2017
03.29

あの日、あの時 最終話

求めていた人生が手に入った日、司は屈託なげに笑う我が子を見ていた。
着飾った人々の間に居るが、動じることなく挨拶をすることが出来る航は、年令のわりに大人びて見えた。

父親がいなかったにもかかわらず、ひねくれることなく、すくすくと成長し、自分によく似た顔が笑う姿を見るのは、この上ない幸せだ。
そんな父親の気持ちを感じ取ったのか、航は隣に立つ司に目を向けた。
黒い大きな瞳は母親譲りで、下から強請るように見上げる仕草も母親そっくりだ。
その瞳と癖のある髪はまさに二人の愛の結晶と言える証拠。
そんな少年のふさふさとした癖のある髪に手を差し入れ、くしゃり、と握れば

「お父さん!髪型が崩れちゃうよ!せっかくきれいにしてもらったのにダメだよ!」
と返された。

「おおっ。悪かったな。航は髪型が気になンのか?」

「気になるよ!だって今日はお父さんとお母さんの結婚式だよ?僕、せっかくきれいにしてもらったのに台無しにしないでよ!」

「そうか。悪かった。でもその髪はお父さんと同じだからな。おまえのおじいちゃんも同じ髪だったがな・・」

「おじいちゃん・・会いたかったな・・」

航が生まれる前、既に他界した司の父親は航にとっては祖父にあたる。
祖父を思い神妙な顔で司を見つめる航はやさしい心の持ち主だ。
航の想いを知った司は胸が詰まる思いがした。このときほど、息子が愛おしく思えたことはなかった。親の心子知らずと言うが、司も親になれば自分の親の気持ちが理解できるようになっていた。

再会によって新しい人生を与えられた二人は結婚式を挙げたばかりだ。
学生時代恋に落ち、8年前の愛情により子供がいることが分かれば迷いはなかった。
初恋の女性を再び人生に迎え入れることができ、司は自分のものとなった二人を守り抜く決意を固めた。その一人が今、目の前で自分を見上げる少年だ。

「航。おまえは今日から道明寺航になった。今日からは名前を間違えるなよ?」

「うん!大丈夫だよ!ちょっと言いにくい名前だけどね!」

新しいNYヤンキースの帽子に書かれた名前は「どうみょうじ わたる」となった。
航は面白いほど知識を吸収していく。今まで身近に男性が居なかったせいか、疑問に思えど母親からは求める答えが得られなかったことを、父となった司に聞いていた。そんな子供に適当な返事が出来るはずもなく、真剣に答えてやらなければならないが、それが教育だと知った。そしてその要求とも言える知識を求める姿は司を刺激した。
子供が望むことはどんなことでも叶えてやりたい。そう思える自分は世に言う子供に甘い父親だと知った。


司はこの結婚式を妻と息子の披露目と考えていた。
そうは言っても大掛かりなものではなく、教会での参列者は家族や友人たちだけだった。
そんな席に現れたのは司の幼馴染みであり、二人の理解者であった3人の男たちだ。
彼らは司がようやく牧野つくしと一緒になれたことに祝福を述べに来たが、それはまるで贈り物を抱えキリスト誕生を祝いに集まった〝東方の三博士″のようだ。

二人が別れを選んだ結果、彼らから離れたつくしだったが、3人は遠くから見守っていた。
彼女は知らなかったが、比較的新しマンションを中古とはいえ手に入れることが出来たのも、出産後再就職が早くに決まったのも、彼ら3人が密かに手をまわしていたからだ。

「牧野。よかったな。」
あきらはつくしにウィンクをした。

「花嫁にキスしてもいいか?」
総二郎が司に聞いた。
だが司の睨みに冗談だ、と言って両手をあげ笑った。

「俺と牧野が結婚すれば航くんは花沢航になってたんだよね?司がいない間にそうすることも出来たんだけどね・・航くん?もし司に飽きたら俺が君のパパになってあげるからね?」

類のからかいの言葉に微笑むのはつくしだが、昔も今も油断が出来ない男だと思うのは司だ。

「類、おまえがいつまで待っても無駄だ。」
司はニヤリとした。

「そんなのわかんないよ?何しろ航くんは牧野に似て賢い男の子だから司がいいお父さんじゃなかったら別のお父さんがいい、なんて言うかもね?ねえ、航くん、もしお父さんが二人いたらどっちを選ぶ?」

「う~ん・・僕お父さんがいい!だって花沢おじさんの髪の毛僕と違うもん!」

司の腕がのび、類に取られてたまるかと、航を大事そうに抱きかかえあげ、言った。

「類!言っとくが航もつくしもおまえに渡すわけねぇだろうが!」

真面目に話しをする類の言葉に、司の米神に筋が浮かんでいたが、これこそが司だ。
幾らビジネスでは大人だとしても、つくしのことになると米神もだが、首筋の血管まで脈打っていた。

「おい、司、類は冗談を言ったに過ぎねぇぞ?マジに取るなって!」





二人は家族、友人から祝福を受け、感謝の言葉を述べていた。

「つくしちゃん、司。本当におめでとう。」

司の姉の椿は昔と変わらない美貌と、完璧なスタイルの持ち主だ。
その椿からようこそ道明寺一族へと言われ、歓迎された。
そして、いつも冷静沈着で髪の毛一本の乱れもないほどの完璧な姿でいるのが司の母親だ。

つくしは楓に近づき、二人の距離は縮まった。

「お義母さま・・」

「あなたの記念すべき日に、こうして会うことが出来て嬉しいわ。」

楓は微笑したがそれは長年会社経営に携わっている間に身に付けた微笑みではない。
その顔に浮かんでいたのは、ビジネスの駆け引きと言える微笑みとは違い心からの笑みだ。

楓は8年前、海外事業の業績の悪化から社長を辞任したが、2年前ホテル部門のトップとして返り咲いていた。
かつて子どもに関心を抱かなかった母親は、財閥の後継者である司とつくしの交際に反対していた。だが息子が一人の女性によって変わっていく姿を間近で見た。そして4年経てば二人の将来を考えると交際を容認した経緯があった。
だが、8年前、事業継続が危ぶまれ、司が政略結婚を選んだことで救われたのが財閥だ。
二人の運命の行き違いはあの日始まったはずだ。
過去、確執があった二人の女性の間に交わされる言葉を周囲は緊張をみなぎらせ、遠巻きに見守っていた。かつて鉄と呼ばれた女性は、今は氷の女王と呼ばれている。
そんな女性の口からいったいどんな言葉がつくしに投げかけられるのか。


「・・あの子は、司はあの時、究極の選択を迫られたと思うわ。でも自分を犠牲にして道明寺の家のため、あなたから離れた。・・昔のあの子なら考えられないような選択をしてくれたことが信じられなかったわ。望まない結婚をしたとき、あなたとのことを諦めた・・そう感じたわ。でもそうじゃなかったのね?あの子は、司はあなたを心の拠り所にしていたのね。その結果、航の特別な時期を一緒に過ごすことが出来なくなってしまったことは、ある意味わたくしのせい・・。つくしさん、わたくしは自分が司に対して逃したことは大きかったと思ってるわ。あの子が小さい頃、傍にいることがなかったから。だから、司は少し歪な性格になったけど、あなたがそれを正してくれたのね。そうでなければあの時、あなたの傍を離れ道明寺を再建しようだなど、考えもしなかったでしょう。つくしさん、今さらだけどあなたには感謝しなくては・・。」

つくしを見る楓の目は母親の目だ。
それは司という子供を見る目だ。
楓は決して司のため孫のため、礼儀正しくつくしに接しているのではない。彼女は心にもない嘘をつくことはしない女性だ。

「それにあんなに可愛い孫まで授けてくれたんですもの。航は司と違って本当に素直な男の子ね?それもあなたの教育がいいからでしょう。あなたとの出会いは高校生の頃だったけど、あなたはわたくしの前でもいつも毅然としていたわ。まさに一本芯が通った子供だったわね?そうでしょ?つくしさん?」

楓は時間をかけ、つくしのことを理解した。
出会った頃、人を判断する基準は家柄と資産だった。そんな基準は一瞬にしてつくしを判断し、そして見下した。だが司は彼女を知り、高校を卒業する頃になれば自分の人生について考え始めた。そして自らの意志で渡米することを決意するに至った。
楓は司をそんな風に変えたつくしがどんな人間であるか。司にとってどんなに必要な女性であるかを理解した。牧野つくしは他人を思いやる心を持ち、生真面目な性格であることを発見した。

かつて楓がつくしに対し下していた判断は見誤っていた。

そして、最近は心を奪われる喜びがある。
それは孫の航の存在だ。

「あの・・お義母様・・わたしは8年間ひとりでいたことを問題にはしていません。それは彼が選んだ人生でしたから・・。それにわたしも彼の背中を押しました。道明寺司としてやるべきことをしなさいって。彼もそれは理解していました。だからわたしは彼と別れました。そうすることが、そうしなければ、彼が後悔すると思ったからです。彼は責任感の強い人です。だから、しないで後悔するようなことはして欲しくなかったんです。だから・・よかったんです。この8年はそれで・・20代なんてそんなものです。人生を決める時なんです。」

司には自分の人生の進む道を見極めて欲しかった。
人生が二つに分かれていたとしたらどちらを選ぶかは彼に決めて欲しかった。
たとえそれが決められた道だとしても、自らの意志で進むべき道を決めて欲しいと・・。

「そう・・そんな風に言えるなんてあなた、強い人ね。だからわたくしにとってあなたは脅威だったのよ?いい?これからのあなたは自分の望んだことを手放してはだめ。望めば叶う人生とはいかないかもしれないけど、もっと多くを望んでいいのよ?あなたの悪い癖は自分で自分を説得してしまうところね?違うかしら?他の人のため、自分を犠牲にすることが悪いとは言わないけど、これからはもっと自分の為の幸せを望みなさい。航のことも司のこともそうだけど、二人ともあなたが幸せなら幸せなのよ?母親の幸せは航の幸せでもあるわ。妻の幸せは司の幸せなの。だから、あなたが幸せにならなければ二人共幸せにはなれないのよ?」

「お義母様・・」

「わたくしの話は以上よ。とにかく、今日はおめでとう。つくしさん、司と航をお願いするわね。」




楓からの言葉につくしの中に熱いものが広がっていた。
高校生だった頃、出会った楓はなにからなにまで完璧な人だと思える女性だった。
そんな女性も今では目元に微笑みを浮かべ、息子の傍で孫を抱きしめていた。
航は祖母の優しい姿しか知らない。子供は屈託がなくていい。素直に祖母に甘えていた。
そしてその素直な心が人を愛する気持ちを育ててくれるはずだ。

夫となった司は片眉を上げ、なにか問いたげにつくしを見ていたが、孫と楽しそうに話す自分の母親が昔とは違うことを知っていた。





時は流れ戻ることはない。

それは二人の愛を止めることが出来ないのと同じ。

だが時は移ろう。

遠ざかった日々に傷つけられたことがあったとしても、走り来る日々が輝ける未来を運んでくれるはずだ。
8年の間に廻った季節を振り返ることはしなくてもいい。
ただそれは優しい思い出として、懐かしい思い出として記憶の片隅に残ればいい。


二人は今、互いの腕の中で愛を見つけ、そしてその愛を育んでいた。
息子が一人いても次の子どもが欲しいと考えているのは夫婦とも同じだった。
そんな二人に輝ける未来は、すぐそこまで来ているはずだ。


互いの心に残るあの日と、あの時の思い出のひとつひとつは、いつまでも変わらないはずだ。
それは二人が出会った10代の頃の思い。
かけがえのない人となった互いの存在。
そして迷い苦しみながら掴んだ互いの手のぬくもり。
8年がまわり道だったとしても、これから先はもう迷うことはないはずだ。
その手を離すことなく、道が果てたとしてもその先まで共に歩いて行きたい。


時が尽きるまで。




< 完 >*あの日、あの時*

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2017
03.27

あの日、あの時 6

会ったことのない父親の突然の帰国。
つくしは焦ることはない、と言ったが司はどうしても我が子に自分が父親であることを一刻も早く伝えたかった。

今日初めて会ったが、それでも我が子からおじさんではなく〝お父さん″と呼んでもらいたいと切望した。そして息子の身体を抱きしめ、抱き上げ、自分の腕の中で笑い声をあげさせたかった。だが7歳になった息子は抱かれるほど小さくはなく、クラスの中でも一番背が高いと聞いた。恐らくだがあの子は自分と同じくらいの背の高さになるはずだ。

そんな息子とその母親の未来は自分と共にある。
司はそれを信じて疑わなかった。
そして父と子といった親子関係を構築するためなら、どんなことでもするつもりでいた。

おじさん、と呼ばれた男が外国に住んでいて帰ってこれない父親と知った息子はどういった反応を示すのか。ついさっきまで母親の友達だと思っていた男が父親だと知る瞬間はどういったものになるのか。

少年の頭は混乱するのではないか。
7歳の少年はこれから話すことを理解することが出来るだろうか。
そしてそれは生まれて初めて会う父親とのドラマチックな対面となるはずだ。
だがいきなり父親になった男は、子供については無知であることは間違いない。
しかし、親子で男同士ともなれば、どこか通じるところがあるのだろう。
実際、マンションの入り口で初めて会った男から握手をしようと言われ、素直に応じたところは、子供の感覚ともいえる直感で、この男の人は大丈夫だ。自分に危害を加えるような人ではないと感じたのかもしれなかった。


「牧野・・航を呼んで来てくれないか?」

二人の間に生まれた息子。
何はともあれ三人が家族になることが第一だ。彼女は航をここまで立派に育ててくれた。
これから先は自分も参加したい。そして航のこれから先の人生を導き、見守ってやりたい。
だが航は迎え入れてくれるだろうか。

自分の子供時代の家庭環境とは全く違う中で成長している息子。
司は使用人にかしずかれるような贅沢な環境の中で育ったが、家庭の暖かさといったものなどなく、冷たい霊廟のような中で成長し、やがて荒んだ人間が出来上がったが、つくしはそれをよく知っている。だからこそ、我が子が特別な存在の子供ではなく、普通の子供として育ったことが羨ましいと思えた。

「・・わかったわ。」

つくしは司の言葉に心を決め、航を呼びに行ったが、会ったばかりの二人がいきなり親子の名乗りをあげることに不安が隠せないようだ。
母親に呼ばれた少年は、大人二人の間に流れる何かを感じとったのか、先ほどまでのはしゃぎっぷりとは打って変わったように静かだった。

「航くん。おじさんから話しがあるんだが聞いてくれるか?」

司とつくしは視線を交わした。

ソファの端に座った航は、隣に腰かけた母親の方へ身体を寄せていた。
こうして息子を見れば、道明寺家の血を、父親である自分の血を受け継いでいることがはっきりと感じられた。大きな瞳は隣に座る母親に似ているが、癖のある髪の毛とキュッと引き結ばれた薄い唇や輪郭は、父親である自分譲りだと感じていた。

「おじさん、さっきのお話しの続き?・・ねえ、おじさんはNYって知ってる?僕のお父さんはその街に住んでるんだ。僕地図で見たけどここからは遠いよね?おじさんはNYに行ったことがある?」

航は自分が呼ばれた理由はおじさんが外国の話しをしてくれるのだと思っているようだ。
司は目の前に座る男の子がまだ会ったことのない父親が住む場所に、いたく興味を持っている様子に心を痛めた。そして、いつか父親に会いに外国へ行くと聞かされ、なぜもっと早くビジネスのケリをつけることが出来なかったかと後悔した。

車の中で交わされた会話の中、お父さんはどんな車が好きなのか、一緒に暮らしていたらどこか連れて行ってくれるのかな、と言われ、思わず自分が、おじさんがどこでも好きな所へ連れて行くと答えていた。
そして行きたい所はどこだと問えば、それはまだ会ったことがない父親がいる街NYだと聞かされ胸が痛んだ。

「NYか?よく知ってるよ。・・おじさんもあの街に住んでたからね。それにおじさんは飛行機を持ってるから行こうと思えばすぐにでも行けるよ。」

「ええっ、おじさん飛行機持ってるの?凄いや!・・でもそれ本物なの?」

「ああ。本物だ。おじさんは仕事が忙しいとき自分の飛行機を使うんだよ。」

「そうなんだ・・凄いね!おじさんってお金持ちなんだね! ねえ、おじさんNYについて教えてよ!お母さんに聞いてもあまりよく知らないって言うんだ!でもおじさんは住んでたんだね?凄いや!・・ねえ、どんな街なの?お母さん、おじさんもしかしたらお父さんのこと知ってるかもしれないね!僕お父さんのこと尊敬してるんだ。まだ会ったことはないけど凄い偉い人で、忙しいお仕事をしてる人で、みんなに好かれている人なんだって!」

航は母親の顔を見たあと、司の口からNYの話を聞くのが待ちきれないといった視線を向けた。
その瞬間、司は感情が激しく揺さぶられていた。
まだ会ったこともない父親に向けられる尊敬と、その天真爛漫さ。そして恐らく母親の影響だろう。他人の言うことを疑うことなく信じる素直な心。その小さな身体から感じられるのは父親に向けられた愛だ。そして自分もまた今まで知らなかった父性愛が芽生えていた。

「・・航くん・・おじさんはね、おじさんが君のお父さんだ。」

少年は少し前まで無邪気な瞳を向けていたが、今は神妙な顔をして司に言った。

「・・えっ?おじさんが僕のお父さんなの?おじさんはお母さんのお友達じゃないの?だっておじさんの名前は牧野じゃないよね?ど、ど・・う・・?」

「おじさんの名前は道明寺司だ。おじさんが、いや俺がおまえの父さんだ。お母さんとはずっと昔は友達だったんだよ。それからおじさんはお母さんと恋人同士になったんだが仕事の関係でNYに住む事になった。だから君がお母さんのお腹の中にいた頃は向うにいた。それからずっと向うで暮らしていた。お母さんとは長い間会えなかったが、やっと今日会うことが出来た。・・それから君にも・・」

司はどんな言葉を使えば、この8年間を我が子に説明できるのか考えられなかった。
頭の中で反芻し、口を開いたが、何を言えばいいのか正直なところ迷っていた。
牧野つくしが、自分にとって唯一無二の存在であることは間違いないが、息子も同じだ。彼の存在は嬉しい驚きとして迎え入れ、出会った瞬間から愛さずにはいられなかった。ただ、残念なのは息子が大きくなっていく成長過程を一緒に過ごすことは出来なかったことだが、これから先、その成長を親として見守りたい。

「・・おじさんが、お父さん・・?」

「ああ。おじさんが、いや俺が航のお父さんだ。ほら、これを見てごらん?」

司は自分とつくしが並んで写っている写真を財布から取り出し、航に手渡した。
そこに写っているのは、まだ10代の二人が仲良く腕を組む姿だった。

「わぁ!これお母さんなの?・・そうなんだね!おじさんがお父さんなんだ!凄いよ!おじさん!僕、お父さんってどんな人かと思ってたけど、おじさんみたいなかっこいいお父さんなら皆に自慢できるよ!」

自分が父親だと司が宣言したあと航は大はしゃぎした。
まだ7歳の航にすれば、二人の婚姻の有無は、理解出来る範疇になかった。

「・・でもどうして帰って来ることが出来たの?お母さんはお父さんはまだ帰れないって言ってたよ?ねえ、どうして?どうして帰れたの?」

上目遣いに司を見る表情はこの子の母親がよくしていた表情にそっくりだ。
だが航の単純な質問にどう答えればいいのか困っていた。

「問題から逃げずに対処することが出来れば物事の解決は早いもんだ。だから父さんは逃げずに対処した結果、帰って来ることが出来たんだよ。」

航の隣に腰かけたつくしは、司の説明に小学生相手に何を?と言った表情を浮かべていたが、黙って聞いていた。おそらく彼女は親子ならあるはずの情の濃さが二人の間に芽生えることを祈っているはずだ。だから父と子の会話に口を挟むことなく、見守っているのだろう。
父親として、子供にどんな態度で接すればいいのか分からない男の初めての父親業を見守っていると言った心境のはずだ。

「いいか航。強い感情ってのを持つことが大切だ。断固たる意志を持って目的を達成する為邁進する。ただ、それをいかに上手くコントロールすることが出来るかが重要だ。感情だけに囚われて動いてるようじゃ、物事は上手く行かないこともある。自分に課せられたことはなんとしてもやり抜くことが重要だ。それが出来てはじめて男として認められるようなモンだ。わかるか?」

「・・・??う~ん・・お父さん、僕、言ってる意味がよく分かんないけど・・凄いね、お父さん!さすが僕のお父さんだ!」

航の眉根が寄せられ、今度は父親である司とよく似た表情が見て取れたが、最後は喜びだけがあった。

司の父親業はまだこれから、と言ったところだろう。
だが3人が家族となり、ごく自然な会話が生まれるのは、そう遠い日ではないはずだ。





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2017
03.25

あの日、あの時 5

「入って、道明寺。」

つくしが玄関の扉を開けると、航は二人の間をすり抜け靴を脱ぎ、真っ先に部屋の中へと入っていった。

7歳の男の子は、おじさんが運転して来た車を見せてもらい興奮していた。
黒いメルセデスは航にとって普段見る車とは異なり高級感に溢れ、優雅で、運転して来た男によく似合っていた。いつも母親からよその人の車に触ってはダメと注意を受けているが、手を触れ、中に乗り込み、ハンドルを触らせてもらうことができ余程嬉しかったのだろう。
おじさんの車って凄いね!を連発していた。

「航!手を洗ってうがいをしなさい!それから・・」

「うん。わかってるよ!宿題でしょ?ちゃんとするから大丈夫だよ!おじさんまだいるんでしょ?僕あとで行くからもっと外国の話を聞かせてね!」

パタパタとスリッパを履いた足音が廊下の左側に消え、ドアがパタンと閉まる音がした。
つい先ほどまでエレベーターの中は、航のお喋りで賑やかだったがドアの向うに消えた途端、あたりがしんと静まった。子供が消えた部屋は恐らくバスルームで、母親の言いつけを守り手洗いうがいをするのだろう。つくしは玄関に脱いで置かれた航の帽子とコートを取り上げ、廊下の先の扉へ向かった。後ろをついて歩く司の耳にガラガラとうがいをする音が聞こえてきた。

司は案内された部屋の中を見渡した。
比較的新しいマンションは、中古で売りに出されていたところを購入したと聞かされた。
廊下の突き当りにある部屋はベランダに面し10畳ほどのリビングと、つづきのキッチンがあり、開け放たれたカーテンから自然光が差し込んでいた。リビングには座り心地の良さそうなソファが一脚置かれ、テーブルの上には花が飾られていた。

この部屋のいいところは眺めのいいところだ。
5階にある部屋から見える景色は、眼下に先ほど横目にした公園が広がっており、その脇に動かない大きな黒い蟲のように司が止めた車があった。

「・・あの子、風邪ひいちゃって・・だからまだ冬のコートを着せてるの。最初はこの季節だから花粉症かと思ったんだけど違ったみたい。」

春とはいえ、まだ少し肌寒いこの季節。つくしはエアコンのスイッチを入れ、手にした航の帽子とコートをソファの端に置き、どうぞ座って。と言ってコートを脱いでいた。
コートを脱いだ後ろ姿は相変わらず細く、昔からスレンダーな体型で肉感的なところがない身体だったが、それは子供を産んでも変わってないようで身体の線は崩れてはなかった。

短いが長いような時間が流れる中、振り向いたつくしは司と向き合っていた。
そんな中、先に口を開いたのはつくしだ。

「珈琲でも淹れましょうか。」
と、つづきのキッチンへと向かい
「道明寺御用達の珈琲は置いてないけどね・・」
と、言いながら珈琲の粉が収められている戸棚を開けた。

この数年、つくしは司についての記事を目にしていた。
自分たちが別れるきっかけとなったのは司の父親が亡くなり、その後アメリカでの事業での失敗から財閥が解体の危機に陥ったからだ。彼は当時社長だった母親から経営を受け継ぎ、会社を立て直すことになった。そのため他の女性と政略結婚をすることになったが、今では会社の立て直しにも成功し、事業規模の拡大にも成功した。そんな男が数ヶ月前に離婚したことを知ったのはつい最近のことだった。

そして日本に帰国したので会えないかと書かれた手紙を受け取った。
だが行かなかった。
と言うより子供のことがあり行けなかった。

それにもしかすると既に子供のことは知られており、子供の権利を主張しに来たのではないかと思っていた。航を跡取りとして自分の元へ引き取りたいと言い出すのではないかと考えていた。8年前に別れた恋人は自分の血を引く子供が欲しいと奪いに来たのではないか、そんな思いが頭の中を過っていた。


「・・あの子は知ってるのか?俺が父親だってことを。」

司は問いただすと言った様子ではないが聞くと、航の帽子を手に取り内側を見た。そこに書かれていた名前は「まきの わたる」。油性マジックで書かれたその名は大切な帽子を無くしたくないと言っているようだ。司が暮らしていた街の球団。NYヤンキースの帽子はどこで手に入れたのか。野球が好きだというなら、いつか一緒に見に行きたい。かつて一度彼女と野球を見に行ったことがあったと懐かしく思い出していた。

「・・航は知らないわ。だって父親は別の女性と結婚してるだなんて言えないでしょ?だからお父さんは外国で暮らしてるって言ったの。」

例え今は離婚していたとしても、7歳の息子に事情を説明するにはまだ幼く無理がある。

「なんで妊娠したことを俺に黙ってた?ひと言言ってくれても良かっただろ?それに、いつ・・わかったんだ?」

司は声を荒げることはなかった。
むしろ、その声は心配そうに聞いた。

「・・・言える訳ないじゃない。想像できるでしょ?道明寺は結婚することが決まっていたのよ?・・それともあの子のことを言わなかったこと怒ってる?それに分かったのは道明寺がNYに戻ってからなの。・・生理が来なくて妊娠検査薬で試してみた・・。それから病院に行って調べたら赤ちゃんが出来たって言われたわ。」

キッチンで珈琲を淹れる準備を始めたつくしは、しなやかな身のこなしで近づいて来た男の言葉を背中越しに聞いた。そしてすぐ真後ろに立つ男に振り向くことが出来なかったが、彼の言葉が過去と現在を一瞬のうちに繋いでいた。

子供が出来たとき、その子とその子の父親と暮らす未来を思い描いた。
だがその未来は叶えられないこと、願いは聞き届けられることはないと知っていた。第一他の女性と結婚している男性に何を言えばいいのか。それに別の道を、道明寺司としての人生を歩めと勧めたのは自分だ。だから現実を直視しなければならなくなったとき、ひとりで結論を出し、結果を受け入れることに迷いはなかった。

やがて息子が大きくなり、外国に住む父親に会いに行くと言ったら止めることは出来ないと分かっていた。それに父親が誰か教えなくとも、いずれ分かることだ。そして知る権利がある。

最近では何故自分の父親は、外国に行ったままなのかと不思議に思い聞いてくることもあった。そうなると、いつまでも嘘をつく訳にもいかず、いつか本当のことを話さなければならないと頭では分かっていた。
あなたのお父さんは、あなたが生まれる前、別の女性と結婚したの。
だから帰ってくることは出来ないのよ。その言葉をいつか口にする日が来ると思っていた。

「人生って面白いもので、なんとかなるものなの。みんな自分で自分の人生を歩んで行かなきゃならないでしょ?」

背中越しに感じる反応は静かだが、正視することなく話しが出来る方がいいのかもしれない。彼の顔見れば涙が出てしまいそうだから。

本当は会えなくって寂しかった。
道明寺への思いを断ち切ることが出来ず、色んなことを内向させ心にくすぶらせる日々が続いたこともあった。だから別れてから付き合いがあった彼の友人達とも離れることにした。近くにいれば彼のことが耳に入るからだ。そして妊娠が分かったとき、あれこれ推測されることは分かっていたから。

家族は娘のお腹に宿った命が誰の子供か知っていたが、すでに別れてしまった相手を追いかけることをしなかった娘の話を黙って聞いた。

『道明寺には道明寺司としての生き方があるから。』
と言った娘の言葉に同意した。
そして当時の財閥の状況も当然知っていた。

生まれた時から父親のいない息子が可哀そうだと思った。だが今は片親の家庭も多い。
妊娠が分かり当時勤務していた会社は辞め、出産後今の会社に再就職をした。
女性が一人で息子を育てているからといって何かを言われるという時代ではない。
息子は利発で外見は父親に似ていた。内面も勝気だが繊細なところもあり嘘をつくことはない。幸い母親に似ず、くよくよと悩んだり考えたりするタイプではない。ためらいや尻込みと言ったことも無縁だ。そんなところは父親譲りだと思っていた。

つくしはコーヒーメーカーをセットすると振り返った。
そして黙って司の顔を見た。








屈託なく話しをしていたが、生活を軌道に乗せることは大変だったはずだ。
昔から弱音を吐くことがなかった女は全てを心の内に溜め込むことが多かった。
8年も前の話だが家族は娘が結婚もせず妊娠したことを喜ぶはずがない。その責任は全て自分にある。道明寺を立て直す為、社員の為、そしてその家族の為とはいえ、別れたことを彼女にすまないと思わなかった訳ではない。そんな自分を言いくるめるように納得させた部分もあった。だが結婚した相手とは割り切った関係だったとはいえ、彼女を8年間一人にしたことが、一人で子供を産み育てさせたことが悔やまれてならなかった。子供のことは待ったなしの責任として親に降りかかってくる。その責任をひとりで背負うことになった彼女に対し申し訳ない思いに囚われていた。


子供が出来たことを知らせなかった理由は、恐らくこうだろう。
人は知らない事柄については悩まなくて済むからだ。だから知らせなかったということだ。
それは彼女の気遣いだと分かっていた。

息子がいることは言葉にならないほど嬉しいが、親子としての失われた歳月が悔やまれる。
失われた歳月は決して戻ることはない。それならこれ以上無駄な時間を過ごすことなく、結婚することが正しいと感じる相手と結婚したい。現に8年前は結婚するはずだった。
あのとき、財閥のことがなければ状況は違っていただろう。親子3人で幸せそのものの未来があったはずだ。夫にもならないで父親になったことが、順序が逆だとしても今更だ。
今から夫になればいい。司はその思いを加速させたい衝動が湧き上がっていた。


「牧野、俺は道明寺という家が求める人生は、道明寺財閥の道明寺司として求められる責任はもう十分果たしたはずだと思っている。これから俺は俺自身が求める人生を手に入れたい。」

緊張感を漂わせているつくしとは反対に、司は穏やかで暖かみを感じさせる声で言った。
彼が求める人生。
8年前別れたあの日から求めていたものがある。

「俺はおまえから離れたつもりはない。いつか必ずおまえの元へ戻るつもりでいた。俺が目指していたものは二つ。道明寺を立て直した時点で俺の目的はひとつ達成出来た。だからこれからは何を目指しているかと云われれば、それはおまえとの結婚だ。・・8年も経っちまって子供がいたことは知らなかったが、それは嬉しい驚きだ。それに誰だって自分の人生の最後は自分で決めたいはずだ。」

8年前、二人が別れを決める前6年間の記憶の中の楽しかったことが脳裏に浮かんでいた。

「なあ、牧野・・俺はあのとき、おまえが背中を押してくれたことで会社を、道明寺を立て直すことを決意した。それにおまえが待っていてくれると思ったから頑張れた。おまえも俺の性格はわかってんだろ?俺はしつこい男だからな。自分の大切なものを手放すつもりはねぇ。地獄だろうがどこだろうが追いかけて行って捕まえてやるって言ったよな?もしお前が他の男と結婚してたとしても、その男から奪ってやるつもりでいた。・・さっき下で子供を連れているおまえを見たとき、正直動揺したが、それでも関係なかった。おまえを取り戻せるなら何でもしてやると思った。牧野って姓なら離婚したんだってことで、その子とおまえを俺のものにしてしまえばいいことだろ?・・けど航が、俺の子だって知って驚いたが、嬉しかった。一人で産んで一人で育ててくれたことに誰が文句なんて言える?文句どころか感謝以外ねぇぞ?俺は17でおまえと出会っておまえ以外の女なんて知らねぇ男だぞ?この8年間、ずっとおまえの面影を抱いて生きてきた。だから人生の最後もおまえで終わるつもりだ。俺の気持ちは8年前と同じだ。だからおまえの元に戻ってきた。」

情熱の相手で初恋の相手である女性は、彼が話終えると泣き笑いといった表情を浮かべ、涙で目を潤ませていた。
つくしはつい先刻、司が子供だけが欲しいのではないかと頭を過ったことを恥じた。
道明寺司という男はそんな男じゃないと。

「・・人生の最後なんて、まだ考えるのは早いわ。だってあたし達には航がいるもの。あの子が大人になるまで人生を終えるつもりはないわ。」

「俺もだ。・・俺が今でもおまえのことを愛しているのはあの頃と変わりない。」

「ええ。そうね。・・もちろん分かってるわ。あたしだってあの頃と変わってないわ。だって毎日道明寺と会ってた。・・あの子を通して。・・でもあたしは特別な人間じゃないわ。母親として特別なことはしてこなかった。あの子を道明寺みたいに特別な子になるように育てては来なかったわ。だから・・あの子は普通の子よ?今の道明寺は巨大なビジネスを成し遂げた・・それに比べたらあたしは・・」

経済的に困窮したことはないが、親子二人生きて行くのは大変だった。
だが何から話せばいいか、何を話せばいいか・・。
記憶に残る場面は幾らでもある。航は産まれた瞬間から注目を浴びたいと泣き叫んでいた。
幼稚園に送って行けばお母さんと離れたくないと大泣きしていた。
一人で自転車に乗れたとき、手を叩いて喜んだ。
転べばまた大泣きしていたが、男の子がいつまでも泣いていてどうするの?と慰めた。

子供を産み育てることを決めたのは自分自身だ。
どんな状況だったとしても道明寺に罪の意識を持って欲しいとは思わない。子供に両親が揃っていなくても幸せになることは出来るはずだ。そう信じて生きてきた。
でも、心のどこかで道明寺がいてくれたら。そんな気持ちがあった。
人生を共に生きてくれる人が、彼がいてくれたら。と。

いいのだろうか・・再び彼と一緒になっても・・


「俺はおまえが大変だったとき、一人でデカい腹を抱えていたとき、それから子供を産んだとき、何もしてやれなかった。いいか?おまえは俺にとっては誰とも比べられねぇ女だ。俺とおまえが初めて出会ったとき、俺はおまえに足もとをすくわれた。あの日からずっとすくわれっぱなしだ。おまえには手も足も出なかったのを覚えてる。・・けどな、手も足も出せなかったとしても今の俺はおまえも航も二人とも欲しい。それからおまえ達の人生の責任を持ちたい。男として、ただおまえのことが好きな道明寺司としての義務ってのはそれ以外考えられねぇ。」

司はつくしの表情の変化の一片も見逃すまいと注意しながら、言葉を継いだ。

「・・だから躊躇う気持ちがあるなら、それは捨ててくれ。8年経っちまったけどまた俺とやり直そう。再会できてよかったって思える日が必ず来る。」

その言葉がつくしの中にあったどこかよそよそしかった態度を崩すと、はじかれたように司の胸に飛び込んでいた。

「・・随分自信たっぷりね?」
と、言ったがその顔は泣き顔になっていた。

「ああ。俺には自信がある。何が起ころうとおまえと航を幸せにしてやる自信がな。」






8年ぶりに飛び込んだ広い胸の中、つくしはシャツの腕に抱かれていた。
あの頃と変わらない温もりと、変わらない匂いがする胸が、自分と息子を守ってくれるはずだと分かっていた。
お互い愛し合っていたが、どうしようもない状態に陥った二人の運命。
自分たちの力ではどうしようもなかったあの時。
だが離れてしまっても互いに相手に対し誠実でいた。
互いが互いにしなくてはならないことを成し遂げ、そしてまたこうして会うことが出来た。
それは二人が強い愛情を持っていたからだろう。

「どんなときでも、背筋をピンとのばしたおまえが好きだ。昔から誰にも媚びなかったおまえが。」

司はつくしを抱きしめ、もう二度と一人にはしない、苦労はさせないと誓っていた。
五感の全てで彼女を抱きしめ、そっと顔を寄せ唇に唇を重ねていた。
航と彼女のために必要なことは何でもするつもりだ。だがその前に航に自分が父親だということを伝えたい。そして息子に受け入れられることを望んでいた。





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2017
03.22

あの日、あの時 4

彼女は男の子と手を繋いでいた。
暫く茫然と二人を眺めていたが、同時に二人を見つめようと瞳を凝らした。
女が春らしいコートを着ていることを頭が理解し、男の子はダッフルコートを着せられ、NYヤンキースの帽子を被っていた。

「道明寺・・・」

「お母さん!この人だれ?」

手を繋いでいる男の子が聞いた。
怪訝そうな顏と澄んだ黒い瞳は昔からよく知る顔だ。紛れもなくお母さんと呼ばれた女の遺伝子を引いているのが見て取れた。司は全神経を男の子に向けた。かつて彼が付き合っていた女性には子供がいて、母として暮らしていることを知った。


ああ、なんてことだろう・・。
彼女は、牧野つくしは既に結婚して子供がいるということか?
二人が過ごした6年のあと、俺が結婚していた8年という歳月の間に結婚し、子供をもうけたということか?

客観的に振り返れば、女にとって23歳からの8年は人生で一番輝いている時だ。その時間をどう過ごそうと俺が何か言う権利はない。
だが二人が別れたあの時の彼女の言葉に、愛情を感じたと思った言葉に、彼女の心はまだ自分にあると錯覚していたのか。会いに来るべきではなかったのだろうか。

ビジネスに於いては、母親譲りの鉄の自制心を持って臨むことが出来る。だが、好きだった女性に自分以外の男の子供がいることに、心を搔き乱された。

彼女に触れる男の手は自分以外にあり得ないと、自分以外の男と一緒にいるなど想像すること自体が辛い。
だが、彼女には彼女の人生がある。それを認めるべきなのかもしれない。
二人の間にあった愛はもう二度と息を吹き返すことはないと思うべきだろう。
何かを言いたい思いはある。だが何を言えばいいのか、どうすればいいのかわからなかった。
伝えたい思いもある。おまえには不滅の愛を誓ったと。他の女と結婚している間もおまえだけを思い過ごしていたと。

そして道明寺司としての義務は果たして来たと・・・。


頭の中に彼女と最後に会った日が思い出されていた。
あのとき長い髪をしていたが、今は肩口で切り揃えられた長さだ。地味な印象はあの頃と変わりなく、顔は驚いた様子だが、視線をとらえた途端、少し困ったような顔をした。
彼女に対し紳士的に振る舞うつもりでいるが、今の状況をどう捉えればいいのか。
手を繋いだ子供とはどういった関係なのか。子供がお母さんと呼んだ以上、分かってはいるが、はっきりとした答えを知りたい。
それに、牧野姓でいるなら離婚をしたということか?

その時、まだ幼い顔が司を見た。
そして不思議そうにつくしに言った。

「ねえお母さん!この人誰なの?お母さんのお友達なの?」

NYヤンキースの帽子を被った男の子は母親の手をギュッと握っていた。
臆することなくこちらを見つめる瞳。そして向けられる敵対心は幼いながらも母親を守ろうとする気合いが感じられた。

司は近づいて男の子をじっと見た。
身をかがめ、目を男の子と同じ高さにした。
そしてそのとき、ひとつの疑念が生まれていた。
気付いたことがある。昔からよく知る顔だと思うのも当然だ。毎朝鏡の中で見かける男を子供に戻せば彼と同じ姿になるはずだ。カエルの子はカエルといった言葉があるが、間違いないはずだ。だが確信があるかと言えば嘘になる。

子供は自分に近づいてきた男に眉根を寄せ、視線を跳ね返すかのように見返した。

「ねえ。おじさん誰なの?僕のお母さんに何の用があるの?」

「俺か?俺は君のお母さんの友達だ。君、何歳だい?」

司は、躊躇いがちにほほ笑み、自分によく似た面立ちを持つ子供に言った。
そしてその言葉の中にはある種の期待が込められていた。

「・・7歳よ。」

答えたのはつくしだった。

「お母さん!僕自分で答えられるよ!いつも言ってるでしょ?きちんと自分で答えなさいって。それに自己紹介をするときは名前から名乗りなさいって言ってるよね?」

少年は帽子を脱ぎ、司に挨拶をした。

「僕、牧野航(わたる)。7歳。おじさんは?」

司はその少年の髪の毛が自分と同じ緩やかな癖があることに確信を得ると結論に達した。
そして彼女に再会したこの瞬間、自分が父親になっていたことを知り、少年に手を伸ばさずにはいられなかった。

「俺か?俺は道明寺司。俺の髪と君の髪はよく似てるな。航くん。おじさんと握手してくれないか?」

「うん。いいよ!」
航は黒い瞳を輝かせ司の手をとった。
「おじさんの髪の毛もおじさんのお父さんと同じなの?僕の髪の毛は僕のお父さんと同じだってお母さんが言ってるんだ。・・・でも僕のお父さんはずっと外国に住んでいて帰ってこれないんだ。だから僕はお母さんと二人で暮らしてるんだ。でもいつかお父さんに会いに外国へ行くつもりだよ!」

本当なら誰かと結婚して外国に居るから会えない。
そう言うべきはずだ。


押し黙ってしまったつくしに、司は言った。

「・・・俺の子供なんだろ?」

彼女は、誤魔化しは苦手な性分だ。
事実は事実として伝えるはずだと司は思った。
そして事実を伝えてくれることを願った。

「・・そうよ・・この子は道明寺の子供よ。」

その言葉はどんな熱烈な愛の言葉より、彼女らしいひたむきな愛し方の現れだ。
二人の世界が傾いたとき、その傾きをひとりで支えたとも言える彼女の行為。
恋人の子どもを一人産み育てることが出来る懐の深さとも言える行為は、誰もが出来ることではないはずだ。そして8年という時間は短くはない。その時間を静かに過ごして来たわけではないだろう。子供を一人で育てることが、ましてや他の女と結婚してしまった男の子供を育てることが、どれほど心に負担がかかることか。ある種の感動が、司の心を覆っていた。教えられなかったことを罪だとは思わない。むしろここまで育ててくれたことを感謝したい。突然親となったことに戸惑いがないと言えば嘘になるが、今は彼女が慈しみ育ててくれた子供がいることがただ、嬉しいと思えた。





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2017
03.21

あの日、あの時 3

アスファルトに出来た水たまりに気を取られることはない。
司は近くの公園を横目に見てマンションに足を向けた。
公園に人がいないのは、雨が上がって間もないからだろう。
太陽が顔を覗かせれば、子供たちの歓声が聞こえるようになるはずだ。
そして早春の陽射しが日々暖かさを増せば、桜の蕾もより一層綻ぶはずだ。



マンションのエントランスはオートロックで部屋の番号を呼び出さなければ入れない仕組みだ。上背のある男はその番号を押すことを躊躇っていた。ここまで来て引き返すつもりはないが、この躊躇いといったものは後ろめたさなのだろう。

昔の自分は決して我慢強い人間とは言えなかった。
だが10代の頃は問題児だったとしても、今の自分は我慢強い人間になっていた。その我慢とは、二人の間にどれほどの時が流れようが、どれほどの距離があろうが、それを超越することだ。離れようとしても離れることなど出来るはずもなく、彼女にかわる女性がいるはずもなく、二人の愛は終わるはずがない。出会ったときからずっと愛しているのだから。

だが出会いから別れまで6年と少し。そして別れから8年後、彼女に会いに来た男は果たしてどの面をして会えばいいのか。

ごく単純に別れたと言えば話しは違うだろうが、いずれ結婚するはずの女を事業継続の為とはいえ、捨てたと思われても仕方がないような別れだった。恐らくだがこの8年間、俺との過去を他人に揶揄されることもあったはずだ。そしてそのことに否応なく向き合わなければならなかったこともあっただろう。そんな中、どんな生き方をしてきたのか。

後ろめたさを打ち消すための心の操作と言ったものは持ち合わせてはない。
NYと東京でのつき合いとはいえ6年のつき合いだった。だが結局は彼女と結婚することは出来なかった結果になったことへの申し訳なさは、8年の歳月のあいだに風化することはなかった。それならこの8年以前に結婚しておけばよかったと思うのだが、当時24歳の自分がそこまで踏み込めなかったのは、自分に自信がなかったのか、それともまた何か別のものがあったのか。もしかすると、あの頃の自分は何か迷いがあったのか。だから人生について明確な地図が描けていなかったのかもしれなかった。そして彼女はその心を見透かしたのかもしれないと思った。

23歳の彼女が言った言葉がいつも頭の中にあった。

『自分が選んだ生き方が間違っているとは思わないで。』

自信に満ちた彼女の口ぶりが、迷いがあった自分の背中を押してくれたと感じた。

そして『道明寺が頑張らなきゃ誰が頑張るの。』

と言って励ます断固たる口調が、一切の不平不満はないと澄み切った光りを宿す大きな瞳が、道明寺司としてやるべきことがあるでしょ?と言っていた。
だからやるべきことは済ませた。

多くの時間をNYで過ごし、例え仕事で日本の地を踏めど、既婚という自分の立場を考えれば彼女に会えるはずもなく、次々と契約を結んでは契約書類を検討しながら、財政面での問題を解決し、道明寺を優良企業としての地位に押し上げるため自分の責務をこなしていた。

だがもういいはずだ。
道明寺司として果たさねばならなかったことは済ませたはずだ。
8年経ってようやく念願がかなうはずだ。
どれだけこの時を待ち望んだか。
やっと牧野つくしに会うことが出来る。

昔の恋人に会いに行く。
世間はそう思うだろう。

人と人との結びつきは結婚といった形ではなく、どんな制約にも縛られないというのなら、心はいつも彼女と一緒だった。だが心が望んでも、実情は望んだこともない戦略的な婚姻関係を結んでいた。しかしそれを解消した今、果たされるべき約束を、二人の結婚の約束を果たしたい。その思いだけで帰国した。

だがインターフォンを押したが応答はなく、彼女と会うことは出来なかった。
そして今後も恐らくバーに現れることはないだろう。それならこの場所へ毎晩通って、毎晩待とうか。そんな思いが頭を過った。そんなことより電話をかければいいものを、それさえも気後れするといったことが我ながら滑稽だ。連絡手段として手紙を選んだのも、彼女を困らせないためだった。

常に人生の底流にあった孤独というものがある。
この孤独を断ち切ることが出来たのは、彼女と付き合っていた間だけだった。だがそれは遠く離れた空の下でのつき合い。そんな状況でも、自分を支えてくれていたのは彼女だけだ。

若さの持つ荒っぽいエネルギーといったものは今、感じられないかもしれないが、若い頃の司は暗い影を持ち、激しい性格の持ち主だと思われていた。そんな男にとって、彼女は気持ちの拠り所であり、心が弱ったとき、黙って抱きしめてくれる存在だった。

例えそれがNYと東京という距離があったとしても、彼女の声を聞くだけで心が癒された。
だが自分を支えていた女性を切り捨て、別の女性と結婚すると言った身勝手な別れから8年が経っている。もしかすると彼女は、別の人間を心に宿しているかもしれない。
自分にとって稀有な存在だった女性は他の男にとっても恐らくそうだろう。実際司の親友もそんな彼女に惹かれていた。


心根の優しい真っ直ぐな女で根性があった。
そして若いのに腹が据わっていた。
大学もアルバイトで稼いだ金で通い、弟の学費も彼女が稼いでいた。

どれくらいその場所にいただろうか。
ぼんやりと遠い昔に記憶を巡らせていたような気がした。だがこれ以上この場所にいてもどうしようもないと、立ち去ろうと後ろを振り向いた瞬間、視線の先、背格好に見覚えがある人物が歩いて来るのが見えた。目を凝らすまでもなく、見間違えることもない8年間会いたかった人の姿を目にすることが出来た。

近づいてくる彼女は変わっていない。あのとき別れたときのままだ。
彼女と再び顔を合わせると思うと緊張する。それはまるで10代の頃、初めてデートをしたときのようだ。あの日の記憶がたちまち甦り胸が熱くなる。
司は徐々に近づいてくる人物に視線を合わせたままじっと立ち尽くしているが、彼女はまったく気付いていなかった。

「・・牧野」

「・・道明寺?」

つくしの目が驚きに大きく見開かれるのを司は見た。
そして、そこで見た光景に彼は言葉を失った。





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