿に恐怖を感じ、背中がゾクリとした。
それに今のこの状況は現実とは思えず、何か得体のしれない力が行使されているような気がしていた。
__もしかして神は何もかもを持つ司を憎んでいるのか。
もしそうだとすれば、これから地獄への転落が始まるのか。
だが司は地獄になど落ちたくはなかった。
だから女たちに掴まるわけにはいかなかった。
それにもし仮に地獄に落ちるのなら、それは恋人のためであって訳の分からない女たちのためであってはならない。
司は地下駐車場に降りてくると自分が乗ってきた車を見つけた。
運転手はいつでも車を出せるようにスタンバイしている。
だから車に向かって走って来る司を見た運転手は、後部座席のドアを開けて待っていた。
「出せ!」
司は座席に滑り込むと一秒も無駄にすることなく運転手に言った。
すると運転手はすぐに車を出した。
司は助かった。
落ち着こうと、大きく息を吐いた。
そして呟いた。
「けどマジでどうなってるんだ……」
すると運転手が言った。
「ツカサ様。これはもしかすると邪(よこしま)なものの仕業かもしれません」
「邪(よこしま)…..なもの?」
司はこの運転手は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は真剣な声で答えた。
「はい。イーブル・スピリットのせいではないでしょか」
「イーブル・スピリット?」
「はい」
イーブル・スピリットとは悪霊のこと。
司はますますこの男は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は神妙な口調で話し始めた。
「邪(よこしま)な力というものは聖なる力が失われたときにやってきます。ツカサ様は今、聖なる力を失っておられるのではないですか?ですからあのような災いが起きたのです」
司は、ばかばかしいと笑い飛ばそうとした。
だが何故か出来なかった。
それは司にとって生きる糧と言える恋人が司の浮気を疑い電話にも出ない。メールの返信もしないこの状況は、司の存在が無視されていることと同じであり、そのことによって聖なる力が失われていると言っても過言ではないからだ。
「ツカサ様。私はカトリックです。悪いものが憑いているときは司祭様にお願いしてお清めしてもらうのが一番です。今から私が通う教会の司祭様の元へ参りましょう」
と言うと運転手はハンドルを左に切った。
そして「冷たい飲み物をご用意してございますので、どうぞお飲みください」と言った。
***
信仰のない司は教会に行くのは気が進まなかった。
だが車を降りると運転手の後に続いた。
それは意志とは関係なく足が動いたから。
そして教会の中に入った運転手は恭しい態度で司祭に司を紹介した。
それから司の身の上に起こった災難について話をした。すると司祭は厳かな口調で「分かりました。清めを行いましょう」と言った。
キリスト教の基盤を持たない人間は教会で行われる清めがどんなものなのか知らない。
だから司は清めと訊いてオカルト映画の悪魔祓いのようなものを想像していた。
それは司祭が祈りの言葉を唱え十字架を掲げると、窓がガタガタと揺れて明かりが消え、バーンと部屋の扉が開いて部屋の中に風が吹き荒れる。ガラスが割れ、家具や調度品が揺れ始め置いてあるものが部屋の中を飛び回る。そして清めを受けている人間の首が360度回転すると白目を剥き出しにして不気味に笑い汚い言葉で司祭を罵る。
だから司は身体を硬くして自分の身に起こることに身構えた。
だが穏やかな祈りの声が続き、聖水が降りかけられても、そういったことは全く起こらなかった。やがて儀式が終ると、司祭は司に向かい真摯な表情で言った。
「心配しなくても大丈夫です。あなたに悪い霊は憑いていません」
司はホッとした。
だが「しかし」と司祭は言葉を継いだ。
そして「悪い霊は憑いていないのですが女性の生き霊が憑いています」と言った。
「い、生き霊?」
「はい。あなたは大切な女性を裏切ったのでは?だからその女性の生き霊が憑いています。自分を棄てて他の女の元に行くあなたに対して恨みを持っているようです」
「おい、待て。待ってくれ。俺は裏切ってなどいない。他に女はいない。それにあれは陰謀だ。誰かが俺を罠に嵌め__」
司はそこまで言ってから、自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。
そうだ。これは夢だ。
これは夢の中の話で現実ではない。
何しろこれまでも何度かおかしな夢を見たことがあった。
つまりこれは夢で何も心配することはない。
目が覚めればそこに恋人がいて司のことを愛してくれている。
だから司は頬を叩いて目を覚まそうとした。
だがいくら頬を叩いても何かが変わることはなかった。
そんな司を見ていた司祭は驚いた様子で言った。
「いかん。彼は自分で自分を傷つけようとしている。そんなことをするのは悪魔が彼の中に入ったからだ。彼は女の生き霊に殺されようとしている」
司は「違う。そうじゃない!」と叫び声を上げた。だがそれはつもりであり声にならなかった。
そんな司に司祭は十字架を手にすると、その声で魑魅魍魎を退散させようとするように声を張り上げた。
「父なる神と子なるイエス・キリストよ。邪悪な力からこの男を守りたまえ!」
と言ったが、これはまさにオカルト映画の展開だ。
そして「イエス・キリストの名において汝に命じる。悪魔よ!この男から立ち去れ!ここを去り元の世界へ戻れ!」と叫んだ。
それにしても何故声が出ない?
司は口を開けたが浜に打ち上げられた魚のようにパクパクとするだけだ。
そんな司の様子に運転手は「司祭様。生き霊はツカサ様の声を奪ったようです」と言ってから祈りの言葉を口にすると大仰な仕草で十字を切った。
すると司祭は「悪魔というのは信ずるものを持たない人間の心をいとも簡単に乗っ取ることが出来ます。声が出ないというのは悪魔が彼の心に手を伸ばしている証拠です」と言った。
司は再び「違う。そうじゃない!」と言ったつもりだったが、ふたりの耳には届かなかった。
そして今度は身体が動かなくなった。
立っている場所から一歩も動くことが出来なかった。
「司祭様、大変です!生き霊はツカサ様の身体の動きを奪ったようです!」
運転手は司祭に向かって言うと今度は司に向かって、「ツカサ様、生き霊に負けてはなりません。頑張って下さい!」と励ました。
すると司祭は、「ご安心なさい。主(しゅ)は救いを求めてやってくる者を拒むことはしません」と司に言った。
そして運転手に向かい「私はあなたの主(あるじ)を助けます」と言った。
そして、やにわに懐からナイフを取り出した。
「いいですか?悪魔との闘いは時に死を覚悟しなければなりません」
そう言った司祭は運転手と視線を交わし、うなずき合った。
司は嫌な予感がした。それはもしかすると自分はあのナイフで刺されるのではないかということ。
つまりナイフを手に近づいてくる司祭は本当の司祭ではなく偽者。そして運転手もまたしかり。
これは司を亡き者にしようとしている誰かの陰謀で、車の中で運転手が飲むように言った飲み物には身体の自由を奪うものが入っていたということだ。
司は逃げようとした。
だが身体が動かないのだから、逃げようにも逃げることが出来なかった。
そこまで読み終えると、司はノートを置いた。
「いかがですか?私が書いた物語は?」
西田は小説を書いた。
それは趣味で書いていたもの。
西田は、そのノートを秘書室の自分の机の上に出しっぱなしにして化粧室へ行った。
秘書室に西田を探しにきた司は、不注意でそのノートを床に落とした。
そのとき開いたページに自分の名前を見つけたことから、西田が司を主人公に物語を書いていることを知った。
西田は物語を途中まで読んだ司に感想を求めた。
すると返ってきた言葉は、「西田。悪いがお前には小説家の才能はない」だった。
「何故でしょう」
西田は訊いた。
「言ったとおりだ。お前には才能がない」
「ですから何故でしょう」
「いいか、西田。お前の書いている話は荒唐無稽だ。はじめは恋愛かと思ったら次第にホラーの様相を呈してきた。そして今度はサスペンスに傾き始めた。一体お前はどんな分野の話を書こうとしている?それに何で俺が主人公なんだ?」
そう訊かれた西田は言った。
「はい。分野は別としても支社長が主人公であれば、どんな分野の話もヒーローとして成り立つと思ったからです。何しろ支社長はこれまでビジネスに於いても私生活に於いても様々な場面で様々な経験をされています。その経験値の高さから、どんな物語であっても主役に相応しい。そんな思いから支社長を主人公にしました」
それを訊いた司は嬉しい気持が湧き上がった。
そして「まあ、いい。俺が主人公でも構わないが、最後はハッピーエンドで終わらせてくれ。いいか?間違っても主人公が死ぬとか、恋人と別れるとかは止めてくれ」と言った。
西田は上機嫌で執務室を出て行く男を見送ったが、男の行先は分かっている。
そこは社内にいる恋人の部署だ。
西田は机の上に置かれたノートを手に取った。
そしてひとりごちた。
「司様。司様が主人公である本当の理由は、あなたが物語にしたいほど劇的な本物の人生を歩んでいるからです」
西田は男が少年の頃から男の傍にいた。
そして男の成長を見守ってきた。
だから男のある意味で波乱に満ちた人生を知っている。
自暴自棄になりかけた男の姿を知っている。
しかし、本当の幸せというものを知った男は人間が生きることの大切さを知った。
「さてここから先は危険なアクションシーンが満載なのです。もっとも、道明寺司ならどんなアクションシーンもそつなくこなすでしょうから心配しておりません。ですが、やはり最後は違う。そうじゃないと言われないように、あの方と結ばれる。そんな最後を執筆いたしましたのでご安心下さい」
そして司が読まなかった物語の続きが書かれているページを開いた。

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「ツカサ!どうして逃げるのよ!」
「ちょっと!私とのことは遊びだったの?!」
「ねえ!感謝祭の前の日の夜に言ったことは嘘だったの?!」
「一緒にジェットコースターに乗ったとき私のことを好きだと言ったじゃない!」
「ハワイで夕陽を見ながらクルージングしたとき愛してるって言ったわよね?!」
「シドニーのオペラハウスで一緒にオペラを見たとき私の手を握って永遠の愛を君に誓うって言ったわよね?」
「独立記念日の花火を見ながら二人の未来のためにってワインで乾杯したわよね!」
「サンモリッツのスキー場でゲレンデが溶けるほどの恋がしたいって言ったわよね!」
「カリブ海で海賊の船を撃沈させたとき、これで世界はふたりのものだって言ったわよね!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサ!」
「ツカサーーーーー!!!」
叫びながら追いかけてくるパーティードレスの女たち。
そんな女たちの口から銃弾よろしく、ほとばしる言葉は全て嘘でそんなことを言った覚えもなければ、した覚えもない。大体ジェットコースターなどこれまでの人生の中で一度も乗ったことがない。いや、ジェトコースターのような恋ならしたことがある。そう、あの時は時のレールを走りながら恋人の手をしっかりと握りしめていた。
それに恋人とはハワイで夕陽を見ながらクルージングをしたことがある。シドニーのオペラハウスで有名オペラ歌手の舞台を見たこともある。アメリカ独立記念日の夜。ニューヨークで打ち上げられる花火を見たこともある。
だがカリブで海賊と闘ったことなどない。あの女は現実と映画を混同している。
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だが司は振り返った時に見た女たちが髪を振り乱して追いかけてくる姿に恐怖を感じ、背中がゾクリとした。
それに今のこの状況は現実とは思えず、何か得体のしれない力が行使されているような気がしていた。
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もしそうだとすれば、これから地獄への転落が始まるのか。
だが司は地獄になど落ちたくはなかった。
だから女たちに掴まるわけにはいかなかった。
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司は地下駐車場に降りてくると自分が乗ってきた車を見つけた。
運転手はいつでも車を出せるようにスタンバイしている。
だから車に向かって走って来る司を見た運転手は、後部座席のドアを開けて待っていた。
「出せ!」
司は座席に滑り込むと一秒も無駄にすることなく運転手に言った。
すると運転手はすぐに車を出した。
司は助かった。
落ち着こうと、大きく息を吐いた。
そして呟いた。
「けどマジでどうなってるんだ……」
すると運転手が言った。
「ツカサ様。これはもしかすると邪(よこしま)なものの仕業かもしれません」
「邪(よこしま)…..なもの?」
司はこの運転手は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は真剣な声で答えた。
「はい。イーブル・スピリットのせいではないでしょか」
「イーブル・スピリット?」
「はい」
イーブル・スピリットとは悪霊のこと。
司はますますこの男は何を言っているんだという思いで言ったが、運転手は神妙な口調で話し始めた。
「邪(よこしま)な力というものは聖なる力が失われたときにやってきます。ツカサ様は今、聖なる力を失っておられるのではないですか?ですからあのような災いが起きたのです」
司は、ばかばかしいと笑い飛ばそうとした。
だが何故か出来なかった。
それは司にとって生きる糧と言える恋人が司の浮気を疑い電話にも出ない。メールの返信もしないこの状況は、司の存在が無視されていることと同じであり、そのことによって聖なる力が失われていると言っても過言ではないからだ。
「ツカサ様。私はカトリックです。悪いものが憑いているときは司祭様にお願いしてお清めしてもらうのが一番です。今から私が通う教会の司祭様の元へ参りましょう」
と言うと運転手はハンドルを左に切った。
そして「冷たい飲み物をご用意してございますので、どうぞお飲みください」と言った。
***
信仰のない司は教会に行くのは気が進まなかった。
だが車を降りると運転手の後に続いた。
それは意志とは関係なく足が動いたから。
そして教会の中に入った運転手は恭しい態度で司祭に司を紹介した。
それから司の身の上に起こった災難について話をした。すると司祭は厳かな口調で「分かりました。清めを行いましょう」と言った。
キリスト教の基盤を持たない人間は教会で行われる清めがどんなものなのか知らない。
だから司は清めと訊いてオカルト映画の悪魔祓いのようなものを想像していた。
それは司祭が祈りの言葉を唱え十字架を掲げると、窓がガタガタと揺れて明かりが消え、バーンと部屋の扉が開いて部屋の中に風が吹き荒れる。ガラスが割れ、家具や調度品が揺れ始め置いてあるものが部屋の中を飛び回る。そして清めを受けている人間の首が360度回転すると白目を剥き出しにして不気味に笑い汚い言葉で司祭を罵る。
だから司は身体を硬くして自分の身に起こることに身構えた。
だが穏やかな祈りの声が続き、聖水が降りかけられても、そういったことは全く起こらなかった。やがて儀式が終ると、司祭は司に向かい真摯な表情で言った。
「心配しなくても大丈夫です。あなたに悪い霊は憑いていません」
司はホッとした。
だが「しかし」と司祭は言葉を継いだ。
そして「悪い霊は憑いていないのですが女性の生き霊が憑いています」と言った。
「い、生き霊?」
「はい。あなたは大切な女性を裏切ったのでは?だからその女性の生き霊が憑いています。自分を棄てて他の女の元に行くあなたに対して恨みを持っているようです」
「おい、待て。待ってくれ。俺は裏切ってなどいない。他に女はいない。それにあれは陰謀だ。誰かが俺を罠に嵌め__」
司はそこまで言ってから、自分は悪い夢を見ているのではないかと思った。
そうだ。これは夢だ。
これは夢の中の話で現実ではない。
何しろこれまでも何度かおかしな夢を見たことがあった。
つまりこれは夢で何も心配することはない。
目が覚めればそこに恋人がいて司のことを愛してくれている。
だから司は頬を叩いて目を覚まそうとした。
だがいくら頬を叩いても何かが変わることはなかった。
そんな司を見ていた司祭は驚いた様子で言った。
「いかん。彼は自分で自分を傷つけようとしている。そんなことをするのは悪魔が彼の中に入ったからだ。彼は女の生き霊に殺されようとしている」
司は「違う。そうじゃない!」と叫び声を上げた。だがそれはつもりであり声にならなかった。
そんな司に司祭は十字架を手にすると、その声で魑魅魍魎を退散させようとするように声を張り上げた。
「父なる神と子なるイエス・キリストよ。邪悪な力からこの男を守りたまえ!」
と言ったが、これはまさにオカルト映画の展開だ。
そして「イエス・キリストの名において汝に命じる。悪魔よ!この男から立ち去れ!ここを去り元の世界へ戻れ!」と叫んだ。
それにしても何故声が出ない?
司は口を開けたが浜に打ち上げられた魚のようにパクパクとするだけだ。
そんな司の様子に運転手は「司祭様。生き霊はツカサ様の声を奪ったようです」と言ってから祈りの言葉を口にすると大仰な仕草で十字を切った。
すると司祭は「悪魔というのは信ずるものを持たない人間の心をいとも簡単に乗っ取ることが出来ます。声が出ないというのは悪魔が彼の心に手を伸ばしている証拠です」と言った。
司は再び「違う。そうじゃない!」と言ったつもりだったが、ふたりの耳には届かなかった。
そして今度は身体が動かなくなった。
立っている場所から一歩も動くことが出来なかった。
「司祭様、大変です!生き霊はツカサ様の身体の動きを奪ったようです!」
運転手は司祭に向かって言うと今度は司に向かって、「ツカサ様、生き霊に負けてはなりません。頑張って下さい!」と励ました。
すると司祭は、「ご安心なさい。主(しゅ)は救いを求めてやってくる者を拒むことはしません」と司に言った。
そして運転手に向かい「私はあなたの主(あるじ)を助けます」と言った。
そして、やにわに懐からナイフを取り出した。
「いいですか?悪魔との闘いは時に死を覚悟しなければなりません」
そう言った司祭は運転手と視線を交わし、うなずき合った。
司は嫌な予感がした。それはもしかすると自分はあのナイフで刺されるのではないかということ。
つまりナイフを手に近づいてくる司祭は本当の司祭ではなく偽者。そして運転手もまたしかり。
これは司を亡き者にしようとしている誰かの陰謀で、車の中で運転手が飲むように言った飲み物には身体の自由を奪うものが入っていたということだ。
司は逃げようとした。
だが身体が動かないのだから、逃げようにも逃げることが出来なかった。
そこまで読み終えると、司はノートを置いた。
「いかがですか?私が書いた物語は?」
西田は小説を書いた。
それは趣味で書いていたもの。
西田は、そのノートを秘書室の自分の机の上に出しっぱなしにして化粧室へ行った。
秘書室に西田を探しにきた司は、不注意でそのノートを床に落とした。
そのとき開いたページに自分の名前を見つけたことから、西田が司を主人公に物語を書いていることを知った。
西田は物語を途中まで読んだ司に感想を求めた。
すると返ってきた言葉は、「西田。悪いがお前には小説家の才能はない」だった。
「何故でしょう」
西田は訊いた。
「言ったとおりだ。お前には才能がない」
「ですから何故でしょう」
「いいか、西田。お前の書いている話は荒唐無稽だ。はじめは恋愛かと思ったら次第にホラーの様相を呈してきた。そして今度はサスペンスに傾き始めた。一体お前はどんな分野の話を書こうとしている?それに何で俺が主人公なんだ?」
そう訊かれた西田は言った。
「はい。分野は別としても支社長が主人公であれば、どんな分野の話もヒーローとして成り立つと思ったからです。何しろ支社長はこれまでビジネスに於いても私生活に於いても様々な場面で様々な経験をされています。その経験値の高さから、どんな物語であっても主役に相応しい。そんな思いから支社長を主人公にしました」
それを訊いた司は嬉しい気持が湧き上がった。
そして「まあ、いい。俺が主人公でも構わないが、最後はハッピーエンドで終わらせてくれ。いいか?間違っても主人公が死ぬとか、恋人と別れるとかは止めてくれ」と言った。
西田は上機嫌で執務室を出て行く男を見送ったが、男の行先は分かっている。
そこは社内にいる恋人の部署だ。
西田は机の上に置かれたノートを手に取った。
そしてひとりごちた。
「司様。司様が主人公である本当の理由は、あなたが物語にしたいほど劇的な本物の人生を歩んでいるからです」
西田は男が少年の頃から男の傍にいた。
そして男の成長を見守ってきた。
だから男のある意味で波乱に満ちた人生を知っている。
自暴自棄になりかけた男の姿を知っている。
しかし、本当の幸せというものを知った男は人間が生きることの大切さを知った。
「さてここから先は危険なアクションシーンが満載なのです。もっとも、道明寺司ならどんなアクションシーンもそつなくこなすでしょうから心配しておりません。ですが、やはり最後は違う。そうじゃないと言われないように、あの方と結ばれる。そんな最後を執筆いたしましたのでご安心下さい」
そして司が読まなかった物語の続きが書かれているページを開いた。

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Comment:1
それにしても恋人はどうして司の言葉を信じないのか。
だが、それらのことを別としても思うことがある。
それは恋人が何故あの時間、あの場所にいたのかということ。
恋人は会社員で平日のあの時間は仕事中だったはずだ。
だからあのことが何故か仕組まれたような気がしてならない。
誰かが司と恋人との間に揉め事を起こし、ふたりの仲を引き裂こうとしているのではないか。
もしかして母親の楓か?
いや。そんなはずはない。
かつて恋人のことを認めなかった母親も今では彼女のことを知り、その人間性を認めている。だから母親が司と恋人の仲を邪魔することはない。
それなら誰が?ということになるが、今はそれよりも恋人の誤解を解くのが先だ。
だから司は仕事の間に日本に電話をした。
しかし恋人は電話に出てはくれなかった。
メールを送っても返事はなかった。
そして今夜の司は社長である楓の命令でパーティーに出ることになっていたが、朝からスケジュールの変更があり忙しく食事が取れなかった。だから何も口にしていなかった。
すると秘書の西田が移動中の車の中で「支社長。どうぞこちらをお召し上がりください」と言って箱を差し出した。
差し出された箱の中身はクッキー。
西田はニューヨークでは色々な物が流行るが、今この街で流行っているのがこのクッキーだと言った。そして「それからこちらのクッキーは失われた恋が戻ると言われているそうです」と言葉を継いだ。
司は迷信やまじないを信じる人間ではない。
それに西田もそんな人間ではない。
だが西田は自分が仕える男が恋人に相手にされない状況に思うことがあったのかもしれない。それは慰めようという思い。だから司は秘書の気持を汲んでクッキーをつまむと口に入れた。
***
「司くん。久し振りだね。元気そうでなりよりだ。それからその節は世話になったね」
パーティー会場で声をかけてきたのは、ニューヨークで会社を経営する日本人男性。
「平岡社長もお元気そうでなによりです。こちらこそ、その節は大変お世話になりました」
司はビジネスマンだ。
だからその節が、どの節だろうと取りあえず挨拶を返した。
「ところで司くん。今日は娘が一緒なんだが紹介させてくれないか」
司は大人になった。
だから娘を紹介させてくれと言われて露骨に嫌だとは言わない。
ただ自分には恋人がいて他の女に興味がないことを伝えるだけだ。
だから「申し訳けないのですが、私には_」と言いかけたところで誰かが名前を呼んだ。
「ツカサ!」
司の名前を呼んで近づいてきたのは小柄なブロンドの女。
そして次に「ツカサ!」と呼んで近づいてきたのは大柄の赤毛の女。
それにもうひとりダークブランの髪の女も「ツカサ!」と名前を呼んで近づいてきたが、司は三人の女に見覚えがなかった。
だが三人の女達は眉を上げて司に迫ってきた。
司がこれまで浴びてきたのは思わせぶりな視線や、望みをこめた眼差し。
それにさりげない様子で近づいてくる偶然を装った出会いだ。
だが今、三人の女達から感じられるのは、司の額に銃を突き付けて引き金を引いてやろうかという思い。そしてここはアメリカだ。だから女達が手にしている口紅しか入らないようなクラッチバッグの中に銃が入っていて、突然額の真ん中に銃口が押し付けられてもおかしくはない。
だがそれにしても、何故三人の女達は怒りに満ちた顔で自分に迫ってくるのか。
そして司は直感的に後ろを振り向いた。
すると振り向いた司の背後には女が10人くらい立っていた。
その中でひときわ目を惹くのは、眉間に皺を寄せた真っ赤なロングドレスの女。黒髪で背が高くドレスの中に射程距離の長いライフルを隠していてもおかしくないようなその女が言った。
「ツカサ!あなたの本命は誰なのか。ここではっきり聞かせてちょうだい!」
司は言葉が出なかった。
それはこの状況が理解できなくて言語中枢が一時的に凍り付いたから。
だがすぐにシナプスは機能し始めた。
そして「お、お前ら一体なんなんだよ!」と言った。
すると女達は口々に言った。
「ちょっと!何よそれ!」
「ツカサ!あなた愛してるのは私だけだって言ったじゃない!」
「なんですって!ツカサ!あなた私と結婚するって言ったわよね!?」
「バカなことを言わないでよ!ツカサは私と結婚するのよ!」
「バカはアンタの方でしょ!」
「うるさいわね!代用品は黙ってなさい!」
「誰が代用品ですって!」
「なによ!このメギツネ女!」
「サソリ女!」
司はゾッとした。
司はそういう男じゃない。
はじめて愛した人は今の恋人で、それ以来他の女を好きになったことはない。
当然だが他の女と寝たこともない。
だからこの状況は悪い夢だ。
司は修羅場と化したパーティー会場から逃げ出した。

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だが、それらのことを別としても思うことがある。
それは恋人が何故あの時間、あの場所にいたのかということ。
恋人は会社員で平日のあの時間は仕事中だったはずだ。
だからあのことが何故か仕組まれたような気がしてならない。
誰かが司と恋人との間に揉め事を起こし、ふたりの仲を引き裂こうとしているのではないか。
もしかして母親の楓か?
いや。そんなはずはない。
かつて恋人のことを認めなかった母親も今では彼女のことを知り、その人間性を認めている。だから母親が司と恋人の仲を邪魔することはない。
それなら誰が?ということになるが、今はそれよりも恋人の誤解を解くのが先だ。
だから司は仕事の間に日本に電話をした。
しかし恋人は電話に出てはくれなかった。
メールを送っても返事はなかった。
そして今夜の司は社長である楓の命令でパーティーに出ることになっていたが、朝からスケジュールの変更があり忙しく食事が取れなかった。だから何も口にしていなかった。
すると秘書の西田が移動中の車の中で「支社長。どうぞこちらをお召し上がりください」と言って箱を差し出した。
差し出された箱の中身はクッキー。
西田はニューヨークでは色々な物が流行るが、今この街で流行っているのがこのクッキーだと言った。そして「それからこちらのクッキーは失われた恋が戻ると言われているそうです」と言葉を継いだ。
司は迷信やまじないを信じる人間ではない。
それに西田もそんな人間ではない。
だが西田は自分が仕える男が恋人に相手にされない状況に思うことがあったのかもしれない。それは慰めようという思い。だから司は秘書の気持を汲んでクッキーをつまむと口に入れた。
***
「司くん。久し振りだね。元気そうでなりよりだ。それからその節は世話になったね」
パーティー会場で声をかけてきたのは、ニューヨークで会社を経営する日本人男性。
「平岡社長もお元気そうでなによりです。こちらこそ、その節は大変お世話になりました」
司はビジネスマンだ。
だからその節が、どの節だろうと取りあえず挨拶を返した。
「ところで司くん。今日は娘が一緒なんだが紹介させてくれないか」
司は大人になった。
だから娘を紹介させてくれと言われて露骨に嫌だとは言わない。
ただ自分には恋人がいて他の女に興味がないことを伝えるだけだ。
だから「申し訳けないのですが、私には_」と言いかけたところで誰かが名前を呼んだ。
「ツカサ!」
司の名前を呼んで近づいてきたのは小柄なブロンドの女。
そして次に「ツカサ!」と呼んで近づいてきたのは大柄の赤毛の女。
それにもうひとりダークブランの髪の女も「ツカサ!」と名前を呼んで近づいてきたが、司は三人の女に見覚えがなかった。
だが三人の女達は眉を上げて司に迫ってきた。
司がこれまで浴びてきたのは思わせぶりな視線や、望みをこめた眼差し。
それにさりげない様子で近づいてくる偶然を装った出会いだ。
だが今、三人の女達から感じられるのは、司の額に銃を突き付けて引き金を引いてやろうかという思い。そしてここはアメリカだ。だから女達が手にしている口紅しか入らないようなクラッチバッグの中に銃が入っていて、突然額の真ん中に銃口が押し付けられてもおかしくはない。
だがそれにしても、何故三人の女達は怒りに満ちた顔で自分に迫ってくるのか。
そして司は直感的に後ろを振り向いた。
すると振り向いた司の背後には女が10人くらい立っていた。
その中でひときわ目を惹くのは、眉間に皺を寄せた真っ赤なロングドレスの女。黒髪で背が高くドレスの中に射程距離の長いライフルを隠していてもおかしくないようなその女が言った。
「ツカサ!あなたの本命は誰なのか。ここではっきり聞かせてちょうだい!」
司は言葉が出なかった。
それはこの状況が理解できなくて言語中枢が一時的に凍り付いたから。
だがすぐにシナプスは機能し始めた。
そして「お、お前ら一体なんなんだよ!」と言った。
すると女達は口々に言った。
「ちょっと!何よそれ!」
「ツカサ!あなた愛してるのは私だけだって言ったじゃない!」
「なんですって!ツカサ!あなた私と結婚するって言ったわよね!?」
「バカなことを言わないでよ!ツカサは私と結婚するのよ!」
「バカはアンタの方でしょ!」
「うるさいわね!代用品は黙ってなさい!」
「誰が代用品ですって!」
「なによ!このメギツネ女!」
「サソリ女!」
司はゾッとした。
司はそういう男じゃない。
はじめて愛した人は今の恋人で、それ以来他の女を好きになったことはない。
当然だが他の女と寝たこともない。
だからこの状況は悪い夢だ。
司は修羅場と化したパーティー会場から逃げ出した。

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「違う、違う。そうじゃない。そうじゃない!まて、待ってくれ!誤解だ!」
男は叫んだが女は背中を向け去って行った。
叫んだ男は金も権力も持つ男。
体脂肪が4.8パーセントしかない男。
おかしいくらい濃くて長い睫毛を持つ男。
そして、コンプレックスなど無いと言われる男。
つまり男は男性的魅力を持つ男で神の憐憫の情を必要としない男。
そんな男が恋人にフラれた。
そしてそんな男の前にいるのは心配する男。
面白そうに笑う男
それから喜ぶ男だ。
「おい司。お前、牧野に何をした?」
「わはは!司。お前、ついに牧野にフラれたか!」
「ふーん。司、牧野にフラれたんだ。じゃ俺、シャンパン持って牧野んとこ行かなきゃ」
最後の言葉を発した男はかつての司の恋のライバル。
だから司はその男が立ち上がろうとしたところで睨んだ。
「それにしてもお前。何でフラれた?」
それは三人の男達の誰もが知りたいこと。
だが司は口を閉ざしたまま開かなかった。
しかしそれでは問題は解決しない。
「………た」
「は?何だって?」
「あいつに見られた」
「見られたって…..何を見られたんだ?」
「だから他の女とキスしているところを見られた」
「おいお前….他の女とキスって…..」
「やるじゃん司。ついにお前も牧野以外の女とキスしたいと思ったってわけか」
「へえ….司が牧野以外の女とキスねえ」
司は牧野つくしと知り合う前まで挨拶のひとつとしてキスを受け入れていたことがあった。
だが好きでキスをしたことはなく、女たちが勝手に唇を合わせていただけ。
だから彼女を知って他の女とのキスは気持ちの悪いものになった。
それ以来彼女以外の女と唇を重ねたことはない。
そんな司にキスしてきたのはニューヨーク留学時代の同窓生。
父親はフランス人のダイヤモンド商で母親は日本人。
そして女性は新進気鋭のジュエリーデザイナー。
司は恋人に特別なジュエリーを贈ることを決めた。
それは二人が出逢ったことを記念するためのもの。
だからその制作を同窓生の女性に依頼した。
だが何故その女性に依頼したか。それは女性が建築学を学び独創的でありながら、繊細かつ女性らしさを意識させるデザインを得意としているから。
だから司は女性に恋人のことを話し、彼女をイメージしたジュエリーを作らせた。
そして仕上がったと連絡を受けた司は待ち合わせをした店で、そのジュエリーを受け取り、女性に礼を言ってふたりで店の外に出たが、彼女はフランス人の習慣で別れ際に司の頬にキスをした。だがそれは頬を合わせてリップ音を立てる「ビズ」というフランスでは定番中の定番の挨拶であり唇はどこにも触れていない。だがその瞬間を見た恋人はふたりがキスをしていると誤解をした。そして、よりにもよって司が喜んで女のキスを受け入れ、女を抱きしめようとしていると勘違いをした。
司は背中を向けて走り出した恋人を追いかけた。
追いついて腕を掴んで振り向かせた。
だが振り払われた。
そして浮気をしていると疑って決めつけた。
本来、恋人はやきもち焼きかと言われれば、そうではない。
恋人は、さっぱりとした性格をしている。
だが、こと恋愛に関してはいじいじと考え込む。
だから居もしない女の話を勝手にこじらせて、ひとりで思い詰めていく恐れがある。
挙句の果てに考え過ぎてどうすればいいのか分からなくなってしまう。
そして渡るはずの石橋を叩いても渡ることを止め、別の橋を渡ろうとする。
それはかつて司と恋人の間に起きた雨の日の別れ。
だから今回のことは説明すれば分かってくれるはずなのだが事実を話したくなかった。
何故ならこれは秘密にしておきたいプレゼント。
だから司は幼馴染みである三人の男達にどうすれば彼女の誤解を解くことができるか訊くことにした。そして聖書に出て来る東方の三賢者よろしく問題を解決する知恵を授けてくれることを期待したのだが、彼らから返されたのは、「司よ。お前もいい年をした大人だろ?自分の身に降りかかった災難は自分で解決しろ」だった。
司は恋人以外の女に1ミリたりとも興味を持ったことはない。
それに司は誰かと違って何人もの女と同時に付き合えるような器用な男ではない。
だから司は、あれは誤解だと説明しようとした。
しかし、恋人は電話にも出てくれなければ会ってもくれなかった。
そしてそれから数日後、司は恋人に会えないまま仕事でニューヨークへ向かった。

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男は叫んだが女は背中を向け去って行った。
叫んだ男は金も権力も持つ男。
体脂肪が4.8パーセントしかない男。
おかしいくらい濃くて長い睫毛を持つ男。
そして、コンプレックスなど無いと言われる男。
つまり男は男性的魅力を持つ男で神の憐憫の情を必要としない男。
そんな男が恋人にフラれた。
そしてそんな男の前にいるのは心配する男。
面白そうに笑う男
それから喜ぶ男だ。
「おい司。お前、牧野に何をした?」
「わはは!司。お前、ついに牧野にフラれたか!」
「ふーん。司、牧野にフラれたんだ。じゃ俺、シャンパン持って牧野んとこ行かなきゃ」
最後の言葉を発した男はかつての司の恋のライバル。
だから司はその男が立ち上がろうとしたところで睨んだ。
「それにしてもお前。何でフラれた?」
それは三人の男達の誰もが知りたいこと。
だが司は口を閉ざしたまま開かなかった。
しかしそれでは問題は解決しない。
「………た」
「は?何だって?」
「あいつに見られた」
「見られたって…..何を見られたんだ?」
「だから他の女とキスしているところを見られた」
「おいお前….他の女とキスって…..」
「やるじゃん司。ついにお前も牧野以外の女とキスしたいと思ったってわけか」
「へえ….司が牧野以外の女とキスねえ」
司は牧野つくしと知り合う前まで挨拶のひとつとしてキスを受け入れていたことがあった。
だが好きでキスをしたことはなく、女たちが勝手に唇を合わせていただけ。
だから彼女を知って他の女とのキスは気持ちの悪いものになった。
それ以来彼女以外の女と唇を重ねたことはない。
そんな司にキスしてきたのはニューヨーク留学時代の同窓生。
父親はフランス人のダイヤモンド商で母親は日本人。
そして女性は新進気鋭のジュエリーデザイナー。
司は恋人に特別なジュエリーを贈ることを決めた。
それは二人が出逢ったことを記念するためのもの。
だからその制作を同窓生の女性に依頼した。
だが何故その女性に依頼したか。それは女性が建築学を学び独創的でありながら、繊細かつ女性らしさを意識させるデザインを得意としているから。
だから司は女性に恋人のことを話し、彼女をイメージしたジュエリーを作らせた。
そして仕上がったと連絡を受けた司は待ち合わせをした店で、そのジュエリーを受け取り、女性に礼を言ってふたりで店の外に出たが、彼女はフランス人の習慣で別れ際に司の頬にキスをした。だがそれは頬を合わせてリップ音を立てる「ビズ」というフランスでは定番中の定番の挨拶であり唇はどこにも触れていない。だがその瞬間を見た恋人はふたりがキスをしていると誤解をした。そして、よりにもよって司が喜んで女のキスを受け入れ、女を抱きしめようとしていると勘違いをした。
司は背中を向けて走り出した恋人を追いかけた。
追いついて腕を掴んで振り向かせた。
だが振り払われた。
そして浮気をしていると疑って決めつけた。
本来、恋人はやきもち焼きかと言われれば、そうではない。
恋人は、さっぱりとした性格をしている。
だが、こと恋愛に関してはいじいじと考え込む。
だから居もしない女の話を勝手にこじらせて、ひとりで思い詰めていく恐れがある。
挙句の果てに考え過ぎてどうすればいいのか分からなくなってしまう。
そして渡るはずの石橋を叩いても渡ることを止め、別の橋を渡ろうとする。
それはかつて司と恋人の間に起きた雨の日の別れ。
だから今回のことは説明すれば分かってくれるはずなのだが事実を話したくなかった。
何故ならこれは秘密にしておきたいプレゼント。
だから司は幼馴染みである三人の男達にどうすれば彼女の誤解を解くことができるか訊くことにした。そして聖書に出て来る東方の三賢者よろしく問題を解決する知恵を授けてくれることを期待したのだが、彼らから返されたのは、「司よ。お前もいい年をした大人だろ?自分の身に降りかかった災難は自分で解決しろ」だった。
司は恋人以外の女に1ミリたりとも興味を持ったことはない。
それに司は誰かと違って何人もの女と同時に付き合えるような器用な男ではない。
だから司は、あれは誤解だと説明しようとした。
しかし、恋人は電話にも出てくれなければ会ってもくれなかった。
そしてそれから数日後、司は恋人に会えないまま仕事でニューヨークへ向かった。

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壺の中にいる私の耳に届いた彼女の言葉は心に突き刺さるもので、真冬の湖の水底に沈んだナイフだった。
私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
< 完 > *リメンバランス*

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私はすぐにでも壺から出て彼女を抱きしめたかった。
外見は違うが私は記憶を取り戻した道明寺司だと名乗りたかった。
しかし私は自分の意思で壺から出ることは出来ない。
それに生きていた頃の私は人には言えないようなことを平気でやってのける人間であり、暗闇の中で人生を終えるに相応しい行いをしてきた。だからそんな人間である私は彼女の前に出ることが躊躇われた。
だが何故私は壺の中にいるのか。
そのことをいくら考えたところで、理由などわかるはずもないのだから、彼女を忘れたことで空費してしまった時間を悔いることしか出来なかった。
それに酔っぱらった彼女は、自分を忘れた男を許したと言ったが、思い出が去ってしまうまでどれほどの時間がかかったのか。
だがそう思う私は、この状況が彼女のことを忘れてしまった自分への畏(かしこ)き神が与えた贈り物だと思っている。何しろ彼女が骨とう品店で私が住まうことになった壺を手に取ったことで、こうして彼女の傍にいることができるのだから、壺の中が私にとって小さな現実の世界だとしても、この状況は彼女のことを忘れなければ人生を暗闇の中で終えることなく、共に泣いたり笑ったりの日々を過ごすことができた、つまり真人間で生きていられたはずの私への神からの贈り物なのだ。
それに私は彼女の心の片隅に自分がいることを知り嬉しかった。
だから味わったその気分を、頭の中で反芻してみた。すると不思議なことだが彼女の声だけではなく匂いも感じることができた。
彼女の匂い。それは香水の香りではなく、シャンプーや石鹸の匂いでもない。
それなら彼女の匂いは何なのか。
それは透き通る青い風の中に香る若葉の匂い。
陽射しを浴びたみずみずしい植物の匂い。
さわやかな風に吹かれているような清々しさが感じられる匂いであり、その匂いは私だけのもの。
そう思う私が瞼を上げれば、見えたのは白い天井。淡いグリーンの壁。クリーム色の床。寝ている私の体が沈みこんでいるのは、幾分固めのベッド。そして私に掛けられている寝具は薄い空の色。窓の外に見えるビルは……..
この場所には見覚えがあった。
それは遠い記憶の底に留められた景色。
もしや、時間が巻き戻され、あの時に戻ったのでは?
高校生の頃に戻ったのではないか?
いや。物語や映画でもない限り時間が巻き戻ることはない。
「ここは__?」
口から出たのは掠れた声。
その声に気付いた人物が駆け寄って来た。
そして私の顏を見つめて言った。
「良かった….」
そう言った人物の瞳は潤んでいて、頬にまだらになった涙の痕が見えた。
季節は冬の一番寒い頃。
私が会長室で倒れたのは11月だったのだから、2ヶ月近く眠っていたことになる。
そして夢を見ていた。
それは大切な人のことを思い出すことなくこの世を去った私が別人の姿で壺の住人となり、その人の傍で暮らしているという夢だが、目を覚ました私に「良かった」と言った人物は大切なその人で、その人は私の妻だ。
社長を退いた私が会長の職に就いたのは一年前。
それまでの忙しい生活から解放された私は、後任の社長である息子に会社のことを任せると、妻と船旅へ出ようとしていた。
それは私たちにとって二度目の新婚旅行。持て余すほどの時間とは言えないが、夫婦だけの時間は充分ある。だからクリスマスも妻の誕生日も船の上で祝うことを計画していた。
だが私が2ヶ月近く眠っていたことで、そのどちらも夢の中で思ったのと同じで空約束となった。
しかしそれ以前に、もしあの時、彼女のことを思い出さなければ正に夢と同じで彼女以外の人と結婚し、暗闇の中で人生を終えていたはずだ。
だから、たとえここが病院のベッドの上だとしても、彼女が傍にいて私の手を握っていてくれることが嬉しかった。
「眠くなった」
目を覚ました私に処置を終えた医者と看護師が去ると、私は眠りに誘われた。
「2ヶ月近くも眠ったのにまだ眠いの?」
彼女は笑いながら言った。
「ああ。いい男でいる為には睡眠は欠かせない」
「キザなセリフね」
「キザで悪かったな」
そう答えた私は瞳を閉じた。
「ゆっくり眠って。だけど眠り続けるのは止めてね」
と彼女は言って、細い指先で私の顏を拭った。
私は好きな女のためにしか涙は流さない。
だからこぼれ落ちた涙を恥ずかしいとは思わない。
だがポタポタと頬に落ちてくる雫は自分のものではない。
そして落ちてくる雫とともに涙声の呟きが聞えた。
「帰ってきてくれてよかった」
人生には思い出も必要だ。
だが私に一番必要なのは思い出ではなく彼女。
惚れて、惚れて、惚れ抜いて一緒になった。
だからまだ彼女の思い出にはなりたくない。
それに一生死ぬまで大切にすると誓った相手を置いて先に逝くわけにはいかない。
そう思う私は、今、自分が世界で一番幸福な人間に思えた。
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「クリスマスイブ。何か予定がありますか?」
クリスマスが近づいてきた。
私はいつものように私が作った料理を食べている彼女に言った。
「え?」
「ですからクリスマスイブです」
「いいえ。別に予定はないわ」
「そうですか。では私と一緒に外出してくれませんか。何しろ私はひとりでこの部屋から出る事が出来ません。ですが壺の持ち主であるあなたと一緒なら外に出ることができる。だから私を外へ連れ出して欲しいのです」
彼女は私の言葉に箸を手に持ったまま考えていた。
そして暫くすると「いいわ。クリスマスイブ。一緒に出掛けましょう。いつも家の中にいたら退屈だものね」と言った。
「それでヤマモトさん。どこか行きたいところがあるの?」
彼女は私の「外へ連れ出して欲しい」の言葉に訊いた。
「いえ。特にありません」
「そう。分かったわ」
今年のクリスマスイブは、土曜日ということもあり、街はとても混んでいた。
私は行きたいところは特にないと答えたが、こうしてクリスマスの街を彼女と一緒に街を歩きたかった。何しろここには、ふたりで見ることが出来なかったクリスマスの景色がある。遠くに見えるタワーはクリスマスカラーに染まり、ショーウィンドウは赤と緑と金色が溢れ、耳に響くのはクリスマスソング。だから頬を刺す風の冷たさも気にならなかった。
「ねえヤマモトさん」
「はい」
彼女は私の腕を取って立ち止まった。
そして「ここに入りましょう」と言って小さな店を指さした。
もし、私が生きていたらクリスマスには、あらかじめレストランを予約して、洒落たプレゼントを用意したはずだ。だが今の私にはそれが出来ない。
何故、私は彼女を忘れてしまったのか。
そして何故、彼女を思い出さなかったのか。
私は自分自身に腹が立った。
過行く青春時代を一緒に過ごすことが出来なかったことに悔しさが込み上げた。
「ねえ。ヤマモトさん。今夜は思いっきり飲みましょう」
私たちが入ったのは小さなワインバー。
彼女は赤ワインをボトルで頼んだ。
そして「赤ワインってクリスマスに合うと思わない?ほらサンタさんの衣裳も赤だし、ポインセチアも赤だし、信号も赤色だし!」と言ってグラスに注がれたワインをぐびぐびと飲んだ。
そして頬を赤く染めた彼女は「赤ワインって美味しいわねぇ。これがブドウから出来てるって知ってる?ワインを作った昔の人!凄いわねぇ」と言ってケラケラと笑ったが、大人になった彼女はアルコールに弱いようだ。
しかし、私はどんなに飲んでも酔うことはない。
すると彼女は自分が酔っているのに私が酔っていないことが不満なのか。
「ちょっとぉ、もっとぉ、飲みなさいよぉ」と言った。だから私はグラスを口に運んだが、やはり酔うことはなかった。
私は若い頃から酒が強かった。
だから酔わないのか。
それとも生きてないからなのか。
どちらにしても、今の私は酒を美味いとは思わなかった。
そして私には「クリスマスかぁ。クリスマスねぇ……」と呟く彼女は、飲めない酒を無理に飲もうとしているように思えた。
私は酔っぱらった彼女と一緒に家に帰った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した彼女は「今日は楽しかったわ。ありがとう」と言った。
私も「楽しかったです」と答えたが、それは心からの思い。
そして彼女は「おやすみなさい」と言って壺を擦った。
だから私は壺の中に吸い込まれた。
だが暫くすると声が聞こえてきた。
それは彼女が壺に向かって呟いている声だ。
「あなた。声が似ているの。あなたの顏は知らない顏だけど声が似ているの。その人はね、ワガママで口が悪い男だったのに箸の持ち方がキレイだった。髪の毛がバカみたいにクルクルしていた。それに男のくせに無駄に睫毛が長かった…..」
沈んだ声で語られているのは私のこと。
そしてときどき「ねえ、聞いてる?」と、まるで会話をしているように確かめる。
「それでね。その人は美味しい物を沢山食べさせてやるって言ったの。きれいな景色を沢山見せてやるって言ったの」
彼女に食べさせたい物が沢山あった。
見せたい景色が沢山あった。
そこにいつか一緒に行こう。
そんな約束をしたが、それらは全て空約束となった。
やがて聞こえてきたのは嗚咽。
その嗚咽混じりに聞こえてきたのは、「私ね、その人に恋をしたの。うんうん、違う。恋をしたんじゃない。恋におちたの。それでその人も私のことを好きだって言ってくれた。それなのに、事件に巻き込まれて私のことだけ忘れて他の女性と結婚しちゃった。よりにもよって私だけを忘れてね」
その言葉に刺された傷痕がヒリヒリと傷んだ。
ひとりで何も出来ない女じゃないと言った彼女。
だがしっかり者のようで、おっちょこちょいな所があった彼女。
それに物怖じすることはなかったが、傍目を気にすることがあった。
だから、きっと彼女を好きだと言った私が背負うべきだった彼女の苦労というものがあったはずだ。そう思う私は彼女の言葉を噛みしめていた。
「だけどね、人間は忘れる生き物でしょ?それに私もその人以外の人と結婚した。だから私を忘れたことも、先に死んじゃったことも許すわ。それにあの人は今、地球の裏側で生きている。そう思うことにしたの」

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クリスマスが近づいてきた。
私はいつものように私が作った料理を食べている彼女に言った。
「え?」
「ですからクリスマスイブです」
「いいえ。別に予定はないわ」
「そうですか。では私と一緒に外出してくれませんか。何しろ私はひとりでこの部屋から出る事が出来ません。ですが壺の持ち主であるあなたと一緒なら外に出ることができる。だから私を外へ連れ出して欲しいのです」
彼女は私の言葉に箸を手に持ったまま考えていた。
そして暫くすると「いいわ。クリスマスイブ。一緒に出掛けましょう。いつも家の中にいたら退屈だものね」と言った。
「それでヤマモトさん。どこか行きたいところがあるの?」
彼女は私の「外へ連れ出して欲しい」の言葉に訊いた。
「いえ。特にありません」
「そう。分かったわ」
今年のクリスマスイブは、土曜日ということもあり、街はとても混んでいた。
私は行きたいところは特にないと答えたが、こうしてクリスマスの街を彼女と一緒に街を歩きたかった。何しろここには、ふたりで見ることが出来なかったクリスマスの景色がある。遠くに見えるタワーはクリスマスカラーに染まり、ショーウィンドウは赤と緑と金色が溢れ、耳に響くのはクリスマスソング。だから頬を刺す風の冷たさも気にならなかった。
「ねえヤマモトさん」
「はい」
彼女は私の腕を取って立ち止まった。
そして「ここに入りましょう」と言って小さな店を指さした。
もし、私が生きていたらクリスマスには、あらかじめレストランを予約して、洒落たプレゼントを用意したはずだ。だが今の私にはそれが出来ない。
何故、私は彼女を忘れてしまったのか。
そして何故、彼女を思い出さなかったのか。
私は自分自身に腹が立った。
過行く青春時代を一緒に過ごすことが出来なかったことに悔しさが込み上げた。
「ねえ。ヤマモトさん。今夜は思いっきり飲みましょう」
私たちが入ったのは小さなワインバー。
彼女は赤ワインをボトルで頼んだ。
そして「赤ワインってクリスマスに合うと思わない?ほらサンタさんの衣裳も赤だし、ポインセチアも赤だし、信号も赤色だし!」と言ってグラスに注がれたワインをぐびぐびと飲んだ。
そして頬を赤く染めた彼女は「赤ワインって美味しいわねぇ。これがブドウから出来てるって知ってる?ワインを作った昔の人!凄いわねぇ」と言ってケラケラと笑ったが、大人になった彼女はアルコールに弱いようだ。
しかし、私はどんなに飲んでも酔うことはない。
すると彼女は自分が酔っているのに私が酔っていないことが不満なのか。
「ちょっとぉ、もっとぉ、飲みなさいよぉ」と言った。だから私はグラスを口に運んだが、やはり酔うことはなかった。
私は若い頃から酒が強かった。
だから酔わないのか。
それとも生きてないからなのか。
どちらにしても、今の私は酒を美味いとは思わなかった。
そして私には「クリスマスかぁ。クリスマスねぇ……」と呟く彼女は、飲めない酒を無理に飲もうとしているように思えた。
私は酔っぱらった彼女と一緒に家に帰った。
冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した彼女は「今日は楽しかったわ。ありがとう」と言った。
私も「楽しかったです」と答えたが、それは心からの思い。
そして彼女は「おやすみなさい」と言って壺を擦った。
だから私は壺の中に吸い込まれた。
だが暫くすると声が聞こえてきた。
それは彼女が壺に向かって呟いている声だ。
「あなた。声が似ているの。あなたの顏は知らない顏だけど声が似ているの。その人はね、ワガママで口が悪い男だったのに箸の持ち方がキレイだった。髪の毛がバカみたいにクルクルしていた。それに男のくせに無駄に睫毛が長かった…..」
沈んだ声で語られているのは私のこと。
そしてときどき「ねえ、聞いてる?」と、まるで会話をしているように確かめる。
「それでね。その人は美味しい物を沢山食べさせてやるって言ったの。きれいな景色を沢山見せてやるって言ったの」
彼女に食べさせたい物が沢山あった。
見せたい景色が沢山あった。
そこにいつか一緒に行こう。
そんな約束をしたが、それらは全て空約束となった。
やがて聞こえてきたのは嗚咽。
その嗚咽混じりに聞こえてきたのは、「私ね、その人に恋をしたの。うんうん、違う。恋をしたんじゃない。恋におちたの。それでその人も私のことを好きだって言ってくれた。それなのに、事件に巻き込まれて私のことだけ忘れて他の女性と結婚しちゃった。よりにもよって私だけを忘れてね」
その言葉に刺された傷痕がヒリヒリと傷んだ。
ひとりで何も出来ない女じゃないと言った彼女。
だがしっかり者のようで、おっちょこちょいな所があった彼女。
それに物怖じすることはなかったが、傍目を気にすることがあった。
だから、きっと彼女を好きだと言った私が背負うべきだった彼女の苦労というものがあったはずだ。そう思う私は彼女の言葉を噛みしめていた。
「だけどね、人間は忘れる生き物でしょ?それに私もその人以外の人と結婚した。だから私を忘れたことも、先に死んじゃったことも許すわ。それにあの人は今、地球の裏側で生きている。そう思うことにしたの」

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