2018
02.19

恋におちる確率 73

「牧野さん。横を向いて下さらない?」

つくしは、挨拶を済ませるとすぐ横を向かなければならなかった。

「いいわね」

いきなりいいわね。と言われたが一体何がいいのか?
道明寺HD社長の道明寺楓は日本支社の最上階で副社長である息子の執務室にいた。
それは突然の出来事。NYから東京を経由し北京へ向かうという楓のスケジュールに、副社長である我が子と会う予定はなかった。だが楓は我が子が結婚を前提に付き合っている女性に会うため日本支社へ足を向けた。

かつて楓の第二秘書をしていた専務秘書の野上から牧野つくしのことは訊いてはいたが、彼女の報告は確かだと感じていた。そして食品事業部コーヒー三課にいたつくしが淹れたコーヒーを味わっていた。



「社長。彼女のどこがいいと仰っているのでしょうか?」

司はそう聞いたが、その声はまるで会議の最中の声のようにビジネスライクだ。

「意思の強そうな顎。だらしなくはないわ。何事もやってのけるだけの力が感じられる。仕事に対してのモチベーションは常に高い」

楓はそう言って、もういいわ、こちらを向いて頂戴と言った。

「牧野さん。あなた司と結婚を前提に付き合っているそうね?息子から聞いているわ。それからあなたわたくしが反対すると思っているでしょ?でもご心配なく。わたくしはいい年をしたこの子の決めた人生に口出しはしません。
それなのにわざわざ司が前もってわたくしに言ったのは、自分がいかに本気かということを言いたかったのでしょう。わたくしはこの子の母親ですから、言いたいことは理解できます。
それにわたくしたち経営者はどんなにいい洋服を着ている人間でも、その下を見る力を養っているわ。つまり表面をいくら綺麗に着飾ったとしても無駄だということよ?例えばマリアのようにね?」

つくしの前でそう話す女性は全てを知っているといった態度だ。
だがそれはもっともだ。彼女がつくしとマリアが会っていることを司に伝えたのだから。
そして道明寺楓について知っていることと言えば、社長であり司の母親という事実だけだ。

そして道明寺楓が息子とはどんな親子関係にあるのか。
幼い頃は子供を返り見ることのない母親だったと言うが、今はいったいどんな親子関係なのか。司は語りたがらなかったが、それが流儀だとしても、プライドの高いこの親子はそれでも分かり合えているのだろう。

「それからあなた菱信興産の新堂専務からお付き合いして欲しいと言われていたそうね?でも断った。あの会社も大きな会社で見通しは明るい会社よ。それに新堂巧の方が司よりも優しいはず。それでもあなたは彼より司の方がいいのね?」

親子関係とは、子供がいくつになっても親にとって子供は子供だ。
会話では子供扱いしてなくても、心の中では子供として扱っているはずだ。それでも社会的に成功した大人はその感情を表に出すことはない。だがどんな親も敵を前にすれば、鷹のように高い位置から相手を見下ろし、弱点を探し出し、そして急降下して息の根を止める。

だがしかし道明寺楓が我が子を守る鷹だとは思えないが、何かあればどんなことをしても我が子を守ろうとするはずだ。
そんな女が訊いた新堂巧より司の方がいいのね?の言葉は少なくとも我が子の方が別の男よりも優れていることを自慢しているようにも思える。

そして、楓にとって目の前のつくしは未熟な女と映るかもしれない。
だが息子の決めた人生に口出しはしないと言った。そしてうちの子でいいのね?と返事を促されているのだから、つくしは答えないわけにはいかない。


「確かに新堂さんから真剣に付き合いたいと言われましたが、新堂さんは違うんです。何が違うと言われても違うんです。ですからそうとしかお答えできません。それに私は副社長から運命の人間だと言われました。副社長は出会った相手に軽々しくそんな言葉を言う人ではありません。だから私はその言葉を信じています」

「そう。牧野さんあなた司に運命の人間と言われたの?」

「はい」

これが息子の結婚相手の面接だとすれば、厳しいことを言われたとしても覚悟は出来ている。だがそういった言葉は今のところ訊かれなかった。

「司は….この子は社会に出てこうして仕事をしていくことで、自分が何をしなければならないかを知ったわ。それまでは…訊いているわね?司が幼い頃、わたくしがこの子を顧みることなくビジネスに力を入れていたことを。そのせいで手の付けられない子供時代があったことを。だからこの子の若い頃は楽しいとは言えなかったはず。でも大人になれば、自分の立場をわきまえるようになったわ。だからこうしてビジネスでは一流と言われる男になった。でも女性関係の方は、どういう訳かいい加減だったわ。もしかすると反動かもしれないわね?何しろわたくしはこの子がまだ高校生の頃、結婚相手を用意したわ。道明寺に見合うような家柄の娘たちをね?」

その話しは訊いていた。
外見の賛美と財力があることと、血筋だけを重視されモノ扱いされたことを。
そして財閥の跡取りとして結婚相手を決められそうになったと言うことを。

「でも計画どおりには進まなかった。この子が拒否するのは分かっていたけれど、それは酷いやり方で拒否したわ。今ここで言ってもどうしようもない事ばかりだから言わないでおくわ。何しろこの子はわたくしの事をババァ呼ばわりでしたからね。親を親とも思わない子供だったわ。でもそれは、わたくしにも非があったと認めないわけにはいかなかったわ」

楓は息子が結婚しないことを、あの時の復讐ではないかと思うこともあった。
財閥の繁栄を求めるため、好きでもない女を宛がおうとした母親への復讐ではないかと。
何しろ、高校生の頃の司は道明寺の家が潰れても構わない、俺の代で潰れてしまえばいいと言っていたのだから。

「昔ばなしはもういいだろ?俺が悪かった頃の話はこいつも知ってる。こいつに隠し立てするようなことはない。全部話をした」

「そう。それならいいわ。後で訊いて驚かれたら困るもの」

司は突然現れた母親がつくしと話しがしたいと言ったとき、母親が何を言い出すのか心配した。だが母親の口から語られたことは、彼自身が既に話していたことで、つくしも知ることだ。だから憮然として母親を見たが、楓は軽く受け流した。

「人生は何もかも計画通りには進まない。特に人には心があるから尚更ね。人の心は頭で考えたようにはいかないもの。でもわたくしは、それに気付くのが遅れたの。だからそれ以来この子の人生には口出しはしなかったわ。それに男だからそれなりに色々とあるわ。そんなこの子がスイスで見せた表情は今まで見たことがないものだったわ」

楓は牧野つくしと侯爵令嬢のマリアが一緒の写真を目にした息子が、今まで見たことがないほど真剣な眼差しだったことを思い出していた。

「牧野さん。あなたこの子と結婚する気があるなら、それ相応の覚悟はあるということね?何しろ会社の経営といったものは決して楽ではないわ。会社は常に前進あるのみ。それは船が決して後ろに下がらないのと同じ。それに大勢の従業員に対しての責任といったものが経営者にはある。司に何かあったとしても一緒に同じ道を歩む覚悟はあるかしら?」

人生はいいことばかりではない。
楓が言いたいのはそういったことだ。

「はい。私は彼に運命の人間だと言われましたから共に同じ道を歩みます。『人間の運命は人間の手中にある』という言葉がありますが、運命というのは、その人が決めることで、運がいいとか悪いとか自分以外の人間に責任を転嫁するなと言います。私は自分で決めたことは何事も逃げることなく、正面からぶつかって行く人生を歩んできたつもりです。ですから彼と一緒に生きていくならそのつもりです」

つくしは何の抵抗もなくその言葉が言えた。
そして目の前の女性に対して怖いとか、恐ろしいといったことは思わなかった。
何故なら今目の前にいるその人は、社長ではなく母親の顔をしていると感じたからだ。

「その言葉、サルトルね。専務秘書の野上もあなたは頭がいいと言っていたけど本当ね?野上は若い頃わたくしの秘書をしていたの。彼女が言ったわ。副社長の秘書になった女性は賢い女性だと」

楓はそれ以上言わなかった。
それは牧野つくしについての人物評価が終ったということだ。

「そろそろ時間のようね。北京に行かなくては。牧野さん失礼するわ。副社長をよろしく」

つくしは楓が執務室を出て行く姿に頭を下げ、司は目を細めただけで何もしなかったし言わなかった。
だがその顔に浮かんでいたのは、10代の少年が親を見送るときのような、『またな、お袋』といった表情。
司にとって道明寺楓は母親であり社長だが、今までは社長としての色合いが濃かった。
だがこの瞬間どこか不自然さが残るがそれでも親と子としての空気があった。
互いにプライドが高いため、言葉にすることはなくても、そこには確かに親と子だけに感じられる何かがあった。










「ふぅ…緊張した。社長に会うのは今日が初めてで、それも司のお母様として会うわけでしょ?足が震えたわ。でも、やっぱりよく似ている。親子だから当然だけど、目元や口元。捉えたら逸らすことを許さない視線の鋭さとかそっくりね?」

つくしは司が黙ったまま何かを考えている姿に気付くと言葉を継いだ。

「どうしたの?」

「.…人の心が頭で考えたようにはいかない。まさか社長の口からそんな言葉が出るとはな」

思いもしない言葉を言われたが、それが遠い昔、息子を財閥の駒として結婚を画策していた頃への贖罪のように聞こえたのは気のせいではないはずだ。

「でもその通りでしょ?人の心を自由に操ることなんて誰にも出来ないでしょ?」

「いいや。それは違うな。俺の心はお前に囚われた。だからお前は俺の心を自由に操ることが出来る」

そんな言葉を執務室でいう男は、もはや恋におちた男ところではない。
ただ一人の女性の前でなら、ひざまずいてもいいと思える男だ。
実際男はソファから立ち上がると、隣に座っていたつくしの手を取り立ち上がらせた。そして自身は彼女の前に片膝をつき、上着のポッケットから指輪を取り出した。

「つくし。結婚してくれ。ウィーンで言った言葉もそうだが、お前は俺の運命の人間だ。つまり俺からは逃げられない運命だ。だから受け取ってくれ。本当はウィーンで渡したかったが間に合わなかった。渡すなら最高の物を渡したいと思ってな。それが届いたのが今日だ。それも社長が来る前に届いたんだが縁起がいいんだか悪いんだか。けど社長の話を訊いたろ?副社長をよろしくってな。あの言葉の意味は俺のこと頼むってことだ」


女はプロポーズされたとき、喜んで笑うものだとつくしは思っていた。
だが気付くと瞳の表面には涙が浮かんでいた。

「おい。こんなことで泣くな。涙ってのは哀しいとき流すものだ。嬉しいなら笑え。お前俺と一緒に生きて行くんだろ?」

それは楓に向かって言った言葉。
覚悟は出来ている。何があっても彼と一緒にいようと決めた。

つくしはひざまずいた司を見下ろしていた。
道明寺司をこんな形で見下ろすことが出来る女が他にどこにいるというのか。
それを思えば、口許に笑みが浮かんだ。
そしてそんな女の顔を見て満足そうに笑う男がいた。

「つくし。早くしろ。手を出せ」

そう言われた女は、うん。と言って左手を差し出した。




*サルトル・・・・ジャン=ポール・サルトル。フランス人の哲学者

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2018
02.18

恋におちる確率 72

久美子の反応は予想出来た。
だがそれは予想以上の反応だった。

「ちょっとつくし!あんた道明寺副社長と寝たの!?」

「久美子!声が大きいってば!」

ドイツのお土産があるからと言って久美子を呼び出したつくしは、行きつけの居酒屋の個室で、正面に座る久美子を声が大きいと窘めた。

「だってつくし…まさか本当にあんたと副社長が恋人同士になるなんて!…ま、あたしもそんなことを口にしたけど実際そうなってみると信じられないっていうのか….つくしの彼氏が道明寺副社長って…なんて言えばいいの?まあ何も言うことないけど、ただ驚くだけだわ」

恋愛に疎いと言われた女が、秘書として自分の仕えている男と恋仲になる。
それは久美子が予想したことだったが、まさか本当にそんなことになるとはつくし自身も思いもしなかった。
そして出張中のドイツで起きた事件のことを話したが、聞き上手な久美子は、つくしが司とそういった関係になったことを簡単に訊き出していた。

「ねぇつくし。あんたいつの間にか副社長のことを好きになったって言ったけど、副社長もそうだったんでしょ?それって相思相愛だったってことよね?それにしてもこの急激な展開って凄すぎるわよ!きっかけは新堂さんがつくしにモーションかけて来たことが副社長のアンテナにひっかかったってことよね?ほら、オスって自分の縄張りに他のオスが入り込むことを許せないでしょ?それと同じでさ、新堂さんの思いを知ってから副社長も自分の気持に気付いたってことよね?それにしても結婚を前提に付き合うって言われたんでしょ?それってシンデレラストーリーそのものね?さしずめ昔の女のマリアが意地悪な義理の姉妹って役割で、その女の存在も副社長にとっては大きかったってことだもの。それにしても今までどっちかって言えば堅かったつくしがドイツに行った途端、身も心も柔らかくなったのね?」

ドイツ人のグリム兄弟によって書かれた『シンデレラ』。
義理の家族に苛められる貧しい少女が王子様に見初められ、王妃になるという物語。
それ以来お金持ちの男性に見初められ結婚する女性のことをシンデレラと言うが、久美子はつくしがそのシンデレラだという。そして身も心も柔らかくなったと言ったが、言われてみればそうなのかもしれない。今までのつくしは仕事ができる真面目な女だと言われ、堅物で女としての反応は鈍いと言われていた。

「……ところでつくし。教えてよ?」

「何を?」

「これって凄く興味があることなんだけどね?」

「うん」

「副社長…どうだった?」

「どうだったって何が?」

「つくしったら今更カマトトぶらないでよね?だから、どうだったって言ったら決まってるじゃない。身体の相性よ、身体の。つくしは随分と久し振りだと思うから忘れた感覚だと思うの。それに正直久し振りすぎで痛みを感じたはずよ?大丈夫だった?」

身体の相性….。
随分とあけすけな話だが、久美子はこういった話にオープンだ。
だからいつも久美子から自分の彼氏がどうだとか聞かされるたび困惑していた。
何しろ未経験の女はそういった話についていくことは出来ず、適当にごまかすしかなかった。だが別に未経験であることを隠そうとしたのではない。ただ訊かれなかったから話さなかった。それに自ら話すことではないから言わなかった。

それに大丈夫も何も初めての経験で痛くないはずがない。
それでも耐えられない痛みだとは思えなくなったのは、どの段階だったのか。だがそんなこと覚えているはずもなく、ただ大きな背中に抱きつき声を上げていただけだ。それから後は火傷のようにヒリヒリとした痛みが感じられたが、眠りにつくまでまるで償いでもするように優しく抱いてくれた。

「ちょっとつくし。もしかして思い出してるわけ?ウィーンでの魅惑の一夜を!思い出すのもいいけど、早く教えてよ!副社長ってやっぱり素敵だった?あの身体…ってあたしは裸を見たことがないから分らないけど、きっと逞しくてしなやかで、お腹なんか6つに割れてて思わず顔を寄せたくなるんじゃない?ねえ?で、どうだったのよ?」

そして、つくしの前でどうだったのかと訊く久美子は、早く教えて欲しいといった顔で返事を促した。

「うん…大丈夫だった….」

と、じっと見つめる久美子の前で何気ない風を装った。

「ふうん…..大丈夫だったねぇ….」

久美子は相変わらずじっとつくしの目を見つめているが、つくしの答えに真顔になると、さっきとは打って変わり静に言葉を継いだ。

「ねえつくし。もしかして今まで経験がなかった?男と寝たことがなかったんじゃない?もしかすると副社長が初めての相手?」

えっ?といった顔をしたつくしにやっぱりね、と言った久美子は優しく笑った。

「そっか。やっぱりね。だってつくしはそういった話しは全然しないでしょ?あたしが開けっ広げなのかもしれないけど、あたしが話しても自分の意見は言わなかった。それに自分の過去の経験でこんなことがあったとかって話しもないし、どちらかと言えば気まずそうだったもの。だからもしかしたらって思ったんだけど違う?」

「…..うん……」

つくしは躊躇いながらも答えた。
耳年増ではないが、久美子の話から男性に関する知識を仕入れていたといってはなんだが、そういったものなのかと訊いていた。だから別に経験者のふりをしていた訳ではないのだが、まさか久美子も自分の周りに30過ぎて未経験の女が存在したとは思わなかったようだ。

「それで?結婚を前提に付き合いたいって言われたんでしょ?つくしは副社長と結婚したいと思ってるの?」

「久美子。あたしね、言われたの。生きている間に自分の運命の人間、自分にベストな人間に出会えたことが人生の成功だって。それがあたしのことだって」

「つくし凄いじゃない!あの道明寺副社長がそんな言葉を言うなんて!その言葉ってプロポーズよね?もう結婚するしかないわね。だってウィーンで遊園地に行ったんでしょ?ロマンスの神様は遊園地に行った二人は1年後には結婚するって言ってるもの」

久美子の言うロマンスの神様は、遊園地に行った二人は1年後に結婚するという明確なルールがあるらしい。

「でもね、つくし。男と女が結婚するには相手の家族から認めてもらうことが重要よ?何しろ相手はあの道明寺司。うちの副社長で道明寺財閥の跡取り。母親は社長の道明寺楓。なかなか手強そうよ?」

久美子はそう言ったが、ドイツで司が駆けつけて来てくれたのは、道明寺楓から見せられた写真だったと言った。そして母親は自分がしなければならないことをしなさいと言ったという。その言葉の意味を考えたとき、彼は何を思ったのか。

そして観覧車の中で言われた『結婚を前提に』の言葉は本気だ。
一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど彼が何を求めているのか感じられるものがあった。
幼い頃から豊な生活をしてきた人で、物に対しての所有欲は薄いのだが、自分が本当に大切にしたいという人間に対しての所有欲は間違いなくある。
だから今日こうして久美子と会うことにも嫉妬ではないが、場所はどこだ、何時に終わるのかとしきりに気にしていた。

「ねえつくし。あんたも35歳になったんだから、母親になるならそろそろよ?早い方がいいに決まってるわ。だから悩んじゃダメよ。どうせつまらない事で悩むのは目に見えてるわ。悩んでる暇があるなら、早く副社長と結婚しなさいよ」

「久美子。久美子だって同じ年でしょ?どうして結婚しないの?あたし一度聞きたかったの。久美子みたいにモテる女がどうしていつまでもひとりなのか不思議に思ってた」

つくしは素朴な疑問を口にした。
久美子の性格は大雑把で細かいことは気にしない。
そして美人で若い頃からモデルにならないかとスカウトされたことがあったと言う。
つくしと二人一緒にいれば、間違いなく人の目は彼女に向けられ、こうして居酒屋で注文を取りにくる店員も久美子へ視線を向ける。
そんな親友がなぜいつまでもひとりなのか。

「つくし。外見だけがいいならマネキンでも買えばいいのよ。そんな男なんて願い下げ。それにあたしは外見じゃなくて頭で勝負したいから道明寺に就職することを決めたの。自分の実力を試したいから。だいたい顔だけでちやほやされる人間なんて容姿が衰えた途端どうなるか分る?あの人、若い頃は美人だったけど、中身はカラッポ。あの人お飾りなのよ?って言われちゃうわけ。でもその点うちの会社は顔で選ばないからね。容姿が衰えたからって関係ないでしょ?道明寺は能力第一主義。だからいつかあたしの外見じゃなくて内面を気に入ってくれる人が現れるまでバリバリ働くわ」

久美子の話は、司が話した彼自身の子供の頃の話に似ていた。
だが彼の場合は外見だけではなかったが、久美子と同じで人間の本質を見ては貰えなかったと言った。

「それにね。美人はなかなか幸せになれないのよ?だってロマンスの神様は女性だから美人には冷たいの。だからってつくしが美人じゃないなんて言ってないからね?つくしは可愛い。そうね…ウサギかな?ほら、ナキウサギ。寒い所に住んでるちっちゃくて掌に乗るハムスターみたいなウサギ。でもあのウサギは空気が綺麗な場所じゃないと死んじゃうのよね。あたしが思うに副社長はそんなつくしに惚れちゃったのね?副社長は黒豹だけどちっちゃなウサギが気に入ったのね?」

黒豹とウサギの組み合わせ。
その気になれば咀嚼せず丸呑み出来る小さなウサギ。
だがつくしは自分が小さくてか弱いウサギだとは思っていない。
つくしだって久美子と同じで道明寺という会社に入社したのは、バリバリ仕事がしたかったからだ。事実社会に出て13年。一人前に働き、給料をもらって生活していた。
そんな中で出会ったビルの最上階の住人は副社長で出会いは険悪だった。
やがて上司と秘書という立場でスタートした二人の関係。
初めの頃は、からかわれていると感じることもあった。だが仕事だから気にしなかった。

やがて話しに夢中になっていた二人は、個室の襖が開いたことに気付かなかった。
だがつくしの真正面で、襖へ顔を向けていた久美子の箸先から鶏の唐揚げがポロリと落ちた。










「つくし。迎えに来たぞ」

つくしは名前を呼ばれ顔をそちらへ向けた。
そこにいたのは、道明寺司。
大きくて切れ長の優しい目を持つつくしの恋人は、彼女だけに見せる笑顔を向けていた。
当然だがそれを見た久美子は言葉を失った。
ひと前で笑うことなど絶対にないと言われる副社長が笑っているのだから。
そしてそんな男は今ではどうかすると常につくしの傍にいたがる。

そんな男が、
「おいつくし。これ」
と言って差し出してきた茶色の紙袋が入った半透明のビニール袋。
受け取って触れると柔らかく温かい。

「なあに?」

「来る途中買った。お前甘いものが好きだろ?鯛焼きだ。鯛焼き」

「ほんと?嬉しい!ありがとう!」

「お前が汚そうな店で焼いてる鯛焼きが美味いって言うから、わざわざ汚そうな店で買ったんだ。だから絶対に美味いはずだ。それからお前の行きつけだって言う中華料理屋、いつ連れて行ってくれるんだ?美味いんだろ?そこの酢豚定食ってヤツ。それからこれはお前の友だちの分だ」

司は久美子に目をやり、手にしていたもうひとつの袋を差し出した。

「え?久美子の分まで買ってきてくれたの?」

「ああ。しかし女はどうしてこんな甘いモンが食べれるのか不思議だがな。こんなの食ったら胸焼けどころじゃねぇけどな」

久美子は今目の前で繰り広げられている男と女の会話が信じられずにいた。
鯛焼きを買って女を迎えに来た男の姿を。
無意味な笑顔が嫌いという副社長の顔に浮かんだ笑顔と、その男が鯛焼きを買う姿が想像出来なかった。

世界的企業道明寺HD副社長、道明寺司。
上等なスーツに黒のロングコートを着た男が1個180円ほどの鯛焼きの入った半透明のビニール袋を提げている姿を見た人間は、世界広しとしても久美子だけのはずだ。
いや、目の前の親友は今までも買ってもらったことがあるはずだ。
何しろ彼女に言われ、汚そうな店を選んだというのだから。

それにしても、久美子が受け取った袋の中にはいったい幾つの鯛焼きが入っているのか。
重さから最低でも10個は入っていそうだ。これをひとりで食べるには何日かかるのか?
そんな久美子の思いをよそに、目の前の二人は中華料理屋の話をしていた。
杏仁豆腐が付いたら1200円になるという酢豚定食の話を。

「あ。じゃあ久美子。帰るね?よかったら一緒に乗って行く?」

「うんうん。いい。鯛焼き貰ったから」

と車に乗るのを断る理由としては、意味不明の言葉を発したが、それしか言えなかった。
それにあの副社長に鯛焼きを貰ったことで充分だった。
それにしても、人生は思いもしないことが起こるというが、つくづく実感した。
副社長と秘書の恋。まさにロマンス小説のような展開。

久美子は、今日見た思わぬ光景の記念に、この鯛焼きは冷凍にしておこうと考えた。
そうすれば、一度に沢山食べなくてもいいこともあるが、幸せのお裾分けをしてもらえたような気がするからだ。だからこの鯛焼きは幸せの鯛焼きとでも呼ぶことにする。
それにしても、久美子が知らないうちにどうやら二人の関係は良い方へと進んでいるようだ。なにしろ二人が並んだ後ろ姿は、長い間付き合った恋人同士のようなさり気なさが感じられた。

「あたしも帰ろっと」

と、久美子は鯛焼きの入ったビニール袋の温もりを両手で包んだ。












「それにしても今年は雪がよく降るな」

「ホントね」

二人が店を出たとき、外は雪が降り始めていた。
司は自分のコートの前を広げるとつくしを背中から包んだ。
小さな女はコートを着ていても司にとってはまだ小さかった。
だから、彼の腕の中に余裕で収まった。

「ちょっと。鯛焼きが潰れちゃうじゃない!」

「お前は俺よりも鯛焼きの方が大切だって言うのか?」

それは、眉間に力を集め、こめかみに静脈を浮き上がらせた顏。
鯛焼きにまで嫉妬をする男を誰が想像するだろうか?

「だって餡が出ちゃったら可哀想じゃない!」

と言って鯛焼きの皮からはみ出る餡を心配する女。

「ああ、分かった。それなら鯛焼き屋ごと買ってやるから、そこで気が済むまで鯛焼きを食べればいいだろ?どこの鯛焼き屋がいいんだ?お前のお気に入りの店を買い上げてやる」

「もう!すぐそう言うこと言うんだから….そんなこと言うなら司にも食べてもらうからね?餡がお腹からはみ出した鯛を!」

道明寺HDの副社長は小さな女に文句を言うが、もちろん本気で言っているのではない。
ただ、じゃれたいだけ。だが餡が沢山詰まった鯛焼きは食べたくない。特に腹から餡がはみ出した鯛の姿は魚そのものの腹が裂けた訳ではないが、どうも嫌な気分になる。
だが、そんな鯛焼きでも彼女が食べさせてくれるなら食べてもいいと思う。

「お前が食べさせてくれるなら食べてもいい。但し口移しで」

と言ってみる。

「いいわよ」

つくしは得意気に同意した。

その言葉に司はやぶ蛇になったといった顔をした。
だがすぐにその顔は、好きな人の前だから見せることが出来る種類の、相手を安心させる笑顔に変わっていた。




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2018
02.16

恋におちる確率 71

「支度が出来たなら行くか?」

昼食を済ませた二人は、車に乗りウィーンの市内観光に出掛けた。
天気は晴れ、空気は冷たく気温は低い。
だがどんなに外が冷やかでも、恋人同士は寒さなど関係ない。逆に寒ければ寒いほど、傍に寄り互いの手を取り合うチャンスが増えるというもので、それがたとえ手袋越しだとしても関係ない。繋いだ手の温もりは上質な革を通しても感じられるのだから。

つくしは昼食の前、風呂に入ってこいと司に勧められた。
それは身体の痛みを少しでも和らげることが出来るなら、といった気遣いだと分かっていた。だから大きなバスタブに湯を張り、用意されていたバラの香りの入浴剤を入れ身を浸した。
そして入浴を終え、ベッドルームに戻ったとき、ベッドの上にいくつもの箱が積み上げられているのを見つけ、一番上の箱を開けてみたが、そこにあったのは黒い下着。
それは久美子がプレゼントしてくれた下着とは比べものにならないほどデザイン性が高い高級ランジェリー。そして箱には、イタリア製であることを示すブランド名が書かれていた。

ブラとパンティとスリップはセットでバラの模様がレースで施され、実用的というよりも、恋人に見せるため、夜の下着と呼ばれる妖艶さが感じられる下着。
そして次の箱を開けてみればやはり下着が入っていたが、色はゴールドの輝きを持つベージュ。だがそれをベージュと呼ぶには華やかな色で、シャンパンゴールドと呼ばれる色だ。
そして黒よりもデザインが大人しかった。

それが、つくしがベージュの下着が好きなのかといった思いから選ばれたとすれば、当たっていた。事実つくしの持つ下着はベージュばかりなのだから。
そしてこれがベッドの上に用意された理由は明白だ。
この下着を身に付けて欲しい。それが恋人の願いなら躊躇うことなく身に付けた。
ただし、シャンパンゴールドの方を。

それにしても、普段着の道明寺司の姿というのは、どんな姿なのか。
いつも一分の隙もなく仕立てられたビジネススーツを着こなした姿ばかりで、普段着でいる姿を見た者は少ない。いや。もしかするといないかもしれない。
だがつくしの前に現れた男は、ビジネススーツよりも、フォーマルな服装よりもずっと素敵に見えた。

それは副社長であることや、大財閥の後継者ということを取り払えば、自分よりもひとつ年上の男性の穏やかな日常の風景といった姿。ビジネスとは違うカシミアのコートの下に着た紺色のセーターは暖かな風合いが感じられ、マフラーを首に捲いた男は若さが感じられた。そしてしばしその姿に目を留める。

「どうした?俺の顔に何か付いているか?」

「えっ!?うんうん。な、何も付いてないわよ?目と鼻と口以外は」

「当たり前だ。それ以外の物が付いてたらおかしだろ。….そうか。お前俺に見惚れてたんだろ?俺が余りにもいい男過ぎて見惚れてたんだろ?」

「な、何言ってるのよ!そ、そんなことないわよ!ただ普段着なんて見たことがないから珍しいなって思っただけよ!」

「ふーん。そうか。まあ別にいい。けどな見惚れてたなら見惚れてたって正直に言えよ?」

「べ、別に見惚れてなんか…..」

だが実は見惚れていた。
かつて見ていた副社長としての男から恋人となった男のその仕草を。
優しさと共に力強さを感じさせる眼差しを。
185センチある身長に長い脚を持つ男が小さな女の歩幅に合わせて歩く姿を。
外には感じさせない過去の姿を。
そして思う。この人はビジネスシーンと今こうしている時とどちらが本当の道明寺司なのかと。けれど、どちらもこの人だ。そしてつくしの前ではただの男だ。
そんな男とプライベートでは対等な立場でいられたらと思っている。

それにしても明日は誕生日だが、まさかウィーンで誕生日を迎えるとは思いもしなかった。
それに日本を発つとき、まさか二人の関係がこうなるとは思いもしなかった。だからプレゼントは用意してない。

だがつくしは、誕生日にクリーム色のマフラーを贈られた。
だがそれは秘書としての労をねぎらうものだと言われ気にするなと言われた。
けれど今の二人の関係はあの頃とは違う。だから何か贈りたい気持ちはあるが、何を贈ればいいのか思いつかない。そして用意する時間がない。

それに、本来ならドイツ出張は二日前に終わり、今頃は日本で仕事をしているはずだったが突然行き先を変更し、ウィーンに立ち寄った。だがこの街も今日一日だけであり、明日は帰国の途につく。そんな二人の自由な時間はあと半日だ。
その間に何かと思うのだが、何しろ相手は何でも持っている人だ。
それに何が喜ばれるのか分からない。そして今のつくしに出来ることは、美味しいコーヒーを淹れることだが、それでは余りにもお粗末のような気がする。

どうしよう….。

久美子に相談すればアドバイスが貰えるような気がするが、話せば二人の関係が知られてしまう。でも久美子はプレゼントのセンスがいい。それに久美子なら男性に何を贈れば喜ばれるか分るはずだ。
つくしの頭の中にはそんな思いが巡り始めた。

「久美子に電話しようかな….日本は仕事終わってる時間だし….」

そしてつい口に出てしまい慌てて口を閉じる。

「つくし?どうした?何ブツブツ言ってるんだ?行くぞ?」

「え?あ、ご、ごめん。すぐ行く!」








午後からの観光は、時間が短いこともあり駆け足となったが、ハプスブルク家を象徴する広大な宮殿や、パリのルーブル美術館に引けをとらないと言われる世界屈指のコレクションを持つ美術史美術館。そして街の中心部にあり、ハプスブルグ家の歴代当主の墓があるシュテファン大聖堂を巡った。

そして二人が最後に訪れたのは、市民の憩いの森であるプラーター公園の一角にある遊園地。そこには、映画『第三の男』で世界的に有名な大観覧車がある。

ウィーンのトレードマークと言われるこの大観覧車に乗れば、ウィーンという街と恋におちると言われ、古風な外見は100年以上の歴史を持ち、電車の車両を短くしたような赤い木製のゴンドラがぶら下がっているが、広さは小部屋ほどあり、そこから街のパノラマを見ることが出来る。

司はそのゴンドラのひとつを貸し切っていた。
この街に恋におちると言われる大観覧車の中から、恋におちた男と女が夜景を眺めるため。
そして彼女が喜ぶ顔が見たかったから。




「どうしたのこれ?」

「どうしたのって見ての通りだ。ここの観覧車のゴンドラは貸切ることが出来るが、ここでウェディングパーティーをすることも、カクテルパーティーを開くことも出来る」

司は貸切ったゴンドラの中にテーブルを用意させ、ディナーを用意させた。
だが給仕は要らないと断ったが料理が冷めないように工夫をさせた。
そしてその料理を保温された容器から取り出し始めたが、つくしは手伝いを申し出ると司と一緒に料理を取り出した。そして笑った。

「どうした?」

「なんだか夜のピクニックみたい」

「ピクニックか?」

「そう。ピクニック。行ったことない?お弁当を作って野山へ行くの。でも勿論昼間よ?」

「うちはそんな家庭じゃなかったからピクニックってやつには行った記憶がない。けどお前がこれをピクニックと言うなら俺にとってはこれが初めてのピクニックだ」

二人の手でピクニックにしては豪華すぎる料理が並べられたが、それがどんな料理だろうと別に構わなかった。それに大観覧車のゴンドラの中で食事をするという意外性をつくしは楽しんだ。
だが頭を過るのは、やはり明日が道明寺司の誕生日ということだ。
このままではプレゼントを用意する暇はなさそうだ。こうなったら恋人として先に謝っておく方がいい。決して好きな人の誕生日を忘れているのではないと。

「あのね、明日司の誕生日でしょ?でもプレゼント用意出来てないの。何しろこんな状況になるなんて考えてもなかったから….」

ドイツで急速に深まった二人の関係。
だからプレゼントは用意していないと正直に答えた。

だが司は彼女から何か貰いたいとは思っていない。
何しろもうプレゼントは貰ったから。

「俺はお前から大切な贈り物をもらった」

女の初めてを貰える男が世の中にどれくらいいるのか知らないが、司の周りには、つくしとは違いノリでセックスをする女はいくらでもいた。一夜限りでもいいから抱いて欲しいという女は大勢いた。そんな現実を過ごした男にとって女の初めては大切な贈り物だと感じていた。だからその大切な贈り物を貰えたことが彼女からの誕生日祝いだと捉えていた。

「つくし。世の中で運命の人に出会う確率はどれくらいか知ってるか?」

つくしは知らないと首を振った。

「この広い世の中で運命の人に出会う確率は0.0000034%だ。俺はその確率でお前に出会えたと思っている。人が生きて行く中で出会えて良かったと思える人間はそういないはずだ。だが俺はお前と出会えて良かったと思う。だから俺はお前との出会いを大切にしたい。お前が川に落とされる確率は….俺が傍にいる限りないはずだが….あの時は命に別状はないと訊いて強張っていた身体が緩んだ。生きていてくれてよかったと思った。もし俺があの場所に着くのが遅ければ、お前は川に沈んでたかもしれねぇ」

司はつくしがマリアによって突き落とされた一瞬が今でも目に浮ぶ。
そしてもし、自分があの場所に着くのが遅れていれば、どうなったか分からない。

「人生の成功はビジネスだという人間が殆どだが、俺はそうは思わない。生きている間に自分の運命の人間。つまり自分にとってベストな人間に出会えたことが人生の成功だ。だがどんなに探してもベストな人間を見つけられない人間も多いはずだ。そんな人間は間違った相手を選ぶ。そして傷付け合うようになる。俺はお前とはそんなことにならないはずだ。
運命の出会いは運命として受け入れることがこれから先の人生を豊かにするはずだ。だから俺たちの付き合いだが結婚を前提に考えてくれ」




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2018
02.15

恋におちる確率 70

恋愛へ発展するにはいくつかのパターンがある。
友達みたいな流れからいつの間にか恋が始まる。
ただの知り合いや同僚でも好意的に接してくれる人には共感できる。
全く知らない人でも、盛り上がりが感じられる。一緒にいて和むといったところから、この人いいなぁという気持になる。
つまりただの友達。ただの知り合い。そして全く知らない人でもある日突然恋人に変わることがある。そしてどんなことも始まりはひどく他愛のないもの。
恋愛というのは火が付けば一気に燃え上がるのが恋愛と言われている。

だが司は相手に合わせ、時間をかけ進めてもいいと思った。
それは、彼女が初めてだと知ったから。
だが二人の関係は、乾いた木に火を点ければ一気に燃え上がるのと同じだった。
胸が小さくてごめん、と言ったが、女の価値は胸の大きさや外見の美しさで決まるものではない。
だが肌は吸い付くような感触で、華奢ながら抱き心地が良かった。
そして、男にとって価値のある女というのは、心の中にどれだけ優しい気持ちを感じさせてくれるか。そして自分の中に取り込んでしまいたいと思える女だ。


一夜明けたとき、二人は抱き合い同じ布団にくるまれ眠っていた。
いつ寝たのか全く分からなかったが、目覚めたときは薄明りが感じられた。
それは外の天気がいいということだ。

カーテンを開けに立ったが、背後で気持ちよさそうに寝ている女は、身体中が痛むはずだ。
司はベッドに戻り、女の隣に潜り込み、片肘をつき見下ろした。
昨夜、明日は市内観光に行こうと言ったが、夜の行為が身体に及ぼした影響は大きいはずだ。
それなら今日はどこにも行かずベッドの中で過ごしてもいい。
今の司は彼女の身体を第一に考えていた。





「おはよう…司」

目を覚ました女はおずおずと口を開いた。

「大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫」
「本当か?」
「本当に大丈夫だから」

と、つくしは笑ったが、いきなり訊かれた言葉の意味は十分理解している。
それは、35歳でバージンの身体が、使い慣れない動きに悲鳴を上げてないかということだ。
大丈夫と答えたが、本当は身体のそこかしこが痛かった。
まず脚が痛い。普段絶対にしないような恰好をしたのだから、それは仕方ない。
それから身体中の筋肉が痛い。そして身体の奥深くに感じられる鈍痛。
それが愛し合った証であることは分かっているが、それでも、まさかこんなに痛むとは思わなかった。それは、隣で上体を起し見下ろしている男性によってもたらされた行為の結果だが、愛しているから抱かれたかった。
愛されたい思いから彼の胸に飛び込む形で抱き合った。
だから後悔はない。

「腹が空いてるだろ?何しろ昨日はあまり食べてない上に、激しい運動をすれば腹も減ってるはずだ」

「えっ?…うん.....今何時?」

つくしは、恥かしそうに布団を首まで引き上げた。
裸でいることに羞恥を覚えたからだ。

「今か?太陽が昇ってる時間だ」
「だから、時計の時間は?」
「どうした?そんなに時間が気になるのか?」
「だって...こんなに明るいのにいつまでもベッドで寝てるなんて出来ないもの。それに今日は市内観光って言ってたでしょ?」

昨日まだ二人がベッドに入る前、明日は市内観光に行こうと言われ、つくしは初めてのウィーンでどんなことをして過ごすのか楽しみにしていた。だから時間が気になった。

「ああ、観光は止めた。だからこのまま寝てろ。昨日はあれだけのことをしたんだ。お前は身体が痛いはずだ。だから寝てろ」

司はつくしの身体を第一に考え、無理をさせたくないとそう答えた。

「あのね、司。ウィーンには一度は来たいと思ってたの。だから予定通り観光に連れて行って?身体は大丈夫だから。ね?」

せっかくウィーンまで来たのだから、街を歩いてみたい。
恋人になって初めてのデートがウィーンだということが嬉しい。
それに日本に戻れば、表向きは副社長と秘書といった関係を保たなければならないが、 ここなら少なくとも周りの人間の目を気にする必要はないはずだ。

「いいや。違うはずだ。今はそうやって寝てるからまだマシなだけだ。歩いてみろ。それこそどう考えても不自然な歩き方になるはずだ。….そうだな。脚の間に何か挟んだ状態のガニ股歩きになるはずだ。見る人間が見れば、いかにも激しいのをヤリましたって恰好だ」

切れ長の目が面白そうに笑う。

「そ、そんなことないわ…ちゃんと歩けるわ」

「いいや。絶対そうだ。おまえ股関節が硬そうだ。あの恰好はひっくり返ったカエルが_」

つくしは傍にある枕を取って司に向かって投げた。

「おい。止めてくれ。俺は事実を言ったまでだ。そうか。そこまで否定するなら今すぐベッドから起き上がって歩いてみろ。お前が普通に歩けるかどうか見てやる」

と、言ってニヤッと笑う。

「そ、そんなこと言われてもき、着るものがないんだから起き上がれないわ」

頬を赤く染めた女は恥ずかしそうに言う。
だが今更何を恥ずかしがる?
と思うが、いくら身体の関係が出来たとしても、彼女は相手の男の前を裸で歩き回る女ではない。
だがその反面、ここで抱いて欲しいと素直に言ったのは、あれは初めて見たオペラの感動に精神が舞い上がっていたと考えてもいいはずだ。

「ああそうだったな。お前のバスローブはあんな所に落ちてる。誰かに持って来てもらうしかねぇよな?」

司は言いながらニヤニヤ笑いが止まらない。

「ねえ。それなら司が持ってきて!だって司はバスローブを着てるじゃない。あたしは何も身に付けてないのよ?」

バスローブは、ベッドから4メートルほど離れた床に落ちていて、朝の光りが差し込む部屋で裸の身体を晒すのが恥かしいのか、黒い目大きく開き、そう訴える女は首まで引き上げた布団を更に上へ引き上げようとしていた。
司はそんな女に意地悪をしたくなった。
それは、まるで小学生が好きな女の子をからかう姿。

「そういやぁお前、最中に色々と口走ってたぞ?」

「く、口走る?」

「ああ。なんて言ってたか教えてやろうか」

「な、なによ?あたし何も口走ってなんかないわ」

「『司そこはダメ。息が出来ない。重い。もっとお願い、司いい!』だったか?」

「そ、そんなこと言う訳ないじゃない!」

あの道明寺司が声色を真似て喋る姿を見るとは、つくしも思わなかった。
それにもっとお願いとは絶対に言ってない。あれ以上愛されたら身体がバラバラになるような気がしたからだ。

「へぇ。お前言ってないって?随分と自信があるようだが確かなんだろうな?」

「…確かって…」

そこまで言われたら自信がない。

「じゃあ反対に訊くけど、あたしが言ったこと覚えてるなんて随分と冷静ね?一生懸命さが足りなかったんじゃない?夢中になってたら相手の言葉なんて覚えてないんじゃない?」

つくしは自分でも何を言ってるの。と思いながらも口にしていた。
セックス初心者の自分が、世界中の女に欲しがられる男相手にそんな口を利くことは、喧嘩を売っているようなものだ。だが口をついてしまった言葉は取り消せない。

「そうか….。一生懸命さが足らなかったか。それは悪かった。俺は女に愛し方が足りないと言われたのは初めてだが悪かったな。お前が初めてだから遠慮したのが悪かったってことか。俺は女と愛し合うときは容赦しないほど激しいと言われてるんだが、手加減したのが悪かったってことか。道具も使わなかったし、縛りもしなかったからな。だがこの街でも道具はすぐ揃う。今夜からキツイのをやってやろうか。なあ、つくし?」

司はわざと声のトーンを落とし、残忍な顔を作った。
それは黒い微笑を浮かべた支配者の顔。
そしてつくしが首まで引き上げている布団を引き離そうと手をかけた。
だが彼女は必死の形相で布団を掴んでいた。その様子は何するのよ!と大きな瞳が訴え、ともすれば泣きそうな顔になる。
司は愛する人を泣かせることはしたくない。それに初めてを終えたばかりの女にセックスを強要したいとは考えてない。それにサディスティックな趣味もない。だがまさか自分の恋人がそういった趣味の持ち主だと知り、ショックを受けたような顔になるとは思いもしなかった。


「冗談だ。冗談。つくし、冗談だ」

司は、布団を首の位置で握っているつくしの手を掴み笑った。

「そんなに硬くなるな。俺はお前の意思がない限り、お前を抱こうとは思わねぇ。いくら恋人同士でも無理やりやって楽しい訳ねぇだろ?それは愛し合うとは言わねぇはずだ。それに言っとくが俺にはああいった趣味はない。だから心配するな」


仕事は出来るが恋に奥手の女。
30過ぎた女の純真さとでもいうのか。
司の恋人は素直で一直線。だが時に生意気なことを言う。

そんな女が愛おしく、睫毛に触れるか触れないあたりまで唇を近づけ「俺はお前を大切にしたい。それに守ってやりたい」と小声で言い「そんなヘンな顔するな。困った犬だぞ、その顔は。...ああ分かった。お前がどうしても観光がしたなら昼メシ食ってから出かけるとするか」と言って笑い眉間に寄った皺にキスをした。




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2018
02.14

恋におちる確率 69

ドン・ジョヴァンニのようなプレイボーイではなかったとしても、司の年の男ならそれなりの経験があって当然だ。
だがNYから東京へ戻ってからは誰とも関係を持たず、誰かとそういった関係になりたいと思ったこともなかった。

司にはこれまでの人生のなか、無意識に蓄えた経験といったものがある。
それが今夜見たオペラの主役が女を口説く姿と同じかと言われれば、それは根本的に違う。
あの男は見境なく女を誘惑する。だが司は女を誘惑する必要がない。どんな女も彼が望めば簡単に手に入る。
しかし、今までの人生で望んで手に入れた女はいない。それはマリアにしてもそうだが、女には女の打算が働き、司には男としての欲求を解消するといった人間の本能に準じた行動を取ったに過ぎず、それが合致した結果の付き合いだった。

そして司は、近づいてくる女を手あたり次第という男ではない。当然だが自らが口説いたこともなければ、ひとりの女と付き合っている時はその女だけだ。
少なくともその女に対しては誠実でいた。だから司は自分は硬派だと答えるはずだ。

牧野つくしは、この年で経験がないことが恥ずかしいと言ったが、司にとってそんなことは関係ない。あろうがなかろうがその人の何かが変わる訳ではないのだから。それに彼女は自分の信じる道を進む。人生を真っ直ぐ歩きたいという女だ。
だがかつて彼女が付き合った男は、いい加減で軟派な男だ。どう考えても真面目な牧野つくしが付き合うような男ではない。そしてその男と別れてからは誰とも付き合ったことがないという。
だが二人とも昔ばなしは終わった。
だから過去は必要ない。
そして彼女が司を欲しいと思うのと同じで、司も彼女が欲しいのだから。







「本当にいいんだな?お前はお前のペースで愛してくれればいいんだぞ?NYから東京へ戻ってから女とそういう関係にはなってねぇが別に飢えてるわけでもねぇ。….けどな。据え膳食わぬは男の恥じゃねぇが、好きな女から抱いてくれって言われたら嫌だとは言えねぇのが正直な気持ちだ。だからもう一度聞く。本当に今でいいんだな?ここで。この部屋で」

「…..うん」

顔を真っ赤にしたつくしが頷いた。

「そうか。なら_」

「ま、待って!」

司はつくしを抱上げようとしたが、彼女は彼の胸に両手を当て押しとどめた。

「シャワー…浴びて来ていい?あたし、シャワー浴びたいの。やっぱりほらベッドに寝るんだからシャワー浴びないと…..汗かいてるし…..汚いから」

真冬の寒さの中、大汗を掻いているわけでもなかろうが、それでも彼女は匂いを気にしていた。だが本当は匂いだけでそんな言葉を言ったのではない。初めての経験を前に緊張がそんな言葉を言わせた。

「そうか?俺は汗だろうが垢だろうが好きな女の身体に付いていたものを汚いとは思わねぇが、お前がしたいようにすればいい。シャワーは俺の部屋にもあるが、どうする?俺の部屋で浴びるか?それともお前の部屋で浴びてくるか?」

「うん…あたしの部屋にあるならそこで浴びて…..来るから。だから部屋で待ってて」

「ああ分かった。それならそうしよう。それはそうと夜は長い。シャワーはゆっくり浴びればいい。それからベッドだけが愛し合う場所とは限らねぇけどな。それにシャワーだがなんなら一緒に浴びるか?恋人同士なら互いの身体を洗ってやるってのも愛し合う行為のひとつだが?早速試してみるか?」

司が口にした言葉にギョッとした表情を浮かべたが、そういった知識もあるはずだ。顔を火照らせた女は無知でもなければ、耳に栓をして生きてきたのではないということだ。それにしても、そんな言葉にいちいち反応する女は今まで司の傍にはいなかった。
だが心の中をそのまま映し出したようにコロコロと変わる表情に愛しさが感じられた。

二十代の若者ではない男が、そんなことを思うとは考えてもみなかったが、そうした自分が新鮮で、こうしたやり取りが楽しいと感じていた。
何故そんなことを思うのか?それは、過去に関係した女の中にはバスローブも羽織らず裸のまま平気で歩く女もいたからだ。だがこの分ではバスルームで愛し合う行為は随分と先になりそうだ。

「冗談だ。初心者にベッド以外の場所で愛し合えって言っても無理だろ?その楽しみはもう少し先に取っておくことにするか。いいからもう行け。シャワーを浴びてこい。俺は自分の部屋で待ってる」

「うん」

つくしは小さく頷いた。
だが直ぐに自分の部屋に行こうとはせず、そのまま司を見上げ動かなかった。
しかし視線は首から肩にかけて向けられており、司の顔を見ているのではない。
それはまるで背が高く逞しい男の身体の大きさを測っているようだ。そしてもしかするとやっぱり無理だ。とでも考えているのか。何しろ二人の体格の差はかなりある。

司はそんな女の為に流れを用意した。
恋人に抱かれたいと言ったとしても、気が変わることもある。それに司は初めての女を相手にしたことがないから分からないが、勇気が要るのではないかと感じていた。本来女は弱く、どんなに抗っても男の力には敵わない。そして男は一度始めれば抑えることも、止めることも出来ないからだ。だが今ならまだ止めることが出来る。
初めての経験を後悔で終えて欲しくない。その為に彼女の意思をもう一度確認した。

「やっぱり今日は止めるって言うならそのまま自分の部屋で寝ろ。無理することはない。お前はオペラで気分が高揚している。だからあんなことを言った。そう思ってやるから気にするな。何も今日じゃなくても愛し合える日はある」

司はそう言って自分のベッドルームの扉を開いた。

だがつくしはバスルームから出ると、素肌に白いバスローブを羽織り、司のベッドルームの扉をノックした。

そして自分の気持を伝えた。

迷いはないと。






司はすでにベッドの中で待っていた。
「子供のような身体でごめん」と小ぶりな胸に女は言ったが、司は彼女を隣へ引き寄せ髪を撫で、そしてささやくような優しいキスをした。

「こうしたかった。けど、お前本当にいいんだな?言っとくが、始めたら途中で止めることも出来ねぇし、中途半端なこともしない。俺は全身全霊でお前を愛するつもりだ。けどお前は初めてだ。だから嫌なら嫌だって言えよ?」

「だからって怖いことをする訳じゃないでしょ?」

そう言って柔らかく微笑みを浮かべた女。
だがそうはいっても、微かに震える細い身体は、これから経験することが怖くないはずがない。
だから司は「怖いことか」と笑った。

「怖いことなら世の中いくらでもある。けど俺たちがこれからすることは、怖いことなんかじゃない。怖い経験なら俺はお前が川に落とされたときした。あの経験で確実に寿命が10年は縮んだはずだ」

「それだけ?他にはない?」
「なんだよ。それだけって?」
「西田室長の件で嘘ついたでしょ?あのことがバレて寿命が縮まらなかった?」

西田の母親の体調が思わしくない。そんな嘘をつき彼女を騙した。

「ああ。あれか。あんなことがバレたくらいで寿命が縮まるか。もう済んだことだ。いつまでも蒸し返すな」
「ひどっ_」


司はつくしを引き寄せ、唇を塞いだ。
それはこれからの時間に言葉は必要ないと伝えるため。
呼吸と鼓動さえあれば、何もいらないと。
だが息苦しくなってもがく女を離すと耳元で囁いた。

「つくし。今夜はその口から訊きたい言葉は、司好き。司愛してるだけだ」

そして再び重ねた唇は今までとは違い優しさはなかった。
それは貪り奪うようなキス。
つくしも腕を司の背中に回し引き寄せ、唇を合わせ言葉を封印した。

それから流れた時間はいったいどれくらいなのか。
何度も唇を重ね、互いの口から漏れるのは、喘ぎ声と名前を呼ぶ声。
たとえ初めての行為でも、太古から受け継がれた愛のリズムは身体の奥深くで眠っている。経験がなくても本能が覚えている。そして自我を捨て勝手に動き出す。


「俺の名前を呼んでくれ…」

両脚の間に頭を入れた男は、己の頭を掴んだ女に言った。

「…..つかさっ!」

両手でしっかりと腰を掴み、舌の先を深く突っ込んだのは、これから行われる行為のため。

「痛くねぇようにしてやるから」

それは動物が傷を負った仲間を癒すように丁寧に優しく行われる行為。
ぴちゃぴちゃと止まない水音は、一瞬の痛みだとしても、火傷のような痛みを伴う行為から少しでも女の身体を守るためのもの。
だが考えもしなかった刺激だったのか。舌を動かし出し入れするたびに腰が上がる。

つくしがその行為の意味が分かったのは、膝に脚を割られ、きれいだ。しっかり捕まっていろと言われた瞬間だった。
司はこれから彼女の身に起こることを共に分かち合いたいと思った。
いずれは、愛し合う行為にも馴れ、赤面することが無くなり、ぎこちなさが無くなったとしても、この日が永遠に二人の記念日であって欲しいと思う。

「つくしっ….お前を愛するあいだ、俺を見ていてくれ。ずっと俺を見てろ。お前は俺が唯一愛した女だ」

その瞬間。中に入ることを許された男が侵入した。
そこは、閉ざされていた門の内側。今まで誰も入ったことのない場所。
胸も腹部も脚も全てを触れ合わせ、互いの身体の熱を分け合いながらも奪うという行為に、まだ誰のものでもなかった身体は痛みに両目から涙を零したが、司はその涙をキスをするように唇で吸い取った。そのとき、涙が海水のようにしょっぱいものだと初めて知った。そして細い声が彼の名前を呼んだ。

「司….すき。愛してる…」と。

そして彫りの深い端正な顔は、彼女の顔を見下ろし同じ言葉を返した。

「俺もだ」と。

ゆっくりと優しく動く身体は、組み敷いた細い身体になるべくその重みを感じさせまい、負担をかけまいとしたが、男の本能がそうはさせなかった。
やがて暗闇に隠れていた獣が、隠れていた獲物を見つけたように激しい動きに変わった。
それは、抜き差しの角度を変え、とどめを刺すような動き。
だが獣は獲物を捕らえ殺すのではない。荒々しさがあるが感じられるのは、捕まえたら二度と離さないという思い。

「つくし…愛してる。お前は…俺の女だ」

今まで人に対し執着などしたことがない男が、はじめて本気で好きになった女に向けられた独占的な思い。そしてこの女を守りたい。この女と全てを分かち合いたい。
そう思える感情が男の中にあった。

やがて荒い息遣いを繰り返し、ぐったりとした身体を抱えた男は、痛みと入れ替わるように特別な感覚を受け入れた女を優しく抱きしめた。
そして、受け入れてくれた痛み以上に愛を与えられたと信じながらそっとキスをした。

「大丈夫か?」

司が覗き込んだ瞳は、焦点が合わないのか、ぼんやりとしていたが、微かに笑みを浮かべた。
吐き出される息はまだ荒く、頬はピンクに色付いていたが、唇が大丈夫と言い、彼の左胸に手を触れた。
女の初めては、司にとっても初めての経験だった。
激しい行為の中にも、今まで感じたことのない優しさと穏やかさが感じられた。
それは、本当に好きな人と愛し合うことで与えられると知った。
誰もが本当の愛を探す旅に出ようとするのは、こういった経験をしたいからだ。
そして身体だけが満足しても、心が満たされない日々とはなんと虚しいのかと知った。

司は唇にキスをして細い身体を抱き込んだ。そしてくるりと身体を回転させ、仰向けになり自分に覆いかぶさるように身体を引っ張り、胸の上に頭をのせさせた。
その時、司の脳裏に浮かんだのは、ぎこちない歩き方をする女の姿。
それは今夜の行為が初めての身体に残した愛の痕跡。
他にも身体中に行為が残した痕があるが、明日の朝、それを見た女はなんと言うだろう。それを思えば自然と笑みが浮かんだ。
そしてしっかりと抱き寄せ「ゆっくり休め」と言って瞳を閉じた。




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