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2020
09.21

Saudade <前編>

Category: Saudade
「椿様。冷えて来たのでそろそろ中に入りましょうか」

そう言われたが椿は真っ直ぐ前を向いたまま答えなかった。
だがそれは意図して答えなかったのではない。
これはいつもの反応であり声をかけた女性も気に留めなかった。
だが女性は椿に再び話かけた。

「それにしても日暮れが早くなりましたね?」

そして車椅子のハンドルをギュッと握ると向きを変え建物の中へ入って行ったが、ふたりの背後には海に沈もうとしている太陽があった。











椿は西伊豆の切り立った崖の上に立つ道明寺家の別荘で暮らしているが、彼女は立つことが出来ない。だから車椅子での生活を送っていた。
だがなぜ椿が車椅子での生活を送ることになったのか。それは1年前に起きた事故のせいだ。

椿は大学を卒業すると親の決めた相手と結婚してアメリカで暮らしていたが4年前に夫を亡くした。
そして子供のいない彼女は2年前に日本に帰国してひとりの男性と偶然の再会をした。
その男性は及川徹と言い高校生の頃に付き合った初恋の人。背が高く男ぶりのいい及川は結婚していたが今は離婚してひとりだと言った。そんなふたりの20年ぶりの再会は懐かしさだけが感じられた。だが及川からまた会おうと言われ何度か会うようになった。

それはレストランで食事をしたり、映画館で映画を見たり、美術館に出掛けたりといったものだ。だが暫くすると及川は椿に交際を申し込んだ。

「椿さん。正式に僕と付き合ってくれませんか?」

かつて母親の楓に反対され実ることがなかったふたりの恋。
だが大人になった椿の行動に誰かが口を挟むことはない。
だから椿は初恋の人と付き合うことにした。だがその矢先に交通事故に遭った。
それは及川の運転する車の助手席に乗っていた時に起きた事故。
交差点で信号無視をした車が椿の座る助手席側に突っ込み椿は大怪我をした。そして歩くことが困難になり車椅子が欠かせない生活を送るようになった。

だが椿は足が不自由になっただけではない。頭に衝撃を受けた後遺症なのか。
原因ははっきりと分からなかったが、記憶力が落ち少し前の出来事さえ忘れるようになった。そして時間の観念を失った。

それでも医師は原因が分からないからこそ治る見込みがあると言った。
何しろ人間の脳は複雑で思いもよらない刺激で活性化することがあるからだ。だから椿の世話をする人間は、彼女がまた昔の頃のように聡明な女性に戻ると信じ刺激を与え続けていた。

「椿様。明日は及川様がいらっしゃいますよ?及川様です。分かりますか?」

及川は都内に会社に勤める会社員で、週末しかこの場所に来ることが出来ないが、毎週末欠かすことなく椿の元を訪ねて来ていた。
それにあの事故は及川が悪いわけではないが、自分の運転していた車に乗っていて怪我をさせたことに対しての責任からなのか。彼女がこうなってしまったのは自分のせいだと自分を責めていた。そして責任を取らせて欲しい。彼女の面倒を一生見させて欲しいと言った。

「彼女がこうなってしまったのは私のせいです。それに私は彼女にプロポーズするつもりでした。彼女が好きです。私が一生彼女の面倒を見ます。いえ、私に彼女の面倒を見させて下さい」

身体が不自由になった椿に及川は結婚を申し込んだ。たが今の椿には記憶をとどめておく力がない。
それに椿は道明寺家の長女で、彼女の世話をする人間などいくらでもいて不自由することはない。だが椿の担当医は、「及川さんが傍にいることで刺激が与えられ脳が活性化し、機能の回復に繋がるかもしれません。何しろ人間の脳は医学では解明できないことが沢山ありますから」と言った。

そしてその時の椿は、しっかりとした眼差しを持ち、はっきりと自分の意思を伝え及川からのプロポーズを受け入れた。
だが周りの人間は椿が少し前のことさえすぐに忘れてしまうのに自分が結婚したことを理解するだろうか。これから先、及川徹を自分の夫として認識できるだろうかという懸念を抱いていた。しかし医師の言葉に椿が良くなるならと期待してふたりの結婚を認めた。




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2020
09.18

夜の終わりに 36

Category: 夜の終わりに
ベッドカバーが外されたその場所をぼんやりと浮かび上がらせているのは部屋の片隅に置かれたスタンドライトの薄明りだけ。
そこに身体を横たえたつくしは、なんの迷いもなくキスを受け入れたが、素肌に異性の素肌を感じるのは初めてだ。

「ノーと言えばいつでもやめる」と言われたが、とっくの昔に経験していてもおかしくないことをこれから経験する女はノーと言うつもりはない。
それに結婚を前提に付き合い始めた恋人のことをもっと知りたかった。それは恥ずかしながらこの年になって初めて抱いたこの人に抱かれたいという思い。
だがこれまでまともに恋をしたことがないつくしにしてみれば、これから起こる行為を受け入れることが出来るか不安がある。

贅肉の付いていない男性の身体は若い男性のように引き締まっている。
それに対し、つくしは贅肉こそないが逆に欲しいところに肉がない。胸は豊満さとはほど遠く、たゆたうことがない。
それは世の男性にしてみれば抱いても楽しくない身体だ。それでもきれいだと言われた。

そして上から食い入るように見つめられ、長く黒々とした豊かな睫毛の生え際まで見ることが出来る近さまで顏を近づけられ、「こういう時は目を閉じるもんだ」と言われると、生まれてこの方、したことがない行為をするのだから素直に言うことを訊いた。

だが目を閉じれば恋人が喉の奥で笑いをこらえていることに気付いた。だから目を開けたが、見下ろす体勢から「嘘だ。セックスにこうしなければないないってルールはない。相手が嫌だと言わなければ自分のしたいことをすればいい」と言われれば何をしてもいいのだと勇気づけられた。

だが何をすればいいのか分からない。すると「俺の背中に手を回せ」と言われた。
だから広くて大きな背中に手を回そうとしたが、身体の大きさの違いから、つくしの腕の長さで相手の背中に手を回すことは難しかった。だから恐る恐る首に手をまわしたが、それはまるで小さな動物が大きな親にしがみついている姿に似ているように思えた。

「よし。じゃあ俺を見て目を逸らすな」

司は恋人が次に何をするか予測するより早く胸の頂に指を這わせた。
すると組み敷いた恋人は震えて息を呑み、頬に欲望の色が宿った。
だが身体はまだ硬く緊張しているのが感じられた。

これまでセックスをするために相手を勇気づけたことはない。
だが男と寝ることが初めての相手が緊張している以上、その緊張を和らげる必要がある。
頭は司を求めることだけを考え、悦びの泣き声をあげて司に応えるように新しい感覚を覚えさせることが必要だ。
だからリラックスさせるために始めた唇や鼻。頬と頤(おとがい)に這わせる唇の動きはゆっくりだ。
そして手が肩から乳房。乳房の頂から腰へと這い、その後を唇で吸えば、手のひらが触れている肌が柔らかくなるのが感じられた。
やがて片手が太腿のあいだに埋められたとき、身体のこわばりが感じられたが「リラックスしろ。大丈夫だ。一瞬だから」と言葉をかけ静かに押し入るように中に入っていったが、その瞬間、驚きと痛みで息を呑んだ身体はこわばっていた。

だから司は腰を抱えたままの姿勢で暫くじっとしていたが、それは経験豊富ではない恋人を守ることを優先し、腰を動かして叩きつけたい衝動を抑えているということ。
だが己の身体とはいえ、こうして抑制することは辛く、いつまでも我慢できるものではない。
それに噴き出す汗が欲求を解き放つことを求めていた。
そのとき、恋人の口を突いたのは、「大丈夫だから」

だから司は開いたその唇にキスをして、その言葉を信じて彼自身を激しく深くうずめる行為を始めたが、恋人の顏は目を閉じ苦痛に耐えている顏をしていた。
だがやがてそれが喘ぎ声に変わり、目を開いて「お願いキスして」の言葉が発せられれば、それに答えるように身体を動かし続けた。
そしてどこからか聴こえた自分の大きな声に、身体の中から溢れ出すものを解き放った。





満ち足りた気分というのは、こういうことを言うのだ。
今度は時間をかけてゆっくりと愛しあいたい。
しかし今そう思うのは司だけかもしれない。何しろ恋人は司の腕の中でまどろみ始めていた。だから今夜はこのまま眠るのが正しい選択だと思え、ふたりの身体に布団をかけると司も眠りについた。





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2020
09.16

夜の終わりに 35

Category: 夜の終わりに
背が高い人間は立ち上るのに時間がかかる。
それは多分つくしだけが思う勘違いで恋人は優雅で軽やかな足取りをする。
だから椅子をがたつかせることもなく、気付けばいつの間にかすぐ傍に立っていて自分を見下ろしていた。

すると食べ物が喉を通らない状況から息が出来ない状況に陥ったが、それは恋人がつくしを立ち上がらせると思いっきりキスをしてきたからだ。
そしてキスが終ると、「俺と同じベッドで寝るってことは、ただ眠るだけじゃないことを分かって言ったんだな?」と訊かれたが、今のつくしはまるで長距離を全力で走ってきた陸上選手のように息が絶え絶えになっていて頷くことしか出来なかった。つまり恋人からされたキスは、それほど長いキスだったということだ。

そして「本当にいいんだな?」と訊かれ、やはり言葉が出ないまま頷くとゴクリと唾を飲み込んでいた。
すると今度はつくしの片頬にキスをして、もう片方の頬を手のひらで包むと再び唇に唇を重ねたが、息が絶え絶えの女は立っているのがやっとだった。

「おい、大丈夫か?」

「私……私….大丈夫….」

と、つくしは答えたが、広い胸に置いた手は震えていた。









司は自分の胸の上で震えている手を感じていた。
彼と同じベッドで寝ると宣言するように恋人は言ったが、震える手と声に不安の揺らぎを感じれば無理をしているのではないかと思った。
だがそれは経験が少なさだと思った。つまり牧野つくしは軽々しく誰とでも寝るような女ではないということだが、心臓の高鳴りまで伝わってくると、どこか不自然さを感じた。

これまで交際相手の経験を気にしたことはない。
だが今この状況にもしかしてという思いが頭の中に浮かんだ。
それは経験の少なさ以前の問題。つまり司が結婚を前提に付き合い始めた女は男性経験が全くないということ。
現代社会に於いては年端もいかない子供のうちに経験する人間も大勢いる。
それに遊びを求めて男と寝る女もいるというのに、30を過ぎて経験がないなど司の周りでは考えられないことだ。


司は自分の胸に手を置いている牧野つくしの肩を掴み彼女の身体を離した。
そして長いこと顏を見つめてから率直に言った。

「俺の理解が正しいのか。そうじゃないのか。確かめたいことがある。牧野つくし。お前もしかして男と寝た経験がないのか?」

その言葉に見つめている顏が真っ赤になったが、それは食事に出されていたワインのせいではない。
そして開き直ったように告げられたのは、
「そうよ?悪い?だって大学生の頃はバイトが忙しくて付き合う暇がなかったし、就職したら仕事が忙しかったり面白かったりしてその気になれなかったし、そんな私を見かねた友達が紹介した人と付き合い始めたら、その人はちょっと変わった趣味で付いて行けなかったし、次に紹介された人と付き合い始めたら他に好きな人がいるし……」
恋人はそこで一旦言葉を切った。
そして溜息をつき、「それに次に現れたのはセクハラ上司だし笑われるかもしれないけど、友達からは男運がないって言われて来た…..」と言った。

「バージンか…..」

司の呟きは困惑ではなくまさかの思いの方が強い。しかし恋人はそうは取らなかったようだ。

「そ、そうよ!バージンよ!あたなは沢山の女性と経験があるから、バージンなんてつまらないかもしれないけど、し、仕方ないでしょ?だって経験はタイミングの問題で私はたまたまそのタイミングがなかっただけなんだから!
それに無理矢理タイミングを作る必要があるとは思えなかったし、やっぱりそうなる前には人間としての関係を築く方が大切だと思っていたし……でも築かない前に終わってばかりで………だから、その、分かるでしょ?」

分かるでしょと言われ分かるのは、牧野つくしが緊張するとやたらと喋ること。
だから同じベッドで寝ると言ったものの、酷く緊張している状況の今、キスより先に進む準備が出来ているかと言えば果たしてどうなのか。
それにいつかは経験するはずのことが他人より遅れている分だけ男と女のことに疎い。
つまり男と女では全く違う天から授かった身体の違いを理解しているとは思えない。

「牧野つくし。俺が分かるのはお前が緊張していることだが?」

司がそう言ったのはバージンの恋人とセックスすることを拒んでいるのではない。
だが恋人は自分の経験の無さが恥ずかしいようだ。

「分かってるわよ。分かってる……だから教えて欲しいの。同じベッドで寝ると何が起こるかを」




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2020
09.13

金持ちの御曹司~それが私のモットー~

日曜、夜9時。某ドラマの要素が入っています。
**********************









「やられたらやり返す、倍返しだ!」

どこのどいつが言い始めたのか知らないが、最近その言葉をよく耳にする。
だが司に言わせれば倍返しなど手ぬるい。
それに百倍返しや一万倍返しだとしても全く足りない。
それなら司はやられたらどうするというのか。
答えは簡単。相手を始末する。抹殺するだけ。つまり闇から闇に葬るだけのこと。
だがそれを実行するのは有能な秘書だが、どんな方法を取るのかは秘書に任せている。
そんな司が好きな言葉と言えば、「やれるもんなら、やってみな」
だが司の意思に反して何かをする人間がいるかと言えば、世界広しといえどいない。

……いや。
ひとりだけいた。
それは誰かと言えば司の恋人だ。
恋人の牧野つくしは、昔からそうだ。やる時はやる。
司の意見を訊かない。嵐をものともせず立ち向かう。こうだと決めるとそれに向かって邁進する。妥協はない手強い女。世間は司の母親の道明寺楓のことを鉄の女と呼ぶが、実は牧野つくしも鉄だ。つまり言い換えれば頑固ということだが、司はそんなブレない牧野つくしに惚れた。
そして司はそんな彼女の言うことなら、どんなことでも訊く。それに恋人からお願いと頼まれれば一も二もなく叶えたいと思う。いや。何が何でも絶対に叶えるのが司だが、それほど牧野つくしに惚れている男は、読むべき報告書をそっちのけでコーヒーを飲みながら執務デスクの上に置かれた彼女から渡されたある物を眺めていた。




「道明寺。今日からこれ使ってね?」

と言って手渡されたのは、小さくまとめられた濃紺のナイロンで出来た物体。
それが何であるか分からなかった。すると恋人は言った。

「ほら。買い物袋が有料になったでしょ?だから買い物のたび有料の袋だともったいないし、それに環境のためにもレジ袋は減らそうってことになったでしょ?だから道明寺もこれ使ってね?」

恋人から渡されたのはエコバックと呼ばれる袋。
だが司はエコバックなるものを持ったことがない。
それに大金持ちの家に生まれた司とエコロジーは対局にあるものであり、買い物をしても値段を気にしたことがない男の辞書に節約という文字はない。
だから買い物袋が有料になろうが関係ない。それに男の司は、そんな細かいことを気にしたことがない。だが恋人は買い物をするたびに袋に金を取られることをもったいないと言う。だからエコバックを持つことが生活の一部として定着していて、買い物をするとそのバッグに品物を入れることが当たり前になっていた。
だが何であれ司は恋人がプレゼントをしてくれるのは嬉しい。
けれど司は恋人から貰ったエコバッグを使う状況があるとは思えない。そう思いながら目を閉じた。








「道明寺くん。君は銀行の業務をどう考えているのかね?」

司は銀行員として日本を代表する銀行のひとつである東京中央銀行のエリートコースの道を順調に歩んでいた。
そんな司を自分の部屋に呼んだのは常務の西田だが、西田は過去に司に不正行為を暴かれたことで恨みを抱いていた。

「西田常務。私はあなたが何を言いたいのかさっぱり分かりません」

「ほう。そうかね?私は常々自分の思いはっきりと口にしてきた。君が東京中央銀行のバンカーである限りしなくてはならないことは決まっている。それは君が自身の身を挺して行わなければならないことだ。それが何か分からないとは言わせないよ。君は花沢物産へ融資を実行したがそれが正しかったかどうか先行きに不安が生じ始めたのだからね」

司が融資をした花沢物産は東京中央銀行の大口の取引先で、日本で5本の指に入る商社のひとつだ。だが確かに西田の言う通り業績に翳りが見え始めていた。

「物産はチリの銅山を4000億円で買収したはいいが、あの国と揉めていて採掘はストップしている。つまり事業がストップしているということだが、そうなると当行が融資した金が返済されなくなる恐れがある。もしそうなれば当行は大損をすることになる。君はこの状況をどう考えているのかね?」

司は答えることなく、常務の西田が椅子にふんぞり返って話す様子を黙って見ていた。

「それにあそこの次期社長と言われている花沢類氏は元々家業の経営に興味がなかったと言うじゃないか。彼は家を捨てパリで暮らす藤堂商事の娘さんと一緒になりたい思いが強いと訊いた。だからなのか。類氏は今もパリにいて東京にいることが殆どない。それでは次期社長としてどうかと思うが道明寺くん。君はどう思う?訊くところによると君は花沢類氏とは幼馴染みらしいね?まさかとは思うが君は幼馴染みのために融資に便宜をはかったんじゃないだろうね?もしそうだとすればこれは由々しき問題だ。銀行員は融資に際して私情を挟むことは許されないんだからね。ま、どちらにしても君は花沢物産が金を返せないとなれば担当者としての責任を取らなければならない。
つまり君はこの銀行にいることはできなくなる。お・し・ま・い・DEATH!」

司は確かに花沢類の幼馴染みだが、融資に私情を挟んだ覚えはない。
だが花沢物産がチリの銅山を買収するにあたり、その資金を融資することに決めたのは司だ。
そしてチリでの事業が滞っていることも知っている。
そしてそれは常務の西田が言うとおりで東京中央銀行が花沢物産に融資した4000億円の金の返済に影響を及ぼすことは分かっている。
その責任を取れという西田は、かつて自分の不正を暴いた司をこの銀行から追い出すつもりでいることも。

「だが喜びたまえ道明寺くん。私は君にいい話を持ってきた。君が融資を決めた花沢物産の返済が滞ったとしても、この話を受ければ責任を取ることはない。それはうちの大口の取引相手である牧野ホールディングスのお嬢さんと君が結婚することだ。道明寺くん。すごいじゃないか。あの牧野財閥だよ?君はそこお嬢さんに花婿として望まれているんだからね!」

今の日本には財閥は存在しないが、その実、財閥は日本の企業社会の中心にいる。
そして戦前から手広く事業を営む牧野家は日本を代表する財閥のひとつだ。その家のひとり娘のつくしは司との結婚を望んでいた。

「これは君にとって非常に喜ばしいことだ。いずれ彼女はあの家の財産の全てを相続することになる。君はそんな女性と結婚することであの家の財産の全てを手にすることが出来るんだ。逆玉だよ、逆玉。道明寺くん。君のバックには牧野家が付くんだよ?君がお嬢さんに気に入られたのは本当に運がいい。私があと20年若ければと思うほど羨ましい話だ。君は牧野財閥のつくしさんと結婚すれば銀行を追い出されずに済む。素晴らしい話だと思うよ、道明寺くん」











「あら。司さん。どうなさったんですか?ご気分が優れませんか?」

「いえ….ご心配には及びません」

司はワインを飲み過ぎた訳でもないのに頭がクラクラしていた。
今夜は司との結婚を望む牧野つくしと会っているが、司は彼女と結婚するつもりはなく、そのことを話すために素面でいるつもりでいた。だから設けられたディナーの席では水のようなワインを一杯飲んだだけだ。そしてディナーも終わりに近づき食後のコーヒーが出されるのを待っていた。
それなのに頭が重く思うように話しをすることが出来なかった。言葉が出なかった。

「でもなんだか具合が悪そうですわ」

司はそう言われたところまでは覚えていた。
だがそこから先は意識が飛び気付いた時にはベッドの上にいた。

「…..ここは?」

司は目が覚めたのはベッドの上だが、スーツの上着は脱がされ、ネクタイも外されていて、ここがどこか分からなかった。
そして横たわった身体は力が入らなかった。起き上がることが出来なかった。

「あら。目が覚めた?」

そして薄暗い部屋の片隅から聴こえた声の持ち主は牧野つくしだ。

「牧野…..お前、いったいどういうつもりだ?」

「懐かしい呼び方ね?私のことを牧野って呼び捨てにするのはあなただけよ道明寺。でも嬉しいわ。そんな風に呼び捨てにされて」

実は司は牧野つくしのことを知っていた。常務の西田は知らなかったが、司は大学生の頃、アルバイトをしていたフランス料理店の常連客だった彼女と親しくなった。
だが親しくなったとは言っても客とバイトの立場で深入りすることはなかった。
だが暫くして彼女から好きだ。付き合って欲しいと言われた。
けれど司はごく普通の家の息子で彼女は牧野財閥の娘。社会的身分の違いから、付き合ったところで未来などないと分かっていた。だから付き合うことは出来ないと断った。そしてそれっきり彼女はレストランに現れることはなくなった。

「それからどういうつもりって、こういうつもりよ?道明寺。あれから随分と時間が経ったけど、私はあなたのことが忘れられなかった。私はどうしてもあなたが欲しいの。だからあなたを罠にかけることにしたの。そうよ。花沢物産のチリでの銅山事業が躓いているのは、うちがチリの政府に圧力をかけたからよ?だってチリの大統領と私の父はアメリカの大学の同窓なの。それに父は私のお願いは何でも訊いてくれるわ」

牧野つくしは、そう言いながら司の寝ているベッドに近づいて来た。

「ねえ。道明寺。私と結婚してちょうだい。そうすればあなたは銀行を追い出されることはないわ。いえ。追い出されるどころか大口の取引先の娘を妻に持つあなたは大切にされるわ。それに私と結婚してくれるならお金ならいくらでもあげるわ。でもいずれうちの財閥を継いでもらいたいの。あなたはただの銀行員よりも財閥のトップの立場の方が似合うわ」

そう言った牧野つくしは、ベッドの上に膝を乗せて司の上に跨った。
そして「道明寺。私はあなたが欲しいの。だから私のものになって」と言って唇を近づけてきた。
だが司はそんなよこしまな女の身体に手を回すとベッドに押し倒し、着ているシックなエンジ色のワンピースを頭の上までまくりあげると、下着に手をかけ取り去った。

「きゃあ!」

司はベルトのバックルを外し、ファスナーを下ろした。

「牧野。そこまでして俺が欲しいか」

「ええ….欲しいの。道明寺….私はあなたのことが好きなの。だから私を抱いて….」

その言葉を訊いた男は、つくしの脚の間に腰を据え、目の前にある秘部を刺激しはじめたが進入をとどまっていた。
それは強気な態度を取っている牧野つくしの目に涙が浮かんでいるのを見たからだ。

「牧野.....抱いてと言ってるが、もしかしてお前……」

司の言葉に女はワッと泣いて言った。

「ええ!そうよ。私は経験がないの。道明寺!あなたのことが好きで他の男の人のことを好きになれなかった。だから他の男性に抱かれたことがないの。だから……..優しくして…」

女は初めての経験を前に戸惑い涙を浮かべてはいるものの、それでも熱い欲望を抱くひとりの女として司を欲していた。

司は牧野つくしから彼以外の男を好きになることが出来なかったと言われ、そこまで思われていたことを知り嬉しかった。そして彼女のことを思いながらも家柄が違う。社会的な身分が釣り合わないことを理由に付き合おうとしなかった臆病な自分を恥じた。

「牧野。ゴメンな。俺はあの頃お前のことが好きだった。だが俺とお前じゃ身分が違うと躊躇した。ふたりの間に未来はないと思った。だから付き合うことが出来なかった。そんな臆病だった俺を許してくれ」

そして司は彼女をギュッと抱きしめると、あの頃の思いと情熱を込めて彼女の中に分け入った。













「……支社長。支社長。道明寺支社長。お休みのところ申し訳ございません」

司はいけ好かない常務の声を耳にした。だから無視をした。
だがその声は高飛車な物言いをしていない。そして司を支社長と呼んでいる。つまりこれはいつもの夢だと気付くと目を開けたがいい夢だったと思った。何しろ夢の中の恋人は司にフラれても彼を一途に思う熱い女だったのだから。

「支社長。コーヒーでございます。それから牧野様からこちらを預かっております」

司の恋人は仕事の邪魔をしてはいけないと執務室を訪れることは滅多にない。
そして西田を介して渡されたのは、彼女が愛用しているエコバックのひとつ。
中に入っていたのはフルーツサンド。最近恋人はフルーツサンドに嵌っていて、美味しい店を見つけたと言っては司に差し入れをしてくれるが、そう言えば、少し前までは店の名前が入った袋に入れられていたが、最近はエコバックで差し入れがされていた。
司はそこで机の上を見た。自分にもエコバックがある。それは恋人がプレゼントしてくれたもの。だからそのエコバックに気持を込めたものを入れ恋人に渡すのも悪くないと思えた。
それにそうすれば、きっと恋人は喜ぶはずだ。何しろ最近の恋人の口癖は「エコはお財布に優しい」なのだから。


「西田」

「はい」

「今流行りの菓子を用意してくれ。それも沢山な」

「甘いものがお好きな牧野様に倍返しですね?」

「そうだ。俺が貰った以上にあいつに返す」

司は恋人から愛を与えられたら与え返すが、それは倍どころか百倍以上にして返す。
つまり恋人を愛する時は全身全霊で愛し手を抜くことはないということ。世界でただ一人の女性から愛されたら彼女がくれた愛よりもはるかに大きな愛を返していた。
そしてしっかりしているようで不器用なところや、おっちょこちょいなところがある恋人は、テレビや映画を見て泣くこともある。たまに号泣する。だからそんな時は彼女を腕の中にしっかりと抱いて眠る。
それに普段強気でいる恋人にもか弱いところがある。だから司が守ってやらなくてはいけない。それはたとえ世界を敵に回しても変わらない思い。他人が何を言おうが、そんなことは関係ない。何故なら彼女は、かつて人を信じることが出来なかった司に人を信じることを教えてくれた。愛を知らなかった司を愛し、愛を教えてくれた。一人じゃないことを教えてくれた。
だから司は彼女のどんな願いも、どんな涙も受け止める。
そして司は他人からあなたのモットーは何ですかと問われれば、こう答えることにしている。

「愛を与えられたらその愛よりも大きな愛を返す。つまり愛情の倍返し。それが私のモットーです」と。





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2020
09.10

夜の終わりに 34

Category: 夜の終わりに
「何を知りたいって?」

つくしは自分が女性としてまともかと考えたとき、この年になるまで男性との経験が無いことなど気にしたことがなかったが、よりにもよって経験豊富な男性を前にして出た言葉が、あなたのことをもっと知りたい。そして返されたのは「俺のことをもっと知りたいって?」
その言葉に神経の末端が何かを期待したようにざわめいたのは思い過ごしではないはずだ。

何しろつくしが結婚を前提に付き合い始めた男性は、これまで会った誰よりもハンサムな男性だ。そんな男性と過ごすうちに神経の末端もだが、ここにきて小さな細胞さえも、もっと男性のことを知りたいと思い始めたようだ。だからなのか。神経と細胞は結託してつくしの口から自分達の思いを喋らせたのかもしれない。

「えっ?何を知りたいって…..」

「ああ。俺のことをもっと知りたいんだろ?」

「え?私。そんなこと言った?」と、とぼければいいのだが、とぼけることが苦手な女はその言葉が言えなかった。
そしてふたりの間にはテーブルがあり身体は接触していないのだから、緊張する必要はないはずだが、それでも真正面から見つめられれば、胸の動悸が激しくなった。









司は牧野つくしが男と女の経験に疎いことは気付いていた。
それはもしかすると過去に口がうまいだけのろくでなしの男に引っ掛かり嫌な思いをしたということもあり得るからだ。
だから彼女のペースで運ぶことに決めたが、34歳の恋人の脳裡を駆け巡る思いは手に取るように分かった。
それは、ニューヨークで最後の夜がこのままでいいのかという思い。
だが、自分に主導権を渡されたこともだが、自分のことを性的魅力に乏しいと思うことから、どうすればいいのか分からないでいる。
つまりそれは、司が主導権を握らなければ、ふたりの関係はいつまでたっても前へ進むことがないということだ。

そして牧野つくしは自分から抱いて欲しいと言うような女ではない。
性に対して奔放にも無謀にもなることが出来ない。過去に付き合ってきた女たちのように恥知らずなことを求めることが出来ない女だ。
だから司は、それを承知の上で、司のことをもっと知りたいと言いながら、ふたりの関係を前に進めることを躊躇っている恋人に対して世話が焼けるという意味の溜息をついてみせた。
それはビジネスの場では絶対にしないことで、もしも司が溜息をつけば周りの人間は彼の意に添わないことをしたと思い慌てるはずだ。
そして案の定、恋人はどこか申し訳なさそうな顏をしたが、司のその行動は本心ではないのだから、そんな顏をされると溜息をつくべきではなかったと思わされた。

「牧野つくし。そんなに緊張する必要はない。俺のことを知りたいと思うなら知ればいい。何しろ俺たちは恋人という立場にいる。だがまだそれらしいことはしていない。いや。キスはしたがそれ以上のことはまだだ。だからそれについて何か質問があるなら訊こうじゃないか。
前にも言ったが俺はふたりが親密になることを急いでいるわけじゃない。だが舌の根の乾かぬうちにと思うかもしれないが、それでも俺は男だ。好きな女と寝たい気持ちを抑えるのは簡単なことじゃない。それに男は女と違って本能を抑えるのが苦手な生き物だ。だから相手にそのつもりがあるなら遠慮はしない。それを理解した上で訊いてくれ」

司は片眉を上げて言ったが、それは牧野つくしの気持を確かめるためだ。
だがきっと恋人は酒でも飲ませなければ心の底に抱えている思いを打ち明けることがないように思えた。
そして、「それに俺たちは結婚を前提に付き合い始めた。だから互いに思っていることを素直に伝えることが必要だと思うが?」と言葉を継いだが、彼女の口から出たのは、「そうよね…..」の呟きであり答えになっているようでなっていない曖昧なものだ。
だが、その後に継がれたのは「いいわ」
だが一体何がいいのか?だから司は訊いた。

「いい?何がいいんだ?」

「ええっと…..その….そうよ!私たちは結婚を前提に付き合い始めたんですもの!だからふたりの間に問題があるなら解決すべきだと思うの!真剣に取り組むべきだと思うの!
それに私たちはいい年をした大人で、これから先に起こることは自分たちで解決できる年齢だし…..」

と初めは勢いをつけて話し始めた声も最後は消えるように途切れた。
そして今度は意を決したように言った。

「私。あなたと同じベッドで寝るわ」




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