2018
07.20

出逢いは嵐のように 73

心臓が冷たくなるという感覚はそうあるものではない。
だがそれは失恋したと自覚したからだが、それとは別に風邪かな?と思った時にはもう風邪をひいていた。それは多分昨日お風呂から出た時のことだった。暑かったのでエアコンを付けた。髪を乾かさずそのまま寝た。つまり濡れた髪に冷たい空気が絡みつき風邪をひいたということだ。

早朝に目が覚めたのは、トイレのためだったが、ベッドから起き上がり、床に足を着けた途端、立ち眩みがした。
頭が痛い。喉が痛い。身体が熱っぽい。これは風邪の症状としか言えず、買い置きの風邪薬を飲んだ。そして熱を測ったが38度を超えていた。

「はぁ…体温計見たら余計熱があがりそう」

結局つくしはその日会社を休んだ。
風邪をひいて熱があると電話をしたが、その時電話を取ったのは、エネルギー事業部、石油ガス開発部別室唯一の女性社員の佐々木純子だった。ニューヨークから帰国して休んでいる間に風邪をひいたことは、社会人として自己管理が出来てないと思われても仕方がないのだが、佐々木は、

『夏風邪は油断したら駄目よ。それに気温が高いから体の熱さがわかりにくいけど、あまり冷えた部屋にいると回復が遅れるから気を付けて。身体を冷やし過ぎないでね。夏風邪は長引くからちゃんと治してから出てきた方がいいわ。大丈夫よ。副社長なら何も言わないから。だって牧野さんに惚れたって言うくらいですもの』

と言って電話の向うで笑ったが、その笑いは明らかに出張で何か進展があったことを期待しているように聞こえた。だがそれを口にしないのが大人だ。

『それより牧野さん。本当に大丈夫?あなた一人暮らしでしょ?』

一人暮らしが病気になると死んでしまうように大袈裟に心配する人間もいるが、今までも風邪をひいて熱を出したことが何度かあったが、なんとかしてきた。
それに幸いなことに近くに病院もあり、行こうと思えば行ける。だが身体がだるくて起き上がっていることが億劫に感じ病院へ行こうという気になれなかった。だから買い置きの薬を飲み様子を見ることにした。

「佐々木さん。大丈夫ですから。それに….いざとなれば近くに友達がいますから大丈夫です」

だが隣の岡村恵子は田舎へ行くと言っていたが、まだ戻って来てはないようだ。

『あら牧野さんったら。お友達を呼ぶより副社長に来てもらえばいいのよ。そうよ。副社長ならすぐに牧野さんのところへ駆けつけるはずよ』

佐々木は楽しそうに言ったが、つくしは道明寺司に会いたくはなかった。
それにつくしが会いたくない以前に相手が嫌がるはずだ。それにこうして風邪をひいて弱っているところで失恋したばかりの相手のことを考えたくはなかった。だが彼は上司だ。避けて通ることが出来ない人間だ。それに出張に出る前、部署全員の前で告白をされた。そのことを考えれば職場の空気が何某かの期待感に満ちていることは想像出来るが、残念ならがその期待に応えることは出来ない。何しろあれは偽りの恋で終わってしまったのだから。

「佐々木さん。….あの副社長は今日…その、そちらへ出勤されるんでしょうか?」

佐々木はニューヨークで二人に何があったのか。その後の二人に何があったかは知らないが副社長は知っている。だから失恋したから休んだとは思われたくなかった。
落ち込んでいると思われたくなかった。そんな思いから本当は出社したかった。だが熱がある身体ではどう考えても無理だった。だから休むことにしたが気になった。

『副社長?そうねぇ….帰国翌日の金曜は執務室に篭ってらっしゃったと思うけど、どうかしらね?うちの部署は副社長直属だから詳細は別にして副社長が国内にいるか、海外にいるかだけは把握できるんだけど、ちょっと待ってね。社内グループウェアでスケジュール確認してみるから………えっと…..』

つくしは、電話の向うで佐々木がパソコンを操作し終わるのを待っていた。

『そうね、今週は何も書かれてないから国内だと思うわ』

海外出張から戻れば、国内で溜まっていた仕事を片付けるのが当然で、今週は国内にいたとしてもおかしくない。だがそうだとしても、別室に頻繁に顔を出すとは限らない。
つくしは熱が下がれば出社するつもりでいるが、会うことを避けられそうにないと知った。
だがそんなことを気にしていては駄目だ。毎日とは言わなくても出向が終るまでは顔を合わせることになるのだから、初めから逃げてどうするというのだ。
それに二人の間に起きたことは、無理強いされた訳でもなく、むしろそれを望んでいた。
あの時、部屋を訪ねたのはつくしであり、副社長と恋をしたいと望んだのは自分だ。
たとえ騙されたとしても、恋は自己責任で誰も責めることは出来ないはずだ。

だがある日、目障りだと突然本来の勤務先である滝川産業に戻されるかもしれない。
それでも構わなかった。いっそそうして貰えた方が気楽かもしれない。それに副社長にしても、その方がいいはずだ。つくしに近づいたのは姪のためであって、本気で好きになったのではないのだから目的を果たした今、女の存在はただ目障りなはずだから。


『….牧野さん?聞こえてる?大丈夫?』

「え?あ、はい。大丈夫です。すみません。今日は申し訳ありません、お休みさせていただきますのでよろしくお願いします」

『分かったわ。今日なんて言わなくていいのよ。明日も無理しなくていいから。じゃあそろそろみんなが来るから電話切るわね。それからお大事にね。無理しないでゆっくり休んでね?』

「あ、はい。ありがとうございます。___はい。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」


つくしは電話を切るとひと息ついた。
そして思った。

「好きでもない女を抱いた男の気持なんて分かるはずないし…..」

ひとり言が多いと言われたことがあったが、今こうしてひとり言にして気持ちの整理をするのは、いいことではないか。
だがこうして考え始めると今以上に熱が上がりそうに感じられる。だから考えない方がいい。済んだことをクヨクヨと考えても仕方がない。今は終わった恋のことを考えるより、早く風邪を治すことを考えなければならなかった。

薬は飲んだ。だからこれからは風邪の菌が弱まるのをひたすら待つしかない。
自分の身体のことは、自分が一番よく知っている。熱は別として喉の痛みの次は鼻水が出て、それから咳になるのがつくしのパターンで風邪の答えは出ている。今日はまだ第一段階の喉の痛みだが時間が経てば治る。もしかするとこの風邪は、道明寺司の恋の道化にまんまと騙された女に神様から与えられた再起を図る時間なのかもしれない。
そしてこの風邪が治ったとき、今まであったことはキレイに忘れることが出来るはずだ。
何故か知らないがそんな気がしていた。







***







「牧野は出社したか?」

眠れない朝を迎えた司は、出社すると「別室」へ足を運んだ。
帰国した翌日の金曜に一度顔を出したが、あの時は今のように沈んだ思いを抱えてはいなかった。だが今は大きな罪を背負った男がそこにいて、席についていた佐々木純子に訊いた。

「おはようございます副社長。牧野さん今日は風邪をひいてお休みするそうです」

「風邪?」

「はい。熱があるそうです」

「そうか…..」
少し間を置き司は言葉を継いだ。
「他に何か言ってたか?」

「…..何かですか?いえ、特になにも。出張から戻ってそのまま休んでしまって申し訳ありませんとだけ言っていましたが何かありましたか?」

佐々木純子は賢明な女性で不用意な発言はしないが、それだけに口にした「何かありましたか?」の問い掛けは単なる好奇心以上のものを感じさせたが、司は「いや。何でもない」とだけしか答えなかった。そして部屋を出ると執務室へ戻るためエレベーターに乗り、最上階のボタンを押し壁に背中をもたせ掛けた。

昨日の夕方から激しい雨が降りはじめ、足元がびしょびしょになるほどだったが、その雨に打たれたのだろうか。あの時、彼女は傘を持っていなかった。司が引き留めることが出来なかった女は、心に痛手を与えられ雨に濡れながら帰ったのだろうか。もしそうなら、そうさせたのは司だ。彼女の髪は綺麗に整えられていたが、その髪も服も雨に濡れてしまったのだろうか。そしてそのせいで風邪をひいたなら司のせいだ。

司は執務室に戻ると西田を呼んだ。

「西田。今日の午後のスケジュールはどうなってる?時間を空けてくれ」





にほんブログ村
スポンサーサイト
Comment:5
2018
07.19

出逢いは嵐のように 72

「隆信さん。どうぞ座って頂戴」

椿はゴルフに出かけていた美奈の夫に電話をすると、世田谷の道明寺邸に来て欲しいと言った。隆信はロスにいるはずの義理の母親からの突然の電話に驚いていた。

美奈の母親は嫁いだとはいえ道明寺家の長女で、隆信が役員を務める不動産会社の親会社である道明寺ホールディングス副社長道明寺司の姉だ。そして社長である道明寺楓の娘であり、美奈は楓の孫だ。そんな立場の女と結婚した男は、入婿ではないが義理の両親に大切にされていた。だがロスと東京では親しく交わる機会も少なかったが、結婚を祝福していたことは間違いなかった。
しかし、呼び出されたこの場所には、義理の母親と共に道明寺司がいたことにも驚いていた。

隆信にとって義理の叔父である道明寺司の存在は大きいものがあった。
それは例え義理とはいえ親戚になっても道明寺に勤める人間なら誰でも同じはずだ。
隆信の目に映る道明寺司は冷たい印象の男で、若い頃不可能と言われた石油事業に於いて契約を成立させた男で凄腕の経営者と呼ばれていた。
私生活では女性に対してはシビアだと言われる男だが、その風貌はどんな女も虜にすると言われ、装飾物で飾り立てなくてもゴージャスだと言われていた。
そんな男は社員の憧れではあるが、それと同時に怖れの対象でもあり、軽々しく口が利ける相手ではなかった。

そして隆信は美奈から訊かされていた。叔父である道明寺司にとって唯一の姪にあたる美奈は、幼い頃から彼に可愛がられていたと。そんな叔父である道明寺司と椿を前に緊張しない方が無理だ。
そして自分が何故ここに呼び出されたのかと考えたが、考えられることはひとつだ。
妻に浮気をしていることを知られたが、妻からはやり直しましょうと言われたことから、誰にも話していないとばかり思っていたがそうでは無かったようだ。
するとこれからの時間が妻を欺く夫に対する家族会議になることを理解した。






椿は差し向かいに座る隆信に言った。
隣には美奈が座り、司は二人から離れた場所に立っていた。

「隆信さん。あなたにお伺いしたいことがあるの。単刀直入に言うわ。あなた女がいるの?浮気しているの?」

隆信は、美奈に浮気を認めさせられたとき、相手とは別れると言った。
だが実際には別れることが出来ずにいた。今日もゴルフの約束があると言って伊豆まで出かけ会っていた。そしてじゃあと別れた直後、椿からの電話を受けた。

「隆信さん。正直に言って頂戴。美奈から話しは訊いたわ」

隆信は自分を見つめる美奈と彼女の母親である椿。
そして美奈の叔父である道明寺司を前に嘘をついても仕方がないと腹を括り話すことに決めた。

「美奈には大変申し訳ないと思っていますが、私は美奈とは別の人を愛しています」
とそこまで言って、「相手は桐山慎二と言います。.....男性です」と真面目な顔で言った。








「彼と出会ったのは、私がカリフォルニアの大学に留学していた学生の頃です。彼もその頃カリフォルニアにある半導体の会社で研究開発の仕事をしていました。向うでは在留邦人が定期的に集まるパーティーといったものがあるんですが、そこで話しをするようになり、気が合うことから一緒に出掛けるようになったんです。
彼が女性には興味がない男性であることは分かっていました。でもその頃の私はそんなつもりはありませんでした。私たちの付き合いは、あくまでも友人としての付き合いでした」

そこから語られたのは、一年前、その男性と仕事の関係で偶然再会したという話だった。
隆信の仕事は不動産会社の役員だが、『税理士と不動産会社によるマンション経営について』という講演会を開いたとき、マンションの管理人をしている桐山は会場で彼の話を訊いていたという。そしてその後、控室を訪ねてきた桐山に再会し、「あの頃僕は君のことが好きだった」と本心を訊かされた。
そして今でもその気持ちは変わらないと言われたことから友情が愛情に変わったと言った。

そして美奈に浮気相手の名前を訊かれたとき、何故牧野つくしの名前を出したのか。
それは桐山との何気ない会話の中で彼女の名前が登場したことがあったから。そしてつくしという印象的な名前が頭に残っていたこともあったが、隆信が桐山の管理するマンションを訪ねた時、管理人室から彼女を見かけたことがあったと言った。
それは、管理人室で預かっていた荷物を牧野つくしが引き取りに来た時のこと。
だから余計に印象に残った名前だった。つまり誰かの名前を出さなければならないと思った隆信は、その日見かけた牧野つくしの名前が咄嗟に口をついたということだ。



「再会したとき、私はそのつもりはありませんでした。ただの友人として接していくつもりでした。ですが、違ったんです。気づいたんです。私は妻よりも彼のことが好きなんだということに」

椿は突然の夫の告白に混乱している娘の手を握っていた。
美奈にすれば相手は牧野つくしという女性だと思っていたが、そうではなかったと叔父に訊かされたばかりだったが、それなら他の女であり、まさか夫の浮気相手が同性とは考えていなかったはずだ。そして夫の性癖について初めて知りショックを受けていた。
だが、ロスに長年暮らす椿にしてみれば、よくある話しだと思っていた。

カリフォルニア。特にサンフランシスコは性的少数者の権利運動の中心地であり、昔からそういったことには寛容であり、ゲイ社会が確立され認められていて、椿は個人の性癖に言葉を挟むつもりはなかった。
だがそれが娘の結婚となるとそうはいかないのは、親として当たり前の感情だ。

そして人間が物事を客観的に見ることが出来るのは、その事実が自分自身に差し迫っていない時だ。だからこの状況を客観的に見るのは難しいが、いくら美奈が好きで別れたくないと言っても、夫が妻に対する愛情が無くなったというなら、そんな夫にしがみついていても幸せが訪れることはない。互いに不幸になるだけだと分かっている。それに美奈はまだ若い。傷ついたかもしれないが、立ち直ることは出来るはずだ。だから椿はその思いを口にした。

「美奈?美奈、しっかりしなさい。あなたと隆信さんの結婚生活は終わったの。辛いかもしれないけど彼はあなたのことは愛してないの。分かるわよね?」

だが美奈は母親に手を握られたままじっと隆信を見ていた。

「美奈。すまない。一年も前から君のことを裏切っていた。きちんと話さなければと思ってた。でも言えなかった。それで咄嗟に頭の中に浮かんだ女性の名前を口にした。女と別れると言った。だが別れることは__桐山さんとは別れることが出来そうにないんだ。本当に申し訳ない」

美奈は目の前で頭を下げる夫に何も言わなかった。
だが口を開いたのは司だった。

「随分と勝手な言い分だな。自分の気持がはっきりしているならちゃんと美奈に言うべきじゃなかったのか?それにお前があいつの、牧野つくしの名前を出したことが、どんな影響を与えたか分かっているのか?関係ない女の名前を出すことでその女に迷惑がかかるとは考えなかったのか?」

「……司」

司は姉の声は耳に入らなかった。
美奈が夫の告白にショックを受け混乱していることは分かる。だが姪には母親がついている。姉が弟の気持が理解できるように、弟は姉の思いを感じ取ることが出来る。
椿は自分が結婚を許したばかりに、娘に辛い思いをさせたと後悔していることが分かる。
だが今の司は、美奈のことよりも牧野つくしのことが心を占めていた。

「お前が牧野つくしが浮気相手だと言ったことで、何が起きたか分かってるのか?美奈は相手の女を調べその女の会社へ行ってお前と別れろと手切れ金を突き付けた。突き付けられた相手は全く心当たりがないのに美奈に夫と別れろと言われ困惑した。あいつは否定したが美奈は信じなかった。美奈はお前の、夫であるお前の口から出た女を憎んだ。憎まれた女は自分がどうしてそこまで憎まれたかわからないまま_」

司はそこまで言って口を閉ざした。何故ならそこから先のことは自分が牧野つくしにしたことだからだ。そして自身も美奈の言葉を鵜呑みにし、牧野つくしが隆信の浮気相手だと思い彼女を傷つけるため近づいた。だが彼女を知れば知るほど惹かれていった。そして抱き合ったとき彼女が隆信の愛人などではないという真実を知った。

「….私….ひとりでどうしたらいいの?」

美奈は俯くとそう呟いた。

「美奈。大丈夫よ。あなたには私がついている。あなたの母親ですもの。でもあなたはもう二十歳よ。大人なの。それに結婚した時点で大人としての自覚はあったはずよね?自分のことは自分で責任を取ることが大人なの。結婚は相手があってのこと。ひとりでするものじゃないから終わりが来ることもあるわ。それならきちんと終わりを迎えなさい」

椿の言葉は娘を慰めているのか。それとも励ましているのか。
どちらにしても、そんな言葉に美奈は俯けていた顔を上げると、立ち上がり隆信の顔を見据えた。そして、つい今しがたの弱気の言葉を振り払うように手をあげると隆信の頬へ手を打ち下ろした。

鋭い音が響いた。
欺かれていた二十歳の妻は、もう一度手をあげると夫の頬をぶった。
だが夫は止めなかった。ぶたせることを止めなかった。ぶたれて当然のことをしたのだから、椿も止めなかった。それで美奈の気持ちが収まるならと夫も母親も美奈が何度も夫の頬を叩くのを止めなかった。












隆信が邸を去り、美奈が今夜はここへ泊ると客室へと足を向けると部屋には椿と司の二人だけになった。

「司。あなた、牧野さん….その人こと好きなんでしょ?どうするの?」

ソファに座っている椿は立ったままの弟に声を掛けたが、姉の言葉はまさに司が自身に問い掛けている言葉だ。自分の元を去った牧野つくしの心をどうすれば取り戻せるか考えていた。

「美奈があんたに頼んだことは馬鹿なことだけど、まさかそれを実行するとは思わなかったわ。あんたは美奈以上に大人だから分別だってあったでしょ?それなのに美奈に言われるままに行動するなんて、どうかしていたとしか思えないわね。仕事のし過ぎで魔が差したの?」

呆れたように話す椿は、それでも弟が姪の美奈に甘いことは知っている。
だが夫が浮気をしている。なんとかして欲しいの訴えに耳を傾け、良からぬ方法で力を貸すと決めたのは、身内に甘いとしか言えないが、血の繋がりというのはやっかいなもので、言われるがままに願いを叶えたとしか言えなかった。

「司。済んでしまったことは仕方がないわ。過去は変えられない。でも彼女を一番傷つけたのはあんたでしょ?どうするつもりか知らないけどちゃんとしなさいよ?」

椿はため息交じり言ったが、弟が隆信に向かって語った言葉の中から弟の思いを汲み取っていた。
そして美奈が部屋を出てから黙り込んだままの司は、その時初めて口を開いた。

「ああ。分かってる。彼女に許してもらうためならどんなことでもするつもりだ」






にほんブログ村
Comment:18
2018
07.17

出逢いは嵐のように 71

いつの間にか降り出した雨の中をつくしは歩いていた。
いつもなら15分で帰れる道だがまだマンションには辿り着かなかった。
日曜の夕方だというのに人通りが少ないのは雨だからか。
それとも何か別の理由があるのか。だが今はそんなことは正直どうでもよかった。
ただ、濡れた路面を走るタイヤの音だけが聞こえていた。

美容院に行った帰りにスーパーに寄ろうと思っていた。それは庶民的な料理でもいいと言った恋人に手料理をご馳走しようと思っていたから。
だがスーパーに寄る必要ななくなった。だから足は自然と自宅へと向いていたが、いつまでたってもマンションは見えてこなかった。

傘を持たずに出た。
だから雨は美容院で整えてもらった髪を濡らし、額に前髪が張り付いた。
ふと、視界に入ったのはコンビニ。その店に足が向いたのは、傘を買いたいというのではなく、牛乳が無いことが思い出されたからだ。

ニューヨークから戻り、空の冷蔵庫の中を補充するため一度買い物に出かけはしたが、牛乳を買うのを忘れていた。だからスーパーで買うつもりでいたが、恋人に料理を振る舞う必要がなくなった今となっては、わざわざスーパーへ行くのも面倒だと思った。
それにつくしがいつも飲む牛乳はどこにでもある牛乳であり、コンビニという便利さ重視の特性から若干値段が高いことを除けばどこでも買えるものだ。

「バカみたい….私もどこにでも売ってる牛乳と同じじゃない。売られる店で値段が少し違うとしても牛乳は牛乳で高級なワインじゃないんだもの。牛乳には興味ないわよね」

そう呟いたつくしはコンビニに入った。
店員はいらっしゃいませ、と言い雨に濡れた女に視線が向けられたが、さして興味もなさそうに視線は直ぐに外された。

何かを物色することなく、真っ直ぐに向かった棚で迷わず手を伸ばした。そして牛乳を手にレジへ向かったが、激しくなって来た雨に傘を買おうか迷った。
どうせあと少しの道のりだ。ここからなら走って帰ればなんとかなる。いつもならそう考えるはずだが、今は走る気力が湧かなかった。だから店の入口付近にあった透明なビニール傘を1本抜き、牛乳と一緒に店員に渡した。電子音がピッっと鳴り、レジに表示された金額725円。そして店員から「お会計725円です」と告げられると、財布から小銭を出し支払った。お釣りは25円ですと言われ受け取り財布に収め店を出た。

人は悲しいことがあっても日常の生活は支障がない。
お腹は空くしトイレにも行きたくなる。
買い忘れた牛乳も思い出すことが出来る。
こうしてコンビニで買い物をすることも出来るし傘をさすことも出来る。
今のつくしは、取り乱して何もかも手に着かないといった状態ではない。自分は落ち着いていると思っていた。

それでも、頬に冷たいものが流れるのは何故か。
視界に膜がかかったようにぼんやりと見えるのは何故か。
雨が視界を遮るからなのか。
いつか終わりを迎えることは、はじめから分かっていた恋が思いの外早く終わったことがショックだったのか。いや違う。恋など初めからなかった。あれは恋でも愛でもない。姪から頼まれたことを実行しただけ。姪の夫と不倫をしている女を引き離すための演技。
そして適当に相手をして捨てることが目的だった。

美奈と名乗った女性は、改めて思い出せば、切れ長の目元に挑戦的な鋭さを持った女性だった。道明寺司の姪であることから、当然のようにあった高い自尊心。姪も叔父と同じで特別な存在として生きて来たことが分かったが、率直で単刀直入であるところも同じだ。
叔父にとっては愛らしい姪。だから姪から頼まれた叔父は並外れた魅力でつくしを魅了した。

そう思えば、二人の間にあったのは恋愛ではなくただのセックス。
だがセックスのいろはも知らない女を相手にした時どう感じたのか。恐らく面白くなかったはずだ。
そして短かったが過ごした時間は彼にとってはどうでもよかった時間。知り合った頃の記憶をなぞれば分かりそうなものだ。好きだと言ってもらえた時間はその言葉とは裏腹に冷たく感じられた頃があった。その時は分からなかったが、言われた言葉の中に感情のヒントが隠されていたはずだ。だがつくしは、そのことに気付かなかった。

2週間と少しの間に見た夢のような世界だったが、それは見たことがない絵を見たと思えばいい。
交差することがない世界が一瞬だけ交差したと思えばいい。
そしてシンデレラの靴の気分を味わった。
月曜日からは、また普通の生活に戻るシンデレラ。
平凡な女の人生は所詮そんなもので、一緒に食事をしたり、眠ったりといったことはない。
歩きながらどちらからともなく手を繋ぐといったこともない。
つまりこの雨の向うにあるのは、魔法にかかった世界ではない。
それでも、前向きに恋を楽しみたいと思った女は、恋の魔法にかかった自分が好きだった。
そしてニューヨークでヘリの中から見たあの景色は忘れないはずだ。

深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。
いや。今この段階で自分の気持が落ち着かないとしても、いずれ落ち着くはずだ。
それに受け入れるのは簡単なはずだ。今は喪失感があったとしても、忘れることが出来る。
きっと明日会社に行く頃にはいつもの自分に戻っているはずだ。
だから頬を伝う涙はそのままに足を早め家路を急いだが、「失恋しちゃった…..」胸の中でそう呟いた。





にほんブログ村
Comment:8
2018
07.16

出逢いは嵐のように 70

雨が降っていた。
どんなにいい天気の空だとしても、まだ梅雨明けしていない空からは突然雨が降ることがある。
そしてザーザーと降る雨は、窓を叩いているのが分るが部屋の中まで音は届かなかった。

だが窓から眺める外の景色が黒く滲んで見えるのは、司が心の中に抱えた後悔がそうさせるのか。人を騙すということは褒められたことではない。嘘は時に真実を隠すために用いられることがあるが、それでも嘘をつけば、いつか嘘をついた本人はその嘘に苦しめられることになる。

そして司は真実とはかけ離れた場所にいた女性に嘘をついた。騙して付き合うことをした。
だが彼はその女性を好きになった。それは愛し合って知った自分の気持。今までどんな女性にも感じたことがない愛おしいという感情。だが今は取り返しのつかない思いだけを抱えていた。

あの時、私たちの恋とは言わず私の恋は今日で終わりですと言われたが、それが嘘をついた男に対する答えであり、受動的な恋しかしてこなかったと言った彼女の初めて能動的な振る舞いは、あの瞬間動きを止めたということになる。
そして私の恋が終わったとは、これ以上何も話すことはないという彼女の意志表示。
大きな黒い瞳が彼を見ることはなく答えはそれだけだった。










椿が東京に着いたのは日曜日の夕方。
美奈に連絡をしたが、今叔父様と一緒に世田谷の邸にいると言われすぐに向かった。
そして弟が唇を固く引き結び窓の外を眺めている姿と、美奈がごめんなさい。と今にも涙が溢れそうになった顔で謝っている姿に、何があったにしろ娘が何かしたことに間違いはないと確信した。そしてそれが、美奈と夫の隆信のことだと直ぐに気付いた。

「美奈。あなた隆信さんが浮気をしてるって話は本当なの?」

美奈はその問いかけに、叔父が話したのだと知ったが、躊躇いながらも母親に「…うん」と頷いた。

椿は、少し前に受けた娘からの電話に何かあったのではないかと思い、美奈が大好きな叔父様と呼ぶ弟の司に電話をしていた。そしてその時、美奈の夫が浮気をしている、愛人がいる。そんな話を訊かされた。

椿は美奈が18歳の時、結婚を承諾したが、それはかつて自分の初恋が無残にも引き裂かれたから。だから娘の初恋は実らせてやりたいと思っていた。それに母親は出来る限り娘の望みを叶えてやりたいと思う。我が子の願いはどんなことをしてでも叶えてやりたいと思うのが母親だ。

そして美奈が結婚したいと言った相手は、美奈が通う大学の卒業生であり、椿が親しくしている大学教授を通し知り合った。白石隆信の家は代々医者の家系で、都内で病院を経営している裕福な家ということもあり、家格の差というものは、さして気にならなかった。
そして家は隆信の兄が医者として家を継いでいた。

年は美奈より一回り上だがいい青年だと感じた。
仕事は若くして道明寺グループの関連会社である不動産会社の役員をしており、反対する理由は美奈の若さだけだったが、結婚にあたって持ち出した条件は、大学をきちんと卒業すること。ただそれだけを条件に結婚を許した。だがその結婚も2年で暗礁に乗り上げたようだ。

そしてその暗礁に乗り上げた結婚生活を元に戻そうとした娘が取った行動は、まだ二十歳という若さが考える浅はかさなのか。叔父に夫の愛人を誘惑して欲しい。弄んで捨てて欲しい。そんな破廉恥とも言えることを考える我が子には呆れるしかなかった。



「ねえ美奈。隆信さんの口から相手の女性の名前が出たそうだけど、あなた司にその女性を弄んで捨てろって….どうしてそんなことを頼んだの?そんなことしても隆信さんの心が戻ってくるとは限らないでしょ?」

椿は諭すように話し始めたが、未成年でも結婚すれば法律では大人として扱われる。
そして二十歳の今。まさに大人と言われる年齢の我が子はどんな言葉を返すのか。

「だってお母様。私彼と別れて欲しいってその人の会社まで会いに行ったの。でもその人は彼のことは知らないってとぼけたのよ?それから私の前から逃げたの。だから叔父様に頼んだの…….その人がいなくなれば彼の心は私の元へ戻って来る。相手の女が彼を捨てれば私のところへ戻ってくると思ったの。だから__」

美奈は言葉に詰まり、うな垂れたが、その態度は自分の行動が間違っていたことを認めたということだ。

お嬢様として育った美奈は気位の高いところがあるが、心根は優しい子だ。
だがまだ結婚して2年で夫の浮気にショックを受け放っておこうという気になれなかったのは理解出来る。そして母親に言えずに叔父に相手の女を誘惑して欲しいと頼んだのは、美奈がこの結婚が自分の我儘で叶ったことを理解しているから、夫が浮気をしていると言えなかったのだと分かる。だがそうしたプライドの高さが全く関係ない女性の心を傷つける結果になったようだ。


「…..美奈。いい?人を愛する心はね、あなたが言うように簡単じゃないのよ?複雑なの。
隆信さんが相手の女性から捨てられたとしても、目の前に出された別の愛を受け取ればいいって気にはならないのよ?もし今のあなたの前にあなたのことを好きだって人が現れてもその人のことが好きになれるの?そうじゃないでしょ?失ったからって簡単に別のもので心の寂しさを埋めることは出来ないのよ?」

椿はそこまで言って美奈の様子を見ながら「それに」と言葉を継いだ。

「隆信さんの愛があなたにないなら何をやっても同じ。
あなたももう二十歳なのよ?そのくらい分るでしょ?それなにどうしてこんなことをしたの?あなたに傷つけられた女性。その人のことを考えてごらんなさい。それに隆信さんの相手はその人じゃないわね?そうよね司?」

椿は弟から美奈のたくらみを電話で訊かされた時、相手の女性に何かした訳じゃないわよね、と訊いたが弟は何も言わなかった。だが椿はつい先ほどまで窓際で外を眺めていた弟の態度に感じるものがあった。何しろ親代わりに面倒を見た弟だ。幾つになっても姉から見れば弟は弟であり、年を取り感情を隠すのが上手くなったとは言え、背中から後悔に満ちている様子を伺うことが出来た。だからその女性との間に何かあったことは間違いないと思っていた。

そして、
「ああ。隆信が牧野…….彼女のマンションに出入りする姿はあったが彼女じゃない。……あいつは隆信の女じゃない」
と、返された言葉は幾らかしんみりとしていたことから、弟もバカなことをしたのだと確信した。

「そう。あんたが…..そう言うなら確かね?」

「ああ。確かだ」

ビジネスに於いて眉ひとつ動かすことがないと言われる弟も姉の前では素直だが、言葉には深い落胆が感じられた。それは美奈に頼まれ恋を仕掛けたが、ミイラ取りがミイラになったということだ。つまり、弟はその女性を好きになっているということだ。


「美奈。それで隆信さんは今日はゴルフなのね?そろそろ戻って来る時間なんでしょ?」

椿は思考を美奈と隆信の事に戻し時計を見た。

「こうなったらはっきりさせましょう。私から隆信さんに電話をするわ。ここへ来てもらいましょう。これから二人は夫婦としてどうするのか話し合いなさい」

椿は言って、それから再び弟に目を向けた。

「それから司も隆信さんの女性関係を調べてるのよね?だからそのうち分かるでしょうけど、本人に訊いた方が早いわ。どうして関係ない女性の名前を出したりしたのか本人にはっきり訊きましょう。いいわね?」





にほんブログ村
Comment:11
2018
07.15

出逢いは嵐のように 69

司が走り込んだ喫茶店はウナギの寝床と言われる間口が狭く奥行のある店。
都会的でもおしゃれでもなく、街のどこにでもある普通の店。
その店の一番奥の席に二人はいたが周りに他の客の姿は見当たらなかった。



司はつくしの大きな瞳が自分を見上げているのを見下ろしていたが、店の中の一番奥の席は静かすぎるほどで、テーブルの上に出されているコップの中の氷が溶け隣の氷とぶつかる音まで聞こえてきそうだ。
そんな中、見つめ合う男女の間にあるのは、相手の心の裡を推し量ろうとする思い。
そしてどんな言葉を口にすればいいのかと考えているのは司の方であり、彼女は司が何を言い出すかと考えているはずだ。

「牧野?」

司の語り掛けに何も答えない女は、無言のまま彼を見つめていたが、黒い瞳は揺れていた。
そしてそこに流れるのは重苦しく緊張した空気。だがすぐにその空気も含んでいた水蒸気が蒸発してしまったように時は流れを止め息が詰まりそうになっていて、そこにあるのは再び口を開くのが躊躇われるほどの緊張だった。
だが止められた時の流れに挑んだ美奈は楽しそうに口を開いた。

「叔父様。私の願いを叶えてくれてありがとうございます。この人、叔父様が本気で自分を好きになったと思ってるみたいだから可笑しくって。だから私本当のことを__」

「美奈。黙っててくれ」

司は姪には目もくれず得意気に話す美奈の言葉を遮り、揺れる瞳と何らかの感情を見せるつくしだけを見ていた。そして今まで改悛という言葉の意味について考えたことがなかった男が時計の針を戻したいと望んだ。

「でも叔父様わたし_」

「いいから黙れ!今は黙ってろ!」

怒声とも言えるその声に美奈は黙った。
司が声を荒げたのは、美奈が口を開くたび、語られる言葉が牧野つくしを傷つけると分かっていたからだが、司が二人の前に現れるまで何が語られたか。美奈の得意気な顔とつくしの顔を見れば決定的な言葉はすでに言われていることは一目瞭然だ。
そしてその言葉によって、司が彼女に言った言葉も気持ちも全てが嘘になってしまったことが感じられた。だが司は言わなければならなかった。
自分の気持を。美奈が言った言葉の一部が過去に於いては本当だったが今は違うと。
お前に対して抱いている思いは、美奈が話したこととは違うということを。

「牧野…美奈の話は…..」

司は何も言わないつくしに語りかけたが、出た声はしわがれた声になった。
だが話さなければならなかった。包み隠すことなく全てを話さなければならなかった。

「美奈は姉の娘で俺の姪だ。18で白石隆信という男と結婚した。今はまだ二十歳で大学へ通っている。美奈は夫の隆信が浮気をしていることを知った。問い詰めた夫の口から出た相手の名前は牧野つくしだった。だから美奈は夫の口から出た女を、牧野つくしを調べた。
お前の所へ1億の小切手を持って別れてくれと言った。だがお前は美奈の夫など知らないと言った。だから美奈はお前が夫と別れるつもりがないと思った。美奈は……姪は夫を取り戻すため俺に相手の女を夫から引き離して欲しいと言ってきた。金を受け取らないなら相手の女を誘惑してくれと言った。誘惑して......」

冷静に話さなければならなかった。
だが途切れた言葉の先、弄んで捨てて欲しいと言われたとは口にしなかった。

「だがお前は美奈の夫の、隆信の浮気相手でも愛人でもなかった」

その理由は二人だけに分かればいいことで、美奈の前では口にしたくなかった。
美奈には隆信の本当の浮気相手の名前を教えるだけで良かった。だがまだ相手が誰なのか分からなかった。そして今は美奈のことよりも牧野つくしを思いやる方が重要だ。自分自身の率直な気持ちを彼女に伝えることの方が重要で、それ以外のことは考えられなかった。

「牧野?」

司は身動きしないつくしに優しく語りかけた。
そして促すことは出来なかったが何か言ってくれるのを待った。






「…..私は….副社長は…..私のことをずっとそう思ってたんですね?私が副社長の….美奈さんの夫の愛人だって。だから私に近づいたんですね?」

ゆっくりと語り始めた言葉は司の言葉の意味を考えた末の言葉。
いや。それ以前に美奈に言われた言葉で全てを知ったから、衝撃の時間は過ぎたということか。落ち着いた口調が返されていた。

「いや。今は違う。はじめはそうだった。出会った頃は__」

と、司が言いかけたところで彼女に言葉を継がれれば、会話の先を譲らなければならなかった。

「私の会社に現れたのも、道明寺に出向になったのも、ニューヨークの出張に同行することになったのも全て美奈さんに頼まれたことを実行するためだったんですね?誘惑して弄んで捨てる….それを実行するためだったんですね?」

確認を求めようとする言葉は、あくまでも冷静で感情的になることはなく、途方に暮れたではないが、どうしたらいいのか考えているようだった。
そして司は美奈が決定的な言葉、弄んで捨てるを口にしたことを改めて知った。

「牧野訊いて欲しい。はじめはそうだった。はじめた時はそうだった。だが今は違う。俺は本気でお前のことを。お前に惚れた。だから__」

その時、司の言葉に驚いたように息を呑んだのは姪だが、言葉を口にしたのはつくしだった。

「もういいです…….それ以上何も言わないで下さい。今までのことが嘘だと分かってくると自分が惨めになる気がするんです。だからもういいんです。それに副社長もおっしゃいましたよね?二人の付き合いは結婚を見据えた付き合いじゃないってことを。私もそれでいいと言いました。恋を楽しみたいって。…..でも楽しんでいたのは私だけで、副社長は別の意味で楽しんでいらっしゃったんですね?」

つくしは、思い出していた。
時に一連の態度の中に冷たさが感じられることがあったが、それは姪の結婚生活を破綻させようとする女に対する憎しみに満ちた思いだったということだ。だからそういった態度があったのだ。

「いや。違う。いや。そうじゃない。正直に言おう。確かにはじめはそうだった。俺にとってお前とのやり取りは恋じゃなかった。だが今は違う。今は本気でお前が好きだ。美奈のことは関係なくお前が好きだ」

司はつくしの言葉を待った。
だが司を見つめる女の目は、悲しそうに笑っているように見えた。

「副社長。私は20代の若い女性ではありません。30代も半ばです。人間関係にも揉まれて来ました。でも誰かのご主人の愛人だと思われたのは初めてです。でもそれは誤解です」

「ああ。分かってる。お前はそんな女じゃなかった。お前は__」

司が言いかけて止めた言葉は彼女がはじめてだったということ。
だがあからさまな言葉を愛人ではなかった証拠として口にすることはしたくはなかった。
もっと早くに、いや。美奈の言葉を鵜呑みにすることなく隆信の浮気相手の調査に入ればよかったはずだ。そうすれば牧野つくしが愛人ではないことは分かっていたはずだ。
だがこのことが彼女と知り合うきっかけとなった。
もし美奈に牧野つくしのことを頼まれなければ知り合うことはなかった。

「副社長。副社長には相応しい女性が他にいるはずです。それにしかるべきお相手が沢山いらっしゃるはずです。私は平凡な会社員ですから副社長には不釣り合いです。だから私たちの恋は__いえ。私の恋は今日で終わりです」

つくしはそう言うと立ち上がり、テーブルを離れようとした。
だが司は彼女の前に立ちはだかった。二人の間にある時間は静かで、暫く時が止ったような空気が流れていたが、やがて静かに「どいて下さい」と言われた男はそれでもその場から動かなかった。
だが再び「そこをどいて下さい」と言われたが、やはり彼はその場から動かなかった。
そして3度目、彼女が口を開こうとしたとき、司は足を一歩退いた。










牧野つくしは、『私の恋は今日で終わりです』と言って自分の心にけりをつけた。
そして『そこをどいて下さい』と言って司の前から去ろうとした。司はその言葉を押してまで止めることが出来ず、ただ彼の隣を無言ですり抜けて行くことを許した。

司は女に関しての後悔を一度として味わったことがなかった。
だが彼女が司の前から去ったとき、はじめてその意味での後悔を味わっていた。
女が去る姿を見たことがない男の後悔。
それは好きな人を騙したこと。嘘をついたことだった。





にほんブログ村
Comment:22
back-to-top