2017
11.22

恋におちる確率 11

食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課にいたつくし。
コーヒーの淹れ方には自信があった。それはコーヒー豆の輸入業務に携わっていた関係もあり、ペーパードリップの場合どんな淹れ方をすれば豆の旨さが引き出せるのかといったことを学んでいた。

よく言われるのは、湯の注ぎ方だが、確かにそれは大切だ。
湯を慎重に「のの字」を書くように注ぐことは有名だが、予定の抽出量に達したら、フィルターの中にある粉が窪み、湯が全て落ちる前、雑味が落ちないうちに、すぐにドリッパーを下ろすことも重要だ。そしてコーヒーは生鮮食品であり、香り高いコーヒーを最後まで楽しむなら保存方法も重要だ。

だがさすが副社長秘書ともなれば、完璧な淹れ方をマスターしていて当然だった。
西田室長の淹れ方は丁寧でありながら、無駄な動きがなく、まるで茶道の作法のような切れがあった。

「牧野さん。副社長にお出しするコーヒーのお湯の温度は90度でお願いいたします。蒸らしは30秒。そして飲まれる時は70度に落ち着くようにお出し下さい」

「わかりました。お湯が沸騰しましたら30秒ほど待てばよろしいですね?」

温度の指定があるのは、お湯の温度で香味が変わるからだ。
湯は沸騰して20秒から30秒置けば96度から90度に下がる。そして温度が高いと苦みが強く味が重めになるが、副社長の好むブルーマウンテンは、調和のとれた優しい酸味と甘みが特徴と言われるコーヒーであり、そのコーヒーに合う湯の温度は90度が適正だと言われており、どうやら副社長の好みは王道を行くようだ。

「牧野さん。あなたはコーヒー三課で色々なコーヒーについて学ばれたようですが、わたしの話を一度で理解出来ることは流石です。それからご存知かと思いますが1分以内にお出しするようにして下さい」

コーヒーは温めたカップに淹れられたとしても、時間が経てばどんどん温度が下がる。
70度で飲むとするなら1分以内に運ばなければならない。
そしてコーヒー本来の味を楽しめる時間は5分と言われており、コーヒーにうるさい人間にすれば、それ以降になればただの色の付いた湯となってしまう。
副社長である道明寺司がコーヒーにうるさい人間なら、冷めたコーヒーなど出されれば、ご機嫌斜めになるということだ。

「それからこれからの季節は部屋の室温が少し高めですので、その点を考えれば冷える速度は少し遅いですが、逆に夏場冷房が効いている場合は冷える速度は早くなりますのでより早くお出しすることがよろしいかと思われます」

1分以内ではなく、30秒以内に出せと言いかねない秘書。
だがコーヒーに拘る人間なら当たり前のことであり、別に驚くことではなかった。
そしてつくしは、西田秘書に負けないだけのコーヒーを淹れる自信がある。

「よろしいですね?」

「はい」

「ではさっそくお願いいたします」










今目の前にいる人物は、自分の前に障害物などひとつもない人生を歩んできたに違いない。
つくしが秘書としての一歩を踏み出した一日目は、まず上司である副社長へ出すコーヒーを淹れることから始まったが、何か言われるのではないか。不味いといって突き返されるのではないか。そればかりを考えデスクへカップを運んだが、これはコーヒー三課にいた人間のプライドをかけ淹れたコーヒーであり、味にうるさいと言われる男の口に合うのか、確かめたい思いがあった。
だから、副社長が書類をめくる手を止め、繊細な作りのカップを持つ力の強そうな大きな手に意識を集中し見ていたが、口をつける瞬間、長い睫毛を伏せ、香りを確かめる姿がまるでワインをテイスティングする姿に見え、唇にやっとわかるほどの微かな笑みが浮かんだのを見た瞬間、よし!と心の中でガッツポーズを作っていた。

だが、次の瞬間、
「・・牧野。俺の顔に何かついているか?」

と、男の視線がつくしの方へ向けられ二人の眼差しが絡み合った。
それは数秒ほどのことだが、力強い視線で男としての強さが感じられる視線。
その視線に何故か一瞬言葉を失ったが、慌てて返事をした。

「い、いえ。何もついていません」

「それなら出て行ってくれないか?それとも何か用があるのか?」

スケジュールが決まっている人間の忙しさを考えれば当たり前の言葉だが、つくしは自分が淹れたコーヒーの感想を聞きたかった。だがまさか飲んで感想を聞かせて下さいとは言えず、失礼しましたと言い部屋をあとにした。

それから30分後書類を持参すると、飲み干されたカップがそこにあることが、満足いく味であったいうことを証明していた。
何故なら、不味ければ飲まないことが分かっているからだ。
以前副社長の秘書だった女性が淹れたコーヒーは、口に合わなかったと聞いた。
そしてその時、闇よりも濃い色をした色水が、カップの中に残されていたのを古参の秘書が見ていた。

たかがコーヒー一杯。と言われるかもしれないが、自分が出したコーヒーに合格点が与えられたことが嬉しかった。
そして、そのことが新しい仕事を前向きに頑張れる。
その勇気が貰えたような気がしていた。
人は誰かに認められ、何かを認められ、自信を深めていく。
だから、新しい仕事についたその日に認められたのが、コーヒーの味だけでも嬉しいと感じられた。









「副社長。牧野様のコーヒーはいかがでしたでしょうか?」

「副社長?」

「ああ?美味かった。お前が淹れたコーヒーと同じくらいな」

デスクに向かい書類にサインをしていた男が視線を上げた先には、西田が分厚いファイルを持ち立っていたが、そのファイルをデスクの上へと置いた。

「そうでしたか。それはよろしゅうございました」

「それで・・牧野つくしは今何をしている?」

司は西田が置いたファイルを取り上げ、中を開く。
そしてそこに書かれている数字を目で追い、その書類に太田正樹の名前を見つけ口の端を上げた。

「はい。仕事は実践からで机上で覚えることはないと申しましたが、今専務秘書の野上くんに秘書としての経費の申請の方法と女性秘書としての身だしなみといったものをレクチャーさせております」

「身だしなみか?」

司は視線をファイルから西田に移し、そして話を促した。

「はい。おしゃれと身だしなみは違います。秘書としての品格に必要なのは身だしなみです。本日の牧野様のお召し物は紺のスーツに黒い靴。インナーは白。そして真っ黒な髪。見た目は清楚ですが、やはりあの服装はリクルート活動ではないのですから、30過ぎの女性には少し地味ではないかと」

だが紺色という濃い色が、額縁効果を果たし肌の白さを引き立てたのは間違いない。
しかしリクルート活動という言葉にも一理ある。そして色はいいとしても、やはり生地や素材といったものは、ひと目で分るものがあり、仕立てについては目が肥えた人間には分かるからだ。

「それに、今後副社長の秘書として地位の高い方々との会合の場といったものにも同席して頂くことがありますので、それなりの服装といったものが必要となります。ですから野上くんには、副社長の秘書としてどのような服装が相応しいかといったことも話をさせておりますが、やはり服装の話となると、男であるわたくしが話しをするより女性同士の方が話しやすいということもありますが、説得しやすいということもあります。それに野上くんからの提案になら間違いなく従ってくれるはずです」

西田が言いたいのは、牧野つくしに秘書としての品格を持たせるための装いを揃える、ということだが、同性の先輩の存在というものが、役に立つということを司は初めて知った。

「そんなものなのか?」

「はい。男のわたくしからいきなりこれを着なさいと言わるよりは、同性の先輩社員からの言葉の方が素直に受け取ることが出来るはずです。それに理由付けがないままの状態ではあの方はいつまでも考え込んでしまう恐れがあります。人は自分自身に自信を持つためには揺るぎないなにか、というものが必要ですから」

それは確かに言える、と司は思う。
なぜ自分が司の秘書に抜擢されたのかについても、理由があり、その理由が納得できるものなら、それを即座に受け入れることが出来る。そんな女だからこそ、秘書として長いキャリアを持つ人間からの言葉には、素直に耳を傾けることが出来るということなのだろう。

「ですので、牧野様は午後から野上くんと一緒にスーツを仕立てに行っていただきます。それからパーティー等にも対応できるようにそちらのドレスも数着仕立てるように伝えております」

西田はそこで言葉を切った。
そしてため息交じりの呆れ果てたような口調で言葉を継いだ。

「・・・それにしても、わたくしの母親の具合が悪いなど、どこから思いつかれたのか・・。
母は5年前に他界しておりますので今後どのような対応をすればいいのか・・」

「何をだ?」

と言い、司はデスクの上に両肘をついた。

「ですからわたくしの母親の件です。母はもうこの世におりません。それを具合が悪く田舎の老人ホーム暮らしなどと申されるのですから、どうすればそのお話を牧野様に信じて頂けるか咄嗟に考えましたが、まさかわたくしがあのような嘘をつくとは・・」

西田は上司である司をじっと見つめた。
これまでこのような嘘をついたことがない。だが司が言った話を否定すれば、上司のニーズに応えていないことになる。それでは道明寺HDナンバー2の人物の秘書としての名折れだ。
だが当の本人は果たして秘書の気持ちを理解しているのか?

「気にするな。あの場限りで済ませた嘘だ」

どうやら気にしていないようだ。

「いいえ。あの場限りだとは考えない方がよろしいと思います。副社長はお気づきではありませんでしたか?あの方の心配そうな顔を。あの顔は心底心配している顔です。恐らく今後、何かある度わたくしの母のことを聞いてくることは間違いないでしょう。そうなるとその時の対応を考えなければいけません。それに時に新潟へ帰ったフリをしなければなりません」

「西田。お前は本当に新潟出身だったのか?」

司は西田がどこの出身か知らなかったが、まさか本当に新潟だったとは思わなかった。

「はい。西田家は新潟で日本酒の蔵元をしておりまして、家業は兄が継いでおりわたくしは一人息子ではございません。それにしても一度ついた嘘というものは、後で取り消すとなると大変なことになることもございますので、気を付けませんと嘘を嘘で済ませることが出来なくなります」

そのとき、眉根を持ち上げ西田を見た司は、親の言うことに逆らう子供のような目をしていた。
まさにその目は、今は立派になった男が少年だった頃を知る西田にすれば、悪ガキとしか言えない目。
そしてそんな目をしていた少年は、女性に冷たく、笑わないと言われる男になっていた。
だが今は時に笑いを含んだ表情をする。
そして今はまだ秘書の女性に対し、好奇心といったものしか持ち合わせていないが、いずれその女性が本当に欲しいと思える人だと気付いたとき、彼女を手に入れるためには、どんなことでもする人間であると知っていた。






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2017
11.21

恋におちる確率 10

55階で仕事をするにあたり覚悟を決めてきたが、副社長付の秘書として、その業務に男の自宅へのお迎えといったものが含まれるとは考えもしなかった。

つくしは、目の前に座る男から何故かリラックスした雰囲気を感じたが、その男の態度は無視し、秘書室長の西田に向かって言った。

「あの、西田さんちょっと待って下さい。今秘書は上司の経営の補佐が仕事であり身の周りのお世話や健康管理は秘書の仕事ではないとおっしゃいましたよね?それなら朝のお迎えも秘書の仕事ではありませんよね?」

西田の言葉を正確に読み取っていたはずのつくしは、確信を持って言った。

「ええ。確かに言いました」

「それなら_」

と、言いかけたところで銀縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男は、彼女の言葉を遮った。

「但し、副社長の場合はある程度補佐する必要がある、とわたくしは付け加えました。いいですか牧野さん。あなたも社会人となって随分と経っている。そうすれば、ものごとには例外といったものが幾つもあるということは、お分かりのはずです。副社長の場合はその例外だとお思い下さい。いえ、例外ではありませんね。副社長の立場になれば秘書が迎えに行くのは当然のことと言えるはずです。何しろ副社長はお忙しい方です。スムーズに行動して頂くためにも、車内では当日のスケジュール等の確認をしなければなりません。決して一分一秒を争う訳ではございませんが、それでも副社長の時間というのは、大変貴重な時間であり、無駄な時間はございません」

勿論、つくしだってそのくらい理解している。
経営トップの身体はひとつしかないが、彼に係る仕事は多いはずだ。そして、そのひとつひとつが例え小さな事であっても、数が集まれば、塵も積もれば山となるではないが、膨大な仕事量をとなる。そしてそれを一日のうちの決められた時間でこなさなければならないのだから、時間が貴重だということは十分理解出来る。

だが今まで秘書室長の西田が行っていたことなら、そのまま彼が続ければいいはずだ。
それに社内の噂によれば、女の秘書が嫌いという男の元へ女の自分が毎朝迎えに行くことを、この部屋の主は認めているのか?
そして、その思いを口に出し言いたいが、果たしてそんな言葉を口にしていいのかといった躊躇いがあった。

「いいですか牧野さん。秘書になったからといって決して滅私奉公をしろと言っている訳ではございません。ただ、あなたには道明寺HDの副社長の秘書になるといった自覚を持って頂きたいのです。先ほども言いましたように、秘書の仕事は上司のニーズに応えることです。ですから副社長が何を求めてらっしゃるのか。そういったことも考えて行動しなければなりません」

それなら、やはり是非とも聞いてみたいといった気になる。
あなたは女性秘書がお迎えに伺うことになってもいいのかと。
そして、どうして自分があなたの秘書として仕えなければならないのかと。
ひとつ質問するならふたつだって変わりはしないはずだ。

「では、まずは副社長のお好みのコーヒーの淹れ方からお伝えしたいと思いますので、給湯室へ参りましょう」

西田はそう言って背中を向けたが、つくしの足は、ふたつの質問をぶつけたい、とその場所に貼りついていた。
そして思わず口を開く。

「あの!」

「はい。なんでございましょう?」

こちらを振り返った西田だが、つくしの視線は執務デスクの向うにいる男に向けられていた。そして、男の黒い目もつくしをじっと見つめていた。だがその目には、先ほどまでのリラックスしていた態度は見当たらず、射すくめるではないが、何の感情も見当たらず冷たさが感じられた。

「副社長にお尋ねしたいことがあります。初日にこんなことを聞く失礼をお許し下さい。
私の上司だった人は、どうして私が秘書課に異動になったのか教えてくれませんでした。彼らの答えは咳払いをするか、口ごもることでした。ですからお聞きしたいんです。何故私があなたの秘書になることになったのかを。きちんとした理由があるなら教えて下さい。それにあなたは女性の秘書が嫌いだといった噂があります。それなのに何故女性である私があなたの秘書になることが出来たのでしょうか?」

それは、ある意味挑戦的な質問の仕方かもしれない。
だがつくしにしてみれば、この異動は絶対にインフラ事業部のあの一件が発端だと思えるからだ。

そして、自分の立場を利用して、弱い者いじめとは言わないが、副社長である男は、あの日彼のことを最低とのたまった女に嫌がらせでもしようとしているのではないか。その思いは辞令が出た時からずっと頭の中にある。だから負けるものですか!といった気持ちでいるが、本当は違うというのなら、そう言って欲しい。




「お前が異動になった理由か?」

「はい」

司を見るつくしの表情は真剣だ。
その視線を受け止める男はつくしが納得するような理由を教えてくれるのか。
そしてその理由によっては、これから始まる新しい仕事に対するモチベーションといったものが変わる。
男の黒い瞳もつくしをじっと見つめているが、その目には何の表情も浮かんでいない。だが共に互いの瞳から視線を離さずにいた。





黒い大きな瞳は、嘘や偽りは聞きたくないといった思いが感じられ、司は口を開く。

「西田の母親がここの所具合が悪い。この男の母親は高齢で今は田舎の老人ホームで暮らしているが医者からはいつ何時がないと言われたそうだ。そうだな?西田?」

男の言葉につくしは後ろを振り返った。

「はい。わたくしの母は新潟で暮らしておりますが、最近体調が思わしくありません。もうかなりの年ですので覚悟はしておりますが、母の子供はわたくしだけでして息子としての役割といったものを果たすべき時期が来たかと思っております」

「まあ。それは・・・」

そこまで言われれば、つくしも理解出来る。
忙しいと言われる副社長に同行しなければならない秘書は、自分の年老いた母親がいつ何時ないと知ったとき、どんな気持ちでいただろう。
つくしには弟がいるが、両親は既に亡くなっている。だから西田の気持ちが理解出来る。

「わたくしとしては東京の介護施設に転居して欲しいと思っておりましたが、母は周りの環境が変わる、東京の言葉や気候に馴染めないと言い、生まれ育った場所から離れることには抵抗があるようです。ですから新潟へ行くための時間を取る必要があるのですが、何しろわたくしは副社長の秘書としてお傍に控える必要がございます。今はそういったことからなかなか故郷へ戻る時間を見つけることが出来ずにおります」

無表情な銀縁眼鏡の男だが、語られる言葉は紛れもなく老いた母を思う言葉だ。

「牧野さん。ここからは、どうしてあなたが副社長の秘書に抜擢されたのか。わたくしがお話致します。それは先日の出来事が関係あります。あなたもご存知の通り、あの時わたくしもここにおりました。その時あなたのようにはっきりと物が言える人間なら女性だとしても副社長の秘書として相応しいと感じ、あなたには食品事業部から秘書課へ異動して頂くことに致しました。あなたにしてみれば思いもよらなかった事だったでしょう。これはある意味わたくしの都合であり、もしあなたがあの日のことを気にしていらっしゃるとしても、副社長に他意はございません」

語られた西田の口調は静かで、表情は真面目だった。
それに先輩女性秘書から、あなたを選んだのは西田室長だと聞かされていただけに、その話に頷けた。

「そうですか」

つくしは、西田の言葉に、自分が選ばれたのは、真っ当な理由があったのだと、朝からピリピリと感じていた胃の痛みが少し和らいだと感じていた。

「それから副社長が女性の秘書が嫌いだという噂ですが、そのようなことはございません。NYでわたくしの下についていたのは女性秘書でしたが、彼女に対しての副社長の態度はわたくしに対する態度と変わりませんでしたので」

そこまで言われれば、つくしも納得しない訳にはいかなかった。
そして自分が思っていたように、道明寺司が自分に対し、何らかの嫌がらせをしようとしていると考えているのは勘違いだったのだと安心した。
そうすると、それまで肩に力が入っていたのが、すうっと抜けたように感じられた。

「牧野さん。ご納得いただけたのなら、給湯室へ参りましょう。副社長のコーヒーをお淹れいたしませんと」

つくしは、今度は司に一礼をすると、彼に背中を向けた。
そして西田の後に続き、部屋を出た。








静かに椅子に座ったまま司は閉じられた扉を見つめていた。
牧野つくしは、思っていることがすぐに顔に現れる。
目の前の扉は、少し前まで彼女にとって開きたくない扉だったはずだ。
だが、一礼した彼女の表情は入って来た時に比べ和らいでいた。
そしてこの次に扉を開けて入ってくるとき、どんな表情をしているか。
それが楽しみだった。





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2017
11.20

恋におちる確率 9

つくしは、入社して以来こんなに緊張したことはない。
入社試験の時、筆記試験や作文、そして面接を何度も繰り返したが緊張などしなかった。
けれど、今朝は妙に早く目が覚め、部屋のカーテンを開けた。だがまだ日の出前の時刻であり、視線の先には薄ぼんやりとした暗闇だけが広がっていた。

試験の結果が送られて来たとき、せっかくですが当社とはご縁がございませんでした。といった文言を目にすることなく、歓びを噛みしめた。そして、あの日の歓びを無駄にすることなく今日まで仕事に励んで来た。

そんな平凡な毎日に、今日という日が特別な日といった訳ではない。
ただ、今日から55階にある秘書室勤務となるつくし。
突然の異動は何を示しているのか。それとも何かを示そうとしているのか。
考えたところで分からないのだから、考えるのは止めた。

その代わり胸の中にあるのは、やってやるわよ、かかってきなさいよ。といった思い。
だが何に対して敵対心を向けているのか。それは、勿論副社長である道明寺司に対してだ。
何故なら、この季節外れの突然の異動はあの男の思いつき以外に考えられないからだ。
そして、これが思いつきだろうと、気まぐれだろうと、所詮しがない会社員は会社の命令に従う以外なかった。


そして、つくしが知る秘書の仕事と言えば、仕える人間のスケジュールを管理するといった事くらいしか頭になかった。
そんなつくしだが、秘書は人一倍身なりに気を遣わなければならないことは知っている。
だからスーツは、いつものスーツ以外に2着新調した。だがさすがに一度に2着は痛い出費となった。


いつもより30分早い電車に乗り込み、会社を目指す。
何故なら、初日から遅刻するような羽目にはなりたくないからだ。
そして、いつもと同じ会社だというのに、まるで登る山が違うように感じられるのは、最上階の55階がアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロと同じ別名を持つからだ。

キリマンジャロは現地の言葉では「神の家」と呼ばれており、コーヒー三課にいたつくしにすれば、キリマンジャロは馴染のある名前だが、そのキリマンジャロと同じ意味を持つ「神々のフロア」にある秘書室に勤務するのだから緊張するなと言われる方が無理だ。

あの日訪れた55階は、キリマンジャロの頂上のように空気が薄い場所ではなかったが、間近で道明寺司を見た瞬間は息が詰まりそうになる思いをした。だが、執務室でのセクハラ発言に頭の中は沸騰直前のやかんのようになったはずだ。
コーヒーを淹れる湯の温度は80度くらいから97度がベストだと言われるが、もしつくしがやかんなら、あの時コーヒーに一番いいと言われる温度でいたのかもしれない。

そして今は、外面はやる気のあるビジネスウーマンだが、内面はいったいどんな業務を任されるのかと胃に若干ピリピリと痛みを感じながら、エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す女だ。だがその途端、周りの視線が感じられた。

だが周りの目は気にしない。それにエレベーターが上昇するにつれ、次第に覚悟が出来た。
それは、雑草を自負する女の心の中にある、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟。だがあまり気負っても駄目だと考えを改める。

そうだ。秘書の業務といったものは、今までの仕事とは違い、自分のペース配分といったものは関係ない。相手に合わせることが求められるはずだ。
それにしても、いったい誰の担当になるのか。まさか、あの男の担当になるとは考えていないが、何故か嫌な予感が頭を過る。




つくしは、9時からの業務開始に対し、8時には55階のフロアにいた。
少し早すぎたのではないかといった思いがあるが、その時、秘書室の扉が開き、ひとりの女性が出て来た。上品な装いの50代前半といった年令に見えるその女性は、開口一番言った。

「あなたが牧野つくしさんね?」

装いが上品なら、声も上品だ。
つくしがはい、と答えると女性は万事心得た様子で自己紹介を始めた。

「私は野上。野上雅子です。専務担当秘書よ。随分と早く出社したのね?でも感心だわ。秘書としての勤務は9時からかもしれないけど、それ以前にすることはあるものね。西田室長は副社長と一緒に出社されるからまだだけど、どうぞこちらへ」

と言って秘書室へ案内された。
そして背を向けていた女性に、
「石井さん。こちら今日から秘書課で働くことになった牧野さん」
と紹介された。

「はじめまして牧野さん。常務担当秘書の石井誠子です。随分と早く出社したのね?でもあなた偉いわね?」

久美子が言っていた専務や常務といった役員にはお局クラスの秘書がいるといった話しは、この二人のことだろう。二人とも同じ年頃であり、随分と落ち着いて見えた。
そして考えてみたが、もしかすると二人のうちのどちらかが、秘書の仕事から離れることになり、その後任としてつくしが選ばれたのかもしれないといった思いが過る。
そして、そんな二人から感じられるのは、母か姉かといった雰囲気で、よくある新人に対し意地悪をするとか、仲間外れにするという低次元の話はここにはないようだ。

「牧野さん。あなた副社長の秘書として西田室長の下に付くことになったそうだけど、あの副社長が女性秘書を受け入れるなんて信じられないことなのよ?」

「そうよ?秘書課の女性はわたし達二人だけで、あとの役員についているのは男性なの。以前副社長がNYからこちらにいらした時、女性の秘書がついたことがあったのよ?だけどすぐに異動させられたわ。まあね、彼女は秘書というよりも、女を前面に出すような人だったから副社長にしてみれば目障りだったんだと思うわ。何しろ副社長は公私混同を嫌う方なの。だから彼女のような人はお嫌いだったの。はっきり言えば人選を間違ったとしか言いようがないの。でも今回あなたを選んだのは西田室長だから、心配してないわ」

二人の女性の会話から、つくしが思い描いたどちらかの女性の後任として抜擢されたという微かな期待は、見事に打ち消された。そしてやはり自分が仕えるのは、副社長である道明寺司であることがはっきりした。

「でも牧野さんは食品事業部だったのよね?それもコーヒー三課。じゃあ副社長のお好みのコーヒーの淹れ方もすぐにマスターできるわね?あの方はブルマンのブラックがお好みなの。でもね、淹れ方は副社長の好みがあるの。だからそれは西田室長から直接教えてもらえばいいと思うけど頑張ってね。朝まず飲まれるのはそのコーヒーだからその一杯が重要よ?まさにその一杯が副社長のご機嫌を左右するではないけれど、無きにしも非ずってところかしらね?だから牧野さん次第で副社長の一日が決まることになるのかもしれないわね?」


秘書課の古参秘書から聞かされる話に耳を傾けていたが、そうこうするうちに秘書室の監視モニターが映し出したのは、開いたエレベーターの扉からひとりの男が降りて来た姿と、彼の後ろに従う男の姿だ。

「あら。今日はいつもより早いわね?さあ、牧野さん。副社長がいらしたわ。ご挨拶に行きましょう」









司は、今まで秘書からおはようございます、と声をかけられてもそちらを見ることはなかった。
だが今朝の彼は機嫌が良かった。
ものごとは、思い通りに行くことと、そうでないことがあるが、司の場合思い通りに行かないことはない。
そんな彼の前にある日突然現れた牧野つくしは、思わぬ楽しみを味あわせてくれた。
今まで彼の周りにいた容姿だけが取り柄で頭はカラッポといった女と違い、司に意見するだけの気骨があった。
だが仕事上で相手に合わせなければならないことは、合わせることが出来るのだろう。
牧野つくしについて調べさせた結果、周りから見た仕事の評価もよく、そして人柄も問題ないと書いてあった。
そしてあの日の出来事から、とにかく、正義感が強い女だということは理解出来た。
自分が信じることに対しては、揺るぐことない信念を持ち行動する女。
そんな女が目新しいと感じたのか、それともただ単に退屈しのぎとして傍においてみたいと感じたのか。どちらにしても、彼女は今日から司の秘書として彼の傍で働く事になった。

だがまさか、その年になって秘書として働き始めることになるとは、思いもしなかったはずだ。
何故なら、司の会社では異動があるとしても、ある程度関連のある部門への異動が殆どだったからだ。だから今回のようにまったく違う部署への異動は稀な話であり、誰もが驚いて当然だ。そして本人が嫌だと言っても、社員である以上嫌だとは言えない立場にあり、もし嫌だと言えば、辞めざるを得ない。そんなことからも、当の本人がしぶしぶ承諾する様子が目に浮かんだ。


司は彼女に視線を向けたが、特に何も言わず、目の前を通り過ぎ、執務室へと向かった。
その代わり西田が彼女に声をかけた。

「牧野さん。さっそくですが本日より宜しくお願いいたします。それでは、副社長室へどうぞ。そちらで詳しいお話をさせていただきます」

司は牧野つくしへの奇妙な反応を抑えつけ、落ち着いた口調で有無を言わさないと言われる西田の声を背中で聞いていた。そしてその声に静かに答える声は、本人は隠そうとしているが、緊張が感じられ、先日の勇ましさを今はどこかへ収めているのだろうと感じていた。

さしずめあの時は、針を纏った河豚だったが、今は野兎の毛皮を纏ったリスといったところだ。恐らく買ったばかりのスーツを身に纏い、武装ではないが、その姿は彼女がイメージする秘書といったものを表しているはずだ。

地味な紺のスーツに地味な靴。
そして恐らく一度も染めたことなどない真っ黒な髪。
だが紺という色は、色の濃い分、額縁のように中にある肌を引き立たせるが、まさに細く白い首筋を引き立たせていた。だがキュッと結ばれた唇と大きな瞳は、相変わらず司のことを最低な人と思っているようだ。

あの時、太田という社員を庇うようなことなど口にしなければいいものを、あの出来事は後悔していないように見える。だが、何故自分が55階で仕事をすることになったのかは、薄々気づいているはずだ。

だがそれは、司にも言えることだ。牧野つくしを女として意識している気持ちが無いのかと言われれば、それは違うはずだが、まずは牧野つくしの感情の移り変わる様子が面白く、近くで見てみたいといった気にさせられていた。

いずれにせよ、執務室の中、ほんの1週間前に立っていたその場所で、今は西田に秘書としての心得といったものを伝授されようとしている女が、これからどういった働きをしてくれるのか楽しみだ。



「あなたは本日よりわたくしの下で副社長の秘書として働いて頂くことになります。秘書の仕事というものは、机上で学ぶことはありません。仕事は実践あるのみということで身体で覚えて頂きますが、秘書の仕事は他人には見えずらい仕事といったものが殆どです。
そして秘書の仕事は評価されにくい仕事です。この仕事をしたからといって数字が上がるといった訳でもございません」

司は西田の話を聞きながら、牧野つくしが今何を考えているのか知ろうとした。
だがその表情は、1週間前の態度とは大違いで、これから仕える男に失礼にならないようにといった気持ちが現れていた。


「しかしながら多くの機密文書も扱うことになります。ですからご自分の立場をきちんと理解して頂くことが必要です。つまり口は堅くといったことが要求されます。いいですか。牧野さん。秘書の仕事は上司のニーズに応えることが役目です。ですが、上司に言われてからでは遅いことがあります。ですから、そういったことが無いように、自らが上司のニーズを把握し、自分の役割を認識することが重要となります。そして秘書というのは、上司の経営の補佐といったものが仕事であり、本来なら身の回りのお世話や健康管理といったものは秘書の仕事ではありません。ですが副社長のように独身となりますとある程度秘書が補佐する必要がある。そうお考えいただけたらと思います」

西田はそこで一旦話しを終えたが、次の言葉が口をついたとき、司の目の前に立つ女の大きな瞳が、つい先ほどとは一転し、あの時と同じように険悪な表情で彼を見つめる様子に笑いを堪えた。

「と、いうことで牧野さん。明日から副社長のお迎えは牧野さんがいらして下さい」





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2017
11.19

金持ちの御曹司~頭をよせて~

いつもに増して忙しい男。
彼の名前は道明寺司。
道明寺財閥の御曹司と呼ばれ、道明寺HD日本支社の支社長であり、牧野つくしの恋人。
そんな男がこんな夢を見た。






道明寺家は過去に何人もの有力政治家を輩出しており、司も選挙区である地元世田谷からトップ当選を果たしていた。
何故道明寺家は多くの政治家を輩出して来たのか。決して個人の野心の為ではない。
それは道明寺一族のためであり、財閥の利権といったものを考えたとき、家族の中に政治家がいることが望ましいからだ。


選挙には『地盤、看板、鞄』の三バンが必要だと言われているが、司の場合どれも完璧に満たしており、何の心配もないと言われていた。

ちなみに地盤は選挙区における支持者の組織。
看板は知名度。
そして鞄とは資金のことだ。

支持者組織は、道明寺司後援会という名称だが、実際は『道明寺司ファンクラブ』といった方が正しい。
ちなみに司が演説を行えば、老若男女問わず誰もが聞き入り魅了される。
それは一本調子ではなく、抑揚をつけた語りかけが聴衆の胸にひびき、心を打たれるからだ。
そして、そんな演説を聞いた人々から後援会への入会が後を絶たず、その知名度は彼を知らない人間がいるとは思えないほど幅広く知られていた。
さらに資金力に至っては文句なし。なにしろ彼のバックには道明寺という巨大財閥がついているのだから金の心配など無用だ。

だが政治の世界では、コンニャクと言えば100万のことだが、レンガと言えば1000万と言われており、議員に頼みごとがある有権者は、それを包んで持参すると言われている。
だが司の場合そんなものは必要としない。何故なら議員の資産公開ともなれば、驚くほどの数字が国民の目に触れるのだから政治献金など一切必要ない。

けれど、並外れた財力を手にする男にも悩みがあった。
晴れ渡った空の日曜日の午後。
世田谷の邸のテラスでイギリス式ハイティーの必需品であるスコーンにクロテッドクリームを塗った男は秘書に言った。

「おい西田。牧野・・・牧野つくしは、あの女はいったい何を考えてる?」

「牧野つくし様ですか?」

「ああ。そうだ。牧野つくしだ」

「司様が高校生の頃お付き合いされていた牧野つくし様ですね?」

「・・・・・」

司は言葉に詰まった。
そして、手にしているスコーンをじっと見つめた。

「仕方がございません。今のあの方は野党の国会議員なのですから、総理である司様に質問する権利がございます」

司は若くして党の副幹事長を務め、いくつかの大臣職を経験した後、党総裁となり内閣総理大臣の職を務めるまでになった。

「だからと言って、なんであいつは俺に対してああも反抗的な態度を取る?」

「ああもとおっしゃいますが、それはいったいどういったことを示していらっしゃるのでしょうか?」

「決まってんだろうが。あの態度だ。・・・その・・どうして俺にああも冷たい?」

「それは司様が牧野様のことをお忘れになったばかりに、男性不信になられたのではないでしょうか。何しろ牧野様のことを好きだと言って周りの迷惑を顧みることもなく追いかけ回した果てにお忘れになられたのですから、あのような態度に出られても当然ではないでしょうか?」

司は高校生の頃牧野つくしに恋をしたが、彼女のことをすっかり忘れてしまった過去がある。それは彼のせいではなく、当時の財閥の強引なビジネス手法が招いた悪夢だ。

「けど俺はあいつを思い出してからすぐに謝りに行ったじゃねぇか!」

そしてその後、記憶を取り戻し、彼女の元へ行ったが許してもらえなかった。

「しかし許されなかった・・。仕方ございません。牧野様は頑ななところがありますから、あの方の中では今だに司様のことは許せない・・ということでしょう」

西田にそう言われた司は、怒ったように下唇を尖らせたが、スコーンを口に入れ、ストレートのアールグレイを口に運んだ。

彼女の記憶を取り戻した司は、以来何度も彼女の元を訪れては求愛したが、相手にされなかった。
そして月日は流れ、司は40歳で内閣総理大臣となり、国会では野党議員となった牧野つくし先生に責められていた。だが、その責めも自分が彼女を忘れてしまったが為であり、甘んじて受けなければならないと思っていた。

今では氷のように冷たい女と言われる牧野つくし。
英徳学園高等部を卒業後、抜群の成績で東京大学法学部を卒業。
当時は大蔵省と呼ばれていた今の財務省に入省した。そして数々の要職を務め上級の国家公務員となった彼女は財務省を退官後、政治の世界に打って出た。
そして、司に対して厳しいと言われる質問ばかりする。







「総理!総理!質問にお答えください!西門流茶道会館を建設するにあたり、国有地が不当に安く売却されたようですが、これはあなたと家元の西門総二郎氏との関係からいわゆる忖度といったものが働いたのではないでしょうか?」

今現在国政を騒がせているひとつに、総理のお友達問題と呼ばれる案件があり、その案件の為に常任委員会とは別に特別委員会が開かれていた。
そして、にわかに脚光を浴びるようになった忖度(そんたく)という言葉は、相手の心を推し量り配慮することであり、流行語と呼ばれている。そしてこの言葉を総理に対し使ったのはつくしが最初だ。

司は彼女の質問に答えるため手を上げた。
何故なら発言する者は挙手をし、委員長に発言指名をされなければ発言出来ない決まりだからだ。

「道明寺内閣総理大臣」

「いいえ。そういったことは一切ございません。お考え過ぎではないでしょうか?」

司は立ち上ってマイクの前まで行き、発言した。
そしてまた席に戻った。

「そうですか。それでは再び総理にお聞きします。やはり西門総二郎氏が運営する西門学園が国家戦略特区と呼ばれる地域に大学を建設しようとしていますが、こちらの件をいかがお考えでしょうか?この大学は茶道文化を学び、その文化を海外に伝えるといったことを目的とすると言いますが、そのような大学が本当に必要なのでしょうか?今までこのような趣旨の大学の開学を認められたことはありません。それなのに文科省に許可されたのは不思議としか言いようがありません。これはやはりあなたのお友達である西門総二郎氏に対する忖度が働いたのではないでしょうか?もしくは総理のご発言の中に西門学園の開学を望むような趣旨があったのではないでしょうか?」

「道明寺内閣総理大臣」

手を上げ名前を呼ばれた司は再びマイクまで歩いて行き、発言した。

「牧野議員。それはお考え過ぎではないでしょうか?確かに私と西門氏は幼馴染みであり、親しい関係にありますが、政治とプライベートは全く関係ありません。彼と大学の開学について話しをしたことはございません」

司は愛おし女を見つめながら冷静に答えた。
今ではこうして国会議事堂の中でしか会えない彼女。
そしてすぐ傍に、あと数歩の場所に彼女がいると思うと気持ちがざわめいていた。

「道明寺総理。あなたは今ご自身が疑惑の総合商社と呼ばれていることをご存知ですか?」

だが二人の間に甘い会話が交わされることは決してなく、棘を含む話ばかりが繰り返される。

「牧野議員。道明寺は商社ではありません。商社なら美作商事か、花沢物産をあたって下さい」

「そういう意味ではありません!お友達と呼ばれる方々の仕事のために色々と便宜を図っているといった噂があるんです。現に海外で日本の資金援助で建設される水道事業に関しあなたは花沢物産系の会社を指名するような発言をしたといった話しがありますが、その件についてお答え下さい」

政治は駆け引きが必要だが、恋にも駆け引きが必要であり、こうした委員会や本会議での質問も恋の前戯と思えば楽しいのだが、長年の恋の宿敵。類の会社の名前があがった途端、司の顔に厳しさが浮かんでいた。

「牧野議員。逆にこちらからお伺したいですね?あなたは花沢物産社長の花沢類氏とはどういったご関係なのでしょう?花沢氏は既婚者です。そんな男性と親しげに過ごしているといった話しがありますが、それはどうご説明をして下さるのでしょうか?」

類と牧野つくしが親しげに道を歩いているという情報が耳に入り、司はすぐさま類に電話をした。すると、ああ、あれはなんでもないよ。旧友として久し振りに食事をしただけだよ。と笑って言われた。

だが類は既婚の身だが間もなく離婚するという。そうなると、司にとってはライバルとしか思えない。しかし類は彼にとって大親友であり幼馴染みだ。だから類の言葉を信じたい。
だが前科がある。

「道明寺総理。今は私のことではなく、あなたに対して私が質問する時間のはずですが、まあいいでしょう。あなたのご質問にお答えしましょう。彼とは10代の頃からの知り合いであり単なる友人です。ですから男と女の一線は超えてはいません」

「・・・ふん・・。そうか?一線は超えてないって?お前は昔南の島で俺に嘘をついて夜中にあいつと抱き合ってたことがあっただろうが。あん時と同じなら承知しねぇからな!」

突然変わった司の口調に委員会室がざわめいた。
そして委員長が総理の激変ぶりに慌てて口を挟んだが低い声で黙ってろと一蹴され、室内は水を打ったような静けさに包まれ、そんな中で二人の口論が始まった。
そして共に自分達が立っていた場所から歩みよりではないが、今では二人は50センチも離れない場所で顔を突き合わせ睨み合っているが、185センチの司に対しヒールの高い靴を履いているとしても、女の背は低く司が見下ろす形だ。

「ち、ちょっと!なっ、なに言ってるのよ!変な言いがかりをつけないでよ!」

「何が変な言いがかりだ!お前は夜中に俺がいる部屋から抜け出して他の男に会いに行く女だろうが!誰が眠れなくて散歩してただって?あのとき類と真夜中の密会ってやつでキスして抱き合ってただろうが!」

司は遠い昔のことが頭を過った。
それは、藤堂静への思いに悩んでいた類を抱きしめていた女の姿。

「そんな大昔の話持ち出さないでよ!それにど、どうしてあたしが今更類と抱き合わなきゃいけないのよ!類はね、あんたがあたしを忘れてからもずっとあたしのことを見守ってくれてたんだからね!言っときますけどね、あたしはね、あんたみたいに軽々しいことなんてしてません!」

「何が軽々しいんだよ!」

「何って軽々しいじゃない!あたしのことだけ忘れちゃって、別の女を傍に置いて・・なにが海よ!だいたいね、海だか山だか湖だか知らないけどね?あたしはあんたのことを忘れたことは一度もなかったわよ!今の今まで一度もね!」

「俺だってお前のことを思い出してからは、あんなことは一度もしたことはねぇぞ!それに何度も謝ったじゃねぇか!それなのに許そうとしねぇのはお前の方だろうが!」

「分かってるわよ!」

今は顔を真っ赤にして憤っている女の本音が語られた。
『あたしはあんたのことを忘れたことは一度も無かった』
その言葉がどれほど嬉しいか。
司は天にも昇る気持ちだ。

「分かってるんなら何が問題なんだよ?俺は独身。お前も独身。何の問題がある?それともアレか?与党と野党で政策の違う党の二人が一緒になることが問題なのか?そんなこと愛し合う二人の前には関係ねぇだろ?」

政治的な思考と愛の思考は違うはずだ。
事実政党を超えた愛は実在する。

「違うわよ・・もう時間が経ち過ぎてるのよ!・・それにあたしはもう40歳よ?あんたには、こんなおばさんじゃなくてもっと若い子がいいのよ・・」

「牧野・・・」

「なによ!言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない!言いなさいよ!」

司より随分と小さい女は彼に向かってやたらと反論を繰り返すが、それは昔からであり、素直じゃないところは全く変わらない。だが、司も昔と変わらない一念の男であり、ここでこうして本音で会話が出来る以上簡単に諦める訳にはいかない。

「欲しかったんだろ?」

「何がよ!」

「だから俺が。いつまでも意地張って自分の気持ちを偽ってんじゃ人生楽しくねぇだろ?俺のことが今でも好きだって認めろよ。俺はお前以外の女なんて欲しくねぇからな。牧野、今も昔も俺にはお前だけだ」

50センチあった二人の間。
だが今はもうその距離はない。
それは、司の手が彼女の身体に回されると、力強く抱きしめていたからだ。
そして彼の胸の中で呟いている彼女の言葉を聞きた。

「・・・ばか。あんたなんか大嫌い」と。
だがそれが彼女なりの愛情表現だと分かっているから怒ることはない。
だから司は言った。「大嫌いで結構。俺はお前のことが大好きだ」と。
そしてこの様子はテレビで中継されており、全国民の知るところとなった。

道明寺総理。野党議員牧野つくしと熱愛発覚!
委員会中に抱き合う!
高校時代の恋人と復縁!
今後の国会運営に影響か?!
etc.etc.etc.・・・

そして中継をしていた国営放送は、中継の途中ですが番組を変更致します、とテロップが流れ『名曲アルバム』に切り替わり、クラッシックの名曲と共に、ヨーロッパの美しい風景が流れ始めた。
そして丁度その頃、総理である司がつくしに思いっきり激しいキスをしていた。












道明寺。と柔らかな声で呼びかけられ目が覚めた。
そして心配そうな顔で「大丈夫?」と聞かれた。

彼はベッドの中にいて、彼女は傍に置かれた椅子に腰かけていた。
そしてタオルが額に置かれていた。

司は目の前が真っ暗になり執務室で倒れた。
悪い病気ではという思いが頭を過ったが、医師には疲労と寝不足が重なったためでしょうと言われ安堵した。

健康には自信があるが、それでも忙しい日が続けば、体力が奪われる。
そして、そんな男を心配する愛しい人の顔は間近にあり、タオルを取り換えようと、頬に息が感じられた。


寝ている間に夢を見た。
何故か舞台が政治に関するものであり、そして二人は長い間離れ離れになっていた事を言い合っていた。
だが今の司の心は、彼女の顔を見た途端弾んだ。
西田がすぐに彼女に連絡をしたが、倒れた自分の元にすぐに駆けつけてくれ、傍にいてくれたことが嬉しくてたまらなかった。
何度も道明寺大丈夫?と呼ばれることが嬉しいと感じ、その度幸福に包まれ、さっき見た夢の名残りはここにないのだと胸を撫で下ろす。

そしてどうしたの?と聞かれ夢を見たと答えた。
二人が長い間離れ離れでいた夢を、と。
すると彼女は、あたしたちもう離れないって誓ったでしょ?と言って笑った。
「そうだな。これから先もずっと一緒にいてくれるんだよな?」と司は返した。
そして目蓋を閉じたが、暫くして取り換えられたタオルが額に置かれ、その冷たさに目を開くと、すぐそこに心配そうな顔があった。

司は彼女の小さな手を包み込むように掴んだ。
その手はタオルの冷たさ以上に冷えていた。だからその手が早く暖かさを取り戻すようにしっかりと包み込み、布団の中に引き込んだ。
そして目の前にあった唇に唇を重ね、彼女の頭を自分の胸の上に乗せ、滑らかな黒髪を撫で始めた。

「何も心配することねぇからな。俺はお前の傍にずっといてやるから」
と言って。





今の二人は、あの頃とは違い常に一緒にいることが当たり前となっているが、それはどちらかが一方的に相手を必要としているというのではない。
繋いだ手の暖かさが生きていく意味を教えてくれたのは彼女だが、互いが互いを必要としていて、永遠が互いの手の中にあるから一緒にいたいと思っている。
そしてそれは二人の間にある強い絆。
それをはっきりと認識したのは、無人島と思われていた島に拉致され、二人で夜を過ごした日だ。それまで司の周りにあったすべての孤独な夜が無くなった日であり、離れたくない。どこへも行かないでという言葉を告げられた日でもあった。
その言葉が男にとってどれだけ嬉しい言葉か。
あの日のことは一生忘れることはないと断言できる。
そして、頭をよせ合い互いの思いを伝えたが、頭をよせる事は、心をよせる事でもあり、互いの気持ちが近づく瞬間でもある。


そのとき、彼女が彼の胸から顔を上げ、司を見た。
その目はさっきまで感じられた不安の影は去り、柔らかな光りがあった。


司は頭をよせ、再び唇を重ね合わせたが、こうして頭をよせる相手がいることの幸せを噛みしめていた。

そしてこれからもっと幸せになろうな。と囁いた。





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2017
11.17

恋におちる確率 8

来月から秘書課に異動。
その来月という言い方は、ある意味誤解を与えることがある。
なぜなら月初めに言われるのと、月末に言われるとでは大きな差があるからだ。
事実、つくしが来月からと告げられた時点で今月の営業日はあと四日しかなく、業務の引継ぎであっという間に時は過ぎ、気付けば明日から最上階、神々のフロアと呼ばれる55階での勤務を控えていた。

それにしても、こんな短期間でこの時期に異動があること自体が前代未聞のはずだ。
しかし、どんなことにでも異例や特例といったことがあるのが当然であり、つくしの異動も異例の中のひとつだと思えば、よくある話しといった言葉で片づけられても不思議ではない。

それでも何故、食品事業部の人間が秘書課に異動になるのか?
異動の希望など過去にも出した覚えはないし、望んでもない。だから何故?どうして?
の言葉が大きな疑問符付きで頭の中に渦巻くのは当然だ。

休憩室でコーヒーを飲んでいたところ、同僚から思わぬ知らせを聞き、慌てて席に戻り、メールを開き、送られてきた人事通達の内容に我が目を疑った。
大きな目をさらに見開き、画面を凝視し、その文字を追ったが、

『食品事業部、飲料本部、飲料第二部、コーヒー三課
主任、牧野つくし
11月1日付けで秘書課異動を命ずる。』

と、確かに書かれていた。







「あの、部長。でもどうして私が秘書課に異動なんですか?」

つくしは部長席まで駆け寄った。
だが何度聞いたところで、その真相が明らかになる訳もなく、食品事業部部長もコーヒー三課の課長も、上からの指示があればその指示に従うしかないのだから、答えは「指示があったから」としか答えようがない。そして明確な理由が明らかに出来ない彼らは、咳払いや口ごもるしか出来なかった。

だが、同期の原田久美子は違った。

「ちょっとつくし。もしかしてあんた道明寺副社長に見初められたとかじゃないの?だって社内の噂によると嫌いなもののひとつが女性秘書だっていう副社長の傍に行くことが出来るなんて尋常じゃないわよ?」

尋常じゃない。
言葉を変えれば異常ということだ。確かに異常だとつくしも思った。
そして絶対に言えるのは、見初められてのではない。これだけは確かだ。

「ねえ、つくしは今まで道明寺副社長と会ったことがあるの?もしかして何か接点があってつくしの人間性が認められた結果だとか?」

「まさか!接点なんてないわよ!・・どうしてあたしがあの男と・・・じゃない副社長と接点があるのよ?」

久美子にはあの日起きた事を話してないが、接点は数日前の副社長室での出来事だ。
だから突然の人事異動に思い当たるとすれば、つくしが最低呼ばわりしたことを根に持ち、何かしようと企んでいるのではないかということだ。

これはもしかすると、秘書室という名の窓際に追いやられ、仕事もさせてもらえず、身の置き所がない状態へ追い込み、自ら退職を申し出るように仕向けようとしているのではないか。そんな思いが過る。

「そうよね・・社員食堂にさえ来たことがない副社長がつくしの行きつけのラーメン屋に来ることもないだろうし、逆につくしが高級レストランで食事をするなんてこともないから接点なんて探しようがないし本当に不思議よね?でもね、今社内の女性社員の話題はどうしてつくしが秘書課に異動になったかって話で持ち切りよ?だって感じるでしょ?この空気。あたし達の周りだけ違うでしょ?」

確かにそうだ。
社員食堂の中、つくし達の周りだけ何故か人がいない。
そして遠目に二人を見る女性たちの姿があるが、その視線は絶対何かあったのだという懐疑的な視線。
そんな視線にさらされ、背中や首の後ろがむずむずとし、豚肉の生姜焼きを口に運ぶ箸が重く感じられた。

だがそのとき、向かいに座る久美子は、手にしていた箸を置き、身の乗り出すようにして箸を持つつくしの手を両手でガシッと掴み、真剣な眼差しで言った。

「ねえ、つくし。よく聞いて。これをきっかけにいっそのこと副社長と恋におちてみるってのはどう?つくしは彼氏がいないひとり者。副社長も噂によれば今は多分ひとり。妙齢な年ごろの男と女が傍にいて互いが惹かれ合うってことがあるじゃない?ほら、ロマンス小説とかでよくあるじゃない?アレよ、アレ。深夜遅くまで二人だけで仕事をしていい雰囲気になる副社長と秘書のロマンス!・・・牧野くん、随分と遅くなってしまって申し訳ない。だが、ちょうどいい機会だし話しておきたいことがある。私は君のことが前から気になっていた。だから秘書に抜擢したんだ。牧野くん、君は私のことをどう考えている?私は真剣だ。だから君も・・・キャーあたし、イケないこと想像しちゃうわ!」

久美子の思い描いているロマンスは、大富豪の社長に見初められた平凡な女性秘書が、華やかな世界へ足を踏み出す。恐らくそんな物語なのだろう。
そんな久美子の手は、興奮のあまりつくしの手を上下に揺らすのだから、箸先の生姜焼きのタレが飛び散りそうになることを懸念し、つくしは自分の手を引き抜こうするが、久美子はしっかりとつくしの手を握り離そうとはしない。だがつくしはなんとか手を解こうとする。

「・・ねえ、久美子。・・あの男・・じゃない道明寺副社長は女の秘書が嫌いって話しでしょ?それなのにどうしてあたしが秘書課にって思うけど、秘書室勤務になったからって副社長付になる訳じゃないでしょ?」

そうだ。秘書課に異動になったからといって副社長付になるとは限らない。
だから、久美子の話しが明後日の方向へと向かう前につくしは否定した。
だが相変わらず手は離してもらえない。

「何言ってるのよ!専務や常務にはお局クラスの秘書がいるんだし、副社長付になるに決まってるじゃない。いい?副社長には秘書の鏡、懐刀って呼ばれる秘書がいるけど、その人はNY時代から仕えている人で副社長の子供の頃を知る西田秘書。でもやっぱりひとりじゃ忙しいんじゃない?副社長のスケジュールの管理は西田秘書だろうけど、ほら、年齢の事もあるじゃない?西田秘書もそれなりの年だしさ、病気で休んだりとかもするだろうし・・・とにかく秘書室の事情で誰か有能な人材をってことになったんじゃない?もうこれはなんだかロマンスの香りがプンプンするわ!大人の愛が燃えるのよ!」

だがつくしには、とても秘書室の事情とは思えなかった。
そして久美子がロマンスの香りがするなら、つくしには陰謀の匂いではないが、きな臭ささが感じられた。

「ねえ、つくし!副社長のあの引き締まったしなやかな身体に抱きしめられたいと思うでしょ?動きのひとつひとつがセクシーなんだもの!もうつくしの事が羨ましくて仕方がないわ!」

じゃああたしと代わって!
と、口に出してみたい気がしたが、そんな言葉を呟けば、手を挙げる女性が大勢いるはずだ。
そして、つくしのその言葉は風に乗って社内中を駆け巡り、副社長の傍にいたくないと思う牧野つくしはおかしな女だといった噂が広まることだろう。そして今は、どうしてつくしが秘書課に異動になるのかが多くの臆測を呼んでいるというのに、それ以上に臆測を与える原因となる言動は控えなければといった思いがある。だから口に出すことはしなかった。
そして、今はあの男のことより、目の前にある豚肉の生姜焼き定食の続きを食べたい思いがあり、なんとか手を離してもらおうとしたが、やっと久美子の手が離れた。
そして話題が変わったことにホッと胸を撫で下ろす。

「ねえ、つくし。ところであんた昨日若い男の子と食事に行ったって言うけど、誰よそれ?まさか恋人が出来たなんてことないわよね?」

「違うわよ。ちょっと仕事で色々とあってその関係よ。だいたいあたしよりも一回りも若い男の子に興味なんてないわよ。ランチミーティングっていったら変だけど、その延長みたいなものだから」

「その人お客さんなの?」

「・・うん。突然異動することになったからって連絡したら、じゃあお昼でもって言われてね・・」

得意先の人間とのランチミーティングといったものは、よくある話しであり、久美子の手前、そういうことにした。
だが相手はあの若い社員だ。

インフラ事業部の太田から電話がかかって来たのは、人事通達が届いた日の夕方だった。
そしてその通達を見た太田は、突然つくしが秘書課に異動になることを、ただ事ではないと感じたのだろう。それは、自分のせいで副社長に反論したため、この人事異動が行われたのではないか、そう思ったことは間違いない。

だからやはり自分が悪かったのだと。
迷惑をかけたのだといった思いが募り、太田はお詫びの印といっては何ですが、と食事に誘ったということだ。だがつくしは断った。もう済んだことだから気にしなくていいからと。
しかし太田はどうしてもお願いします。と言い引き下がらず執拗だった。
この点は、ある意味線が細いと感じられていた太田正樹も、営業としての資質はあると言えるのかもしれない。それなら、とつくしの提案で行きつけの中華料理店でランチをご馳走してもらった。
注文したのは、酢豚定食。杏仁豆腐のデザートを付けてもらい1200円といつものランチより豪華だった。


「へえ~。あんた昔から若い男の子には人気があったもんね?でもさ、一回り年下でもつくしは若く見えるから、傍から見たら年齢差があるようには見えないかもね?で、どこに行ったの?」

「どこって、中華料理よ?」

「まさか!あんたの行きつけのラーメン屋?」

「あのね、あそこはラーメン屋じゃなくてちゃんとした中華料理店なのよ?あの店の酢豚とチャーハンは絶品なんだから!」

つくしは、入社以来その中華料理店の大ファンだ。
そこは、道明寺ビルから少し離れた場所にある昔ながらの庶民的な中華料理店。
昼間は近くの会社のサラリーマンで賑わいを見せる店であり、つくしは酢豚定食もチャーハンもラーメンも、とにかくどのメニューも大好きだ。

「はいはい。つくしは男よりも食い気の方が優先なのよね?まあいいわ。でもこれからは秘書室勤務になるんだから、そんなラーメン屋・・じゃなくて中華料理店に気軽に足を運ぶなんて時間もなくなるだろうし、その店でご馳走してもらえて良かったわね?」

つくしは、久美子の話を聞きながら途中になっていた豚肉の生姜焼きを口に運び大きく頷く。

「とにかく、つくしは明日から55階の秘書室勤務になるんだから、頑張ってね。何しろあのフロアには神様がいるんだからね?」

そうだ。
会社員にとって副社長をはじめとする役員は偉い。
だから55階は神々のフロアと呼ばれる。
そしてつくしは、あの日のあの男の発言は冗談だったのか、本気で言ったのか分からないが、どちらにしても彼女にとって嫌な男となった道明寺司のいるフロアで明日から働く。
だからもうこうなったら腹を括り、覚悟を決めるしかない。
だがいったい何の覚悟を決めるというのか?


「・・それと・・・もしかするとロマンスの神様もいるかもね?」

と、久美子は言ったがロマンスの神様は・・・いないと思う。











ロマンスの神様・・・

そう言えば確かそんな歌があった。
だがその歌によれば、土曜日に遊園地に行って1年たったらハネムーンだなんて言うのだから、もし55階にロマンスの神様がいるとすれば、道明寺司と遊園地に行けば1年後には結婚していることになる。
だがそれはない。絶対にない。
あの男と遊園地に行くことなんて絶対にないと断言出来る。
だから雑草を自負する女は、踏みつけられたとしても立ち上がってみせるといった覚悟を持ち、明日からの業務に備え気合いを入れた。





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